翻訳|printing
( 1 )中国では宋代の「夢渓筆談‐技芸」に既に見える語。日本ではこの語の用例は幕末期までしかさかのぼれないが、印刷術そのものがそれまでなかったわけではない。神護景雲四年(七七〇)の法隆寺百万塔陀羅尼の印刷以来、興福寺、東大寺、高野山、比叡山等では盛んに出版が行なわれ、中世には五山の禅宗系出版(いわゆる「五山版」)が隆盛をきわめた。しかし、そのほとんどは、仏教・儒教の経典・論疏、詩文とその注釈書(抄物)である。
( 2 )一六世紀末になると、イエズス会士らが西洋式の印刷機を持ち込んだが普及せず、文祿の役の戦利品として持ち込まれた朝鮮式活版印刷機による印刷術が江戸初期になって、広く行なわれるようになった。用語としては、和語の「版に刷る」以外に、「開版」「刻版」「上梓」などの漢語が用いられていたが、幕末明治初期になって「印刷」の語が見え始める。
版にインキをつけて紙に押し付けると、版と表裏逆の模様を何枚も簡単に速くつくることができる。この仕事を印刷といい、できあがったものを印刷物という。たとえば木版の年賀状をつくるとしよう。葉書の大きさの絵を描いて板に張り、インキのつくところを残して彫刻刀で彫りくぼめる。この版にインキをつけ、紙に押し当てれば木版印刷物ができあがる。この場合、最初描いた絵を原稿、版をつくる作業を製版といい、インキをつけて紙を押し付ける作業を狭い意味で印刷という。
[山本隆太郎]
木版の場合は、版の上に紙をのせて、紙の裏からこすって印刷をするが、他の印刷法では機械を使う。この機械を印刷機といい、紙を版に強く押し付けることを第一の仕事とする。強く押し付ける作業をプレスpressというから、印刷機のことをプレスともいい、転じて印刷、出版、新聞といった業種やジャーナリズムのことをもプレスというようになった。プレスするには頑丈な機械が必要なので、圧力を使わない印刷法も考えられた。電子的な力を借りる無圧印刷や、その一種で同様に電子の力を借りてインキを細かい粒にして紙に飛ばすインクジェット印刷、印刷するたびにインキを供給するオンデマンド印刷などがそれであり、印刷速度が速いのが特長である。これらは特殊なインキを必要とするため、一般には適切な圧力をかけて印刷する方法が利用されている。
このように「版」のない印刷法のほか、古くからの技術である写真も、同じ画像を多数つくることにおいては印刷と似ている。写真によってつくるものはカラーフィルムやカラープリントであり、フィルムや印画紙など画像を現す最終の材料に仕掛けがしてあり、印刷で使用するような「版」はない。またその工程は、光によって変化する材料、すなわち感光材料を使っていることが、印刷と大いに異なっている。しかし、1950年ごろから途中の手段にかかわらず、われわれの目に感ずる情報をいろいろ処理し、遠方に送って新しく画像の形につくり直す技術を総称して印写工学とよぶようになった。印刷も印写工学の一つであり、有力で、しかもきわめて古くから行われている手段であるといえよう。
このように印刷の仕事は、最初に原稿(文字でも絵でも写真でも)があって、これと同じものをなるべく多数、しかも安く速く、品質のよいものを生産することである。そうして多数の人に見てもらうのであるから、印刷のもつ力つまり影響力は大きい。また、手書きのものに比べて整った活字で印刷されたものは信頼性があると一般にはみなされる。そして良質の紙に刷られたものは半永久的に保存することができるから、記録する方法としても優れている。本来の印刷の定義は、原稿から版をつくり、これに印刷インキをつけて紙に押し付けて同じ模様(文字を含めて)を多数つくること、すなわち複製するということであるが、紙以外の物質にインキを移すこともできるようになったので、印刷物の範囲は非常に広くなった。また文字や画像をプリンターを用いて紙に出力して可視性をよくするが、この出力も便宜上印刷ということがあり、印刷の概念が広がった。
[山本隆太郎]
紀元前3000年ごろ、メソポタミアやエジプトでは小さい円筒形の石に文字や絵を彫刻して、軟らかい粘土の板の上に転がして模様をつけた。紙のない時代はこのように石、陶土、金属、木や竹に文字を刻みつけていたが、エジプトでパピルスというナイル川畔の草からつくった紙が発明されてからは、墨汁を使って巻物状のパピルスに書写するようになった。このほか書写の材料としては羊皮が使われたが、現在の紙と同様のものができたのは中国の後漢(ごかん)の時代(105ごろ)であり、発明者は蔡倫(さいりん)といわれる。この紙の製法は推古(すいこ)天皇の時代に高句麗(こうくり)の曇徴(どんちょう)が日本に伝え(610)、これを聖徳太子が改良していわゆる和紙抄(す)きが全国に広まったとされる。一方、中国の紙の製法は、751年ごろ、サラセン軍に捕らわれた唐軍の兵士が製紙の技術を伝えて中央アジアに工場ができ、その後13世紀ごろ西洋に伝わった。
世界的に、年号のはっきりわかっているものでもっとも古いものは、770年(宝亀1)に印刷された日本の『百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)』である。これは称徳(しょうとく)天皇時代、恵美押勝(えみのおしかつ)の反乱平定のとき、木製の塔(高さ約20センチメートル)100万基をつくり、その内部に陀羅尼(サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写)を入れ全国の十大寺に奉納したものである。陀羅尼は幅5センチメートルほど、長さは40センチメートルくらいで、4種ある。版の材料は木版か銅版か古来議論があり、定説はないが、当時何十万という大部数を印刷した業績は評価されている。また中国や朝鮮でも同時代あるいははるか以前の各種の経文の印刷物が発見されている。
[山本隆太郎]
一方、西洋では14世紀から15世紀初めに宗教画の木版刷りが行われたが、刷り方は日本の木版と同様、紙を版の上にのせ、裏からこすってインキを紙に移した。このように時代は多数の印刷物を要求していたが、1445年ごろドイツのマインツのヨハネス・グーテンベルクが活版術を発明した。活字ということに限れば、中国の畢昇(ひっしょう)が1040年代に膠泥(こうでい)活字をつくり、高麗(こうらい)では1230年ごろ銅活字をつくった記録がある。マルコ・ポーロがこのような進んだ東洋の事情を伝えたことに刺激され、グーテンベルクが活版術を集成したのであろうという説もある。グーテンベルクは、わずかではあるが現在も使われている鉛の三元合金(鉛、スズ、アンチモン)の活字をつくったこと、ブドウ絞りの機械をもとに強い圧力を加えて印刷する機械をつくったこと、油性のインキを使ったこと、および自分の発明した活版術によって優れた印刷物を生み出したことなどの大きな功績によって印刷術の始祖といわれている。彼はもともと金銀細工師であって機械的技術にも長じていたと考えられるが、どのようなきっかけで活版術を発明するようになったかは明らかでない。ただ当時、木版刷りのラテン語文法書などの需要が多く、能率のよい印刷法が求められていたことは間違いない。木版を彫るのには労力を要するので、あらかじめ独立した個々の活字をつくっておき、必要に応じて組み合わせる活版術は一大革新をもたらした。活版印刷は火薬、羅針盤とともにルネサンス期の三大発明といわれている。
グーテンベルクが自分のつくった活字と印刷機で最初のころ印刷したのはラテン語文法書『ドナトゥス』Donatusと聖書であり、とくに『三十六行聖書』と、彼が着手しシェッファーPeter Schöffer(1430?―1502)が継続して出版した『四十二行聖書』が美しい印刷物で、現在もごく少数残っている。このとき使った活字の書体は当時の筆写の書体で、できあがった本は印刷本であることを秘し、書写本として売られたという。書写していた聖職者たちの反対を恐れたためであろう。このようにグーテンベルクは活版の発明によって印刷本をつくりだしたが、利益を得たわけでなく、負債を生じ、債権者のフストJohann Fust(?―1466)やその娘婿のシェッファーに工場を渡すことになったが、別に協力者を得、十数年間彼らは別々に作品をつくることになる。そして1462年マインツの兵火により工場を焼かれた工員たちは、各地に散って印刷所を開いた。発明後50年で1000軒を超える印刷所がヨーロッパにできたという。なかでも有名なのはイタリアにおけるジャンソンNicolas Jenson(1420ごろ―1480)で、現在も広く使われている活字書体であるローマン体をデザインし、マヌティウスAldus Manutius(1450?―1515)はイタリック体(斜体)をデザインした。このほかベルギー(当時のネーデルラント)のプランタンChristopher Plantin(1514―1589)、フランスのエチエンヌEstienne一家、イギリスのカクストンらが活字書体のデザインや活版術の基礎を築いた。
[山本隆太郎]
一方、東洋の印刷術も別個に発達していて、朝鮮ではグーテンベルクよりはるかに早い1400年代の初めに王立の活字鋳造所が設立され、数十万の銅活字がつくられていたという。日本には次の3期に活版がもたらされた。第一は、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(1592~1598)により朝鮮から持ち帰った銅活字を使い、後陽成(ごようぜい)天皇の命により『古文孝経』その他が印刷されたとき(1593)である。この活字は徳川家康の刷らせた駿河(するが)版へと伝承された。第二は、遣欧少年使節に同行の神父バリニャーノが持ち帰った活字と印刷機でキリシタン版を刷ったとき(1591)である。第三は、本木昌造(もときしょうぞう)がオランダ渡りの印刷機や活字によって1856年(安政3)にオランダ文典を刷ったときである。
この三つの事実はそれぞれ独立していて脈絡はない。とくにキリシタン版は、キリスト教弾圧によって、わずか20年間に31種の欧文、和文の書物を印刷しただけで終わった。これらの本のそれぞれは世界に1部ほどしか残されていない貴重なもので、和文は行書体、草書体の精巧な活字を使用している。その約200年後に本木が苦心してつくった鉛活字および活版術が明治時代に開花する。本木は元来オランダ語の通詞であって、西洋の活版印刷による美しい本をみるにつけ和文活字をつくりたいと念願していたと思われる。本木は長崎製鉄所に勤めるかたわら新街私塾(後の長崎新塾)を開き、少年の教育を行うための費用を活字製造事業により補おうとした。彼は、中国上海(シャンハイ)美華書館のアメリカ人宣教師ガンブルWilliam Gamble(?―1886)が帰国の途中長崎に立ち寄った機会をとらえ、西洋式の鉛活字の作り方を教わり、自ら「活字判摺立所(かつじばんすりたてじょ)」を設立し活字を鋳造し、オランダ文法書『セインタキシス』Syntaxisを1856年に出版した。さらに本木の高弟平野富二は明朝体(みんちょうたい)活字初号から5号を完成(1871)、活字の販売に力を注ぎ、東京に進出し長崎新塾出張活版製造所を設立した(1872)。これはのちに築地(つきじ)活版製造所となり、日本で初めて印刷機を製造し(1873)、当時諸所で設立された新聞印刷、書籍雑誌印刷に貢献し、以後の印刷技術に継承された。
日本で最初に日刊の邦文新聞が発行されたのは1871年1月28日(明治3年12月8日=旧暦)の『横浜毎日新聞』であり、活版印刷所としては、明治初年に英和辞書を印刷発行した横浜の日就社、1871年ごろ開業の東京博聞社があった。
[山本隆太郎]
グーテンベルクの発明した鉛活字の作り方は、溶かした鉛の合金を文字を刻んだ母型と鋳型の間に流し込む方法で、初期のころは手作業であったが、1843年に機械化された。これは手回し式であり、活字の仕上げは手工に頼っていた。活字を1本1本拾い集めて版とする方法はいかにも能率が悪く、機械化する方法が考えられていたが、19世紀の末に自動活字鋳造機が完成した。1886年ごろにライノタイプLinotypeがアメリカにおいて発明された。発明者はマーゲンターラーOttmar Mergenthaler(1854―1899)で、必要な母型を1行分集め、これに鉛を流し込む。1行分ずつ組むところからラインを意味するライノタイプと称される。同時代にやはりアメリカにおいてランストンTolbert Lanston(1844―1913)がモノタイプMonotypeを発明した。これは1字ずつ活字を鋳造して自動的に並べていくところから「モノ」タイプと称した。ライノタイプはアルファベットのキーをたたいて1行を鋳造するまでが1台の機械であるのに対し、モノタイプはキーボード部分と鋳造部分が別個の機械となっていた。キーボードでテープに文字の符号を穴あけし、これを鋳造機にかけると符号に従って相当する母型に鉛が流し込まれ、1字ずつ活字ができて排出され組版ができる。この2種類の自動組版機械は世界中で広く利用されたが、1970年代から電算植字機(CTS)にしだいに置き換えられた。
[山本隆太郎]
印刷機は、グーテンベルク機のねじが木製から金属製になった以外は約350年間、本質的には変更はなかった。1800年にイギリスのスタナップ(スタンホープ)が鉄製の印刷機をつくった。これは非常に巧妙なレバーを利用した機構で、わずかの力でハンドルを引くと、螺旋(らせん)棒を回転させて圧盤が下降し、印刷には強い圧力が得られるものであった。この型の機械は、1850年(嘉永3)にオランダ政府から徳川12代将軍家慶(いえよし)に贈られた。江戸幕府が設けた洋学の研究所蕃書調所(ばんしょしらべしょ)では、この機械を使用して『和蘭(オランダ)武功美談』を1857年(安政4)に印刷した。スタナップ型印刷機は発明当初『ロンドン・タイムズ』などの印刷に使用されていたが、1時間に200枚か300枚くらいの印刷しかできなかった。
当時ヨーロッパではナポレオンが活躍していたときで、戦地の報道も多く新聞発行部数も増えていたから、高速印刷機が要望されていた。ドイツ人フリードリヒ・ケーニヒは苦心のすえ押胴式印刷機(円圧印刷機)を発明し(1814)、版面をのせる板を往復運動させ、その上に円筒形の押胴を置いて圧力を加えた。そのころのタイムズは3台のスタナップ型印刷機を使い、12人がかりで2ページの新聞を徹夜で8000枚刷っていたが、このケーニヒ型印刷機によって1台2人で同時間9900枚を印刷できた。円圧印刷機はしだいに高速になり、1892年には自動的に紙を印刷機に入れる装置が発明された。
さらにケーニヒの印刷機から進展して、版を円筒状にし、押胴との間に巻取紙を通す輪転機が発明され、やはりタイムズ社に採用され、1時間片面刷り7500枚を印刷できるようになった。この輪転機は、活字を円筒面に植えるのに苦心したが、アメリカの南北戦争(1861~1865)を契機として紙型(しけい)鉛版法の実用化が研究され、ますます輪転機の速度が上昇した。1862年ロンドンで1回転4ページずつ新聞印刷ができる輪転機が実用となり、これに刺激されてドイツやフランスでも相次いで同種の輪転機を製造した。フランスではマリノニ社製の輪転機が有名であり、これは1890年(明治23)日本が『官報』印刷のために最初に輸入した輪転機である。その後新聞社が続々とこの型を輸入、これを改良して東京機械製作所が独自の高速輪転機を製造するようになり、4ページの新聞を毎時15万部印刷する性能を誇示するまでになった(1933ごろ)。これは日本の新聞全国紙数百万部発行という要求に基づく。日刊新聞でこのように大部数を発行している例は、当時も今も他の国ではみられない。1970年代以降、各国の新聞の印刷法は活版からオフセット印刷に移行した。これは組版が活字から電算植字(CTS)に移行したことと関係がある。
[山本隆太郎]
平版の初めである石版はドイツ人ゼーネフェルダーが1798年に発明した。楽譜の印刷をしようと、手元にあった大理石の一種で凸版をつくる実験をしているうちに、この石の表面が多孔質で水でふくと長時間乾燥しないこと、乾燥した表面は脂肪性インキと結合して特殊な物質となり水を反発することを発見し、同じ平面でありながらインキのつく部分とつかない部分をつくることに成功した。これが石版印刷で、ヨーロッパではポスター印刷あるいはリトグラフlithographと称し印刷芸術として歓迎された。そのうち、石版石のかわりに亜鉛板やアルミニウム板の表面に細かい凹凸をつけた、いわゆる砂目をつけた材料が版として使われ、シリンダーに巻き付けることができるので輪転形式でたばこの包装紙などの印刷に利用された。
アメリカのルーベルIra Washington Rubel(1846―1908)は、版から紙にインキを移すのでなくて、一度ゴム布に印刷し、それから紙にインキを移す間接印刷の機械をつくり、オフセット印刷法を発明した。この方法によれば、版は安く、紙も高級品を要せず、高速印刷できるので、インキ付着のよくない欠点もあったが、とくにカラー刷りに多用されるようになった。さらに1970年代にはPS版(presensitized plate メーカーであらかじめ感光液を塗布した平版)の普及と自動処理機が一般的になり、写真製版の時間が短くなったため、写真植字や電算植字とオフセットを結び付けての文字印刷も盛んになった。巻取紙を使うオフセット印刷機はオフセット輪転機(オフ輪)とよばれ、大部数発行の雑誌や新聞の印刷に利用されている。
[山本隆太郎]
1837年フランスのダゲールが銀板写真を発明してから、諸種の写真法が考案されたが、イギリスのポントンMungo Ponton(1801―1880)が重クロム酸塩の感光性を利用してコロタイプ印刷発明の基礎をつくり、さらに、いわゆる写真製版法が確立された。凹版方式でいえば、1460年ごろイタリアのフィニゲラMaso Finiguera(1426―1464)が彫刻凹版の技術に新機軸を出して以来、芸術的なエッチングとしてオランダのレンブラントらが版画を創作したが、1879年チェコのクリッチュKarl Klietsch(またはKlič)(1841―1926)が写真印画法を応用し散粉式写真凹版をつくった。その後スクリーンを使ったグラビアも考えられた。写真を高速で大部数印刷したり、また溶剤性のインキを使って紙以外の物質に印刷するのに広く利用されている。とくにヨーロッパでは週刊誌の印刷に歓迎された。
[山本隆太郎]
版にインキをつけ、紙に押し当てて印刷するときを考えてみると、木版のように紙の裏面からこする場合は時間がかかり、しかも紙の裏が傷む。これにかわって最初に現れた方法は、頑丈なプレスにより平らに押し付ける方法であった。これを平圧式といい、紙の裏面が傷まないから、表も裏も印刷できるようになった。しかし、この方法では機械的にあまり速度が出ず、円筒を転がして圧力を加える円圧式が考えられた。この方法は平圧式に比べはるかに速い速度で印刷できる。紙は版の上にのせておいて圧力を加えてもよいが、印刷するときに円筒の上部または下部から差し入れてやる。この方式の欠点は、円筒(圧胴)を転がした場合、もとに戻す必要があり、逆に圧胴を固定しておき、版を動かした場合は往復運動をさせねばならず、いずれも機構的に複雑になる。そこで版も円筒状にしてしまう輪転式が考えられた。版そのものを円筒状につくるか、あるいは円筒に巻き付けて、これと反対方向に回転する圧胴との間に紙を挟んで印刷する方式である。紙は枚葉紙でもよいが、巻取紙のほうが印刷速度が出る。ただし巻取紙を高速で印刷すると、その速度に応じてふたたび巻き取るか、枚葉紙に断裁しなければならない。
また印刷インキに電荷を与えておき、電子吸着板に向かってインキを飛ばす方法が1950年代に開発された(電子印刷)。印刷する際に圧力を要しない方法(無圧印刷)であり、インクジェット印刷もこれに含まれる。
[山本隆太郎]
(1)凸版印刷 インキのつく部分を残してあとの部分は彫りくぼめた版。言い方を変えれば、出っ張った部分にインキをつけて印刷する版の形式をいい、木版や活版はその代表的なものである。印刷物の文字や模様(画線という)が鮮明で力強く、印刷品質がよい。
(2)平版印刷 版面は、画線と画線でない部分(非画線部)が凸凹しておらず同一平面上にあるが、画線部は化学的にインキがつく状態にし、非画線部はインキを反発して受け付けない状態にしてある。平版印刷は一般的にオフセット印刷が行われる。つまり、印刷版から直接紙に印刷せず、一度ゴムに印刷し、ゴムに転写されたインキを紙に印刷する。
(3)凹版印刷 凸版方式とまったく逆で、インキをへこんだところに詰めて印刷する。彫刻凹版やグラビアがこの方式に属する。彫刻凹版は銅版画と同じように、手作業で模様を版材に彫刻して凹版とする。グラビアは写真や文字を原稿とし、これに相当する画線を、写真技術を利用して、細かい多数の凹点で構成させて版とする。
(4)孔版印刷 画線部に小さな穴があいている型紙(版)を使って、インキを版の表から裏へ、この小孔から通り抜けさせて印刷する方法である。謄写版印刷、スクリーン印刷がこれに属する。
[山本隆太郎・中村 幹]
かつては活版印刷が印刷の主流を占めていたが、今日では平版や凹版印刷にとってかわられている。しかし活版はもっとも歴史が古く、また印刷pressの語意にいちばんふさわしい方式であるので、活版の印刷工場内の工程を紹介する。
原稿のうち、絵や写真の原稿は別にして写真製版法により線画凸版や写真版をつくる。文字原稿は文選(ぶんせん)、植字、校正、紙型(しけい)鉛版、印刷の順序を経て活版印刷物となる。線画凸版や写真版は植字(組版)の段階で活字といっしょに組み込む。印刷部数の少ないものは紙型鉛版の工程を経ずに原版刷りされる。
文選は、活字ケースの中から原稿に従って活字を1本ずつ文選箱に拾い集める作業である。雑誌の本文に多く用いられた8ポイント(天地約2.8ミリメートル)の活字を文選するときは、原稿の難易にもよるが、普通1時間に1300~1400本くらいである。発注者としては、わかりやすい原稿を準備することがたいせつである。文選の能率を高めるためには、活字ケースのどこにどういう字を配列するかが問題となる。漢字の偏や旁(つくり)を基準としたいわゆる部首別の配列を施してあるが、使用頻度の高い文字百数十をとくに大出張(おおしゅっちょう)、ついで数百の文字を小(こ)出張といい、文選工があまり動かないで作業できるように、手にもっとも近い所に置く。普通の文章に必要な文字は3000~4000字くらいである。
文選は、文字だけを集め、句読点や改行などいっさいかまわずに作業し、集めた活字を植字工に渡す。ここで割付けに従い、見出し、句読点を入れ、改行をし、必要な場合は字と字の間に込め物を入れて間隔をあけ、線画凸版や写真版を組み込み、1ページの体裁に仕上げる。難易にもよるが1ページ1時間くらいかかる。これを簡単な印刷機(校正機)にのせて試し刷りをする。これを校正刷り(ゲラ刷り)といい、誤って拾った字(誤植)をこの工程で訂正する。この作業は普通、印刷工場内と発注先で行う。最初の校正を初校、2回目以後を再校、3校、4校……といい、校正終了を校了、わずかな直しを印刷所の責任において直す指示を責任校了(責了)という。校了になった各ページを8ページあるいは16ページ、32ページというように並べて大判で印刷し、これを折って折り丁(ちょう)をつくり、これをいくつか集めて綴(と)じて雑誌や本の形にする。
活字などを組み上げた版を原版(げんぱん)、この版で直接印刷することを原版刷りという。原版刷りは数千部までの印刷で、大部数では活字が磨滅するので複版をつくる。複版とは同じ版を多数つくることで、活版の場合は鉛版が複版である。活版の上に特殊加工の紙をのせ圧力を加えると、版と逆の紙型ができる。これに鉛合金を流し込めば元の活版と同じ鉛版ができる。紙型を丸めておき鉛を流せば丸(まる)鉛版ができる。これは半円筒状なので、2枚を円筒に抱き合わせ輪転印刷機の版とする。かつて新聞印刷においては1ページずつこの丸鉛版をつくり新聞輪転機で印刷する方式が主流をなしていたが、1960年ごろから樹脂版が鉛版にとってかわった。平らな鉛版や原版による印刷もあった。
自動機械化された組版法では自動鋳植機が用いられた。キーボードによって原稿に従い紙テープに穴あけする。この穴あきテープを鋳植機に入れると、活字を鋳造するための母型(ぼけい)が選択され、鋳造された活字は順次1行ずつ並んで排出される。これが1ページ分になると手でまとめる。鋳植のスピードは毎分120字くらいであった。穴あきテープは通信にも使用できたので、この自動鋳植機は新聞社で多用されていた。しかしその後コンピュータを利用した電子組版の時代になり、文字の部分は電算植字機を用いて出力し、画像の部分はスキャナーで取り込み、ディスプレー上でレイアウト組版し、まとめて版上に出力するようになった。こうしてできた版は発行部数により複版して輪転機にかける。
[山本隆太郎]
活版は重い鉛合金を使い、環境衛生上からも好ましくなく、写真植字法が発達した。写真植字機は1924年(大正13)石井茂吉(もきち)(1887―1963)、森沢信夫(のぶお)(1901―2000)が発明したものであるが、しだいに改良され、現在では写真を利用したタイプライターの域から脱し、コンピュータと結び付いて毎分数千字を組む能力のものが実用になった。手動の写真植字機は、ガラス文字盤を手で操作し、写真印画紙上にレンズを通して文字像を結ばせる。これを現像、定着、水洗、乾燥すれば、印画紙に黒い文字が現れて、活字とは違った組版を行うことができる。また、コンピュータを利用した写真植字機は、あらかじめ文字を磁気記憶させておき、キーボードを操作することにより必要文字をディスプレー上に呼び出し、訂正、編集を行い、フィルムあるいは印画紙上に出力する。
[山本隆太郎]
カラー印刷においてはカラーフィルムの原稿から4色印刷用の版をつくるが、複数のカラーフィルムの組合せや色調の修正をカラースキャナーcolor scannerで行う。カラーフィルムを微小な点に分割し、各点について黄、赤、藍(あい)、墨の要素に分けてフィルムに露光し、製版用の原版とする。また、印刷機においては、やはりコンピュータを使ってインキの供給量調節を自動的に行うことができる。印刷機や製本機は省力化、自動化が進み高速になり、印刷インキや版の材料は新しい合成樹脂に置き換えられ、性能は飛躍した。とくに製版のための感光材料や感光性樹脂は作業を簡易化し、作業時間を著しく短縮した。
[山本隆太郎]
ページメイクアップシステムあるいはレイアウトシステムなどともいわれる電子技術利用の編集、色修正用の装置が実用に供された。1ページ中の文字や写真版の占める面積などをディスプレーに出し、これを見ながら自由に割付けを行い、またカラー原稿の色分解をしたものを合成してディスプレーに出し、複数のカラー原稿の組合せや色の変更などを自在に調節し印刷版の原版をつくるものである。
[山本隆太郎]
紙以外のものに印刷したり、あるいは紙に印刷するにしても特殊な印刷法や加工法を行うことを特殊印刷、略して特印という。版式別に分類すると次のようになる。
(1)凸版形式のものには、シール印刷(ラベル印刷)、フレキソ印刷(ゴム版印刷)、ビジネスフォーム印刷がある。シール印刷は、現在は粘着フィルムを用い、シール、ラベル、ステッカー、ネームシートなど美しいカラー刷りをし、またオートバイや自動車の車体装飾に用いる。
(2)平版形式のものには、転写印刷、ステレオ印刷、OCR印刷、OMR(optical magnetic reader 光学式磁気読取装置)印刷、ブリキ印刷、ビジネスフォーム印刷がある。
(3)凸版オフセット形式のものには、チューブ印刷、アンプル印刷、小形電気部品の印刷、シール印刷がある。
(4)凹版形式(グラビア)のものには、セロファン印刷、プラスチックフィルム、シートの印刷、フォイル印刷、化粧板印刷、壁紙印刷がある。化粧板印刷は、たとえば木目や石の模様を印刷してプラスチック加工することにより、本物の木や石と同様の表面をつくり、家具、電気器具、建築材料に利用する。
(5)凹版オフセット印刷形式のものには、タコ印刷がある。タコ印刷は、凹版から一度球状ゴムに印刷し、これから曲面の皿や電気部品、あるいは時計の文字盤に印刷する。ゴム球がタコに似ているのでこの名がある。
(6)スクリーン印刷形式のものには、ガラス印刷、プラスチック成型物への印刷、プリント配線、ネームプレートの印刷、発泡印刷がある。発泡印刷は、特殊なインキを用い、印刷後加熱することにより、その部分を盛り上げる。
(7)いずれの版式でもよいものには、植毛印刷、レリーフ印刷、浮き出し印刷、磁気印刷、カーボン印刷がある。植毛印刷は、電気の力を借りて細かい繊維くずを飛ばし、ビロード状の模様をつくる方法である。磁気印刷は磁性材料を含むインキで印刷し、印刷物に特性を与えるもので、各種カード類の印刷などに利用されている。
なお、印刷と目的を同じくする技術に複写(コピー)があるが、印刷では原則として版を使用する。複写では版を使わず写真的、電子写真的に原稿と同じ模様のものを多数複製する。複写は印刷に比較して精度、高速多数複製の諸点で劣るが、少数迅速複製の点で勝る。
なお、1990年代に入って現れたオン・デマンド印刷機は、電子写真やインクジェットの原理を利用して連続的にカラー印刷を行うもので、大幅にスピードが上昇した。
[山本隆太郎・中村 幹]
文字の印刷は、1枚の木の板に多数の字を彫りつける木版刷りから始まり、1字1個の活字をつくって組み合わせる活版になった。これからさらに写真植字という方法で文字を写真的に並べてゆく方法になり、さらに、コンピュータと写真を利用して1分間に何千字もの組版をする電算植字方式となり、現在はDTP(デスクトップ・パブリッシング)が主流になっている。
文字の印刷では日本語ワードプロセッサーとパソコンが組版技術に大きな影響を与えた。原稿の執筆者がすべてこの機器を使い、テキストをUSBメモリーに保存、もしくは電子メールに添付して、印刷所に文章を渡すようになっている。このデータを多少整えれば組版体裁の整った印刷用の出力ができる。印刷法も、紙に押し付ける印圧の不要な無圧印刷、すなわちインクジェットや電子印刷が増えてきた。これらは熱や素子の振動によりインキを飛ばしたり電子の力をかけてインキを飛ばす印刷法であるが、高速であること、コンピュータとの連係が容易であること、接触しないで対象物に印刷できることなどが特徴である。
カラー印刷においては文字の入ったカラー用の印刷版が、ディスプレーを見ながらレイアウトできるようになった。それを各色版ごとの刷版の形に出力する場合が大半を占めるようになった。印刷機や製本加工仕上げ機も、コンピュータにより高度に自動化され、管理されるようになってきている。
[山本隆太郎・中村 幹]
『庄司浅水著『印刷文化史』(1957・印刷学会出版部)』▽『日本印刷学会編『印刷事典』(1958・大蔵省印刷局)』▽『印刷学会出版部編・刊『カラーイラスト印刷技術』(1981)』▽『寿岳文章著『図説本の歴史』(1982・日本エディタースクール出版部)』▽『電子出版研究会編『電子出版――出版・印刷・情報サービスの未来戦略』(1986・日本能率協会)』▽『日本印刷学会編『印刷事典』(1987・印刷学会出版部)』▽『関善造著『最新印刷ガイドブック』(1989・誠文堂新光社)』▽『大日本印刷編『印刷のおはなし――その緻密な世界』(1990・日本規格協会)』▽『横山和雄著『出版文化と印刷――活版から電子出版まで』(1992・出版ニュース社)』▽『日本印刷新聞社編・刊『早わかり印刷の知識――版式の原理から情報化技術まで』(1993)』▽『大江高司・石川優著『電子編集入門――出版・編集・印刷の新常識・仕事のハンドブック』(1995・オーエス出版)』▽『大日本印刷編『図解 印刷技術用語辞典』(1996・日刊工業新聞社)』▽『中根勝著『日本印刷技術史』(1999・八木書店)』▽『近藤龍太郎著『フォントの常識事典――文字システムから出力・印刷まで』(1999・日本実業出版社)』▽『澤田善彦著『変わるプリプレス技術』(1999・印刷学会出版部)』▽『野中通教監修『グラフィックアーツ』(2000・印刷学会出版部)』▽『レイアウトデザイン研究会編『出版・印刷・DTP用語辞典』(2001・ピアソン・エデュケーション)』▽『尾崎公治・根岸和広著『印刷の最新常識 しくみから最先端技術まで』(2001・日本実業出版社)』▽『日本印刷学会編『印刷事典』第5版(2002・印刷朝陽会)』▽『中原雄太郎・松根格・平野武利・川畑直道・高岡重蔵・高岡昌生監修『「印刷雑誌」とその時代――実況・印刷の近現代史』(2007・印刷学会出版部)』▽『張秀民・大内田貞郎・豊島正之・鈴木広光・小宮山博史他著『活字印刷の文化史――きりしたん版・古活字版から新常用漢字表まで』(2009・勉誠出版)』▽『中西秀彦著『学術出版の技術変遷論考』(2011・印刷学会出版部)』▽『尾鍋史彦著『紙と印刷の文化録――記憶と書物を担うもの』(2012・印刷学会出版部)』▽『松浦広著『図説 印刷文化の原点』(2012・印刷朝陽会)』▽『ワークスコーポレーション書籍編集部編『カラー図解 DTP&印刷スーパーしくみ事典 2012』(2012・ワークスコーポレーション)』▽『日本印刷学会技術委員会P&I研究会編『次世代プリンテッドエレクトロニクスへ――印刷による付加型生産技術への転換』(2013・印刷学会出版部)』▽『大塚彰著『印刷トラブル防止のツボ――オフセット現場の改善実録』(2013・印刷学会出版部)』▽『富士フイルムグローバルグラフィックシステムズ編『なるほど「湿し水」――管理とトラブル対策』(2013・印刷学会出版部)』▽『日本印刷新聞社編・刊『日本印刷年鑑』各年版』▽『日本印刷技術協会編・刊『印刷白書』各年版』
印刷は文書,絵画,写真などの平面的な画像を多数複製する手段であるが,現在ではその技術は多種多様となり,印刷とは何かを定義することは困難である。
ふつう印刷術は中国に始まったと考えられており,その場合の印刷術は木版に文字を彫りそれに墨を塗り,上から紙をあて〈バレン〉のようなもので文字を刷りとる方法が行われたのである。現在広く行われている活字印刷に対し,これを〈整版〉と呼んでいる。こうした印刷は唐代(618-907)に始まったと思われるが,しかしそれ以前から印刷類似の方法が中国やオリエントで行われていた。捺印や〈摺拓〉がそれである。ことに捺印の歴史は古く,オリエントでは前3000年以上もさかのぼるものがあり,主として封印に使われた。中国では漢以前から銅その他の金属を鋳造した印が多く使用され,封印にも使用されたことはあるが,代表的なものは官職印であった。官職に就くことを〈印綬を帯びる〉というが,任官すると官職名を鋳(い)こんだ印を皇帝から授けられ,これを身体につけたのである。福岡県で出土した有名な〈漢委奴国王印〉は黄金製である。もちろん私印の類も多く作られ,紙の発明以後は直接紙に捺印されたが,現行のように朱肉を使用するのは六朝時代になってからであろう。なお宋代のころから印材に玉石の類が使用された。
大きな石に文字を刻みそれから拓本をとる〈摺拓〉もまた印刷類似の作業である。後漢の時代から儒教経典の正確性と恒久性を保持するため,石碑に経典を彫ることがしばしば行われた。その初期の有名なものが〈熹平石刻〉である。175年(後漢の熹平4)に蔡邕(さいよう)が皇帝の命を受けて《六経》の校訂を命ぜられた。蔡邕は校定したテキストをみずから清書し,それを石碑に彫らせた。この石碑は太学の門外に立てられたが,それを写しとろうとする人々で混雑したということが《後漢書》蔡邕伝にみえる。ここにいう〈摹写(もしや)〉はおそらく〈摺拓〉を意味するのであろう。〈摺拓〉は水で湿らせた紙を碑面に密着させ,パッドに墨を塗って軽く紙面を打ち,碑文を写しとるのである。日本では紙を湿らさずに〈釣鐘墨〉を塗る〈乾拓〉の方法が行われる。
後漢末には道教が起こる。これはのちに道教教団の成立に発展し,道教徒のあいだでは特殊な文様を捺印した護符の類が多く作られるようになった。こうした護符を帯びると身に災害が及ばないという。仏教が伝わってくると,仏教徒のあいだでも同じようなことが行われたが,仏教では特に供養のため〈印仏〉を作ることが行われた。これは小さな仏像をいくつも1枚の紙に捺印するのである。道教や仏教が隆盛となるにつれ,この種の複製品の需要は高まり,捺印からやがて木版印刷へと発展するようになった。このように宗教活動は印刷術の発展に大きな影響を及ぼしたのである。同じく捺印といっても,護符や〈印仏〉は官職印などとはちがい,かなり大きなものであった。したがって板に文様を彫って紙に捺印したものと思われる。この方法はやがて絹布類に施されるようになった。こうした〈プリント〉技術もまた印刷術の源流と考えられる。
捺印では大きな紙面に文字その他を写しとることが困難なため,版木を下にして墨を塗り上から紙をあてて写しとる印刷術が考案されたのであって,捺印と印刷とはさほど本質的な変化はみられない。したがって捺印から印刷への移行は,唐代の人々にとってまったく新しい技術の発明とは意識されなかったであろう。こうした印刷術の登場が唐代のいつごろかということは明確でない。しかし印刷物の最古のものとして日本に残る〈百万塔陀羅尼(だらに)〉と呼ばれるものがある。陀羅尼は梵語dhāraṇīの音訳で,仏教経典の呪文を意味する。奈良朝の称徳女帝は764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱の平定後に発願して高さ4寸5分の木製小三重塔百万個を造り,その中に《無垢浄光大陀羅尼経》からの〈陀羅尼〉を印刷したものを収め,奈良を中心とした十大寺に寄進した。この〈陀羅尼〉には4種類があるが,その1枚が小塔に収められた。この仕事は770年(宝亀1)に完了したことが《続日本紀》に記録されている。これが印刷物の最古のものと考えられてきた。幅はほぼ5.4cm,長さは種類によってちがい,15~50cmほどである。しかし〈百万塔陀羅尼〉については,原版が銅版か木版かといった議論があるほか,ことに重要な問題は,捺印によるもので真正な印刷物でないとする説があることである。しかしここでは通説に従い,版木の上に紙をあてて刷った印刷物であるとしておく。
この〈百万塔陀羅尼〉は日本で印刷されたものであるが,中国文化圏の一つであった日本の状況からみて,おそらく中国ではさらに古くから印刷が行われたと考えるのが妥当である。しかし中国には770年をさかのぼる印刷物は残っていない。ところが1966年に韓国慶州の仏国寺の境内にある釈迦塔の塔頂部がこわれ,その中から《無垢浄光大陀羅尼経》の全文を印刷したものが発見された。これは〈百万塔陀羅尼〉に比べてはるかに長文のもので,紙の大きさは幅6.65cm,長さ6.3mに及ぶものであった。ところで仏国寺自体は新羅の法興王の15年(528)に創建されたが,のちに景徳王の10年(951)に修理が施され,その時に問題の釈迦塔が建てられた。したがって経典はそれ以前に印刷されていた。このことは経典にみえる則天文字からも立証される。則天武后は高宗が683年に亡くなったあと一時唐王朝を奪した女傑であり,天地日月など17字ほどの新文字を作った。これが則天文字である。新文字は690年ごろに作られ,武后の亡くなった705年までは盛んに使用された。しかし武后死後にもしばらく使用がつづいたと思われる。ところで《無垢浄光大陀羅尼経》自体の成立は704年ごろであり,これがまもなく新羅に伝わり,この地で印刷された。こうしてみると,韓国人学者が主張するように,この経典の印刷は8世紀前半のことであり,〈百万塔陀羅尼〉の印刷より古く,これこそ現存世界最古の印刷物であるといえよう。
中国に現存する最古の印刷物はスタインA.Steinが1907年に敦煌で発見した,868年(咸通9)4月15日に王玠なる人物が両親の供養のために布施した《金剛般若波羅蜜経》である。全体は幅30cm,長さ5m以上に及ぶもので,長さ80cmほどの紙をつなぎ合わせている。さらにこれにつづくものとしては877年(乾符4)のものと断定できる暦書である。いずれにしても初期における印刷物は,宗教経典や日常使用する暦書の類であった。
907年に唐は滅び,〈五代〉の分裂時代を迎えた。この〈五代〉の時代に,後唐から後周まで4王朝10人の皇帝の下で宰相となった馮道(ふうどう)は,唐末の混乱期に主として四川を中心として盛んに行われた印刷術の仕事を受けつぎ,儒教の経典を校訂し印刷することをはじめて行った。4王朝に仕えた馮道は無節操な人物として後世から非難されるが,中国の印刷術史上きわめて注目される人物である。〈五代〉につづく宋代(960-1279)は中国における印刷術の黄金時代で,儒教経典をはじめ,あらゆる分野の書物が印刷された。972-983年にわたって5048巻にのぼる《大蔵経》が四川省の成都で印刷された。印刷物自体も立派なもので,現存する宋版は芸術作品として珍重される。中央政府や地方官庁からの印刷物のほか,私工業としての印刷業が成立するようになった。また紙幣の先駆とされる〈交子〉の印刷が始まるのも宋代からである。
木版印刷が盛行した宋代にはじめて活字印刷の発明が加わった。沈括(しんかつ)の《夢渓筆談》によると,その発明者は畢昇(ひつしよう)と呼ぶ工人であった。当時の活字は泥土をにかわで固めて文字を彫り,そのあとで焼いた,いわゆる〈膠泥(こうでい)活字〉である。印刷にあたっては,鉄板に蠟を流して温めながら活字を並べ,並べ終わると鉄板を火より下ろして冷却させる。蠟で活字が固定されるのを待ち,そのあとは木版印刷と同じように,墨を塗り上から紙をあてて文字を写しとるのである。現在の〈プレス〉とはまったくちがった方法であった。その後,木や金属を材料とする活字が考案された。金属活字の場合は油性インキの使用が必須となる。1313年の元の時代に,王禎が著した《農書》の中で,木活字を使用してみずからの著書を印刷したことを述べている。この《農書》の中で特に注目されるのは,活字を配列する回転活字台に言及していることである。文選工は動きまわることなしに必要な活字を容易に捜し出すことができた。
中国の印刷は木版が中心であり,活字印刷は主として私人の手で稀に行われるにすぎなかった。しかし清朝の康煕時代に,来朝していたイエズス会士の指導によって銅活字が作られ,これによって《古今図書集成》など大部の印刷物が政府の手で刊行された。しかしその後まもなくこれらの銅活字は地金として流用されてしだいに失われたため,乾隆帝の時代には多数の木活字が作られ,《武英殿聚珍版叢書》などが印刷された。〈聚珍版〉は活字印刷を意味する。この叢書の刊行にあたって,木活字の製作および印刷の工程を述べたものに,金簡の《欽定武英殿聚珍版程式》がある。中国でなぜに活字印刷が流行しなかったかの理由は明白でない。漢字の数が多く,したがって活字も多く備える必要があったことが一つの原因と考えられる。しかし同じく漢字を使用した朝鮮において活字が広く使用されたことを考えると,これだけが原因のすべてではない。やはり伝統をとうとぶ保守的な風潮が支配的であった中国では,古来の木版が重要視されつづけたのであろう。
8世紀前半にすでに仏教経典を印刷していた朝鮮は,印刷術の先進国であった。特に注目すべき点は銅活字による印刷が盛んに行われたことで,この点で木版が中心であった中国とまったく対蹠的であった。朝鮮の活字印刷本で現存する最古のものは高麗時代の仏典(1377)であり,これは銅活字と木活字とを併用している。しかし銅活字の鋳造が盛んとなったのは李朝時代からである。《李朝実録》によると,太宗3年(1403)に太宗は朝鮮に書物の少ないことを遺憾とし,書物を印刷するため数ヵ月のあいだに数百万個の活字を鋳造させたという。この活字で印刷した《十一家註孫子》の一部が現存する。その後もしばしば新鋳活字を作る勅命が出され,有名な書家が動員されて活字の手本を書いた。第2回の新鋳は1420年に行われ,その年の干支にちなんで〈庚子字〉と呼ばれた。これは小型であったが,34年には大型の〈甲寅字〉が鋳造された。36年(〈丙辰字〉),50年(〈庚午字〉),55年(〈乙亥字〉),65年(〈乙酉字〉)などに新鋳が行われ,最後には84年に〈甲辰字〉が鋳造された。世宗(在位1419-50)の時代には表音文字〈ハングル〉が考案されたが,しかし〈ハングル〉用の活字は作られなかった。
日本では770年の〈百万塔陀羅尼〉から300年ほどは印刷の記録はなく,現存する印刷物もない。11世紀半ばごろから仏典を中心に印刷が行われるようになったが,ことに奈良興福寺で印刷された〈春日版〉が有名である。平安朝末期から鎌倉時代にかけ,興福寺をはじめとし奈良の諸大寺で盛んに印刷が行われた。やがて禅宗の伝来につれ,鎌倉の〈五山〉を中心とする〈五山版〉の刊行が盛んとなった。このころになると,中国からはすぐれた宋版が輸入されたが,日本では仏典以外の書物を印刷することは,ごく稀であった。やがて室町時代になると1364年(正平19・貞治3)の《正平版論語》などの印刷が行われた。これは大坂堺の私人の手で行われたものである。豊臣秀吉は天下統一のあと朝鮮に遠征し,朝鮮の銅活字を日本に運んだ。その結果,銅活字やそれを模した木活字による印刷が行われるようになり,江戸時代の初期まで活字印刷が主流となった。一方,16世紀末から17世紀にかけ,九州を中心にヨーロッパ式の金属活字による,いわゆる〈キリシタン版〉が行われた。このように一時期流行した活字印刷も17世紀前半で終わり,その後は再び木版印刷が復活した。木版では漢字とかなを組み合わせたり,漢字にルビを付けることも容易であり,また絵図を同時に挿しこむこともできた。しかし幕末になると再びヨーロッパの影響で活字印刷が行われるようになった。
紙と印刷術はともに中国の発明であるが,このうち製紙術は唐代にイスラム諸国に伝わり,やがてヨーロッパに広まった。このように紙の場合は,伝播の経路や時期が明白であるが,印刷術の場合はきわめてあいまいである。上述したように複製品の需要が多い宗教活動と結びついて印刷術が始まっているのであるが,中国に隣接するイスラム諸国の聖典である《コーラン》は,代々写本として伝わり,これを印刷することは聖典の神聖さを汚すものとして長く禁止された。こうして中国とヨーロッパの橋渡しの位置にあったイスラム諸国は,印刷術に関する限り,その役割を果たすことがなかった。もちろんこうした通説に対し,これを反論する資料がまったくないわけではないが,まだ結論がでていない。
ヨーロッパに印刷術を紹介したのはマルコ・ポーロであったという説がある。周知のようにイタリアのベネチアに生まれたこの人物は元の世祖フビライに仕えて親任があり,1292年に帰国したときに印刷された紙幣を持って帰り,これが契機となってイタリアで木版印刷が行われるようになったという。しかし彼が書き残した有名な《東方見聞録》には印刷術に関する記載はなく,この説は証拠に乏しく疑問視されている。マルコ・ポーロ以前からヨーロッパ人がモンゴル帝国を訪れていた。1245年にプラノ・カルピニが教皇の使者としてモンゴルに派遣されており,また53年にフランスのルイ9世の使者として派遣されたルブルクはモンゴルの主都カラコルムで何人かのヨーロッパ人に出会ったことを,彼の旅行記に書き残している。こうした旅行者が中国の印刷物を持ち帰る可能性があったことが推定される。マルコ・ポーロ以後になると,94年に大都北京に着いたモンテ・コルビノは北京でのキリスト教伝道に成功し,1304年には大司教に昇格し,ローマから彼を助ける7人の司教が送られてきた。これらの宣教師たちは伝道のため聖典や図像を印刷しており,ヨーロッパに印刷術を伝える可能性があったことが考えられる。しかしこれもまた立証する証拠はない。
中国の印刷術に関する有名な著述を行ったカーターT.F.Carterは,ヨーロッパに印刷術が伝わった経路について,次のような推定を行っている。モンゴルは欧亜にまたがる大帝国を建てたが,モンゴルとヨーロッパが文化的に密接に接触した2ヵ所の都市があった。その1ヵ所はイル・ハーン国の主都であったペルシアのタブリーズであった。ここではイタリアを中心としたヨーロッパ諸国とのあいだに公式な交渉があり,各国の代表部が置かれ,しばしば使節が派遣された。13世紀末のガイハートゥー・ハーンの時代に国庫が枯渇したため,漢文とアラビア文の紙幣が印刷されたことがあったが,これがイタリア諸国になんらかの影響を及ぼした可能性が考えられる。次に支配者となったガーザーン・ハーンの時代には,宰相ラシード・アッディーンが勅命を受けて世界史の編集に着手した。14世紀初頭に完成したこの《集史》には中国の木版印刷に言及している。この書物は写本として伝えられたが,中国以外の土地において印刷術にふれた最初の書物であった。
タブリーズと並んで印刷術のヨーロッパへの伝播を考える上で重要な地点は,モスクワの東にあるニジニ・ノブゴロドである。ここはモンゴル時代を通じて東アジアの物産の集散地であり,北部ヨーロッパとのあいだに貿易が行われていた。ここを通じても印刷術の伝播が考えられるが,この場合にも確証は得られていない。
14世紀のヨーロッパはイタリアを中心にルネサンス運動が興った。都市は繁栄し民衆の力が増大した。この土地で木版印刷が行われるようになった。初期の印刷物は,かるたの類を除くと,ほとんどすべてがキリスト教の図像類であった。宗教が多数の複製品を必要として印刷術を発展させたことは,この場合にも例外でなかった。古くから使用された羊皮紙に代わって,この時代には紙が普及していたが,印刷が紙に対して行われただけでなく,類似の技法を使って織物へのプリントも行われた。木版印刷は最初にベネチアを中心に行われたが,まもなく中央ヨーロッパに広がった。伝播の経路は不明であるが,ヨーロッパの木版印刷術が中国に起源を持つことは確実であろう。
ヨーロッパに活字印刷(活版印刷)が始まったのは15世紀半ばであるが,その最初の考案者が誰であったかについては異説がある。その中で有力なのはオランダ人コステルJ.Costerとドイツ人グーテンベルクJ.Gutenbergをあげる説である。主としてオランダ人学者の説によると,コステルはすでに1423年ごろ活字印刷術を発明しており,グーテンベルクはその技術を盗んだというが,明確な点はまだ確かめられていない。一般的にはグーテンベルクが活字印刷の最初の発明者とされている。彼は1398年ころドイツのマインツに生まれ,1434年ころシュトラスブルクに移ったが,このころから活字印刷術の発明にとりつかれた。まず鋳型を作り,それに鉛を流しこんで鉛活字を鋳造した。次に油性インキの工夫に成功したほか,ブドウしぼり機にヒントを得てプレス式印刷機を考案した。中国にも早くから活字印刷が行われていたが,プレス式印刷機こそはグーテンベルクが最初に考案したものといえる。彼は48年ごろ郷里のマインツに帰り,55年ごろこの地で有名な《四十二行聖書》の印刷を行った。1ページは2段に分かれ,1段が42行であるところから,その名がある。グーテンベルクの晩年は不幸であったが,印刷技術はやがてドイツ国内に広まり,ことにニュルンベルクがその中心となった。この町のヨハン・オットーJ.Ottoは1515年から出版事業を始めるようになった。ドイツについで活字印刷が盛んとなったのはイタリアであり,やがてヨーロッパ全土に広まった。印刷術の流行はヨーロッパの知識水準を高め,近世への開幕に大きく貢献したことはいうまでもない。
→印刷工
執筆者:藪内 清
印刷の一般的な工程は,文字,絵画,写真などの忠実な版を作り(製版),版にインキをつけ,インキを紙に移すことである。したがって,製版が最も重要な役割を占め,版式のちがいによって使用する印刷機も異なる。基本的には凸版,平版,凹版,孔版の4種の版式があり,表にその特色を示す。
インキのつく部分を残して他の部分は彫りくぼめる形の版を凸版という。凸版は印刷の原理として明快であり,印章などにも用いられる。初期のころは木材面を彫る木版であったが,やがて木版にかわり金属凸版,それも彫刻でなく鋳造によって製造されたものが登場した。ついで,1445年ころ,ドイツのグーテンベルクは鉛,スズ,アンチモンの3元合金の鋳造活字を作り,またブドウしぼり機にヒントを得たプレスすなわち活版印刷機を製作して美麗な印刷物を多数後世に残した。ここで凸版印刷の大宗である活版印刷の方法が確立し,500年にわたる文字印刷を築きあげた。
1798年,ドイツのA.ゼネフェルダーは,ゾルンホーフェン地方に産する大理石の1種を加工して凸版を作り楽譜印刷を試みたが,凸版形式にせずとも化学的な方法により印刷版を作ることを発明,石版印刷を完成した。多孔質である石の面に脂肪に感ずる画像部分を作り,同じ平面でありながら,脂肪性印刷インキのつくところとつかないところを作って印刷を行う平版版式である。石版石と名づけられたこの版材は,のち金属板に代えられて金属平版が登場した。
凸版形式と反対の凹版は,金属板の表面にきずをつけ,くぼんだところにインキをつめて紙に移す方法で,金属細工にその発祥をもとめることができる。すなわち銀の板あるいは金の板に絵模様を凹刻し,刻線に他の金属をすりこむ細工から,15世紀の中ごろイタリアのM.フィニグエラが彫刻凹版印刷を思いついたとされている。現在の凹版は彫刻とエッチング(食刻)の二つに大別されるが,さらに細かい技法が工夫され実用になっている。また,写真製版法および写真印画法と結びついてグラビア印刷が発明された。1879年チェコのK.クリッチが散粉式写真凹版を考案したのにはじまり,現在のグラビア(ロトグラビア)に発展した。
孔版は,型染の原理と同じく,ステンシル(型紙)を枠に張りインキを押し出して型通りの模様を紙に移す方法である。謄写版とシルクスクリーン印刷がこれに属する。謄写版はアメリカのT.エジソンが19世紀末に発明したが,日本の堀井新治郎が蠟引き紙に鉄筆で穴あけする方法を発明して以来,事務印刷として重宝がられた。シルクスクリーン印刷は,友禅染の発達した技法があったにもかかわらず日本では低調であったが第2次世界大戦後,ぬりどめや写真製版によるステンシルの製法が輸入されて,さかんになった。
→凹版 →孔版 →凸版 →平版
印刷を文字の印刷とそれ以外の写真や絵画などの印刷とにわけてみると,文字は同じパターンがくりかえし使用されるので,活字や写真植字のように,あらかじめ製作し貯蔵しておいた印刷用文字を必要に応じ呼び出して使用する。この考えのもっとも古いものは活字である。金属製活字は15世紀から5世紀にもわたって利用されてきたが,20世紀に入って写真術が進歩し,写真植字法が発明され,実用期に入った。文字の写真画像を製作・貯蔵しておき,必要に応じて感光物上に順次拡大あるいは縮小投影し,これを現像すれば文字像を得る。これを写真製版により,各種の版に作りあげる。この写真植字法から電算植字が発達した。初期のものは文字の写真画像を,さん孔テープの指令により選び出し,感光物に露出するものであった。エレクトロニクス技術が進むにしたがい,文字はドットに分解し貯蔵しておき,テープ指令によりブラウン管に呼び出し,編集・校正などの処理をしたのち感光物上に高速で出力する方法が普及した。このコンピューター機能を活用した文字組版方式は,組版の記憶,検索(必要項目のみとり出す),訂正などが迅速容易であるところから,とくに各種名簿類,辞書・事典類,新聞の組版に利用される。日本の漢字まじりかな文は使用文字数が多いのでこの種の装置の開発は欧米にくらべ遅れたが,新聞および一般組版に広く利用されるにいたった。
いっぽう,写真や絵の印刷は原稿に濃淡があって,凸版や平版のように版につけるインキの厚さが一様なものでは再現が困難であった。そこで考案されたのが網版法である。1890年アメリカのレビー兄弟Max Levy,Louis Levyが網目スクリーンの製作に成功して以来,広く実用化した。これは人間の目の分解能に限界があり,原稿の濃い部分は大きい点(網点という),淡い部分を小さな網点におきかえ,網点自体を小さくして印刷すると,人間の目には網点ではなく濃淡のある画像として映ずる。たとえば,図2-aの網目スクリーン(小さな網点のあるフィルム)を感光性フィルムと密着させて原稿を撮影すると,原稿の濃い部分は網目を通過する光量が少ないから小さな網点に,淡い部分は光量が多いから大きな網点になって感光性フィルムに感光する。これを網ネガティブという。網ネガティブを新しいフィルムに密着焼きすれば,原稿の濃い部分は大きな網点に,淡い部分は小さな網点となる。これを網ポジティブといい,網ポジティブをもとに凸版の版面を作ると図2-bのようになり,印刷すると図2-cのようになる。図は拡大したもので,実際の網目は1インチ(約2.5cm)当り凸版で100~120線,オフセットで100~200線くらいのものを使っており,印刷物は濃淡のある画像となる。凹版とくにグラビアの場合は,図2-dのような白線スクリーンを使って製版すると,版面のくぼみは図2-eのように原稿の白っぽいところは浅く,黒っぽいところは深くなる。これにインキをつけると,浅いところは少なく,深いところは多くつくので,紙に移すと濃淡の諧調が再現できる。
写真や絵画などの印刷ではカラー印刷(多色印刷)の需要が多い。印刷において色を作り出すのに用いられている原理は減法混色と呼ばれ,これは,シアン(青緑),マゼンタ(赤紫),イェロー(黄)のインキを適当な濃度で混ぜ合わせるとすべての色を再現できるというものである。具体的には原稿からそれぞれの色の成分をとり出し(これを三色分解,あるいは色分解という),それぞれの版を作って順次印刷を行えばよく,それぞれの色の成分の濃淡は,前述と同様網点等で表現する。色分解には,それぞれのインキの補色フィルターを通してカメラ撮影する方法,カラースキャナーを用いる方法がある。また,実際の印刷では,色の再現性をよくするため,上記の3色のほか,墨(黒)インキ用の版を作り,4色を刷り重ねており,さらに調子(トーン)を補うときには1色か2色補うこともある。
→写真植字機
素人でも手軽にできる簡単な印刷法を普通の印刷法と区別して簡易印刷または軽印刷というが,はっきりした区別はない。かつて多用された謄写版(孔版)印刷のほか,こんにゃく版,ゼラチン版などがこれに該当し,そして謄写版印刷から発達して,タイプ孔版,タイプオフセット,写真植字オフセットなどの製版印刷法を利用,需要者の注文を迅速にこなす印刷業者を軽印刷業と呼ぶようになった。この軽印刷の用途は,各種の事務用印刷物,講演予稿,テキスト,議事録など,品質はともかく,文字を主とする黒1色のパンフレット類が多い。外国では,早くからタイプライターが普及したから,タイプ印字を謄写版とし,あるいは写真製版にして印刷物とする方法が利用された。日本では,文字数が多いため,手書きの謄写版(いわゆるガリ版)から,特殊のカーボン紙にタイプ印字し,ステンシル(型紙)を作って謄写版とするタイプ孔版,専用のタイプライター印字から写真製版によりオフセット平版を作るタイプオフセットへと進展した。また,オフィス・オートメーションの一環として開発されたワードプロセッサーの出力文字を元にして製版印刷することも行われるようになった。軽印刷の印刷機は一般に小型のオフセット式で,素人にも簡単に操作できるように,たとえば版の自動装着,印刷枚数管理,製版印刷から製本への一連作業可能なものなどが現れており,製版法も簡易化した写真製版や電子写真利用の方法など自動化が進んでいる。このような機器を用いて一般官公庁,学校,会社で印刷物を作ることを社内印刷(欧米ではインプラント印刷)といい,その増加は専業印刷業者の仕事を奪うものとして問題視されている。
特殊印刷は,紙の上にインキを移す一般印刷に対して,紙以外の物質,たとえば布地,金属,金属箔,セロハン,各種プラスチックなどに印刷することをいう。また,通常のオフセット平版印刷やグラビア印刷に対して,蛍光インキを使ったり,立体印刷にしたり,においの出る印刷物,液晶インキを使ったものなどを特殊印刷ということもある。グラビア印刷業界では,特殊印刷とは包装用のプラスチック諸材料に印刷することを指す。また,平面に印刷するのでなく,瓶の表面,曲面,球面などへの印刷(主としてシルクスクリーン印刷法による)や,卵やケーキなどやわらかい物質への印刷(静電印刷法による),豆本など微細な印刷,逆に戸外用超大型ポスターの印刷などを特殊印刷ということもある。
エレクトロニクスの発達にともない印刷技術も自動化,省力化,省資源化し,高品質の印刷物を高速生産する方向にむかっている。もっとも大きな変革はカラー印刷の製版に用いられるカラースキャナーの出現である。従来写真的にカラー原稿を三色分解し,黄,赤紫,青緑の三色版を作っていたものを,ファクシミリ技術の応用によって短時間に,しかも大幅の修正可能な方法に転換させた。この新しいカラースキャナーは,カラー原稿としてリバーサルカラーフィルム(ポジカラー)を使うことを一般的にし,絵画でもいったんカラーフィルムに撮影し,これを原稿として三色分解を行い製版するという方式が採用されるようになった。また,短時間(早いものは10分以内)で三色分解ができ,その上コンピューターを利用して,鮮鋭度や色調などを変えることも可能になった。さらに,数枚のカラー原稿の合成や文字のはめこみなどもできる機種も実用になっている。
文字組版においては,従来の金属活字を使用する以上,邦文モノタイプの最高速でも毎分120字ほどの能力限界があり,写真植字の自動化がこれにとってかわった。ひろく電算植字といわれるのが,このシステムで,さん孔テープを入力することにより,毎分1000字以上の日本文をフィルムあるいは印画紙上に出力できることとなった。ただ単に文字を並べて出力するだけでなく,日本文特有の組版法則にしたがい,ビジュアル・ディスプレー・ターミナル,いわゆるVDTを使用した編集・校正機能をあわせ持つものもあらわれた。多くの新聞社では組版能力向上と,活版方式追放のためこのシステムを導入,編集製作は騒音の多い工場から静かで清潔な事務所に変わりつつある。
印刷物作製の全工程中,もっとも遅れているのは,原稿の作製と版下の作製である。原稿は創作活動であるから機械化や自動化はできないが,写真製版用の下絵である版下は,鉛筆書きのトレースが多いから自動化の可能性がある。版下作製機は,鉛筆書きの直線,曲線,図形,符号,文字類をカーソルでトレースし,この動きを記憶装置に貯え,プロッターに出力して黒色のペン書きとする。長方形,円,楕円,ロゴタイプ,文字などは指定されたキーその他で記憶装置から呼び出すことができるので,版下のラフ原稿全面にわたってトレースする必要はない。また,プロッター部にナイフをつけ,不透明フィルムを出力テーブルにおけば,製版時に必要な種々の形のマスクを作ることができる。
印刷機の自動化は早くから実現していたが,インキ供給量の制御はマイコン時代の到来とともに実用化された。原板フィルム,あるいは版面また校正刷を電子の目で走査し,各部の濃さを計り記憶,このデータをインキ装置に伝え,印刷インキは細片状に分割されたインキ溝を通じてそれぞれ必要量が供給される。
印刷が製版と狭義の印刷の二つの工程にわかれる以上,将来この両者をつなぐシステムが望まれる。製版のうち文字については,原稿からOCR(文字読取装置)あるいは音声入力し,絵や写真についてはモノクロームもカラーもふくめてスキャナーの時代となろう。印刷作業においては版の装着,紙の運搬,印刷機各部の調整などかなり自動化される個所が多いが,全工程をロボットにまかせるという段階には達していない。
執筆者:山本 隆太郎
江戸時代以前にも,木版による出版は多くみられたが,印刷業が近代企業として活発になったのは明治以降である。日本活版術の始祖とされている本木昌造は,1869年(明治2)長崎に〈新街私塾〉という学塾を開き,その維持費を得るために活版印刷の工業化を考えた。彼は,上海美華書館から多量の活字,活字鋳造機,印刷機などを買いつけ,上海美華書館の館長ガンブルWilliam Gambleを迎えて活版伝習所を設立した。その指導のもと活字鋳造に成功した本木は,70年〈新街活版所〉を創設,同年門下の小幡正蔵,酒井三造らは大阪に〈長崎新塾大阪活版所〉を開いた。ついで門下の平野富二は新街活版所を引きつぎ,72年東京に〈長崎新塾出張活版製造所〉(発展して〈築地活版製造所〉になる)をつくり,73年には国産最初の本格的な印刷機を製造した。また,本木は横浜に陽其二(ようそのじ)を派遣して活版所を開かせ,日本最初の日刊新聞《横浜毎日新聞》の発刊(1870)にも尽力した。その後,79年の《朝日新聞》の発刊にかけて近代的新聞がつぎつぎと創刊されたが,新聞の発行部数の増加に伴い,印刷工業の規模も拡大した。雑誌や単行本も民間で出版され,一方政府はB.リーベルス,K.ブリュックらの印刷技師,銅版画家E.キヨソーネを招いて紙幣,切手の印刷を行った。この間に,欧米から新しい印刷機械と技術が導入され,印刷業は明治期に大きな発展をとげた。今日の印刷大手3社(大日本印刷,凸版印刷,共同印刷)のうち大日本,凸版の2社と,図書印刷は明治期に創業している。大正期には第1次大戦の影響によるブームから印刷物の需要が大幅に増加し,注文に応じきれない時期さえあった。また,アメリカから効率の良いオフセット印刷機が導入され,一部の会社で使われた。第1次大戦後の日本経済はしだいに不況色を深め,やがて1920年には恐慌状態に陥った。印刷業も深刻な不況のもとで受注を奪い合って値下げ競争に走り,収益の悪化を招いた。他方,不景気のなかで大正末期には出版印刷の労働争議が目だち,共同印刷争議のような大争議も発生した。昭和の初期まで印刷業は過度の競争が続き,経営不振のところが多かった。そこで,明治の末ころから組織されていた印刷同業組合は,既存組合員の経営安定化のため,新規開業や不正競争の抑制をはかったが,当時すでに印刷業は少数の大企業と多数の中小企業とに分かれていたために,業界の統制は難しかった。35年ごろには軍需を中心に景気が回復したが,経済はまもなく準戦時体制から戦時体制へ移り,印刷用紙の配給統制が厳しくなった。第2次大戦が40年に始まると,配給統制は著しく強化され,印刷業の活動は停滞を余儀なくされた。
第2次大戦直後は言論,出版の統制が廃止され,また戦時中の空白で人々は出版物に飢えていたから,本や雑誌は飛ぶような売行きで,印刷業も活況を呈した。その後,景気の波に従って印刷業は不振の時期もあったが,日本経済の高度成長とともに概して順調に発展した。この時期に印刷技術は凸版印刷から平版印刷,とくにオフセット印刷に中心が移っていった。オフセット印刷は多種類の紙が使用でき,版サイズの縮小拡大が自由で,大量高速印刷にも適するからである。また人手不足や高速化も手伝って印刷機の自動化が進み,出版物の高級化に応じて印刷の多色化が多くなった。73年秋の石油危機を契機に低成長へ移ると印刷業の発展のテンポも鈍化し,印刷機械の能力拡大は慎重となり,一方で営業活動の強化が推進され,収益の維持がはかられた。
79年の工業統計表によると,印刷業の出荷額は約2兆7252億円であり,版式別では平版印刷物54%,凸版印刷物32%,紙以外の特殊印刷物10%,凹版印刷物5%である。用途別では事務用印刷物が一番多く,次いで宣伝印刷物,出版印刷物,包装印刷物の順である。得意先業種の上位は,商業・サービス業,出版業,各種団体等,官公庁,金融業の順になる。70年代半ばくらいから出版印刷の比率が低下し,商業印刷の比率が高まり,特殊印刷の伸びが目だつ。また印刷の対象もかつての紙から建材,布地,プラスチック,金属,ガラス等々に拡大し,電算植字機,電算組版等コンピューター化も進んでいる。
印刷業の事業所は全国に約3万1500あるが,出荷額の約25%は前述の大手3社が占めている(1979)。また大企業では出版印刷物のシェアが高く,中小企業では事務用印刷物のシェアが高い。印刷業の特色の第1は,少数の大企業と多数の中小企業(従業員9人以下の事業所が8割近くを占める)が共存する二重構造にある。大企業は新鋭大型設備を持ち生産性が高いが,中小企業は旧式小型設備で生産性の低いところが多かったが,1964年に中小企業近代化促進法の業種指示を受け,71年には同法の特定業種に指定され,合理化が推進されて中小企業の設備の改善はかなり進んだ。特色の第2は,顧客の注文に合わせて加工する受注産業であるため,計画的な生産ができず,設備の稼動状況は需要動向に大きく左右されることである。またこのため,印刷業は顧客の多い都市部に集中する都市型産業となっている。特色の第3は,設備の近代化に伴い印刷能力が増加して能力過剰となり,収益性が向上しない傾向である。安定成長の下で需要の伸びが鈍化したこともあって,印刷物の企画やデザインなどの技術を高めて顧客をつかみ,かつ付加価値を高める方向がとられている。また大日本印刷,凸版印刷などの大手は,技術力を生かしてカラーテレビ用シャドーマスクやLSI用フォトマスクなどの精密電子など他分野に積極的に進出している。
執筆者:下田 雅昭
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世界で最も早く印刷術の起こったのは中国である。その正確な年代は不明であるが,唐代には仏教の経文,暦,辞書などが印刷され,五代・宋の時代になると古典をはじめ大部な書物が印刷されるようになった。11世紀には畢昇(ひっしよう)が活字を発明したといわれるが,中国では活字印刷術はあまり発達せず,後世まで木版印刷術が行われた。これに反し朝鮮では,朝鮮王朝(李朝)時代に銅活字印刷が発達した。西洋の印刷術は,15世紀にグーテンベルクにより活字印刷が開始された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…凸版式印刷の一種で,活字で組んだ版(活版)を用いるものをいう。それ以前の印刷版が木版のように1枚の板につくられたものであって,文字の抜き差しがむずかしかったのに対して,文字の組替えが自在にできるところから〈生きた版〉という意味で活版と名づけられた。…
…日常言語においては,基本的な文字の読み書き能力だけがリテラシーと呼ばれたように,コンピューターを道具として扱うごく基本的な能力だけをコンピューターリテラシーと呼ぶ。 コンピューターリテラシーの内容としては,キーボードkeyboardのキー配置を覚えてキー入力できること,マウスmouseを用いたウィンドーwindow操作,エディターeditorと呼ばれる編集プログラムを用いた文字の入力と挿入・削除・修正と日本語変換操作,エディターで作成した文章をファイルfileに格納したりファイルから呼び出したりするコマンド操作,および,ファイルの印刷printなどの基本的な能力と,ワープロword processorを用いた文章作成,電子メールソフトを用いた電子メールe-mailの受信・発信・返信,さらには,ウェブブラウザーweb browserを用いたインターネットアクセスなどの応用的な能力とがある。その他の応用的な能力として,表計算ソフトウェアspread sheet softwareや簡単なデータベースなどのビジネスソフトウェアbussiness softwareを含める場合もある。…
…そのなかで最も大きなものが文書,書籍の複製である。版画を含めた広い意味での印刷術が未発達の段階では,手で書き写すことが文書の複製の中心であったが,紙が普及するにつれて,8世紀には中国で木版印刷が発明され,その世紀の後半には日本で〈百万塔陀羅尼(だらに)〉が印刷されている。活版印刷も中国で始まるが,15世紀に至ってグーテンベルクによる活版印刷が発明され,近代の複製技術の発端となった。…
※「印刷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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