目次 自然 住民 言語 宗教 社会,文化 教育 文化 映画 日加交流 政治 憲法 政治制度 政治的争点 経済 特質 対米関係 日加経済関係 歴史 フランス領時代 イギリス領時代 自治領カナダの成立と発展 第1次世界大戦と戦間期 第2次世界大戦後 基本情報 正式名称 =カナダCanada 面積 =998万4670km2 人口 (2010)=3411万人 首都 =オタワOttawa(日本との時差=-14時間) 主要言語 =英語,フランス語 通貨 =カナダ・ドルCanadian Dollar
北アメリカ大陸の北半部を占める広大な国で,面積はロシア連邦に次いで世界第2位。立憲君主制の連邦国家で,10州provinceと2準州(テリトリーterritory)から成る。国名は〈村〉を意味するイロコイ・インディアンの言葉に由来するといわれ,日本では〈加奈陀〉あるいは略して〈加〉の字をあてることがある。国の象徴はビーバーとメープルの葉。
自然 広大な国土は大西洋,太平洋および北極海に面し,南部国境と西部国境の大半はアメリカ合衆国に接する。国土の東半分にはハドソン湾を囲むようにカナダ楯状地が広がり,西の太平洋岸にはコルディレラ山系がほぼ南北に走る。そして両者の間は平たんな土地である。洪積世には国土のすべてが氷河におおわれていたため,全国いたるところに氷河湖がみられる。気候は寒帯,亜寒帯が圧倒的で,国土の半分近くをタイガが占めており,木材,毛皮獣などの資源に恵まれている。人口の90%以上が南の国境沿いの幅400kmの範囲に住んでおり,この地域は夏は十分に農耕が可能である。
馬蹄形のカナダ楯状地は全体として丘陵・台地性で多数の氷河湖があり,亜寒帯に属する南半に針葉樹の森林が広がる。楯状地東部は高原・台地状のラブラドル半島で,ここはカナダ随一の鉄鉱石産地となっている。楯状地の南東側,セント・ローレンス・五大湖低地は,カナダで最も都市化・工業化の進んだ地域であり,全人口の約60%が居住する。セント・ローレンス川の東側,大西洋に面した地域およびニューファンドランド島は,アパラチア山脈の延長部にあたり,丘陵性の地形をしめす。森林が圧倒的で,人口は天然の良港が多い海岸部に集中している。楯状地の北側は北極海諸島で,バフィン島をはじめエルズミア島,ビクトリア島など,大小多数の山地・丘陵・台地性の島からなる。その大半は北極圏内にあり,1年の大半が氷雪におおわれ,各地に氷河が残っている。ツンドラ気候で山地部は氷雪気候に近く,開発はほとんど進んでいない。楯状地の西側から南側にかけての縁辺部には,グレート・ベア湖,グレート・スレーブ湖,アサバスカ湖,ウィニペグ湖,五大湖などの巨大湖沼群がある。これらは地体構造的に形成され,大陸氷河によって現在の形に変えられた。
カナダ楯状地とコルディレラ山系の間には,平たんな土地が南北に長く続く。その南半部はグレート・プレーンズ と呼ばれ,主としてステップ気候でプレーリー土壌がよく発達し,開拓前は一面の草原であった。春小麦栽培を中心とするグレート・プレーンズはカナダ第1の農業地帯である。内陸平地部は天然資源にも恵まれ,石油と天然ガスはとくに重要である。
コルディレラ山系は大陸分水界のロッキー山脈と太平洋岸近くを走る海岸山脈Coast Mountainsの2本の主脈のほかに多数の山脈があり,その間に盆地や谷が広がっている。最高峰はユーコン・テリトリーのローガン山(6050m)。コルディレラ山系は高緯度に位置するため,高山気候を示すところが多い。この地方の大半は森林におおわれており,海岸山脈の西側では林業が盛んである。山脈の迫る太平洋岸はフィヨルドが多く,海岸に沿ってクイーン・シャーロット諸島やバンクーバー島がある。太平洋岸は西岸海洋性気候ないし地中海式気候を示し,高緯度のわりには温暖である。 執筆者:正井 泰夫
住民 アメリカ合衆国とカナダとの社会的相違を表現する場合,前者は民族の〈るつぼ〉であり,後者は民族の〈モザイク〉であると言われ続けてきた。〈るつぼ〉も〈モザイク〉も現在はその概念の有効性が問われているが,カナダの場合,民族が地域的に偏在していたことが,〈モザイク〉と表現されてきた一因であろう。例えばカナダの先住民であるイヌイット(エスキモー)は,極北に居住してきた。資源開発の波が押し寄せて伝統的な生活の放棄が迫られている現在でも,彼らがその居住地まで捨てるということはない。しかし同じく先住民であるアメリカ・インディアン はカナダ全土に居住し,総人口は白人到来以前の人口を上回っているとされる。
現在のカナダの地に定住した最初のヨーロッパ人はフランス人である。彼らの末裔を主とするフランス系は全人口の29%(1971)を占め,カナダの人口増加に伴ってその比率は減少している。フランス系の77%がケベック州に,12%がオンタリオ州に,4%がニューブランズウィック州に住み,居住地域は東部に偏っている。一方イギリス系は,フランス系と異なってイギリス諸島,アメリカ合衆国から間断なく移民を迎えている。全人口比は45%で,カナダ全土に遍在するが,ニューファンドランド州,プリンス・エドワード・アイランド州,ノバ・スコシア州のように人口の大半がイギリス系であるという州は東部に多く,西部のマニトバ,サスカチェワン,アルバータの諸州ではイギリス系は州人口の半分以下しか占めていない。
イギリス系,フランス系に次いで人口の多い民族はドイツ系,イタリア系,ウクライナ系である。このうちドイツ系,ウクライナ系はマニトバ,サスカチェワン,アルバータの平原3州に多い。彼らの故郷に似た風土をもつ地域に移住するためであろう。イタリア系は圧倒的にオンタリオ州に多い。
アジア系民族は全人口の1.3%を占め,そのうち日系カナダ人は0.2%にすぎないが,比率としてはアメリカ合衆国と大差はない。オンタリオ(全日系人の42%が居住),ブリティッシュ・コロンビア(37%),アルバータ(12%)の3州にその大半が住む。カナダに日本人が初めて移住したのは1877年とされるが,彼らの歴史はアメリカ合衆国の日系人のそれと酷似していた。第2次大戦前はその9割以上が西海岸に住んで漁業,林業など第1次産業に従事した。20世紀初頭には日本人の大量移住がカナダ人の目に脅威とうつり,移住制限立法が実施され,第2次大戦中には強制移住,隔離収容も行われた。戦後日系カナダ人の居住地は東部に伸張し,医師,弁護士,建築家,官吏,学者などの専門職,あるいは商業,サービス業でめざましく活躍していることが注目される。
言語 カナダの公用語は英語とフランス語であるが,国の〈モザイク〉的性格を反映して言語事情も複雑である。まずこの両言語を使えるカナダ人は全人口の15.3%しかいない。一方両言語とも使えないカナダ人も1.5%いる。この間に英語だけという人とフランス語だけの人が,約4対1の割合でいる。両言語を駆使するカナダ人の数は,連邦政府による2言語使用推進策で着実に増えてきている。しかし2言語を使う人の6割がフランス系であるという事実は,フランス系の英語人口の増加,フランス語勢力の衰退ともとらえられる。イギリス系の人口に比して英語の使用率が高いのは,新しい移民がまず英語を学ぶからである。フランス語使用問題はいわゆる〈ケベック問題〉の原因の一つであった。フランス語勢力の衰退という傾向を食い止めるべくケベック州は1977年,連邦最高裁の決定に反してフランス語のみをケベック州の公用語と制定し,両親が英語を母国語としない州民はフランス語で教育されることが決定された。
国勢調査(1971)によれば,家庭で使用する言語のうち,英仏語以外で多いものは中国語(80%),イタリア語(72%)である。日系人の場合,日本語を母国語と考える人は約42%を占めるが,実際に家庭でも日本語を使っている人となると3分の1以下にすぎない。言語の上からみると日系人はカナダ社会に融合しているとみられるが,事態はそう簡単ではない。フランス語復権運動に示される少数民族の権利主張の結果,カナダは1971年から多文化主義を採用し,国家的規模で少数民族の文化・言語を保護・育成している。この動きの中で日本語・日本文化を捨てるならば日系人は帰属の場を失うということで,最近ではカナダ各地で振興策が講じられている。
宗教 衰退を憂慮されるフランス語と異なり,宗教の方は歴史の古いローマ・カトリックが優位を保っている。全人口の46%がカトリックであるが,これはフランス系に加えてスコットランド系,アイルランド系,イタリア系,ポルトガル系の人びとに信者の多いことがあずかっている。キリスト教の新教の方では1925年にメソディスト,長老派,会衆派の3派が連合した,カナダ特有の合同教会が全人口の17.5%を占め,英国国教会が12%の信者を得て第3位に位置している。以上のように宗教もフランス系とイギリス系という二大民族と不可分の関係をもち,各民族の文化ナショナリズムの核となってきた。
広大な国土をもつカナダが,ヨーロッパで異端視されてきたキリスト教改革諸派の運動の場となったのは,アメリカ合衆国と同様であった。その中ではメノー派 の勢力が大きく,主としてオンタリオ南部,マニトバ,サスカチェワン,アルバータに群居し,伝統的な反近代的生活態度を守っている。
社会,文化 教育 1867年のイギリス領北アメリカ法は,教育は州の権限に属すると規定した。これはケベック州におけるプロテスタント・英語使用の人々と,他州におけるカトリック・フランス語使用の人々,つまり少数派の教育権を保護するためであったが,その後各州の情勢の変化により,教育政策はさまざまに変化を遂げた。宗教教育と少数派の言語を用いることを明確にした公立学校を分離学校separate schoolと称する。現在は2言語・多文化政策の下で,公立学校においては2言語教育が行われている。したがって,分離学校は公立学校でありながら宗教教育を行う学校を指している。分離学校の存在する州は,新教のそれがニューファンドランド,カトリックはケベック,オンタリオ,サスカチェワン,アルバータと,5州を数える。連邦政府内に日本の文部省に相当する機関がなく,教育行政権が各州に属しているので,教育年限,教科書,履修規定は州によって異なっている。義務教育は6歳から10年間であるが,実際には州により6・3・3制,あるいは7・5制がとられている。
高等教育機関としてはコミュニティ・カレッジと大学がある。大学の数は67であるが,大学並みのコースを提供するコミュニティ・カレッジは400近くを数える。大学生はいわゆるパート・タイム学生が半数を占めており,働きつつ学ぶ,言い換えれば生涯教育の姿勢がカナダの高等教育の特徴である。大学では歴史の古いラバル大学,トロント大学,ダルハウジー大学,あるいは他地域と比較すると経済的に豊かな西部のアルバータ大学,ブリティッシュ・コロンビア大学などが有名である。
文化 移民の国カナダは伝統的にヨーロッパ文化,とくにイギリスとフランスの文化的影響を濃厚に受けてきた。1867年のカナダ自治領の誕生は,同時にカナダ文化誕生の枠組みを用意するものであったが,政治的・経済的な国家建設に追われ,文化的成熟は達成しがたいものであった。その中で1890年代には文学(とくに詩歌)の黄金時代を迎えていることが注目される。一般にカナダ独自の文化と言えるものが誕生したのは1920年代以降で,〈グループ・オブ・セブン〉と呼ばれた画家たちがその嚆矢であった。彼らの絵はカナダの自然を,それも交通網の発達により今まで到達しがたかった北方やカナディアン・ロッキーを題材とし,カナダ的特徴を発揮しようとした。彼らの強調したのはヨーロッパ絵画からの決別であり,カナダの北アメリカ性を認識する方向をもっていたことに注目したい。
第1次大戦後,外交上・経済上のイギリスの影響力が減少し,アメリカ合衆国に取って代わられたのと軌を一にして,文化面でも同様の事態が進行した。早くも1920年,マクメカンArchibald McKellar MacMechanはチューインガムから母の日を記念することにいたる,アメリカ大衆文化のカナダ浸透に警告を発したが,問題はカナダ人がむしろこの傾向を歓迎し,生活水準をはじめとしてアメリカ文化に追いつこうとした点にあった。
カナダが文化ナショナリズムを発揮し始めたのは第2次大戦後のことであった。51年,のちに初のカナダ人総督となったV.マッセーの名をとって《マッセー・レポート》と通称されたカナダの芸術・文学・科学に関する調査報告書が出された。その中に盛りこまれた勧告により,文化的諸活動奨励のためにカナダ評議会が設立され,1930年代に設立されたカナダ放送公社Canadian Broadcasting Corporation(CBC)や国立映画局National Film Boardの活動は,大幅な進捗をみることになった。国家による文化振興という姿勢は,70年代にいっそう強化された。公用語法制定(1969)に結実した60年代のフランス系カナダ人の地位向上運動は他の少数民族にも連鎖反応をもたらし,それにこたえて連邦政府は71年に多文化主義の推進を決定したからである。翌年には具体策を実施する責任をもつ無任所大臣が設けられた。各地の少数民族文化の保護・育成がはかられる中で,先住民族アメリカ・インディアンの文化はとくに重視され,カナダ全土の博物館に彼らの高度に発達した文化を示す芸術作品,日用品が収集・展示された。しかしこうした国家によるカナダ文化育成は,文化の脆弱性をもたらすとの批判もある。《マッセー・レポート》以来30年ぶりに,82年に発表された《アプルバート・レポート》は,政府による助成を否定するものではないが,歴史的遺産の保存,現代芸術の振興,在外カナダ人芸術家に対する援助などの方策を勧告している。
カナダ文化の存在を世界的に知らしめてきたカナダ人は枚挙にいとまがない。インシュリンの発見で知られるF.バンティングやC.H.ベスト,コミュニケーション理論のH.M.マクルーハン,ピアニストのG.グールド,あるいは経済学者J.K.ガルブレースや作家のA.ヘーリーのように活躍の場をアメリカ合衆国に移しているカナダ人,文芸評論家のN.フライ,文学者のM.アトウッド,作家のJ.コガワ,建築家A.エリクソン,画家D.A.コルビルらは,最近のカナダ文化を代表する人びとの一例にすぎない。
一方,アメリカからの文化的影響の削減の方策については,1970年代に入り,《タイム》や《リーダーズ・ダイジェスト》といった雑誌やアメリカのTV番組に対する税制上の優遇措置の廃止などの具体策が講じられた。しかし,人口の大半がアメリカとの国境から200km以内に住み,共通の言語をもつ以上,コマーシャルをはじめとしてマス・コミによるアメリカ文化のカナダ文化への影響は不可避と言えよう。
最後に現在のカナダが世界に誇り得る文化の一例をあげたい。それは広大な土地と少ない人口という国がらを反映して発達を遂げた通信技術である。既に実用の段階に入っている文字図形情報システム〈テリドンTelidon〉,世界一の普及率をもつケーブルテレビジョン(CATV)のほか,衛星や光ファイバーによる通信技術は,世界の先端をいっている。また広大な国土に不可欠な交通技術の発達もめざましいが,なかでもカナダ的であるのは,北極圏で活用著しい短距離離着陸機であろう。〈距離を文化の障害としない〉との合言葉こそ,現代のカナダ文化の特徴を示している。 執筆者:大原 祐子
映画 カナダ映画の最も顕著な特色は,長編劇映画の歴史がほとんどないのに対して,記録映画の製作が世界で最も盛んであるということである。1900年にカナディアン・パシフィック鉄道会社が映画部を設置してカナダの観光映画を製作し始めたときからカナダの記録映画の歴史が始まる(1965年のバスター・キートン主演の短編《キートンの線路工夫》はその観光映画のパロディになっている)。39年国立映画局(NFB)は,イギリスの記録映画の創始者として知られるジョン・グリアソンを所長として招き,グリアソンの指揮の下に活発な製作活動を開始,第2次大戦中に《カナダは負けず》《戦う世界》のスチュアート・レッグ(1910- )をはじめ数々の記録映画作家が輩出して,世界の記録映画の中心的存在になった。と同時に,グリアソンの下で,ノーマン・マクラレン,ジョージ・ダニングといった実験アニメーション映画の鬼才を生み,45年にグリアソンが去ったあとも,国立映画局はドキュメンタリーとアニメーションの創作活動の中心になった。長編劇映画の方は,1913年から39年までに製作された本数が70本足らず,60年にはわずか3本,60年代後半からやっと年間12本程度に上がってきたという貧弱さだが,これはカナダが地理的にアメリカに隣接した国であり,また英語が母国語の主体であるために,要するにアメリカ映画で〈まにあう〉という条件のためであった。事実,カナダは外国におけるアメリカ映画の最も重要な市場になっている。他方では才能のある監督が次々にハリウッドに吸収され,イギリスに次いでハリウッドの映画予備軍的存在になっている。アカデミー作品賞を獲得した《夜の大捜査線》(1967)のノーマン・ジュイソンをはじめ,シドニー・J.フューリー(《シエラマドレの決闘》1966),アーサー・ヒラー(《ある愛の詩》1970),シルビオ・ナリッツァーノ(《血と怒りの河》1967),テッド・コッチェフ(《地獄の7人》1983)といったハリウッドの職人的監督がカナダ出身である。しかし,1964年のカナダ・アメリカ合作による《ジンジャー・コフィーの幸運》(アービング・カーシュナー監督)のヒット以来,劇映画の製作も積極的になり,67年にはカナダ映画開発公団(CFDC)が組織され,毎年2000万ドルから2500万ドルが長編劇映画の製作援助資金として投資されることになった。その結果,年間製作本数も70年代には25本平均を達成するまでになり,《アーニー・ゲーム》(1968)のドン・オーウェン,《道を下って》(1970)のドナルド・シビブ,《暗闇にベルが鳴る》(1974)のボブ・クラーク,《ウィーク・エンド》(1975)のウィリアム・フリュエ,《パワープレー》(1978)のマーティン・バーク,そして〈内臓ホラー〉と呼ばれる特異な怪奇映画《ラビッド》(1977)などで注目を浴びたデビッド・クローネンバーグらが出た。一方,1950年代からフランス語圏のケベック州に新しい映画の胎動があり,60年代から70年代にかけてクロード・ジュトラ(《アントワーヌ伯父さん》1970),ジャン・ピエール・ルフェーブル(《最後の婚約》1973),ジル・グルー(《袋の中の猫》1964),ミシェル・ブロー(《命令》1974),ジル・カルル(《ベルナデットの本性》1972)といった〈ケベック映画〉の俊才が出て注目された。ジョアンナ・シムカス,ジュヌビエーブ・ビュジョルド,キャロル・ロールら,カナダからフランス映画に進出した女優の活躍も目だつ。 執筆者:岡嶋 尚志+広岡 勉
日加交流 日加間の民間レベルでの交流は,国家間の公式な関係樹立よりもはるかに早かった。1834年には宝順丸の漂流民が後のカナダの地にたどりついており,一方,イギリス領北アメリカから到来した例としては48年のR.マクドナルド が有名である。日本とカナダはほぼ同時に近代国家として出発したが,その後の日加交流の大きな部分は,日本人移民,カナダ人宣教師によって担われた。カナダへの日系移民の研究は最近非常に盛んになっており,1918年から18年間をバンクーバーで送り,鈴木悦とともに日系労働者の組織化に尽力した女流作家田村俊子 の事績も明らかにされている。カナダから日本へ来住し教育・社会福祉に活躍した宣教師は1873年のG.L.カックラン,D.マクドナルドを皮切りとして,枚挙にいとまがない。カナダの外交官で著名な日本史家E.H.ノーマン もカナダ人宣教師の子息として1909年軽井沢に生まれた。ハーバード大学への学位論文であった《日本における近代国家の成立》また《忘れられた思想家--安藤昌益のこと》は,日本史研究に多大の貢献をなした著作であった。最近はカナダで生まれた日系カナダ人が,日加文化交流に果たしている役割が際だっている。北アメリカの文学関係の賞を独占したといわれるジョイ・コガワの《失われた祖国》はその顕著な例である。 執筆者:大原 祐子
政治 憲法 カナダの憲法は,イギリス法およびその修正条項,勅令,カナダ法とその修正条項,枢密院令,判例および政治慣習で構成される複雑な集合体である。そのなかで基本となるのはカナダの成文憲法である〈1867年憲法法〉と〈1982年憲法法〉である。憲法法とはカナダの憲法ないし立憲体制を構成する制定法を意味する。前者は,かつてイギリス法の〈イギリス領北アメリカ法British North America Act〉と呼ばれたもので,カナダの統治機構を定めたものである。同法はイギリス法であるためにその改正権限がイギリス議会にあり,連邦結成以来115年間における23回の改正には,カナダ議会からのイギリス議会への改正要請という手続きを必要とした。イギリス議会による1982年カナダ法の制定により,カナダ憲法の改廃権がイギリス議会からカナダに完全移管し,同時にイギリス議会は以後カナダを拘束するいかなる立法も行わないことになった。他方カナダ議会は1982年憲法法に〈カナダ人権憲章〉を導入したので,カナダの憲法は,諸外国と並ぶ一般的な立憲制度にならう憲法典をもつことになった。
カナダは統治機構として連邦制をとるが,その基本規定は1867年憲法法に定められたものである。同法は州の専属権限として,教育,保健,道路,地方財政,財産権および市民権など地方的・民事的事項に関し16項目を定めている。それに対し,通商,国防海運,漁業,郵便,通貨,航空,度量衡など全州共通事項を連邦の専属権限とし,州権限に規定されない事項を含む立法の一般権限を連邦政府に与えている。それは,カナダ連邦の創設期がアメリカ合衆国の南北戦争と重なったため,当初カナダの連邦政府権限をできる限り包括的なものにしようとする意向が強く働いたためであった。しかしその後,とくに大恐慌以降の政府の機能拡大にともない,各種行政の管轄をめぐる連邦と州との権限争いが司法判断に求められることになった。1950年カナダ最高裁判所が最終審とされるまで,カナダの憲法審査はイギリス枢密院司法委員会が最終審とされ,その裁定によって連邦よりも州に多くの権限が認められてきた。そもそも州政府は憲法上連邦政府に従属するものではないが,憲法に関する司法判断の積重ねの結果としてカナダの連邦制度は州権が強まり,分権的なものに発展していった。
このほかカナダ憲法を構成する法令のなかで重要なものには,イギリス議会が自治領の管轄事項に関する立法を行わないとして,自治領の外交と国防に関する権限を認めた1931年の〈ウェストミンスター憲章 〉,ならびに州内賦存資源に関する州の所有権を確認した判例などがある。
立憲体制を構成する政治慣習で重要なものは責任政府の原則である。これは議院内閣制という政治制度の基本をなすものである。つまり政府(内閣)は,選出議会(下院)で過半数ないし最大の議席数をもつ政党により組織され,議会に対してのみ責任を負うというものである。内閣は下院の支持を失った場合,総辞職するか議会の解散により総選挙を実施しなければならない。カナダの憲法慣習によれば,議会による内閣不信任は,不信任決議の採択のみならず,政府上程の予算案や重要法案の否決によっても成立したとみなされる。この原則とそれにもとづく内閣制度に関しても制定法はなく,内閣や首相の職席は政治慣習にもとづき存続しているものである。
政治制度 カナダはエリザベス2世女王を元首とする連邦制の立憲君主国家である。形式的に政治権力のすべての執行権は女王に帰属するが,〈君臨すれども統治せず〉というイギリスの憲法慣習がカナダでも踏襲される。エリザベス女王はイギリス女王であるが,カナダの立憲制度上はカナダの女王も兼任している。それゆえカナダに不在中の女王の地位は連邦においては総督Governor-General,州にあっては副総督Lieutenant-Governorに代表される。1952年に初のカナダ人総督が就任して以来,総督および副総督は内閣によって任命される職席となり,任期は5年である。総督は枢密顧問官やその他官吏の任命,議会の召集・解散,法案の裁可を行い,軍を統帥し,各種の行政命令を発令するが,これらは枢密院の助言により実施される。このような形式的執行権をもつ総督の地位は,憲法上〈枢密院における総督〉として明確に規定されている。
枢密院は女王の諮問機関であるが実体はなく,実際には枢密院の一委員会というべき内閣に掌握されている。閣僚はすべて枢密顧問官に任命される。内閣には首相のほかに,法務,国防,外務,財務,人的資源,保健,農業,通商,産業などの閣僚がおり,それぞれの行政機関を所管している。連邦政府には閣僚以外に閣外相や無任所相がおかれる場合もあるが,1990年代初頭の行政改革により省庁の数が減ったため閣僚ポストも削減された。
州政府も,連邦と同じ責任政府の原則による議院内閣制がとられ,州首相の組織する内閣を軸に運営される。州首相には州議会の第一党の党首が副総督により任命される。準州の行政は連邦直轄とされ,連邦政府の任命する弁務官Commissionerが責任を負うが,準州議会をとおして住民の意思も反映される。
カナダの議会制度において議会は女王と院とにより組織される。連邦議会は任命制の上院と選出制の下院との二院制をとるが,州議会はすべて一院制である。下院と州議会は普通選挙で選出される議員により構成される。カナダの議会制度の重要な特徴として,下院(選出議院)の優先性があげられる。これは責任政府の原則を具体化するものであり,下院は予算や税法など金銭法案の先議権とともに,憲法改正手続き上の特別権限が憲法上保障されている。下院議員の任期は5年であるが,多くの場合ほぼ4年で議会が解散され,選挙が実施される。選挙は1議席1選挙区の小選挙区制による総選挙の形で行われる。下院の定員と選挙区の区割りは10年ごとに国勢調査にもとづき人口に比例するよう調整される。人口の最も少ないプリンス・エドワード・アイランド州の議席を保障することになっているために,定員が増加することも珍しくない。選挙権は18歳以上のカナダ市民および女王の臣民に与えられる。上院議員は内閣の助言により総督が任命し,その任期は75歳までである。上院議員の任命は,任命時の与党色が強く働くが,全国的な地域間のバランスは考慮される。
議院内閣制の政体において政党は不可欠の存在である。カナダの政党は連邦と州のレベルに二分される。連邦議会に議員を送ったことのある政党としては,自由党,進歩保守党,新民主党,社会信用党(クレディスト党)のほかに1980年代末から90年代初めに急伸してきた改革党とケベック連合があげられる。これらのうち政権担当の経験をもつのは自由党と進歩保守党である。自由党は中産階層とカトリック,少数民族に支持基盤をもち,対外政策面でナショナリズム傾向が強く,経済的には社会福祉や地域経済開発を重視する姿勢を示してきた。進歩保守党は高所得層と産業界に支持され,かつては対英協調を掲げてきたが,1980年代後半以降のマルルーニー政権は新保守主義路線を進めた。自由党と進歩保守党はたがいに連邦政治におけるライバル政党といえるが,今日では政策上の違いはほとんどない。新民主党はかつての協同連邦党とカナダ労働会議の統合により生まれた社会主義政党であるが,最近は社会民主主義的立場に移行した。同党にはカナダの良心と讃えられたスタンレー・ノウルズStanley Knowles(1908-97)のように公正で倫理感のしっかりした議員が少なくなかった。社会信用党は平原州を地盤に,キリスト教の信条から財政改革による福祉の向上を主張した保守主義的政党である。クレディスト党はそのケベック分派である。この政党は戦後の連邦政治へ影響力をほとんどもたなかったが,80年代末から西部で勢力を急拡大してきた改革党はこの系列に属する。ケベック連合はケベック州の分離独立を進める地域政党である。州レベルでは,これら4党とともにケベックのケベック党が,いずれかの州で政権を担当した。カナダの政党は党名が連邦政党と州政党で同じでも,政策上の立場や利害関心の異なる別政党であることが多い。
司法制度は連邦法と州法とをともに執行する単一のシステムとされ,判事の任命は連邦政府の権限である。とはいえ,民事法がケベック州は大陸法系であるのに対し,英語系諸州はコモン・ロー法系であるため,判事の任命には法系のバランスが考慮される。
政治的争点 広大な国土をもちながら相対的に人口の少ないカナダにとって,第1の政治の争点は,国家的統一と連邦体制の再編という問題である。1970年代以降はケベック分離主義の勢力が拡大してきた。76年にケベック州の政権を握ったケベック党は,政治的なケベックの〈主権〉の確立と同時に,カナダとの経済連合を維持するという〈主権連合〉構想を掲げてきた。82年の改正憲法に関して,ケベック州だけが批准しないという変則的事態が生じた。ケベック州が受入れ可能な憲法改正は,連邦政治において80年代後半から90年代前半にかけて最大の争点となった。87年4月に,ケベック州を〈独自の社会〉と認め,同州に特別の権限を与える〈ミーチ湖協定〉が成立したが,90年6月までに全州の批准がそろわず失効した。1992年には,ケベック州の要求のみならず先住民による自治政府樹立および西部諸州の主張する上院改革などを取り込んだ〈シャーロットタウン協定〉が成立した。この協定の発効には国民投票が必要とされたが,反対票が過半数に達したため廃案となった。95年にはケベック州で〈主権〉構想に関する州民投票が実施されたが,僅差で反対票が過半数となり否決された。このように,ケベック州はカナダ憲法の批准をしないが,分離独立もしないというアンビバレントな状況にあることが明らかになり,カナダの連邦体制再構築の困難さを示した。
憲法改正活動のなかで唯一の成果は,北西準州の中部・東部を分離し,先住民自治政府の統治する新たな準州の設置に関する合意が成立したことである。99年には1万7000人のイヌイットの居住するこの地域にヌナブト準州が創設された。
第2の政治の争点は,政府財政赤字の削減と政府組織の縮小である。第2次世界大戦後,カナダの連邦政府は先進的福祉国家の形成を目ざし,政府組織を拡大してきた。政策的にはカナダ全土を均等にカバーする健康保険制度と年金制度を確立し,また低所得州の福祉を保障するため高所得州からの所得移転を図る平衡交付金制度も導入された。しかし1980年代末から政府財政赤字の削減が連邦と州とを問わず大きな政治的争点となってきた。このため連邦政府では国有企業の民営化や連邦消費税の導入とともに集配部門を除く郵便事業の民営化などの行政改革や政府組織の縮小が実施された。
州政府によっては行政サービスの見直しや有料化,料金改訂,受益者負担の導入が進められている。しかし,過疎地の多いカナダにおいて〈小さい政府〉の実現は,国民福祉の低下を招くのみで,行政の効率化につながるかどうか疑問視する向きも多い。
第3の争点としては,政党の影響力の低下と州政治における政権交代の活発化があげられる。経済構造の変化と〈小さい政府〉の時代を迎えた90年代に入って,自由党を除く既成政党の影響力は低下した。代わって台頭してきたのが,連邦レベルではケベック連合や改革党のような地域政党である。州政治ではオンタリオ州のように42年間続いた保守党政権から自由党,新民主党,進歩保守党と1985年以後3回も政権が交代した州や,与党党首が2回交代したアルバータ州のように政権交代が著しい。同様の事態は他の州でも頻発している。政党以外の非営利団体の影響力が高揚しているという新たな傾向も現れている。シャーロットタウン協定の形成過程では,女性の地位向上を目ざす全国的団体や先住民の全国組織などの活躍が注目された。
第4の争点は,対外関係ないし外交政策である。第2次大戦後のカナダの外交政策の特徴は二国間関係における対米重視と,多国間関係における普遍主義である。対米関係ではとくに安全保障政策で,アメリカ合衆国との共同防空協定にもとづく北米防空司令部(NORAD )設置があげられる。多国間外交でも安全保障政策ではカナダはNATO結成でアメリカ合衆国以上のイニシアティブを発揮した。国連を中心とする国際機関の活動でカナダは積極的役割を発揮し,国際民間航空機関(ICAO)や国連環境計画(UNEP)の創立に寄与したし,1956年のスエズ危機に際して国連平和維持軍の創設と派遣を提唱して以来,みずからも部隊を派遣するなど国連のPKO活動に貢献してきた。しかし80年代後半にはカナダの経済的利益の確保に外交政策の目的が集中するようになる。アメリカ合衆国との経済統合という選択はカナダで最も議論の激しい争点であったが,88年には両国間の自由貿易協定(FTA)が締結され,翌年初めに発効した。この自由貿易協定は10年をかけて貿易と投資を完全自由化し,カナダとアメリカ合衆国の市場統合を達成しようとするものである。その後この構想にメキシコが参加したため,3国間で交渉が進められ,92年に北米自由貿易協定(NAFTA)が締結された。この協定は94年に発効した。加えてカナダはサミット会議,APEC,GATT/WTOのメンバー国としても活発な活動を行っている。 執筆者:大熊 忠之
経済 特質 人口規模に比較して相対的に豊富な天然資源を保有するカナダは,主要な原材料輸出国であると同時に,世界有数の工業国として,高い生活水準を享受している。この農工兼備のカナダは,今日,国内総生産(GDP)の30%近くを輸出に依存する貿易国家である。また国際的な立場からみて,カナダはG7のメンバーとして,さらにアジア太平洋経済協力会議APECの主要メンバーとして,日本とのつながりは非常に深い。
カナダの豊かな生活を支えている産業基盤は,基本的には,資源および資源関連産業と,通信機器や医療機器に代表される技術集約産業である。カナダの豊かな資源はじつに多種多様である。その第1は鉱物資源である。銀,亜鉛,ニッケル,石綿,銅,セレン,ニオブ,ウラン,鉄鉱石といった主要鉱物において,カナダは世界屈指の産出量と輸出量を誇っている。またエネルギー部門でも,豊富な包蔵水力に加えて,石炭,石油,天然ガスの埋蔵量は世界のトップレベルにあり,将来,中近東諸国に代わる主要なエネルギー資源の保有国と目されている。第2の資源は,西部平原州の小麦穀倉地帯に代表される農産物資源であり,世界の五指に入る食糧供給基地として注目されている。第3の資源は,国土の44%を占める広大な森林資源である。それがカナダを世界有数の林業国に仕立て,木材,紙パルプ,新聞用紙の輸出に伝統的な強さを与えている。そして第4に,カナダは世界三大漁場の一つ,大西洋岸ニューファンドランド沖と,世界最大の内陸淡水域を擁する水産資源に恵まれている。そのためカナダは,ニシン,タラ,サケ,イカ,ロブスター,サバといった主要水産物の輸出額で世界最大を誇っている。資源の豊かさは,長い間カナダを原材料の主要輸出国に仕立ててきた。しかし,近年のカナダの経済構造の変化に伴って資源の加工度が著しく向上したため,1970年代後半以降,資源そのものの輸出は相対的に低下し,輸出総額の20%程度にまで落ち込んでいる(1963年には40%)。また産業全体に占める資源部門の従事者の割合は5.6%程度に縮小している(1963年には13%)。
カナダの場合,豊かな資源の賦存状態が経済・社会の発展を大きく規定してきた,という事実は重要である。というのは,カナダの経済発展の歴史は,魚類,小麦,紙パルプ,鉱物といった特殊なステープル(主要産物)の開発とその輸出によって説明されるからである。コンフェダレーション(連邦結成,1867年)から第1次世界大戦前にいたる工業化の時期には,西部平原州の穀倉地帯の開発とその穀物輸送のための鉄道敷設が,ヨーロッパやアジアから膨大な移民を受け入れ,同時に巨額の外資を引きつけカナダ経済の発展の基礎を形成した。両大戦間期には,カナダはアメリカの資本と技術を導入して森林,鉱物資源の開発にあたり,以来アメリカとの経済的連携が強化されたのであった。
資源に依存したカナダ経済のもう一つの特徴は,貿易と外国資本への依存が著しく高いこと,しかもその両方の分野で対米依存が高いことである。今日,カナダの輸出の80%はアメリカ合衆国市場に向けられている。対米依存の起源は,第1次大戦前に遡る。カナダは,コンフェダレーション以来一貫して,資源開発と製造業の保護育成を図り,希少な資源であった資本と技術を,イギリスとアメリカ合衆国から大量に導入する方策をとってきた。第1次世界大戦にいたる工業化の段階は,カナダはもっぱら証券投資のかたちで借用したイギリス資本に依存して,鉄道建設を中心とした輸送,通信などの基礎的経済基盤の整備拡充に力を注いだ。この時期,カナダはみずからを大英帝国の一員と位置づけ,イギリス本国に対しては食糧の供給基地として,またイギリス産業家の繊維製品のはけ口として,英帝国特恵関税制度を通してイギリスとの緊密な貿易関係を樹立していた。しかし,第1次世界大戦以後は,イギリスがスカンジナビア3国との貿易を密にしていくのにつれて,カナダはイギリスを離れ,徐々に対米接近政策を強化していったのである。その橋渡し役を演じたのがアメリカ企業のカナダへの直接投資であった。
対米関係 連邦結成以来,カナダの歴代政策担当者は,資源開発に傾注する一方,高率保護関税政策を採用して製造業の育成を積極的に図った。雇用の拡大と生活水準の向上のためには,製造業の発展は焦眉の急務であった。時には高率関税を外国企業誘致の手段として用いた。その結果,アメリカ企業の進出は資源部門で顕著であったが,製造業部門でも,たとえばカナダ産業の中心となりつつあった自動車産業で,アメリカ三大メーカー(ビッグスリー)のフォード,GM,クライスラーが,それぞれ1904年,18年,25年にカナダに子会社を設立し,カナダ自動車産業を支配した。また,当時のニュー・インダストリーといわれた化学・医薬品などの産業部門でも,アメリカ企業のカナダ進出は活発であった。外資優遇策を講じたカナダと,資源を求め,かつまたカナダの関税を回避してカナダ国内に工場設置を意図したアメリカ企業との利害の一致は,すでに両大戦間期に資源部門と製造業部門の主要部門で,アメリカ企業による大規模な所有と支配とを招いたのである。またアメリカ親会社と在カナダ子会社との間の企業内貿易は,加米貿易の構造を規定した。ただし,運輸,通信,新聞,出版,電力,金融などの基幹産業においては,外資の進出は禁止された。カナダが過度な対米依存を継続した主たる理由は,〈分工場経済=アメリカ系企業の子会社によって支配された経済〉で知られるカナダ産業に網の目のように張り巡らされたアメリカ系子会社の活動が,雇用機会の拡大と,それに伴うカナダ国民の生活水準の向上に大きく寄与したばかりではなく,カナダ産業の技術水準の向上に貢献したからである。
外資支配にかかわって,カナダ経済の特徴として指摘できるのが,静かではあるが根強い経済ナショナリズムの存在である。国民経済の独立と国家主権の保持を唱える(イギリス)ナショナリズムの動きは,68年に外資の支配状況を分析した《ワトキンス報告》が出版されてから次第に活発化し,〈産業のカナダ化〉問題が全国的規模で自覚され,外資の是非が広く論じられた。それが政策として実現したのがピエール・トルドー自由党政権下においてであった。73年に,〈外国投資審査法〉Foreign Investment Review Act(施行は1974年,75年)が成立し,雇用機会の拡大や資源加工度の向上,それに技術開発の促進などの〈カナダ経済に顕著な利益をもたらす〉外資のみが認可されることになった。またそれに先立つ1971年に,カナダ企業の乗っ取り防止とカナダ人所有企業の強化育成を図るためにカナダ開発会社Canada Development Corp.が,そして75年に石油と天然ガス資源の開発と安定供給を目ざして国策会社ペトロ・カナダPetro-Canadaが設立された。また,こうした一連のナショナリスティックな政策の最後を飾ったのが,80年10月に発表された〈国家エネルギー計画〉であり,90年までにエネルギー自給を目ざしエネルギー部門のカナダ化を進めることを宣言したものであった。
しかし,一般に州権の強いカナダで,相対的に開発の遅れた州ほど外資を歓迎する傾向があり,また,歴史的にみて不況期に経済ナショナリズムの動きが後退するという事実は,徹底したカナダ化政策の遂行がいかに困難であったかを物語っている。また,カナダ自身有力な海外投資国であり,しかも外国貿易への依存が高い開放型の経済構造をもつゆえに,性急な外資規制は国益に合致しなかったのである。外資歓迎が再び外資規制に取って代わったのは,1984年にブライアン・マルルーニー党首率いる進歩保守党が政権の座につき,翌85年に従来の外資規制型の外国投資審査法をカナダ投資法Investment Canada Actに改定したことによる。同法は外資の導入を積極的に打ち出している。減速経済の下,世界各国はむしろ雇用の拡大のために厳しい外国企業の争奪戦の段階に入っていたのである。
加米経済関係の緊密化は,両大戦間期のアメリカ企業の対カナダ直接投資により深まりつつあったが,マッケンジー・キング自由党政権下で1935年に締結された加米互恵条約によっていっそう強化された。第2次世界大戦以後,59年の防衛生産分担協定を通してさらに強化された。そして,65年の加米自動車協定(オートパクト)の締結は,特定産業部門の自由貿易のケースとして後の加米間の包括的な自由貿易実現の先鞭をつけるものであった。80年代に入って,世界市場での競争が激化するにつれて,カナダ国内では,アメリカ合衆国との包括的な自由貿易を行って,巨大なアメリカ市場に自由に参入することによって,カナダ企業の競争力を強化すべきである,との認識が高まってきた。長い交渉の後,89年に加米自由貿易協定が発効した。同協定は,(1)10年間で双方の関税の完全撤廃,(2)輸出入の規制やサービス産業に関する規制などの非関税障壁の除去,(3)投資の自由化,などを内容としている。
さらに92年に成立したヨーロッパの市場統合に対抗して,アメリカ合衆国ではブッシュ共和党政権下で,中米,さらには南米をも含むアメリカ大陸全域をカバーする米州自由貿易地域の形成が構想された。こうした動きは,94年1月のメキシコを加えた北米自由貿易協定 North America Free Trade Agreement(通称NAFTA)の発効によってその一部が実現された。
一方,これまでもカナダは成長著しいアジアとの経済関係の緊密化に力を注いできた。太平洋アジア地域は,カナダの輸出市場としてアメリカ合衆国に次ぐ規模を誇っており,カナダの経済成長の将来はアジアとの経済取引にかかっているといってよい。もともとカナダと太平洋アジアとの経済的つながりは,当該地域からの膨大な移民によって強化されてきた。とりわけ太平洋に面しているブリティッシュ・コロンビア州にとって,アジアとの貿易はアメリカ合衆国に匹敵する重要性を有している。
日加経済関係 環太平洋諸国の中心に位置しアジア太平洋経済協力会議APECの主要メンバーである日本は,カナダの経済的成功を占うきわめて重要な国である。日本は,カナダにとって第2の貿易パートナーであり,カナダ資源の大口顧客であるばかりか,カナダ経済を支える資本の主要供給国でもある。また,カナダを訪れる日本人観光客の数は,1985年のプラザ合意以降の円高傾向により,急速に増加している。日加間を移動するモノ,カネ,ヒトの量は確実に拡大している。
日加経済関係は,カナダの貿易統計に日本が初めて顔を出す1873年にさかのぼる。当時の日加貿易で重要なパイプ役を演じたのは日系移民であった。主たる取引品目は,日本の緑茶,絹製品,カナダの木材,石炭,水産物であった。こうした比較的限られた商品基盤から出発した日加貿易は,第2次大戦後めざましい発展をとげた。とくに,トルドー政権が1972年に過度のアメリカ依存を脱してECや日本への接近を強めていこうとする〈第三の選択〉を外交政策の一つに据えて以来,カナダは日本をアメリカに次ぐ第2の貿易パートナーとして対日貿易の拡大に努力した。一方,日本は〈環太平洋経済圏構想〉の下に,カナダを重要な資源供給国の一つとみなし,日加協力関係の緊密化に傾注してきたからである。
日加貿易は,1954年の日加通商協定の締結,56年の在加日本貿易センターの設立,76年の日加経済協力大綱の締結,および78年の日加経済人会議の開催といった一連の政府および民間レベルの交渉や会議を通じて,飛躍的な伸びを示した。日加貿易は1970-80年間に4.4倍,1980-90年間に2.4倍の増加を示した。日加貿易は,対先進国貿易としては珍しく83年までは日本側の入超で推移したが,その後一転して95年まで日本の黒字が続いた。しかし96年には再びカナダ側の黒字となっている。近年は両国の貿易収支は均衡化に向かっているといえる。
さらに,日加経済関係にとって,カナダの観光資源もまたきわめて重要である。カナダを訪れる日本人旅行者の数は,1985年以降の円高により急増し,年率10%の伸びを示している。95年にはその数66万6800人にのぼっている。その年カナダを訪問した外国人旅行者のうち15.4%を日本人旅行者が占めている。それはアメリカ人とイギリス人に次ぐ第3位の数である。そして,日本人旅行者がその年カナダ国内で支出した額は,じつに7億5000万カナダ・ドルに達し,カナダの対日貿易外収支の黒字に大きく貢献している。 執筆者:飯沢 英昭
歴史 広大な未開の土地に散在した原住民,そこに入植したヨーロッパ人の形成した国家という点で,カナダはアメリカ合衆国やオーストラリアと共通性をもつ。しかしそれぞれの国がかくも違った歴史を展開し,その結果異なった体制をもつ国家となるにあたっては,いくつもの要因が重なり合って決定的な影響を与えている。カナダの場合,その第1はこの地がフランス革命前の封建色濃いフランスの植民地として出発したことに求められよう。
フランス領時代 16世紀のジャック・カルティエ らフランス人探検家は,すでにスペイン,ポルトガル,イギリスが接触した南方を避け,北方にアジアへの道を探した。カルティエらはその発見には成功しなかったが,溯行したセント・ローレンス川を〈カナダの川〉と呼び,沿岸をフランス王の領土と宣した。同じ頃のちにカナダの一部を形成するニューファンドランドはイギリス領と宣言され,イギリスの海外植民地の最初となる。
フランスの北アメリカ植民地に入植が始まったのは1603年であったが,失敗を繰り返した後,〈ニューフランス の父〉サミュエル・ド・シャンプランは08年ケベック要塞を設け,ここが150年余りに及ぶフランスの北アメリカ統治のかなめとなった。フランス人が北アメリカで利益を見いだしたものは,豊富なタラと良質の毛皮であった。その利潤が大きく,また寒冷気候もあずかって,彼らは農業にはあまり関心を示さず,もっぱらインディアンとの交易を中心に活動範囲を広げていった。したがって入植するフランス人は毛皮商人,彼らを守る軍人,そして異教徒インディアンを改宗させようとする宣教師たちが大部分であった。
ニューフランス経営は当初会社組織で行われたが成功せず,63年フランス国王の直轄地として,フランス国内の地方経営と同じ形式が採られることになる。この結果カトリック教会と荘園制は,17世紀後半のフランスと同様,ニューフランスに根づくことになった。
一方,ニューフランスの版図が広がるにつれ,南のイギリス植民地との接触・衝突の機会が多くなった。本国同士の争いは直ちに植民地におけるそれに発展し,1713年にはアン女王戦争の結果のユトレヒト条約で,ニューファンドランド,ハドソン湾岸のほか,ノバ・スコシアを中心とするアカディア 地方が正式にイギリス領と認められた。英仏植民地戦争の最大にして最後のものが,54年に始まったフレンチ・インディアン戦争 である。ヨーロッパにおける七年戦争と呼応したこの北アメリカ大陸の戦闘でも,フランスは敗北を喫し,63年,フランスは東端の小さな二つの島およびミシシッピ川以西を除く北アメリカの全領土をイギリスに譲渡することになった。
イギリス領時代 イギリス領ケベック植民地に当時住んでいたフランス系の人は6万5000人といわれる。彼らをごく少数のイギリス役人,軍人で統治するに当たり,イギリスは74年ケベック法を制定してフランス民法,フランス語の使用,カトリックの信仰を認めると布告した。隣接するプロテスタントの13植民地(のちのアメリカ合衆国)にとっては脅威であり,ケベックの境界が拡大されたことと相まって,13植民地は革命への胎動を激化させた。翌75年のアメリカ独立革命の勃発は,カナダに二つの大きな転機をもたらした。一つは,後にカナダとなる領域がアメリカ合衆国から切り離されて誕生したことであり,もう一つは,4万人にものぼる王党派(ローヤリスト )のカナダへの移住によってイギリス系人口が激増したことである。とくに後者がカナダ社会に与えた影響は大きかった。一般に歴史上,このように大量のいわば社会の中流以上を占める人々の同時移動は珍しいといわれる。それもフランス人が定住していた地域へイギリス人が赴いたのであるから,軋轢は当然である。91年,ケベックは二分されて,ケベック法を遵守するロワー・カナダと,イギリス式の政治・経済制度を採るアッパー・カナダの二つの植民地が成立した。カナダにとって宿命的な問題,フランス系とイギリス系の対立抗争はここに決定的となった。一方,ノバ・スコシアへ移住した王党派は,ニューブランズウィック植民地を建設した。
19世紀前半のイギリス領北アメリカ植民地は,経済的発展とそれに伴う住民の政治的意識の成長で特徴づけられるといえよう。アメリカにおいて第2独立戦争とみなされた1812年戦争(第2次英米戦争)の,陸上における主戦場はアッパー・カナダであったが,戦争はアメリカから移住した人びとの反米意識を強化した。同時に彼らはイギリスに対して植民地政治の民主化を要求した。この運動においてはノバ・スコシア,ロワー・カナダ,アッパー・カナダの3植民地がとくに際だっていたが,ノバ・スコシアが平和裡に,最も早く責任政府を実現したのに引き替え,後2者は紆余曲折を経た。
アッパー・カナダにおける政治の民主化運動はW.L.マッケンジー ,ロワー・カナダにおけるそれはL.J.パピノー を指導者として展開された。1820年代から30年代にかけ,2人とも議会を通じて政治改革を進めようとしたが,アッパー・カナダでは英国国教会と結託して政界を牛耳る〈家族盟約〉の,ロワー・カナダでは総督,イギリス官吏と彼らを支える商人が形成する〈城砦閥〉の力が強く,2人は蜂起に訴えて目標を貫徹しようとした。しかしその企図が挫折したことはいかにもカナダ的である。カナダ史では過激な変革は排され,漸進的な改革が目的を達成する。マッケンジー,パピノーの運動はより穏健なR.ボールドウィン ,L.H.ラ・フォンテーヌ らに受け継がれたのであった。
しかし,蜂起の失敗は両植民地に大きな影響を与えることになった。蜂起の結果の視察にイギリス政府から派遣されたダラム卿は,アッパー,ロワー両カナダの統合によりフランス系カナダ人をイギリス系カナダ人に吸収すること,および植民地に大幅の自治を与えることを勧告し,41年連合カナダ植民地 が成立,48年には責任政府の樹立をみた。しかしフランス系カナダ人は同化吸収されるどころか,かえって〈生存〉の意志を強めたかのようであった。イギリス系とフランス系は連合カナダ植民地議会でことごとく対立し,政治は行詰りの状況をみせた。この要因に加えてイギリスにおける自由貿易主義の完成,アメリカの南北戦争などが引金となり,連合カナダ植民地を解体し,より大きな枠組みでイギリス領北アメリカ植民地の統合とイギリスからの独立を求める運動が50年代末から生じてくる。
自治領カナダの成立と発展 1867年,自治領カナダを結成したのは,ノバ・スコシア,ニューブランズウィック,そして,連合カナダ植民地が解体して誕生したオンタリオとケベックの4州であったが,そのほかに,イギリス領北アメリカには3植民地とハドソン湾会社 が1670年から領有する広大な領域が存在した。これらの植民地がイギリスの支配を脱し,カナダに参加する動きを総称して〈コンフェデレーション 〉というが,正確にはコンフェデレーションは1949年のニューファンドランド州の参加をもって終了する。その間にマニトバ州が1870年,ブリティッシュ・コロンビア州が71年,プリンス・エドワード・アイランド州が73年,そしてアルバータとサスカチェワンの両州が1905年にコンフェデレーションを実現している。
カナダが第1に着手したことは版図の確定と国力の充実であった。〈海から海へ〉またがる国家,というのが建国のモットーとして採用されたが,そのためにはオンタリオ州とブリティッシュ・コロンビア植民地の間のハドソン湾会社領有地を獲得しなくてはならない。その譲渡に関する交渉は問題なく進行していったが,事の成行きを知らされなかったレッド・リバー地域の住人,メティス は自分たちの既得権を守ろうと1869年臨時政府を樹立した。L.リエル を首班として連邦政府と交渉し,メティスの主張が大幅に受け入れられて70年マニトバ州が成立する。主張の中にはフランス語による教育の保障も含まれていたが,このことは90年代に学制問題を引き起こす。国力の充実については,イギリス,アメリカ合衆国との経済的提携が断ち切られたカナダは,保護関税を採用して自国の工業を興し,大陸横断鉄道を敷設して西部と東部を結びつけ,移民を西部へ運ぼうと図った。19世紀末のカナダにおいて,これらの政策が成功を収めたとはいいがたいが,20世紀に入りようやく実を結ぶのである。西部開拓に当たっては1874年北西部騎馬警察(カナダ騎馬警察)を設置して治安と秩序の維持に当たらせた。北西部騎馬警察は,85年リエルが再びかつぎ出されてサスカチェワン地方で反乱を起こした際,その鎮圧に一役買うことになる。
リエルの2度目の蜂起は最初のそれと性格を異にしていた。15年前と異なりカナダの統治体制は相当整備されており,鎮圧のための軍隊の移動も鉄道敷設により迅速に行われた。蜂起の敗北はいわば半農半猟の社会が文明に屈服させられた観があったが,リエルがフランス系のメティスであったため,彼の処刑はフランス系カナダ人の間に連邦政府に対する反感を巻き起こした。現在に至るまで続く連邦政府へのケベック州の不信は,ここに源を発すると言っても過言ではない。こうしてコンフェデレーション後,一致して国家建設に向かったのもつかのま,カナダではリエル問題,マニトバ学制問題,ボーア戦争参戦問題,と絶えまない英仏抗争が展開されてゆく。
〈20世紀はカナダの世紀である〉と言ったのは世紀転換期に首相を務めたW.ローリエ ばかりではないが,ローリエ時代のカナダは日系カナダ人の問題などは生じたものの,安定した繁栄期を迎えた。寒冷・乾燥気候に適した小麦種の改良により,西部は世界の穀倉として注目されることになり,移民が続々と到来した。1907年の日本人街襲撃というバンクーバー騒動も,1年に1万人に近い日本人移民の到来に,以前から神経をとがらせていたブリティッシュ・コロンビア州の白人が報復の機会をとらえたものと言える。国力の充実を背景にローリエは,コンフェデレーションの際イギリスに残されたままであった外交上の自治権をカナダの手に戻すべく,さまざまな機会をとらえて外交上の自主性を主張しようとした。彼の統治の最後において,それは海軍創設問題にみられた。08年ころから,イギリスはドイツ海軍との対抗上,自治領のイギリス海軍への協力を求めたが,ローリエは小規模ながらカナダ独自の海軍を創設することでこれにこたえようとした。しかしこれは,イギリスを支持するイギリス系カナダ人には非協力のあかしとして,イギリスの政策に巻き込まれることを忌避するフランス系カナダ人には迎合的として嫌われ,この奇妙な連合により11年ローリエは退陣に追い込まれた。
第1次世界大戦と戦間期 14年に勃発した第1次世界大戦はカナダに大きな影響を及ぼした。大英帝国の一員として,イギリスの参戦とともにいわば自動的に参戦を強いられたが,直接の戦場となったヨーロッパと違い,イギリスへの物資・人力補給の地としてめざましい活躍を果たした。イギリスも戦争遂行への協力を仰ぐ以上,自治領の意向を政策形成に反映させざるを得ず,大英帝国におけるカナダの外交上の自治の進展は著しいものがあった。大戦が国内に及ぼした影響の第1は,再び高まったイギリス系・フランス系の軋轢であろう。徴兵制に反対するフランス系カナダ人の激しい抵抗に遭遇したR.L.ボーデン 保守党内閣は,自由党との連合内閣を形成してこれを切り抜けたが,以後ケベック州における保守党の支持は著しく低下した。第2としては,女性の地位の向上があげられよう。大戦中の女性の労働市場への参加はめざましく,それを反映して18年,婦人参政権が実現された。第3に,軍需で潤った実業界の陰に犠牲を強いられた農民,労働者の声が,戦中から戦後にかけて強大になっていったことがあげられる。前者はカナダ農業評議会を通じて18年〈新ナショナル・ポリシー〉を発表し,大英帝国内におけるカナダの自立と国際平和機構の遵守,自由貿易などの要求を明らかにし,後者は19年の初夏に発生したウィニペグ・ストライキ で最高潮に達する動きをみせた。21年の連邦総選挙で第二党の位置を占めた全国進歩党は,この両者を代表した形で勢力を伸張したが,20年代の自由党はマッケンジー・キング の指導の下に政策の先取りをした形で全国進歩党の地盤を切り崩し,カナダにおける〈改革の時代〉は短命に終わっている。
21年から48年までの間,中断はあったものの首相を務めたマッケンジー・キングは,自由主義圏における政権維持の記録保持者とされる。この時期のカナダはよかれあしかれ彼の影響下に一時代を画したといえる。キングの統治の特徴は,一言でいえば,議会を通じての巧みな人心の操作にあった。彼の時代にカナダは大恐慌,第2次世界大戦という二つの最悪の場面に直面したが,これまでのカナダ史に特徴的であったイギリス系・フランス系の対立による国論の分裂は免れた。一方1920年代には,コンフェデレーション以来のカナダ国民の願望とキングの対英政策が効を奏し,また国際情勢の変化もあずかって,26年のイギリス帝国会議のバルフォア報告(1931年のウェストミンスター憲章で立法化)で待望の外交上の自主権が獲得された。外交上も主権を得たカナダは早速アメリカ合衆国,フランス,日本に公使館を設立した。
キングの時代は一方では,現代カナダの特徴である地方主義の色彩が濃厚になった時代としてもとらえられる。大西洋岸の諸州は〈沿海諸州の権利〉を主張し,西部諸州は公有地の返還を求めた。27年に開催された連邦・州会議は,コンフェデレーションで定められた強力な中央政府の下の連邦制度が曲り角に差しかかったことを示すものであり,以後のカナダは州政府の権限が強い連邦制度へと変貌を遂げてゆく。これに輪をかけたのが,大恐慌に具体的な解決策を示し得なかった二大政党への批判として,30年代前半に誕生した新政党である。アルバータで圧倒的強さを誇った〈社会信用党〉,マニトバ,サスカチェワンなど西部で伸張をみせた〈協同連邦党〉,ケベックのみで支持された〈国家連合党〉などは,この時代の地方分権主義の強さを象徴する。
第2次世界大戦後 45年,第2次世界大戦終了時のカナダは,人的資源においては第1次大戦を上回る被害を受けていたものの,30年代とは比較にならない経済力を備えた国家として,国際社会で大きな役割を果たそうとしていた。大戦中,連合国の物資補給庫となっていた実力は,カナダ人による資本の蓄積とアメリカからの投資,ヨーロッパからの移民という形での労働力,そして戦争で疲弊した国々が市場を提供したおかげで,50年代に至るまでカナダに未曾有の経済的発展をもたらした。この自信に裏づけられたカナダは,国際連合やイギリス連邦,北大西洋条約機構(NATO)を舞台として,国際的に初めて華々しい活躍をみせた。カナダの外交目標は,中間国家として大国の果たし得ない調停的役割を担うというものであり,その最も顕著な例が,1956年のスエズ危機打開の際にみられた。
経済的繁栄と国際舞台における活躍など,50年代のカナダは,サン・ローラン 自由党政権,ディーフェンベーカー 進歩保守党政権の下に,他国がうらやむような発展を遂げていたが,その裏には二つの深刻な事態が進行していた。これ以降80年代に至るカナダ史を左右する二つの問題とは,対米関係とフランス系カナダ人の問題である。まず対米関係については,戦時中の協力で密接化した両国の関係は戦後もしばらくは変更を迫られることもなかった。カナダ人がアメリカの経済力,軍事力に自分たちの生殺与奪の権が握られていることに気づくのは,50年代も後半に入ってからである。ディーフェンベーカー時代のアメリカからの核兵器受け入れの要求,次のピアソン 内閣時代に行われたアメリカからの投資の分析(ワトキンス報告)は,いつのまにか進行していた事態の深刻さを明らかにした。
一方,長らく農業とカトリックの信仰に依存していたケベック州のフランス系カナダ人も,50年代の他地域における急速な工業化,都市化の影響を受け,覚醒の動きをみせてきた。大戦以来ケベックの政権を掌握していた保守反動的な国家連合党を倒そうとする運動は,40年代末から学生,知識人を中心に推進され,60年の自由党政権の誕生は〈静かな革命〉と呼ばれて祝福された。この自由党政権は,第1にケベック州内の旧体制,第2にケベック州内外で政治的・経済的・文化的に実力を行使するイギリス系カナダ人を敵とし,フランス系カナダ人がケベック州の主人になることを目標に,経済の公営化,教育の近代化を実施した。ケベック州内の急激な変化に対応して連邦政府も63年〈二言語・二文化委員会〉を命し,カナダにおけるフランス系をはじめとする少数民族の不満の究明に乗り出した。 執筆者:大原 祐子