改訂新版 世界大百科事典 「シュルレアリスム」の意味・わかりやすい解説
シュルレアリスム
Surréalisme
超現実主義。1920年代のはじめにフランスの詩人ブルトンらによって開始された文学・芸術上の運動,およびその思想・方法等を指す。発端は1919年に彼とスーポーとが試みたいわゆる〈自動記述(オートマティスム)〉(《磁場》1920)にある。この実験の結果,思考の純粋かつ原初的な姿に触れうると信じた彼らは,アラゴン,エリュアールらとともに,その確信にもとづく新しい思想と運動の可能性を探りはじめた。20年からはツァラ,ピカビアらのパリ・ダダの運動に参加するが,他方,ペレ,デスノス,クルベル,エルンストらの詩人,画家を加えて,夢や催眠術,霊媒現象などの実地研究を行い,それらを通じて,理性の統御を受けないオートマティックな思考の存在を確認,これをかりに〈シュルレアリスム〉と名づける。ダダと決別したのち,24年に《シュルレアリスム宣言》(ブルトン起草)を発表し,それまでの活動を理論的に総括しつつ,思考の解放,想像力の復権,夢・狂気・不可思議の再検討等の主張を唱えるとともに,機関誌《シュルレアリスム革命Révolution surréaliste》を創刊,さらに〈シュルレアリスム研究センター〉を開設(1925)して,正式に集団的運動を発足させた。アルトー,ナビル,ランブール,レリス,クノー,プレベールらが加わる。26年に初のシュルレアリスム展(アルプ,キリコ,エルンスト,マッソン,ミロ,ピカソ,マン・レイらの参加)を開いた。彼らの〈革命〉の主張は政治的・社会的現実への働きかけを不可欠としていたため,まもなくマルクス主義の影響下に,共産党と接近する。しかししだいにスターリン主義との対立をあらわにし,運動の内部にも分裂の危機をまねいた。ブルトンは29年に《シュルレアリスム第二宣言》を刊行し,史的唯物論への同意を再確認しながらも共産党を厳しく批判,シュルレアリスム運動の〈自立〉と〈隠秘化〉を説く。これを機にデスノス,アルトーら有力メンバーを除名し,新たにダリ,ブニュエル,シャールらを加えて,第2次機関誌《革命に奉仕するシュルレアリスムSurréalisme au service de la révolution》を創刊した。すでに世界各地に多くの同調者を得て,運動は国際的規模に広がりつつあったが,32年にアラゴンが脱退してのち,ナチスの脅威のもとに,しだいに苦しい活動を強いられるようになる。美術雑誌《ミノトールMinotaure》への協力(1933-38),コペンハーゲン,テネリーフェ,ロンドンにおける〈シュルレアリスム国際展〉の開催(1935,36),トロツキーとの連帯(1938)を経て,第2次大戦勃発とともにブルトン,ペレら中心メンバーは新大陸に亡命し,アメリカ,メキシコなどで活動を継続する。彼らは大戦後パリに戻り,《ネオンNéon》(1948),《メディオムMédium》(1952),《シュルレアリスム・メームSurréalisme même》(1956)等の機関誌を次々に創刊し,またパリにおける3度の〈国際展〉(1947,59,65)を通じて,若い世代の参加による新しい展開を見る。66年にブルトンが死んでからは運動は弱体化するが,その後も断絶的ながら世界各地で,この運動の継承を唱える種々の試みがなされている。
思想・方法とその成果
〈シュルレアリスム〉という言葉自体は,元来アポリネールの造語であった。しかしそれを借用したとき,ブルトンは別個の意味を担わせたことを強調している。《シュルレアリスム宣言》の段階での定義によれば,〈それを通じて人が,口述,記述その他まったく違う方法によって,思考の真の働きを表現しようとする,心の純粋なオートマティスム。理性によるいっさいの制約,美学上ないし道徳上のいっさいの先入主を離れた,思考の書き取り〉,また〈それまで閑却されてきたある種の連想方式のすぐれた現実性への信頼,夢の全能への信頼,および思考の非打算的活動への信頼に根拠をおく。それ以外のあらゆる心の機構を決定的に打破し,それらに代わって,人生の主要な問題の解決につとめる〉とある。すなわち,まず〈自動記述〉その他の実験に立脚して,精神と思考のあり方を変革しようとするものであったが,それとともに,独自の新しい現実観・人生観を提示していたことも重要である。シュルレアリスムは,単に〈レアリスム〉を〈超える〉ことを意味しない。むしろ,いわゆる現実に内在するものとしての〈超現実〉,つまり高次の現実,絶対的現実の発見・獲得によって,〈真の生〉を生きようとする活動の謂(いい)である。そのための方法は多彩をきわめ,20世紀の文学・芸術に大きな影響を及ぼすにいたった。
〈自動記述〉とその応用はブルトンの《溶ける魚》(1924)やペレの言語遊戯,デスノスの夢物語などに結実する。またアラゴンの《パリの土地者》(1926)やブルトンの《ナジャ》(1928)が夢や偶然や不可思議を記述し,〈超現実〉の散文化を試みて以来,小説の領域にも継承者が生まれ,のちのグラック,マンディアルグらの作品に新たな展開を見る。美術では,デュシャンの〈レディ・メード〉,キリコの〈形而上絵画〉の思想・方法を受けついだほか,〈自動記述〉の等価物とみなされたエルンストの〈コラージュ〉〈フロッタージュ〉が,言語によらぬシュルレアリスムの表現を可能にする。ミロ,マッソンの〈自動的デッサン〉,マン・レイの〈レイヨグラム〉や,マグリットの〈記述法〉,ダリの〈象徴的機能をもつオブジェ〉〈偏執狂的批判的方法〉,ドミンゲスOscar Dominguez(1906-57)の〈デカルコマニー〉などの方法も,多くの重要な作品を生む。これらはイマージュやオブジェの観念を飛躍的に発展させつつ,いわゆる〈詩〉や〈幻想〉の領域を広げたばかりでなく,個性を超えた客観的創造の可能性を探ることによって,文学・芸術活動のあり方を刷新しようとしたものである。ダダ時代にはじまり,アルトーのうちに新たな展開を見る演劇面の活動や,ブニュエルらの作品に結実する実験的な〈シュルレアリスム映画〉の試みもまた,同様の傾向を呈していたと見ることができよう。
思想的・文学的源泉
シュルレアリスムはその初期の理論化の過程で,しばしばフロイトを援用した。もと精神科の医学生だったブルトンによる精神分析学,とくにその無意識説の文学への導入は,フランスでも最も早い例に属する。その後も彼はこれを独自に摂取しつつ,夢,狂気,偶然,ユーモアなどについての考察を継続するが,他方,いわゆる〈超常現象〉への関心が並行してあったことも見のがせない。マイヤーズF.W.H.Myersらの超心理学説ばかりでなく,古今の隠秘学者(オカルティスト),神秘主義者たちの著作もまた,シュルレアリスムの重要な思想的源泉である。魔術,錬金術,占星術などの再評価とその応用は,彼らの主要な貢献の一つとなる。そのほか,人類学や社会学,民俗学に触発された未開人の心性への関心,神話や伝説の援用,東洋哲学への傾倒,狂人や霊媒による絵画の研究とあいまって,彼らのこの方面での主張は,ヨーロッパ文化の内なる〈他所〉の発見を促す,一種の文化革命さえ内包していたと考えることもできる。シュルレアリスムは,もともと文学・芸術の枠を超え人間の全的解放に達しようとする運動であったため,従来の制度化した文学史・思想史の通念はくつがえされ,新たな系譜の作成が試みられることになった。文学上,彼らはまずみずからをネルバル,ボードレール,ランボー,ロートレアモンらロマン主義・象徴主義の詩人たちの延長上に位置づける。それとともにスウィフト,ルイス,サド,フーリエ,リヒテンベルク,ボレル,フォルヌレ,キャロル,ユイスマンスからジャリ,ルーセル,ブリッセ等にいたる,多くの作家・思想家を組織的に再評価ないし発掘し,古今のシュルレアリストの一覧表に加える。美術面でも,原始時代から20世紀にいたる絵画の呪術的機能を再評価しつつ,同時代の大衆芸術,ポスター,看板,カタログ,日用品,廃品等々に新しい不可思議を見いだし,それを作品に応用・導入する試みが行われる。こうした広範な遡及,発掘,価値転換の作業は,現代の文学・芸術のあり方のみならず,文学・芸術研究のあり方にも大きな影響を及ぼした。結局,従来の〈他所〉がもはや他所ではなくなるような現代の相対的な思想風土を,彼らは早くから用意していたということでもあろう。
運動の国際化と日本への影響
20世紀におこった芸術運動のなかでも,シュルレアリスムほど国際的な浸透力をもったものはまれである。1920年代半ばには,すでにベルギーに疑似シュルレアリスム集団(マグリットなど)が芽生えていたし,イタリア,スペインへの移植も試みられた。30年代に入ってからは東欧圏のユーゴ,チェコにも拠点が生まれ,とくにプラハのグループ(トアイヤンToyen(1902- )など)はパリと密接に交流して,機関誌《シュルレアリスム国際公報》を創刊する(1935)。カナリア諸島ではドミンゲスらが,イギリスではペンローズらが,デンマークではフレッディWilhelm Freddie(1909- )らが集団を形成し,それぞれの首都で〈シュルレアリスム国際展〉(1935,36)を開催する。ドイツからはベルメールHans Bellmer(1902-75)が,ルーマニアからブローネルVictor Brauner(1903-66)やエロルドJacques Hérold(1910- )がやってくる。第2次大戦中のニューヨークでの亡命グループによる活動と,アメリカ,カナダへのその影響,また,戦後パリに来たハンガリーのハンタイSimon Hantaï(1922- )やスウェーデンのスワンベリMax Walter Svanberg(1912- )の活動も見のがせないが,より重要なのはいわゆる〈第三世界〉への浸透であろう。シリア,エジプトから旧フランス領アフリカにかけて,またメキシコ(パスなど),キューバ(ラムWifredo Lam(1902-82)など),マルティニク島(セゼールなど)からペルー(モロなど),チリ(マッタなど)で,数多くの詩人,画家たちがシュルレアリスムを発展的に継承する。すなわちヨーロッパ文化のうちなる〈他所〉の発見であろうとしたシュルレアリスムが,これら〈他所〉においては,むしろ自己の発見を促す契機を提供したということでもあろう。
東アジア圏では,日本にのみこの運動の影響が及んだ。20年代の後半に西脇順三郎らの紹介によって,若い詩人たちの間に関心が芽生え,《詩と詩論》などいくつかの雑誌が刊行された。しかし最初の本格的なシュルレアリスム的活動は,滝口修造による自動記述の実験(1929-31)とブルトン著《シュルレアリスムと絵画》(1928)の翻訳(1930)である。とくに後者の,画家たちへの影響は大きかった。また37年には滝口修造と山中散生の編集による《みづゑ》増刊〈アルバム・シュルレアリスト〉が刊行された。滝口修造の周囲には集団活動の萌芽が見られたが,戦時下には弾圧をうけ,中断を余儀なくされる。50年代になって,ふたたび彼の周辺にシュルレアリスム再評価の動きが生まれ,60年代にようやくその影響の浸透を見るにいたった。
→ダダ
執筆者:巌谷 國士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報