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「里」の意味・読み・例文・類語
り【里】
1 尺貫法 の距離の単位。1里は36町で、3.927キロ。令制では300歩 ぶ をいい、6町すなわち654メートルにあたる。2 律令制 で、地方行政区画の最小単位。大化の改新 によって設置されたもので、養老令 の規定では、50戸を1里として里長 さとおさ を置き、2里以上20里以下で1郡とし、数郡で1国とした。霊亀元年(715)に敷かれた郷里制 ごうりせい では、それまでの里を郷 ごう と改称。3 条里制 で、1辺6町(約654メートル)四方の一区画。里の各辺を1町ごとに六等分して36の坪に分けた。
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さと【里・郷】
〘 名詞 〙 ① 人家のあつまっている所。人の住まない山間に対して、人の住んでいる所。ひとざと。村落。[初出の実例]「同じ兄弟(はらから) の中に、姿醜きを以ちて還さえし事、隣(ちかき) 里(さと) に聞えむ」(出典:古事記(712)中) 「雨(あま) 隠(ごも) り物思(も) ふ時にほととぎす我(わ) が住む佐刀(サト) に来鳴きとよもす」(出典:万葉集(8C後)一五・三七八二) ② 古代の地方行政区画の一つ。大宝令の施行から霊亀元年(七一五 )まで行なわれた国郡里(こくぐんり) 制では、五〇戸を一里(さと) として最小単位とし、また霊亀元年からの郷里制 では、それまでの里を郷(さと) と改称し、この下に二、三の里(こざと) を置いたが、里は天平一二年(七四〇 )頃廃止され、それ以後は郷の組織が最小の区画となった。り。[初出の実例]「郷(さと) は六十二 里(こざと) は一百八十一」(出典:出雲風土記 (733)総記) ③ 距離を表わす「里(り) 」を訓読した語。[初出の実例]「倶時(もろとも) に発船(ふなたち) して、数(あまた) 里(サト) 許に至る」(出典:日本書紀(720)敏達二年七月(前田本訓)) ④ 宮廷を「内(うち) 」というのに対して、それ以外の場所をいう。特に宮仕えする人が自分の住家また実家をさしていう。自宅。生家。[初出の実例]「ももしきの大宮人は今日もかも暇(いとま) を無みと里に出でざらむ」(出典:万葉集(8C後)六・一〇二六) 「帝は『さとにあらん』と思して、父おとどは『内裏にさぶらふらん』と思して」(出典:宇津保物語(970‐999頃)忠こそ) ⑤ 自分の住んでいる所。また、住んでいたことのある土地。故郷。郷里。ふるさと。[初出の実例]「里離(さか) り遠からなくに草枕旅とし思へばなほ恋ひにけり」(出典:万葉集(8C後)一二・三一三四) ⑥ ( 都に対して ) 田舎(いなか) 。田園地帯。在所。[初出の実例]「実にこれ聚をなし邑をなす、郷里(さと) 、都を論じて望み先づめづらし」(出典:海道記(1223頃)鎌倉遊覧) 「かりかけし田づらのつるや里の秋〈芭蕉〉」(出典:俳諧・鹿島紀行(1687)) ⑦ 僧侶、稚児(ちご) 、妻、養子、奉公人などの実家。親もと。[初出の実例]「児共の里に下り、自然久しく候事、常の習と存ずる計也」(出典:米沢本沙石集(1283)五末) 「女房の里(サト) から紀念分(かたみわけ) の地面が二ケ所」(出典:滑稽本・浮世床(1813‐23)初) ⑧ 養育料を出して、子どもを他人に預けること。また、その預け先。[初出の実例]「あいつが腹から出た身が忰〈略〉元の遣手玉が才覚でさとに遣ったとやら」(出典:浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡(1712頃)上) ⑨ 遊里。くるわ。いろざと。江戸においては多く吉原を指す。[初出の実例]「これ高尾が里をはなれて出し姿なるは」(出典:浮世草子・傾城色三味線(1701)江戸) ⑩ ( 「おさと」の形で用いて ) 素姓。おいたち。育ち。[初出の実例]「 劔をくり出し雪隠から出ながら、そこは私がいたしましゃうと声をかけるから、直にお里が知れる」(出典:談義本・当世穴穿(1769‐71)四) ⑪ ( 形動 ) 遊里などで、やぼな客、またはやぼな行為をすること。また、そのさま。[初出の実例]「ここにまじはらざる人あれば、かへ名してさととよぶ。山ざとの人といふ心なるにや」(出典:洒落本・契情買虎之巻(1778)三) ⑫ ( 寺に対して ) 俗世間。世俗。[初出の実例]「山ごもりして里にいでじとちかひたるを」(出典:源氏物語(1001‐14頃)夕霧) ⑬ ( 檀家から寺へ物を贈るのが普通なのに、逆に寺から檀家へ物を贈るの意の「寺から里 」の略 ) 本末を転倒すること。[初出の実例]「つゐどうなりとあそばしてはやくかへしてくだされませいと、是も里にてつれたち行けるぞこのもしき」(出典:浮世草子・真実伊勢物語(1690)一) ⑭ 境地。漢語「郷(きょう) 」を訓読みしたもの。[初出の実例]「因果をわきまへ、生死の郷(サト) を出る媒とし、炎の都へ到るしるべとせよと也」(出典:米沢本沙石集(1283)序)
り【里】
〘 名詞 〙 ① 令制における京以外の地方行政区画の最下級の単位。七世紀後半に順次設置された。自然村落である村(むら) よりは規模が大きいと見られる。養老令の規定では、五〇戸を一里として里長(りちょう・さとおさ) を置き、二里以上二〇里以下で一郡とし、数郡で一国とした。この場合の戸は法的擬制とみられる郷戸(ごうこ) を一戸とするもので、郷戸の中には房戸(ぼうこ) を含んでいるのが普通である。霊亀元年(七一五 )にしかれた郷里制(ごうりせい) では、それまでの里を郷(ごう・さと) と改称し、その下に普通三個の里(り・こざと) を置いた。五〇戸一里の里よりは自然村落に近いと思われる。郷里制は天平一二年(七四〇 )ごろに廃止され、以後は里の呼称はなくなり、国・郡・郷で地名表示をした。さと。こざと。[初出の実例]「凡戸以二 五十戸一 。為レ 里」(出典:令義解(718)戸) [その他の文献]〔周礼‐地官・遂人〕 ② 条里制(じょうりせい) の区画概念の一つ。条里制は、耕地を幅六町(三六〇歩)の土地の帯で、東西方向・南北方向に直交させて区画し、まず六町四方の大区画を作り、これの各辺を六等分して一町四方の三六の小区画をつくる。この直交する二種の区画帯のうちの一つ(主に東西方向)を条といい、他の一つ(主に南北方向)を里という。おのおの北・東から番号をつけて一条・二条・三条…、一里・二里・三里…と称した。また、二種の区画帯によって仕切られた六町四方の大区画をも、また里という。三六に分けられた一町四方の小区画は坪(つぼ) と呼ばれ、起点と方向を定めて一から三六までの番号を付された。土地の所在場所を示すには「…条…里…坪」という表記法が採られた。また、数字の代わりに固有名詞 が付された場合もある。[初出の実例]「廿条五里六坊三段百 歩」(出典:東寺文書‐礼・天平二〇年(748)二月一一日・弘福寺三綱牒) ③ 長さの単位。(イ) 令制では、五尺を一歩(ぶ) とし三〇〇歩を一里と定めた。この尺は令の大尺すなわち高麗尺(こまじゃく) で、その五尺は令の小尺の六尺にあたる。令の小尺は後世の曲尺よりやや短かく、その六尺は約一・八メートルとしてよいから、この長さは約五四〇メートルぐらいになる。この里程は五町を一里とするものであって公式のものであったが、一般には条里制の方格の大区画の一辺に等しい六町(六五四メートル)を一里とすることが広く行なわれていた。[初出の実例]「凡度レ 地。五尺為レ 歩。三百歩為レ 里」(出典:令義解(718)雑) [その他の文献]〔春秋穀梁伝‐宣公十五年〕 (ロ) 平安時代ごろから、② でいう三六町の地積を一里とする呼称と混同したところから、三六町(約三・九キロメートル)を一里とするもの。以後長く(イ) と混用された。多く東国では六町一里が、上方・西国では三六町一里が用いられた。前者を小道(こみち) ・下道(しもみち) ・東道(あずまみち) ・坂東道(ばんどうみち) 、後者を大道(おおみち) ・上道(かみみち) ・上方道(かみがたみち) ・西国道(さいごくみち) などと称した。江戸幕府は、一里塚 設置などを命じて三六町一里に統一しようとしたが徹底せず、明治九年(一八七六 )に至ってはじめて全国的に統一された。尺貫法の廃止以来、正式には使用しない。[初出の実例]「名曰二 佐波川一 矣、木津至二 于海一 七里〈三十六町為二 一里一 〉」(出典:東大寺造立供養記(1203‐04頃)) (ハ) 中世・近世、地方によって、一里を四〇・四八・五〇・六〇・七二町などとするもの。[初出の実例]「大坂よりひらかたへ五里〈此間五十丁一里也〉」(出典:浮世草子・好色旅日記(1687)二)
こ‐ざと【里】
〘 名詞 〙 奈良時代 の「郷里」のうちの「里」の意訓。令制では行政区画の末端は五〇戸を単位とする里(り) であったが、霊亀元年(七一五 )頃、里は郷(ごう) と名を改めた(出雲風土記(733))。同時に郷の下部組織も作られたらしく、某郷某里の形の地名表示が現われ、この里を便宜上「こざと」と読むことがある。この郷・里の表示は天平一一年(七三九 )頃からなくなり、のちは郷の表示だけとなる。→郷(ごう)
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普及版 字通
「里」の読み・字形・画数・意味
里 常用漢字 7画
[字音] リ[字訓] さと・むら・まち[説文解字] [金文] [字形] 会意 田+土。土は (社)の初文。里とは田社のあるところをいう。〔説文〕十三下 に「居るなり」とあり、会意とする。〔 伝〕に「一に曰く、土(ど)聲なり」とするが、声が合わない。〔書、酒誥〕に「越(ここ)に に在りては百僚庶尹、惟(こ)れ亞、惟れ 、宗工と百姓里居」とあり、周初の金文〔令彝(れいい)〕に「 、 (あした)に に至り、命を出だして三事の命を舍(お)く。 事寮(けいじれう)と 尹と里君と百工と」とあり、〔酒誥〕の「里居」は「里君」の誤りである。里はのち行政の単位となり、条里・里数の意となるが、字の原義は田社のあるところ、そこを主宰するものを里君といった。君は古くは巫祝王などに用いた語である。国語の「さと」も、神聖な地域を意味する語であった。[訓義] 1. さと、むら、田社を中心とした地。 2. まち。行政単位として周は二十五家、他に七十二家・百家など、時代により異なる。 3. ながさ。周制は三百歩の距離、のち三百六十歩。 4. さとに住む。 5. 裏・ (り)と通用する。うち、うれい。[古辞書の訓] 〔名義抄〕里 サト・ヲリ・キル・コトハル・イヤシ[部首] 〔説文〕〔玉 〕に釐(り)・野の二字を属する。〔説文〕に釐を (り)声とするが、 に釐治の意があり、字は里声である。[声系] 〔説文〕に里声として理・俚・裏など九字を収める。俚(り)は聊頼。里の字義を承けるものはない。[語系] 里・ (吏)li は同声。里は田社のあるところ。 は使して祭ることを原義とする字であるから、両者は語源的に関係があることも考えられる。閭・廬liaは声近く、閭(りよ)は里門、廬は里居をいう。理・釐li は釐治の意、通用することがある。[熟語] 里尹▶ ・里詠▶ ・里魁▶ ・里▶ ・里耆▶ ・里君▶ ・里▶ ・里語▶ ・里▶ ・里▶ ・里宰▶ ・里司▶ ・里耳▶ ・里室▶ ・里社▶ ・里舎▶ ・里塾▶ ・里所▶ ・里胥▶ ・里仁▶ ・里人▶ ・里正▶ ・里俗▶ ・里中▶ ・里長▶ ・里程▶ ・里婦▶ ・里保▶ ・里民▶ ・里門▶ ・里落▶ ・里吏▶ ・里閭▶ ・里路▶ ・里老▶ [下接語] 一里・海里・街里・丘里・旧里・墟里・郷里・闕里・古里・故里・ 里・郊里・ 里・三里・市里・梓里・州里・条里・井里・千里・村里・廛里・田里・道里・万里・北里・野里・邑里・遊里・閭里・隣里
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里 (り)
目次 朝鮮 古代律令制下の地方行政組織の一つで,同時にまた度地法,土地表示法上の呼称としても用いられた。中国の里制(郷里制 (きようりせい))の影響をうけて,日本の令制では全国を国,郡,里の3段階の行政組織にわけ,50戸を1里として里長を置き,里は〈さと〉とも称した。この里は715年(霊亀1)に郷 (ごう)と改められ,その下にさらに2~3の里(こざと)を置く郷里制 (ごうりせい)が施行されたが,739年(天平11)末から翌年初めのころに里は廃され,郷制へと移行した。里はあくまで律令制支配の必要上編成された人為的な行政村落で,当初2~3の自然集落(村)を無理なく包摂する形で設定されたらしく,古くは〈五十戸〉と表記された。現在のところ里制の確実な実施は天武朝(672-686)にさかのぼるが,さらに古く649-664年(大化5-天智3)のものとされる木簡にも〈五十戸〉の記載をもつものがある。一方,令制では高麗(こま)尺5尺を1歩とし,300歩を1里とする度地法が行われ,さらに条里制地割における360歩方画の土地(面積36町)も里と称された。 執筆者:鎌田 元一
朝鮮 最下級の地方行政区画。〈洞〉とも称し,漢城(ソウル)では〈契〉と称した。本来は自然村落であり,自治団体的性格が強い。多くは数個の集団に分かれ,それらも〈里〉と呼ぶ。〈里〉は高麗時代から存在し,日本の字(あざ)にあたる。〈里〉は一般民衆の生活の場であるが,通常は賤民以外の各身分が雑居していた。郡衙を通した地方行政は〈面 〉よりも〈里〉を直接の対象とすることが多く,行政責任者として部落の長老が尊位,頭民,管領などの役職につき,行政命令 を実行するとともに村落自治を運営した。郡衙との連絡には庶民の〈洞掌〉があたった。李朝政府は〈五家作統法〉により,日本の〈五人組〉に類似した連帯責任と相互監視のための〈五家統〉を組織させたが,民衆の実質的な結合は互助組織である〈契 〉であった。〈里〉の数は18世紀中ごろで約4万であったが,日韓併合後の1914年,面里制で約2万8000に統廃合され,行政村の性格が強くなった。 執筆者:吉田 光男
里 (り)
尺貫法における距離の単位。名称は古代中国に由来するが,大きさは時代や国や地方により異なる。1869年(明治2)に36町=1里に統一され,91年制定の度量衡法 により約3.927kmである。 執筆者:三宅 史
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里(り) り
(1)7世紀後半から8世紀前半の地方行政区画の末端の単位。50戸を1里とする。『日本書紀』大化2年条(646)の改新詔に50戸1里の規定があるが、当初は30戸1里であったとする説もあり、50戸1里制が施行されたのは近江令(おうみりょう)(668)に基づく庚午年籍 (こうごねんじゃく)(670)、全国的には飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令(689)による庚寅年籍 (こういんねんじゃく)(690)ともされる。里は、自然村落を基礎とするとの説もあるが、残存する戸籍の実例もほぼ50戸1里を厳密に守っており、郡のなかを50戸ごとに1里として編戸して生じた余りを余戸(あまるべ)とする、自然村落とは区別された人為的な行政区画であり、律令制の人民把握、賦課の単位であった。715年(霊亀1)里を郷とし、郷を2、3の里に分割する郷里制が施行された。郷里制下の里を自然村落とする説もあるが、郷を機械的に分割したものである可能性を否定できない。739~740年(天平11~12)に郷里制から郷制に移行したことによって、里制は廃止された。
(2)古代の条里制の土地区画名。条里制では、土地を一辺6町四方の方格に区画し、一方を1条、2条とし、他方を1里、2里として、土地の位置を示した。さらに、6町四方の方格のそれぞれの土地区画をも里とした。里には、数詞を用いるもののほかに、数詞の下に固有名詞を付し、あるいは数詞を用いずに固有名詞を名称とするものがある。この里の名称は、(1)の行政区画の里とは別個のもので、行政区画としての里の廃止のあとも長く用いられた。
(3)距離の単位。令制では300歩(ぶ)(1歩=5尺)を1里とし、1里は5町にあたったが、一方では6町1里の法も行われた。中世以降36町1里の法が行われたが徹底せず、1876年(明治9)に至り1里=36町=2160間(約3927メートル)の制が全国的に統一された。
[大町 健]
里(鹿児島県) さと
鹿児島県薩摩郡(さつまぐん)にあった旧村名(里村(むら))。現在は薩摩川内 (せんだい )市の西部を占める一地区。1891年(明治24)上甑(かみこしき)村より分離独立。里という名称は、この分村前の大字(おおあざ)名による。2004年(平成16)川内市、樋脇(ひわき)町、入来(いりき)町、東郷(とうごう)町、祁答院 (けどういん)町、上甑村、下甑(しもこしき)村、鹿島(かしま)村と合併、薩摩川内市 となる。旧村域は、東シナ海上の甑島(こしきじま)列島北部にある上甑島 の東半部を占める。中央部には特殊な地形トンボロ (陸繋砂州 (りくけいさす))が発達し、集落がこの上にあることで有名。里港は甑島列島 の表玄関 で、いちき串木野(くしきの)市の串木野港との間に船便がある。伝統的に半農半漁の村で、特産のカノコユリ 栽培、畜産、好漁場を生かした沿岸漁業が行われてきたが、現在は水産業が基幹産業となり、とくにキビナゴ漁が盛ん。亀鶴(かめつる)城跡や武家屋敷跡があり、国指定天然記念物ヘゴ自生北限地帯の一つ。
[田島康弘]
里(さと) さと
人の住まない山に対し、人家の集まっているところをいう。古くは律令(りつりょう)制度における地方行政区画の呼称の一つで、国郡里(こくぐんり)制の郡の下に属し、50戸を1里とする最小単位であったが、のちに郷(ごう)に改称された。また貴族社会で、宮廷を内(うち)、内裏(だいり)というのに対して、それ以外の場所をいい、とくに宮仕えをする人たちが自分の住居や実家、生家をさして称する。同時に、単に自分が住んでいたところをもさし、「ふるさと」の里がその例である。つまり、自分が育ち、生活した本拠となったところをさす。したがって、妻や養子が実家をさし、奉公人が生家をさすのも、これに基づく。また田舎(いなか)を意味したり、寺に対して俗世間、在家を意味したり、「(お)里が知れる」のように、育ち、生い立ち、素姓の意で用いられるのも同様である。さらに里親・里子のように、養育料を出して子供を他人に預けることも、その場所が生育する本拠となるべきところだからである。そのほか、江戸時代には遊里の称ともなったが、これは当時の遊里が多く新開地につくられた特殊な集落、つまり「色の里」というような意味からであろう。また遊里語 では「やぼ」の意で用いられるなど、きわめて多義に用いられる語である。
[藁科勝之]
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里 さと
島の北西部にある島内唯一の集落。島内では気候上不向きな位置にあるが、親島である三宅島が望遠できる場所に人々は村を建設したものであろう。集落の端には狼煙台跡がある。唯一の船着場は集落の下にあり、明治三三年(一九〇〇) 建立の新道記念碑には「道幅壱間、勾配五分之三」とみえ、八〇〇段余の階段状の道路が、集落と船着場を結んでいる。現在は迂回するように車道ができているが、これは昭和四三年(一九六八) に完成したものである。集落は大きく二つに分けられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」 日本歴史地名大系について 情報
里【り】
(1)長さの単位。律令制では5尺=1歩(ぶ),300歩(5町)=1里としているが,実際には条里制 で用いられた1里=6町を多用。中世以降は条里制の面積単位である36町=1里が一般化。他に40町,48町,50町,60町,72町の1里などもあった。1876年に36町=1里に統一され,今日の約3927m。(2)面積の単位。条里制で6町四方=36町歩の地積。(3)古代の地方行政区画。〈さと〉ともいう。律令制で全国を国 ・郡 ・里に分け,50戸=1里とし,土地の有力者 を里長(りちょう)に任じた。715年この里を郷と改め,その下に2〜3の里を置いたが,739年末から翌年に郷里制は郷制に改められ,国・郡・郷とした。 →関連項目郷 |評
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里[日本] り[にほん]
律令制 の国,郡の下の行政区画単位。 16~20里を大郡,12~15里を上郡,8~11里を中郡,4~7里を下郡,2~3里を小郡とした。里は戸数を標準とし,50戸で構成,里ごとに里長 1人を置き,戸口の検校,農桑の課殖,非違の禁察,夫役 の催促にあたった。この 50戸1里制は中国の郷党制度にならったもの。里制は当初 30戸1里であったという説もあるが,令規は 50戸1里であり,実態としては 50戸未満の里,50戸をこえた里もあろう。霊亀1 (715) 年里を郷 と改め,さらにその下に里を置く郷里制が発足,郷戸 ,房戸 の家族構造と密着したものであったが,行政単位の里は奈良時代末期には消滅し,以後は条里制 の土地区画名,距離の単位にみられるようになった (→里 ) 。
里 り li
中国の集落の名。戦国 (→戦国時代 ) ・秦 ・漢 代の里は集落の最小単位で,戸数は数十から 100戸ぐらいであり,大集落は里の集合であったと考えられる。里は周囲に牆壁 (柵,垣) をめぐらし,里門 (閭〈りょ〉) によって外部に通じ,監門が出入者を監視した。また里には父老がいて子弟と呼ばれる成員を教化監督し,里を代表した。漢代の里の成員はまた 10家,5家ずつに分けられ (什伍制) ,互いに検察し合ったという。漢代の集落単位には里のほかに郷,亭があったが,3者の関係については諸説がある。後漢末以後村が発生し,唐代は村や坊が最小行政単位とされたが,一般にはそれ以後も里の呼称が残り,明代には里を単位として『賦役黄冊 』がつくられたが,清の保甲法 以後里の呼称もなくなった。
里 り
尺貫法 による長さの単位。令制では,中国の制にならって 5尺を 1歩,300歩を 1里とし,1里は 5町にあたったが,古代より 6町を 1里とする方法も行なわれていた。鎌倉~室町時代 になると条里制 の里の区画が 36町の面積であることから,36町を 1里とする法が行なわれた。しかし地方によってまちまちであったため,徳川家康は諸街道に一里塚 をつくり,36町を 1里に統一しようとしたが徹底しなかった。1876年初めて全国的に統一され,1里=36町=2160間=約 3927.3mとなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
里 り
律令制下の地方組織。郡の下部で行政の最末端にあり,50戸から構成されて里長(りちょう)1人がおかれた。改新の詔にみえる同様の規定は大宝令文による修飾とみられるが,飛鳥京跡出土の木簡によって天智朝以前の50戸を単位とする組織の存在が判明している。717年(養老元)郷里制が採用され,それまでの里を郷と改称して郷長をおき,郷を2~3の里にわけて里正(りせい)をおいた。740年(天平12)頃に郷里制は廃止されて国郡郷制となり,組織としての里は消滅。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」 山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
里 り
①律令制下,地方行政組織の最小単位 ②条里制における土地区画 ③近世の距離の単位 国郡里制で50戸を1里とし,里ごとに里長を置いた。715年,里を改めて「郷」としその下に里を置いたが,これを郷里制という。 6町(=360歩)四方の地を1里と呼んだ。 1里=36町(約3927m)とし,街道には一里塚を設けた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 旺文社日本史事典 三訂版について 情報
り【里】
尺貫法の長さ・距離の単位。1里は1万2960尺、36町。約3.927km。日本では、8世紀初めから12世紀末までは6町を、16世紀末以後は36町を1里とした。
出典 講談社 単位名がわかる辞典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の 里の言及
【里】より
…古代律令制下の地方行政組織の一つで,同時にまた度地法,土地表示法上の呼称としても用いられた。中国の里制([郷里制](きようりせい))の影響をうけて,日本の令制では全国を国,郡,里の3段階の行政組織にわけ,50戸を1里として里長を置き,里は〈さと〉とも称した。この里は715年(霊亀1)に[郷](ごう)と改められ,その下にさらに2~3の里(こざと)を置く[郷里制](ごうりせい)が施行されたが,739年(天平11)末から翌年初めのころに里は廃され,郷制へと移行した。…
【度量衡】より
…この秦の制度は,頃(けい)という単位(1頃=100畝)とともに漢代を経て,清代まで継承されることになった(斉の制度には大畝360平方歩があったという)。畝法に対して360歩を1里とし,5尺平方を1歩とする歩里法が併用された。容量を表す単位としての石は,本来は1石=120斤とする重量の単位であった。…
【漢】より
…しかもこの傾向は,儒教の普及にともなって郷村における自給自足の平和な農村経済が賛美され,重農主義が強調されるようになったことにも対応するものであった。しかし商人の地主化は,土地問題をひきおこし,漢の郷里制社会を崩壊せしめる誘因になったばかりか,ひいては漢帝国を滅亡に追いこむことになったのである。[郷里制社会と豪族] 漢代の[郷里制]社会をみると,当時の民の大多数を占める農民は郷(きよう)とよばれる周囲を牆壁(しようへき)でかこまれた集落の中に,里(およそ100戸)を単位として集団居住し,牆壁の外部に広がる各戸の農地を耕作して生活していた。…
【郷里制】より
…郷には三老・嗇夫(しよくふ)・游徼(ゆうきよう)がいて,三老は祭祀や自治的諸慣習の指導者であり,嗇夫が裁判と徴税を,游徼が警察事務をつかさどり,亭には亭長がおかれた。これら自然集落の郷や亭の城内はいくつかの里に区画され,それぞれの里は約100戸からなり,里正や父老がいて税役の徴収に責任をおわされ,郷の嗇夫の監察をうけた。郷は自治的集落であった点で,国家権力の末端機構たる県と性格を異にしていた。…
【村】より
…中国において,三国時代(3世紀)ころから使用されはじめた集落を意味する語。それ以前の集落名称として一般的であったのは里であり,それが亭や郷に編成されて村落組織を形成していたが([郷里制]),後漢時代中期以後の社会の変動や戦乱などによる人口移動が原因となって,里や,里を中心とする村落組織がくずれはじめ,新たに小集落が随所にあらわれるようになる。それらをよぶ名称として用いられたのが村である。…
【明】より
…モンゴル高原では,内部対立があってエセンが殺され,オイラート部に代わってタタール部が勢力を伸張し,天順以降しばしば明の北辺に侵入した。これに対して明は[万里の長城]を修築し,九辺鎮とよばれる守備隊を整備するなど,もっぱら防衛を事とした。今日残っている長城は,ほとんどこの時代に修築されたものといわれる。…
【村】より
…華北では,やがてむらは大平原に広まっていくが,河川の発達した南部では今も昔も河川沿いにむらがある。最近長沙から出土した前2世紀の地図をみると,曲がりくねった川に沿って,点々と里と称するむらが存在する。 現代では華北地方のむらは,飲料水や灌漑水を井戸水に頼り,耕地以外に不毛地や原野が入り混じっているために,微高地(自然堤防上など)に密集した数十~200戸程度の集村が,華北大平原のあちこちに散在しているのが普通である。…
【里甲制】より
…明朝は建国後まもなく戸帖の制によって人民の戸籍を定めていったが,また当時江南地方で行われていた小黄冊図の法,すなわちほぼ100戸を1単位とする村落組織などを利用して農村の組織化をすすめた。そしてこれらの制度を整備,画一化して1381年(洪武14)全国的に実施されたのが[賦役黄冊]の編造と里甲制の制定であった。この制度は徭役負担の義務をもつ110戸を基準として1里を編成し,丁糧の多い富裕戸10戸を里長戸,残りの100戸を甲首戸とし,これを10戸ずつ10甲に分けた。…
【隣保制】より
…《管子》にも10家を什となし,5家を伍となし,什伍みな長あり,と言及され,《商君書》にも軍隊組織で5人組の伍が重要な機能を果たす記事が見える。 《続漢書》百官志に〈民に什伍あり,善悪をもって告ぐ〉と記され,南朝では同伍内の犯法に連座する場合,士の身分の者や奴婢の取扱いをどうするか論議されていて,五家で組織する保が郷里内で大きな役割を担っていた様相がうかがわれる。北朝の北魏で486年(太和10)に施行された[三長制]は,約1世紀にわたり均田・均賦制と組み合わせて警察・徴税機能の強化に成績をあげた。…
【条里制】より
…古代日本に行われた耕地の地割の制。6町=60歩×6=約650m間隔に土地を縦横の道路や畦畔(けいはん)で方格に区画し,横(東西)の列を条(または図),縦(南北)の列を里とし,それぞれ起点から順次数字を冠して何条・何里と呼ぶ。またこのようにしてできた6町平方の区画(これをまた固有名詞を付して何々里という)の各辺を1町ごとに6等分し,1里内を方1町の地積をもつ36の坪に分かち,それらを(1)千鳥式(連続式),または(2)並行式の数え方に従って,1坪から36坪まで呼称する(図1)。…
※「里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」