日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロシア史」の意味・わかりやすい解説
ロシア史
ろしあし
ロシア史の特色と時代区分
特色
ロシアの歴史は、はるか有史以前から現在に至るまで、つねに新しいフロンティアを求めての開拓と植民の歴史であった。そしてこの拓殖は、大小の河川に沿って行われてきた。したがってロシアの歴史上、河川の役割はきわめて大きかった。しかし、その河口のほとんどは、ほかの諸民族によって占められていた。そのためロシアは「海への出口」を求めて、多年にわたって近隣の諸民族と戦ってきた。
ロシア史の舞台はまた、なにひとつ遮るもののないユーラシアの大平原であった。南のステップ地帯からは、絶えず精悍(せいかん)な遊牧民が襲撃を繰り返し、西と北からはヨーロッパの大国が侵入してきた。13世紀のモンゴルの来襲から第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの攻撃に至るまで、ロシアはたび重なる外国の侵略を被りながら、それを耐え忍び、敵を退けてきた。
このロシアは、10世紀の末にビザンティン帝国からギリシア正教(ロシア正教)を摂取したが、これはモンゴルの支配下にあってロシア人の心の支えとなった。しかし他方、ビザンティン世界における教会の国家への従属の伝統もロシアに取り入れられた。
ロシアの専制政治は、イワン4世とピョートル1世の時代にいっそう強化された。ピョートル1世は大北方戦争に勝利を収めて元老院から「皇帝」の称号を贈られ、このときからロシアは「ロシア帝国」となる。この帝国は、以後1917年の革命に至るまで、専制と農奴制を2本の支柱として、国内の民主的思想や革命運動を抑圧するとともに、対外的には帝国主義政策を推進した。革命以後は、ソビエト連邦として新たな歴史を歩んだ。革命の成立から74年、その革命の後遺症ともいえるスターリン体制とその克服過程のなか、人類社会初めての「社会主義」建設の営みは、民主主義と近代化、民族問題など多くの世界共通課題への解答を模索し、新たな対応を提起しながらその実験を終えた。1991年ソ連は崩壊し、新生ロシアは満身創痍(まんしんそうい)で市場システムの支配する資本制社会に復帰、新たな時代に踏み出した。
[外川継男]
時代区分
以上のような特色をもつロシアの革命までの歴史は、次のように時代区分をすることができる。
(1)キエフ・ロシア(キエフ・ルーシ)の時代(9~13世紀) 東スラブ人がキエフ大公国を中心に、いくつかの公国を形成した時代。
(2)「タタールのくびき」時代(1240ごろ~1480) モンゴル人の来襲によって、キエフ・ロシアの諸公国が滅ぼされ、キプチャク・ハン国の支配下に置かれた時代。
(3)モスクワ・ロシア(モスクワ・ルーシ)の時代(15~17世紀) 「タタールのくびき」を脱したロシアが、モスクワ大公国を中心にして全土を統一しつつ、専制と農奴制を確立していく時代。
(4)ロシア帝国の成立と発展期(18~19世紀前半) ピョートル1世の改革を経て、絶対主義的な政治・経済体制をますます強化するとともに、ナポレオン戦争に勝って軍事大国として世界政治に登場する時代。
(5)改革と反動の時代(19世紀後半~20世紀初頭) 農奴解放に始まる一連の改革とその後の反動期。
(6)戦争と革命の時代 日露戦争と1905年の革命を経て、第一次世界大戦下1917年の二月革命によりロマノフ朝が崩壊し、さらに十月革命によって史上最初の社会主義国となる時代。
(7)社会主義国ソビエト連邦の成立と解体。
(8)新生ロシア誕生と民族問題の時代。
なお、革命以後の歴史については、「ソビエト連邦(歴史)」を、ソ連邦崩壊後については「ロシア連邦」の項も参照されたい。また、芸術・文化の歴史については「ロシア美術」「ロシア文学」などの項目を参照。
本稿ではロシア暦(ユリウス暦、1918年現行西暦に改暦)が使用されている。これを西暦に直すには、19世紀で12日、20世紀では13日を足せばよい。
[外川継男]
ロシアの建国とキエフ・ロシア
古代~11世紀のロシア
東スラブ人が「ルーシ」Русь/Rus'とよばれて歴史に登場するようになるのは、ようやく紀元後9世紀のことであり、それ以前の時代に名前が出てくる諸民族は、いずれも非スラブ系の遊牧民であった。ロシア史の最初の舞台となったのは、黒海北岸とその奥のステップ地帯であるが、すでに紀元前7世紀ごろにはギリシアの植民市が黒海沿岸につくられ、前5世紀にこの地を訪れた歴史家のヘロドトスは、ステップに住むスキタイ人について記している。しかし、彼らは前3世紀に中央アジアからきた同じイラン系の遊牧民であるサルマタイ人にとってかわられた。その後、ゴート、フン、アバール、ハザールの諸族が次々にこの地方を支配した。のちに大ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ(白ロシア)人として知られるようになる東スラブ人は、すでにスキタイの時代から南および中部ロシアに住み、ハザール人に毛皮などを税として納めていた。ハザール人は、7世紀から11世紀にかけてボルガ川下流からカフカスまで強大な国を建設し、商業で栄えたが、10世紀の後半にキエフ大公国の軍に敗れて以後衰退に向かった。
[外川継男]
「ルーシ」の建国伝説
「ロシア」が国の名称として用いられるようになったのは、ようやく15世紀の末からであって、それまでは単に「ルーシ」またはルーシの地とよばれた。この「ルーシ」という名は、12世紀につくられた『原初年代記』に初めて登場する。それによれば、東スラブの諸部族は互いに争って、正義が支配することがなかったので、海のかなたルーシに赴き、「われらの地は広大であり、豊かであるが、その中には秩序がない。来って公として君臨し、われらを支配せよ」といったという。この招きに応じて、スカンジナビア半島のワリャーグ人(ノルマン人)の3人の兄弟が全部族を引きつれてやってきて、長兄のリューリクはノブゴロドに居を定めた。リューリクが死んだとき、その子のイーゴリはまだ小さかったので、一族のオレーグが政務を処理し、882年にイーゴリを擁してノブゴロドからキエフ(現、キーウ)にきて、ここにキエフ・ロシアの基礎が築かれたという。しかし、ロシアの学者の多くは、このようなノルマン人が最初のロシアの国を建設したという説(ノルマン説)を否定し、キエフ・ロシアは彼らのくるはるか以前に、東スラブの諸部族が長い年月をかけて建設したものだと主張している。
[外川継男]
キエフ・ロシアとその社会
キエフ・ロシアのウラジーミル1世(在位980ごろ~1015)は、988年ビザンティン皇帝の妹をめとり、ギリシア正教を導入してこれを国教とした。キエフ・ロシアは、その子ヤロスラフ1世(在位1019~1054)の時代に最盛期を迎えるが、その版図はドニエプル川流域を中心に、北はバルト海から南は黒海まで、東はオカ川から西はカルパティア山脈にまで及ぶようになった。
キエフ・ロシアはキエフ大公国を中心にいくつかの公国からなっており、公の下に貴族、平民、奴隷がいた。貴族はドゥーマとよばれる会議をもっていたが、このほかベーチェとよばれる民会があった。これにはすべての自由民の戸主が参加する権利があった。キエフ・ロシアのすべての町にこのベーチェがあったが、そのなかでもとくに有名なのが、キエフとノブゴロドのベーチェである。キエフ・ロシアは、ヤロスラフ1世の死後、170年間に80回にも及ぶ内乱を経験する。一時ウラジーミル・モノマフ(在位1113~1125)の時代に再度統一しかけたが、彼の死後ふたたび内乱が始まり、大公位もキエフからウラジーミルへと移された。このような内乱の最中に、ペチェネグ人をはじめとするステップの遊牧民が繰り返しキエフ・ロシアを襲った。そして13世紀初めのモンゴル人の来襲が、この衰退しつつあったキエフ・ロシアに最後のとどめをさすこととなった。
[外川継男]
タタールのくびき
モンゴル人の来襲
1235年、モンゴルは中国、ペルシア、ロシアの3方面に征服の軍を進めることを決定し、ロシア遠征軍の長にはチンギス・ハンの孫のバトゥが任命された。彼は翌1236年に大軍を率いてロシアに侵入し、次々に町を破壊、掠奪(りゃくだつ)し、1240年にはキエフを陥れた。その後ポーランド、ハンガリーに攻め入り、西ヨーロッパを脅かすまでになったが、本国からオゴタイ・ハンの死去(1241)の知らせに接し、軍を引き返した。帰国の途中、バトゥはボルガ川下流のサライを都とするキプチャク・ハン国(金帳ハン国)を建てた。バトゥは、この広大なキプチャク・ハン国を支配するために、ロシアの統治は自分に協力的なロシアの諸公にゆだねたが、これらの諸公にはハン国に対する完全な服従が強制された。
このようにしてモンゴルは1240年ごろから240年間にわたってロシアを支配したが、これはロシア史上「タタールのくびき」とよばれる。タタールというのは、モンゴル軍に従ってきたトルコ系住民の子孫のことで、その後モンゴル人はこのタタール人と混血し、さらにその宗教であるイスラム教を自らの国教とした。
[外川継男]
ネバ河畔の戦いと「氷上の戦い」
他方、モンゴル来襲当時のロシアは、北と西からも外敵の脅威を受けていた。カトリックのスウェーデンやドイツ騎士団が、モンゴルの侵入を機に正教のロシアへの攻撃を企てたからである。1240年、突如スウェーデンの艦隊がノブゴロドを攻略するため、ネバ川をさかのぼって進攻してきた。この知らせを受けたノブゴロド公アレクサンドル(在位1236~1251)は、軍を率いて急襲し、スウェーデン軍を全滅させた。この功績によって、彼はネバ川にちなんで「アレクサンドル・ネフスキー」とよばれるようになった。その直後に、ドイツ騎士団がノブゴロドに迫った。アレクサンドルは氷結したチュド湖上でドイツ騎士団に決戦を挑み、完全な勝利を収めた(「氷上の戦い」)。しかし彼はモンゴルに抵抗することは無意味であると考え、キプチャク・ハンには忠実に仕えた。
[外川継男]
ノブゴロド共和国
キエフ大公国が君臨していた時代にも、ノブゴロドはキエフ・ロシアの諸公国のなかでとくに重要な地位を占めていた。1136年、ノブゴロドの公は妻子ともに市から追放され、これ以後事実上市に雇われる身分になっていた。この国では、国政上の重要事項は自由民の全戸主が参加するベーチェ(民会)で決められた。ベーチェを開くためには、だれでもベーチェの鐘を鳴らすだけでよかった。ここから「ベーチェの鐘」は、ノブゴロドの民主制の象徴として歴史上長く記憶されるようになった。
ノブゴロド共和国がもっとも繁栄を誇ったのは、12、13世紀のことで、ハンザ同盟の諸都市やコンスタンティノープル、さらに東洋の国々との貿易によって栄えたが、1478年にモスクワ大公国のイワン3世によって攻略され、モスクワに併合された。
[外川継男]
モスクワの起こり
モスクワは最初スズダリ公国のなかの一つの村にすぎなかったが、13世紀の後半、アレクサンドル・ネフスキーの子のダニールDaniil Aleksandrovich(1261―1303)の時代からしだいに周辺の土地を加えて、勢力をもつようになった。さらにダニールの子ユーリーは、キプチャク・ハンの妹を妃(きさき)に迎えた。その後、彼の弟のイワン1世(在位1325~1340)がモスクワ公となり、巧みな政治的手段でキプチャク・ハンに取り入り、税を徴収する任務をゆだねられた。彼はこの金で土地を増やすとともに、ウラジーミル大公の位を取得(1328)して、ウラジーミル大公国をもモスクワにつけ加えた。さらに彼は、キエフからウラジーミルに移っていた府主教の座をモスクワに移し、モスクワをして政治上のみでなく宗教上も全ロシアの中心とすることに成功した。
[外川継男]
モスクワ・ロシア
モスクワ大公国の発展
モスクワ大公国はイワン1世の孫のドミトリー・ドンスコイの時代に、クリコボの戦い(1380)でモンゴルの大軍を打ち破って、タタールの支配に最初の反撃を加えた。しかしこの勝利は一時のものでしかなく、モスクワが名実ともに「タタールのくびき」から脱するのは、イワン3世(大帝、在位1462~1505)の時代である。彼はモンゴルの承認なしに大公の位につき、貢物も送らなかった。そして、ビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪(めい)ソフィアZoe Sophia(1503没)を妃(きさき)に迎え、自ら「ツァーリにして専制君主」であると称した。このようなイワン3世の態度にモンゴル側は二度にわたって懲罰の軍勢を送ったが、二度とも退けられた。1480年にイワン3世はキプチャク・ハンに対する忠誠をはっきりと拒否した。ロシア史のうえではこの年をもって、ロシアが「タタールのくびき」から最終的に解放された年とされる。モスクワは次のワシリー3世Vasilii Ⅲ(1479―1533、在位1505~1533)の時代に、リャザニ、プスコフ、スモレンスクなどの土地を加えてその版図を広げた。この時代にはまたプスコフの修道院長フィロフェイFilofei(生没年不詳)によって、「モスクワ=第三のローマ」の思想が説かれ、多くの人々に信じられた。
[外川継男]
イワン雷帝
1547年、イワン4世(在位1533~1584)は史上初めて正式に「全ロシアのツァーリ」として戴冠(たいかん)した。彼の治世は、前半の改革の時代と、後半の恐怖政治の時代とに分けられる。彼の改革によって、貴族はツァーリに奉仕することなしには領地を保持することができなくなった。また外交の面では、カザン・ハン国とアストラハン・ハン国とを征服し、ボルガ川流域一帯をモスクワ大公国の版図に収めた。
1565年、リボニア騎士団とのリボニア戦争(1558~1583)の最中に、イワン4世はツァーリ個人に属する土地(「オプリチニナ」とよばれる)を創設する勅令を発布した。これによって、オプリチニナの中に領地をもつ多くの貴族が外に移され、その土地はイワン4世に奉仕する親衛隊員に与えられた。彼はこの親衛隊を用いて恐怖政治を行い、大貴族の土地を次々に没収するとともに、ノブゴロドやモスクワの町で多くの住民を殺戮(さつりく)した。このような恐怖政治から彼は「イワン雷帝」とよばれた。
恐怖政治によって、多くの町や村が破壊された結果、農村は疲弊し、国庫収入は減少した。さらに農民が、修道院領に移ったり、辺境地帯へ逃亡してコサックの集団に加わったりすることによって、国も地主貴族も経済的に困窮することとなった。イワン4世は、農民を足止めするため、それまで秋のユーリーの日(11月26日の聖ゲオルギー祭)の前後各1週間は農民が自由に移動する権利があったのを、一時禁止した。自由農民の農奴化の始まりである。この臨時的措置は、1649年に制定された法典で恒久的なものとなった。
[外川継男]
動乱時代とロマノフ朝の成立
イワン4世の死後、その子フョードルFyodor Ⅰ Ivanovich(フョードル1世。1557―1598、在位1584~1598)がツァーリの位についたが、彼が子供を残さぬまま没すると、妃の兄ボリス・ゴドゥノフ(在位1598~1605)がゼムスキー・ソボール(全国会議)でツァーリに選出された。しかし、先に没したフョードルの弟のドミトリーと称する者(偽(にせ)ドミトリー、1世)が出現し、ポーランドとカトリックの後ろ盾を得て、ボリス・ゴドゥノフの急死のあとツァーリとなった。だが、即位後1年もたたぬうちに偽ドミトリーは殺害され、彼を倒した大貴族出身のワシリー・シュイスキーVasily Shuisky(ワシリー4世。1552―1612、在位1606~1610)がツァーリの位についた。その後、ふたたび偽ドミトリー(2世)が現れ、北部ロシアを支配するに至った。ワシリー4世はスウェーデンの助けを借りて、ようやく偽ドミトリー2世の勢力を打ち破ることができた。ついでポーランド軍が侵攻を開始、モスクワを陥れて掠奪(りゃくだつ)、暴行を重ねた。これに対しモスクワの総主教は、異教徒の支配からロシアを解放するよう、広く民衆に呼びかけた。この宗教的であると同時に民族的な訴えは各地に大きな反響を引き起こし、ミーニンKuzma Minin(?―1616)とポジャルスキーDmitrii Mikhailovich Pozharskii(1578―1642)に率いられた国民軍が、ついにクレムリンに立てこもったポーランド軍を降伏させて、モスクワを解放した。ワシリー4世の死後、ロシアは空位時代になっていたが、モスクワが解放されるや、聖職者、貴族、市民、農民の代表からなる全国会議が招集され、ミハイル・ロマノフ(在位1613~1645)をツァーリに選んだ。ここにロマノフ朝が成立、これによってボリス・ゴドゥノフの死から続いた「動乱時代」が終わり、ロシアは新しい時代を迎えた。
[外川継男]
ロシア帝国の成立と発展
上からの近代化と啓蒙専制主義
ロシアの近代はピョートル1世(大帝、在位1682~1725)の時代に始まるが、彼がその生涯をかけて努力したのは、西ヨーロッパ諸国に比べて遅れていたロシアを上から近代化することであった。そのため、富国強兵を目ざす、国家権力による強引な近代化政策を行った。18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762~1796)も、基本的にはこのようなピョートル1世の政策を受け継ぎ、専制政治と農奴制を2本の支柱として、いわば東欧型絶対主義の確立を目ざした。
ピョートル1世の治世のほとんどは戦争に明け暮れたが、とくにスウェーデンとの大北方戦争(1700~1721)は22年間の長きにわたった。この戦争の最中に、彼はフィンランド湾に注ぐネバ川の河口に新首都ペテルブルグ(サンクト・ペテルブルグ)を建設した。大北方戦争に勝利を収めたピョートル1世は、元老院から「皇帝」の称号を贈られ、以後ロシアは「ロシア帝国」となった。彼はロシアを近代化するため、西欧先進諸国からさまざまな制度を取り入れたが、これに反対する人々に対しては政治警察を使って抑圧した。
ピョートル1世からエカチェリーナ2世までの37年間にロシアで6人のツァーリが即位したが、いずれも凡庸で、政治はもっぱら寵臣(ちょうしん)や側近が行った。しかし、夫であるピョートル3世(在位1761~1762)を倒して即位したエカチェリーナ2世は、女性にして「大帝」とよばれるただ一人の皇帝となった。その治世の前半には、啓蒙(けいもう)専制君主とよばれるに値するいくつかの改革を行った。また外交面では、クリミア・タタールと戦ってクリム・ハン国を併合するとともに、二度にわたってオスマン・トルコ帝国と戦い、「新ロシア」を獲得した。さらにプロイセンおよびオーストリアと謀ってポーランド分割(第一次、1772)を行い、その東半分をロシア領とした。
ロシアの農奴制は、エカチェリーナ2世の下で整備され、地主貴族の農民に対する支配は強化された。これに対して、プガチョフEmel'yan Ivanovich Pugachyov(1742ころ―1775)に率いられた大規模な農民反乱(1773~1775)が起こり、政府はまる1年かけてようやくこれを鎮圧することができた(プガチョフの乱)。
[外川継男]
アレクサンドル1世とナポレオン1世
エカチェリーナ2世のあと即位したパーベル1世(在位1796~1801)は、彼に不満を抱く廷臣たちによって暗殺され、その子のアレクサンドル1世(在位1801~1825)が人々の期待を担って皇帝の位についた。彼は、自由主義的な側近をもって改革を検討する委員会を設置し、スペランスキーを登用して憲法草案をつくらせたが、いずれもナポレオン1世との戦いのために実を結ぶことなしに終わった。
1805年、ロシアはオーストリアと連合して、アウステルリッツの戦いでナポレオン軍と戦って大敗を喫した。2年後にフリートラントでふたたびフランス軍に敗れ、アレクサンドル1世はナポレオン1世を相手に屈辱的なティルジット条約(1807)を結ばざるをえなかった。その後、ロシアではナポレオン1世の大陸封鎖に対する不満が増大し、ロシアとフランスとの関係は悪化した。1812年、ナポレオン1世はおよそ64万という大軍を率いてモスクワ遠征を敢行し、ボロジノの戦いののち、モスクワに入った。しかしアレクサンドル1世は、ナポレオン1世の三度にわたる講和の申入れを拒否し、迫りくるロシアの冬を前にナポレオン軍は撤退のやむなきに至った。
ナポレオン1世の没落後に開催されたウィーン会議(1814~1815)において、アレクサンドル1世は主役を演じ、さらにヨーロッパに神による平和を打ち立てるのだと称して、「神聖同盟」を提唱した。しかし、国内問題に関して、彼は以前のような情熱はもはや失ってしまった。
[外川継男]
デカブリストの乱
1825年にアレクサンドル1世が旅先で急死すると、帝位の継承をめぐって混乱が生じた。結局、2番目の弟のニコライが即位することになり、同年12月、慣例によって首都の全軍隊が新しいツァーリに忠誠を誓うため元老院広場に集結した。このとき、およそ3000人の将兵が宣誓を拒否して、反乱の姿勢を示した。彼らの指導者の大部分は、ナポレオン戦争に参加した経験のある近衛(このえ)の士官で、1816年以来、ロシアの改革のため秘密結社をつくっていた。彼らは一様に、西ヨーロッパ諸国に比べて遅れている祖国を改造するためには、まず第一に専制政治と農奴制を廃止すべきだと考えていた。
結局この反乱は、新帝ニコライ1世(在位1825~1855)の武力によって鎮圧され、首謀者5人は絞首刑となり、120余人がシベリア流刑となった(デカブリストの乱)。しかし、専制に対する最初の公然たる武装蜂起(ほうき)の企ては、長く人々の記憶に残り、それ以後の革命運動の先駆けとなった。
1825年から1855年までのニコライ1世の30年間の治世は、19世紀のロシアでももっとも暗い時代だった。彼は秘密警察と憲兵隊を兼ねる「皇帝官房第三部」を設置して、あらゆる危険思想を取り締まった。また、国内のみでなく、1849年にはハンガリーにも軍隊を送って、この国の革命を武力で弾圧し、「ヨーロッパの憲兵」と恐れられた。しかし、このような政府の抑圧政策にもかかわらず、1830年代の末から1840年代の末にかけて、ロシアの思想界はかつてないほど活発な動きを示し、ホミャコーフやキレーエフスキーに代表されるスラボフィル(スラブ派)と、ベリンスキーやゲルツェンに代表されるザーパドニキ(西欧派)との間に、ロシアの過去と未来をめぐって華々しい論争が戦わされた。また、文学はプーシキン、ゴーゴリ、レールモントフなどが現れて、黄金時代を迎えた。
[外川継男]
改革と反動
農奴解放と諸改革
ロシアは1853年から3年間にわたって、オスマン・トルコ帝国とその後押しをするイギリスやフランスを相手にクリミア戦争(1853~1856)を戦い、敗北を喫した。敗戦の前年に即位した皇帝アレクサンドル2世(在位1855~1881)をはじめとして、ロシアの支配階級の一部は、この敗北の原因が単に軍事的なものでなく、ロシアの工業力の弱さや、鉄道・道路網の不備など、近代化の立ち後れにあると考えた。
1861年、農奴解放令が公布された。ついで地方行政の改革のために、ゼムストボとよばれる地方自治会が設置され、1864年には司法・裁判制度の改革も行われた。改革はまた軍制、国家財政、教育面などに関しても行われ、ロシア社会は徐々に近代化に向けて変化していった。
[外川継男]
ブ・ナロード運動
しかし、このような政府による上からの近代化に対して、社会のなかに反対する勢力が生じた。それは保守的な地主貴族たちばかりでなく、農奴解放令の内容に不満な農民と、彼らに同情を寄せるとともにロシア社会の全体的な変革を目ざす若いインテリゲンチャであった。農奴解放令公布の直後に各地に農民騒乱が発生したが、政府はこれを武力をもって弾圧した。当時ロンドンに亡命していたゲルツェンは、農奴解放令の欺瞞(ぎまん)を暴くとともに、若者に農村に入って啓蒙(けいもう)・宣伝活動をするよう訴えた。このような呼びかけに応じて、少なからぬ若者が秘密結社をつくり、しだいに過激な行動へと傾いていった。彼らはナロードニキ(人民主義者)といわれた。
若い男女の、人民のなかへ入って革命を宣伝しようとするブ・ナロード(「人民のなかへ」の意)運動は、1874年の夏に最高潮に達した。しかし、農民のほとんどはこのような呼びかけにこたえようとせず、運動は失敗に終わった。その後、一部のもっとも過激な若者たちはテロリズムの戦術を採用した。1881年、アレクサンドル2世は、このような若者の秘密結社「人民の意志」派によって暗殺された。
[外川継男]
反動政策と上からの工業化
アレクサンドル2世の後を継いで即位したアレクサンドル3世(在位1881~1894)は、即位後ただちに「臨時措置令」を公布し、革命運動の取締りを強化した。この皇帝の下で政府は、ゼムストボや司法、教育制度の改悪を行うと同時に、ユダヤ人など少数民族に対する差別を強化した。他方、蔵相ウィッテの指導下に、政府は、穀物をはじめ原料を輸出して外貨をかせぐとともに、外国資本を導入して工業の育成を図った。その結果、1890年代のロシアは、かつてない高い経済成長を遂げた。しかし、このような成長は農民と労働者の犠牲のうえになされたものだけに、政府に対する大衆の不満は増大していった。
[外川継男]
ロシア・フランス同盟と東方への進出
クリミア戦争の敗北後、ロシアは最初フランスに接近したが、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)以後、ビスマルクのフランス孤立化政策に同調し、1873年ドイツ、オーストリアと組んで「三帝同盟」を結んだ。この後ロシアはバルカン半島のスラブ人の解放のためと称してオスマン・トルコ帝国と戦った。ロシア・トルコ戦争(1877~1878)に勝利を収めたロシアは、サン・ステファノ条約でバルカンに勢力圏を獲得したかにみえたが、ロシアがバルカンと近東を支配するようになることを恐れたビスマルクは、ベルリン会議(1878)を開催して、ロシアの進出に歯止めをかけた。その後ロシアはフランスにふたたび近づき、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗して、1894年「ロシア・フランス同盟」を締結した。
一方、ロシアはたびたび中央アジアに遠征軍を送って、ブハラ・ハン国、ヒバ・ハン国を保護領とするとともに、コーカンド・ハン国を併合した。さらに極東へも進出し、清(しん)国との間に1858年アイグン条約を締結して、アムール川以北の領土を獲得した。さらに2年後に結ばれた北京(ペキン)条約では、ウスリー川以東の沿海州(現、沿海地方)も得て、ここに良港ウラジオストクを建設した。また日本との間に、1855年には日露通好条約を締結し、さらに1875年の樺太(からふと)・千島交換条約(サンクト・ペテルブルグ条約)により、日本にウルップ島以北の千島列島を譲渡するかわりに、それまで日露の共同領有であった樺太(サハリン)の領有権を獲得した。
[外川継男]
戦争と革命
日露戦争と1905年の革命
ロシアと日本との関係は、ロシアが1895年、日本政府に対する「三国干渉」を行ってから一段と悪化した。その後、義和団事件のときロシアが満州(現、中国東北地方)に大軍を送り込み、事件後も撤兵しなかったことから、日本政府は朝鮮半島における自国の権益擁護を理由に、1902年イギリスと同盟を結び、ロシアに対抗しようとした。かくて満州と朝鮮における支配権をめぐって、1904年両国の間に戦端が開かれた(日露戦争)。
日露戦争が始まった翌1905年、1月9日の日曜日に、首都ペテルブルグの15万以上の民衆が生活の向上や戦争の中止を皇帝に直接請願するためデモを行った。これに対し政府は軍隊の発砲をもってこたえ、多くの死傷者が出た。この「血の日曜日」事件の知らせはただちに全国に伝わり、各地で抗議のストライキが発生し、そのなかから自然発生的に労働者の代表機関として「ソビエト」が生まれた。同年9月の日露戦争の敗北後、10月に200万人もの労働者が参加するゼネストが発生、ロシアの全産業が完全に麻痺(まひ)した。ここに至って、ニコライ2世(在位1894~1917)はやむなく「十月宣言」を発布して、市民的自由を与えることと、国会の設立を約束した。しかしペテルブルグの全市ソビエト会議は十月宣言を拒否し、無期限ストを決議したが、政府によってつぶされ、モスクワの労働者の武装蜂起(ほうき)も軍隊によって弾圧された。
[外川継男]
第一次世界大戦と帝政の崩壊
1914年、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、ロシアはフランス、イギリスとともに連合国の一員として、ドイツ、オーストリアの同盟国に対し同年7(西暦8)月、戦争を開始した。しかし戦争が長引くにつれ、前線でも銃後でも厭戦(えんせん)気分が広がり、1916年の秋には首都ペトログラード(現、サンクト・ペテルブルグ)の6万の労働者がストライキに入った。翌1917年2月23日の国際婦人デーに際し、同市の女性労働者が「パンよこせデモ」を行い、これをきっかけとして25日にはストライキの波は全市を覆うようになった。さらにこの後、兵士が反乱を起こして将校を殺し、政治犯を釈放した。一方、労働者は労働者ソビエト臨時委員会を結成し、兵士もこれに加わって、ここに「労働者・兵士ソビエト」という、革命において決定的役割を果たす組織が生まれた。時を同じくして国会内には臨時委員会がつくられ、ペトログラードでは労働者・兵士ソビエトと国会臨時委員会との二重権力状態が生じた。この事態に直面して、ニコライ2世は皇位を弟のミハイル大公Mikhail Aleksandrovich(1878―1918)に譲ろうとしたが、ミハイル大公がこれを拒否したため、ロマノフ朝はついに崩壊した(二月革命)。
[外川継男]
十月革命
ニコライ2世の退位のあと、国会臨時委員会は臨時政府を組織した。一方、亡命先のスイスから急ぎ帰国したレーニンは、「四月テーゼ」を発表して、臨時政府に協力することなくソビエトを支持するよう呼びかけた。臨時政府の戦争継続方針は、大衆の不満を増大させ、1917年7月に労働者と兵士が大武装デモを行い、政府は前線から騎兵師団を呼び戻してようやくこれを鎮圧した。その後、社会革命党のケレンスキーが社会主義者と自由主義者とからなる連立政府(第二次)を組織し、最高司令官にコルニーロフを任命した。しかしコルニーロフは、自ら全権を掌握しようとして反乱を起こし、ケレンスキーはようやくこれを鎮圧することができた。10月10日に、7月以来フィンランドに亡命していたレーニンがひそかに首都に戻ってきた。一方、ペトログラード・ソビエトは、10月16日に軍事革命委員会を設立し、その委員長にトロツキーを選んだ。委員会はただちに全部隊に政治委員を任命し、完全に軍の指揮権を掌握するとともに、武装蜂起の予定を10月25日と決定した。10月24日の夕方には、約6000のボリシェビキの軍隊が蜂起し、ほとんど抵抗を受けることなく作戦上の要所を占領した。翌25日の夜、ネバ川上の巡洋艦アウロラ(オーロラ)号からの空砲を合図に冬宮攻撃が開始され、わずか数時間で政府軍は一掃され、ここに立てこもった政府の閣僚が逮捕された。26日ボリシェビキが政権を掌握、ここにロシア革命は成った(十月革命)。しかしソ連崩壊後、歴史家のなかにはこの「革命」を「クーデター」と見直すものが少なくない。
[外川継男]
ソ連邦の成立と解体
ソビエト同盟の成立
戦時共産主義
十月革命によって臨時政府を倒したボリシェビキは、SR(エスエル)(社会革命党)左派と組んで世界最初の社会主義政権である労農政府を樹立した。首班にはレーニンが、外務人民委員にはトロツキーが、民族問題人民委員にはスターリンが就任した。
新政権はかねてからの約束にしたがって、憲法制定会議を召集するために歴史上最初の自由な普通選挙を行ったが、その結果はエスエルが第一党で、ボリシェビキは23%を得たにすぎなかった。この憲法制定会議が、新政権の提案した宣言を拒否したところから、レーニンは武力を使ってこれを解散した。この直後、労農政府は第3回ロシア・ソビエト大会を開催して「勤労被搾取人民の権利の宣言」を採択させるとともに、ロシア・ソビエト社会主義共和国の成立を宣言した。
新政権に反対する勢力は旧体制支持の地主・貴族・ブルジョアジー・軍人だけでなく、メンシェビキやエスエル右派からも生じた。新政府はこれらの反体制勢力を取り締まるために「チェカー」(非常委員会)とよばれる機関をつくって、厳しく弾圧した。これがのちの秘密警察「ゲー・ペー・ウー」の前身である。
新政権のさしせまった課題は、どうしてモスクワやペトログラードをはじめとする都市の労働者に食糧を供給するかということであった。政府は穀物の国家による独占を図って「食糧独裁令」を発布するとともに、農村に貧農委員会をつくって、強制的に食糧を徴発した。1918年のなかばから政府は「戦時共産主義」とよばれる非常処置を実施して、白衛軍(反革命軍)や外国の干渉軍だけでなく、食糧の供出に応じない農民とも戦うことになった。
1918年7月にエスエル左派が反乱を起こして蜂起(ほうき)したが、これをチェカーが鎮圧した。この事件によって政府は完全にボリシェビキだけが掌握するところとなり、それ以後の一党独裁体制が確立した。8月にはレーニンが危うく暗殺されそうになったが、このときから政府は「赤色テロル」を断行し、反対勢力を排除していった。ニコライ2世とその家族も処刑された。
ボリシェビキ政権は、地主・貴族・軍人・コサックなど旧体制の支持者に加えて、英・米・仏・日など外国の干渉軍や、独立を主張する少数民族、食糧微発を拒否する農民とも戦わなければならなかった。そのために第一次世界大戦中のドイツの総力戦体制をモデルとし、あらゆる政治・経済の力を中央に集中した。チェカーをはじめ、一時的な処置として採用された革命直後のこのような政治システムは、その後のソビエト体制の基礎を形づくることとなった。
[外川継男]
民族政権の成立と消滅
1918年3月のブレスト・リトフスク条約によって、ロシアは人口の26%、領土の27%を失った。それまでロシア帝国に組み込まれていたフィンランド、ポーランド、バルト三国とウクライナが独立した。ザカフカスの民族主義諸政党は1918年4月にザカフカス連邦共和国の独立を宣言したが、まもなくジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャンの3共和国に分かれた。しかしイギリス干渉軍の撤退後、ソビエト軍によって社会主義政権がつくられ、1922年12月にはロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカスの4か国によってソビエト連邦(ソ連)が成立した。中央アジアでは1918年4月にトルキスタン自治共和国がつくられたが、ボリシェビキ政権に反対するムスリム農民の反ソ暴動組織バスマチ(basmaciは「匪賊(ひぞく)、急襲者」の意)の抵抗運動は1920年代の末まで続いた。イスラム教徒の遊牧民の多い中央アジアでは、1924年から1936年にかけて五つの共和国がつくられ、ソ連邦構成共和国となった。
帝政ロシアには多くのイスラム教徒が住んでいたが、そのおもな定住地は中央アジア、ボルガ川沿岸、カフカス山地、クリミア地方であった。ボルガ川沿岸のタタール人とバシキール人は一つの国になるのを望んでいたが、1919年に分断されてタタール自治共和国とバシキール自治共和国がつくられた。
新たに形成されたソビエト連邦は、理論上はロシア連邦と、それと対等な共和国との同盟、および自治共和国または自治管区、自治州がロシア連邦に自発的に加入する形をとっていた。しかし、これはあくまでもたてまえで、ボリシェビキ政権が押しつけたものであった。そして各共和国の連邦からの離脱も、実際には不可能だった。
[外川継男]
ソビエト共産党
十月革命に勝利したボリシェビキは、1898年に設立されたロシア社会民主労働党が1903年の第2回の大会でレーニンの率いるボリシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)に分裂してできたものだった。しかし実際にはボリシェビキのほうが党員数は少なく、二月革命の直前にはわずか2万4000人ほどだった。その後1918年にロシア共産党(ボリシェビキ)と改名し、1925年に全連邦共産党(ボリシェビキ)、1952年にはソビエト連邦共産党(ソビエト共産党)と名のるようになった。
レーニンは第2回大会のときからロシアの革命党がヨーロッパの社会主義政党とは根本的に異なる職業的革命家の政党で、上からの指令には文句なく従う一枚岩の組織であるべきだと主張してきた。革命後、まだ党員数も少なく組織も弱かった共産党が、広大な領土と100以上の多民族国家を統治することができたのは、この共産党がその指令を遂行する地方ソビエトと秘密警察を完全に掌握していたからであった。
共産党の最高機関は党大会であったが、これは名目にすぎず、実際には大会で選出された中央委員会と、そこで選ばれた政治局が党と国家のすべての重要事項を決定した。さらにその頂点の書記長が最高権力者としてしだいに独裁的な権力を行使するようになった。
[外川継男]
レーニンとスターリン
レーニンはマルクス主義者だったが、あくまでも実践的な政治家だった。彼は革命当初にはロシアにおける社会主義革命は、ヨーロッパ資本主義国の革命を待って初めて完遂されると信じていた。しかし、しだいにその可能性が薄れると、獲得した政権を維持するために原則から離れて現実的な手段をとるようになった。多くの同志の反対を押し切って十月革命をなしとげ、労農政権の維持のためにドイツと屈辱的な講和を結んだ彼は、戦時共産主義政策が多くの労働者・農民の反対にあって生産活動が麻痺(まひ)するようになると、1921年からは「ネップ」とよばれる新しい経済政策を打ち出した。これは農民に対する土地および生産物の比較的自由な処分と、商工業における限られた範囲内での私的活動を認めるものだった。ネップが始まった年には旱魃(かんばつ)のため、南ロシアを大飢饉(ききん)が襲い、全国で500万人もの餓死者がでた。多くの農村が昔の共同体を復活して、閉鎖的な自給経済にたちもどった。政府は割当て徴発制度を廃止して、現物税制度にかえ、農民の手元に残った生産物を自由市場で売ることを認めた。
1922年に政府が教会の貴重品を没収したのに抗議して、聖職者が暴動を起こしたとき、レーニンは銃殺を含めて断固これを鎮圧することを命じた。政府の政策に反対する者に対する彼の非情な態度は、その後のスターリンのやり方に受け継がれた。
レーニンは1923年3月の三度目の発作のあと、完全に公務から離れた。この前後から病床にあって1924年1月に死ぬまで、適切な政策を実行するには、党官僚の知識と教養が決定的に不足していることを痛感していた。彼はスターリンがその粗暴な性格から書記長としてふさわしいとはいえず、その地位からはずすべきだと考え、そのことを妻に口述筆記させた。またレーニンは、民族問題に関するスターリンの処理の仕方にも、民族感情や伝統を理解しない排外的な大ロシア主義があることを心配した。しかしこのレーニンの「遺言」は公表されることなく、スターリンはあたかもレーニンの後継者であるかのごとく葬儀を取り仕切り、トロツキーら政敵を次々に排除して、独裁的権力を固めていった。
[外川継男]
一国社会主義
工業化と農業の集団化
スターリンは遅れたソ連を近代的な国家にするために、1928年から五か年計画を実施して重工業優先の工業化を図るとともに、農家をまとめて大規模なコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)の創設にのりだした。資本主義諸国に囲まれたソ連が一国でも社会主義社会を建設できること(一国社会主義)を国民に示すために、彼は食糧の供出を確保し、遅れた農業を機械化するとともに、労働力を電力・石炭・製鉄・軍事工業などの分野にまわす強硬な政策をとった。
集団化に反対する農民は各地で一揆(いっき)や暴動を起こしたが、党=政府は「国家政治保安部(ゲー・ペー・ウー)」といわれる秘密警察の軍隊を使って、これらを鎮圧した。すでに農村には革命前やネップ期のクラーク(富農)は少なくなっていたが、当局は集団化に反対する農民はすべてクラークに分類して強制収容所に送り、その家族は強制移住させられた。この「クラーク絶滅」とよばれる政策で犠牲になった農民は500万とも1000万ともいわれる。しかし集団化はスターリンが期待したような成果を生まなかった。倍増が予想された穀物の減産はそれほどでもなかったが、家畜は大幅に減って、集団化以前のレベルに回復するには1950年代なかばまでかかった。1932~1933年にはまたしても大飢饉が襲って300万以上の農民が栄養失調と伝染病で死んだ。しかし政府は外貨を獲得するためにこの時期にも穀物の輸出を続けた。
一方、工業化は労働者数の著しい増加とともに進められた。第一次五か年計画のあいだに、工業労働者は2倍に、1940年までには3倍に増えた。政府は労働者にそれぞれの分野ごとに作業量(ノルマ)を定め、それを超過したものには多額の報奨金と名誉を与えた。一方、1932年から国内旅券制度を施行して、農民や労働者の自由な移動を禁止した。
第一次五か年計画は予定より早く目標が達成されたと発表された。この間にスターリングラードのトラクター工場、ボルガ―白海運河、マグニトゴルスクの金属工業のような大規模な計画が実現した。五か年計画はその後も続けられ、1941年6月にドイツ軍がソ連に戦争をしかけてくるまでには、基本的な重工業分野の基礎ができた。しかし、工業部門では量的成長はみられたが、質的成長が伴わず、また農業部門では畜産をはじめ大きな課題を残した。
ソ連の経済は「ゴスプラン」とよばれる国家計画委員会が統括し、市場ではなく国家の必要に応じて上から下へ指令する形をとるものであったが、このような体制は第二次世界大戦後しだいに機能しなくなり、ペレストロイカによって消滅した。
[外川継男]
スターリンのテロル
1929年に満50歳の誕生日を迎えたスターリンは、『プラウダ』をはじめ全ソ連の新聞・ラジオで偉大な「指導者」として称賛された。スターリン崇拝の始まりである。1934年の第17回党大会は「勝利者の大会」とよばれたが、それは集団化と第一次五か年計画の勝利を祝う意味からであった。
1934年12月、レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)の共産党の第一書記だったキーロフが暗殺された。犯人はニコラーエフという若い党員だったが、おそらくキーロフの人気をねたんだスターリンの命令を受けて暗殺したのだろうと推定される。この事件を口実としてジノビエフとカーメネフを含むレニングラードの反対派が見せしめの裁判にかけられ、自白を証拠に処刑された。これを手はじめに1938年にはブハーリンらが処刑された。第17回党大会に出席した政治局員の2人、政治局員候補6人中5人、中央委員と同候補139人のうち98人が逮捕されて銃殺された。粛清は党員から軍人や役人、文化人にも及んだ。元帥のトゥハチェフスキーはじめ赤軍の7人の司令官がドイツと通謀したかどで死刑に処せられた。ドイツとの戦争が開始されたとき、ソ連側には有能な司令官が十分いなかったことが、開戦時の被害を大きくした理由だったといわれている。
スターリン時代に処刑されたものは200~300万、逮捕されたものは1000万~1500万にも達すると推定されている。そのなかには被疑者の家族や子供、さらに日本人を含む外国人もいた。
[外川継男]
収容所群島
ソ連は共産党が一党独裁体制で支配した国だったが、党=政府は反体制分子を秘密警察の手で逮捕し、正式な裁判もせずに強制収容所に送った。裁判をする場合も、県党委員会書記と県ソビエト議長およびゲー・ペー・ウーの代表からなるトロイカとよばれる欠席裁判で銃殺をふくむ懲罰を行った。強制収容所はラーゲリとよばれ、その総管理局はグラーグと称した。ラーゲリは革命直後の1918年につくられ、その後ソ連が崩壊するまでソビエト体制を支えてきた。グラーグの特殊部門のなかには木材の伐採や鉱山の採鉱、道路、ダム、鉄道、運河、全市街の建設など、ソ連の計画経済の重要な部門を担当するものも少なくなかった。そこで働く囚人を監視するため、グラーグは通常の軍隊のほか、戦車隊、砲兵隊、航空隊などをもっていた。
白海運河やモスクワ―ボルガ運河、バム鉄道など、またマグニトゴルスク、コムソモリスク・ナ・アムーレなど新都市の建設も、収容所の囚人によって行われた。なかでもソロフキ島のほか、極東のコルィマ、シベリアのノリリスク、ボルクタなど大規模な施設が有名だが、収容所はソ連国内のいたるところにあって、自らもラーゲリに入れられていたソルジェニツィンはソ連を「収容所群島」とよんだ。
[外川継男]
大祖国戦争
スターリンの一国社会主義のもとでとられた外交政策は、資本主義諸国に囲まれている社会主義の祖国ソ連をなんとしてでも防衛することであった。そのため彼は、コミンテルン(第三インターナショナル)を通じて各国の共産党を利用した。1939年にはナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結んだが、これには秘密議定書があって、ポーランドをドイツとソ連で二分すること、ドイツがリトアニアをとるかわりに、ソ連がエストニア、ラトビア、フィンランド、ベッサラビアなどをとることが決められていた。さらに1941年には日本との間に日ソ中立条約を締結して、東からの攻撃の可能性に備えた。
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵略して第二次世界大戦が始まると、ソ連は東部ポーランドに軍を進駐させた。ついでワルシャワとルブリン地区をドイツに与えるかわりにリトアニアを手に入れ、これにエストニア、ラトビアを加えたバルト三国を占領し、翌1940年7月にはこれをソ連邦に編入した。フィンランドとの間には1939年11月から翌1940年3月にかけて「冬戦争」を行い、ソ連が勝利したが、フィンランドは賠償を払って独立を保つことができた。さらに、ソ連は1940年6月にルーマニア領の北ブコビナとベッサラビアを占領し、8月にはモルダビア・ソビエト社会主義共和国を樹立した。
1941年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻して独ソ戦が開始された。当初スターリンはドイツの侵略を楽観していたため、ソ連軍は大きな損害を被った。スターリンはラジオ放送で国民に祖国防衛を訴えた。「祖国戦争」とよばれたナポレオン戦争にちなんで、その後この戦争は「大祖国戦争」とよばれるようになった。
ドイツ軍は11月なかばにはレニングラードを包囲し、モスクワ郊外まで迫った。キエフは陥落し、ウクライナ全土とクリミアの大部分はドイツ軍に占領された。しかし、1942年夏から翌1943年2月にかけてのスターリングラードの戦いでソ連はドイツ軍を破り、1943年7月のクルスクの戦いにも勝利して、しだいにドイツ軍を押し返していった。このあとソ連軍は東ヨーロッパ各地からバルカン半島とバルト地方まで進出し、1945年5月にはついにベルリンを陥落させた。さらに8月にはヤルタ会談の約束にしたがって敗戦まぎわの日本に宣戦を布告し、わずか1週間余の戦争で南サハリンと「北方領土」を含む千島列島を獲得した。
[外川継男]
第二次世界大戦後のソ連
冷戦とソ連
第二次世界大戦において連合国の一員として勝利したソ連は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどを支配下に収め、これらの東欧圏に共産主義政権を押しつけた。ユーゴスラビアは独自の対独パルチザンを指揮したチトーのもとに、ソ連とは別の社会主義路線を歩んだため、1948年6月コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から追放された。
アメリカの核兵器独占は、1949年8月にソ連が原爆実験に成功し、さらに1953年8月には水爆実験にも成功したところから、その圧倒的優位が崩れた。1958年10月、米・英・ソ3国はジュネーブで核実験停止のための会議を初めて開いたが、その後これは東西両陣営の戦略核兵器の制限交渉へと進展していった。ソ連は1957年10月には世界最初の人工衛星を打ち上げ、アメリカにショックを与えた。1961年4月には初の有人衛星ボストーク1号が成功し、宇宙開発の分野でソ連はアメリカに一歩先んじていることを証明した。
ドイツは連合国によって分割統治されていたが、米・英・仏の3国が統合統治を決めたことによって、ソ連は1948年6月から1949年5月の間にベルリン封鎖を実施した(1961年8月には「ベルリンの壁」が築かれた)。これに対抗してアメリカをはじめとする西側諸国はマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)を実施して大量の物資をベルリンに空輸した。こうしてドイツは1949年に、西側に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)と東側のドイツ民主共和国(東ドイツ)に分断され、この状態は1990年のドイツ統合まで続く。ソ連は西側のマーシャル・プランに対して1949年1月経済援助相互会議(コメコン)を設立して対抗したが、ソ連中心の分業体制を押しつけるやり方は、東欧諸国の不満を招いた。
西側はアメリカを中心に1949年4月にNATO(北大西洋条約機構)をつくったが、これには後にトルコ、ギリシア、西ドイツも加入して、軍隊ももった。これに対抗してソ連をはじめとする東欧8か国(アルバニアをふくむ)は1955年1月ワルシャワ条約機構という名の軍事同盟を結成して、東西の対立は激化した。しかし東側の結束が見せかけであることは、1956年2月のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフのスターリン批判をきっかけに、一気に表面化した。この年6月にはポーランドで、さらに10月にはハンガリーで民衆が反政府暴動を起こした(ハンガリー事件)。さらに中国もソ連政府のスターリン批判や対米接近、平和共存路線に反発して、中ソの対立はしだいに激しいものになっていった。
ソ連の東ヨーロッパ支配は、1962年2月キューバ危機においてフルシチョフがケネディの強硬な態度に屈伏を余儀なくされたこと、1968年8月のチェコスロバキアの自由化路線に対しソ連が軍事介入(チェコ事件)したことによって、弱体化していった。さらにブレジネフ時代の経済の不振から、ソ連にとってはベトナムやキューバやアフリカ諸国に軍事・経済援助することはますます大きな負担となった。
[外川継男]
フルシチョフとブレジネフ
1953年のスターリンの死後、1964年までの11年間はフルシチョフが、そのあと1982年までの18年間はブレジネフが、共産党の書記長としてソ連を治めた。
フルシチョフのスターリン批判は、新しい時代の到来を予感させるものであり、それはソ連社会に一時的な「雪どけ」とよばれる現象をもたらした。スターリン時代に粛清された多くの政治家が名誉回復され、それまでの厳しい検閲が緩んで、エレンブルグの『雪どけ』やソルジェニツィンの『イワン・デニソビッチの一日』などの作品が発表された。フルシチョフはソ連国民に、近い将来ソ連はアメリカに追い付き、追い越すことができると楽観論を述べた。
しかし、1963年の穀物生産は旱魃(かんばつ)もあって前年より23%も減少し、アメリカやカナダから飼料用穀物を輸入しなければならなかった。中央アジアや西シベリアで行われた処女地開拓も失敗に終わった。彼はまた、共産党の地方組織を農業と工業に分割したりして、その思いつきの政策から党員の反感をかった。1964年10月、共産党の幹部会はフルシチョフの経済政策と外交政策の失敗を理由に解任を決議し、後任にはブレジネフが選ばれた。
ブレジネフはフルシチョフが始めた非スターリン化を中止し、中国との公の論争もやめた。彼は1966年にはスターリンが称していた党書記長の地位につき(フルシチョフは第一書記を称していた)、1977年には国家元首である最高会議議長も兼務した。しかし彼のスターリンに次ぐ長い治世は、首相のコスイギンが提唱し中途で挫折(ざせつ)した改革を除けば、安定を望むあまり、政治的にも経済的にもなんら進歩がみられない「停滞の時代」であった。党幹部も役所の高官も長年にわたって同じ地位を占め続け、有能な若手の登用を妨げた。経済の分野では軍事産業と宇宙工学に重点的に予算を配分して西側に対抗したが、オートメーション、コンピュータなどのハイテクの分野では完全に立ち後れた。また消費物資の生産技術でも進歩がみられず、電話、テレビ、マイカーなどを求める国民の要求にこたえることができなかった。
ブレジネフ時代には反体制知識人に対する締め付けが復活し、ソルジェニツィンは国外追放になり、物理学者のサハロフは国内流刑(るけい)になった。しかし国の内外で印刷された少なからぬ非合法出版物がひそかに出回り、庶民の間には体制を批判するアネクドート(政治逸話)が流行した。ブレジネフの外交政策は、1968年8月のチェコスロバキアへの武力介入(チェコ事件)と、1979年12月のアフガニスタン侵攻にもっともよく表れている。前者はソ連支配下の東ヨーロッパ諸国の離反を招き、後者は夫や息子を戦場に送り出したソ連国内の一般民衆の反発をかった。彼の時代にソ連は西側との間に「緊張緩和(デタント)」を進めたが、これは政府の財政的負担から、もはやアメリカに対抗できないという現実からもきていた。
[外川継男]
ペレストロイカとソ連の解体
ゴルバチョフの登場
1982年にブレジネフが死んだあと、アンドロポフとチェルネンコという2人の病身の老人があとを継いだが、いずれも短期間で病死し、1985年3月に53歳のゴルバチョフが党書記長に選ばれた。彼は就任早々、長期間停滞していた人事の刷新を図り、ついで経済の加速化のために職場の規律の強化や、節酒を呼びかけた。しかし1986年4月にはチェルノブイリ原子力発電所の大事故が発生した。最初この事故はゴルバチョフ自身にも詳細が知らされなかったが、しだいに被害の大きさと危機の本質が国際的にも知られるようになると、ゴルバチョフは「グラスノスチ」とよばれる情報公開政策を打ち出した。さらに経済の加速化のためには政治・外交・文化などすべての分野にわたる「建て直し」が不可欠であるとして、ペレストロイカ(建て直し)をスローガンに掲げた。
ペレストロイカのなかでもっとも成果をあげたのは外交とグラスノスチの分野で、もっとも失敗だったのは経済と民族問題であった。まずアメリカとの関係改善のため、ゴルバチョフは1986年10月にアイスランドのレイキャビークで当時のアメリカ大統領レーガンと会談し、1987年12月にはワシントンを訪問して中距離核戦力全廃条約に調印した。1989年2月にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した。
長年にわたる米ソの冷戦は、1989年12月のゴルバチョフとアメリカ大統領G・H・W・ブッシュとのマルタ会談で終わりを告げた。この会談に先だちゴルバチョフは、1968年のソ連軍のチェコスロバキア介入が誤りであることを認め、またブッシュに書簡を送って、東ヨーロッパ諸国の非共産主義化を容認する用意があることを伝えた。
マルタ会談前に、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどでは共産党の一党支配が崩されていたが、1989年10月にはゴルバチョフは東ドイツを訪問して、かたくなな東ドイツ大統領ホーネッカーを退陣させるきっかけをつくった。かくて、11月9日にはベルリンの壁が市民の手によって壊された。これは東ヨーロッパ諸国がソ連の支配=共産圏から脱して、新しい世界秩序を打ち建てる上での象徴的事件であった。
言論の自由は文学だけでなく、映画や音楽などの大衆芸術の分野でも大きな変化を生んだ。アメリカの映画やロック音楽が次々に入ってきて、若者の間に爆発的人気をよんだ。スターリンの粛清を告発したアブラーゼTengiz Abuladze(1924―1994)監督の『懺悔(ざんげ)』や、反体制派の烙印(らくいん)を押されていたタルコフスキーやミハルコフ監督の映画も相次いで上映された。以前には厳しい検閲を受けて、事実上政府の独占であった新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどのマスコミも自由になり、革命以来初めて市民は公然と政府を批判できるようになった。
[外川継男]
民族問題の噴出と経済改革の失敗
グラスノスチによって、それまで長く抑えられてきたソ連内部のさまざまな民族問題がいっせいに表面に現れてきた。マルクス・レーニン主義の見地からすれば、民族主義とはブルジョア国家における階級的抑圧のイデオロギーであって、共産主義社会においては消滅するものだと説かれてきた。しかし実際にはソ連では少数民族の独立の希望は認められず、マルクス・レーニン主義とならんでロシア語が諸民族を統合する手段として強制された。
ペレストロイカ以後の最初の民族問題は、まず1986年12月カザフ共和国で起こった。それまで共産党の第一書記だったカザフ人のクナーエフDinmukhamed Akhmedovich Kunayev(1912―1993)にかわってロシア人が任命された。これに抗議して約1万人の民衆がデモを行い、軍隊が出動して死者がでた。夏にはバルト三国でも独立を要求するデモが相次いだ。1988年2月にはアゼルバイジャン共和国のなかの自治州ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの返還を要求するデモがエレバンで起こった。ナゴルノ・カラバフは人口の大部分がアルメニア人で、1920年代初めにその帰属が争われ、スターリンによって強引にアゼルバイジャン領に入れられた歴史をもつ。しかもこの紛争はアルメニア人がキリスト教徒、アゼルバイジャン人がイスラム教徒であるところから、宗教問題もからんでいた。同年3月にはアゼルバイジャンのスムガイトで大規模な抗議デモが起こって、多くの死傷者を出した。両国の対立は1990年1月に最悪になり、アルメニア人の村がアゼルバイジャン人に襲撃され、バクーにはソ連軍が入って大衆暴動を鎮圧した。このときも多くの死傷者が出た。
ジョージアでも1989年4月に首都のトビリシで民族の独立を要求する大集会が開かれ、反ソ的なスローガンが叫ばれた。これに対しソ連軍が介入して、多くの死傷者が出た。しかしこのあとゴルバチョフは、ジョージアのソ連からの離脱の要求は認められないと、はっきり拒否した。
バルト三国では1989年8月に独ソ不可侵条約50周年を記念して、600キロメートルにおよぶ「人間の鎖」がつくられ、三国の人々は独立時代の国旗を掲げてソ連邦からの分離・独立を要求した。これらの国ではソ連軍への徴兵を拒否したところから、1991年1月、リトアニアとラトビアの両首都にソ連軍が入って死傷者がでた。この事件については、それまでペレストロイカに好意的だったアメリカをはじめとする西側諸国もソ連を非難した。このあと2月から3月にかけて行われたバルト三国の独立の是非をめぐる国民投票では、圧倒的多数が独立賛成を表明した。
一方、ソ連経済は1988年からいっそう悪化し、消費物資の不足、国家財政と貿易収支の赤字、工業生産と国民所得の成長のマイナス、インフレの昂進(こうしん)、ストライキの頻発といった最悪のコースをたどった。外貨獲得の一番手だった石油生産も1987年をピークに減産傾向になり、外国に石油を売って穀物や工業製品を買うという、これまでのやり方も通じなくなった。1990年5月、ソ連政府は1995年までに市場経済へ移行する案を最高会議に提出し、ここに革命以来の計画・指令経済との決別を表明した。しかし、この急進的経済改革案は党内の保守派や軍事産業部門と労働組合の指導者などの反対から、なまぬるい折衷的なものに終わって、効果があがらなかった。このような妥協的な改革に満足しない急進改革派は、ゴルバチョフを見限って離れていった。
[外川継男]
ソ連邦の解体
一方、ソ連の中心的存在だったロシア連邦共和国ではかねてからゴルバチョフの改革の遅れを批判していたエリツィンが、1990年5月の第1回人民委員大会で最高会議議長に選出された。この大会はまた「国家主権に関する宣言」を圧倒的多数で採択したが、これはロシア共和国の主権をソ連の中央政府の上に置くことをうたっていた。9月にロシア共和国最高会議は、500日で市場経済への移行をめざす急進的な改革案を採択した。しかし、ゴルバチョフはこの改革案を、連邦の存続を危うくする可能性があるとして受け入れることを拒んだ。
1991年6月、ロシア共和国で直接投票による最初の大統領選挙が行われ、エリツィンが57%を獲得して当選した。これより1年前にゴルバチョフは人民代議員大会でソ連邦の初代大統領に選出されていたが、直接選挙ではなかっただけにエリツィンが優位にたった。
ゴルバチョフはなんとかしてソ連を存続させようと、1990年11月に各共和国に「新連邦条約草案」を送るとともに、最高会議にその審議をゆだねた。しかしバルト三国とジョージア、アルメニア、モルダビアはこれに加わることを拒否した。1991年4月にはロシア共和国を含む9か国とソ連邦政府の一応の合意をみて、8月20日に新連邦条約の調印が行われる予定であった。ところが調印2日前になって、クリミアで静養していたゴルバチョフが、突如「国家非常事態委員会」によって軟禁されてしまった。共産党の保守派やKGB(国家保安委員会)、軍部、産業界の8人からなるこの委員会は、連邦制の存続を危うくし、ソ連を弱体化する一連の改革に反対して、クーデターを企てたのであった(八月クーデター事件)。
しかし市民も軍隊も彼らの企てを支持しなかった。モスクワではクーデター派によって派遣された戦車に市民が駆け寄り、中の兵士を説得する光景も見られた。非常事態委員会の出動命令を拒否した狙撃(そげき)師団もあった。西側諸国はクーデター派を認めず、大統領エリツィンの支援を約束した。1991年8月21日の朝にはクーデターの失敗は明らかになった。非常事態委員会のメンバーは自殺した内相プーゴBoris Pugo(1937―1991)を除いて逮捕され、ロシア共和国の最高会議でそれが報じられると大きな拍手が起こった。しかし、同時に彼らを重要な職務に任命したゴルバチョフに対する批判も相次いだ。22日の正午すぎに最高会議ビル(通称ホワイトハウス)のバルコニーに現れたエリツィンは、「ロシア万歳! エリツィン万歳!」を叫ぶ大衆にこたえて、「ロシアはソ連邦、世界、民主主義を救った」と演説するとともに、共産党指導部のなかに今回のクーデターを後押しする勢力のあることを指摘して、暗にゴルバチョフを攻撃した。
この時点で民心は完全にゴルバチョフから離れてしまっていた。一方、エリツィンはクーデター派が共産党の指導部であったところから、クーデター支持者の捜査が終わるまでロシア共和国内の共産党の組織的活動と新聞の発行を一時禁止し、さらに内務省、軍、KGB内でいかなる政党も組織活動をすることを禁じた。当初ゴルバチョフは書記長を辞任するつもりはなく、共産党の改革を進めるとしていたが、事態はそれでは収拾がつかない段階まで進行していた。1991年8月24日、彼はついに書記長を辞任し、共産党中央委員会に自主解散を呼びかけた。ここにおいて、ソビエト政権の成立以来全ソ連邦をまとめてきた扇の要(かなめ)であったソビエト共産党がなくなってしまったのである。この日ウクライナの議会が独立を決議して、それに続く諸共和国の、連邦からの独立・脱退の口火を切った。
クーデター前にゴルバチョフが考えていた連邦案は、すでに過去のものになった。1991年12月1日にはウクライナで独立批准の国民投票が行われ、80%以上が独立に賛成した。ここにおいてロシア、ウクライナ、ベラルーシ3国の首脳がミンスクに会合して、「ソ連邦はもはや存在しない」ことを確認し、旧ソ連のすべての国に開かれた「独立国家共同体」(CIS)の結成を宣言した。このときゴルバチョフはこの会議に招かれていなかった。12月21日にはカザフスタンのアルマ・アタでこれら3国に中央アジアの5か国、さらにアルメニアとアゼルバイジャン、モルドバが加わって、ロシアを含む11の国が「独立国家共同体」を創設した。当時内戦中であったジョージアは2年遅れてこれに参加したが、バルト三国は最初から参加する意思がなかった。
[外川継男]
エリツィンと新生ロシア
エリツィンとロシア連邦
エリツィンはソ連の崩壊から1999年12月の大統領辞任まで、8年間にわたってロシアを統治したが、それは民主主義政治と市場経済を掲げながら、政治面では大統領の権限を強化しつつ議会を押さえこんで強権政治を行い、経済面では生産の落ち込みと激しいインフレを引き起こして、市民生活を窮乏のどん底に陥れた。
[外川継男]
自由化
エリツィン政権は1992年1月から、首相ガイダルYegor Gaidar(1956―2009)のもとで思いきった価格の自由化に踏み切った。これは異常なインフレを招き、年金生活者をはじめ、労働者、公務員、軍人らの生活を直撃した。2月には政府の経済政策に反対する12万人の大デモがモスクワの中心部で行われ、エリツィンとガイダルの辞任を要求した。12月に人民代議員大会はガイダルの首相就任を否決し、中間派のチェルノムイルジンが就任した。
エリツィンは1993年3月のテレビ演説で、特別統治体制の導入を発表した。4月の大統領信任の国民投票で、彼は都市部では高い支持を得たものの、経済改革のしわ寄せを受ける農村では低く、独立志向の旺盛(おうせい)な北カフカスなどでは強い不信任を受けた。9月に彼は人気の高い保守派の副大統領ルツコイAleksandr Vladimirovich Rutskoi(1947― )を解任したが、憲法の規定にもないこの強引なやり方は議会側の反発を招いた。これに対してエリツィンは、最高会議と人民代議員大会の活動停止という強硬措置でこたえた。大統領と議会との対立はついに10月4日の銃撃戦に発展した。エリツィンはこの日モスクワに非常事態令を導入し、ルツコイと最高会議議長のハズブラートフRuslan Imranovich Khasbulatov(1942―2023)らが立てこもる最高会議ビルを戦車で砲撃した。この武力による鎮圧で89人の死者と516人の負傷者、1452人の逮捕者を出した。
[外川継男]
ロシア新憲法成立
銃撃戦のあったこの年、1993年12月に行われた総選挙では、ジリノフスキーVladimir Volfovich Zhirinovskii(1946―2022)の率いる極右の自由民主党が24%の票を獲得して第一党に躍り出た。しかし、ドゥーマとよばれる国家会議(下院)の構成からみると450議席中、改革派が3派で計131、中間派3派が計103、共産党など保守派2党が計100、極右が63議席で、第一党といっても政治をリードできる議席ではなく、改革派にしても相対的多数でしかなかった。エリツィンには独自の支持政党がなく、これ以後彼は大統領の権限を強化する政策をとり、議会の承認を必要としない大統領令を発して議会と対立し続けた。
この選挙と同時に行われた国民投票では、エリツィンの提案した新憲法草案が承認され、ここに首相、軍司令官の任命権と国家会議(下院)の解散権をもつ新しい大統領制が生まれた。新憲法では、ロシアは共和制の連邦国家で、連邦を構成する共和国、地方、州など89の単位の地位は平等であって、土地など私的財産は保障されることがうたわれた。
このあと、しだいにエリツィン政権は急進改革派から中道、中間派寄りにその軸足を移すようになる。その背景には農業・工業生産の減退、国民階層間の格差の拡大があった。国有産業の民営化で莫大(ばくだい)な利益を得るものが出る一方で、月給の遅配から勤労者や年金生活者の暮らしはますます悪化した。中央アジアやバルト諸国からロシアへ引き揚げてくるものたちの住宅や就職も問題だった。ソ連崩壊前、ソ連のロシア以外の国には2500万から3000万のロシア人が住んでいたが、1994年までにそのうち約200万人が帰ってきた。
[外川継男]
少数民族問題
エリツィン政権にとってはロシア連邦内の少数民族問題も頭痛の種であった。ロシアの国名そのものも、いったんは「ロシア」に決まったものの、1992年4月の人民代議員大会で、「ロシア」では連邦内の少数民族の存在が無視されるとの反対があったことから、「ロシア」と「ロシア連邦」の二つが国名となった。少数民族のなかでももっとも強硬なチェチェン(チェチニア)は、1991年11月にイングーシ(イングーシェチア)を置き去りにして独立を宣言し、1993年12月のロシア議会の選挙をボイコットするなど、ロシア中央との対決を強めた。ロシア政府は1994年秋に始まったチェチェンの内戦に介入して、1年9か月にわたって独立派と戦った。この戦争でロシアはアフガニスタン介入のとき以上の犠牲者を出し、エリツィン政権に対する国民の支持は急減した。いったんは停戦に合意したチェチェンとの戦争は、1999年秋にふたたび始まった。このときロシア側は、チェチェンではイスラム過激派の武装集団がロシア各地で爆弾テロを行っているとの介入理由をあげた。ロシア軍の攻撃に、多くのチェチェン人が隣のイングーシに難民となって逃れた。
[外川継男]
ポスト・エリツィン
1996年6月に行われた大統領選挙では、第1回目の投票でエリツィンが35%、共産党のジュガーノフが32%を得票した。ゴルバチョフは1%にも満たなかった。このあとの決選投票では、53.8%を獲得したエリツィンがかろうじて再選された。
翌1997年は豊作に恵まれ、ロシア経済は比較的安定していたが、1998年のアジアに始まる経済危機に巻き込まれて、8月にはルーブルが一挙に暴落し、通貨・金融危機がロシアを襲った。エリツィンはこのころから次々に首相の首をすげかえ、外国の借款で支えてきたロシア経済は混乱の極に達した。一方、チェチェンのテロリストによるといわれるモスクワなどのアパートの爆破は、ロシア人の民族主義をかきたて、1999年12月の下院選挙ではチェチェンに対する強硬策を主張する首相プーチン支持の新党「統一」が共産党に次ぐ第二党に躍進した。この変化を背景に、エリツィンは任期終了半年前の12月31日、突如辞任し、大統領代行には後継者と目されたプーチンが就任した。翌2000年3月の大統領選でプーチンが当選、5月に大統領に就任した。
[外川継男]
プーチン2期目の任期満了に伴い、プーチンから後継者指名を受けたメドベージェフが2008年3月の大統領選に立候補して圧勝。同年5月第3代大統領に就任し、プーチンは首相に就任した。2012年の大統領選により、5月にプーチンが大統領に就任し、メドベージェフが首相となった。
[編集部]
ロシア史の研究史
19世紀初頭のロシア史研究
ロシア本国におけるロシア史の研究は、19世紀初頭ドイツ・ロマン主義哲学の導入とともに、世界史におけるスラブ・ロシア民族の存在理由の探求と証明という課題を担って始まった。アレクサンドル1世の師でもあったカラムジンはその『ロシア国史』(全12巻)において、専制と農奴制を擁護したが、それは広大な多民族国家ロシアにおいては、強大な権力によって外敵から人民を守る必要があると考えたからであった。彼の保守主義は多くのデカブリストによって批判されたが、他方モスクワ・ロシアの国政の研究は次の世代の国家学派によって継承された。19世紀40年代のスラブ主義者とヨーロッパ主義者の論争においては、ヨーロッパと比較したロシアの歴史と文化の特質が焦点となった。国家学派を代表するカベーリンは、国家をもって民族の生活の最高の形態とみなし、ロシア史の有機的発展をたどって、ピョートル大帝の事業も時代と諸状況の産物とみなした。彼はまた、ヨーロッパにおける変化が下からであるのに対して、ロシアにおいては上からであり、またヨーロッパ諸国の領土拡張が征服と暴力に基づくのに対して、ロシアのそれが平和的であることが特徴であると主張した。この学派のもう一人のすぐれた歴史家にチチェーリンがいる。
一方、帝政時代の最高の歴史家とみなされているクリュチェフスキーは、社会・経済史面を重視し、ロシア史における農民の開拓の役割を強調した。彼のモスクワ大学における『ロシア史講義』は名講義とされ、日本語を含めて多くの外国語に翻訳されている。モスクワ大学における彼の師であったセルゲイ・ソロビヨフも、革命前のロシアを代表するすぐれた歴史家で、大著『古代からのロシア史』(全29巻)を著して、ロシア史における地理的特質や植民の意義を指摘した。農民の歴史はセメフスキーВасилий Иванович Семевский/Vasiliy Ivanovich Semevskiy(1849―1916)などナロードニキの歴史家や、チャヤーノフなどネオ・ナロードニキによっても研究され、マックス・ウェーバーなど外国の学者からも注目された。このほか19世紀末から20世紀初めにかけて、古代史ではロストフツェフ、中世史ではビノグラドフ、美術史ではコンダコーフНикодим Павлович Кондаков/Nikodim Pavlovich Kondakov(1844―1925)、ベヌア、グラバールИгорь Емманоюлович Грабар/Igor' Emmanoyulovich Grabar(1871―1960)など、国際的に有名な学者が輩出した。
[外川継男]
ロシア革命後の研究
ロシア革命後のソビエト歴史学はもっぱらマルクス・レーニン主義の支配するところとなった。最初は政府の文部次官でもあったポクロフスキーがソビエトの歴史学を指導したが、死後その歴史観は経済的唯物論に偏しているとして批判された。ヨーロッパ諸国の歴史的発展とロシアのそれとの類似性を強調する彼の史観は、スターリンの一国社会主義の理論や、しだいに強化されるロシア・ナショナリズムに抵触するようになり、スターリンの粛清が始まると多くの歴史家が「ポクロフスキー学派」として排除された。スターリン時代にはソビエト諸民族の指導者としてのロシアが強調され、第二次世界大戦中には「祖国ロシア」が賛美され、冷戦時代には欧米との学問的交流もほとんど絶えた。しかし中世史家のリハチョフらは強制収容所に送られながらも、真摯(しんし)な研究を続けた。スターリン批判以降はソルジェニツィンやメドベージェフ兄弟ら反体制知識人が、スターリン体制の実態を研究し始め、それらは後年ソ連内外で出版されて大きな反響をよんだ。
ロシア革命後各国に亡命した歴史家によって、帝政時代の高いレベルの歴史研究が受け継がれ、また多くの後継者が育てられた。それらのなかにはアメリカに亡命したカルポービッチMichael Karpovich(1888―1959)、ベルナツキー、父バレンチンValentin Riasanovsky(1884―1968)、息子のニコラスNicholas V. Riasanovsky(1923―2011)と2代にわたって活躍したリアザノフスキー親子、ストルーベ、ゼンコフスキーSerge A. Zenkovsky(1907―1990)、イギリスに渡ったオボレンスキーDmitorii Obolensky(1918―2001)、フランスに亡命したベルジャーエフ、モチュリスキー、ウェイドレ、コワレ(コイレともいう)、コワレフスキー、ドイツに亡命したレオントビッチVictor Leontovitsch(1922―1960)、チジェフスキーDmitrii Chizhevsky(1884―1977)、ハルビンで教えたウストリャーロフНиколай Васильевич Устрялов/Nikolay Vasil'evich Ustryalov(1890―1938)など、すぐれた歴史家が数多い。なかでもアメリカは圧倒的に多くのロシア・ソビエト史の専門家を養成した。スターリン批判以後、ソ連の多くのユダヤ系市民がイスラエルと欧米に渡って、それぞれ移住先で活動するようになった。第二次世界大戦後アメリカではウィットフォーゲルの「アジア的専制主義」論、ブラックCyril E. Black(1915―1989)などの「近代化」論、ブレジンスキーなどの「全体主義」論などが現れて、ロシアとソ連の歴史をさまざまなアプローチから解釈した。
[外川継男]
日本のロシア史研究
日本では江戸時代には漢籍とオランダ語の文献を通してロシアの歴史を勉強したが、明治以降はイギリスとアメリカの研究の翻訳が主流を占めた。早稲田(わせだ)大学の煙山専太郎(けむやませんたろう)(1877―1954)、東京大学の斎藤清太郎(せいたろう)(1872―1941)などがロシア史研究の草分けであったが、第二次世界大戦前は大学よりも満鉄調査部や東亜研究所など、半官半民の機関で部外秘の研究が行われた。日本で本格的な研究が始まったのはスターリン批判以後といってよいであろう。このころ「ロシア史研究会」がつくられ、江口朴郎(えぐちぼくろう)を中心にロシア革命のグループ研究が行われるようになった。ロシア近世史の分野では鳥山成人(とりやましげと)(1921―2005)が、ソビエト政治史の分野では渓内謙(たにうちゆずる)(1923―2004)が、ロシア思想史では勝田吉太郎(1928―2019)がすぐれた業績をあげるとともに後進を育てた。ペレストロイカ(建て直し)以降、日本の研究者もロシアの史料を直接使って研究することができるようになり、国際的にも高く評価されるようになってきた。
[外川継男]
『ミルナー・ガーランド他著、吉田俊則訳『ロシア・ソ連史』(1992・朝倉書店)』▽『ボフダン・ナハイロ他著、高尾千津子他訳『ソ連邦民族・言語問題の全史』(1992・明石書店)』▽『塩川伸明著『終焉の中のソ連史』(1993・朝日選書)』▽『スクルィンニコフ著、栗生沢猛夫訳『イヴァン雷帝』(1994・成文社)』▽『下斗米伸夫著『スターリンと都市モスクワ』(1994・岩波書店)』▽『田中陽児他編『世界歴史大系 ロシア史Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1994~1997・山川出版社)』▽『原暉之他編『講座スラブの世界3 スラブの歴史』(1995・弘文堂)』▽『石井規衛著『文明としてのソ連――初期現代の終焉』(1995・山川出版社)』▽『中村喜和著『遠景のロシア――歴史と民俗の旅』(1996・彩流社)』▽『富田武著『スターリニズムの統治構造――1930年代ソ連の政策決定と国民統合』(1996・岩波書店)』▽『梶川伸一著『飢餓の革命』(1997・名古屋大学出版会)』▽『マーティン・メイリア著、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇――ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991 上下』(1997・草思社)』▽『ロイ・メドベージェフ著、石井規衛他監訳『1917年のロシア革命』(1998・現代思潮社)』▽『R・W・デイヴィス著、内田健二他訳『現代ロシアの歴史論争』(1998・岩波書店)』▽『竹中浩著『近代ロシアへの転換――大改革時代の自由主義思想』(1999・東京大学出版会)』▽『ジョン・チャノン他著、桃井緑美子訳『地図で読む世界の歴史 ロシア』(1999・河出書房新社)』▽『外川継男著『ロシアとソ連邦』(講談社学術文庫)』▽『土肥恒之著『ピョートル大帝とその時代――サンクト・ペテルブルグ誕生』(中公新書)』▽『山内昌之著『ラディカル・ヒストリー――ロシア史とイスラム史のフロンティア』(中公新書)』