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アメリカ・インディアン アメリカインディアン

百科事典マイペディアの解説

アメリカ・インディアン

南北アメリカ大陸の先住民族。〈インディアンIndian〉の名は,コロンブスが新大陸をインディアスと信じ,スペイン王に報告したことに由来する。とくに極北部を除く北米の住民をさすことが多く,南米の住民はインディオindioと呼ばれ区別される。
→関連項目アメリカ合衆国絵文字クリークサポテコトーテミズムトーテムバスケット・メーカー文化ブランドボアズボトクードリザーベーション

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アメリカ・インディアン
あめりかいんでぃあん
American Indians

南北両大陸における起源と発展


 南北両アメリカ大陸の先住民の総称。アメリンディアンAmerindian、アメリンディオAmerindioともいう。アメリカ大陸に初めてコロンブスが到達したとき、彼はそこがインディアス(当時のスペインでは東アジアをさした)であると誤認した。そのため住民はインディオとよばれ、英語ではインディアンとよぶようになった。現在ではインド人と区別するためにアメリカ・インディアンとする。また、狭義には中・南米の先住民のことを、単にインディオとよんでいる。極北のエスキモーあるいはイヌイット、カラーリット、アリュート(アリューシャン島民)、すなわち北アメリカ大陸最北部に住む先住民たちをアメリカ・インディアンに含めない考え方もある。また、アメリカ・インディアンやインディオという語にはしばしば差別的な意味が含まれるため、北アメリカでは先住アメリカ人(ネイティブ・アメリカン)Native American、中央・南アメリカではインディヘナ(インディジェナ)Indgenaなどとよぶことが多くなっている。日本でも、ネイティブ・アメリカン、アメリカ先住民、北アメリカ先住民、北米先住民などとよぶことが多くなっている。[木村秀雄]
起源
アメリカ大陸には類人猿が生息せず、化石人類の骨も発見されていないため、人類は他の大陸から移動して来たと考えるほかはない。その起源については荒唐無稽(こうとうむけい)なものも含めてさまざまな説が出されたが、アメリカ・インディアンの祖先はユーラシア大陸からベーリング海峡を渡ってきたというのが定説となっている。渡来の時期は、第四氷河期の海退によってベーリング海峡が陸地となった(ベーリンジアとよぶ)時代であることは確実である。その年代がいつまでさかのぼるかには諸説あってさだかでないが、少なくとも2万5000年から3万年前にはアメリカ大陸に人が住んでいたことは認めてよいであろう。ベーリンジアを通ってアラスカに入った人々は、ウィスコンシン氷河とロッキー山脈の氷塊に前途を阻まれたが、気候が温暖化すると両者の間に狭い回廊が出現し、人々はそこを通って南下した。気候の温暖化、寒冷化の波は第四氷河期の間に数回認められ、それに伴って氷河は前進後退し、ベーリンジアは海面上に現れたり海に没したりした。氷河期の終了とともにアメリカ大陸は最終的にユーラシア大陸と切り離されることとなったが、回廊を通って南下した人々は南北両大陸全域に広がり、環境条件の違いにあわせてさまざまな社会、文化を発展させることとなった。[木村秀雄]
人口
アメリカ大陸にヨーロッパの影響が及び始めた1492年以前の先住民人口についてはもちろん確定的なことはいえないが、これまでいくつかの推定が行われている。スチュワードJ. H. Stewardの推定(1949)では1492年の全アメリカ・インディアン人口は1560万人であるが、デネバンDenevanらの推定(1976)では約5730万人、誤差を考えて4300万人から7200万人となっている。現在のアメリカ・インディアン人口についても、混血の増加、各国の国勢調査の不備などもあって正確な数字はわからないが、種々の資料を統合すると1500万人から1600万人といったところであろう。アメリカ合衆国内での先住民人口は約228万(1996推計)となっている。[木村秀雄]
形質
身体上の特徴は地域によってさまざまであるが、一般的にいって、身長はとくに低くはないとはいえ地域的ばらつきが大きい。頭形は長頭がまれであって短頭が多い。血液型はO型の頻度が非常に高い。新生児には児斑(じはん)が多くみられる。モンゴロイド的特徴は南アメリカ最南端のフエゴ島民でもっとも少ない。[木村秀雄]
言語
アメリカ・インディアンの言語の数は非常に多く、他の言語との類縁関係が確認できないものもあって、その系統的分類はむずかしい。北・中央アメリカの言語を、サピアE. Sapirは6語族、ドライバーDriverは19語族に分類した。南アメリカの言語は、グリーンバーグGreenbergによって三つの大語族に分類されている。また、これらの分類に依拠してなされたヒッカーソンHickersonの分類(1980)などがある。[木村秀雄]
文化
アメリカ・インディアンの文化は多岐にわたり、地方ごとに大きな隔たりがある。地域ごとにある程度のまとまりがあり、それに基づいて文化領域を設定することができるが、それはかならずしも言語分類と一致するとは限らない。ここでは、北・中央アメリカについてはスペンサーSpencerらの分類(1965)、南アメリカについてはスチュワードの分類(1949)を基本にしながら、文化領域ごとの文化的特徴を述べていくことにする。
(1)北極 この地域に住むのは、アリューシャン列島を中心とした地域の少数のアリュートを除くと大部分がエスキモーおよびイヌイットである。エスキモーおよびイヌイットはツンドラ地帯に生息するカリブーや海の哺乳(ほにゅう)類の狩猟を生業とする採集狩猟民である。彼らの全体を統一する大きな組織はなく、狩猟の単位となるバンド(生活集団)に分かれている。狩猟にまつわる多くのタブーを守らなければならず、狩り仲間とは妻を貸借することが知られている。
(2)亜寒帯 この地域の人々も採集狩猟民であるが、獲物はカリブーのほかに森林地帯に住むシカなどの動物が重要である。集団はバンドを基本にするが、氏族組織がみられる場合もある。イエローナイフYellowknifeなどのアサバスカン系諸集団Athabascansの住む西部、モンタニェ・ナスカピMontagnais-Naskapiなどのアルゴンキン系諸集団Algonkiansの住む東部に分けられる。
(3)北西海岸 ここでも生業の中心は狩猟採集であるが、海産物が豊富で、生活は豊かであった。クワキウトルKwakiutl、トリンギトTlingitなどが代表的集団であるが、社会に階層が存在し、外婚氏族に分かれるなど複雑な社会組織をもつ。村の首長の威信を示す祝宴のポトラッチやトーテムポールの建造で名高い。
(4)西部 西部文化圏はカリフォルニア、高原、大盆地の三つに分けられる。生業としては狩猟も行われたが、採集のほうがより重要であった。この地域の文化は、周囲の北西海岸、大平原、南西部の諸文化の影響を受けており、一つの文化圏としての独自性に乏しい。またさまざまな言語集団が入り乱れており、一つの地域としてのまとまりは弱い。籠(かご)製品、皮製品の製作に秀でている。
(5)大平原 この地域のアメリカ・インディアンは、マンダンMandan、ヒダツァHidatsaのように定住し主として農耕を行うグループと、ブラックフットBlackfootやダコタDakotaのように移動しながら狩猟を行うグループに分けられる。白人が持ち込んだ馬は狩猟の効率を高め、大規模な野牛狩りを可能にした。多くの言語集団が入り乱れているため、移動するグループはコミュニケーションを図るために手と指を使うサイン・ランゲージを用いた。白人の侵入に強く抵抗し、千年王国運動としてのゴースト・ダンス(幽霊踊り)が有名である。
(6)南西部 この地域には、砂漠文化の伝統を引き継ぎ、メソアメリカの農耕文明の影響を受けた数々の文化が栄えた。そしてアメリカ合衆国において先住民文化がもっとも保たれている地域である。古くからの住人であるホピHopiやズニZui、新来者であるナバホNavahoなどがその代表である。トウモロコシを中心とする農耕を営み、織物、彩色土器など優れた工芸品を製作する。発達した氏族組織、村落組織をもち、集団によっては大規模な集合住宅を構える。
(7)南東部 この地域の文化は北東部文化圏のものと共通する部分も多く、この二つを一つの文化圏にまとめる説もある。クリークCreekやナッチェスNatchezによって代表され、その特徴としては、トウモロコシを中心とした農耕と狩猟を組み合わせた生業、核となる大きな村落の存在と発達した氏族組織、1年の農業サイクルに応じた大規模な祭りがあげられる。また白人との接触に対応して大きな先住民連合が生まれた。
(8)北東部 この地域の経済の中心はトウモロコシの農耕であるが、北に行くにしたがって農業はむずかしくなり、北西部ではアメリカマコモに頼っている。多くの言語がマクロ・アルゴンキン語族に属しているが、この地域でもっとも有名なのはマクロ・スー語族に属する言語を話すイロコイIroquoisである。L・H・モルガンの古典的研究で名高いこの地域の部族は、イロコイ同盟という部族連合を結んでいた。また、この同盟に加わらなかったヒューロンHuronなどの場合でも氏族の同盟関係が整備されていた。白人との接触後は毛皮取引が重要になり、押し出されるように毛皮を求めて次々と西へ移動して行った集団が多い。
(9)メソアメリカ 北・中央アメリカでもっとも高い文化を誇り、複雑な文明を生み出した地域である。メソアメリカの文明には、オルメカOlmeca、テオティワカンTeotihuacan、マヤMaya、トルテカTolteca、アステカAztecaなどがあげられるが、いずれもこの地域で初めて栽培化されたトウモロコシ農耕を基礎にしている。大規模な都市が営まれ、ピラミッドなどの大きな石造建造物が建てられた。美しい金銀細工や彩色土器がつくられ、独自の暦年法や文字が用いられた。時代が下るにしたがって好戦的な気風が強まり、アステカでは太陽の力を保つため数多くの人身供犠(くぎ)が行われた。
(10)環カリブ海 この地域はメソアメリカ文明とアンデス文明に挟まれた中間地帯であり、階層分化が進み首長国を形成していた場合が多い。頻繁に戦争を繰り返し、奴隷を獲得したり、カニバリズム(食人)の語源となったカリブ諸集団の間では捕虜を殺して食べたりした。経済の基本はトウモロコシなどの農耕である。
(11)アンデス メソアメリカに匹敵する南アメリカの文明圏である。中心となったのはペルーからボリビアにかけての中央アンデスである。チャビンChavin、ティワナコイデTihuanacoide、インカIncaと、3回にわたって一つの文化が広い地域を覆った。経済の基礎となったのは灌漑(かんがい)を伴ったトウモロコシ農耕であるが、アンデス山脈の高度差を利用した農耕民、牧畜民、漁民の間の交易が重要である。この地域で用いられる言語は、インカの公用語であったケチュア語と、ボリビアを中心とするアイマラ語である。大規模な建築物が建てられ、さまざまな土器、貴金属細工がみられる。インカ期には交通網や社会制度が整備されていた。
(12)熱帯降雨林地帯 アマゾン川、オリノコ川などの河川流域や大西洋岸などで、マニオクまたはトウモロコシを主作物とする焼畑耕作を経済の基礎としている。アマゾン川本流の氾濫(はんらん)原や海岸部など条件のよい所では集団の規模も大きかったが、村落を超える大きな社会集団が存在することはまれで、戦争などの際に同盟を結ぶ形がとられただけである。階層分化も認められず、各村の首長と宗教をつかさどるシャーマンのみが他と異なる存在であった。
(13)その他の地帯 南アメリカにおけるこれまでの文化圏以外の地帯であって、とくにまとまりがあるわけではない。自然環境はより厳しく、狩猟採集を主とし、場合によっては河川沿いの森での焼畑耕作を組み合わせる。狩猟採集民の社会は移動するバンドを基礎としており、これを超える大きな社会集団が認められることはまれである。[木村秀雄]
歴史
ユーラシア大陸から渡ってきた人々はアメリカ大陸の環境条件に適応してさまざまな文化を発達させた。北アメリカにおいては、フォルサムFolsom、クロビスClovisなど美しい石器を伴う旧石器文化がみられる。後氷期の環境変化に対しては、大盆地からメキシコ北部の乾燥地帯で砂漠文化とよばれる採集経済を生み出し、これが農耕の開始へとつながった。農耕によって多くの余剰人口を養うことができるようになり、メソアメリカと中央アンデスでは大きな都市を擁する大文明が生まれ、メキシコにおけるアステカ、アンデスにおけるインカという統一国家が生まれることとなった。農業技術など文明の影響は周辺にも及び、狩猟採集経済から脱した社会も多かったが、寒帯、亜寒帯や乾燥地帯など自然条件の厳しい所では相変わらず狩猟採集が続けられた。
 1492年のコロンブス到来は、アメリカ・インディアンの運命を一変させることになった。アステカは1522年コルテスによって、インカは1532年ピサロによって征服された。先住民や土地は植民者たちに委託され(エンコミエンダ制)、人々は重い賦役(ふえき)や税に苦しめられた。銀などの鉱山で強制的に働かされた場合も多い。その後このエンコミエンダ制は改められたが、先住民がヨーロッパ人によって支配される形態は変わらなかった。虐待や、白人のもち込んだ伝染病によって先住民人口は激減し、西インド諸島ではドミニカ島を除いて先住民は絶滅してしまった。
 南アメリカでもプランテーションの労働力を確保するための奴隷狩りがしばしば行われたが、先住民の減少に伴う労働力減少を補うため、大西洋岸一帯ではアフリカ大陸から多くの人々を奴隷として移入するようになった。こうして奴隷として入ってきた多数のアフリカ人がアメリカ大陸に独自の文化をもたらし、新たな伝統を生み出した。中央アメリカ、南アメリカにおいて白人は先住民を支配し、その労働力や生産物を搾取する方向に進んだのに対し、北アメリカにおいては先住民は排除される運命にあった。南部のプランテーションを除くと、白人は自ら土地を開拓する道をとった。
 フランスは毛皮取引のために先住民を利用し、これと友好関係を結んだが、イギリスとそれに続くアメリカ合衆国は、先住民を追い払い最終的には居留地に隔離する政策をとった。この過程で多くの戦いが起こった。平原インディアンの頑強な抵抗は名高い。戦いに敗れた先住民は条件の悪い居留地に押し込められていたが、近年少数民族の権利を主張する世界的な流れのなか、自らの誇りと独自性を回復しようとする動きがみられる。
 メキシコでは、メキシコ革命などを通して先住民の民族意識の高まりがみられ、地方では自らの権利を主張する先住民と支配者層の間で土地問題などをめぐって激しい対立がみられる所がある。アマゾン流域はこれまで比較的開発をまぬがれてきたが、ブラジルのアマゾン縦断道路の開通などで、開発の波が押し寄せており、各国で行われている低地移住計画とも相まって、すでに大きな変容を遂げている先住民集団にますます圧迫が加えられている。
 メキシコや南アメリカのペルー、ボリビアなど先住民の比率が高い所では、混血の割合も高く、混血文化とよべるものが発生している。カナダ、アメリカ合衆国の北アメリカ先進国、アルゼンチン、チリなど南アメリカで先住民色が比較的希薄な国々、先住民・アフリカ系・白人各文化の混ざり合ったブラジルなど、アメリカ大陸の国々にはさまざまな型があるが、圧倒的な西洋文明の流れのなかで、アメリカ・インディアンの行く道はまだまだ険しい。[木村秀雄]

アメリカ合衆国における歴史


 アメリカ大陸の先住民であるアメリカ・インディアンの歴史は、大別してヨーロッパ人との接触以前の、1万5000年以上にわたる独自の文化の創造の長い歴史と、接触以後500年余のその文化の破壊に対する抵抗の歴史とに二分できる。ここではコロンブスが渡来(1492)してヨーロッパ文化との接触が始まってから以降のとくに北アメリカにおける歴史を概観する。
 ヨーロッパ諸国のアメリカ先住民に対する接触の仕方の特色について、19世紀のアメリカ史家F・パークマンは次のように簡潔にまとめている。「スペイン文明はインディアンを圧殺した。イギリス文明はインディアンをさげすみ無視した。フランス文明はインディアンを抱擁し慈しんだ」と。スペインのコンキスタドレス(征服者)がカリブ海諸島、中米、南米、メキシコに侵入しインディオを「圧殺」したことはあまりにも有名である。彼らはあまり「圧殺」しすぎて、金・銀鉱山や農園で使う労働力に不足をきたしたため、インディオに一定の「保護」を加えて労働力を確保せざるをえなかったほか、アフリカから多くの人々を奴隷として移入してこれを補ったのである。カナダに植民地を築いたフランス人の場合、たしかに毛皮交易相手のアルゴンキン系インディアンを「抱擁し慈しんだ」。しかし、イロコイとは16世紀中、幾度も戦火を交えたし、ミシシッピ川下流に農業植民地を建設した際には、この地方のナッチェスを徹底的に「圧殺」したのである。オランダ人も北のオルバニー植民地では交易相手のイロコイを「抱擁」したが、南のマンハッタン島では諸部族を残酷に「圧殺」した。このようにヨーロッパ諸列強の接触の仕方は、それぞれの国民性や文明によるのではなく、金銀、土地、毛皮などにまつわるそれぞれの経済的欲求や、また当面した諸部族との力関係に応じて、「圧殺」から「抱擁」まで、任意にその政策を選択したのである。
 ここで対象とするイギリスとその後継者アメリカ合衆国の場合、ほぼ一貫して先住民を「さげすみ無視し」しばしば「圧殺」した。それは農業のための土地を獲得するため、先住民を彼らの土地から根こそぎに「清掃(クリアー)」し、そこにヨーロッパ人移民とアフリカ人奴隷を「移植(プラント=植民する)」、いわゆる「清掃と植民」を基本的政策としたからである。この「清掃と植民」の仕方によって、イギリス、アメリカ合衆国と先住民との接触以後の歴史は、次の二つの時代に区分できる。(1)軍事的征服と武力抵抗の時代(1600~1880年代)。(2)文化的破壊と民族的再生の時代(1880年代~現在)。以下、この二つの時代をさらにいくつかの段階に分けてみていくことにする。[富田虎男]
軍事的征服と武力抵抗の時代

(a)植民地時代(1600~1760年代) 一般にアメリカ・インディアンとイギリス人の接触は「友好的」に始まったといわれるが、それは神話にすぎない。事実は初めから武力による威嚇と土地の奪取であり、これに対し最初の植民地バージニアでは、1622年に当地の先住民集団ポーハタンの一斉蜂起(ほうき)が起こり、ニュー・イングランドでは1637年にピークォート戦争が起こっている。さらに1670年代なかばに、前者では毛皮交易の利にあずかる総督のインディアン宥和(ゆうわ)政策に対し、土地開放を求めてインディアン撲滅政策を主張するベーコンらの反乱が起こり、後者ではメタカムを先頭とする諸部族連合の文化的生存をかけた一大決戦「フィリップ王戦争」が起こった。また、カロライナではインディアン奴隷狩り戦争により諸部族が次々に「清掃」された。また強大な部族連合であるイロコイ五国同盟やチェロキーやクリークは、ヨーロッパ諸列強間の敵対関係を巧みに利用して、中立政策を追求し生存を図った。
(b)アメリカ独立革命期(1760~1790年代) 独立革命は、ヨーロッパ系アメリカ人のイギリス帝国に対する独立と解放の戦いであったが、それと同時に、自らの独立と解放を求めるアメリカ・インディアンを征服し領土を拡大した民族抑圧の戦いでもあった。北西諸部族の独立と解放のための戦いは、1763年のポンティアック戦争に始まった。独立戦争中、大半の部族はイギリス側につき、イギリスの敗北・講和後は独力で二度まで合衆国遠征軍を撃退したが、1794年のフォールン・ティンバーズの戦いに敗れて武力抵抗の矛をいったん収めた。南部のチェロキーは数回にわたってアメリカ軍の侵攻を受け、壊滅的打撃を被った。
(c)文明化政策と民族的抵抗(1790~1820年代) 独立後、合衆国政府はイギリスから「清掃と植民」政策を引き継いだが、力の弱まった部族には「文明化」という新形態の清掃政策をはじめ、抵抗する部族には軍事力による征服政策を継続した。「文明化」政策を受け入れたチェロキーは一世代の間に白人農民に劣らぬ農業社会を築き、チェロキー文字を発明して新聞を発行し、1827年には独自の憲法を制定して独立国家を築いた。他方、北西部諸部族は、先住民族の大同団結を唱える指導者テクムシの下に結集し、おりからの一八一二年戦争に際してハリソン軍と戦ったが敗れた。南部ではクリークと、逃亡奴隷と同盟したセミノールとが、それぞれジャクソン軍の侵攻に抵抗して戦ったが敗北し、広大な領土を奪われた。
(d)強制移住と南北戦争(1830~1860年代) ミシシッピ川以東の諸部族は、「文明化」を受け入れたものも、抵抗して敗北したものも、1830年のインディアン強制移住法によって、同川以西の地への移住を強制された。大半の部族は、多くの犠牲を払っていわゆる「涙の旅路」Trail of Tearsをたどり西方に移住した。移住に抵抗した部族は合衆国軍の攻撃を受け、北(イリノイ州)ではブラック・ホーク戦争が、フロリダではセミノール戦争が起こった。1840年には「マニフェスト・デスティニー」Manifest Destiny(アメリカ大陸への膨張は天命である、との意)の名の下で、テキサス、大平原、オレゴン、カリフォルニアの先住諸部族が新たに「清掃」の対象に加えられた。南北戦争(1861~1865)は、一方でオクラホマ地方に強制移住させられた諸部族を巻き込んで敵味方に引き裂き、その領土を荒廃に帰せしめた。他方で、戦争中スーやシャイアンへの侵略がとどまることなく進められ、1864年には「サンド・クリークの虐殺」が起こった。
(e)最後の抵抗(1860~1880年代) 合衆国軍による軍事的征服に対する大平原先住諸部族の武力抵抗は、1870年代にクライマックスを迎えた。それは1876年のリトル・ビッグホーンの戦いで絶頂に達し、スー、シャイアンなどの連合軍はカスター中佐の率いる第七騎兵隊の一大隊を殲滅(せんめつ)したが、軍事力の格差は大きく、武力抵抗は限界に達した。1886年のアパッチの首長ジェロニモGeronimo(1829―1909)の降伏をもって武力抵抗は終わりを告げ、1890年には「ウンデッド・ニーの虐殺」が行われた。[富田虎男]
文化的破壊と民族的再生

(a)ドーズ一般土地割当法と再生への願い(1880~1920年代) 戦いに敗れた先住諸部族は次々に保留地に封じ込められたが、今度は彼らの保留地までが「清掃」の対象とされた。1887年のドーズ一般土地割当法は、保留地の共同体的所有を解体し、その一部を個人所有地として部族民に割当てる一方、広い余剰地を白人農民に開放した法律で、まもなく割当地そのものも賃貸しやすいように修正が加えられた。その結果、保留地の土地はたちまちアメリカ・インディアンの手を離れ、ドーズ法制定時に1億3800万エーカーあった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年までに約5000万エーカーにまで減少した。これは保留地をねらった牧畜、森林、鉱山、鉄道業者や農民の貪欲(どんよく)と、先住民の農民化、市民化を目ざした人道主義的改革家たちの文明化のイデオロギーとが合体した結果であった。土地だけでなく、先住民の文化も信仰や儀式や服装や言語に至るまで野蛮なものとして軽蔑(けいべつ)され否定された。絶望した先住民は、ゴースト・ダンスやサン・ダンス、ペヨーテ信仰などの救世宗教に救いを求めるか、酒に身を持ち崩すかし、また同化の道を歩む者もいた。
(b)インディアン再組織法と連邦管理終結政策(1930~1950年代) 保留地の奪取は、1934年のインディアン再組織法によって歯止めがかけられた。この法は土地の個人割当制を廃止し、部族共有制と部族自治を復活する一方、回転資金や教育基金を供与して経済状態の改善と教育の向上を目ざすものであったが、その推進者ジョン・コリアらの努力にもかかわらず、保守派の妨害や第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)により中途で挫折(ざせつ)した。大戦後、反共・保守主義の強まる風潮のなかで、1953年連邦管理終結(ターミネーション)政策が始まった。これは部族の自治権を奪って先住民諸部族を連邦と州の立法権に従わせる同化政策の一種であり、新型の「清掃」政策であった。これに対する反対が引き金となって、1960年代以降、インディアン復権運動が高揚するに至った。[富田虎男]
現況
1990年の国勢調査によると、アメリカ合衆国には約196万人のアメリカン・インディアンがいる。1970年には約79万人だったから、20年間に約2.5倍に急増したことになる。196万人のうち、インディアン保留地と連邦信託地に住んでいる者は約44万人(22.3%)でその他農村部に住んでいる者との合計が約86万人(43.7%)で、一方、都市部には約110万人(56.3%)が住んでいる。彼らが置かれている社会経済状態はきわめて厳しく、教育、就業、収入、保健、居住環境のいずれの面でも、アフリカ系やヒスパニックとともに、アメリカ社会の最底辺部を構成している。こうした状況を改善し、民族としての固有の権利と文化を回復するために、彼らは1960年代以来、「民族自決」の原理をかかげて復権運動を展開してきた。1960年代から1970年代前半にかけては、漁業権や水利権や領土権などをめぐって、1973年の第二次ウンデッド・ニー占拠事件に象徴される実力抵抗運動が注目を浴びたが、それ以降は土地権の回復訴訟などの法廷闘争や、国際連合の先住民作業部会での世界の先住民の権利のための活動が目だっている。[富田虎男]
『平野孝訳編『アメリカ・インディアン』(1977・研究社・アメリカ古典文庫) ▽W・E・ウォシュバーン著、富田虎男訳『アメリカ・インディアン――その文化と歴史』(1977・南雲堂) ▽清水知久著『米国先住民の歴史』(1990・明石書店) ▽横須賀孝弘著『ハウ・コラ――インディアンに学ぶ』(1991・NHK出版) ▽富田虎男著『アメリカ・インディアンの歴史』改訂3版(1997・雄山閣出版) ▽青木晴夫著『アメリカ・インディアン』(講談社現代新書)』

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