藤原氏 (ふじわらうじ)
日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。
初期
藤原とは今日の奈良県橿原市高殿町あたりの地名であるが,中臣氏の遠祖烏賊津(いかつ)が仕えた允恭天皇妃の宮があったとの伝承があり,大化改新の功臣中臣鎌足(かまたり)が生まれたのもこの地であった関係で,鎌足は669年(天智8)病死する前日に,藤原という氏を賜った。しかし当時の藤原氏はまだ中臣氏の一部で,正式には中臣藤原連(なかとみのふじわらのむらじ)と称したと思われ,684年(天武13)の八色の姓(やくさのかばね)で,その姓が連から朝臣に上ると,鎌足の従兄弟の子たちまで藤原朝臣と称した。そこで鎌足の子不比等(ふひと)は,父に賜った名誉を自分の一家に限定しようと,698年(文武2),再従兄弟たちをみな中臣朝臣と称させることに成功した。この成功の陰には,娘の宮子が文武天皇夫人となっていたという事情があるが,後宮に娘を送りこんで天皇を動かすという手段は,不比等自身が701年(大宝1)の律令制定に参加し,718年(養老2)には律令改定に着手するなど,新しい政治に積極的に取りくむ姿勢を維持したこととともに,その後の藤原氏が絶えず政権の主流を占める際の常套的な手法となった。
奈良時代
文武天皇が宮子の生んだ首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を残して早世すると,不比等は後妻の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の生んだ光明子を首の夫人として皇室との姻戚関係を維持しながら,武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂(まろ)の4子を次々と朝廷に送りこみ,717年に右大臣で朝廷の首班となると房前を参議に加え,大臣以下参議以上の公卿には有力諸氏から1人ずつという慣例を破り,720年に不比等が没した後は,武智麻呂が中納言となって公卿に加わった。だが首班は左大臣長屋(ながや)王となり,王は即位した聖武天皇の皇后に光明子が夫人から昇格することに反対したので,729年(天平1)武智麻呂ら4兄弟は長屋王を反乱の罪名で自殺させ(長屋王の変),光明子を臣下の出身としては最初の皇后とした。しかし737年には疫病のために4兄弟がみな病死して県犬養三千代の前夫の子の橘諸兄(たちばなのもろえ)が朝廷の首班となり,また740年に宇合の子の広嗣が北九州で反乱を起こしたので(藤原広嗣の乱),藤原一族はしばらく逼塞(ひつそく)した。やがて聖武と光明との間に生まれていた孝謙女帝が即位すると,武智麻呂の子で女帝の従兄にあたる仲麻呂が勢力を伸ばし,757年(天平宝字1)には祖父不比等の手がけた養老律令を施行,また諸兄の子の奈良麻呂ら政敵を倒して淳仁天皇を立て,独裁的な権力を振るったが,孝謙前女帝が道鏡(どうきよう)と親しくなると,764年,反乱を起こして自滅した(恵美押勝の乱)。道鏡の時代にも行政の実務は藤原一族が握っていたが,770年(宝亀1)に女帝が没すると,房前の子の永手や宇合の子の良継,百川(ももかわ)らは天智の孫にあたる老齢の光仁天皇を擁立して道鏡を追放し,それぞれ朝廷の要職を占めるに至った。
平安時代
光仁天皇に続いて立った壮年の桓武天皇は,784年(延暦3)に長岡京,794年には平安京への遷都を断行し,前代以来の蝦夷征討も推進するなどの積極的な政策をとり,久しぶりに天皇主導の時代となったが,その後宮にはやはり藤原氏から皇后として良継の娘の乙牟漏(おとむろ)(平城,嵯峨の母),夫人として百川の娘の旅子(淳和の母)らが送りこまれていた。もっとも藤原氏もこのころになるとかつての不比等とその4子の時代のようなまとまりはなく,いわゆる南家(武智麻呂),北家(房前),式家(宇合),京家(麻呂)の4家に分かれ,それぞれ栄達を競っていた。このうちで南家は仲麻呂が出たために打撃を受け,式家は乙牟漏や旅子の従兄弟にあたる種継が桓武天皇に信頼されて長岡京造営を指揮している最中に暗殺され,また種継の子の薬子(くすこ)・仲成兄妹は薬子の変を起こし,京家では麻呂の子の浜成が桓武即位の当初に大宰府へ追放されたあと活躍する人材がなく,光仁朝の永手以後は目だたなかった北家から内麻呂が出て平城朝に右大臣となり,続く冬嗣,良房,基経の3代で他家を完全に圧倒するに至った。すなわちまず冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭(くろうどのとう)から左大臣にまで昇り,良房は清和天皇が幼少で即位すると臣下で最初の摂政となり,基経に至っては陽成天皇を廃し光孝天皇を立てて関白となるのである。その後は醍醐・村上両天皇の時代を除いて,ほとんどつねに摂政か関白かが基経の子孫から任命され,道長,頼通の2代には摂関家が栄華を極め,後世,藤原時代ともよばれるような摂関政治の時代になる。しかし頼通に天皇となるべき外孫が誕生しないままに,摂関家を外戚としない後三条天皇が即位すると,摂関の権威はにわかに没落しはじめて,やがて院政の時代を迎えることとなる。その後,鎌倉時代以降摂関家は五摂家に分かれ,またそのほか,閑院家(三条家,西園寺家,徳大寺家),花山院家(中山家,大炊御門(おおいみかど)家,難波(なんば)家,飛鳥井(あすかい)家),御子左(みこひだり)家(冷泉家など),四条家(山科(やましな)家など),勧修寺(かじゆうじ)家(葉室(はむろ)家,甘露寺家,坊城(ぼうじよう)家など),日野家(広橋家,柳原(やなぎはら)家,烏丸(からすまる)家),中御門家(松木家など)などの傍系も生じた(図)。
執筆者:青木 和夫
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藤原氏(鎌足に始まる氏族)
ふじわらうじ
初め中臣(なかとみ)氏と称する。古代において政権を握り、朝廷の中心となった氏族。大化改新に功のあった鎌足(かまたり)が、没する直前に天智天皇(てんじてんのう)から藤原朝臣(あそん)の姓(かばね)を賜ったことに始まる。藤原は大和国(やまとのくに)高市(たけち)郡の地名によるもの。ついで中臣氏で藤原と称する者も多くなってきたが、698年(文武天皇2)より鎌足の子不比等(ふひと)の子孫のみが藤原朝臣を称するようになった。不比等は大宝律令(たいほうりつりょう)、養老律令の撰定(せんてい)に功多く、平城宮の経営に参加するなど、また、その女(むすめ)宮子が文武天皇(もんむてんのう)夫人として聖武天皇(しょうむてんのう)を産み、外戚(がいせき)を確立した。同じく、光明子(こうみょうし)が臣下として初めて聖武天皇の皇后にたつなどして藤原氏の隆盛の基礎を開いた。ここに律令官僚貴族としての藤原氏の地位を築いた。
一方、不比等の子に武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の4人があって、奈良朝初期の政界に重きをなしていた。南家の仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ)。武智麻呂の子)、式家は広嗣(ひろつぐ)、百川(ももかわ)(宇合の子)、京家は浜成(はまなり)(麻呂の子)らが一時的に栄えたが、政治的事件に関係して衰え、このうち房前の北家のみが発展してゆく。北家も奈良時代は永手(ながて)、真楯(またて)、清河(きよかわ)、魚名(うおな)らがいたが、たいして権力をもつわけではなかった。しかし、平安朝に入って真楯の子内麻呂(うちまろ)、その子冬嗣(ふゆつぐ)らが出て、にわかに勢力を出し、冬嗣は嵯峨天皇(さがてんのう)に信頼が厚く、蔵人頭(くろうどのとう)になるなどして大いに権力を振るった。冬嗣の子良房(よしふさ)は人臣摂政(じんしんせっしょう)の始まりであり、ついで良房の養子基経(もとつね)は関白となり、これより以後、代々北家より摂政、関白、太政大臣(だいじょうだいじん)となる者が多くなり、中宮にも北家の女が多くなった。良房の女明子(あきらけいこ)(文徳女御(もんとくにょうご)、清和(せいわ)母)、基経(もとつね)の女穏子(おんし)(醍醐(だいご)后、朱雀(すざく)・村上(むらかみ)母)、師輔(もろすけ)の女安子(あんし)(村上后、冷泉(れいぜい)・円融(えんゆう)母)、伊尹(これただ)の女懐子(かいし)(冷泉女御、花山(かざん)母)、兼通(かねみち)の女子(こうし)(円融后)、兼家の女超子(ちょうし)(冷泉女御、三条(さんじょう)母)、同詮子(せんし)(円融女御、一条母)、道隆(みちたか)の女定子(ていし)(一条后)、道長の女彰子(しょうし)(一条中宮、後一条・後朱雀(ごすざく)母)、同妍子(けんし)(三条中宮)、同威子(いし)(後一条后)、同嬉子(きし)(敦良(あつなが)親王〈後の後朱雀天皇〉妃、後冷泉(ごれいぜい)母)等々である。外戚関係を築きつつ、権力の座をめぐって北家一族の兄弟(兼通、兼家)あるいは叔父(おじ)、甥(おい)(道長(みちなが)、伊周(これちか))の争いはすさまじいものであった。
その結果、道長の時代が最盛期となり、摂政・関白・太政大臣以下重要な官位を一族で独占した。道長の長男頼通(よりみち)のときまで氏長者(うじのちょうじゃ)として一族を代表し、氏長者印や朱器台盤を伝領した。しかし、頼通が外戚を築かなかったことをはじめとして、藤原氏の権力は崩れ始め、院政とそれに続く武家勢力の発展とともに、鎌倉時代に入って五摂家(近衛(このえ)、鷹司(たかつかさ)、九条、二条、一条)に分かれるようになった。頼通の子孫忠通(ただみち)の子の基実(もとざね)流(近衛家)、兼実(かねざね)流(九条流)に次いで兼実の孫道家の代に、道家の子頼経(よりつね)は鎌倉の将軍となり、朝幕間に権勢を振るい、道家の3子、九条教実(のりざね)、二条良実(よしざね)、一条実経(さねつね)がそれぞれ摂関となり、九条家から分かれて、二条家、一条家が成立した。それ以後、五摂家が交代して摂関になり江戸時代にまで及んだ。その間、五摂家のほかに閑院(かんいん)、花山院、御子左(みこひだり)、四条、勧修寺(かじゅうじ)、日野、中御門(なかみかど)など傍系が多い。日本の代表的な貴族の家である。日本史上、他に類をみない氏であるといえよう。また、奥州藤原氏もある。
[山中 裕]
藤原氏(奥州藤原氏)
ふじわらうじ
古代末期1世紀にわたる北方支配を行った大豪族。奥州藤原氏ともいう。初代清衡(きよひら)、2代基衡(もとひら)、3代秀衡(ひでひら)を経て4代泰衡(やすひら)で滅びるが、それは後三年の役後の1087年(寛治1)ごろから文治五年奥州合戦(ぶんじごねんおうしゅうかっせん)の1189年(文治5)に至る間であるから、ちょうど100年間になる。日本史上「平泉(ひらいずみ)の世紀」ともいうべきものを辺境に開いた武門である。
藤原氏は経清(つねきよ)に始まる。彼は安倍頼時(あべのよりとき)の娘を妻とし、前九年の役には安倍氏の有力な指導者の一人であった。清衡は経清の子として、この戦乱中に生まれ、母の再嫁先の清原氏に人となる。後三年の役を源義家(みなもとのよしいえ)と協力して勝ち抜き、奥羽古代最後の大統一を達成、陸奥国(むつのくに)平泉(岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町)に政庁を開いた。3代秀衡は鎮守府将軍、陸奥守(むつのかみ)となり「北方の王者」としての堂々たる組織政治を確立する。
古代から中世への転換を辺境から推し進め、鎌倉幕府による「東の政治」成立の地ならしをした点で注目に値する。
[高橋富雄]
『高橋富雄著『奥州藤原四代』(1958・吉川弘文館)』
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藤原氏
ふじわらうじ
代表的な大族の一つ。略して藤氏 (とうし) ともいう。その出自は神別 (天神) であり,アメノコヤネノミコトの後裔,中臣 (なかとみ) 氏から出たが,天智8 (669) 年中臣連鎌足が「藤原」の姓 (せい) を賜わったのに始る。天武 13 (684) 年朝臣の姓 (かばね) を賜い,次いで文武2 (698) 年詔により鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原姓を襲うことを許され,意美麻呂 (おみまろ) などは神事に奉仕することにより,旧姓中臣に復した。不比等の娘,光明子 (光明皇后) は聖武天皇の后となり,人臣皇后の先例を開いた。長男武智麻呂が南家,次男房前が北家,3男宇合 (馬養) が式家,4男麻呂が京家の始祖となり,藤原4家が成立。南家は仲麻呂 (恵美押勝) が孝謙天皇のとき乱を起して失脚。代って式家が台頭したが,薬子の変で頓挫し,京家も麻呂の後裔がふるわず,北家だけ隆盛の一途をたどった。北家の冬嗣は嵯峨天皇の信任を得,初代の蔵人頭となり,累進して左大臣となった。その娘順子は仁明天皇の后として文徳天皇を生誕。良房はその娘明子を文徳天皇の后に立て,外戚として権勢をふるい,太政大臣,摂政の端緒を開いた。その養子基経もまた摂政となり,次いで初めて関白となった。こうして北家は,藤原氏の主流の位置を確立し,いわゆる摂関政治を展開し,道長,頼通の頃その最盛期を迎えた。摂関はまた氏長者 (うじのちょうじゃ) として氏寺興福寺,氏社春日社,私学勧学院などを統轄した。平安時代末期には,院と天皇の不和,摂関家内部の抗争が表面化し,忠通の子基実が近衛家,兼実が九条家を興して摂関家は2分。次いで鎌倉時代に兼実の曾孫教実が九条,良実が二条,実経が一条と3家に分れ,近衛家も基実の曾孫兼経が近衛家を継ぎ,兼平が鷹司家を興し,ここに五摂家となった。以後五摂家中から,摂政,関白が立てられ,江戸時代末期にいたった。このほか五摂家に次ぐ家格の清華家,大臣家,羽林家,名家など上層公家の多くは,藤原氏であり,また平安時代末期以降地方に割拠した武家のなかにも,藤原氏の流れをくむ者が少くない。明治になって上層公家の多くは華族に,五摂家はいずれも公爵に列せられた。
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藤原氏
ふじわらうじ
669年(天智8)大化の改新の功臣中臣鎌足(なかとみのかまたり)が臨終に際して,藤原の姓を賜ったことに始まる新興氏族。古代以来,朝廷の上層部を占める。鎌足の生誕地名に由来するという。698年(文武2)鎌足の次男不比等(ふひと)の系統にのみ限定され,他は旧姓中臣氏に復する。不比等は右大臣に至り,その4子武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂は,南・北・式・京4家に分立して聖武朝では議政官に列した。また女宮子は文武天皇の夫人となり聖武天皇を生み,光明子も聖武の皇后となって孝謙天皇をもうけるなど,天皇家と二重の婚姻関係を結んで勢力を扶植した。平安時代に入ると,京家は早くからふるわず,南家は平城朝の伊予親王事件,式家も薬子(くすこ)の変で衰微するが,北家では嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭(くろうどのとう)に登用された冬嗣(ふゆつぐ)が,女の順子を仁明天皇の女御(にょうご)にいれ,良房の女明子(あきらけいこ)が文徳天皇の女御になって清和天皇をもうけるなど,天皇の外戚として嫡流の地位を保つ。以後摂関家として栄えるが,鎌倉時代には五摂家に分立した。鎌倉幕府の源氏が絶えると2代の摂家将軍をだした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
藤原氏
ふじわらうじ
①源平藤橘の四姓の一つで,摂関政治を行った貴族
初め中臣 (なかとみ) 氏といい大和政権の神事をつかさどったが,鎌足 (かまたり) が危篤の時に天智天皇から藤原朝臣の姓を賜ったのに始まる。鎌足の子不比等 (ふひと) の子孫だけが藤原姓を許され不比等の4子が藤原四家の祖となり,うち北家が平安時代に摂政・関白の地位につき藤原氏の主流となった。他氏排斥,外戚の地位の獲得などにより,11世紀道長・頼通 (よりみち) のころ全盛を迎えたが,のち鎌倉時代に五摂家が分立した。氏神は春日神社,氏寺は興福寺。
②平安後・末期,平泉を中心として栄えた陸奥の豪族。源頼朝により滅ぼされた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
藤原氏
大化の改新[たいかのかいしん]で活躍した中臣鎌足[なかとみのかまたり]の子・藤原不比等[ふじわらのふひと]一族のことです。中臣鎌足が亡くなる前に「藤原」という姓をもらったことにはじまります。娘を天皇家と結婚させて勢力を広げました。
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世界大百科事典(旧版)内の藤原氏の言及
【一条家】より
…[藤原氏]北家の嫡流,[五摂家]の一つ。家号は始祖実経の殿第に由来するが,また一条の坊名にちなんで桃華ともいう。…
【氏長者】より
…令前および大宝令の〈[氏上](うじのかみ)〉,養老令の〈氏宗〉に由来するが,《続日本紀》以下奈良時代の文献に〈氏長〉の語が見え,平安時代に入ると,〈氏長者〉の称が一般的になるとともに,その性格も変化していった。元来,氏中官位第一の者を充てるのを原則としたが,のち藤原氏では摂政ないし関白の兼摂となり,小槻氏では官務(太政官の史の最上首)の兼帯となったように,特定の官職と結びついた例もある。氏神の祭祀をはじめ,氏社・氏寺の管理,氏院(藤原氏の勧学院,橘氏の学館院などの大学別曹)の管理,氏爵(うじのしやく)(諸氏より毎年1人ずつ五位に叙する)の推挙などを主要な権限とする。…
【春日版】より
…平安時代後半から鎌倉時代全期にわたって,藤原氏の氏寺(うじでら)である興福寺を中心に奈良の諸大寺で開版(板)された経巻類をさす。〈春日版〉の名は明治以後に唱えられたもので,鎌倉時代初期に藤原氏の氏神である春日神社に奉献されたところから,この名が出たともいわれる。…
【勧学院】より
…平安時代に設けられた藤原氏出身の学生のための教育施設。821年(弘仁12)に,右大臣藤原冬嗣が一族子弟の大学生のための寄宿舎として建てたもので,やがて[大学寮]の付属施設として公認され,[大学別曹]となった。…
【近衛家】より
…[藤原氏]北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。…
【中臣氏】より
…大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。…
※「藤原氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」