デジタル大辞泉
「ルイ」の意味・読み・例文・類語
ルイ(Louis)
フランス国王の名。
(9世)[1214~1270]在位1226~1270。諸侯の反乱を抑えて王権を拡大。ソルボンヌ神学校を創設。第7回・第8回十字軍に参加し、チュニスで病没。聖ルイ。聖王。
(11世)[1423~1483]在位1461~1483。シャルル7世の子。諸侯の力を抑えるとともに王領を拡大し、絶対王政の基礎を確立した。駅逓を創設。
(13世)[1601~1643]在位1610~1643。アンリ4世の子。1624年、宰相リシュリューを登用、貴族・プロテスタント勢力を抑圧し、ブルボン王朝の基礎を固めた。正義王。
(14世)[1638~1715]在位1643~1715。の子。宰相マザランの死後、親政。コルベールを登用して財政を再建し、重商主義政策を推進、しばしば対外戦争を起こして植民地を拡大する一方、文化面でも学芸の奨励、ベルサイユ宮殿の建設などを行い、ブルボン王朝の最盛期を現出した。「朕は国家なり」という言葉を残した典型的な絶対主義君主。太陽王。
(15世)[1710~1774]在位1715~1774。の曽孫。七年戦争で敗れ、インド・カナダの植民地を失い財政の窮乏を招いた。
(16世)[1754~1793]在位1774~1792。の孫。チュルゴー・ネッケルらを登用、財政再建に努めたが成功せず、三部会の召集を強要され、それを機にフランス革命が勃発。国外逃亡に失敗して王権を停止され、国民公会から「国民への敵対行為」の罪に問われ処刑された。
(18世)[1755~1824]在位1814~1824。の弟。フランス革命で亡命し、ナポレオン失脚後の王政復古で即位。王党派の行きすぎた反動を抑え、貴族と市民階級の対立の緩和を図った。
ルイ(Ruwi)
オマーンの首都マスカットの一地区。ビジネス街、金融街としても知られる。国立博物館、軍事博物館がある。
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ルイ
- ( Louis )
- [ 一 ] 九世。フランス国王(在位一二二六‐七〇)。ルイ八世の子。フィリップ二世の事業を継いで集権化を進める一方、ノルマンディー・アンジュー・メーヌ・ポァトウ地方を獲得。また、ソルボンヌ神学校(のちのパリ大学)を設立、学問・芸術の振興に努めた。第七次・第八次の十字軍に参加し、チュニスで病没。聖ルイと呼ばれる。(一二一四‐七〇)
- [ 二 ] 一一世。フランス国王(在位一四六一‐八三)。シャルル七世の子。百年戦争後巧妙に諸侯の力を抑え、ブルゴーニュ・メーヌ・アンジュー・プロバンスを合わせて王国を統一、郵便制度、民兵制度などを改革して中央集権的身分制国家の確立に努めた。(一四二三‐八三)
- [ 三 ] 一三世。フランス国王(在位一六一〇‐四三)。アンリ四世の子。リシュリューを登用して、貴族勢力の打倒、ユグノーの弾圧、国際的地位の向上を図った。特にハプスブルク家と対抗してブルボン王権の基礎を確立した。(一六〇一‐四三)
- [ 四 ] 一四世。フランス国王(在位一六四三‐一七一五)。ルイ一三世の子。幼少期は母后アンヌ、宰相マザランが摂政。一六六一年以後の親政期にはコルベールを登用、王権神授説を唱え、国内的には中央集権・重商主義政策を遂行、対外的にはフランドル戦争・オランダ戦争・ファルツ継承戦争・スペイン継承戦争を行ない領土の拡大を図った。文化的にはベルサイユ宮殿を中心とするフランス文化の黄金時代にあたり太陽王と呼ばれたが、度重なる戦争のために財政が窮乏、また、ナントの勅令の廃止によってユグノーの国外逃亡を招き産業上の打撃をうけて治世の晩年には絶対主義の矛盾が顕在化した。(一六三八‐一七一五)
- [ 五 ] 一五世。フランス国王(在位一七一五‐七四)。ルイ一四世の曾孫。ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争に干渉して国力を疲弊させ、さらに七年戦争に敗れてカナダ・インドの支配権を失った。ポンパドゥール夫人らを寵愛して奢侈にふけり、重税で国民を圧迫したため民心が離反し、絶対王政解体のきざしがみえ始めた。(一七一〇‐七四)
- [ 六 ] 一六世。フランス国王(在位一七七四‐九二)。ルイ一五世の孫。チュルゴー、ネッケルを登用して財政改革を図ったが失敗。一七八九年三部会を召集したが、大革命が勃発、一七九一年国外逃亡に失敗して憲法の承認を余儀なくされたが、その後も反革命の企図を捨てず、一七九二年王権を停止され、翌年一月裏切者として処刑された。(一七五四‐九三)
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ルイ(14世)
るい
Louis ⅩⅣ
(1638―1715)
フランス王(在位1643~1715)。大王le Grandまたは太陽王le Roi Soleilと称されたブルボン王朝最盛期の王。
彼は、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの第1王子として1638年9月5日に生まれた。幼少で即位したため、母后アンヌ・ドートリッシュが摂政(せっしょう)となり、宰相にマザランを用いた。王が10歳のときパリ高等法院の反抗に発する「フロンドの乱」に直面してパリを脱出、国内を転々とした。この幼少期の不安と恐怖の記憶はその後の王の人間形成に根深い影響を与え、貴族と高等法院を憎み、騒乱の地パリそのものを嫌悪する感情を植え付けた。成人後もマザランが実権を握り、1659年スペインとピレネー条約を結んだとき、王はスペイン王女マリア・テレサ(1638―1683)と政略結婚した。
[千葉治男]
マザラン死後の1661年、王は親政を実現し、自ら定めた「王の仕事」に規則的に取り組んだ。国家統治や戦争政策から、狩りや音楽、舞踏、玉突きなどの趣味に至るまで、その仕事を精力的にこなすだけの体力の持ち主でもあった。人間不信感の強い王は、特定の宰相に政治を一任することはなく、起用する腹心も名門貴族を避け、相互に牽制(けんせい)させて強力な実権者の出現を防いだ。「卑しい町人どもの政治」(サン・シモン)といわれるゆえんである。もちろん、親政は、リシュリューからマザランによって進められた集権的行政官僚制のうえに築かれたのであり、王はそれをいっそう強化するとともに、地方特権と慣行をしだいに縮小し、王権の国家公権力性を高めた。「朕(ちん)は国家である」という有名なことばがある。王がこの語を発したという証拠はない。しかし、この語がふさわしい政治状況がその治世につくられたのである。
[千葉治男]
親政初期は、国家財政の樹立と不況からの脱出が重要課題であった。それまで王国には王家の家計はあっても国家財政は存在しなかった。また、17世紀は生産、流通、消費が停滞し、疫病流行と凶作の年が周期的にみられる世紀であった。そのため、財務総監にコルベールを起用した。コルベールは海洋植民帝国の構想を掲げ、貿易振興と産業育成、植民活動の促進と間接税の増徴をもって不況克服と財政健全化を図った。目標を先進国オランダに置き、高関税政策をもって挑戦した。この結果起こったオランダ戦争(1672~1678)は、ナイメーヘンの和約によって終わった。それはコルベール政策の挫折(ざせつ)を意味したが、ルイ14世にとっては最盛時代への幕開きとなった。
1682年、宿願のベルサイユ新宮殿へ移った王は、モンテスパン夫人から隠れた王妃マントノンに至る寵妾(ちょうしょう)を従え、多くの諸侯に奉仕を強いる宮廷生活を繰り広げた。親政は、対内的には「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」をその方針としていたが、それは政治的、文化的斉一化政策となって現れる。国王行政官僚は身分的、職域的、地域的な諸特権に介入してその縮小を試み、アカデミー・フランセーズを通じて文化の規格化、序列化と言語の統一が進められた。そのため、地方の伝統的慣行と文化や方言はしだいに圧迫され、固有の文化伝統をもったブルターニュの住民は1675年、印紙税一揆(いっき)を引き起こした。
一方、親政の対外政策は、コルベールの構想を退けて「大陸帝国」の実現に向けられた。そのため、ル・テリエさらにその子ルーボアを起用し民兵制による陸軍力を強化して、ハプスブルク勢力を圧倒する大陸制圧政策を強行した。「私は戦争を好む」と語る王の親政54年のうち、31年は戦争のときである。戦争はまず、王妃の権利を利用したフランドル戦争(別名帰属戦争、1667~1668)に始まり、オランダ戦争、プファルツ戦争(別名アウクスブルク同盟戦争、1688~1697)を経て、晩年のスペイン継承戦争(1701~1714)に至る。それはヨーロッパ最高の君主の座を目ざすルイ14世の野望の表現でもあった。
[千葉治男]
親政のなかでも最大の焦点となった問題は、宗教対策である。「唯一の宗教」を目ざす王は、まず異端ジャンセニストを抑圧したが、1680年代には国内ユグノーに対する大弾圧を開始した。そして、1685年、信教の自由を約したナントの王令(勅令)を廃止した。この行為は内外世論の激しい批判を受け、国際的に孤立するだけでなく、国内においても反発は根強く、やがて南フランスのユグノー農民による「カミザールの大反乱」(1702~1709)を誘発する。諸国はルイ14世の政策に反対しアウクスブルク同盟を結んだが、フランスの同盟者であったイギリスのジェームズ2世が名誉革命(1688)で失脚すると、イギリスを加えて一斉に反フランスの戦い(プファルツ戦争)を開始した。戦いは1697年ライスワイクの講和をもって終わり、ルイ14世の制圧政策はここに阻止され、王の威光はようやく落日へと傾く。
1700年、王孫アンジュー公がスペイン王位を継承すると、ふたたび反フランスの戦い、いわゆる「スペイン継承戦争」が開始された。戦争は泥沼の長期戦となり、国内の反乱や大厳冬(1709)の飢饉(ききん)も加わって、ルイ14世の時代は悲惨のなかに終わる。王は、1715年9月1日、77歳で没した。
[千葉治男]
ルイ(16世)
るい
Louis ⅩⅥ
(1754―1793)
フランス王(在位1774~92)。ルイ15世の孫。オーストリアの皇女マリ・アントアネットと結婚(1770)。1774年祖父の後を継いで即位。性格が弱く、鈍重とさえいわれ、趣味の狩猟と錠前づくりにふけって政務に熱心ではなく、国王としての適性を欠いたことが後の悲運を招く最大原因となったといえよう。
チュルゴー、マルゼルブなどを重用して革命前の旧制度の矛盾の解決、さらには財政危機の打開にあたらせたが、宮廷や貴族および僧侶(そうりょ)の2特権身分の抵抗にあって失敗した。ついでネッケルを起用したが、アメリカ独立革命への介入による国費の浪費で財政を破綻(はたん)させ、以後カロンヌ、ロメニー・ド・ブリエンヌを用いたが財政は悪化する一方で、名士会の招集などのすべての改革は特権身分の反抗で挫折(ざせつ)したうえ、第三身分もこれに戦術的に同調して三部会の招集が全国民的な要求となった。ルイ16世はこれに屈して1788年夏に三部会招集を決定、ふたたびネッケルを起用して難局にあたらせたが成功せず、翌年三部会が成長変身して国民議会となり革命が本格化すると、軍隊による議会弾圧を策し、かえってバスチーユの攻略を招くこととなり、ついに彼は人民の圧力に屈した。革命の勃発(ぼっぱつ)以来、断固とした首尾一貫の路線をとりえなかったことが、このような追い詰められる事態を招いた。
以後、立憲王政の試行錯誤に対しても、自らの無定見と王妃マリ・アントアネットを中心とする宮廷の圧力とが相まって、新体制への面従腹背の姿勢で終始しつつ、ミラボー、ラ・ファイエット、ついでバルナーブと、主としてフイヤン派を通じて権力の回復を図ったが、すべて失敗した。ついに1791年6月20日一家をあげての逃亡を企てたが、これも失敗(バレンヌ逃亡事件)、立憲王政を基調とする「1791年憲法」の承認を余儀なくされた。
彼は、憲法を具体化する立法議会期になってからもなお素志を捨てきれず、ジロンド派の戦争政策に便乗し、敗戦による敵軍の干渉を通して絶対王政の回復を目ざした。そのため、開戦後は戦争推進にサボタージュを続けて人民の怒りを買い、1792年8月10日の人民蜂起(ほうき)で王政を覆され、タンプルの牢獄(ろうごく)に幽閉された。国民公会期に山岳派(モンタニャール)の主唱する裁判で祖国と革命に対する裏切りのかどで断罪され、翌1793年1月21日ギロチンの犠牲となって刑死した。
[樋口謹一]
『クレリー他著、ジャック・ブロス編、吉田春美訳『ルイ十六世幽囚記』(1989・福武書店)』
ルイ(11世)
るい
Louis Ⅺ
(1423―1483)
バロア朝第6代フランス王(在位1461~83)。母はアンジュー公女マリ。父シャルル7世が廃嫡された王太子として亡命政権をたてていたブールジュに生まれる。青年時代は父王に反逆し、王太子領ドーフィネにこもり、ついにはブルゴーニュ公家の庇護(ひご)を求める。1461年家督を相続した彼は父王の顧問官たちをすべて退けるなど専権を振るい、王弟を含む諸侯の反乱を招く(1464~65、公益同盟戦争)。乱の指導者格だったのがブルゴーニュ公フィリップの息子シャルル4世で、67年シャルル4世が公位を襲うや、両者の死闘は避けがたいものとなった。ルイ11世は、フランス王権の統制からの離脱を図って独立国家を構想するシャルルをドイツ諸侯、スイス諸都市、あるいはイングランド王家と結んで包囲し、自ら手を汚すことなく、77年シャルルをナンシーに敗死させた。ルイ11世は、ブルゴーニュ公女マリアと自分の息子シャルルとの結婚を通じて公国の合併吸収を図るが、これは失敗し、軍事力をもってブルゴーニュ公領(フランシュ・コンテ)とアルトア伯領を王領に加えることで満足しなければならなかった。ブルゴーニュの軍事力を失った諸侯は、相次いでルイ11世の統制に服し、王権の直接統制を受けない諸公領はブルターニュ公領を残すのみとなった。ルイのマキャベリズムに徹した王権政策の展開は、ローヌ川中流のリヨン、河口のマルセイユを基地とする地中海交易への進出、リヨン、さらにロアール川中流のトゥールへの絹織物産業の導入、鉱山の開発など積極的な経済政策に負うところが大きかった。彼のあだ名「商人王」の由来の一端はここにもみられよう。また、注目すべきは、彼の行政機構の人事に振るった手腕、また情報収集、指令伝達のための駅逓(えきてい)制度の創設である。政治を技術として操ったルイ11世の代、フランス王制は一つのスタイルを得た。晩年の彼は、ただ1人信頼するフィリップ・ド・コミーヌとともに、トゥール近郊プレシ・レ・トゥールの館(やかた)にこもり、孤独のうちに死んだ。
[堀越孝一]
ルイ(13世)
るい
Louis ⅩⅢ
(1601―1643)
フランス国王(在位1610~43)。アンリ4世とマリ・ド・メディシスの長子。9歳のとき父王の暗殺に接し、母后が摂政(せっしょう)となった。1614年成人を迎えたが政治から遠ざけられ、そのいらだちで母后のお気に入りであったコンチニの暗殺を導いたが、その後自分の配下リュイヌの権力濫用を被った。宰相リシュリューとの長い信頼関係は24年から始まった。リシュリューは王国の隆盛と国王の尊厳の確立を目ざして王の信頼にこたえ、王はまた宮廷の数々の陰謀(有名なものに30年11月10日の「斯かれた者たちの日」事件がある)にもかかわらず、彼を信頼し続けた。ルイ13世は健康に恵まれず、臆病(おくびょう)であったが、自己の義務と権威については細心の注意を払い、王国を聖母マリアに捧(ささ)げるほどの信心家でもあった。国内ではプロテスタント勢力の打破に努めて1629年その牙城(がじょう)ラ・ロシェルを落とし、対外的には反ハプスブルク家の立場から三十年戦争に介入してアルトア、アルザスの大部分、ルシヨンを征服した。彼は1615年アンヌ・ドートリッシュと結婚したが、世継ぎの王子が誕生(1638、後のルイ14世)するまで23年間も待たねばならなかったため、この長い王太子の不在が、王弟で推定継承者のガストン・ドルレアンに希望を抱く貴族たちの陰謀を助長することにもなった。しかし、ルイに次いでフィリップの誕生(1640)は王政を堅固にした。ルイ13世の治世は民衆運動が激発した時代でもあり、フランス南西部からノルマンディーそして南フランスへと広がって混乱に満ちた統治期であった。しかしそのつどリシュリューの指導力によって困難を脱し、絶対王政の生みの苦しみの時代を生き抜き、リシュリューの死後は彼の政策を維持して王国の統治に努めた。
[志垣嘉夫]
ルイ(15世)
るい
Louis ⅩⅤ
(1710―1774)
フランス王(在位1715~74)。最愛王le Bien Aiméと称される。ルイ14世の曽孫(そうそん)。5歳で即位したため、故王の甥(おい)オルレアン公フィリップが摂政(せっしょう)となる。摂政政治(1715~23)は多元会議制Polysynodieの無力な統治で終わり、成人した王は元ポーランド王女レクザンスカと結婚(1725)した。1726年以来枢機卿(すうききょう)フルリーが実権を握る時代(1726~43)に入るが、この時代はようやく長い不況から脱出して経済は安定成長を始め、啓蒙(けいもう)の時代へと向かうときである。また、ポーランド継承戦争(1733~35)を起こし、ロレーヌを取得した。
フルリーの死(1743)後、親政が開始された。王は神経質で気まぐれ、しかも怠惰な気質の持ち主で、親政といっても、政治は有能な大臣に任せ、また寵妾(ちょうしょう)ポンパドゥール夫人の才知に影響された。親政時代の政策は、啓蒙専制的改革の性格をもっていた点に特色がある。親政初期の財政総監マショー(在任1745~54)は、新直接税バンティエームを創設するにあたって、不公正な免税特権を排し、収入に応じて課税しようとした。それは貴族から「租税戦争」と恐れられた税制改革であり、そこに特権体制否定の思想が表現されている。中期には、実力者ショアズールのもとに重農主義思想をもった開明的官僚が任用され、財政負担の平等と経済活動の自由化政策が企てられた。また、この時代にアンティル諸島を保守し、コルシカ島の領有(1768)に成功したが、七年戦争(1756~63)による深刻な打撃は財政を極度に悪化させた。この改革路線は財政危機打開のために必要であったが、それはつねに高等法院の反対を受け、挫折(ざせつ)した。そして、親政末期に行われた大法官モプーの改革は、この高等法院そのものを廃棄する改革であった。しかし、この改革もルイ15世の死(1774年5月10日)とともに覆され、未完に終わった。
[千葉治男]
ルイ(9世)
るい
Louis Ⅸ
(1214―1270)
カペー朝第9代のフランス王(在位1226~1270)。ルイ8世の子。1297年ローマ教会によって列聖され、通称は聖王、サン・ルイsaint Louis。即位後10年は、年少のため、母后ブランシュ・ド・カスティーユが摂政(せっしょう)となる。この間、母后は封建諸侯の反乱を鎮定し、アルビジョア派のトゥールーズ伯領を王領化する道を開いた。ルイの親政は、正義と平和に徹したから、国内は平穏で、ソルボンヌ神学校(後のパリ大学)の創設をはじめ、学問、芸術、慈善事業が振興された。内政面では、聖俗諸侯による国王諮問会議から高等法院と財務官房が分化独立、国王金貨の基準が設定されて、経済の安定が図られた。外交面では、平和主義を貫き、ピレネー山脈を国境と定めてアラゴンとの紛争を解決(1258)、ノルマンディー、アンジュー、トゥレーヌなどをフランス領とするかわりに、ギエンヌなど南フランスの諸地をイギリスに与え(1259)、イギリスとの間に和平を保った。こうして彼の治世は、フランス王権の威信を国際的に高める結果となったので、イギリス王ヘンリー3世とイギリス諸侯の争いを解決したアミアン裁定(1264)のように、諸国の国内紛争の調停を依頼されるほどであった。敬虔(けいけん)な信仰心に生きた彼は、ローマ教皇の信任も厚く、十字軍にも進んで参加した。第七次十字軍ではエジプトに遠征して捕虜となり、第八次十字軍に参加してついにアフリカのチュニスに没した。
[井上泰男]
ルイ(18世)
るい
Louis 18
(1755―1824)
フランス王(在位1814~24)。ルイ16世の次弟。初めプロバンス伯と称し、ルイ16世即位後は「殿下(ムッシュー)」とよばれた。フランス革命の初期には革命を容認する態度をとったが、反革命陰謀の疑いをかけられ1791年6月20日、ルイ16世のバレンヌ逃亡事件当日ベルギーに亡命、ついでコブレンツで弟アルトア伯(後のシャルル10世)と落ち合い、フランス国内の王党派と結んで反革命運動を展開した。1814年4月ナポレオン1世の廃位ののち亡命先のイギリスより帰国。サン・トゥーアン宣言により大革命の成果である基本的自由権と代議政体とを保障して王位につき、ブルボン王朝を復活させた。連合国とのパリ講和条約に調印するとともに、欽定(きんてい)憲法たる「憲章(シヤルト)」を発布して立憲王制を樹立した。15年ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーへ亡命。ナポレオン没落後白色テロが荒れ狂い過激王党(ユルトラ)派が議会を支配したが、王は反動の行き過ぎを極力抑え、旧貴族と上層ブルジョアの間の和解を図った。16年の過激派議会の解散後リシュリュー、ドカーズら立憲王党派の手によって穏和な自由主義的改革が進められ、王の政治路線が定着するかにみえた。しかし、20年の王位継承者ベリー公暗殺を機に過激王党派がふたたび優勢となり、同派のビレールが首相となって反動政策を推進し、自由主義者や共和派との対立を深めたため、王の中庸、和解の政策は結局失敗に終わった。
[服部春彦]
ルイ(7世)
るい
Louis Ⅶ
(1121ころ―1180)
カペー朝第6代のフランス王(在位1137~80)。父王ルイ6世の政策を継ぎ、イル・ド・フランスの聖俗諸侯権力の除去あるいは服属に努め、カペー直轄領の強化を図った。ユリの花をフランス王家の紋章に定めた。信心深いキリスト教徒として、神聖ローマ皇帝コンラート3世とともに第二次十字軍(1147~49)に参加したが、1148年、ダマスカスを目前に撤退。政治的力量には欠け、国王顧問のシュジェールSuger(1081ころ―1151。サン・ドニ修道院長)の死去後、アキテーヌ公領の相続者たる妃アリエノールを離婚(1154)、これがやがてフランス王権に重大な危機をもたらすことになる。それは、アリエノールがノルマンディー公領の継承者でもあるアンジュー伯アンリ(後のイギリス王ヘンリー2世)と再婚したため、ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌにまたがる広大な領域がイギリス王の手に帰したからである。
[井上泰男]
ルイ(1世)
るい
Louis Ⅰ
(778―840)
カロリング朝フランク王国第2代の王(在位813~840)。ドイツではルートウィヒ1世とよばれる。カール大帝の第3子で、初めアクィタニア分国王に封ぜられたが、2人の兄が早世したため813年父の共同統治者となり、翌年父の死後単独で帝国を統治した。信仰心厚く、教会・修道院を保護したので敬虔(けいけん)帝とよばれたが、政治的にはフランク王国を弱体化させる結果を招いた。帝国計画令を発し(817)、次子ピピンをアクィタニア、三子ルートウィヒをバイエルンの分国王に封じ、長子ロタールに皇帝位を譲ることを定めたが、再婚後生まれたカール(2世)のため相続令を修正しようとした結果、3人の子供に結束して背かれ、一時は廃位の憂き目をみた。この相続争いは彼の死後内乱に発展し、ベルダン条約(843)で帝国は3分割された。
[平城照介]
ルイ(12世)
るい
Louis Ⅻ
(1462―1515)
バロア朝第8代のフランス王(在位1498~1515)。オルレアン公家第3代当主。1498年継嗣(けいし)を欠いて死去したシャルル8世を継いで即位。ルイ11世の娘ジャンヌを妻としていたが、即位後これを離婚し、シャルル8世の寡婦アンヌ・ド・ブルターニュと再婚する。前王のナポリ王国に対する野望を継ぐとともに、祖母がビスコンティ家の血縁であることからミラノ公国に対する権利要求を押し立てて、99年以降イタリアに遠征し、ジェノバ、ミラノを占領する。この行動はベネチアおよびローマ教皇との対立を結果し、結局イタリアにおける地歩を失った。
[堀越孝一]
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ルイ[9世]【ルイ】
カペー朝フランス国王(在位1226年―1270年)。ルイ8世の子。信仰あつく〈聖王〉〈サン・ルイSaint Louis〉と呼ばれる。初め母后が摂政。1234年親政。国内の治安維持に努め,パリ高等法院や会計院を創設して中央集権化を促進した。英国からノルマンディー等を獲得して王領を拡大。第7回十字軍を起こしたがディムヤートで捕虜となり,身代金を払って聖地に渡った。第8回十字軍でチュニスに遠征中病死。ジョアンビルの伝記が有名。
→関連項目アンバリッド|ブルボン[家]|ルブルク
ルイ[13世]【ルイ】
フランス国王(在位1610年―1643年)。アンリ4世の子。初めは母后マリー・ド・メディシスが摂政であったが,前王治世の反動で大貴族とユグノーの勢力に苦しんだ。1624年リシュリューを宰相に登用して以来,王権による中央集権化を推進し,絶対王政の基礎を定めた。1635年には三十年戦争に参加。
→関連項目ベルサイユ宮殿|ルイ[14世]
ルイ[11世]【ルイ】
フランス国王(在位1461年―1483年)。シャルル7世の子。百年戦争後の太子時代,反王謀議に荷担。即位後は諸侯の陰謀に苦しんだ。ブルゴーニュ公シャルルと戦って一時捕虜となったが,その後王権伸張をはかり,シャルルの死後同公領を接収。絶対主義の基礎を確立し,度量衡の統一,駅伝制創設を行い,百年戦争後のフランス統一に努めた。
→関連項目コミーヌ|シャルル[8世]
ルイ[15世]【ルイ】
フランス国王(在位1715年―1774年)。ルイ14世の曾孫。オルレアン公フィリップの摂政政治に始まったその治世は,経済的には好況が続いたが,七年戦争等に巻き込まれて多くの植民地を失い,国庫は枯渇し,絶対王政の内部的崩壊が準備された。思想面では啓蒙思潮の展開期に当たる。
→関連項目カンプラ|ポンパドゥール夫人|ルイ[16世]
ルイ[18世]【ルイ】
フランス国王(在位1814年―1815年,1815年―1824年)。ルイ16世の弟。フランス革命中亡命。ナポレオン失脚後タレーランらの努力で新憲章を裁可して即位(王政復古)。ナポレオンの百日天下で一時亡命。復位後は反動的な政治体制をしいた。
ルイ[17世]【ルイ】
フランス国王ルイ16世の子。フランス革命勃発(ぼっぱつ)後,父王とともに捕らえられ,父王処刑後は反革命派により国王に指名された(非公認)。国民公会の命令で山岳派の靴屋の手にゆだねられ,監視と虐待のうちに病死。だが,はっきりしたことはわからず,その末路をめぐりさまざまな論争がある。
ルイ
フランスの詩人。ベルギー生れ。本名Pierre Felix Louis。日本ではルイスとも。ジッド,バレリーの友人で,マラルメに心酔し,彼の〈火曜会〉の一員にもなった。ギリシア風の耽美(たんび)にあこがれ,博識と技巧を肉感的・幻想的作品の中に生かした。代表作は《ビリティスの歌》(1894年),フランス散文中最も美しい文章に数えられる《アフロディト》(1896年)など。
ルイ[12世]【ルイ】
フランス国王(在位1498年―1515年)。シャルル・ドルレアンの子。従兄シャルル8世の後を継ぎ,たびかさなるイタリア戦争は失敗したが,法制の整備や税の軽減により経済的繁栄をもたらし,学芸を保護してフランス・ルネサンスを開花させ,〈国民の父〉と称された。
→関連項目フランソア[1世]
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ルイ
Pierre Louÿs
生没年:1870-1925
フランスの詩人,小説家。本名Pierre Félix Louis。日本ではルイスとも呼ばれる。中学時代にジッドと学友で,バレリーとも親交を結び,ルコント・ド・リールに目をかけられ,マラルメの火曜会の一員にもなった。早くから古代ギリシアの文学に親しみ,処女詩集《アスタルテ》(1893)を刊行の後,ギリシア古典風の散文詩集《ビリティスの歌Les chansons de Bilitis》(1894)を発表して好評を博した。さらに彼の文名を高めたのは,アレクサンドリア様式の韻文小説《アフロディトAphrodite》(1896)である。そのほか,異教的な逸楽,優雅な感受性,好事家的博識を特質とする彼の作品に,《女と傀儡》(1898),《ポーゾール王の冒険》(1901)などがある。
執筆者:若林 真
ルイ
Pierre Charles Alexandre Louis
生没年:1787-1872
フランスの医師。マルヌ県アイに生まれ,パリで医学を修業し,長くピティエ病院,オテル・ディユ病院に勤務,肺結核と腸チフスの病理学に専心した。1825年に1960例の患者観察記録と358例の病理解剖所見を基礎に肺結核について論じ,35年に《刺絡の効果に関する研究》を刊行して,一定の療法を受けた一群とそれを受けなかった一群とを対照させるというやり方で,その差を数字で表現しようとした。従来粗雑であった臨床医学研究に統計的方法を導入して,科学としての医学の確実性を高めることに貢献した。またE.W.vonブルッセの生理学的な方法を批判して,大論争をしたことで有名。
執筆者:本田 一二
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ルイ(14世)
Louis XIV
1638〜1715
フランスの国王(在位1643〜1715)。ブルボン朝絶対王政の全盛期を現出させた君主で,太陽王(Le Roi Soleil)と呼ばれた
5歳で即位し,フロンドの乱を体験して貴族抑圧を痛感。1661年,後見の宰相マザランの死後親政を開始し,コルベールを財務総監として重商主義(コルベール主義)を進め,国富の増大をはかった。また新旧の貴族勢力をたくみにあやつり,軍隊を強化して王権の徹底につとめた。巨額な費用と労役をつぎこんで壮麗なヴェルサイユ宮殿を造り,王宮を革命までここに移した。この国力と武力を背景に「自然国境説」を唱えて,(1)南ネーデルラント継承戦争(1667〜68),(2)オランダ侵略戦争(1672〜78),(3)ファルツ(継承)戦争(1689〜97),(4)スペイン継承戦争(1701〜13)と,たび重なる外征を行った。しかし大きな成果がなく,また,ナントの勅令の廃止(1685)で商工業者の新教徒(ユグノー)を亡命させ,産業の不振を招いた。
ルイ(9世)
Louis Ⅸ
1214〜70
フランス国王(在位1226〜70)。聖王とも呼ばれる
異端アルビジョワ派の討伐を完了させ,王権の南フランスへの浸透をはかり,カペー朝の全盛期を現出。内政では学問・芸術・慈善事業にも力を尽くし,ソルボンヌ神学校(パリ大学)を創設した。また,テンプル騎士団の育成や裁判制度の改革など中央集権体制を強化した。外交面ではイギリスとパリ条約を結んでノルマンディー・アンジューなどを獲得。第6回十字軍に参加してエジプトに渡り,敗れて捕虜となったのち1270年,第7回十字軍を企てアフリカに向かったが,チュニスで病没した。
ルイ(16世)
Louis XVI
1754〜93
フランスの国王(在位1774〜92)
ルイ15世の孫。妃はマリ=アントワネット。ブルボン朝の財政危機が深刻化するなか,財政再建とアンシャン−レジームの矛盾解決をめざしてテュルゴー・ネッケルらの改革論者を登用したが,貴族の抵抗で挫折。1789年三部会の召集を強いられたが,時代の推移を見通せず革命に発展し,91年国外逃亡を企てたが失敗した。翌年オーストリアと開戦したが,終始革命に敵対したため,8月10日事件で捕らえられ,1793年1月国民への反逆罪で処刑された。
ルイ(13世)
Louis XII
1601〜43
フランスの国王(在位1610〜43)
親政開始後,宰相にリシュリューを登用して大貴族の勢力を抑え,ユグノーを弾圧して王権を強化。また領土拡張とハプスブルク家の弱体化をねらい,新教徒側を支援して三十年戦争に参加した。
ルイ(18世)
Louis XVIII
1755〜1824
フランスの国王(在位1814〜24)
ルイ16世の弟,シャルル10世の兄。1791年兄ルイ16世の逃亡事件と同時に亡命。ナポレオン1世の没落後,王位について絶対王政の復活をめざし,反動政治を行った。
ルイ(15世)
Louis XV
1710〜74
フランスの国王(在位1715〜74)
ルイ14世の曾孫。治世中,しばしば対外戦争を起こしてイギリスと対立し,特に七年戦争に敗れて,インド・北アメリカ植民地を失った。
ルイ(11世)
Louis Ⅺ
1423〜83
フランスの国王(在位1461〜83)
百年戦争後,ブルゴーニュ・アンジュー・メーヌ・プロヴァンスなどを併合し,中央集権化を進めた。
ルイ(12世)
Louis Ⅻ
1462〜1515
フランスの国王(在位1498〜1515)
イタリア戦争を続け,ミラノ・ナポリを占領し,教皇ユリウス2世と対立した。
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ルイ
Louÿs, Pierre
[生]1870.12.10. ベルギー,ヘント
[没]1925.6.4. パリ
フランスの詩人,小説家。本名 Pierre-Félix Louis。エコール・アルザシエンヌ在学中にジッドと親交を結び,バレリー,マラルメ,エレディアらを知る。 1891年雑誌『コンク』 La Conqueを創刊。ギリシア抒情詩の形式を模倣した詩集『アスタルテ』 Astarté (1893) のあと,古代ギリシアの架空の女流詩人に仮託した散文詩『ビリチスの歌』 Les Chansons de Bilitis (94) ,古代ギリシアの遊女の生活と官能的恋愛を描いた小説『アフロディット』 Aphrodite (96) ,情熱の猛威を描いた小説『女と人形』 La Femme et le pantin (98) などを発表,該博な知識と形式や色彩に対する鋭い感覚によって,華麗な世界をつくりだした。
ルイ
Louis, Pierre Charles Alexandre
[生]1787.4.14. シャンパーニュ
[没]1872.8.22. パリ
フランスの医師,病理解剖学者,医用統計学の開拓者。青年期をロシアで過して,既存の医学が疫病に対し無力なことを痛感,さらに勉学のためパリに戻った。 1820年以後は病理学に目を向けたが,25年医学的事実を統計的に分析することにより学説の当否を反証できること,実験不可能な場合にも統計の応用によって信頼できる結論を得ることに着想し,ピティエ病院,パリ市立病院で医用統計学の確立に努めた。病理学面では結核,腸チフスについて業績を残したほか,29年には腸チフスのバラ疹を記載した。
ルイ
Louis, Dauphin de France
[生]1729. ベルサイユ
[没]1765. フォンテンブロー
フランスの皇太子。国王ルイ 15世とマリ・レシチンスカの間に生れた。政権から疎外され,信仰団体を主宰した。ルイ 16世,ルイ 18世,シャルル 10世の父にあたる。
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世界大百科事典(旧版)内のルイの言及
【コンデ家】より
…王家につらなる親王家として,3世紀にわたり政界に重きをなした。初代のコンデ親王ルイLouis,Prince de Condéおよび第2代のアンリ1世Henri Iは,16世紀後半[宗教戦争]の過程で,カトリック勢力を代表する[ギーズ家]に対抗し,新教派の指導者として活躍した。王族であったことから,少数派の新教徒に大義名分を与える象徴的存在としての役割を果たしたともいえる。…
【コンデ親王ルイ[2世]】より
…フランスの名門貴族。筆頭親王家である[コンデ家]の第4代当主。テュレンヌと並ぶ名将として〈大コンデLe Grand Condé〉と呼ばれた。若くして[三十年戦争]に参戦し,ロクロアの戦(1643)で大勝して名声を博した。[フロンドの乱]では,当初国王軍の中枢を担ったが,戦功が十分認められないのを不満とし,大貴族を率いて〈貴族のフロンド〉の立役者となった。敗北後スペイン軍に投ずるが,ピレネー条約(1659)で復帰する。…
【カペー朝】より
…フランスの王朝。987年,ルイ5世の死によって西フランクにおけるカロリング家の血統が絶え,フランス公のロベール家から[ユーグ・カペー]が選立されて王位についたのに始まる。以後シャルル4世がカペー家直系の男子相続人なしに死亡する1328年までフランスに君臨した王朝で,この王朝の誕生とともにフランス国家の歴史が始まった。…
【パリ】より
…この子孫のユーグ・カペーが987年に聖俗貴族の集会で推挙されてカペー王朝が成立すると,パリは新しい発展の段階を迎える。
【中世】
[ルーブル宮とパリ大学の創建]
カペー朝のルイ6世(在位1108‐37)の頃より,パリは国王の恒常的な居住地となった。農村共同体の出現によって農業生産は飛躍的に上昇するとともに,それを基盤として封建諸侯が出現し,国王は封建諸侯の推挙によってその頂点に立った。…
【瀉血】より
…方法としては,陰圧を利用したり,ヒルなどの吸血動物が用いられた。19世紀になって,フランスの医師P.C.A.ルイが多くの病気に対し,瀉血が治療効果をもたないことを証明し,瀉血についての批判を行った。このような批判にもかかわらず,その後も赤血球数が著しく増加しすぎて血流障害の起こる多血症,著しい肺鬱血(うつけつ)や肺水腫などで静脈過流量を減らす必要のある場合などに瀉血が行われ,静脈から数十ml以上が採血され,また近年,輸血による副作用を予防する目的で,手術中に用いる血液を事前に採血(瀉血)して貯えておくことが広く行われている。…
【ドビュッシー】より
…かたわら,熱狂していたR.ワーグナーへの批判がめざめた。また,ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》とガムラン音楽から啓示を受け,マラルメ,ピエール・ルイら象徴派詩人と交わる。こうした体験が,彼の美学と作風の発酵を促した。…
※「ルイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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