神社(じんじゃ)(読み)じんじゃ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「神社(じんじゃ)」の意味・わかりやすい解説

神社(じんじゃ)
じんじゃ

社(やしろ)、また宮(みや)より発生した神を祀(まつ)るところ。

[鎌田純一]

定義

神社といえば、一般に神を祀っている宮、社のことをいうが、現在正しくこれを定義するとどのようにいえるであろうか。これについて、現在全国の神社の包括団体である宗教法人神社本庁の庁規を基礎に考えると、「神社とは、本殿・拝殿など公衆礼拝のための施設をもち、神社神道(しんとう)にしたがって祭祀(さいし)を行い、神徳を広め、また氏子(うじこ)・崇敬者その他の人々を教化育成することを目的とした神職・氏子・崇敬者をもって組織された宗教団体であって、神社本庁統理の承認を受け、神社本庁の神社明細帳に登録されたもの」となる。神社本庁では、この最後の部分の「神社本庁統理の承認を受け、神社本庁の神社明細帳に登録されたもの」とのことを重要な条件としており、実際に全国の神社の大半90%以上が承認を受け登録されているが、伏見稲荷(ふしみいなり)大社、靖国(やすくに)神社などのように、その包括下に入らず、承認登録手続をしていない場合もある。それらを包括下の神社に対し、単立神社と称しているが、一般の人々よりみれば、その承認登録のことは強い条件とはならず、それ以前のところに重点が置かれるであろう。ただ、神社によっては、本殿のない場合、拝殿のない場合があるが、それはそれとして公衆礼拝の施設があり、神道による祭祀が行われ、資格を有する神職がおり、その神社を支える氏子・崇敬者がおり、土地・財産をもったものが神社なのである。

[鎌田純一]

起源

神道による神を祀る場として、その原初形態の時代から、社殿のある神社があったのではない。『日本書紀』天孫降臨の条にも「天津神籬(あまつひもろき)および天津磐境(あまついわさか)を起こし樹(た)てて、吾(あ)が孫のために斎(いわ)いまつらん」とあるが、そのような神籬・磐境が神を祀る場であったのである。すなわち、神籬は、現在では神のよりましとしての樹(き)のみをさす語とされているが、古くはそれを含めた神を祀る場をさして称した語のようである。また磐境は、今日各地にみられる祭祀遺跡から察せられるように、自然の岩石のある神聖な神祀りの場のことであり、そのような場で神祀りがされたのである。

 また『万葉集』『出雲国風土記(いずものくにふどき)』などに、「かんなび」で神を祀ることがみられるが、「かんなび」とは神のなばるところ、神のおられる神聖なところとみられ、神聖な場、森、山などをさしての語である。そのような自然の森、山でも神祀りがなされたのであり、それが「やしろ」、神聖な場であり、神社の根源的なものとみられる。また一方『古事記』三貴子出生の段で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の生まれたのを喜び、自分の御頸珠(みくびだま)を天照大神に授けたことを記したあと、「その御頸珠の名を御倉板挙之神(みくらだなのかみ)と謂(まお)す」と記しているが、これを御倉の板棚の上にあげた神、神棚に安置された神とみて、このような玉、また鏡・剣などを神霊の宿る神体として祀ることがあり、それより発達して神社が成立したことが考えられる。それは、初めは住居と同じの、いわゆる同床共殿で祀ったことより発し、ある契機から、別の神聖な安置場所、「みや」、御屋(みや)に祀ったものとみられる。

 次に3世紀より6世紀にかけて発達した古墳が各地に残存するが、その古墳に接続して鎮座する神社がある。これはその古墳に鎮まる神霊を祀る場に恒久的な社殿が設けられ神社となったものであろう。また、神宝、神体を神聖なる地、のちに禁足地(きんそくち)とよばれるようになった地に埋蔵し、それを対象とした神祀りの場より発生したとみられる神社もある。神社とは、神体があり、それを祭祀するため、また拝礼するために公衆に開放された場でもあるが、以上のごとき場が、その成立の起源とみられる。

 さて以上神社成立の起源をみる基礎として神祀りの場をみたが、それらおのおのの発生には、時間的にはかなりの差があるものとみられる。その厳密な判定はなしがたいが、それらを基礎として、神祀りのときだけでなく、常設的また恒久的な社殿等が一般に設けられるようになったのは、飛鳥(あすか)時代より白鳳(はくほう)時代になってからかとみられる。

 そこには、それ以前からすでに社殿を有する宮居も存したが、当時仏教寺院の建築が次々となされたこと、また国内諸体制の整備とともに、神祇(じんぎ)行政もその緒についてきたことに関連して考えられるのである。かくて常設的な社殿を設けた神社のなかに、古代信仰をそのままに継承し、独自の形をもつ神社がある。奈良の大神(おおみわ)神社は三輪(みわ)山を神体として本殿がなく、長野の生島足島(いくしまたるしま)神社は明治時代以後に本殿が建てられたが、もとはその池の中の本殿の建てられた島そのものが神体とされていて本殿はなかった。いまの本殿も大床(おおゆか)のない形式である。奈良の石上(いそのかみ)神宮も、明治時代以前は、拝殿の前の禁足地が神体の埋蔵された聖地で本殿を有していなかった。伊勢(いせ)の神宮では、古来拝殿はなく、祭儀は庭上でなされている。原初時代に、神を祀る場合、一定の神聖な場に神を招き祀られたとみられるが、ときに臨時の屋舎が設けられることもなされ、また一方の御屋のあることより、進んで常設的な社殿が設けられ、神社として発達してきたのである。

[鎌田純一]

制度

神社に対する制度は、どのように変遷してきたか。『日本書紀』崇神(すじん)天皇7年の条に、「天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)、および神地(かんどころ)、神戸(かんべ)を定む」とあるが、これを史実とみることはできない。実際に全国の神社に対して、行政的な処置がとられるようになったのは、7世紀の後半天武(てんむ)天皇のころよりとみられ、さらにその実態がわかるのは律令(りつりょう)体制に入ってからのことである。

 その神社制度として、全国の神社のうち、神祇官より、また国府より例幣を奉る神社が定められた。これを「官社(かんしゃ)」とよんだが、『延喜式(えんぎしき)』をみると、祈年祭(としごいのまつり)に幣帛(へいはく)が奉られる神社2861所、3132座が記されている。この『延喜式』神名帳に記されている神社のことを、また「式内社(しきないしゃ)」と称しているが、その「式内社」に、神祇官から幣帛を奉る「官幣社」と、国府より幣帛を奉る「国幣社」とがあり、またその両方ともに「案上(あんじょう)(机の上)の幣」を奉る「大社」と、「案下の幣」を奉る「小社」とが定められていた。さらにまた、その式内社のなかに、名神祭(みょうじんさい)にあずかる「名神社」があった。名神祭とは、国家の大事にあたり、奉幣祈願される臨時祭のことであり、その名神社は『延喜式』に306座記されている。

 また、この律令体制のころより、神社に対して神階が授与されることも多くなされた。しかし、律令体制もしだいに崩れ、式内社に対して例幣を奉ることが困難となり行われなくなってきた。そのなかで都周辺の有力神社のいくつかには依然として幣帛が奉られ、また国家非常のときに特別の祈願がされた。それも、16社、19社などとその数は一定しなかったが、1081年(永保1)以降、伊勢、石清水(いわしみず)、賀茂(かも)、松尾、平野、稲荷、春日(かすが)、大原野、大神、石上、大和(おおやまと)、広瀬、竜田(たつた)、住吉(すみよし)、日吉(ひえ)、梅宮(うめみや)、吉田、広田、祇園(ぎおん)、北野、丹生(にう)、貴布禰(きふね)の22社と定まり、これが「二十二社の制」といわれて、1449年(宝徳1)まで続いた。

 一方これとは別に、古代末期より中世初頭ころに「一宮(いちのみや)」の制が生じた。これは公的な機関で定めたものではない。民間で各国ごとに定められたものとみられ、その時期にもずれがあったものとみられる。いま、それを制定した理由も明らかでなく、一説に国司が任国へ赴任したとき、その国司司祭社を巡拝することとなっていたが、その巡拝順に一宮、二宮と称した名残(なごり)といい、また一説に神祇官より各国神社へ命令下達のとき、便宜上各国に一社を定めておき、その社に官より伝達、そこから国内各社に伝達したその神社のことなどともいう。しかし、いずれも確証なく、およそ各国ごとに由緒正しく信仰を多く集めていた社をさして一宮と称したようである。続いて二宮、三宮なども定められていた。また「総社」が生じたのも、古代末期である。総社にも一国の総社、寺院に付属の総社などがあるが、一国の総社とは国内の神社を1箇所に勧請(かんじょう)し、あわせ祀った社のことである。古代末期、国政が乱れ、国司が任国へ赴任せず、目代(もくだい)を遣わすこととしたが、目代も国司司祭社に直接参向し祭祀することをしなくなり、便宜上国衙(こくが)に近い地に国内の神社を勧請し、そこに合祀(ごうし)し祭祀したことに始まるものとみられる。この一宮、総社には中世以降、多くの庶民が崇敬参拝した。

 中世、鎌倉幕府はその初期以来、各社の社領安堵(あんど)、社殿造営、祭儀の励行を図り、室町幕府もそれを踏襲したが、戦国の争乱とともに、それらが行われず、各社とも衰退した。近世、江戸幕府は神領を朱印状でもって安堵し、各藩主も黒印状でもって安堵したが、中世前期の神領に比すと甚だしく減じたものであり、各社は民衆の信仰に支えられることとなった。

 明治時代となって、新政府は祭政一致の大方針のもとに、神社は国家の宗祀として、たびたびの改革ののち、伊勢の神宮は特別の格のものとして官制を設け、以下、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社の制度を整え、宮内省より官幣社には祈年・新嘗(にいなめ)祭および例祭に、国幣社には祈年・新嘗祭に幣帛を供進し、国幣社の例祭には国庫から幣帛料を供進すること以下を定め、その官幣社、国幣社をそれぞれ大社、中社、小社に区別し、このほかに別格官幣社を設けた。しかし、1945年(昭和20)太平洋戦争敗戦のあと、連合国最高司令官総司令部(GHQ)よりのいわゆる神道指令によって、神社の国家管理制度は禁止され、翌1946年2月廃止され、以後神社は国家・公共団体の手を離れて、それぞれ宗教法人令による宗教法人となり、現在その大半の神社が、その包括団体である宗教法人神社本庁の包括下に入っている。なお、現在も伊勢の神宮は特別視して、本宗(ほんそう)とされている。

[鎌田純一]

神領

神社の経済的基盤としての神領(社領)の起源は不詳とせざるをえないが、大化改新による国郡制の成立とともに、伊勢・出雲・鹿島(かしま)など神郡をあてられた社があり、律令体制の整備とともに、神田(かんだ)・神戸が各社にあてられた。しかし律令体制の衰退とともに、各社とも自墾地系、寄進地系の荘園(しょうえん)に頼らざるをえなくなったが、鎌倉幕府時代はそれがよく安堵されていた。しかし、南北朝の争乱以降それがしだいに略奪され、江戸幕府により新たに知行(ちぎょう)制による社領が付与されたが、各社とも古代、中世前期に比べるときわめて少ないものとなっていた。明治以降は1871年(明治4)の社寺領上知令(あげちれい)により、境内地のみとされた。

[鎌田純一]

建築

神社には本殿、幣殿、神饌(しんせん)所、拝殿、神楽(かぐら)殿、祓所(はらえど)、舞殿(まいどの)、神庫、斎館(さいかん)、社務所などの建物があるが、その配置に仏教寺院のような様式、基準はない。その本殿が南面している場合が多いが、これもすべてに原則として定められているものではない。ただ、それらの殿舎のなかでいちばん重要な本殿について、古来いくつかの建築様式があり、それぞれの神社でその様式が守られてきているのが通例であり、その様式として、唯一神明造(ゆいつしんめいづくり)(伊勢の神宮)、神明造、大社(たいしゃ)造(出雲大社など)、大鳥造(大阪の大鳥神社など)、住吉造(大阪の住吉大社など)、春日造(奈良の春日大社など)、流(ながれ)造(京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社など)、八幡(はちまん)造(大分の宇佐(うさ)神宮など)、日吉(ひえ)造(滋賀の日吉(ひよし)大社など)、祇園造(京都の八坂神社など)、吉備津(きびつ)造(岡山の吉備津神社)、浅間(せんげん)造(静岡の富士山本宮浅間大社)、香椎(かしい)造(福岡の香椎宮)、入母屋(いりもや)造(大阪の水無瀬(みなせ)神宮など)、権現(ごんげん)造(仙台の大崎八幡宮、栃木の日光東照宮など)がある。また鳥居も、その形式が多様で、神明鳥居、明神鳥居、両部鳥居、山王鳥居、鹿島鳥居、三輪鳥居、春日鳥居、筥崎(はこざき)鳥居などがある。

 なお神社に本社に関係ある神、またその支配を受ける小社を祀っている場合が多いが、明治の制の官国幣社では本社に縁故の深い神を祀った小社を摂社、それ以外の小社を末社といい、官国幣社以外ではその鎮座地により境内社また境外社と称してきたが、これが現在も踏襲されている。

 全国の神社数は約8万、神社本庁包括下の神社数が7万8954社(『宗教年鑑』平成26年版)存する。

[鎌田純一]

『小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』(1963・神社神報社)』『全国神社名鑑刊行会編・刊『全国神社名鑑』上下(1977)』


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