王(おう)(読み)おう(英語表記)King

翻訳|King

日本大百科全書(ニッポニカ) 「王(おう)」の意味・わかりやすい解説

王(おう)
おう
King

ほとんどすべての民族において、国家の成立と同時にその最高権力の保持者として王が出現する。ギリシアやローマの都市国家においても初期には王が存在し、スパルタなどでは後代まで王政が存続した。王権の起源は多くの場合、神に出自するという信仰ないし伝承に基づく。ここから王の神聖性という観念が生じ、王は宗教的に神格化される。エジプトファラオはその典型である。この神聖性は王が超人間的能力の保持者であることによって示されるものと考えられ、たとえばフランスの国王はルイ14世の時代になっても、るいれき(結核性の頸部(けいぶ)リンパ節炎)を癒(いや)す能力を有すると信じられていた。古代の王はまた司祭者的性格をももち、シュメールイスラエルの王にその典型が認められる。

[平城照介]

王権の起源と継承

いわゆる伝統的な社会の王は、その社会の宇宙論で唯一の中心を象徴するものとして「神なる王」とされていることが多い。とりわけ、農耕をおもな生業とする社会では、王は作物の成長を可能とする活力の源泉であり、自然の統御者であり、王の身体の状態はそのまま自然の状態に対応するともされる。太陽神と同一視される古代エジプトの王はその代表である。王の健康状態と自然の産出力とを結び付け、王が老衰し病にかかったときにはこれを殺すという「王殺し」の慣習もこうした背景によって説明される。王の住まう王都、そして廷臣らとともに構成する王宮が、宇宙全体の象徴あるいは縮図として構想されるという例は、ヒンドゥーあるいは仏教圏の東南アジアの古王国にもみられる。中国には、祭礼の際、皇帝が、王宮の中心にある明堂(めいどう)――建物自体が方位、四季、1年の推移など宇宙の原理を表象する――を回ることによって宇宙の運行が保たれるという考え方があった。こうして王は、宇宙論的象徴の集中される中心であり、また王権の起源を語り正当化を行い、王の活力の四囲への溢出(いっしゅつ)を語る神話がつくりだされる媒体でもあった。

 宇宙論、神話、宗教に支えられた「神なる王」が制度化して成立するためには、「王殺し」の慣習にも表れているように、具体的個人としての王の出自および生存とその神聖性、個人としての死と、王権の永続性、そして空位期と王位の継続の問題が解決されねばならない。王権の文化的・宗教的背景の多様さと同様こうした問題の解決も多様であるが、一定の共通性もみられる。

 王の即位式は、単なる任務の継承ではなく人が神に変わるプロセスであり、秘儀を含んだ劇的な儀礼として行われる。それは人格の変換を図る「成人式」と共通点をもち、人としての死、一定期間の隔離、そして王権のレガリア(標徴)を身につけた王としての再生、公衆への誇示という象徴的儀礼として行われることが多い。また、最終的な即位までに新王は、王領の各地を回ることによって王領の空間を自らの身体に同化するとされる例もある。その旅が「成人式」における身体的試練に対応するのである。即位によって新王は王権を同化する。つまり、王権の永続性は、むしろ王のレガリアによってこそ象徴されることになる。西アフリカのアシャンティ王国における黄金の玉座や、東アフリカのビクトリア湖からタンガニーカ湖にかけてのいわゆる大湖地方のバントゥー系諸王国などの王権の象徴としての太鼓などがそれであり、日本の天皇制における三種の神器もそうである。西欧の王権においては、私人としての王と、永続的公的な王権具現者としての王を概念的に王の「二つの身体」として区別する考え方もあった。「神なる王」は、自然の産出力を担う反面、王との不用意な接触は破壊的作用をもつとされ、さまざまなタブーによって囲繞(いじょう)される。王は大地と直接接してはならない、通常の人は食事中の王を見てはならない、さらに、直接話してはならず、かならず仲介者をたてねばならない、などの慣習も広くみられる。

[渡辺公三]

中世ヨーロッパ

中世ヨーロッパの王権はフランクの王権を基礎として発展したものであるが、これはゲルマン的要素とローマ的要素の融合によって成立し、前者のゲルマン的要素はさらに二つの側面をもつ。タキトゥスはゲルマン人のキウィタス(国家)について、平時における王(レックス)の権限と戦時における軍事指揮者(デュックス)の権限を対比し、前者は無制限なものでないのに対し、後者は絶対的命令権であるとしているが、最近の見解は、この二つの側面をそれぞれ部族王権(シュタメス・ケーニヒトゥーム)と軍隊王権(ヘール・ケーニヒトゥーム)という概念でとらえ、フランク王権の成立には後者が重要な役割を果たしたことを強調する傾向にある。ローマ的要素とは、国王を官職すなわち超人格的な国家権力の代表者と考える観念で、このローマ的要素を加えることにより、カロリング時代の王権が成立したと考える。中世の王権は、選挙制の原理と、世襲制の原理の両方に立脚していた。中世的観念ではこの両原理はかならずしも矛盾したものではなく、世襲制は神によって神聖性が特定の家系に賦与されていることより生じ、他方、選挙とは、可視的でないこの神の意志を確認する一つの手続とみなされたからである。だが現実にはこの二つの原理の衝突がおこったことは、二重選挙による2人の国王の対立がしばしば生じたことからも知られる。この混乱を避けるためドイツでは中世後期に金印勅書が発布され、選挙侯の数と選挙手続が確定され、多数決制が導入された。

[平城照介]

中国

古代の支配者の尊号の一つ。原則として最高統治者に対して用いられる。この種の尊号としては起源がもっとも古く、文献では夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)3代の王朝君主がすでに王を称しているが、甲骨(こうこつ)文、金文で確認できるのは殷王以降である。後漢(ごかん)の許慎(きょしん)は、『説文(せつもん)』において、「一で三を貫く」という孔子の説、その三とは天地人の三者であるとする董仲舒(とうちゅうじょ)の説を引き、王字の意味を「天下の帰往(おもむ)くところなり」と解釈している。そのほか「土」を「一」(統一)にする意と解するものなど、王字の成り立ちと字義については諸説ある。しかしこれらは、統一権力者がすでに存在している秦(しん)・漢(かん)時代以後の状況を前提にした付会の説にすぎない。近年の甲骨文、金文の研究によれば、「大」を含む会意文字、または権威を象徴する斧鉞(ふえつ)の象形文字であると理解されている。周代の王号は、天子と並ぶ君主の称号であり、天子に比べて、より現実的な地上の実権者を意味し、もっぱら臣下に対して用いられた。周王の権威が衰えるにつれて、春秋時代の楚(そ)王、呉(ご)王、越(えつ)王などの覇者のように、列国の君主(諸侯)のなかでも王と称する者が出現し、この傾向は戦国期に著しくなり、「戦国の七雄」はいずれも王として各地に君臨した。秦帝国では、唯一絶対の君主である皇帝が誕生し、王号の使用はなくなったが、秦・漢交代期には各地の実力者が王を称し、一時戦国の風が復活した。漢帝国が成立すると、郡県制が手直しされ、一部王国が設置された。この王国を分封された者が諸侯王であり、王号は天子に次ぐ最高位の爵称として序列化された。呉楚(ごそ)七国の乱(前154)以後、諸侯王は皇帝の一族のみに制限され、王朝の交代期を除いて、この制度は後代に受け継がれた。魏晋(ぎしん)南北朝期には、爵制の変化と官品秩序の複雑化とに応じて、封土(ほうど)名を冠した大小の諸王が生まれたが、唐代には親王(皇帝の男子と封国を与えられた皇帝の兄弟)、郡王(皇太子の子と封邑(ほうゆう)を与えられた親王の諸子)、嗣(し)王(親王の嫡子)の三者に整理された。王号はまた漢代以降、外国の君主に対しても適用された。「大秦王」(ローマ皇帝)などの俗称は別として、中国に帰順ないしは朝貢した外国の君主(外臣)を王に封じ、国内の諸侯王(内臣)に準じた地位を与えるという制度がこれである。日中交渉史上の「漢倭奴(かんのわのなの)国王」(漢代)、「親魏倭王」(三国時代)、「倭王国・倭王」(南北朝期)などの王号は、中国を中心とする当時の外交秩序(冊封(さくほう)体制)に位置づけられる重要なものである。王号にはあと一つ、孔子(文宣王)など聖人に追贈される礼制上のものもあった。

[尾形 勇]

『山口昌男著『道化的世界』(1975・筑摩書房)』『フレイザー著、永橋卓介訳『金枝篇』(岩波文庫)』『白川静著『漢字の世界Ⅰ』(平凡社・東洋文庫)』『松丸道雄編『西周青銅器とその国家』(1980・東京大学出版会)』

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