茨城(県)(読み)いばらき

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

茨城(県)
いばらき

関東地方の北東部にある県。日本列島のほぼ中央部、北海道と九州とにそれぞれ1000キロメートルの位置にある。東は太平洋(鹿島灘(かしまなだ))に面し、北は福島県、西は栃木県、南は利根川(とねがわ)を挟んで千葉県、南西部は埼玉県に接している。また、東京に近接し首都圏の一部を構成している。県庁所在地は水戸市で、県名は『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』による茨棘(うばら)に由来する茨城(うばらき→いばらき)の郡名による。利根川、霞ヶ浦(かすみがうら)など多くの河川、湖沼が陸上交通の発達を妨げ、断崖(だんがい)と砂浜の海岸には良港がなく、これら自然の条件が海陸からの近代交通の発達を阻害していた。それが明治時代以後、後進的地域ともなった一因であるが、広大な平地林や砂丘を未開発のままに残しえた理由でもある。築港と架橋の技術発達と高度経済成長政策とは、この未開発の土地に大規模な地域開発を可能とし、一挙に近代的発展を促した。鹿島臨海工業地域や筑波(つくば)研究学園都市の開発、利根川架橋の促進や日立港、鹿島港の築港がそれである。また、京浜地帯の過密化などにより、県南部から浸食するように都市化が進んでいる。
 これらの特色は人口の分布や変動にもみられ、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)135万であったものが、1940年(昭和15)162万、1950年(昭和25)に204万に達し、205万前後を長く停滞した。しかし1970年に転入人口が増加して214万、1980年256万人、1985年273万人、1995年296万人、2005年(平成17)298万人となったが、その後は停滞、漸減に転じ、2015年の総人口は291万6976人である。なお、本県の人口増加は従来、自然増に大きく支えられてきたが、1970年代以降は社会増が顕著であった。転入が多かったのは県南部、鹿島地区やJR常磐(じょうばん)線の沿線が主で、都市化、工業化地帯によるもので、とくに取手(とりで)市付近の住宅団地造成が影響していた。また、県北の旧那珂(なか)郡、久慈(くじ)郡地方の山間部は人口減少が著しい。面積6097.06平方キロメートル、2018年4月現在32市7郡10町2村からなる。[櫻井明俊]

自然


地形
北部に山地、南東部に湖沼、その間に広く平野が開け、河川は北西から南東の方向に流れている。山地は阿武隈(あぶくま)高地南端部にあたり、その中央を久慈川(くじがわ)の支流里(さと)川の谷で二分される。東側は古生層の地質をもつ多賀(たが)山地で北から南へ、800メートルから300メートルまでの緩い高原をなす。最高峰は花園(はなぞの)山西方の882メートル峰。西側は第三紀層からなる久慈山地で、高度のわりには急峻(きゅうしゅん)な地形をもっている。鍋足(なべあし)山、男体(なんたい)山はその代表である。久慈川の西側は八溝(やみぞ)山地で、本県の最高峰八溝山(1022メートル)をもち、四つの山塊を連ね、茨城県と栃木県の県境を南下し、筑波山(876メートル)に終わる。筑波山塊の中央は陥没して柿岡(かきおか)盆地となる。
 平野は常陸台地(ひたちだいち)(下総(しもうさ)台地とあわせて常総(じょうそう)台地ともいう)といい、その間に久慈川、那珂川、涸沼(ひぬま)川、恋瀬(こいせ)川、小貝(こかい)川、鬼怒(きぬ)川、飯沼(いいぬま)川など多くの河川が細長い沿岸低地をつくる。台地は洪積層で関東ローム層が表面を覆い、地力が低く水が乏しい。低地は排水不良の湿田が多く、水害を受けやすい。川の出口付近は沼沢地が多く、霞ヶ浦、北浦、涸沼などの湖沼がある。海岸線は一般に単調で、南部は砂浜海岸をなし、鹿島浦とよばれ、鹿島砂丘が発達している。北部の海岸は海岸段丘や台地が海食崖をなし、景勝地をつくっている。
 自然公園は、霞ヶ浦付近の水郷(すいごう)地帯と、関東平野に秀麗な山容を誇る筑波山とを含めた水郷筑波国定公園があるほか、県立自然公園には、花園花貫(はなぞのはなぬき)、奥久慈(おくくじ)、高鈴(たかすず)、太田、御前山(ごぜんやま)、水戸、大洗(おおあらい)、笠間(かさま)、吾国愛宕(わがくにあたご)などがある。[櫻井明俊]
気候
日本列島が北東から南西へ曲がる曲がり角にある位置と地勢の関係から、気候の地域差は大きい。気温は年平均約14℃であるが、冬の気候に特色があり、海岸から湖沼地帯は暖かく、西南日本太平洋沿岸型、北西部の山地は内陸型の寒冷地である。水戸の冬は北関東のなかでもかなり厳しい寒さをもつ。年降水量は約1300~1400ミリメートルである。風は冬の北西季節風が強く、筑波おろし、日光おろしなどとよばれ、冬野菜や麦などに寒風害をおこすことがある。夏から秋には北東風が多く、海岸から筑波山地東側まで影響を受け、東北地方冷害の南限をなすことがある。気候区は、海岸から湖沼地帯が冬は温暖な海洋性気候、西部が夏は乾燥し冬は風の強い内陸性気候、北西部山地が冬は寒冷で夏は雷雨の多い気候の3地区に区分される。水戸付近は平野と山地の漸移気候で、冬はかなり低温となる。[櫻井明俊]

歴史


先史・古代
茨城県は海陸の境をなした所が広いだけに貝塚の分布が多い。水戸市東部の大串貝塚(おおぐしかいづか)は『常陸国風土記』に巨人伝説として記され、貝塚として文献にみえる最古の記録である。また美浦(みほ)村陸平貝塚(おかだいらかいづか)は日本人が最初に学術調査(1879)した貝塚で、縄文文化時代の遺跡として著名。弥生(やよい)文化の遺跡は比較的少ないが、著名なものとしては、筑西(ちくせい)市の女方遺跡(おざかたいせき)、日立市十王台遺跡などがあり、とくに南部の平野で籾痕(もみあと)のある土器や稲穂刈り用の石包丁などが出ている。古墳数は約5000基、つくば市八幡塚(はちまんづか)古墳、石岡市舟塚山古墳、水戸市愛宕山(あたごやま)古墳、玉造(たまつくり)町三昧塚古墳(さんまいづかこふん)などの前方後円墳は湖沼や河川下流に大規模なものが多く、常陸太田市を中心に県北部には横穴古墳が多くみられる。大和(やまと)朝廷時代には、那珂(なか)、久慈、多賀(たか)、新治(にいはり)、筑波、茨城の6国がそれぞれ独立していたと考えられ、大化改新(645)のころ6国は統合されて常陸国となり、石岡に国府が置かれ、国分寺、国分尼寺(にじ)も建設され、中央と陸奥(むつ)を結ぶ駅道(うまやじ)も整った。つくば市北条(ほうじょう)付近には条里の遺構もみられる。
 平安時代には平高望(たかもち)が上総介(かずさのすけ)となり、常総に私有地を開き、これらを一門に分け与えた。のち平将門(まさかど)が乱を起こし(承平(じょうへい)の乱)、平貞盛(さだもり)がこれを平定して関東に勢力を伸ばし、甥(おい)の平惟幹(これもと)が常陸大掾(だいじょう)に任じられ、やがて大掾氏となった。しかし、平忠常(ただつね)の乱を平氏が討てず、かわって源頼信(よりのぶ)が平定したので、これより源氏の勢力が東国に伸びることとなった。[櫻井明俊]
中世
鎌倉時代には、大掾、佐竹、結城(ゆうき)、八田(はった)、小田氏ら武士団の興亡が激しく展開した。南北朝時代のころは、鹿島、行方(なめがた)地方は北朝方、その他の地域は南朝方となり、北畠親房(きたばたけちかふさ)を迎えて、小田、下妻(しもつま)、関の各氏が北朝方と戦った。佐竹氏は北朝方につき、戦国末期には佐竹氏が常陸国をほぼ統一して、太田城より水戸城に移り(1591)、城下町を整え、下総の結城氏とともにこの地方の両雄となった。これら武士団は荘園(しょうえん)を開き、産業をおこし、市場開設や交通を発達させるのに努力した。海岸の製塩業、台地の馬の牧畜、北部山地の金山開発もこの時代に始められた。[櫻井明俊]
近世
豊臣(とよとみ)秀吉に従った佐竹氏は太閤(たいこう)検地の結果、54万5800石の領地を認められ、常総第一の大名となった。しかし、関ヶ原の戦いに態度をあいまいにしたため、1602年(慶長7)徳川家康により秋田へ国替(くにがえ)を命じられ、常陸での400余年の歴史を閉じた。また江戸幕府は結城氏を福井に移す(1600)など、中世以来の旧勢力を常陸より一掃した。そのあとに水戸徳川家ほか譜代(ふだい)の大名、他藩の領地、天領、旗本領、社寺領などを配置し、しかもしばしば異動を行った。幕府のある江戸にとって常総の地の政治的重要性を示すものである。常総内諸大名は、水戸、土浦、笠間(かさま)、府中(石岡)、牛久(うしく)、下館(しもだて)、宍戸(ししど)(笠間市)、麻生(あそう)、谷田部(やたべ)(つくば市)、下妻、古河(こが)、結城の12藩と、明治にできた松岡、志筑(しづく)の合計14藩である。水戸藩は35万石の大藩で、近世を通じて近現代史に大きな影響を与えたのは、第一には、江戸幕府御三家の一つとして幕政に参与し、また2代藩主徳川光圀(みつくに)が『大日本史』の編纂(へんさん)事業を始めたこと。これにより尊皇思想がおこり、明治維新の思想的原動力となったが、他面では財政難を招いて藩内の地場産業の発展を妨げた。第二には、初代藩主徳川頼房(よりふさ)以来、各地より寄せ集めて新しく家臣団を編成したが、これが藩政の統一を欠きやすくし、幕末には藩内を二分する党争が激化して、政治力を失った。第三には、9代藩主徳川斉昭(なりあき)によって行われた藩政改革である。それは質素倹約、学校建設、財政再建、殖産興業、武備充実などで、これが天保(てんぽう)の改革や勤皇運動に影響を与えたのである。
 近世の常総地方は政治、行政上では細分化されて統一性を与えられなかった。しかし、湖沼、河川の豊かさを利用して、水運交通を中心に産業、文化の進展がみられた。たとえば、奥州諸藩の米は海路、那珂湊(なかみなと)に入り涸沼を経て陸送後、北浦を南下し潮来(いたこ)から利根川、江戸川を通って江戸に輸送された。霞ヶ浦の北岸には小川、高浜、土浦、玉造、麻生などの河岸(かし)町が発達し、潮来はその要(かなめ)となり繁栄した。鬼怒(きぬ)川は常総から北関東奥地までの物資を集めて江戸に輸送し、久保田(結城市)、宗道(そうどう)(下妻(しもつま)市)、石下(いしげ)・水海道(みつかいどう)(常総市)の河岸町がにぎわった。このほか、那珂川、久慈川などの水路も利用されている。
 これに対し陸路では水戸からの江戸街道(水戸街道)が中心となった。しかし、商品輸送には水路が多く利用され、現在の地方町のおこりには、宿場町よりも河岸町が多いのも常総の特色である。主要物産には、結城・真壁(まかべ)地方の紬(つむぎ)・木綿(もめん)、北部山地の和紙・コンニャク、土浦・石岡の酒としょうゆ、笠間の陶器、猿島(さしま)地方の茶、土浦地方の藺草(いぐさ)・灯心などがあった。また、北部山地の金銀銅や大理石、幕末には石炭も掘り出された。[櫻井明俊]
近・現代
水戸藩では、天狗党(てんぐとう)は1865年(慶応1)敦賀(つるが)(福井県)で、諸生(しょせい)党は1868年(明治1)弘道館(こうどうかん)の戦いのあと八日市場(千葉県)で滅び、党争と藩政に終止符を打った。明治維新の廃藩置県(1871)で各藩および天領は15県となり、のちに茨城、新治(にいはり)、印旛(いんば)、木更津(きさらづ)の4県となったが、1875年統合して現在の茨城県が成立した。そのとき下総では、猿島、結城、北相馬の3郡が茨城県に、ほかは千葉県に編入された。やがて地租改正と農民の大規模な一揆(いっき)、豪農や士族による自由民権運動とが常総の地域に展開し、加波山事件(かばさんじけん)(1884)を引き起こしたが失敗した。これより半世紀を経た昭和初期は、世界的な経済恐慌の下にあった。昭和維新の気が生じて、血盟団事件や五・一五事件が起こり、農本主義の愛郷塾(あいきょうじゅく)など本県民のかかわりも大きかった。行政面では、1889年(明治22)の市町村制施行で1市18郡39町336村となり、水戸市は東京、横浜とともに関東では最初の市の一つになった。産業経済面では、1889年に水戸―小山(おやま)(栃木県)間に水戸鉄道会社による水戸線が通じ、1896年には常磐線も開通して交通の近代化が進んだ。しかし、陸上交通と海上交通とは、自然条件の障害ではるかに遅れた。また、常磐炭田は常磐線によって開発が促進された。明治末の日立鉱山と日立製作所の成立は、日立地方を近代的鉱工業地帯として発展させた。一方、農業は土地と交通の条件により発展が遅れ、広大な平地林を残したままで過ぎた。しかし、高度経済成長期より、これらの土地は用地として大規模開発に利用された。日本原子力研究所(現、日本原子力研究開発機構)の設置、鹿島港と鹿島開発、筑波研究学園都市などを通じて、ようやく近代化を始めたのである。[櫻井明俊]

産業

長く農業中心であったが、1960年代以降、道路交通の発達と平地林の地域開発を軸として工業化、都市化が進んできた。[櫻井明俊]
農業
県面積の31.1%が耕地(19万ヘクタール)で、農業就業人口19.2万人(1995)。全国屈指の農業県であるが、しかし水の乏しい関東ローム層の台地の畑と、裏作のできない低湿な水田を基盤としている悩みをもっている。
 米作は9.6万ヘクタール、45万トンの生産があり、全国第7位の米産県である。水稲の不足を陸稲で補う傾向は残り、全国一の陸稲産地。作付面積でみると、1965~1995年の30年間に、麦類は10分の1(8400ヘクタール)となり、全国第1位から第5位に下がった。サツマイモは2分の1(7800ヘクタール)に減少したが全国第2位を保っている。このサツマイモのようなタイプの作物が多いのが本県の特色である。工芸作物の茶、葉タバコ、コンニャクはいまなお多く、和紙生産に欠かせないトロロアオイの特産も残っている。ラッカセイも10分の1となったが千葉県に次いで第2位は変わらない。
 園芸作物は道路交通の発達と東京市場の拡大によって急増した。ハクサイ、ゴボウ、蓮根(れんこん)など地の利を得て全国第1位を保つほか、ピーマン、露地メロン、トマト、ナスやミツバ、ニラなども第1、第2位。近年冬、春のレタスやカリフラワーなどの洋菜も第1位となった。それぞれ特産地を形成し、首都圏内の大野菜供給地となった。果樹は増加した。クリ栽培は全国第1位、筑波山地東側の台地に多く、日本ナシは第2位、筑西(ちくせい)市とかすみがうら市を中心に主産地を形成している。花卉(かき)類も増加してきた。切り花ではキクのほか、グラジオラス、フリージアが多く、またグラジオラス球根栽培は特産地となり、輸出用とされている。ゴルフ場の増加に対して芝の栽培も多く、つくば市が中心産地である。[櫻井明俊]
畜産業
養豚は平成年代に入り減少傾向にあり、飼養戸数は多いが、頭数は全国第2位。もともと養豚はサツマイモとデンプン加工の発展に関連して成長した。乳牛は1941年(昭和16)に石岡付近から始まり、台地、山地、利根川堤防に地形を利用した酪農として発達した。北部山地の馬産地帯は、肉牛の飼育に転じ、常陸牛の銘柄で統一を図っている。養鶏、ブロイラーも増加したが、畜産公害を防げる広大な土地の存在が有利な条件である。養蚕業は農家数、桑園、収繭(しゅうけん)量ともに全国第5~6位にある。[櫻井明俊]
林業
林野面積は18.9万ヘクタール(2007)。用材としての資源は貧弱であるが、八溝山付近は針葉樹林が多く、林業も盛んである。ナラ、クヌギなどの広葉樹は多く、平野部の台地でもこれらが平地林をなして特色づけている。林野副産物としての薪炭は減少したが、クリの実は全国第1位。シイタケ栽培は山地にも平地にも広くみられ、生シイタケは全国有数。また造林用杉苗木の生産も多い。[櫻井明俊]
水産業
160キロメートルの海岸線をもちながら大型漁船の出入港がなく、市場との距離も遠いので明治時代以後、漁業は不振を続けたが、日立の久慈港に始まり那珂湊(なかみなと)、大洗(おおあらい)、波崎(はさき)、大津など漁港の築港や改修が進み、1983年以降は全国有数の漁獲量をもつ水産県となった。漁獲量の80~90%はイワシという特色がある。そのほか、サンマ、サバ、アジなど沖合・沿岸漁業が主。漁港のうち、漁獲量の最大は波崎、底引網漁業の平潟(ひらかた)(北茨城市)は郷土料理向けのアンコウ、大洗はシラスなどが特色。淡水漁業も全国上位で霞ヶ浦のハゼ、ワカサギとコイや淡水真珠の養殖が盛大。那珂川のサケ、久慈川のアユ、涸沼(ひぬま)のシジミも有名である。[櫻井明俊]
鉱工業
常磐南部炭田は1973年(昭和48)3月櫛形(くしがた)鉱(現、日立市十王町地区)の閉山により、銅の日立鉱山は1981年9月の閉山により、いずれも明治以来の歴史を終えた。日立市の大平田(たいへいだ)石灰石鉱山は日立のセメント工業の原料産地、また笠間(かさま)市、桜川(さくらがわ)市の花崗岩(かこうがん)石材は東日本最大の産地である。
 近代工業は日立と鹿島地区に偏在し、かつ重化学工業が出荷額の約70%を占め、大規模工場が多いという特色をもつ。日立工業地域は、銅山と精銅生産に起因する電線(非鉄金属)工業と電気機械器具工業の両者をもつ日立製作所系の企業の発展を基盤とする。1994年(平成6)、非鉄金属は3100億円、電機は5985億円で、両者は市の出荷額の60%を占め、これに機械4611億円を加えると90%となり、さらに絶縁物の日立化成工業などの関連工業を加えると、日立市が日立製作所を中心とする工業都市の性格が明らかであろう。鹿島、神栖(かみす)地区は掘込み式の鹿島港中心に1969年以後に成立した。鉄鋼、石油化学、電力の臨海性の工業地域である。生産開始5年後の1974年に、この両地区あわせた出荷額は日立市を抜いて本県第1位となった。しかし1980年以後、鉄鋼の不況により停滞し、1993年には日立市に追い抜かれて第2位となった。このほか、ひたちなか市は早く、取手市は近年、ともに日立市に次ぐ電機工業都市となった。土浦・石岡両市は機械と電線、筑西市(ちくせいし)はプラスチックとコンクリート、高萩(たかはぎ)・坂東(ばんどう)両市は製紙工業が特色。また古河(こが)・総和地区は食料品・自動車・プラスチック・金属などの工業地区となり、龍ケ崎市(りゅうがさきし)も機械工業が盛大である。
 在来工業は振るわないが、そのなかで結城市(ゆうきし)の結城紬(つむぎ)は伝統産業として著名。これに対し常総市(じょうそうし)石下(いしげ)地区の石下紬は明治末期に絹綿交織の技術開発と、機械化工場制によって紬の低廉化に成功した。第二次世界大戦後は高級志向により1955年から純絹になった。笠間焼は家庭用の水がめ、すり鉢、茶碗(ちゃわん)など実用品を主としたが、需要の変化と栃木県の益子焼(ましこやき)の影響もあって、花器、茶器などの民芸品に転じた。真壁地方は良質の花崗岩を産出し、真壁石灯籠は結城紬、笠間焼とともに国の伝統的工芸品に指定されている。鬼怒(きぬ)川沿いや石岡周辺では桐(きり)材を産し、桐だんす、桐下駄(げた)の生産が多かった。これも需要の変化で衰え、結城だけに桐だんす工業が残っている。水運時代に発達した醸造業は現在も河川、湖沼沿岸の町に多く、石岡は醸造業(酒、しょうゆなど)が集中している。下館地区には米を原料とする製菓業が多く、これも伝統的である。[櫻井明俊]
地域開発
未開発の土地が広く残され、県南部の平野地帯では20~30%がいまも山林原野のままである。第二次世界大戦後は農業開発が進み、とくに新利根川灌漑(かんがい)排水事業は国営として20年をかけて、約8000ヘクタールの耕地を整備した。次は東海、大洗の海岸地帯に原子力研究施設群を設置している。そして高度経済成長期には日立港築港を成功させ、さらに鹿島砂丘地帯を開いて鹿島港と臨海工業地域を造成した。また筑波台地には、筑波研究学園都市を開き、国の研究機関と二つの国立大学を移した。1985年には「国際科学技術博覧会」(科学万博―つくば'85)が開催された。また、旧水戸射爆場跡地に開港した常陸那珂港の整備が進められ、流通機能と文化機能をもつ新都市も建設中である。2008年には県北の3港(日立港、常陸那珂港、大洗港)を統合して茨城港とし、同港は重要港湾に位置付けられている。[櫻井明俊]
交通
近世に発達した水運交通は、いまも残る多くの河岸(かし)町を繁栄させた。河川交通は大正時代までに衰退し、最後まで残った霞ヶ浦の土浦―潮来間の水郷汽船も、定期船は1975年(昭和50)に廃止され、遊覧船だけとなった。国鉄(現、JR)では1885年(明治18)東北本線が古河を通り、小山から水戸までの水戸線が1889年に開通。1897年に常磐線が県内を走り、また明治末期までに水郡線(すいぐんせん)の一部、真岡(もおか)線(真岡鉄道)ができ、水郡線の全通は1934年(昭和9)である。民鉄は大正時代から昭和初期までに常総(関東)鉄道、鹿島参宮(鹿島)鉄道、湊(みなと)(茨城交通)鉄道、竜ヶ崎(関東)鉄道、常北(日立)電鉄、常南電鉄、水戸電鉄、茨城鉄道、筑波鉄道などが通じた。このうち常南電鉄、水戸電鉄、日立電鉄、茨城鉄道、筑波鉄道、鹿島鉄道の各線は廃止されている。なお、1985年(昭和60)には第三セクター鹿島臨海鉄道の大洗鹿島線、水戸―北鹿島(現、鹿島サッカースタジアム、JR鹿島線に接続)間が開通し、2005年(平成17)には第三セクターの首都圏新都市鉄道によるつくばエクスプレス(秋葉原―つくば)が開通した。陸路では陸前(りくぜん)浜街道が国道6号として整備され、他の重要国道も整備が進んでいる。常磐自動車道の県内区間は全通し(三郷(みさと)―いわき中央1988年開通)、北関東自動車道も2011年に全線開通し、東関東自動車道(東関道)水戸線と、首都圏中央連絡自動車道(圏央道。一部未開通)が通じる。また空路では、2010年に小美玉(おみたま)市に茨城空港(百里飛行場)が開港した。[櫻井明俊]

社会・文化


教育文化
常総諸藩のなかでももっとも学問の盛んであった水戸藩は、徳川光圀(みつくに)が彰考館(しょうこうかん)を設けて『大日本史』の編纂(へんさん)を始め、史学をおこした。幕末、徳川斉昭(なりあき)によって藩校弘道館が開かれ、文武を中心に理・医・薬学を含めた一種の総合学園として「水戸学」の中心となった。そのほか、古河の盈科堂(えいかどう)、土浦の郁文館(いくぶんかん)などがあり、庶民の教育施設では水戸藩内の15の郷校などがあった。近年、教育文化の面は急速に充実発展している。中学校から高等学校への進学率は2008年度(平成20)に98%に達した。また2008年度の大学への進学率は51%である。大学は国立では茨城大学、筑波大学、筑波技術大学、県立では県立医療大学、私立では流通経済大学、茨城キリスト教大学、常磐(ときわ)大学、つくば国際大学、筑波学院大学、日本ウェルネススポーツ大学の計10校、短期大学は私立4校がある(2012)。水戸、日立地方が主であるが、筑波研究学園都市の建設で南部にも多くなった。
 社会教育施設では、1929年(昭和4)大洗町に篤志の設立で始まった常陽明治記念館(じょうようめいじきねんかん)(現、幕末と明治の博物館)がある。水戸にある県立文化センター、県立図書館、県立歴史館を中心に、県内には文化会館、図書館、博物館、歴史民俗資料館、視聴覚ライブラリーなどがある。水戸、日立、土浦、石岡など常磐線沿線の都市と県西部地方に多い。[櫻井明俊]
生活文化
衣服は第二次世界大戦前までは古いしきたりが残っていた。以下、1937~1938年(昭和12~13)ごろのようすをみることにする。生まれた子に初めて着せる産着は、麻の葉模様の長着を着せるのが多かった。県南では「いなぎ」という晒木綿(さらしもめん)の袖(そで)なし襦袢(じゅばん)を着せた。七五三の祝いは、県北では行わない村が多く、県西でも質素で7歳の祝いだけをした。県南も多くは質素だったが、江戸崎、龍ケ崎や鹿島(かしま)郡の波崎などの町では、かなりぜいたくに祝う風があった。当時の小学校女子教員の洋装率をみると、取手(とりで)など北相馬郡は100%、古河など猿島(さしま)郡は80%以上、水戸市と久慈郡も80%以上、土浦、石岡、新治(にいはり)郡と那珂(なか)郡、結城(ゆうき)郡が60%以上で、真壁(まかべ)、東・西茨城郡から鹿島郡は40%以下、とくに行方(なめがた)郡は20%以下であった。農作業服は、男子は半襦袢に股引(ももひき)、女子は半襦袢に裾除(すそよけ)をつけ、いずれも手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)を着けて、女子は半幅帯を締めた。男子は青縞(あおしま)木綿、女子は染絣(そめがすり)、または木綿絣でつくった。もんぺは、東北地方に続く県北の山地で一般に使用され、久慈(くじ)川中流以南では一部の村で一部使用されていた。
 日常の食物は麦飯を主食とするものが多く、1935年(昭和10)の調査では全市町村のうち81.4%、米飯はわずか18.6%にすぎなかった。中・上流家庭では白米が53%で、稲敷郡など米産地に多く、7分3分の麦飯は33%、西茨城、久慈、筑波(つくば)郡に多かった。小作人やこれに準ずる家庭では白米が34%、7分3分の麦飯が28%、5分と4分6分の麦飯はあわせて26%。主食の地方差はかなり大きく、陸稲米やアワ、ヒエ、ソバ、サツマイモなどを食べて米飯を減らすくふうが多くみられた。米飯が普及するのは戦時中の配給米制度が大きな役割を果たした。特殊料理でいまも残る有名なものには、真壁、結城、筑波、西茨城郡の「すみつかり」である。二宮尊徳が奨励したと伝えられている。県北の焼餅(やきもち)は米のない地方の常食とされ、鹿島地方のござい漬けも知られている。
 住居は直家(すごや)が一般的で、土間といろり、四つ目型の座敷に回り縁(えん)をもった形式が多い。曲屋(まがりや)は、東北地方に続く馬の産地に関連して県北に多かった。常陸太田(ひたちおおた)市や東海村、ひたちなか市の平地の一部でも50~60%の曲屋がみられたが、いまは改造されたり、なくなったりしている。常陸大宮(おおみや)市の伊勢畑(いせはた)付近はかつて70%、いまもかなり多くみられるが、馬小屋の部分は変わっている。県南でも所々にみられ、守谷(もりや)町(守谷市)などは多かった。屋根の材料はかや葺(ぶ)きが普通である。しかし、日立海岸地方では瓦(かわら)屋根が多かった。県南の海岸のかや葺きでも棟(むね)だけは瓦で葺いたのは、海風との関係とみられる。冬の西風の強い県西では、カシの生け垣、霞ヶ浦沿岸から鹿島地方の暖地ではマキの生け垣が特徴的である。また西茨城郡、とくに水戸線の沿線では長屋門を構える農家がいまでもかなり多く残っている。[櫻井明俊]
民俗芸能
年中行事では、元日には、男が先に起きて井戸神に米や餅を供え、若水を汲(く)んだ。常陸大宮市、かすみがうら市、筑西(ちくせい)市など県内各地で行われた。7日の朝は「ななくさなずな、唐土(とうど)の鳥の、渡らぬ先に、ストトントントン」と唱えながら包丁で七草を切り、七草がゆをつくる。1月14、15日の小正月(こしょうがつ)には、繭玉(まゆだま)、鳥追い、成木責(なりきぜ)めなど豊作を祈る行事がある。また、鳥追いのあとの「どんどん焼」も楽しみの一つであった。節分には大豆がらにイワシの頭を刺したヤツカガシというものを、門口や裏口に刺して、豆まきをして鬼を払い、悪魔除(よ)けして春を迎える。盆になると、仏を迎えるため、ハカナギといって墓掃除をする。7月1日が多く、この日はまた「地獄の釜(かま)のふたあき」で、仏が地獄を出発する日でもあった。7月10日に久慈川、那珂川流域では、大助人形(おおすけにんぎょう)(お鹿島さま)の行事が近年まであった。霞ヶ浦沿岸では、藁(わら)やマコモで綱をつくり、墓地へ運び、祖先の霊をのせて各家々に子供たちが持ち帰り、仏を迎える盆綱という珍しい行事がある。8月1日は八朔祭(はっさくまつり)といって、嵐(あらし)や風除けを祈る行事で、県西に多い。大洗町の大洗磯前(いそさき)神社のこの祭も有名。秋の農作業に感謝する祭りのトウカンヤ(十日夜)は県西に、タノカミサマ、カリアゲは県北に、イノコは県南東部に多い。
 郷土芸能では2009年にユネスコの無形文化遺産に登録された日立市の「風流物(ふりゅうもの)」(国指定重要無形民俗文化財)が著名である。神峰(かみね)神社の祭りに、城の形を表した巨大な山車(だし)(高さ15メートル)を出し、その上で演出される人形芝居はみごとである。また、つくばみらい市の愛宕(あたご)神社祭礼の「綱火(つなび)」は、小張(おばり)松下と高岡の2派があるが、操り人形と仕掛け花火を組み合わせた火祭で国指定重要無形民俗文化財。土浦(つちうら)市の鷲(わし)神社の「大畑のからかさ万灯(まんどう)」(国選択無形民俗文化財)も、唐傘に仕掛け花火をした、いずれも豊作を祈る火祭である。県内各地に「ささらばやし」が多く残り、県指定無形民俗文化財となっているが、なかでも水戸市の「大串(おおくし)のささらばやし」と「大野のみろくばやし」は国選択無形民俗文化財である。また、常陸太田市の西金砂(にしかなさ)神社と東金砂神社には田楽舞(でんがくまい)が伝わり、「金砂田楽」として国選択無形民俗文化財となっている。このとき神輿(みこし)に前駆する「火消行列」は県指定無形民俗文化財。このほか、鹿島神宮の春の祭頭祭(さいとうさい)、秋の神幸祭(しんこうさい)(12年に一度御船祭(おふなまつり))は雄壮な祭りでにぎわうし、那珂市の鹿島神社の大助祭(おおすけまつり)は提灯(ちょうちん)祭ともいわれ、人形おくりと鹿島信仰の結合といわれている。桜川(さくらがわ)市の楽法寺(らくほうじ)(雨引観音(あまびきかんのん))に残るマダラ鬼神祭は珍しい祭りである。民間信仰のなかで地方性のあるものにアンバ信仰がある。稲敷(いなしき)市阿波(あば)にある大杉神社が発祥地という。疱瘡除(ほうそうよ)けと海上安全の二面から広まり、湖沼、河川、海岸地方に信者が多い。[櫻井明俊]
文化財
神社建築では、鹿嶋市にある創建の古い鹿島神宮があげられる。現在の本殿は徳川秀忠(ひでただ)の寄進による三間社流造(さんげんしゃながれづくり)。ほかに拝殿、幣殿(へいでん)、楼門(ろうもん)、仮殿(かりどの)および摂社奥宮本殿など、すべて国指定重要文化財で、荘厳な建造物である。水戸市の八幡宮(はちまんぐう)本殿は入母屋造(いりもやづくり)で佐竹氏が、下妻(しもつま)市の大宝(だいほう)八幡神社本殿は三間社流造で多賀谷氏が建立した。いずれも安土(あづち)桃山時代のものである。
 寺院建築ではあまり大きなものはない。常陸太田市の佐竹寺本堂は天文(てんぶん)年間(1532~1555)に現在地に再建された。水戸市の薬王院(やくおういん)本堂もほぼ同時代。このほかでは、桜川(さくらがわ)市の小山寺(おやまじ)三重塔、笠間(かさま)市の楞厳寺(りょうごんじ)山門(寺の裏山は、国指定天然記念物片庭ヒメハルゼミの発生地)、行方(なめがた)市西蓮寺(さいれんじ)仁王門と相輪(そうりんとう)があり、いずれも国指定重要文化財。新しいものでは徳川斉昭(なりあき)が創立した弘道館(特別史跡)や、土浦市の旧茨城県立土浦中学校本館、常陸太田市の旧茨城県立太田中学校講堂も国指定重要文化財。
 絵画には、『拾遺古徳伝(しゅういことくでん)』が那珂(なか)市瓜連(うりづら)の常福寺に9巻、鉾田(ほこた)市の無量寿(むりょうじゅ)寺に1巻が残る。いずれも鎌倉末期の絵巻物。『聖徳太子絵伝』は坂東(ばんどう)市の妙安寺、那珂町の上宮(じょうぐう)寺にあり、鎌倉末期の大和絵(やまとえ)の手法を残している。土浦市の法雲(ほううん)寺には多数の貴重な文化財があり、復庵和尚(ふくあんおしょう)像、高峯和尚像などはその例。龍ケ崎市の金龍(きんりゅう)寺には『十六羅漢(らかん)像』16幅がある。
 彫刻では、城里(しろさと)町の薬師(やくし)寺にある薬師如来坐像及両脇侍(にょらいざぞうおよびりょうわきじ)像の日光菩薩(にっこうぼさつ)、月光(がっこう)菩薩が有名。中尊は鎌倉初期のもので、県内では最優秀の一つとされている。そのほか、薬師如来坐像は常陸太田市の西光寺、土浦市の常福寺、笠間市岩谷(いわや)寺などにあり、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)立像は、桜川市の楽法寺、筑西(ちくせい)市の観音(かんのん)寺など、いずれも平安後期から鎌倉時代の作が多く、いずれも国指定重要文化財。工芸品では鹿島神宮の国宝直刀(平安時代)のほか、梅竹蒔絵鞍(まきえくら)は鎌倉時代の作といわれる。なお、無形文化財には国指定の結城紬(平織)と県指定の結城紬(縮織)および西の内紙(手漉(てすき)和紙、常陸大宮市)がある。[櫻井明俊]
伝説
代表的な伝説は「平将門(まさかど)」である。反逆者の将門を祀(まつ)る神社は驚くほど多いが、いまも民間信仰の対象となっている根底に、怨霊(おんりょう)を恐れる御霊(ごりょう)信仰が存在する。また、将門を裏切ったと伝える愛妾桔梗(ききょう)にまつわる「咲かずの桔梗」の伝説も、桜川(さくらがわ)市をはじめ関東各地にある。筑波山麓(さんろく)には蚕の由来を語る「金色姫(こんじきひめ)」の伝説が流布されている。継母の難を逃れて「うつぼ舟」で海流に漂い日立の小貝ヶ浜に漂着した姫の屍(しかばね)から蚕が生まれたという。筑波山麓の土浦市新治地域には「子育て幽霊」が伝えられている。幽霊の子が成長して、頭白(ずはく)上人という高僧になったという。常総(じょうそう)市の羽生(はにゅう)は累(かさね)の伝説で有名な所である。醜女のうえ嫉妬深い累が、夫与右衛門(よえもん)に殺されてその怨霊がたたるが、祐天上人(ゆうてんしょうにん)の祈りで解脱(げだつ)するという物語は、歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)などに脚色されて知られ、同地法蔵寺には累の墓がある。県南に利根川が縦横に走るが、その周辺には「河童(かっぱ)伝説」がある。多くは「河童の駒(こま)引き」の形で、馬にいたずらした河童が腕を切られ、片腕を返してもらう礼に傷薬の処方を教えたという筋立てである。霞ヶ浦沿岸の川戸(かわど)(小美玉(おみたま)市)の家伝薬はとげ抜き薬、久慈川河畔の岩瀬(常陸大宮市)に伝える万応膏(まんのうこう)など、みな家伝の妙薬を河童から伝授されたと伝えている。その効能書きに「化膿(かのう)せる切り傷、はれものに効能あり」とある。河童の詫(わ)び証文と称するものを保管している家も数か所ある。利根町は千葉県との県境にある町であるが、ここの加納(かのう)新田の加納家は、禰々子(ねねこ)という女河童を祀る旧家として知られている。この河童は関八州の元締めとして恐れられたという。鹿島神宮の七不思議の一つの「要石(かなめいし)」は、地底の大魚の頭尾を石の根で押さえるため地震がおこらないという、古代の世界観に基づく信仰から生まれた伝説である。なお、古河市中田の光了(こうりょう)寺には「静御前(しずかごぜん)」に関する伝説があり、その遺品を伝えている。また、利根町布川(ふかわ)神社には「あまんじゃく」伝説がある。[武田静澄]
〔東日本大震災〕2011年の東日本大震災では日立市など8市で震度6強を観測、津波被害の大きかった県北沿岸部を中心に県全体では死者66人・行方不明1人、住家全壊2632棟・半壊2万4999棟を数えている(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第157報)」平成30年3月7日)。
『茨城大学教育研究所編『茨城県郷土研究』(1953・茨城県教職員組合) ▽『茨城県史料』17冊(1967~1979・茨城県) ▽『日本地誌5 関東地方総論 茨城県 栃木県』(1968・二宮書店) ▽『日本の文化地理4』(1971・講談社) ▽『ふるさとの文化財』(1972・茨城県) ▽『茨城県史市町村編』3冊(1972~1981・茨城県) ▽瀬谷義彦他著『茨城県の歴史』(1973・山川出版社) ▽藤田稔著『日本の民俗 茨城』(1973・第一法規出版) ▽『茨城県の歴史散歩』(1974・山川出版社) ▽今瀬文也・武田静澄著『茨城の伝説』(1979・角川書店) ▽『茨城県大百科事典』(1981・茨城新聞社) ▽『日本歴史地名大系8 茨城県の地名』(1982・平凡社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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