中国の古典に見える自由の語には,思うままにふるまう専恣横暴の意味(《後漢書》五行志)と,他から制約・拘束をうけないという意義(《魏志》)との二様の語義があった。日本の古代においてはなお外来語の性格が強く,ほぼ前者の義で用いられているが,中世に入ると〈自由狼藉(ろうぜき)〉〈自由濫吹(らんすい)〉等々,法令・訴陳状・日記などにおいては〈我欲を逞しくし,慣例に背き,不法を行い,専恣横暴の振舞いがある〉というマイナス評価の強い前者の語義が支配的になる。しかし中国においてもその後,唐詩や《臨済録》のような禅宗の僧の間では,後者の意味で自由の語は使われており,日本でも《正法眼蔵》《沙石集》等の法語・仏教説話に同じ用例を見いだすことができる。戦国時代に入るころ,《鶴岡放生会歌合》に〈自由ならずして自由を得たり〉とあるほか,〈不自由〉という語が頻出しはじめ,自由の語はプラス評価の意味で用いられるようになる。これは禅宗,キリスト教で,〈自由解脱(げだつ)〉のような積極的な意味で使われたことの影響もあろうが,江戸時代になると庶民の世界の中で,〈自由〉は便利と同じ意味にも用いられるようになった。しかし一方,法令をはじめ専恣横暴の意味の〈自由〉も依然として通用しており,自由の語には最後までマイナス評価がまつわりついていたのである。
libertyあるいはfreedomの訳語に〈自由〉をあてたのは江戸時代にさかのぼり,19世紀後半の辞書に見いだされるが,明治初年には自由の語のマイナス評価を意識的に避け,自主,自在などの訳語をあてる試みもなされた。しかし庶民の中に浸透していた〈自由〉の語は,中村正直の《自由之理》(1872)の普及と相まって,結局,その訳語として定着していく。このようなマイナス評価を多少ともともなった〈自由〉の語が,liberty,freedomの訳語となったことが,日本の近代における自由・自由主義に対する評価に微妙な影響を与えつづける結果になっている点は,見逃すわけにはいかない。
ひるがえって,liberty,freedomの語義についてもさまざまな論義があるが,その語源が共同体の成員権を意味するという説に立つならば,日本の場合も,古代の平民(公民),中世の平民百姓,近世の百姓はみな自由民ということも可能であり,この場合の自由は私的な隷属を拒否し,みずからを奴隷-不自由民から区別する自由ということになる。またそれを共同体からの自由と解するならば,日本の中世においても,身寄りのない貧しさを意味する語として広く使われた〈無縁〉という言葉は,転じて親子・主従等の縁を積極的に切った自由な境地を示す語となり,私・内証(ないしよう)に対する公・世間を意味する〈公界(くがい)〉の語は,私的な縁・保護を断ち切る自由を示す言葉として用いられ,戦国時代に用いられている〈楽〉〈十楽(じゆうらく)〉も,同様な意味をもったといってよい。しかし江戸時代に入ると,無縁は貧困を意味するもともとの語義にもどり,公界は苦界に,〈らく〉は一部地域の被差別民の名称となっていった点に,さきの〈自由〉の語義のマイナス評価とも関連する日本の社会の問題がひそんでいるといえよう。
執筆者:網野 善彦
西欧社会における自由の概念
自由という言葉はきわめて多義的に用いられており,定義することは困難であるが,一般的にいえば,あるものが他のあるものによって拘束や制限を受けることがなく,その性質にしたがって活動をなしうる状態を指すといえよう。これらの諸自由のうち,とりわけ問題になるのは人間における自由である。人間は環境に適応するとともにそれを変革していく動物であるとすれば,人間と環境との相互関係はたえず変化するものであり,したがって,いかなる行為ないし行為しないことがどの程度において自由であるのかは,時代と社会と個々人とによって異なるのであって,自由の概念をその内容によって一義的に定義することはできない。さらにいえば,人間と環境との相互関係においては,人間は自由であると同時に自由ではありえないのであって,それは古くから〈自由意志〉論と〈奴隷意志〉論との間で論争が繰り返されてきたことに示されるとおりである。そして,自由がこのような論争的な概念であるとすれば,人間の自由について考えてみるためには,それを思想史の文脈において検討してみることが必要であろう。
なお,語源的には,英語のlibertyは主人-奴隷関係のきずなからの解放を意味するラテン語のlibertasに,またfreedomは親愛関係を示す古い英語frēoに由来するが,近代以降の用語法においては,互換性をもったものとして使われているといえよう。
liberty,freedomの翻訳語としての〈自由〉という語は,アメリカ人宣教師E.C.ブリッジマンが上海で出版したアメリカの歴史書《聯邦志略》(1857)に収められた〈アメリカ独立宣言〉の中に見られる。また,《英和対訳袖珍辞書》(1862)ではlibertyが〈自由,掛リ合ノナキ事〉,freedomが〈免許,免(ゆる)シヲ受タル事,自由〉となっている。このように幕末ころには翻訳語としての自由が定着したかにみえたが,必ずしもそうではなかった。福沢諭吉は《西洋事情》(1866)で〈本文,自主,任意,自由の字は,わがまま放盪にて国法をも恐れずとの義にあらず,すべてその国に居り人と交わりて気兼ね遠慮なく自力だけ存分のことをなすべしとの趣意なり。英語にこれをフリードムまたはリベルチと言う。いまだ適当の訳字あらず〉としている。〈未だ原語の意義を尽すに足らず〉として旧来の自由の意との混合を案じていた。この自由の語を定着させたのは前述の中村正直がJ.S.ミルの《On Liberty》を《自由之理》と翻訳し,この書物が広く読まれたことをとおしてであった。しかし,この時にいたっても中村自身にとって確定した訳語であったわけではない。このように明治初期の啓蒙思想家(ほかに西周,津田真道,加藤弘之など)にとって,翻訳語の〈自由〉は注意深く扱われたのである。
近代社会と自由
自由の概念が,思想史のうえで自覚的に問題にされ,論争の対象にされるようになったのは,最初に個人意識の確立をみた西欧の近代においてである。中世身分制社会では,自由とは基本的には特権(たとえば貴族の自由,都市の自由など)を意味したのであり,このような身分的諸特権との闘争過程から,自由で平等で自律的な個人という観念が,理念的に形成されてきたのはそれほど古いことではない。宗教改革期にルターは〈キリスト者の自由〉として個人の自由を主張したが,それはあくまでも信仰の世界に限定されたものであり,しかも彼は〈奴隷意志〉論者であった。エラスムス,カステリオなどの人文主義系の〈自由意志〉論者には,個人の自由への萌芽がみられるが,それもまた,身分制社会の壁をのりこえるほど強力な主張ではありえなかったといえよう。
人間の自由の問題が具体的に提起されるのは絶対王政期においてであり,絶対王政的権力が,一方において伝統的身分制社会を切り崩し,他方において宗教を手段として個人の内面を侵そうとするとき,特権諸身分は,中世立憲主義の基盤のうえに,特権としての自由,さらには自由の抑圧に対する抵抗権の主張を強めるし,宗教的自由の主張はまずもって個々人に対する宗教的寛容の要求として提出され,そこから思想・信条の自由,さらには言論・出版の自由などの主張が展開されることになった。これら二つの自由の要求は,方向においてはまったく相反するものであったが,ともにその制度的保障を自然法を基礎とした〈法〉に求めたのであり,このことによって自由は権力から守られるべき〈個人の自由〉として一般化されることになった。ここに〈権力と自由〉という周知の対抗概念が形成されたのであるが,そこでの自由とは,被治者の側からみれば民事的な領域に限定された消極的なものにとどまったし,また治者にとってはその権力への制約を意味するものであった。
しかし,絶対王政期から近代市民社会への展望が開かれるとともに,このような消極的な自由の概念は,より積極的なものへと転換することになる。すなわち,自由は自由権として展開され,〈……からの自由〉とともに〈……への自由〉が強調されるようになるのである。伝統的な価値秩序に代えて新しい秩序を構成しようとしたホッブズは,自由とは〈障害の存在しないこと〉であると定義したが,それは自然権としての消極的自由とともに,契約による秩序の構成という積極的自由をも含意するものであった。そして,この第2の側面は,ロックにおいては,私有財産権の保障を基礎に,政治社会の構成員として秩序を自発的に形成することが〈人間の自由〉であるとされるようになるし,またルソーはよりラディカルに,政治社会の再構成の担い手になることこそが自由を意味するとし,さらに〈自由であるように強制する〉ことまで説くのである。このような自由概念の展開は,君主主権論から国民主権論ないしは人民主権論への転換と表裏をなすものであったといえよう。
ブルジョア革命を経過し,いわゆる近代市民社会が形成されるにしたがって,経済的自由主義(レッセフェール)が強く主張されるようになり,自由はしだいに広範な制度化による保障を受けることになる。19世紀の西欧においては,法と政治との再構成によって,個々人の権利が公的制度の中で機能する体制がほぼできあがったのである。そこで保障された個々人の権利は,次の3種に分類して考えることができるであろう。すなわち,第1は精神の自由であり,それは各自が自己の信仰や意見を抱く自由であるとともに,それを互いに交換する自由でもある。第2は諸自由として表現される物質的自由であり,経済活動の自由,社会的移動の自由,法による〈安全〉の保障などが含まれる。第3は政治的自由であり,それはいわば政治に参加する権利のことであるが,原理的には,代表制をとおして公的な制度を統御する政治権力が,国民に与えられる。そして,これらの諸権利が憲法体系に組み込まれることによって,自由の保障には具体的な形態が付与されたのである。日本国憲法も,国民生活の諸分野における自由を,侵すことのできない権利として保障しているが,それはこのような思想的系譜のうえに立つものといえよう。
現代社会と自由
近代市民社会を基礎に国民国家が形成されたとき,制度的には,個人の自由は憲法体制をとおしてほぼ完全に保障されることになった。しかし,このような体制のもとでも自由についての問題がなくなったわけではない。すなわち,この体制が,実質的には代表制によるブルジョアジーの支配を意味したとすれば,法の下の平等の原則にもかかわらず,無産者階級の人びとは実は自由から疎外されていたのであり,彼らは個人意識の担い手でさえなかった。いいかえれば,秩序を自発的に構成する公民としての自由と,個人生活を私的に享受する自由とは分裂にさらされ,しかも圧倒的に多数の人びとは,前者に関心を寄せることはほとんどなかったのである。マルクスは,このような疎外された状況からの人間解放によって,真の自由の実現をめざす社会主義を主張したが,この運動のその後の展開,さらには社会主義国の実現によっても,このような傾向が変化することはなかったといえよう。
さらに20世紀に入って,いわゆる大衆社会化状況が進展するとともに,自由の観念はますます拡散していくことになる。すなわち,一方における社会の組織化と集団化,他方における個人の原子化と部分化の進行は,個人と環境との隔たりを拡大させ,これにともなって環境の変革主体としての個人の自由の意識はしだいに失われて,大衆は個人生活に閉じこもるとともに,変革の対象としての公的な環境に対する関心さえも失うようになる。自由の概念は消極的な〈……からの自由〉のみに局限され,E.フロムのいわゆる〈自由からの逃走〉ないしは〈自由であることへの恐れ〉が一般化してくるのである。ナチズムやファシズム,さらにはスターリン主義は,こうした自由の意識についての病理現象の,もっとも極端な表現という側面をもっていたといえよう。
第2次世界大戦における〈デモクラシーの勝利〉は,このような思想状況に変化をもたらすかにみえ,事実,それまで西欧世界に限定されていた立憲的体制による自由の保障は,いっきょに全世界的規模に拡大された。しかし,それは大衆社会化状況の拡大をもともなっていたのであり,したがって,自由の意識における危機を深化させるものでもあった。今日,消極的自由を守るためにも積極的自由の重要性が強調され,また住民自治の運動や自発的集団への積極的な参加が説かれているが,それは環境の変革を指向する個人の自由の再構成をめざすものといえよう。
非西欧社会における問題
個人意識の成育をみなかった非西欧社会においては,自由の観念の展開がおくれ,そのことによって問題をはらむことになった。多少とも後進的であったドイツにおいてさえ,自由は〈内面的〉自由の問題に局限される傾向がみられたが,明治維新後に立憲的な体制を輸入した日本においては,それは各個人が積極的に構成していくべきものとしてよりは,むしろ天賦人権的なものとして,したがってまた自足的な個人の自由として把握される傾向が強かった。この伝統は戦後にも及び,しかもそれが大衆社会化状況と重なることによって,自由を保障する制度を自発的に形成していこうとする態度は,あまりみられないといえよう。
また今日,大衆社会化状況の急展開を免れているのは,いわゆる第三世界だけであろうが,ここでも自由の問題は深刻である。これらの国々においては,人間の自由が圧殺されたのは植民地支配のためであるとされ,自由の回復のためにも,国家の統一と独立とをめざすナショナリズムが強調される。しかし,その結果個人意識の成長は妨げられ,しかも強権的・独裁的統合が強行されることになる。したがって,これらの諸国においては,個人の自由の実現は,意識においても制度においても,今後果たされるべき課題として残されているといえよう。
このようにみてくると,今日,自由の観念は危機の様相を深めているが,それは,西欧世界たると第三世界たるとを問わず,避けてとおることのできない問題であることも事実である。
執筆者:有賀 弘