天台宗の総本山。山号は比叡山、本尊(根本中堂)は薬師如来。開祖は最澄(伝教大師)。文献上は山門・比叡山・叡山などともみえる。京都府と滋賀県の境にまたがる広大な山地に位置する日本有数の巨刹。近江に生まれた最澄が延暦四年(七八五)に比叡山に登り、思索と研鑽を重ねて比叡山寺(延暦寺の前身)を創建したことに始まる。最澄のめざした新しい天台仏教の道は、そのあと円仁・円珍、さらに良源によって確立された。そして比叡山中には東塔・西塔・
比叡の山並は南北に細長く延びている。近江と山城の境をなす美しい山並は、古代人から注目されてきた。仏教が日本に入る以前には、このような山容の優れた山は神が宿る山として畏敬の念をもってみられ、山麓に住む人々の祖霊が籠る山として信仰の対象となっていた。最澄が入山した比叡山もその一つであった。比叡の名称や産土神の存在はすでに「古事記」大国主神の段に「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海国の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大津市坂本本町にある天台宗の総本山。山号は比叡山(ひえいざん)。滋賀県から京都府にまたがる、大比叡(だいひえい)、四明(しめい)ヶ岳、釈迦(しゃか)岳などを含む山並みを比叡山(日枝(ひえ)山)と称し、そのなかの三塔一六谷に点在する堂塔を総称して延暦寺という。三塔とは、最澄(さいちょう)が護国を祈るため日本中の6か所に宝塔を建て『法華経(ほけきょう)』を安置しようと発願した六所宝塔院(ろくしょほうとういん)に由来する。そのなかの東塔(とうとう)(近江(おうみ)宝塔院)が比叡山の滋賀県側に、西塔(さいとう)(山城(やましろ)宝塔院)が京都側につくられ、のち円仁(えんにん)により横川(よかわ)(北塔、根本如法(こんぽんにょほう)塔)が開かれ、その3区分を総称して三塔という。
[田村晃祐]
比叡山は『古事記』によると古くから大山咋神(おおやまぐいのかみ)が鎮座する所とされ、修験(しゅげん)行者が入っていたと考えられる。奈良時代には山林修行の場所として草庵(そうあん)が設けられていたことが、『懐風藻(かいふうそう)』の麻田連陽春(あさだのむらじやす)の詩からわかる。延暦寺は、最澄が12歳で近江(滋賀県)の国分寺に入り、得度(とくど)・受戒(じゅかい)ののち785年(延暦4)「願文(がんもん)」をつくり、堅い修行の決意をもって比叡山へ入り、草庵を結んだのに始まる。788年に根本中堂を建て自作の薬師仏を安置したといい、のち一乗止観院(いちじょうしかんいん)と称した。平安京が営まれたのは入山後9年目で、のちに延暦寺は皇城鎮護の寺とされた。最澄は還学生(げんがくしょう)(遣唐使に随行して唐へ往復する学徒)として入唐(にっとう)、天台宗の根拠地天台山その他を訪れ、天台、密教、大乗戒、禅を受けて帰国、806年、年分度者(ねんぶんどしゃ)(毎年天台宗の僧として得度・受戒すべき僧)の割当て2名を得て、天台宗が独立した宗派として公認された。その後、最澄は会津の徳一などと教理論争を行い、また、当時日本中に3か所のみであった戒壇(かいだん)を新しく比叡山上にも設け、大乗戒だけを授けることにより、天台宗を純粋な大乗の僧を養成する宗派として奈良の仏教教団から独立させようとした。これは822年(弘仁13)最澄の没後7日目に許可され、翌年には延暦寺の勅額を賜った。
最澄の門下に義真(ぎしん)、円澄(えんちょう)らが輩出し、堂塔を増建したが、最澄が唐から伝えた教学のなかでは密教が不十分で、慈覚(じかく)大師円仁、智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)が入唐して密教を伝えた。安然(あんねん)に至って天台の密教(台密(たいみつ)と略称)は大成され、真言宗と相まって、平安時代は密教中心の時代となった。天台内では慈覚大師系と智証大師系が対立抗争するようになり、ついに智証大師の系統の僧は993年(正暦4)園城寺(おんじょうじ)へ移り、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)に分かれ、互いに焼打ちをするなど抗争を繰り返した。それとともに山中には僧兵が養われるようになった。また、慈覚大師流は平安中期に谷流(たにのりゅう)(東塔南谷の皇慶(こうけい)の法流)と川流(かわのりゅう)(横川の覚超(かくちょう)の法流)に分かれ、それらはさらにまた細かく分派し、台密十三流にも細分化されていった。
円仁は唐の五台山の法照流念仏を導入し、横川に首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建て、『法華経』の写経(如法経(にょほうきょう))を始めた。平安中期には浄土思想が隆盛となり、比叡山中興の祖慈慧(じえ)大師(元三(がんさん)大師)良源(りょうげん)、その弟子源信(げんしん)、覚運(かくうん)らはいずれも浄土信仰を鼓吹した。なかでも、恵心僧都(えしんそうず)源信は横川恵心院に住し、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著した。また、空也(くうや)は全国を回って(遊行(ゆぎょう))念仏を広めて市聖(いちのひじり)などとよばれ、良忍(りょうにん)は比叡山から大原(おおはら)に隠棲(いんせい)し、阿弥陀仏(あみだぶつ)の教えを受けて融通(ゆうずう)念仏の基をつくり、全国を遊行した。貴族の間でも念仏が尊重され、阿弥陀堂や阿弥陀仏が多くつくられるなど、日本の浄土教発展の基ともなった。
平安末期から鎌倉時代にかけ、比叡山で学問・修行した僧が比叡山を出て新しい宗派をつくった。15歳から43歳まで延暦寺で学んだ法然(ほうねん)(源空(げんくう))が浄土宗、9歳から29歳まで学んだ親鸞(しんらん)が浄土真宗の開祖となり、浄土宗の聖達(しょうたつ)の弟子一遍(いっぺん)(智真(ちしん))が時宗(じしゅう)を開創した。また、19歳で比叡山に入った栄西(えいさい)が臨済(りんざい)宗、13歳から18歳までの道元(どうげん)が曹洞(そうとう)宗、22歳から32歳までの日蓮(にちれん)が日蓮宗を開いた。
一方、平安中期より僧兵が力をもち、園城寺などと争い、日吉(ひえ)の神輿(しんよ)を奉じて朝廷へ強訴(ごうそ)し、また南北朝の抗争などに一翼を担い、建武(けんむ)新政で南朝の側についた。しかし、1571年(元亀2)織田信長に全山焼打ちされ全焼、数千人が殺された。その後、豊臣(とよとみ)秀吉から山門再興の許可を得、秀吉、徳川家康より領地を与えられて復興した。天台宗の天海(てんかい)が家康の側近として力を振るい、江戸・上野に東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)を建て、家康を日光の東照宮に葬るなど、大きな功績を残すとともに延暦寺の復興に力を尽くし、江戸時代には根本中堂など堂塔の再建が行われた。
なお、日吉山王社(ひえさんのうしゃ)は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づき延暦寺の鎮守と尊崇され、天台宗の教理的裏づけを得て、山王一実(さんのういちじつ)神道(山王神道)がおこり、発展した。しかし明治維新の神仏分離により比叡山から分離独立した。
[田村晃祐]
東塔、西塔、横川はそれぞれ異なった歴史をもって発展し、五・五・六の各谷に堂塔が点在している。
東塔は、北谷、南谷、西谷、東谷、無動寺(むどうじ)谷の五谷に分かれる。ここには延暦寺の中心である根本中堂(国宝)があり、不滅の法燈(ほうとう)を伝え、最澄の創建当時の寺の形を伝える三つの厨子(ずし)を収める。そのほかおもな堂塔に、受戒の場所である一乗戒壇院、僧侶(そうりょ)の学問研究のための大講堂、根本中堂への門の役目をなす文殊楼(もんじゅろう)、灌頂(かんじょう)や受戒の行われる法華(ほっけ)総持院東塔、最澄の廟所(びょうしょ)である浄土院などがあり、また無動寺谷には、回峰行(かいほうぎょう)の中心である無動寺がある。
西塔は、東谷、南谷、北谷、南尾谷、北尾谷の五谷および別所黒谷に分かれ、山上最古の堂である鎌倉様式の釈迦堂(しゃかどう)(転法輪堂)、常行三昧(じょうぎょうさんまい)を行う常行堂、法華三昧を行う法華堂がある。常行堂と法華堂は廊下でつながっていて、俗に「弁慶のにない堂」とよばれる。釈迦堂の後ろの丘には相輪のみが地上に屹立(きつりつ)する相輪橖(とう)がある。
横川は、香芳(かほう)谷、都率(とそつ)谷、戒心(かいしん)谷、般若(はんにゃ)谷、解脱(げだつ)谷、飯室(いむろ)谷の六谷と、別所安楽(あんらく)谷に分かれ、円仁の開創になる横川中堂、円仁により始められた写経を収める根本如法塔、恵心僧都の住した恵心院、良源の住房跡の元三大師堂(四季講堂)、僧の修行所の行院などがある。
[田村晃祐]
延暦寺の多くの堂塔で行われる年中行事は50種類にも及ぶが、そのなかのおもなものについて記す。「修正会(しゅしょうえ)」は除夜から1月3日にかけて行われ、とくに根本中堂で篝火(かがりび)のなかで行われる厄除鬼追(やくよけおにおい)の儀式が有名である。「御衣加持御修法(ぎょいかじみしほう)」は4月4日から11日まで根本中堂で行われ、天皇の御衣を祀(まつ)って国家の平和と繁栄を祈る。「如法写経会(にょほうしゃきょうえ)」は7月初旬に横川中堂で行われ、円仁に始まる『法華経』の写経を行う。「戸津説法(とづせっぽう)」は8月21日から25日まで琵琶(びわ)湖畔東南寺で『法華経』の説法を行う。「霜月会(しもづきえ)」は大講堂で天台大師(智顗(ちぎ))の忌日(10月23、24日)にその報恩のために行われる。「法華大会(ほっけだいえ)」は5年に一度、大講堂で国家の繁栄と仏法の隆盛を祈り、天台教学について論義が行われ、正式には広学竪義(こうがくりゅうぎ)とよばれる。
比叡山では厳しい止観(しかん)の修行が行われる。なかでも浄土院で12年間を籠山(ろうざん)し、学問修行と礼拝(らいはい)行を勤め上げる。また平安初期に相応(そうおう)和尚(831―918)によって始められたという千日回峰行(かいほうぎょう)は、7年間にわたり1000日間峰々を回り、あるいは京都までも足を伸ばし、9日の断食(だんじき)・断水の行を含む難行として知られる。
[田村晃祐]
『伝教大師将来目録(でんぎょうだいししょうらいもくろく)』『羯磨金剛(かつまこんごう)目録』『天台法華宗年分縁起』『六祖恵能(えのう)伝』『嵯峨(さが)天皇宸翰光定戒牒(しんかんこうじょうかいちょう)』『伝教大師入唐牒』などの書跡や、「金銅経箱」「法相華蒔絵(ほっそうげまきえ)経箱」、伝教大師将来の七条刺納袈裟(しちじょうしのうげさ)と刺納衣(しのうえ)が国宝に指定されている。そのほか、天台大師画像、五大明王像、行福(ぎょうふく)筆「華厳(けごん)要義問答」など国重要文化財も多い。なお、延暦寺は1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[田村晃祐]
『上野文秀著『日本天台史』(1936・破塵閣書房)』▽『木内堯央著『最澄と天台教団』(教育社・歴史新書)』▽『景山春樹・村山修一著『比叡山』(NHKブックス)』▽『景山春樹著『比叡山寺』(1978・同朋舎出版)』
滋賀県大津市にある天台宗の総本山。山号は比叡山。山門とも呼ぶ。近江,山城の国界にそびえる比叡山上にある日本屈指の大寺院で,東に琵琶湖を望み,西は京都を俯瞰(ふかん)する。平安京の北東方,鬼門に当たることから,王城の鎮護とされた。延暦寺は788年(延暦7),最澄によって開創された。東大寺で受戒した最澄は785年世の無常を感じて比叡山に登り草庵生活に入った。そして788年,薬師仏像を小堂に安置し,比叡山寺あるいは一乗止観院と号した。これが当寺のはじまりである。
→比叡山
最澄は804年7月,入唐して天台山に学び,翌年6月帰朝して,天台宗を開創し,当寺を中心に教団の確立につとめた。818年(弘仁9)春,南都の小戒を捨てて比叡山に大乗戒壇を建立することを申請して南都の旧宗と対決した。大戒建立の最澄の悲願は生前には達成されず,その滅後7日目の822年6月11日に勅許され,ここに天台宗の教国的独立が成った。この翌年,当寺は勅によって延暦寺と号した。824年(天長1)に義真が初代天台座主(ざす)に任ぜられ,三綱が置かれ,また同年講堂,翌年戒壇院が建立され,堂舎が整った。その後,円仁,円珍が現れて寺運は発展の一途をたどり,開創から1世紀を経ずして,早くも9世紀中ごろに延暦寺は仏教界最大の勢力となった。10世紀に入ると,905年(延喜5)宇多法皇が登山受戒したころから,皇室・摂関家の信仰を集め,10世紀中葉の座主良源の時代,966年(康保3)山上諸堂焼失の厄もあったが,つぎつぎと復興され,大衆三千といわれる学徒が雲集し,当寺は全盛期を迎えた。しかし,このころから慈覚(円仁),智証(円珍)両門徒の対立が進行激化し,ついに993年(正暦4)に至って慶祚以下の智証派1000余人は下山して園城寺(三井寺)に拠った。山門と寺門(三井寺)の対立はここに始まり,以後,鎌倉末期に至るまで,山門衆徒が園城寺を焼くこと7度に及んだ。僧兵化した山徒の横暴は平安時代末の院政期にもっともはなはだしく,座主の任命や寺領の問題で朝廷に強訴(ごうそ)をかけることがたび重なり,1095年(嘉保2)から強訴のとき日吉(ひよし)の神輿をかつぎ出すことが例となった。白河上皇が天下三不如意の一つとして〈山法師〉をあげたというのは,まさにこの時代の山門僧兵のことである。僧兵の横暴の反面,貴族化もすすみ,藤原師輔の息尋禅が良源の弟子となり,20世座主になってから,貴族・皇族の入寺がつづき,座主に貴族出身者が多くなって,やがて門跡(もんぜき)が成立する。まず梨本円融房(のちの梶井門跡),ついで青蓮(しようれん)院,やや遅れて妙法院,曼殊院などの門跡が成立した。鎌倉時代以降,これらの門跡寺院はおもに法親王が相承し,延暦寺一山の管理も門跡単位で行われるようになった。
このように皇室・貴族と深く結びつき,かつ広大な寺領と武力をそなえた山門は,それ自身一個の強大な権力機構と化し,ときには現実の政局を左右するほどの力をもった。源平争乱期に平氏が山門の懐柔に腐心し,建武新政に失敗した後醍醐天皇が2度も山門をたよって遷幸したのはこの例である。しかし,室町時代以降,荘園制の衰退とともに寺運もしだいにおとろえ,1571年(元亀2)の織田信長の延暦寺焼打によって山門の世俗的権勢は武家政権の前に屈した。その後豊臣,徳川2氏が寺領を寄進して諸堂の復興を助け,1636年(寛永13)には根本中堂の復興が成り,しだいに旧観に復した。
→園城寺 →日吉大社
近江,山城2国にわたる広大な山上の寺域は三塔(東塔,西塔,横川(よかわ)),十六谷に分かれる。東塔は,東・西・南・北・無動寺の五谷より成り,もっとも早く開かれた寺域で,一山の本堂である根本中堂をはじめ,大講堂,戒壇院,文殊楼,総持院,浄土院(最澄の廟所),無動寺等がある。西塔は,東・北・南・北尾・南尾の五谷より成り,834年(承和1)円澄が西塔院を開創したのに始まる。釈迦堂を中心に,相輪橖(とう),法華・常行二堂(にない堂),宝幢院等がある。横川は,般若・解脱・兜率・樺尾(かぼう)・戒心・飯室の六谷より成り,829年(天長6),円仁が首楞厳(しゆりようごん)院を開いたのに始まり,横川中堂(首楞厳院),四季御堂,恵心院,定心院等がある。ほかに黒谷別所青竜寺,安楽院谷別所安楽律院がある。現在のこれら諸院の堂舎は,寛永期もしくはそれ以後の再建で,もと3000と号した坊舎も,今は70余坊を数えるにすぎない。仏像・法具・聖教・文書の多くも信長の兵火に失われたが,後述のようになお多くの文化財を残し,横川の霊宝館と坂本の叡山文庫に収蔵する。古来,山僧の多くは山上に住まず,東西坂本および洛中に里坊(さとぼう)を有したが,今では主として東坂本(大津市坂本)に集住し,ここには最澄生誕地と伝える生源寺,座主の住坊である滋賀院門跡をはじめ多くの住院がある。
《三宝絵詞》(984年源為憲撰)には,叡山で行われる毎年の法会として,1,4,7,10月に各21日間ずつ行う懺法(せんぼう)(812年最澄始修),3月と9月の15日に行う勧学会(964年始修,山僧20人と大学寮学生20人が坂本の寺に会し,朝は法華経を講じ,夕は念仏を行い,終夜,讃仏の詩文を作る),4月の花の盛りに行う舎利会(860年円仁始修),4月15日以前に行う授戒会(823年始),6月4日,最澄の忌日に行う六月会(みなづきえ),8月11日から17日まで行う不断念仏(865年円仁始修),9月15日に行う灌頂(843年円仁始修),11月24日の天台大師忌に行う霜月会(798年最澄始修)を掲げる。このうち六月,霜月の両会はとくに重んじられ,5年に1度,好季を選んで両会同時に修し,これを法華大会という。ほかに1月3日,良源の忌日に横川の四季御堂で行う元三忌も有名。
嵯峨天皇は814年(弘仁5)近江国正税400束を最澄に施して住山の資に,また823年,米400石を送って東西両塔建立の資にあてしめた。淳和天皇は831年(天長8)近江国分寺料を割いて当寺僧24口の供養とした。《延喜式》によれば,定心院,西塔院,総持院,四王院の料として近江,美濃の官稲それぞれ1万5000~4万束をあてているなど,当寺の初期の経済は,出挙(すいこ)稲に依存していたが,863年(貞観5),人康親王家が近江国愛智郡田914町を伝法供料に,常康親王家が同高島郡田430町を救急料として当寺に施入,以後しだいに寺領の寄進が増大した。とくに藤原師輔の息尋禅が入寺し,父師輔から所領11ヵ所を譲られ住房妙香院領として以後,寺領は急速に増加し,膨大な山門領荘園が形成され,最盛期(鎌倉時代)には6万石と称された。山門領荘園は,惣寺に属するもののほかに,各門跡領,日吉社領,その他,山上山下3000と称された各坊舎の所領から成り,その所領関係は複雑であった。また地理的分布も,北は常陸から南は薩摩まで全国にわたるが,近江と美濃に集中し,東坂本は各荘園からの運上物を運びこむ港津として栄えた。信長の焼打以後寺領も没収されたが,1595年(文禄4),豊臣秀吉は坂本と葛川の1573石を施入。徳川家康は東坂本3427石を加増し,近世山門領5000石が成立した。
執筆者:薗田 香融
本堂に当たる国宝の根本中堂は織田信長の焼打後,1640年(寛永17)に江戸幕府の援助により旧規にならい再興されたものである。このほか,重要文化財建造物には,東塔の大乗戒壇院堂,西塔の転法輪堂(釈迦堂),瑠璃堂,相輪橖,常行堂および開山堂がある。美術工芸品では,工芸品と書跡に国宝が多い。横川如法堂跡に埋納されていた1031年(長元4)鋳造の金銅経箱や宝相華蒔絵経箱,尾長鳥繡緑花文錦打敷,刺納衣(しのうえ),また最澄関係の入唐牒,将来目録,羯磨(かつま)金剛目録,天台法華宗年分縁起,さらに嵯峨天皇宸翰光定戒牒が国宝に指定されている。彫刻,絵画でも,根本中堂安置の千手観音立像,四天王立像,釈迦堂安置の釈迦如来立像などや,天台大師像,山王霊験記など,多くの仏教美術が重要文化財に指定されている。
執筆者:益田 兼房
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山門とも。滋賀県大津市坂本本町にある天台宗総本山。比叡山と号す。近江国分寺で得度した最澄(さいちょう)は,785年(延暦4)の受戒後まもなく比叡山に入山。788年には薬師仏を刻んで小堂に安置し,比叡山寺・一乗止観院(いちじょうしかんいん)と号した。入唐求法の旅から帰朝後,年分度者(ねんぶんどしゃ)2人をうけて天台法華宗を開創。822年(弘仁13)最澄没後7日目には大乗戒壇建立が認可され,翌年に延暦寺の号が勅許された。以後,円仁(えんにん)・円珍両門徒の対立と993年(正暦4)後者の離山などの事件はあったが,天皇家・摂関家との結びつきを強めながら,三塔(東塔・西塔・横川(よかわ))十六谷の広大な寺域をもつ大寺に発展。平安後期からは寺領荘園を集積して巨大な権門寺院に成長し,南都の諸寺とともに南都北嶺(ほくれい)とよばれ,宗教界だけでなく世俗の世界でも大きな権勢をふるった。1571年(元亀2)織田信長の焼打で焼失するが,のち豊臣秀吉や徳川氏の庇護により復興した。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
… 平安京時代になると都と隣接した国として,さらに主要な位置を占めた。またそれより少し前の8世紀末に近江出身の最澄が開いた比叡山の延暦寺は,円仁,円珍らによってさらに発展したが,10世紀末以降智証(円珍)派の園城寺(おんじようじ)との抗争を繰り返した。源平内乱期にはこれら寺院勢力が近江源氏と結んで平氏討滅を誘引した。…
…およそ現在の滋賀県大津市坂本本町,下阪本,唐崎,比叡辻にあたり,古代は近江国滋賀郡大友郷に含まれる。延暦寺創建以前より大山咋(おおやまくい)命と大己貴(おおなむち)命を合祀する日吉社(日吉大社)の鎮座地であったが,良源が18代天台座主に就任する平安中期以降,延暦寺=山門の勢力拡大にともないその膝下領域としての重要性を増していった。中世には日吉社から東にのびる日吉馬場を主要道路としてその周囲に寺家,社家,日吉社彼岸所,生源寺,里房(さとぼう)などの山門支配機関が立ち並び,全国的規模で形成された山門領荘園を管理する中心地として,また山上への物資補給基地として多数の僧俗が居住することになった。…
…この日吉大社は山王権現とも称された。大山咋(おおやまくい)神を主祭神とする古い山岳信仰にその源流を発し,平安時代の初め,延暦年間(782‐806)に天台宗の開祖,伝教大師最澄が延暦寺を建立したとき,山麓にあった日吉の神を,延暦寺一山の鎮守神,天台宗の護法神と定めた。これは中国天台山にまつられている山王祠の例にならってまつったもので,山王は霊山を守護する神霊のことをいう。…
…山王の号は《二十二社註式》に〈山王号之事,第五十二代嵯峨天皇弘仁十年,始崇敬之〉と見える。元来日吉(比叡)の大神は大山咋(おおやまくい)神が比叡山に鎮祀されたものであるが,延暦年中(782‐806)僧最澄がこの地に延暦寺を創建するに及び別に大三輪神を山上にまつり大比叡神と称し,大山咋神は山下に移された。しかし大山咋神は元来比叡山の地主神(じぬしがみ)であったので天台宗徒は宗派の守護神と仰ぎ,唐の天台山の守神たる地主山王に擬し,この神を山王と称し天台神道の主神とした。…
…平安京の京内は,東寺,西寺の2官寺のみとして他に官私の寺は建立させず,京郊外に多数の私寺ができた。唐から密教を伝えた最澄は比叡山に天台宗の延暦寺を,空海は高野山に金剛峯寺を建てる。山上なので一定の伽藍配置をもたず,宝塔などを中心に講堂,灌頂堂,常行三昧堂,法華三昧堂などを院ごとにまとめて置き,100余年後に完成した。…
…南都とは奈良を指すが,とくに興福寺を中心とする南都仏教教団をいい,北嶺は比叡山延暦寺をいう。藤原氏の氏寺である興福寺は,摂関政治以降寺勢が拡大し,東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧によって占められ,公卿の子弟で入寺するものも漸次増加した。…
…比叡山の東の尾根にある牛尾山(小比叡峰または八王子山)の大山咋(おおやまくい)神(別名を山末之大主(やますえのおおぬし)神)が最初にまつられた地主神で,のち668年(天智7)に三輪の大己貴(おおなむち)神を比叡の山口に勧請して大比叡神とし,大宮とよばれて西本宮にまつられ,大山咋神は小比叡神とされて東本宮にまつられた。比叡山中に延暦寺が建立されると,この2神は天台宗守護の護法神として尊崇され,天台宗の興隆にともなって信仰を集めた。西本宮系の摂社聖真子(宇佐八幡)と客人(まろうど)(白山姫神),東本宮系の三宮,十禅師,八王子とともに山王七社とされ,神々はしだいに増加して,中世には中七社,下七社とあわせて山王二十一社を形成し,社内百八社,社外百八社の神をまつった。…
…12世紀前半から15世紀前半に至る約300年間の延暦寺青蓮院(しようれんいん)の記録を集大成したもの。原型となるものは南北朝期,尊円法親王の編か。…
…比叡山の北方に位置し,東塔,西塔とともに延暦寺三塔の一つ。戒心,般若,解脱,香芳,兜率,飯室の6谷と別所安楽谷に分かれる。…
※「延暦寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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