デジタル大辞泉 「陳」の意味・読み・例文・類語
ひね【▽陳/老=成】
「―になった麺麭菓子」〈三重吉・小鳥の巣〉
2 前年以前に収穫した穀物や野菜。「―米」
3 老成していること。ませていること。また、その人。
[類語]古めかしい・古い・古臭い・陳腐・中古・
ちん【陳】


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中国,南朝四王朝の一つ。557-589年。創業者は陳覇先(武帝)。呉興(江蘇省呉興)の微賤の家に生まれた陳覇先は,嶺南地方で武将として名をあげ,梁末に侯景の乱が起こると土豪勢力を糾合して贛江(かんこう)を北上,その平定に手柄をたてた。そのうえ,江南の混乱につけこんだ北斉の傀儡政権樹立のもくろみを粉砕し,梁にかわる王朝を創業。この王朝のもとで貴族は往時の勢力を失い,実力は梁末に各地に起こった土豪将帥層に帰した。文帝期には長江(揚子江)中流の王琳,江西省の周迪(しゆうてき),浙江省の留異,福建省の陳宝応等の割拠勢力を平らげて江南一円の支配を確立し,宣帝期には北斉から江北の土地を奪った。しかし,577年(建徳6)には北周が北斉を併せて華北の統一がなり,デカダンスの天子として史上に名高い後主のとき,陳は北周を継いだ隋の攻撃をうけて滅んだ(589)。こうして,東晋以来,約270年に及ぶ南北分裂の時代に終止符が打たれたのである。
→魏晋南北朝時代
執筆者:吉川 忠夫
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中国、南朝最後の王朝(557~589)。呉興郡(浙江(せっこう)省)の人、陳覇先(ちんはせん)(武帝)が建立した。陳覇先は身分の低い軍人であったが、梁(りょう)末の侯景の乱に際しその鎮圧に奔走して勢力を築き、梁の元帝が江陵で西魏(せいぎ)に襲殺されると敬帝をたて、やがて敬帝の禅譲を受けて即位し、建康(南京(ナンキン))に王朝を開いた。その死後、兄の子文帝が継ぎ、ついで廃帝、宣帝と続いたが、第5代の後主のときに隋(ずい)の文帝に滅ぼされた。その領域は、わずかに揚子江(ようすこう)中・下流以南と、宣帝の時代に北斉(ほくせい)から奪った淮南(わいなん)一帯を占めるにすぎなかった。この時期、南朝貴族は侯景の乱を境に多く没落しており、政治の中枢にあったのは武将出身者や身分の低い寒人(かんじん)であって、その点南朝のなかでは特異である。滅亡時、隋に入った人口は200万という。
[中村圭爾]
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中国の南北朝時代の南朝最後の王朝(557~589)。梁(りょう)の太守であった陳覇先(ちんはせん)(武帝)が侯景の乱で勢力を強め,梁の敬帝から禅譲をうけて建国。都は建康(現,南京)。百済(くだら)のほか高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)の朝貢を毎年うける。しかし北朝には劣勢が続き,ついに隋の楊堅(ようけん)(文帝)の攻撃をうけて滅んだ。
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…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
※「陳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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