デジタル大辞泉 「アメリカインディアン」の意味・読み・例文・類語
アメリカ‐インディアン(American Indian)
[補説]「インディアン」はコロンブスがアメリカをインドと誤認したところからの称。中南米諸国では、スペイン語でインディオという。
南・北両アメリカの原住民。人類学上はエスキモーとアレウト族を除く諸民族のことをいうが,一般には含める場合もある。そのなかで,北アメリカの原住民をアメリカ・インディアン,中南米の原住民をインディオと呼ぶのが日本では普通である。インディオという呼称は,新大陸を発見したコロンブスが,そこをインディアスと信じ,スペイン国王への報告書に原住民のことをインディオと書いたことに由来する。別称として〈アメリンディアンAmerindian〉〈アメリンドAmerind〉ともいう。
インディアンの祖先は,現在のベーリング海地域を経由して新大陸に渡来し,のち南・北両アメリカ各地に分散したと考えられている。新大陸の多様な風土のもとで独自の文化発展をたどった。メソアメリカとアンデス地帯の原住民は,トウモロコシ,マメ類,カボチャ類を主体とする農耕体系の基盤の上に古代文明を築いていたが,それ以外の南・北両アメリカ各地の原住民は,農耕段階か採集狩猟段階にとどまっていた。
インディアンの祖先がユーラシアから新大陸に渡来したのは上部洪積世後期のことである。地質年代ではこの時期はウィスコンシン氷河期の最寒期(約2万年前)に相当する。氷河・氷床の発達に伴う海水面低下現象のため,ベーリング海峡地域は陸地化し,いわゆる〈ベーリング陸橋〉が発達していた。そのためユーラシアと新大陸とは陸続きで,ベーリング海峡付近はユーラシア大陸の東端に位置していたといえる。
地質編年,炭素14年代,動物相の共伴などの基本的条件を満たし,すべての研究者が容認している新大陸最古の文化は,パレオ・インディアン文化である。洪積世末から沖積世初頭(約12000B.P. から9000B.P.)にかけて,マンモス,マストドンなどのすでに絶滅してしまった大型獣を狩猟対象とし,クロービス尖頭器と呼ばれる樋状剝離をもつ定型化した尖頭器(ポイント)を特徴とする文化である。その分布域は北アメリカの大平原から東部森林地帯に広がる。
パレオ・インディアン文化よりもさらに古い先史文化の存在は,各種の資料に基づいて主張されてきた。たとえば,A.D.クリーガーによる〈先尖頭器文化〉,L.S.B.リーキーらによるキャリコ山(アメリカ合衆国カリフォルニア州)の旧石器,W.N.アービングらによるオールド・クロー盆地(カナダ,ユーコン・テリトリー)の古い骨角器の存在などがその根拠とされてきたが,いずれも全研究者を納得させる資料とはいい難い。そのなかで,北アメリカ東部ペンシルベニア州のメドークロフト岩陰遺跡出土の資料は,石刃技法による石刃,尖頭器の製作に特徴づけられる。炭素14年代測定により20000B.P.から14000B.P.の年代がえられ,パレオ・インディアン文化の先駆的存在として注目される。
以上のように,新大陸最古の人類文化の年代は古くとも約2万年前で,その担い手はアジア人(モンゴロイド)であったが,現在のエスキモーやアレウト族と違い,寒地適応を経ていなかったと考えられる。
上部洪積世における人類の渡来は波状的におこり,上部洪積世末期から沖積世にかけて各地で絶滅動物を対象にする採集狩猟民文化を発達させた。これが石期Lithic段階に相当する先史文化である。
沖積世にはいり氷河の後退,海面の上昇などとともに動植物相も現在のそれに近くなった。この環境変化を背景に,各地の多様な自然環境に適応して発展したのが古期Archaic段階の文化である。この段階の文化には一般化した採集狩猟経済を維持したものと,特定の動植物を対象にして生業を特殊化したものとがある。前者は北アメリカの北方針葉樹林,中緯度の乾燥地帯の採集狩猟経済に基づく文化であり,後者は極北や北西海岸の海獣狩猟・漁労経済に基づく文化であった。
中緯度の乾燥地帯の採集経済,とくにメソアメリカの植物利用のなかから,数千年の長い時間をかけて,トウモロコシ,マメ,カボチャを中心とする新大陸の農耕体系が形成され,中南米の各地域や北アメリカの一部に農耕が伝播していった。この農耕活動に特徴づけられるのが形成期Formative段階の文化である。形成期段階の文化を基盤にして,メキシコを中心とするメソアメリカと南アメリカのアンデス地帯に古代文明が成立し,やがて軍事的色彩を強め,16世紀のヨーロッパ人の渡来時には,アステカ,インカなどの古代帝国が栄えていた。これらの古代文明を古典期段階,後古典期段階の文化と呼ぶ。
複雑な新大陸の自然環境に適応し,発展段階の異なる新大陸の原住民文化を分類・記述する一方法が文化領域の概念である。C.T.メーソンの民族環境,C.ウィスラーの食糧資源に基づく文化領域,A.L.クローバーの植生と文化要素の分布に基づく文化領域などの諸概念を修正したもので,生業活動などの文化要素の分布を基盤とし,文化発展をも考慮して,エスキモーとアレウト族も含めた次の9文化領域が一般的に用いられている。
西はアレウト列島,ベーリング海峡周辺から,カナダ北東部のラブラドル,グリーンランドにいたる極北のツンドラ地域をいう。短く涼しい夏と長く厳しい冬に特徴づけられ,永久凍土が広く分布し,樹木はほとんど生育しない。伝統的にはアレウト族とエスキモーの居住地域であった。アレウト族はアラスカ半島の西半からアレウト列島に分布し,陸と海における採集・狩猟活動と漁労活動に主として従事していた。エスキモーは言語学的に東エスキモーと西エスキモーに分けられる。彼らの生業の基盤は冬の海におけるアザラシ猟と春・秋の内陸におけるカリブーの狩猟にあると考えられてきたが,最近では地域によりかなりの差異があることが判明している。
この領域は北方針葉樹林(タイガ)とほぼ一致し,アラスカ内陸のユーコン川,クスコキウム川の中・上流域からカナダ北東部のラブラドルまで広がる。タイガに居住する原住民はタナイナ族,ヘア族,チペワイアン族などのアサバスカ(ナ・デネ)系言語を話すインディアンと,クリー族,ナスカピ族などアルゴンキン系言語を話すインディアンである。
彼らの伝統的な生業活動は狩猟と漁労である。狩猟の対象はムース,カリブー,クマなどの大型獣と,毛皮取得を目的とするビーバー,テン,カワウソなどの小型獣であった。季節的には渡り鳥も捕らえられた。漁労は河川や湖沼などの内水面における網漁が主である。夏季には刺網を,水面が凍結する冬季には氷の下に刺網を敷設した。漁労の対象はサケ・マス類をはじめ,カワマス類,スズキ類など,地域により変化があった。この領域の原住民は数家族からなるバンドが集団構成の原理で,部族としての統合体は形成されていなかった。バンドは特定のリーダーのもとに季節的な移動をしたが,移動範囲は伝統的な狩猟・漁労権をもつ地域内であった。
アラスカ州南東部からカリフォルニア州北部にいたる太平洋沿岸地帯をいう。暖流の影響により比較的温暖多湿な気候が特徴で,カナダスギやトウヒなどの森林が海岸近くまで迫る。サケ・マスを中心とする魚類,アザラシやクジラなどの海獣類,季節的な渡り鳥,各種の陸獣の利用などにより,この領域は非農耕地帯における最も安定した食糧供給と高度の定着性のある集落を維持していた。経済基盤は漁労活動にあった。種々の網漁,河川・入江の簗(やな)漁が発達し,サケ・マス,オヒョウ,ニシン,ロウソクウオなどが捕獲され,乾燥,薫製にして保存され,脂肪は交易品とされた。アザラシ,クジラ類の狩猟は,カヌーから回転離頭銛を使用して行われた。クジラ漁は食糧獲得の手段としてより,社会的名声誇示のために行われる傾向があった。陸獣や渡り鳥の狩猟,貝や海草の採集,野イチゴ類や鱗茎の採集も行われた。これらの豊富な食糧資源に基づいて,社会的序列を重視する階層社会が発達し,トーテム・ポール,銅板紋章,仮面,木彫品にみられる独特の芸術様式が発達していた。ヌートカ族,ハイダ族,クワキウトル族,トリンギット族,ツィムシャン族などが代表的な部族である。
カリフォルニア州北部から南部にかけての地形はコースト・レーンジズ(海岸山脈)とサン・ホアキン川およびサクラメント川の河谷に特徴づけられる。植生はカシやナラの混じる落葉性混合林・亜熱帯性森林である。この地域の原住民は多様な言語を話す小部族で,各部族の人口は数百人から数千人であった。彼らの生業の基盤は堅果類を中心とする採集,シカやクマなどの狩猟,季節的に遡上するサケ・マスなどの漁労にあった。なかでもカリフォルニア北部では,漁労に対する依存度が高く,人口数はサケ・マスの潜在的漁獲高に比例していた。ポモ族,マイドゥ族,ヨクーツ族,ルイセニョ族などが代表的な部族である。
カリフォルニア州東部のシエラ・ネバダ山脈とロッキー山脈との間に広がる乾燥地帯をいう。一般に樹木が乏しい草原であるが,山岳にはマツ類の灌木が生育している。この地域の原住民はショショニ族,ユート族,パイユート族などである。彼らの基本的な生業の基盤は,野生のイネ科植物の種子の採集と小型動物の狩猟であった。春から夏にかけては,採取できる食糧が乏しく,小バンドを構成して遊動的な生活を送ったが,秋から冬にかけては,かなりの量の植物の種子の採集のため特定の渓谷に人口の集中現象がみられ,いわゆる大バンドが形成された。種子を効率的に〈収穫〉するために,ダムを築き,そのダムを決壊させて広範囲に灌漑し,次期の収穫を確保することも行われていた。この地方を特徴づける植物利用法は,先史学的にはデザート文化に対比できる。季節的,規則的な植物利用のなかから,最初の植物栽培が出現したのではないかと考えられている。
カナダのブリティッシュ・コロンビア,アメリカのワシントン,オレゴン各州の東部とアイダホ州を含む地域で,西はシエラ・ネバダに,東はロッキー山脈に囲まれている。グレート・ベースン地方の北方にあたるが,コロンビア川,フレーザー川の上流域にあたる点で前者と異なる。植生はスゲ属や野生イネ科植物などの草原で,山麓地帯にはマツ科の樹木が生育する。コロンビア川,フレーザー川の上流には季節的にサケがさかのぼる。ネズ・パース族,フラットヘッド族,クテナイ族などの原住民は,この乾燥草原地帯や山麓地帯で,野生植物の種子の採集やビーバー,ヤギ,オオシカなどの狩猟,季節的にサケの漁労に従事してきた。
この文化領域はメキシコ北西部(チワワ,ソノラ)とアメリカ合衆国のアリゾナ,ニューメキシコ両州,コロラド,ユタ両州の南部からなり,コロラド川,リオ・グランデ川の上流域にあたる。低地は砂漠・乾燥地帯で,サボテン類,スゲ属の植物が卓越し,ロッキー山脈南部に相当する山麓地帯はマツ類やセイヨウネズなどにおおわれる。プエブロ諸族,アサパスカン系諸族,ピマ族,パパゴ族などがおもな原住民である。リオ・グランデ川上流域やアリゾナ州北東部に住むプエブロ族はオアシス的村落農耕民であった。農耕の対象はトウモロコシ,カボチャ,マメを中心とする新大陸の基本的な作物で,農耕地は山麓や扇状地に天水を利用する形式のものと,水路による灌漑が行われたものとがあった。プエブロ族の村落は石造りないしアドベ(日乾煉瓦)造りの複数の部屋をもつ集合住宅形式で,なかには3~4階建てのアパート式住居もある。
一方,ヒラ川流域のピマ族,パパゴ族は砂漠のなかに,半地下式の土壁で固めた住居をもち,水路により砂漠のなかの農耕地に灌漑していた。とくにヒラ川とソルト川の合流点付近には,数十の大集落が存在し,確認されているだけでも350kmを超す灌漑水路の跡がある。
ナ・デネ系のナバホ族,アパッチ族は,スペイン人の進出のころに北方から南下し,この地域に定着した。先住民のプエブロ族やスペイン人の植民者から農耕,牧畜,金属加工などの諸技術をとりいれ,定着生活を送っている。
ロッキー山脈東麓からほぼミシシッピ川にいたる地域をいう。ミズーリ川やアーカンソー川とそれらの支流により開析され河岸段丘が発達している。この地域の大部分は草原におおわれ,河川沿いには混合林が生育している。そして,バイソンが最も特徴的な大型動物であった。
この領域のおもな原住民はクロー族,シャイアン族,カイオワ族などであるが,伝統的には河岸段丘の上で小規模な農耕を行い,季節的には野生植物の採集を行った。また,徒歩によるバイソンの狩猟も行われていた。この狩猟は数人で単独の獲物を追跡する方法と,多人数で多数のバイソンを崖や沼沢に追い込む集団狩猟とがあった。河岸段丘上に散在する半地下式の竪穴住居と菜園的な農耕地からなる小集落が散在し,狩猟のおりにはイヌにトラボイと呼ぶ軽便な運搬具を引かせて荷物の輸送をした。
スペイン人の進出につれて南西部に導入されたウマが大平原地方にも取り入れられると,伝統的な大平原の農耕社会は,ウマの機動力を利用するバイソン狩猟に基礎をおく遊動的社会になり,住居も半円錐形のティピに変わった。そのころ,東部地方に植民地を建設したヨーロッパ人と毛皮交易に従事していた東部森林地帯の原住民の一部も,枯渇する小動物を求めて西方に移動し,大平原地方に進出した。そのため,大平原地方にはロッキー山脈以東のインディアンの文化要素が混合し,のちのパン・インディアニズム(インディアンの大同団結運動)を生みだす母体となった。
この文化領域は,東は大西洋岸,北はセント・ローレンス川,西はミシシッピ川,南はカリブ海に囲まれる地域である。この地域の植生の特徴は北部の混合林,南部の常緑広葉樹林である。地形的には五大湖,ミシシッピ川の支流が形成する渓谷,アパラチア山脈が位置する。この領域は,基本的には新大陸を特徴づけるトウモロコシ,マメ,カボチャ類の栽培を主とする農耕社会で,主として河岸段丘上に村落が形成されていた。このほかに,河川・湖沼・海岸における漁労や採集,森林地帯における狩猟が行われていた。
東部森林の原住民は先史時代のミシシッピ文化の担い手の子孫であった。寺院の基壇と解釈されるテンプル・マウンドは広く東部一帯に分布し,複雑な階層社会が存在していた。とくにミシシッピ川下流域には,ナチェス族,チョクトー族などが都市国家的な政治統合体をもち,その社会は貴族,平民,奴隷などに階層化し,近隣の諸部族と同盟関係を結成していた。また,東部海岸地方のイロコイ諸族は,5部族(後には6部族)が同盟を結び,代表者を出して合議体を形成していたが,これは各部族に共通する問題や対外問題を処理するための政治組織であった。
東部海岸のインディアン諸族はヨーロッパ人の植民地建設の進行につれて,最初に大きな影響を受けた。衝突を繰り返して,絶滅に追いやられた部族もあった。ヨーロッパ人の毛皮への需要が増加すると,インディアンとの間に毛皮交易が盛んになり,それにつれて,インディアンがわな猟に転じ,減少する小動物を追って西方へ移動した部族も少なくない。
執筆者:小谷 凱宣
中南米のアメリカ・インディアンは,スペイン語とポルトガル語でインディオと呼ばれる。北アメリカ,中米を経由して,最初の人間が南アメリカ大陸に入ったのは,今から2万年以上前のことらしい。1万年前あたりで,細かい細工を施した石槍やスクレーパーなどの打製石器の技術をもった狩猟民となるや,南アメリカ南部の草原やパタゴニアにまで進出した。その後,ベネズエラ,コロンビアからチリにかけての海岸地帯では,魚貝類に依存する生活が発生し,前3千年紀には,海岸低地や山間の谷間で農耕が発達し,熱帯低地の森林地帯にも焼畑農耕をたずさえて人々が進出していった。そして前1000年ころには,ほぼ16世紀初頭の文化領域の基本的特徴ができあがっていた。そのうちメソアメリカと中央アンデスの2領域では,その後の文化的・社会的発展が急速で,文明社会を形成,この両地域は核アメリカとも呼ばれる。
中南米インディアンの文化領域について,J.スチュワードは,(1)メキシコ・マヤ高文明地域,(2)中央アンデス高文明地域,(3)砂漠農耕地域,(4)環カリブ海部族連合・首長国地域,(5)熱帯雨林農耕村落地域,(6)採集・狩猟民地域に分け,G.ウィレーは10地域に分類する。以下,スチュワードの分類をもとに,各地域の原住民文化の特徴をかいつまんでみてゆく。
メキシコ,グアテマラ,ホンジュラス,エルサルバドル,ニカラグアの東部にまたがる地域で,乾燥の強い高原から高温多湿の低地まで,地形的・気候的条件は複雑である。この複雑さが,メソアメリカ内部でいろいろな生業体系を生み,それら相互の関係が刺激となって,文化の急速な発展をもたらしたといえる。前3千年紀に,高原の谷間にトウモロコシ,マメ,カボチャなどの栽培と採集・狩猟を組み合わせた生業が一般化し,前2千年紀には土器や小規模な祭祀建造物をもつにいたり,ベラクルス・タバスコ地方の森林低地では,巨大な石彫や土盛りのマウンドをもつオルメカ文化が発展していった。やがて小規模の灌漑を伴う農業が組織的に行われるようになり,西暦初頭から3世紀の頃,テオティワカン文化や,モンテ・アルバン(サポテカ文化)が成立,少しおくれて,マヤ文化が出現した。政治,宗教,工芸,商業での専門分化が進み,社会は階層区分が明確になり,石造の大神殿や宮殿,石彫,壁画,硬玉細工,金銀細工,美しい土器や織物が作られた。中央高原ではテオティワカンのあと,トゥーラを中心としたトルテカ文化,そのあとの混乱から生まれて諸民族の平定を図ったアステカ文化など,支配民族とその王国の交替がはげしかった。今日,高原では,オトミ,タラスコ,サポテコ,ミヘなどインディオが存続するが,スペイン人との混血が多い。南部では,チアパスやユカタン地方,グアテマラ高地のマヤ系諸民族が,小さな地方的まとまりを固くして,伝統的文化を残している。
アンデス文明を担った人びとは,多くの民族に分かれていたが,インカ帝国の統一政策の結果,ケチュア語を採用し,土着の言語をほとんど失った。スペインの植民地支配のもとで,人口減少や混血が生じ,今日では,大部分のインディオはペルーの中部以南とボリビアの高地に住んでいる。植民地時代において,温暖で肥沃な盆地や谷間を奪われたインディオは,標高3000m以上の急峻な山の斜面や,4000mを超える寒冷な草原,あるいは交通の不便なアンデス東斜面の高いところに,生存の場を求めた。今日,インディオの大部分は,ケチュア族とアイマラ族からなり,前者は主としてペルー,後者はペルーのチチカカ湖岸からボリビア,チリにかけて住む。チチカカ湖上のアシの人工の島の住民はウル族とも呼ばれるが,本来のウル族の特徴は失われ,アイマラ化している。またボリビア高地には,チパヤ族がごく少数居住している。
生業は農耕と牧畜で,両者を組み合わせる場合と,別々の場合がある。後者では,高い草原でラマとアルパカの牧畜を主たる生業とするグループと,やや低いところでのトウモロコシやジャガイモなどの農耕をするグループとの間に物資や労働の交換を通しての相互依存の関係が成立している。農耕は集約的で,しばしば灌漑を伴う。共有地や灌漑用水の利用権,さまざまな労働交換の慣習を基礎に,村落内の人間関係は結束が固く,内婚率が高い。ケチュア族もアイマラ族も近代国家社会の農民層を形成し,市場経済への参加や都市への進出もさかんであるが,一方で村の祭りや村民の相互扶助の関係を基礎にした連帯意識が強く,村落の経済的自給性が高く,ペルーやボリビアの国民の主体であるメスティソとは一線を画す場合が多い。
G.ウィレーのいう南アンデス地域に相当し,チリ北部と中部からアルゼンチン北西部を含む。アラウカノ族,ディアギータ族,アタカメーニョ族など中央アンデス地域の影響を受けて,アンデス型の農耕や家畜飼育を行うが,アラウカノ族を除けば,ほとんど伝統をとどめていない。
カリブ海の島々,ベネズエラ北部,中央アメリカ,コロンビア,エクアドル北部にまたがる地域。G.ウィレーは,中央アメリカ,コロンビア,エクアドルを中間地域として,カリブ海地域とは区別する。中間地域は前3000年ころバルディビア文化のように土器をもち原初的栽培を行っていて,文化的先進性を示すが,トウモロコシやマニオク農耕の普及後は,メソアメリカやアンデスのような文明社会の発展はない。しかしながら,パナマのコクレやチリキ,コロンビアのサン・アグスティン,キンバヤ,エクアドルのグアンガラ,トリタ,ミラグロなど,土器,金細工,石製品に独特の洗練をみせる地方的文化を形成した。16世紀初頭,チブチャ族その他が首長とそれに近い近縁者を貴族層とする階層化した社会を成立させていた。カリブ海の島々は,キューバ島の一部にシボネイ族,大アンティルにアラワク語系,小アンティルからベネズエラにかけてカリブ語系の諸族が住んでいた。アラワク語系では,イスパニオラ島やプエルト・リコ島タイノ族が階層分化した社会を形成し,セミという独特の石彫や,球戯場や球戯用の石彫ベルト,刻文や浮彫の土器などをもち,灌漑を用いてマニオクやトウモロコシの集約的農業を営んでいた。
アマゾン川の流域は広大な森林地帯で,焼畑農耕,狩猟,漁労などを組み合わせた生業を営む。主作物はマニオクであるが,そのほかにトウモロコシ,サツマイモ,ラッカセイ,トウガラシ,マメなども作る。おもな語族は,アラワク,カリブ,トゥカノ,パノ,トゥピ・グアラニー族,ジェ,そのほか系統の不明な言語も少なくない。16世紀のころ,アマゾン川本流の中流部には,オマグア族その他トゥピ・グアラニー語の諸族が,大きな集落を構えていたが,ポルトガル人やスペイン人の進出がさかんになるにつれて急激な人口減少が生じた。一般には,焼畑農耕のため集落移動性が高く,また,集落の規模は小さく,人口密度が低い。階層分化や職能の専門分化もなく,集落の成員は平等であり,そのために集落の分裂もよくおこる。土器,カヌー,弓矢,吹矢,銛などが基本的物質文化で,ペルー・アマゾンのクニーボ族やカンパ族,エクアドルのヒバロ族などは綿織物を作る。毒草による魚採り,儀礼の際の幻覚植物の利用もさかんである。ナンビクワラ族やシリオノ族,マク族など農耕よりも採集・狩猟や漁労を主たる生業とする民族もいるが,数は少ない。
アルゼンチンとチリ南部の地域は,16世紀のヨーロッパ人の植民地に入るまで農耕が行われなかった。チリのアラカルフ族やヤーガン族,フエゴ島のオナ族のような狩猟と漁労を生業とする民族や,アルゼンチンのパンパでグアナコ,レア,その他の小動物の狩猟で生きるテウェルチェ,プエルチェ,ケランディ,チャルアの諸族がいた。ヨーロッパ人の移住に対しては強い抵抗を示し,両者の争いは19世紀まで続くが,結局は敗れてこの地域のインディオはほとんど絶滅してしまった。
執筆者:大貫 良夫
インディアンの祖先たちのアメリカ大陸への移動は繰り返し行われ,北から南へと人々は広がっていったが,このように時代差があり,民族的にも異なった人々の間には,言語の面でも相違があった。あるものは系統をも別にしたと考えられる。共通起源のものでも長い年月の間には,音声・文法構造が大幅に変化することは,同系と認められている世界の諸言語の比較によって確かめられている。アメリカ・インディアン諸言語(以下,ア諸語と略記)という用語はアメリカ大陸と西インド諸島の土着言語を指すものだが,地理上の便宜的表現にすぎない。現在までの研究によってア諸語の多くの言語に親縁関係が見いだされ,語族・大語族へと整理統合が行われてきてはいるが,単位が大きくなるにつれ分類自体に問題があるものもあり,またかなりの孤立した言語も認められる。ア諸語の研究は地理的に,また言語によって差がある。北アメリカがもっとも進んでおり,次いで中央アメリカ,もっとも遅れているのが南アメリカである。ただしインカ帝国の言語で,現在ペルーをはじめ数ヵ国で約600万人により話されているケチュア語,高文化を誇ったメキシコのマヤ語,かつてのアステカ王国の言語であったナワトル語などは,16世紀に接触したヨーロッパの宣教師たちのアルファベットによる記録で早くから知られていた(しかし1850年以前の記述は言語の研究には不十分といわれる)。ア諸語の分類は,1891年にパウエルJ.W.Powellが北アメリカのものを語彙の観点から55の語族にまとめたのが最初だが,その分類は今日でも有効とみなされている。その後,他の学者たちにより文法構造などの点からの親縁関係により,さらに大きなグループへと整理は進められているが,インド・ヨーロッパ語族の比較と異なり,ア諸語の場合,歴史的文献がほぼ皆無であることは,研究上やはり障害になる。ア諸語全体に適用される有効な分類基準というものはなく,またア諸語に比較的よく見られる構造的特徴というものも,他の大陸言語にも見られるが,顕著なものとしては喉頭閉鎖音の多用,多くの形態素が連結して1語を形成すること,また動詞の中に名詞形が取り込まれる名詞抱合と称する現象が挙げられる。第2次大戦中ナバホ語(アサバスカ語族に属し,アリゾナ,ユタなどで10万人の話し手をもつ北アメリカでは有力な言語)はその構造の複雑さのゆえにアメリカ合衆国側の暗号用に使われた(t,k,ch,m,n,yの子音にはさらに喉頭化されたものが加わり,母音は八つ)。旧大陸から移動したという推定に基づき,両大陸間のある言語間には親縁関係が予想され,例えばエスキモー・アレウト語族とウラル・アルタイ語族,ホカ語族とマレー・ポリネシア語族など,今までいくつかの比較が試みられてはいるが,確実に証明された事例はまだない。
音韻・文法について略述するが,この言語はカリフォルニア南部からメキシコに達する広い分布を示すアズテク・タノア大語族に属するアズテク諸語のカウィア語である。この言語の話し手たちは,現在主としてロサンゼルス南東約150km付近にあるいくつかの保留地に住んでいるが,話せる人の数は減少の一途をたどり,今ではわずか100名にも満たない。これは一般的にア諸語にいえることだが,北アメリカでは主として英語,中南米ではスペイン語かポルトガル語の2言語併用者が増加し,世代が進むにつれ,土着語を使わなくなり,その結果死語となる例が多く,その傾向は非常に強い。むろん,ナバホ語などのように逆に話し手がふえた場合などもあるが,いずれにしてもア諸語全体の将来性は悲観視されている。
(1)母音の種類はi,e,a,uの四つだが,それぞれ長母音がある。子音には次のようなものがある。無声閉鎖音:p,t,k,kw,q,,破擦音:č,有声摩擦音:v,無声摩擦音:s,š,xw,x,h,鼻音:m,n,ñ,ŋ,流音:l,l,半母音:w,y。以上のほか外来語にだけ現れる長母音のō,子音f,d,g,rがある。強弱のアクセントがある。
(2)文法に関しては実際のテキスト分析を通して眺めることとする。
イívi-m(これ-複)ロtáxliswet-em(人-複)ハpe-hem-sičúmin-wen-e(それを-彼らは-考える-継続-過去).
〈イこれらのロ人々はハ(何をすべきかを)考えた〉。
ニtúlekan(明日)ホáŋapa(再び)ヘax-čem-ménvax-nem(未来-我々は-来る-未来)トhém-yax-wen-e(彼らは-言う-継続-過去).
〈“ニ明日,ホ再びヘ我々は来よう”とト彼らは言った〉。
語順はわりあい自由である。その理由は動詞の中で統語論的語順が決まっているからといえる。自動詞の場合(ヘ,ト),主語を表す人称代名詞が斜体の部分の語幹の前につき,他動詞(ハ)の場合は,目的語を示す人称代名詞がさらにその前にくる。斜体の部分にある-wen-は動作の様態を表すいくつかの要素の一つで語幹を形成し,その後に,法・時制などの接尾辞がつく。(ヘ)の場合,〈未来〉を示す接頭辞ax-と接尾辞-nemが共起している。動詞には他の要素が一定の位置につくが,このように多くの形態素が連なって1語を作ることや,人称代名詞が動詞中に抱合されている現象は他のア諸語にもよく見られる。名詞(ロ)は複数形だが,目的格であれば接尾辞がその後につき,他の格も接尾辞,付属語により表されるが,人称・指示代名詞(イ)も同様。上例の文中には目的語,主語を示す独立した代名詞pé-i(それを),hémem(彼らが),čémem(我々が),または相当する名詞(ロ)が,動詞に抱合された代名詞と共起しうるが語順は比較的自由である。
(3)この言語では動詞の語根に〈音象徴sound symbolism〉の存在が指摘されているが,それは語根の通常形(子音1・母音・子音2)の第2子音の音の性質が語根の意義に関与していることである。子音はm,n,l,l,w,yのように発音する際,呼気がスムーズに流れるsonorantと,閉鎖・摩擦音のように,抵抗を受けるobstruentに分けられるが,カウィア語動詞語根の第2子音がsonorantである母音交替の語群(i,e,uと替わる)を見ると〈回転・揺れ〉などのスムーズな動きと,それからの派生と考えられる動作を示す意義素が多く,一方obstruentの場合,〈衝撃・打つ〉などの抵抗を表す意義素が圧倒的に多い。この音声と意味の呼応関係が,同一語族や,あるいは他のア諸語にも平行現象が見られるかは今後の研究による。
パウエルが1891年に北米ア諸語を55の語群に分類して後,ディクソンR.B.DixonとクローバーA.L.Kroeberが1910-19年に,カリフォルニアの語族を比較,ホカ語族群Hokan,ペヌート語族群Penuteなどの可能性を指摘,さらにサピアE.Sapirはパウエルによる五十数個の語族を六つの大語族に整理することを提案したが,問題のある大語族もあり,種々の修正の説が研究者によりなされている。分類上の仮説的性格は中米,南米と進むほどに強まるが,それは未知の度合に比例している。分類・分布状況は表に示す。
執筆者:日置 孝次郎
アメリカ・インディアンの神話,文学,美術を一括して論じることは不可能に近いが,ここでは北アメリカのインディアンについて概観する。なお,〈ラテン・アメリカ美術〉の項も参照されたい。
北アメリカのインディアンの各部族に共通していえることは,伝統的に彼らは,きわめて宗教的な民族だということである。信仰が彼らの日常生活を支配していることでは,例えば現代のキリスト教徒の比ではない,とあるアメリカの学者は言っている。彼らの宗教の特色は,強いていえばアニミスティックな汎神論で,幽霊,精霊,神々,また人間の姿をした超自然的存在,時には動植物,無生物にも霊性を認めている。そうした超自然的な存在は,人間が持つのと同じ知性,感情,意志を持ち,それらによって人間の生活に介入してくると信じられている。そして彼らは,人間に対して慈悲深いこともあれば悪意を持つこともあり,また無関心なこともある。だから人間は,祈願やまじないによって彼らの機嫌を取り結ぶのである。
したがってインディアンの生活は,祭式と密接に関係し,狩猟,漁労,農耕,出産,成育,病気,死など,生活のあらゆる面が,なんらかの祭式を伴っている。たいていの部族が,シャーマンないしメディシン・マンと呼ばれる宗教的指導者を持ち,彼らには,霊界と交渉しうる特別な能力があると信じられている。儀式をつかさどり,予言し,病気の治療も行う。
インディアンの神話には,天地創造や,部族の文化的ヒーローに関するものが多いが,その内容は部族によってそれぞれ異なっているため,インディアン全体に共通する神話をあげることは不可能である。たとえばアメリカ合衆国南西部に住むプエブロ族の神話は,そもそも最初の人間は,父なる太陽によって受胎した母なる大地の,地の底の子宮から生まれ出たのだとしている。つまり,地表の下の種から育つ植物の生育過程に,これは通じている。ところが合衆国東部森林地帯に住んでいた部族に残る創世神話では,まず大空の中に霊的世界が始まり,そこから人や動物が地上に降りてきたのだという。しかし地上は,初め水に覆われていたので,動物が水の底に潜って土を持ってこなければならなかった。そして大地ができあがったのである。大平原地方の部族にも,この〈潜水夫〉タイプの神話があるが,それによると天地の創造主はコヨーテ老人で,〈潜水〉したのは2羽のアヒルだったとされている。
文字を持たなかった北アメリカのインディアンの伝統的な文学は,すべて口承文学である。物語は聖俗2種類に大別できる。たとえばウィネバゴ族の場合,聖なる物語は〈ワイカンwaikan〉と呼ばれ,これはおもに往昔の神々や精霊,そしてトリックスター(いたずらをする動物)などの半神格者を扱い,ハッピーエンドに終わる。語られるのは冬だけである。それに反して世俗の物語〈ウォラックworak〉は,現世の人間生活を扱い,悲しい結末を持つ。これは一年中いつ語ってもよい。他の部族もだいたいこれに準じるが,最後に落ちのついたユーモラスな物語を持つ部族も多い。
歌の方もすべて口から口へ伝承されたもので,宗教ないし呪術的目的を持つ。すなわち農作物の実り,狩りの獲物を祈ったり,雨乞い,戦勝祈願,成年式,鎮魂,病気治癒など,実用的目的とかかわっている。たとえばアリゾナのパパゴ族は,トウモロコシの種をまいたあと,その生育を祈って次の歌をとなえたという。〈青い夜がおりてくる/青い夜がおりてくる/ほら,ここに,ほら,あそこに/トウモロコシのふさがふるえている〉。祭式から離れた歌としては,恋歌,遊戯歌,子守歌などもある。総じて彼らの歌は,素朴なイメージと簡潔な語法が特徴で,英訳されたものを読んでも,一編の詩として非常に魅力的なものが多い。1920年代から白人の詩人によっても注目されるようになり,50年代以後には,多くのインディアン詩の英訳アンソロジーが出版されるようになった。
美術の面においても,近代的な意味でのいわゆる美術品は,豊かなパトロン(族長やシャーマン)のために作ったものが少しある程度で,伝統的には祭式や日常生活に必要な,実用的なものにほとんど限られている。すなわち祭式用品としての衣装,武器,楽器,カチーナ(祭式用の人形),用具,砂絵,そして日常品としての籠,陶器,織物,装身具,獣皮製品などである。これらは,素朴なものから,華麗なものに至るまで,原始美術独特の美しさを持っている。しかしその洗練度においては,中南米のものがはるかに進んでいる。籠,陶器,織物など,おもに民芸品は女性によって作られ,壁画,彫刻,カヌーなどは男性によって作られた。
しかし白人文明の侵入によって壊滅状態になった伝統的なインディアンの文化は,今やその神話的背景を大部分失っている。多くの部族は保留地にいて,観光客に売るための織物や装身具を細々と作り,伝統的な衣装を着けて,それも観光客のためにパレードをして見せるというありさまである。
しかし,英語を用いて書くすぐれたインディアン文学者が,20世紀後半になって出てきたことは特筆に値する。なかでも1969年,小説《夜明けの家》でピュリッツァー賞を得たN.スコット・ママディー,77年の小説《セレモニー》(邦訳《悲しきインディアン》)で世に出た女流作家レスリー・M.シルコウが重要である。ママディー,シルコウともに詩も書く。だがほかにもすぐれた英語で書く詩人や小説家が続出しつつあるのは,注目されてよい。
執筆者:金関 寿夫
アメリカ両大陸の先住民の音楽文化は,地理的なひろがりと自然環境の違いを反映して諸部族間に微妙な偏差が認められるものの,巨視的な観点に立てば,一貫した社会機能と音楽様式を持つということができる。すなわち,音楽は舞踊とともに統合的な共同体意識に根ざす娯楽行事,病気や天変地異に際しての呪術行為,部族間の戦闘にかかわる儀式などの形で,それぞれの文化を世代から世代へ継承することに貢献してきた。したがってレパートリーの大半は集団参加によるものであり,円陣形に行進しながら全員が歌ったりガラガラを振り鳴らす一方で,一つの大きな太鼓を何人もの人が取り囲んでいっせいにリズムを奏するというような演奏形態が典型的である。逆に個人ないし少人数による静かな音楽も文化価値の表現媒体として重要であり,子守歌,恋歌,フルート演奏などに繊細な表現が聞かれる。
地域の相違も大きく,中南米にくらべて北アメリカでは楽器の種類が少なく,それに応じて声楽や舞踊に独自の表現を凝らしている。たとえば,極北のエスキモーでは,グリーンランドやシベリアの諸部族と同様に枠太鼓(うちわ太鼓)がほとんど唯一の楽器であるが,その打奏にはタイミングの微妙な変化が認められるし,声楽ともなると大勢の集まるコンテストにしろ私的な屋内にしろ,即興の歌詞を2~5音の音階の旋律にのせて緊張感をみなぎらせる。北西海岸の諸部族では比較的自由な拍節,狭い音域の中ながら波のようにうねる旋律の動きが特徴的である。合衆国西部・南西部の諸部族では旋律の反復につれてしだいに音域を上げていくことを意図したり,対(つい)構造により安定した形式をとる。グレート・ベースン(大盆地),大平原の諸部族は周辺から楽器や音楽語法を借用する傾向が強い。たとえば波状旋律型を広音域にあてはめ,裏声,鼻声,のどを震わせるような声で歌い,しかも太鼓のリズムからわずかにずらしたりする。北アメリカのインディアンは保護区に閉じ込められ孤立する傾向にあったが,新しい傾向として部族を超えた連帯意識が生まれ,パウワウ大集会(多部族の人々が年1回ニューメキシコやニューヨークに集まり,音楽,舞踊,ロデオ,その他のスポーツを通して親交を深める祭典)やペヨーテやゴースト・ダンスなどの信仰儀礼の場で,汎インディアン的な音楽と舞踊の様式を確立しつつある。
中南米の先住民族インディオは,マヤ,アステカ,インカの古代高文化,アマゾン奥地などに現存する純粋の部族文化,カリブ海諸島や大陸各地での混血による混交文化など,それぞれ北アメリカと異なる趣の音楽,舞踊を持つ。古代高文化では,寺院や特設舞台で司祭的存在の音楽家が宗教儀礼を演じたらしい。孤立した部族社会のインディオたちは,自然環境を活用して,たとえば乾燥した大きなさや豆をガラガラとして振奏して踊ったり,管状の骨をトランペット式に吹奏したり,木片に紐をつけて〈うなり木(ブル・ロアラー)〉として空中高く振りまわすなどユニークである。笛の類では,1本だけの管を吹くもの,3~10本ほどの管を束ねたパンパイプなどが混交音楽文化の要素としてはたらいている。
執筆者:山口 修
19世紀のアメリカ史家フランシス・パークマンは,白人とインディアンの接触の仕方の特性について次のように要約した。〈スペイン文明はインディアンを圧殺した。イギリス文明はインディアンをさげすみ無視した。フランス文明はインディアンを抱擁しいつくしんだ〉と。イギリス文明とその後継者アメリカ合衆国とインディアンとの関係の歴史は,大別して次のように時代を区分することができる。第1は軍事的征服と武力抵抗の時代(1600-1880年代)。(1)植民地時代,(2)独立革命から南北戦争後まで。第2は文化的解体と再生の時代(1880-1990年代)。(1)部族文化の解体,(2)部族文化の復活と民族自決。全時代を通じて,インディアンの〈清掃〉つまり土地奪取とその地への〈植民〉の政策が,形態はさまざまだが一貫して追求された。
(1)植民地時代(1600-1760年代) インディアンと白人との接触は友好に始まり敵対に終わったとしばしばいわれるが,それは事実ではない。イギリス最初の植民地バージニアではキャプテン・ジョン・スミスらははじめから武器をもってポーハタン族を威嚇し,トウモロコシの供出を強制し戦争をしかけた。ポカホンタスとジョン・ロルフの〈結婚の平和〉も,友好というよりは恐怖の均衡であり,1622年のポーハタン族の大蜂起に結果し,以後20年抵抗がやむまで征服戦争がつづいた。ニューイングランドのプリマス植民地の場合も,一方でワムパノアグ族族長マサソイットとは友好関係が結ばれたが,他方で近隣の多くの諸部族とは敵対し,入植2年後の1622年にはプリマス軍はマサチューセッツ族の族長4人を謀殺し,その首を棒に突きさし20年間もプリマス砦の上にさらした。30年に植民が開始されたマサチューセッツ植民地でも,7年後の37年にピークオート戦争がおこり,500人のピークオート族が虐殺された。ひきつづく白人入植者の土地侵略と伝統文化への侮辱に耐えかねたワムパノアグ族族長メタカムは,1675-76年に反撃にたち上がり,ニューイングランドの諸部族がこれに連合して,ニューイングランド植民地連合軍と一大決戦を交えた。これをフィリップ王の戦争と呼ぶ。諸部族連合軍は植民地に大打撃を与えたが敗北した。他方,セント・ローレンス川地方に植民地を建設したフランスは,毛皮交易の相手アルゴンキン系諸部族と友好関係を結んだ。またオランダが建設したオルバニー植民地も毛皮交易を通じてモホーク族との友好関係を保ったが,ニューアムステルダム植民地ではキーフト戦争などでインディアンを冷酷に虐殺し土地を奪取した。このようにインディアンと白人との関係は,パークマンの言うように〈文明〉の違いというよりは,主として土地奪取を前提とする農業植民地の建設・拡大か,毛皮交易かという植民の経済的動機によって規定された。一方,ニューヨーク北部のイロコイ連合は,18世紀前半,英仏両勢力の対立を利用しつつ中立を保ち領土の保全をはかった。南部のサウス・カロライナ植民地では18世紀初頭以来インディアン奴隷狩りと奴隷貿易がさかんに行われ,そのため部族間の対立と戦争が助長され捕虜の奴隷化が促進された。東部森林文化領域南西部の有力部族であるクリーク族やチェロキー族はイロコイ諸族のように植民勢力間の敵対関係を巧みに利用して中立の立場を守ったが,フレンチ・インディアン戦争においてはチェロキー族はイギリスと敵対した。
(2)独立革命から南北戦争後まで(1760-1880年代) 独立戦争では,大半の部族がイギリスと同盟して愛国派軍に対抗した。そのうち,五大湖周辺の北西部諸部族は,1763年のポンティアク戦争から94年のフォールン・ティンバーズの戦での敗北まで,本国からの独立革命を遂行しつつあった植民地人に対して,自らの自由と解放のために戦ったのである。この戦いは,1812年戦争(第2次英米戦争)の際にショーニー族族長テクムシによってひきつがれ,彼は全インディアンの大同団結を提唱したが,大望を果たせず,W.H.ハリソン将軍に敗れて戦死した。同じころ南部ではチェロキー族などが文明化政策を受け入れて農業化・文明化への道を歩み,黒人奴隷制度も導入したが,クリーク族の抗戦派は文明化を拒み,A.ジャクソン軍と戦って敗れ,広大な領土を奪われた。こうしてミシシッピ川以東における優位を確立した合衆国政府は,1830年にインディアン強制移住法を制定して,ミシシッピ川以東の諸部族に同川以西への移住を強制した。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い〈涙の旅路〉をたどった。セミノール族は強制移住に抵抗して黒人と結束して戦ったが敗れた。
40年代の急激な領土膨張とゴールドラッシュによって,南西部や大平原,グレート・ベースンや太平洋沿岸の諸部族は,押し寄せる移住者の群れと合衆国軍に初めて向き合うことになり,コマンチ,アパッチ,ナバホ,シャイアン,スー,アラパホなどの諸部族は果敢な抵抗を開始した。南北戦争が起こると,チェロキー族やクリーク族などのインディアン地方(現在のオクラホマ州東部)の諸部族は南北両軍の戦略にまきこまれ,部族間のみならず部族内が敵味方に分かれて戦う悲劇を強いられた。他方,戦争中でもスー族の討伐や,〈サンド・クリークの虐殺〉など大平原諸部族への圧力は一層強まった。南北戦争後70年代をピークとして合衆国軍と諸部族との最後の決戦が合衆国の西半分の各地で展開された。インディアン側は,1866年のW.J.フェッターマン大尉以下81名のせん滅や,76年のカスター連隊のせん滅などの戦果をあげたが,軍事力の格段の違いや,生活資源であるバイソンの絶滅などにより抵抗を継続することができず,保留地に封じこめられた。
(1)部族文化の解体(1880-1930年代) 南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで,牧畜業者,鉱山業者,森林業者,鉄道業者,土地投機業者そして農民は,インディアン保留地の土地と資源に目をつけ,保留地そのものを解体し奪おうとしていた。一方,人道主義的改革家は,インディアンの部族組織と部族文化を解体し,彼らを農民・市民として文明化し,白人市民社会に同化させることを目ざした。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して,1887年に一般土地割当法(ドーズ法)が制定された。それは,保留地の一部をインディアン個人に単純所有地として割り当て,余剰地を白人耕作者に開放することを規定したもので,軍事力による土地奪取から,法による土地奪取への転機を画した。その後の修正立法措置で割当地そのものにも賃貸制が導入されて,保留地の土地は急速にインディアンの手から白人の手に移った。その結果1887年に1億3800万エーカー(1エーカーは約0.4ha)あった保留地は,1900年には7780万エーカーに,34年には4900万エーカーに減少した。1924年にいたって市民権が認められたものの,白人市民と完全に平等になったわけではなかった。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は,救済を宗教に求め,ゴースト・ダンスやサン・ダンスやペヨーテ信仰が流行した。
(2)部族文化の復活と民族自決(1930-90年代) 1934年にニューディール政策の一環として制定されたインディアン再組織法(ホイーラー=ハワード法)により,個人割当制が廃止され部族自治と部族共有制が復活されて,ようやく土地の喪失に歯止めがかけられた。さらに各部族に回転資金や教育資金が交付され,経済的向上や教育の改善や伝統文化の復活がはかられた。しかしこれらのプログラムは,保守勢力の妨害により十分な効果があがらぬうちに,ニューディール政策全般の退潮と第2次世界大戦の勃発によって,ますます後退をよぎなくされた。さらに戦後の保守的風潮のなかで,53年にはインディアンの固有の権利を奪い保留地の解体をねらう連邦管理終結政策が打ち出され,メノミニー族などに適用された。これに反対するため61年,全国アメリカ・インディアン会議が開かれ,これを出発点として60年代以降インディアン自身による固有の諸権利の回復と民族自決の運動が展開された。69-71年のアルカトラズ島占領や,73年のウーンデッド・ニー占拠事件は世界の耳目を聳動(しようどう)した。
これらの運動を推進したのが,1968年に結成された〈アメリカ・インディアン運動(AIM)〉で,74年にAIMは第1回国際インディアン条約会議を主催し先住民族の国際的連帯を目ざした。同会議は77年に国際連合によって非政府組織(NGO)として承認され,80年代以降には国連の先住民作業部会で活動を展開した。先住民作業部会は1973年の〈国際先住民年〉とその後の〈国際先住民の10年〉の成立に中心的な役割を果たした。一方,土地の権利,水利権,漁業権をめぐる運動は1970年代以降も各地で展開され一定の成果をあげている。なお,ラテン・アメリカのインディアンと白人との関係については,〈インディオ〉の項を参照されたい。
執筆者:富田 虎男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
南北両アメリカ大陸の先住民の総称。アメリンディアンAmerindian、アメリンディオAmerindioともいう。アメリカ大陸に初めてコロンブスが到達したとき、彼はそこがインディアス(当時のスペインでは東アジアをさした)であると誤認した。そのため住民はインディオとよばれ、英語ではインディアンとよぶようになった。現在ではインド人と区別するためにアメリカ・インディアンとする。また、狭義には中・南米の先住民のことを、単にインディオとよんでいる。極北のエスキモーあるいはイヌイット、カラーリット、アリュート(アリューシャン島民)、すなわち北アメリカ大陸最北部に住む先住民たちをアメリカ・インディアンに含めない考え方もある。また、アメリカ・インディアンやインディオという語にはしばしば差別的な意味が含まれるため、北アメリカでは先住アメリカ人(ネイティブ・アメリカン)Native American、中央・南アメリカではインディヘナ(インディジェナ)Indígenaなどとよぶことが多くなっている。日本でも、ネイティブ・アメリカン、アメリカ先住民、北アメリカ先住民、北米先住民などとよぶことが多くなっている。
[木村秀雄]
アメリカ大陸には類人猿が生息せず、化石人類の骨も発見されていないため、人類は他の大陸から移動して来たと考えるほかはない。その起源については荒唐無稽(こうとうむけい)なものも含めてさまざまな説が出されたが、アメリカ・インディアンの祖先はユーラシア大陸からベーリング海峡を渡ってきたというのが定説となっている。渡来の時期は、第四氷河期の海退によってベーリング海峡が陸地となった(ベーリンジアとよぶ)時代であることは確実である。その年代がいつまでさかのぼるかには諸説あってさだかでないが、少なくとも2万5000年から3万年前にはアメリカ大陸に人が住んでいたことは認めてよいであろう。ベーリンジアを通ってアラスカに入った人々は、ウィスコンシン氷河とロッキー山脈の氷塊に前途を阻まれたが、気候が温暖化すると両者の間に狭い回廊が出現し、人々はそこを通って南下した。気候の温暖化、寒冷化の波は第四氷河期の間に数回認められ、それに伴って氷河は前進後退し、ベーリンジアは海面上に現れたり海に没したりした。氷河期の終了とともにアメリカ大陸は最終的にユーラシア大陸と切り離されることとなったが、回廊を通って南下した人々は南北両大陸全域に広がり、環境条件の違いにあわせてさまざまな社会、文化を発展させることとなった。
[木村秀雄]
アメリカ大陸にヨーロッパの影響が及び始めた1492年以前の先住民人口についてはもちろん確定的なことはいえないが、これまでいくつかの推定が行われている。スチュワードJ. H. Stewardの推定(1949)では1492年の全アメリカ・インディアン人口は1560万人であるが、デネバンDenevanらの推定(1976)では約5730万人、誤差を考えて4300万人から7200万人となっている。現在のアメリカ・インディアン人口についても、混血の増加、各国の国勢調査の不備などもあって正確な数字はわからないが、種々の資料を統合すると1500万人から1600万人といったところであろう。アメリカ合衆国内での先住民人口は約228万(1996推計)となっている。
[木村秀雄]
身体上の特徴は地域によってさまざまであるが、一般的にいって、身長はとくに低くはないとはいえ地域的ばらつきが大きい。頭形は長頭がまれであって短頭が多い。血液型はO型の頻度が非常に高い。新生児には児斑(じはん)が多くみられる。モンゴロイド的特徴は南アメリカ最南端のフエゴ島民でもっとも少ない。
[木村秀雄]
アメリカ・インディアンの言語の数は非常に多く、他の言語との類縁関係が確認できないものもあって、その系統的分類はむずかしい。北・中央アメリカの言語を、サピアE. Sapirは6語族、ドライバーDriverは19語族に分類した。南アメリカの言語は、グリーンバーグGreenbergによって三つの大語族に分類されている。また、これらの分類に依拠してなされたヒッカーソンHickersonの分類(1980)などがある。
[木村秀雄]
アメリカ・インディアンの文化は多岐にわたり、地方ごとに大きな隔たりがある。地域ごとにある程度のまとまりがあり、それに基づいて文化領域を設定することができるが、それはかならずしも言語分類と一致するとは限らない。ここでは、北・中央アメリカについてはスペンサーSpencerらの分類(1965)、南アメリカについてはスチュワードの分類(1949)を基本にしながら、文化領域ごとの文化的特徴を述べていくことにする。
(1)北極 この地域に住むのは、アリューシャン列島を中心とした地域の少数のアリュートを除くと大部分がエスキモーおよびイヌイットである。エスキモーおよびイヌイットはツンドラ地帯に生息するカリブーや海の哺乳(ほにゅう)類の狩猟を生業とする採集狩猟民である。彼らの全体を統一する大きな組織はなく、狩猟の単位となるバンド(生活集団)に分かれている。狩猟にまつわる多くのタブーを守らなければならず、狩り仲間とは妻を貸借することが知られている。
(2)亜寒帯 この地域の人々も採集狩猟民であるが、獲物はカリブーのほかに森林地帯に住むシカなどの動物が重要である。集団はバンドを基本にするが、氏族組織がみられる場合もある。イエローナイフYellowknifeなどのアサバスカン系諸集団Athabascansの住む西部、モンタニェ・ナスカピMontagnais-Naskapiなどのアルゴンキン系諸集団Algonkiansの住む東部に分けられる。
(3)北西海岸 ここでも生業の中心は狩猟採集であるが、海産物が豊富で、生活は豊かであった。クワキウトルKwakiutl、トリンギトTlingitなどが代表的集団であるが、社会に階層が存在し、外婚氏族に分かれるなど複雑な社会組織をもつ。村の首長の威信を示す祝宴のポトラッチやトーテムポールの建造で名高い。
(4)西部 西部文化圏はカリフォルニア、高原、大盆地の三つに分けられる。生業としては狩猟も行われたが、採集のほうがより重要であった。この地域の文化は、周囲の北西海岸、大平原、南西部の諸文化の影響を受けており、一つの文化圏としての独自性に乏しい。またさまざまな言語集団が入り乱れており、一つの地域としてのまとまりは弱い。籠(かご)製品、皮製品の製作に秀でている。
(5)大平原 この地域のアメリカ・インディアンは、マンダンMandan、ヒダツァHidatsaのように定住し主として農耕を行うグループと、ブラックフットBlackfootやダコタDakotaのように移動しながら狩猟を行うグループに分けられる。白人が持ち込んだ馬は狩猟の効率を高め、大規模な野牛狩りを可能にした。多くの言語集団が入り乱れているため、移動するグループはコミュニケーションを図るために手と指を使うサイン・ランゲージを用いた。白人の侵入に強く抵抗し、千年王国運動としてのゴースト・ダンス(幽霊踊り)が有名である。
(6)南西部 この地域には、砂漠文化の伝統を引き継ぎ、メソアメリカの農耕文明の影響を受けた数々の文化が栄えた。そしてアメリカ合衆国において先住民文化がもっとも保たれている地域である。古くからの住人であるホピHopiやズニZuñi、新来者であるナバホNavahoなどがその代表である。トウモロコシを中心とする農耕を営み、織物、彩色土器など優れた工芸品を製作する。発達した氏族組織、村落組織をもち、集団によっては大規模な集合住宅を構える。
(7)南東部 この地域の文化は北東部文化圏のものと共通する部分も多く、この二つを一つの文化圏にまとめる説もある。クリークCreekやナッチェスNatchezによって代表され、その特徴としては、トウモロコシを中心とした農耕と狩猟を組み合わせた生業、核となる大きな村落の存在と発達した氏族組織、1年の農業サイクルに応じた大規模な祭りがあげられる。また白人との接触に対応して大きな先住民連合が生まれた。
(8)北東部 この地域の経済の中心はトウモロコシの農耕であるが、北に行くにしたがって農業はむずかしくなり、北西部ではアメリカマコモに頼っている。多くの言語がマクロ・アルゴンキン語族に属しているが、この地域でもっとも有名なのはマクロ・スー語族に属する言語を話すイロコイIroquoisである。L・H・モルガンの古典的研究で名高いこの地域の部族は、イロコイ同盟という部族連合を結んでいた。また、この同盟に加わらなかったヒューロンHuronなどの場合でも氏族の同盟関係が整備されていた。白人との接触後は毛皮取引が重要になり、押し出されるように毛皮を求めて次々と西へ移動して行った集団が多い。
(9)メソアメリカ 北・中央アメリカでもっとも高い文化を誇り、複雑な文明を生み出した地域である。メソアメリカの文明には、オルメカOlmeca、テオティワカンTeotihuacan、マヤMaya、トルテカTolteca、アステカAztecaなどがあげられるが、いずれもこの地域で初めて栽培化されたトウモロコシ農耕を基礎にしている。大規模な都市が営まれ、ピラミッドなどの大きな石造建造物が建てられた。美しい金銀細工や彩色土器がつくられ、独自の暦年法や文字が用いられた。時代が下るにしたがって好戦的な気風が強まり、アステカでは太陽の力を保つため数多くの人身供犠(くぎ)が行われた。
(10)環カリブ海 この地域はメソアメリカ文明とアンデス文明に挟まれた中間地帯であり、階層分化が進み首長国を形成していた場合が多い。頻繁に戦争を繰り返し、奴隷を獲得したり、カニバリズム(食人)の語源となったカリブ諸集団の間では捕虜を殺して食べたりした。経済の基本はトウモロコシなどの農耕である。
(11)アンデス メソアメリカに匹敵する南アメリカの文明圏である。中心となったのはペルーからボリビアにかけての中央アンデスである。チャビンChavin、ティワナコイデTihuanacoide、インカIncaと、3回にわたって一つの文化が広い地域を覆った。経済の基礎となったのは灌漑(かんがい)を伴ったトウモロコシ農耕であるが、アンデス山脈の高度差を利用した農耕民、牧畜民、漁民の間の交易が重要である。この地域で用いられる言語は、インカの公用語であったケチュア語と、ボリビアを中心とするアイマラ語である。大規模な建築物が建てられ、さまざまな土器、貴金属細工がみられる。インカ期には交通網や社会制度が整備されていた。
(12)熱帯降雨林地帯 アマゾン川、オリノコ川などの河川流域や大西洋岸などで、マニオクまたはトウモロコシを主作物とする焼畑耕作を経済の基礎としている。アマゾン川本流の氾濫(はんらん)原や海岸部など条件のよい所では集団の規模も大きかったが、村落を超える大きな社会集団が存在することはまれで、戦争などの際に同盟を結ぶ形がとられただけである。階層分化も認められず、各村の首長と宗教をつかさどるシャーマンのみが他と異なる存在であった。
(13)その他の地帯 南アメリカにおけるこれまでの文化圏以外の地帯であって、とくにまとまりがあるわけではない。自然環境はより厳しく、狩猟採集を主とし、場合によっては河川沿いの森での焼畑耕作を組み合わせる。狩猟採集民の社会は移動するバンドを基礎としており、これを超える大きな社会集団が認められることはまれである。
[木村秀雄]
ユーラシア大陸から渡ってきた人々はアメリカ大陸の環境条件に適応してさまざまな文化を発達させた。北アメリカにおいては、フォルサムFolsom、クロビスClovisなど美しい石器を伴う旧石器文化がみられる。後氷期の環境変化に対しては、大盆地からメキシコ北部の乾燥地帯で砂漠文化とよばれる採集経済を生み出し、これが農耕の開始へとつながった。農耕によって多くの余剰人口を養うことができるようになり、メソアメリカと中央アンデスでは大きな都市を擁する大文明が生まれ、メキシコにおけるアステカ、アンデスにおけるインカという統一国家が生まれることとなった。農業技術など文明の影響は周辺にも及び、狩猟採集経済から脱した社会も多かったが、寒帯、亜寒帯や乾燥地帯など自然条件の厳しい所では相変わらず狩猟採集が続けられた。
1492年のコロンブス到来は、アメリカ・インディアンの運命を一変させることになった。アステカは1522年コルテスによって、インカは1532年ピサロによって征服された。先住民や土地は植民者たちに委託され(エンコミエンダ制)、人々は重い賦役(ふえき)や税に苦しめられた。銀などの鉱山で強制的に働かされた場合も多い。その後このエンコミエンダ制は改められたが、先住民がヨーロッパ人によって支配される形態は変わらなかった。虐待や、白人のもち込んだ伝染病によって先住民人口は激減し、西インド諸島ではドミニカ島を除いて先住民は絶滅してしまった。
南アメリカでもプランテーションの労働力を確保するための奴隷狩りがしばしば行われたが、先住民の減少に伴う労働力減少を補うため、大西洋岸一帯ではアフリカ大陸から多くの人々を奴隷として移入するようになった。こうして奴隷として入ってきた多数のアフリカ人がアメリカ大陸に独自の文化をもたらし、新たな伝統を生み出した。中央アメリカ、南アメリカにおいて白人は先住民を支配し、その労働力や生産物を搾取する方向に進んだのに対し、北アメリカにおいては先住民は排除される運命にあった。南部のプランテーションを除くと、白人は自ら土地を開拓する道をとった。
フランスは毛皮取引のために先住民を利用し、これと友好関係を結んだが、イギリスとそれに続くアメリカ合衆国は、先住民を追い払い最終的には居留地に隔離する政策をとった。この過程で多くの戦いが起こった。平原インディアンの頑強な抵抗は名高い。戦いに敗れた先住民は条件の悪い居留地に押し込められていたが、近年少数民族の権利を主張する世界的な流れのなか、自らの誇りと独自性を回復しようとする動きがみられる。
メキシコでは、メキシコ革命などを通して先住民の民族意識の高まりがみられ、地方では自らの権利を主張する先住民と支配者層の間で土地問題などをめぐって激しい対立がみられる所がある。アマゾン流域はこれまで比較的開発をまぬがれてきたが、ブラジルのアマゾン縦断道路の開通などで、開発の波が押し寄せており、各国で行われている低地移住計画とも相まって、すでに大きな変容を遂げている先住民集団にますます圧迫が加えられている。
メキシコや南アメリカのペルー、ボリビアなど先住民の比率が高い所では、混血の割合も高く、混血文化とよべるものが発生している。カナダ、アメリカ合衆国の北アメリカ先進国、アルゼンチン、チリなど南アメリカで先住民色が比較的希薄な国々、先住民・アフリカ系・白人各文化の混ざり合ったブラジルなど、アメリカ大陸の国々にはさまざまな型があるが、圧倒的な西洋文明の流れのなかで、アメリカ・インディアンの行く道はまだまだ険しい。
[木村秀雄]
アメリカ大陸の先住民であるアメリカ・インディアンの歴史は、大別してヨーロッパ人との接触以前の、1万5000年以上にわたる独自の文化の創造の長い歴史と、接触以後500年余のその文化の破壊に対する抵抗の歴史とに二分できる。ここではコロンブスが渡来(1492)してヨーロッパ文化との接触が始まってから以降のとくに北アメリカにおける歴史を概観する。
ヨーロッパ諸国のアメリカ先住民に対する接触の仕方の特色について、19世紀のアメリカ史家F・パークマンは次のように簡潔にまとめている。「スペイン文明はインディアンを圧殺した。イギリス文明はインディアンをさげすみ無視した。フランス文明はインディアンを抱擁し慈しんだ」と。スペインのコンキスタドレス(征服者)がカリブ海諸島、中米、南米、メキシコに侵入しインディオを「圧殺」したことはあまりにも有名である。彼らはあまり「圧殺」しすぎて、金・銀鉱山や農園で使う労働力に不足をきたしたため、インディオに一定の「保護」を加えて労働力を確保せざるをえなかったほか、アフリカから多くの人々を奴隷として移入してこれを補ったのである。カナダに植民地を築いたフランス人の場合、たしかに毛皮交易相手のアルゴンキン系インディアンを「抱擁し慈しんだ」。しかし、イロコイとは16世紀中、幾度も戦火を交えたし、ミシシッピ川下流に農業植民地を建設した際には、この地方のナッチェスを徹底的に「圧殺」したのである。オランダ人も北のオルバニー植民地では交易相手のイロコイを「抱擁」したが、南のマンハッタン島では諸部族を残酷に「圧殺」した。このようにヨーロッパ諸列強の接触の仕方は、それぞれの国民性や文明によるのではなく、金銀、土地、毛皮などにまつわるそれぞれの経済的欲求や、また当面した諸部族との力関係に応じて、「圧殺」から「抱擁」まで、任意にその政策を選択したのである。
ここで対象とするイギリスとその後継者アメリカ合衆国の場合、ほぼ一貫して先住民を「さげすみ無視し」しばしば「圧殺」した。それは農業のための土地を獲得するため、先住民を彼らの土地から根こそぎに「清掃(クリアー)」し、そこにヨーロッパ人移民とアフリカ人奴隷を「移植(プラント=植民する)」、いわゆる「清掃と植民」を基本的政策としたからである。この「清掃と植民」の仕方によって、イギリス、アメリカ合衆国と先住民との接触以後の歴史は、次の二つの時代に区分できる。(1)軍事的征服と武力抵抗の時代(1600~1880年代)。(2)文化的破壊と民族的再生の時代(1880年代~現在)。以下、この二つの時代をさらにいくつかの段階に分けてみていくことにする。
[富田虎男]
(a)植民地時代(1600~1760年代) 一般にアメリカ・インディアンとイギリス人の接触は「友好的」に始まったといわれるが、それは神話にすぎない。事実は初めから武力による威嚇と土地の奪取であり、これに対し最初の植民地バージニアでは、1622年に当地の先住民集団ポーハタンの一斉蜂起(ほうき)が起こり、ニュー・イングランドでは1637年にピークォート戦争が起こっている。さらに1670年代なかばに、前者では毛皮交易の利にあずかる総督のインディアン宥和(ゆうわ)政策に対し、土地開放を求めてインディアン撲滅政策を主張するベーコンらの反乱が起こり、後者ではメタカムを先頭とする諸部族連合の文化的生存をかけた一大決戦「フィリップ王戦争」が起こった。また、カロライナではインディアン奴隷狩り戦争により諸部族が次々に「清掃」された。また強大な部族連合であるイロコイ五国同盟やチェロキーやクリークは、ヨーロッパ諸列強間の敵対関係を巧みに利用して、中立政策を追求し生存を図った。
(b)アメリカ独立革命期(1760~1790年代) 独立革命は、ヨーロッパ系アメリカ人のイギリス帝国に対する独立と解放の戦いであったが、それと同時に、自らの独立と解放を求めるアメリカ・インディアンを征服し領土を拡大した民族抑圧の戦いでもあった。北西諸部族の独立と解放のための戦いは、1763年のポンティアック戦争に始まった。独立戦争中、大半の部族はイギリス側につき、イギリスの敗北・講和後は独力で二度まで合衆国遠征軍を撃退したが、1794年のフォールン・ティンバーズの戦いに敗れて武力抵抗の矛をいったん収めた。南部のチェロキーは数回にわたってアメリカ軍の侵攻を受け、壊滅的打撃を被った。
(c)文明化政策と民族的抵抗(1790~1820年代) 独立後、合衆国政府はイギリスから「清掃と植民」政策を引き継いだが、力の弱まった部族には「文明化」という新形態の清掃政策をはじめ、抵抗する部族には軍事力による征服政策を継続した。「文明化」政策を受け入れたチェロキーは一世代の間に白人農民に劣らぬ農業社会を築き、チェロキー文字を発明して新聞を発行し、1827年には独自の憲法を制定して独立国家を築いた。他方、北西部諸部族は、先住民族の大同団結を唱える指導者テクムシの下に結集し、おりからの一八一二年戦争に際してハリソン軍と戦ったが敗れた。南部ではクリークと、逃亡奴隷と同盟したセミノールとが、それぞれジャクソン軍の侵攻に抵抗して戦ったが敗北し、広大な領土を奪われた。
(d)強制移住と南北戦争(1830~1860年代) ミシシッピ川以東の諸部族は、「文明化」を受け入れたものも、抵抗して敗北したものも、1830年のインディアン強制移住法によって、同川以西の地への移住を強制された。大半の部族は、多くの犠牲を払っていわゆる「涙の旅路」Trail of Tearsをたどり西方に移住した。移住に抵抗した部族は合衆国軍の攻撃を受け、北(イリノイ州)ではブラック・ホーク戦争が、フロリダではセミノール戦争が起こった。1840年には「マニフェスト・デスティニー」Manifest Destiny(アメリカ大陸への膨張は天命である、との意)の名の下で、テキサス、大平原、オレゴン、カリフォルニアの先住諸部族が新たに「清掃」の対象に加えられた。南北戦争(1861~1865)は、一方でオクラホマ地方に強制移住させられた諸部族を巻き込んで敵味方に引き裂き、その領土を荒廃に帰せしめた。他方で、戦争中スーやシャイアンへの侵略がとどまることなく進められ、1864年には「サンド・クリークの虐殺」が起こった。
(e)最後の抵抗(1860~1880年代) 合衆国軍による軍事的征服に対する大平原先住諸部族の武力抵抗は、1870年代にクライマックスを迎えた。それは1876年のリトル・ビッグホーンの戦いで絶頂に達し、スー、シャイアンなどの連合軍はカスター中佐の率いる第七騎兵隊の一大隊を殲滅(せんめつ)したが、軍事力の格差は大きく、武力抵抗は限界に達した。1886年のアパッチの首長ジェロニモGeronimo(1829―1909)の降伏をもって武力抵抗は終わりを告げ、1890年には「ウンデッド・ニーの虐殺」が行われた。
[富田虎男]
(a)ドーズ一般土地割当法と再生への願い(1880~1920年代) 戦いに敗れた先住諸部族は次々に保留地に封じ込められたが、今度は彼らの保留地までが「清掃」の対象とされた。1887年のドーズ一般土地割当法は、保留地の共同体的所有を解体し、その一部を個人所有地として部族民に割当てる一方、広い余剰地を白人農民に開放した法律で、まもなく割当地そのものも賃貸しやすいように修正が加えられた。その結果、保留地の土地はたちまちアメリカ・インディアンの手を離れ、ドーズ法制定時に1億3800万エーカーあった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年までに約5000万エーカーにまで減少した。これは保留地をねらった牧畜、森林、鉱山、鉄道業者や農民の貪欲(どんよく)と、先住民の農民化、市民化を目ざした人道主義的改革家たちの文明化のイデオロギーとが合体した結果であった。土地だけでなく、先住民の文化も信仰や儀式や服装や言語に至るまで野蛮なものとして軽蔑(けいべつ)され否定された。絶望した先住民は、ゴースト・ダンスやサン・ダンス、ペヨーテ信仰などの救世宗教に救いを求めるか、酒に身を持ち崩すかし、また同化の道を歩む者もいた。
(b)インディアン再組織法と連邦管理終結政策(1930~1950年代) 保留地の奪取は、1934年のインディアン再組織法によって歯止めがかけられた。この法は土地の個人割当制を廃止し、部族共有制と部族自治を復活する一方、回転資金や教育基金を供与して経済状態の改善と教育の向上を目ざすものであったが、その推進者ジョン・コリアらの努力にもかかわらず、保守派の妨害や第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)により中途で挫折(ざせつ)した。大戦後、反共・保守主義の強まる風潮のなかで、1953年連邦管理終結(ターミネーション)政策が始まった。これは部族の自治権を奪って先住民諸部族を連邦と州の立法権に従わせる同化政策の一種であり、新型の「清掃」政策であった。これに対する反対が引き金となって、1960年代以降、インディアン復権運動が高揚するに至った。
[富田虎男]
1990年の国勢調査によると、アメリカ合衆国には約196万人のアメリカン・インディアンがいる。1970年には約79万人だったから、20年間に約2.5倍に急増したことになる。196万人のうち、インディアン保留地と連邦信託地に住んでいる者は約44万人(22.3%)でその他農村部に住んでいる者との合計が約86万人(43.7%)で、一方、都市部には約110万人(56.3%)が住んでいる。彼らが置かれている社会経済状態はきわめて厳しく、教育、就業、収入、保健、居住環境のいずれの面でも、アフリカ系やヒスパニックとともに、アメリカ社会の最底辺部を構成している。こうした状況を改善し、民族としての固有の権利と文化を回復するために、彼らは1960年代以来、「民族自決」の原理をかかげて復権運動を展開してきた。1960年代から1970年代前半にかけては、漁業権や水利権や領土権などをめぐって、1973年の第二次ウンデッド・ニー占拠事件に象徴される実力抵抗運動が注目を浴びたが、それ以降は土地権の回復訴訟などの法廷闘争や、国際連合の先住民作業部会での世界の先住民の権利のための活動が目だっている。
[富田虎男]
『平野孝訳編『アメリカ・インディアン』(1977・研究社・アメリカ古典文庫)』▽『W・E・ウォシュバーン著、富田虎男訳『アメリカ・インディアン――その文化と歴史』(1977・南雲堂)』▽『清水知久著『米国先住民の歴史』(1990・明石書店)』▽『横須賀孝弘著『ハウ・コラ――インディアンに学ぶ』(1991・NHK出版)』▽『富田虎男著『アメリカ・インディアンの歴史』改訂3版(1997・雄山閣出版)』▽『青木晴夫著『アメリカ・インディアン』(講談社現代新書)』
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…家族にはじまる社会組織と住居形態との対応の議論はL.H.モーガンをもって嚆矢とし,なお論じ続けられている。たとえばモーガンの扱ったアメリカ・インディアンのイロコイ族のロングハウスでは,母系リネージで結ばれた合同家族が集居し,各夫婦単位が寝室を保有していた。より一般的に大型住居と母系集団との相関関係を説く者もいる。…
…シェークスピアの《夏の夜の夢》で,人間たちの理性を混乱させつつ,自分でも失敗を犯すパックは,妖精としての道化である。民話でも,彦市のようにとんちがあるだけでなく,ティル・オイレンシュピーゲル,P.ラディンの報告したアメリカ・インディアンのトリックスター,中世民話でソロモン王をやりこめる醜怪な無頼漢マルコフのように,とんちと愚鈍さをあわせもち,良識を逆なでする猥雑さや異形性を発揮しなければ,道化とはいえない。 人間の集合的無意識は,諸民族に共通して,〈原形〉としての道化を生み出してきた。…
…様式は自然主義的なものと図式的なものとがある。
[北アメリカ]
アメリカ・インディアンは広い地域で古くから土器をつくり,刻文または彩文で装飾した。とくにすぐれているのは南西部の土器で,13~14世紀に最盛期に達した。…
…北アメリカ北西海岸部に住むアメリカ・インディアンのトリンギット族,ハイダ族,クワキウトル族,チィムシャン族,ヌートカ族などの間で行われた競覇的な贈与交換を伴う饗宴。ポトラッチという名称は,ヌートカ語の〈物を与える〉という意味の〈パツシャトル〉という単語が,チヌーク・ジャーゴンと呼ばれる通商言語を経て,英語に入ったものである。…
…四大人種の一つ。黄色人種,アジア人種と呼ばれることもあるが,皮膚の色は明色から濃褐色まであり,アメリカ大陸原住民(アメリカ・インディアン)もこの大人種にはいる。寡毛,直毛,短頭,頰骨の突出,蒙古襞(ひだ)や蒙古斑の存在,血液型もB型が多くRh-が少ないなどが顕著な人種特徴である。…
※「アメリカインディアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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