ウィルソン(読み)うぃるそん(その他表記)Peter Wilson

デジタル大辞泉 「ウィルソン」の意味・読み・例文・類語

ウィルソン(Charles Thomson Rees Wilson)

[1869~1959]英国の物理学者。ウィルソンの霧箱を発明し、イオンの飛跡の撮影に成功。1927年、ノーベル物理学賞受賞。

ウィルソン(Horace Wilson)

[1843~1927]米国の教育者。英語・数学の教師として来日、第一大学区第一番中学(のちの東京大学)の生徒に野球を教えたことが日本野球の始まりといわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「ウィルソン」の意味・読み・例文・類語

ウィルソン

  1. [ 一 ] ( Woodrow Wilson ウッドロー━ ) アメリカの第二八代大統領(在職一九一三‐二一)。民主党員。「デモクラシーのための戦い」を主張して、第一次世界大戦では対独宣戦を布告。戦後ベルサイユ会議を指導し、国際連盟の組織などを提唱した。(一八五六‐一九二四)
  2. [ 二 ] ( Charles Thomson Rees Wilson チャールズ=トムソン=リーズ━ ) イギリスの物理学者。一九一一年ウィルソンの霧箱を発表し、宇宙線、原子核の研究に大きく貢献。一九二七年ノーベル物理学賞を受賞。(一八六九‐一九五九)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説

ウィルソン(Peter Wilson)
うぃるそん
Peter Wilson
(1950― )

主にドイツで活動するオーストラリアの建築家。メルボルン生まれ。1971年、メルボルン大学建築学科を卒業後、渡英。ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)に入学、74年修了。76~88年同校教授を務める。

 80年、ザ・ウィルソン・パートナーシップ建築事務所を妻ジュリア・ボレス・ウィルソンJulia B. Bolles-Wilsonとロンドンに開設、その後、アルヒテクトゥールビューロー・ボレス+ウィルソンと改称し、ドイツ、ミュンスターに移る。ベルリン工科大学(1994~96)をはじめアムステルダム、ロッテルダム、バルセロナ、ロンドンの大学や学校の開催するワークショップなどで教鞭をとる。

 AAスクールの同級には、ザハ・ハディド、ナイジェル・コーツNigel Coates(1949― )、ダニエル・リベスキンドらがおり、直接の師匠はレム・コールハースとエリア・ゼンゲリスElia Zenghelis(1937― )である。ウィルソンがAAスクールに学生、教師として在籍当時はロン・ヘロンRon Herron(1930-94)やピーター・クックPeter Cook(1936― )といった70、80年代のアバンギャルド建築家集団として知られたアーキグラムの建築家も教鞭をとっていたことからわかるように、AAスクールは教育以外にも、展覧会、出版やレクチャーを活発に行う、若い建築家の積極的な活動拠点であった。まだ実作品に恵まれない建築家たちがそのような活動を通して国際的な知名度を獲得することができたのである。

 AAスクール時代のウィルソンは、ナラティブ・アーキテクチャー(物語的建築)のスタイルをとった幻想的なドローイングによる建築作品をいくつも発表している。「シップシェイプ・ビルディング(船型建築)とブリッジ・ビルディング(橋型建築)」を基本的なモチーフとし、幻想的な風景と知的なディテールに裏づけられた建築で、近代建築の合理性に満ちた禁欲的な表現とは異なった世界を表した。

 1987年に市制1200年を記念する市の中心部のモニュメントであるミュンスター市立図書館(1993)のコンペで優勝すると、このような物語的建築のアイデアは一挙に現実化した。ウィルソンは中世の街並へ現代建築を象眼(ぞうがん)したのである。建物を二つに分断し、屋根のある街路をつくり、そこを通って建物の内部と外部を行き来できる不思議な空間とした。

 ミュンスターのプロジェクトが6年越しで建設される間、ウィルソンはAAスクール東京ワークショップに招聘され、『新建築』コンペ入選、大阪・国際花と緑の博覧会フォリー(小さな建築物。1990)やSuzuki House(1993)のプロジェクト、さらにいくつかのプロジェクトの機会に恵まれるなど、日本での設計活動を積極的に行い、幻想的なスケッチとアイデアは一挙に現実化されることとなる。

 その後、WLVビル(1996、ミュンスター)、ブリンク・ショッピングセンター(1999、オランダ)、ルクソール劇場(2001、ロッテルダム)などドイツやオランダでの大規模なプロジェクトを手がける。しかし、ロッテルダム港湾監視所・展望台・タワー計画(1996)など、得意とするミニマルなオブジェ的ランドスケープをつくることも忘れない。機能一辺倒の大都市の環境に対して、人間的なスケールとウィットを投げかけているのである。

 2001年にはミラノ市メディアテークBEIC(Biblioteca Europea di Informazione e Cultura)のコンペに入選し、本格的な電子メディア時代の公共建築実現に向けて新たなステップを踏み出している。

[鈴木 明]

『「ボレス+ウィルソン」(『GA DOCUMENT 48』・1996・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『OSAKA FOLLIES 1990 (1990, Architectural Association School, London)』▽『El Croquis 67; Bolles/Wilson 1990-1994; Gigantes/Zenghelis 1987-1994 (1994, El Croquis, Madrid)』▽『Christian Richters photos.Bolles + Wilson; Neue Bauten und Projekte (1997, Birkhäuser, Basel)』▽『El Croquis 105; Architekturbüro Bolles-Wilson 1995-2001 (2001, El Croquis, Madrid)』


ウィルソン(Cassandra Wilson)
うぃるそん
Cassandra Wilson
(1955― )

アメリカのジャズ・ボーカリスト。ミシシッピ州ジャクソンのジャズ・ミュージシャンの家庭に生まれ、幼児期からジャズに囲まれて育つ。10代のころはピアノやギターで、ブルース・シンガー、ロバート・ジョンソン、ロック・フォーク歌手ジョニ・ミッチェルらの歌を弾き語りする。20歳のとき、アーカンソー州リトル・ロックで白人ブルース・バンド、ブルージョンに参加、その後リズム・アンド・ブルース・バンドなどでプロ・シンガーとして経験を積む。26歳になってニュー・オーリンズに移り、サックス奏者アール・タービントンEarl Turbintonから初めて正式にジャズを習ったのち、1980年代初めにニューヨークへ進出。そこでアルト・サックス奏者ヘンリー・スレッギルHenry Threadgill(1944― )のグループ、ニュー・エアーや、同じくアルト・サックス奏者で独自の音楽理論「Mベース」(M-BASE=Macro-Basic Structured Extemporizations。ジャズをベースに、黒人音楽の多様な要素をとり入れたスタイル)を構築しつつあったスティーブ・コールマンSteve Coleman(1956― )率いるファイブ・エレメンツに参加。彼らと共演することによって先鋭的な感覚を身につける。

 1986年「Mベース派」のミュージシャンをサイドマンに従えた初リーダー作『ポイント・オブ・ヴュー』を発表。翌87年にはコールマンのほかにスレッギルもアレンジで協力したアルバム『デイズ・アウエイ』を録音、そしてオリジナル・ナンバーによる90年のアルバム『ジャンプ・ワールド』で新時代のジャズ・ボーカリストとしての地位を確立する。93年JMTレーベルからブルーノート・レーベルに移籍し、アルバム『ブルー・ライト』ではジョニ・ミッチェルの曲を取り上げ、従来のコアなファンに加え、新たに幅広い層からの支持を獲得する。95年、アルバム『ニュー・ムーン・ドーター』でグラミー賞最優秀ジャズ・ボーカル賞を受賞。99年にはトランペット奏者マイルス・デービスの曲を取り上げたアルバム『トラヴェリング・マイルス』を発表。その後もジャズ界を代表するボーカリストとして多くのファンから認められ、何度も来日公演を行っているが、そのたびに高い評価を得ている。

 ウィルソンはジャズ、ブルース、ロック、フォークと非常に幅広い音楽的背景を背負って出てきた新しいタイプのジャズ・ボーカリストである。しかし独特の深みのある声質を生かした器楽的唱法はジャズ・ボーカルの伝統に根ざすもので、こうした方向ではジャズ歌手ベティ・カーターBetty Carter(1929―98)の影響が強くうかがえる。アルバム『ベリー・オブ・ザ・サン』(2002)で見せたように、ロック・グループ、ザ・バンドや、シンガー・ソングライター、ジェームズ・テーラーJames Taylor(1948― )らの曲目を取り上げたときも表現のオリジナリティーが失われることはなく、そうした意味からも正統的なジャズ・シンガーである。

[後藤雅洋]


ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)
うぃるそん
Thomas Woodrow Wilson
(1856―1924)

アメリカ合衆国第28代大統領(在任1913~1921)。長老教会派の牧師を父に、同派の牧師を母に、バージニア州スタントンに生まれる。プリンストン大学とバージニア大学で政治学を学び、ジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を得、1890年、母校プリンストン大学に政治学、法律学の教授として迎えられた。著名な政治学者として彼は、伝統的なアメリカの権力分立原理、とくに瑣末(さまつ)で私的な利権に動かされる議会が、責任ある政治指導を弱化している現状を批判し、憲法の範囲内で大統領が最大限に効率的な指導力を発揮しうる政治改革の必要を論じた。

 1902年、プリンストン大学の学長に選ばれ、同大学の教育制度改革を手がけたのち、1910年、民主党からニュー・ジャージー州知事に当選、政治家に転身した。さらに1912年、民主党の大統領候補に選ばれ、「ニュー・フリーダム」(新しい自由)を政綱に掲げた。当時アメリカ社会は大きな経済的、社会的変動のさなかにあり、その変動に対処すべき新たな改革運動(革新主義)の高揚期にあった。とくに、19世紀末から現れた独占企業、巨大企業が、それまでの小規模な企業や農業、あるいは社会・政治機構を無規律に破壊し、ゆがめていることへの批判が高まり、大企業を社会的に規制し、競争を回復し、人々に新しい秩序のもとでの自由を保障する改革の必要が叫ばれていた。この年、共和党が分裂したことにも助けられて、彼は大統領選挙に勝利し、翌1913年から1914年にかけて、19世紀末以来の多くの改革要求の実現に強い指導力を発揮した。すなわち、この間、関税を引き下げるアンダウッド関税法、大規模な金融機構改革を通して信用・通貨の弾力的供給を図る連邦準備法、そしてクレートン反トラスト法(および連邦取引委員会)を成立させた。この改革は、彼をして革新主義的改革の最大の指導者たらしめた。

 彼が抱いた強い大統領の指導力という理念は、この時期の国際政治にも大きな影響を与えた。1914年第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、中立からしだいに参戦へと傾いた彼は、さらに戦後の世界秩序の再建にも高い理想を示して指導力を発揮しようとした。1917年4月のアメリカの参戦後、1918年1月、国際連盟の樹立と民族の自決などをうたった平和十四か条を発表した。国際連盟設立の構想は、彼の努力によって1919年、ベルサイユ講和条約に盛り込まれて実現した(同年ノーベル平和賞受賞)。軍国主義を排し、民族自決を促し、国際的平和機構をもって国際関係を律する新しい秩序としようとした彼のこの間の一連の構想は、また同時に、17年に起こったロシア革命に対抗し、自由主義理念のもとで資本主義的世界秩序を再建しようとする試みでもあった。確かにアメリカ自身は、その後ベルサイユ条約を批准せず、国際連盟に加わらなかったが、ウィルソンのこの間の努力は、以後の世界に帝国主義的対立にかわる新しい思想的枠組みを与え、植民地解放運動にも一定の影響を与えた。なおウィルソン自身は、1919年、パリ講和会議から帰国後、ベルサイユ条約の批准を上院に要請したが、その中途、過労のために脳動脈血栓に倒れ、1921年大統領任期満了とともに政界から引退した。1924年2月3日死去。

[紀平英作]

『S・フロイト、W・C・ブリット著、岸田秀訳『ウッドロー・ウィルソン――心理学的研究』(1969・紀伊國屋書店)』▽『志邨晃佑著『ウィルソン――アメリカと世界の改革』(1971・清水書院)』▽『関西アメリカ史研究会編著『アメリカ革新主義史論』(1973・小川出版)』



ウィルソン(Robert Butler Wilson)
うぃるそん
Robert Butler Wilson
(1937― )

アメリカの経済学者。ネブラスカ州ジュネーブ生まれ。1959年にハーバード大学を卒業(数学士)し、1961年に同大学で経営学修士(MBA)、1963年に経営学博士(DBA)を取得。1964年からスタンフォード大学で教鞭(きょうべん)をとり、1976年に教授、2004年に同大学名誉教授となった。2020年、オークション理論auction theoryを発展させ実用的な新オークション方式を開発した功績で、弟子のポール・ミルグロムとともにノーベル経済学賞を受賞した。

 専門はゲーム理論で、オークション理論などのマーケット・デザインのほか価格理論、交渉学、産業組織論、情報経済学など業績は多岐にわたる。弟子には、ミルグロムのほか、アルビン・ロスAlvin E. Roth(1951― )(2012年ノーベル経済学賞)らがいる。

 古典派経済学は市場によって効率配分が実現するとしてきたが、実際には情報の非対称性などで「市場の失敗」が起きる。これを避けるためミクロ経済学では、ゲーム理論や実験経済学の研究が盛んになり、その一環としてオークション理論がビッカリー(1996年、ノーベル経済学賞受賞)、ウィルソン、マイヤーソン(2007年、ノーベル経済学賞受賞)らによって発展した。ウィルソンは1960年代から1970年代にかけて、無線周波数、採掘権、不動産といっただれにとっても共通価値common valueをもつ財に関するオークション理論を導入。オークションの落札額が高値だったと後悔する「勝者の呪いwinner's curse」を避けるため、合理的な入札者は共通価値より低い価格で応札する傾向を理論的に解明し、オークション理論を発展させた。ミルグロムらとともに、複数オークションを同時並行で繰り返す「同時複数ラウンド競り上げ入札Simultaneous Multi-Round Ascending Auction」を開発。1994年のアメリカ政府の電波割当てに採用され、莫大な国庫収入をもたらした。その後、多くの国が周波数、資源、電力、空港発着枠などの割当てに同方式を導入し「納税者を含め、社会に多大な恩恵を与えた」ことがノーベル賞受賞につながった。ウィルソンらの受賞はノーベル経済学賞の実用重視の最近の傾向を象徴している。

[矢野 武 2021年2月17日]


ウィルソン(Robert Woodrow Wilson)
うぃるそん
Robert Woodrow Wilson
(1936― )

アメリカの電波天文学者。ヒューストンに生まれる。ライス大学を1957年に卒業後、カリフォルニア工科大学大学院に進み、電波天文学を研究し、1962年博士号を取得した。1963年ニュー・ジャージー州ホルムデルのベル研究所の技術スタッフとなり、1976年に同研究所の電波物理学部門の研究部長の職についた。また1978年からはニューヨーク州立大学の教授を務めた。

 ベル研究所で2年先輩のペンジアスとともに衛星通信の障害となる雑音源をつきとめるため、電波望遠鏡と受信機のテストを行っていた。そこで彼らは、1964年に宇宙の全方向からくる波長約7センチメートル、温度約3K(マイナス270℃)の宇宙背景放射Cosmic Microwave Background Radiation(CMB。宇宙マイクロ波背景放射、宇宙黒体放射、3K放射ともいう)を発見した。プリンストン大学のディッケRobert Henry Dicke(1916―1997)に観測結果を連絡したところ、ディッケはそれが宇宙の創生期におきたビッグ・バンの名残(なごり)ではないかと予測した。この発見は、膨張する宇宙の証拠とみなされ、以後、宇宙論は大いに盛り上がりをみせた。この業績に対して、1978年にペンジアスとともにノーベル物理学賞が与えられた。低温物理学のカピッツァとの同時受賞であった。

[編集部]


ウィルソン(Charles Thomson Rees Wilson)
うぃるそん
Charles Thomson Rees Wilson
(1869―1959)

イギリスの物理学者。2月14日、スコットランドのグレンコース郡に生まれる。父ジョン・ウィルソンJohn Wilsonは牧羊業で知られた人で、母アニー・クラーク・ハーパーAnnie Clerk Harperはグラスゴーで製糸業を営む家族の出である。4歳のとき父が死に、母は彼を連れてマンチェスターに移った。その地で教育を受け、1888年に奨学生としてケンブリッジ大学に入り、物理学者になる決心をした。1892年ケンブリッジを卒業したウィルソンが、自分の生涯の研究テーマとなるものに出会った瞬間を後年、次のように述べている。「1894年9月に私は、スコットランド丘陵でいちばん高いベン・ネビスの頂上に当時あった天文台で数週間を過ごした。小山の上にかかっている雲に太陽の光が当たったときに生ずるすばらしい光学現象、とくに太陽の周りや、山頂や人が霧や雲に落とす影の周りにできる環状の虹(にじ)の美しさに心を打たれ、同じ現象を実験室で再現したいものだと思った」。

 膨張装置をつくり、湿った空気を膨張させて霧をつくる実験から研究を始めてまもなく、霧の核となるほこりの粒子の入っていない湿った空気でも膨張率が1.25を超えたとき放射線の入射などにより霧が発生することを発見した。その後、発見されたばかりのX線やウランの放射線などを使用して凝縮核の研究に進み、その結果、凝縮核が、X線や放射線の電離作用でつくられたイオンであることを証明した。

 放射能の研究が、放射線の本性解明から原子構造の解明へと進んだ20世紀の初頭に、ウィルソンの膨張装置つまり霧箱(きりばこ)は重要な役割を演じることになる。それまでの検出装置である電気的計測装置や硫化亜鉛の感光板などでは、α(アルファ)粒子やβ(ベータ)粒子の散乱過程で実際に何がおこったのか決定できなかった。その過程を目に見えるようにする装置が望まれていた。

 1911年ウィルソンは自ら発明した霧箱を改良して、電離作用するイオンの飛跡を写真に撮ることに初めて成功した。「蒸気を凝縮し荷電粒子の飛跡を可視化する方法の研究」により、1927年のノーベル物理学賞を受けた。受賞講演で、写真を撮るための瞬間的な照明方法の考案に苦労したことを述べると同時に、それまで確証なしに正しいと考えられてきた情報に対し写真によって必要な確証を与えられたと述べている。90歳の天寿を全うした。

[日野川静枝]


ウィルソン(Kenneth Geddes Wilson)
うぃるそん
Kenneth Geddes Wilson
(1936―2013)

アメリカの理論物理学者。ハーバード大学、カリフォルニア工科大学に学び、カリフォルニア工科大学、ヨーロッパ原子核研究機構(CERN(セルン))、コーネル大学を経て、1963年ハーバード大学教授となる。そのころ、相転移・臨界現象の問題は、統計力学・物性理論分野の中心的課題の一つとされていた。臨界点近傍でのスケーリング則の成立が臨界現象に本質的なことである点については、現象論的にはカダノフLeo P. Kadanoff(1937― )によって1966年に明らかにされていた。そこでウィルソンは1971年に、ミクロレベルに歩を進めて、ゲルマン、ロウFrancis Low(1921―2007)による「場の量子論におけるくりこみ群の方法」(1954)を土台に、くりこみ群の理論を直観的・物理的に構築し、臨界指数を具体的に求める方法を与えた。この理論は、非平衡理論分野その他に広く適用可能性を有し、理論物理学に新しい視座を与えるものとなった。「相転移に関連した臨界現象に関する理論」により、1982年ノーベル物理学賞を受賞した。

[荒川 泓]


ウィルソン(Sir Angus Frank Johnstone Wilson)
うぃるそん
Sir Angus Frank Johnstone Wilson
(1913―1991)

イギリスの小説家。伝統的なイギリス風俗小説の現代における代表的な継承者の一人。8月11日サセックスに生まれる。オックスフォード大学で中世史を専攻、卒業後不況のなかを秘書、家庭教師、レストラン支配人などさまざまな職についたあと、1937年、大英博物館図書館に職を得た。第二次世界大戦後、強度の神経症にかかり、その治療の一手段として週末に短編小説を書き始めた。文壇へのデビューは短編集『悪い仲間』(1949)で、非情な風刺で注目された。続く短編集『愛すべきお年寄りたち』(1950)も好評だったが、彼の本領はむしろ舞台を広くとった長編小説にあり、『毒にんじんとその後』(1952)、『アングロサクソンの姿勢』(1956)では知識人たちの社会を描いて、微妙な階級感情や偽善、退廃を、鋭利な観察と柔軟な文体、成熟した倫理感でえぐり出すことに成功する。

 その後、女性の強さを描いた『エリオット夫人の中年』(1958)、未来空想小説『動物園の老人たち』(1961)、老年のわびしさを描いた『遅い目覚め』(1964)などを発表したが、『笑いごとじゃない』(1967)では、ある中産階級の一家の半世紀を、戯曲やゲームなど、多様な実験的手法を用いてパノラマ風に描き上げ、さらに神秘的な秘境の人々の力を扱った『まるで魔術のように』(1973)、歴史的な主題をもとにテロリストを取り上げた『世界を炎上させて』(1980)などを発表し、これまでの彼の作風を一段と進展させた。評伝作品には『エミール・ゾラ』(1952)、『チャールズ・ディケンズ』(1970)がある。1991年5月31日没。

[出淵 博]

『永川玲二訳『世界文学全集17 アングロサクソンの姿勢』(1967・集英社)』▽『工藤昭雄・鈴木寧訳『新しい世界の短編7 悪い仲間』(1968・白水社)』▽『芹川和之訳『笑いごとじゃない』(1973・講談社)』▽『グランズデン著、小池滋訳『A・ウィルソン』(1971・研究社)』


ウィルソン(Colin Wilson)
うぃるそん
Colin Wilson
(1931―2013)

イギリスの作家、批評家。父親はレスターの靴工場で働いていた。貧しかったため、16歳のときに学校をやめざるをえなくなるが、その後ほとんど独学で古今の文学・思想書を読破し、1956年に『アウトサイダー』を発表、現代文明と人間関係を論じた同書は1950年代の「怒れる若者たち(アングリー・ヤングメン)」を代弁するものとして多くの話題をよんだ。その後評論『宗教と反抗人』(1957。邦訳文庫版では『宗教とアウトサイダー』下)をはじめほぼ毎年1冊の割で小説『暗闇(くらやみ)のなかの儀式』(1960。邦訳『暗黒のまつり』)、『賢者の石』(1969)、自伝『発端への旅』(1969)、音楽論『コリン・ウィルソン音楽を語る』(1967)、ミステリー『ガラスの檻(おり)』(1966)、さらにオカルト研究『オカルトの歴史』(1971。邦訳『オカルト』)などを発表、その後神秘主義的傾向を強めた。

[富士川義之]

『中村保男訳『ガラスの檻』(1967・新潮社)』▽『中村保男訳『暗黒のまつり』(1968・新潮社)』▽『河野徹訳『コリン・ウィルソン音楽を語る』(1989・冨山房)』▽『飛田茂雄訳『発端への旅』新装版(1991・竹内書店新社)』▽『中村保男訳『アウトサイダー』(集英社文庫)』▽『中村保男訳『賢者の石』(創元推理文庫)』▽『中村保男訳『宗教とアウトサイダー』上下『夢見る力――文学と想像力』『オカルト』上下(河出文庫)』


ウィルソン(Edmund Wilson)
うぃるそん
Edmund Wilson
(1895―1972)

アメリカの批評家、エッセイスト。プリンストン大学を卒業後、『バニティ・フェア』『ニュー・リパブリック』誌、とくに1944年から4年間は『ニューヨーカー』誌の書評家として活躍。フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ドス・パソス、フォークナーなどの鬼才を次々と発見し、アメリカの文芸復興に大いに寄与した。1931年、象徴主義の伝統を跡づけた名著『アクセルの城』を発表し、批評家としての地位を揺るぎないものとした。ほかに多重の意味の問題を扱ったThe Triple Thinkers(1938)、ロシア革命思想の形成を追ったTo the Finland Station(1940)、芸術と神経症の関係を論じた『傷と弓』The Wound and the Bow(1941)、ユダヤの歴史にメスを入れたThe Scrolls from the Dead Sea(1955)、それまでのリンカーン像に修正を加えた南北戦争文学史『愛国の血』Patriotic Gore(1962)などがある。彼の特色は、一つの立場に固執しない幅広い視野と説得力に富む筆致にあった。マルキシズムから始まり、象徴主義、精神分析、歴史主義へと忙しく移る視点にジャーナリズム臭がなきにしもあらずだが、つねに時代を背負う者を的確に予言するという希有(けう)な才能を有していた。

[森 常治]


ウィルソン(Sir Harold Wilson)
うぃるそん
Sir Harold Wilson
(1916―1995)

イギリスの政治家。オックスフォード大学を卒業後、同大学で経済学を講じた。第二次世界大戦中に官界に入り、1945年7月の選挙で労働党下院議員となった。アトリー内閣では海外貿易相、商相を務めたが、1951年国防費増加に反対してベバン労相とともに辞任した。1963年ゲイツケルの死後、労働党党首に就任し、翌1964年の選挙で労働党を勝利に導いて首相の座についた。「科学革命時代の社会主義」を唱え、没落の兆候をはっきりと示していたイギリス経済・社会の活性化を意図したものの、実を結ばず、1967年にはポンドの大幅切下げを行わねばならなかった。1970年6月の選挙で保守党に政権を譲ったが、1974年にふたたび首相となり、賃金抑制のための社会契約の実施、ヨーロッパ共同体(EC)への残留をめぐる国民投票などを行った。1976年3月に突如首相辞任を発表し、任期なかばで退いた。

[木畑洋一]


ウィルソン(August Wilson)
うぃるそん
August Wilson
(1945―2005)

アフリカン・アメリカン(黒人)の戯曲家、詩人。ピッツバーグに生まれる。父親は白人であったが両親の離婚で母親のもとで育つ。子供時代から厳しい人種差別に悩む。グラッドストーン高校中退。1963年軍隊に入隊し1年後に除隊。1960年代にはブラック・パワーの活動に参加。「マルカムXたちへ」という詩が『ニグロ・ダイジェスト』に掲載される(1969)。戯曲『マ・レイニーズ・ブラック・ボトム』がブロードウェイで上演され(1984)高く評価される。『ジョー・ターナーの往来』(上演1986)、ピュリッツァー賞を受賞した『フェンス』(1987年度受賞)、『ピアノ・レッスン』(1990年度受賞)、『二列車が走る』(1989)、『七つのギター』(1997)などで南部や奴隷であった過去を忘れず、黒人の遺産を大切にしながら生きるアメリカの黒人を描いた。

[荒このみ]

『桑原文子訳『フェンス』(1997・而立書房)』▽『桑原文子訳『ピアノ・レッスン』(2000・而立書房)』


ウィルソン(Edwin Bidwell Wilson)
うぃるそん
Edwin Bidwell Wilson
(1879―1964)

アメリカの数学者、物理学者。コネティカット州ハートフォードに生まれる。1899年ハーバード大学卒業後、エール大学で物理学者のギブスに師事し、1901年学位を取得した。エール大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)で教え、1917年MITの物理部門の部長となった。第一次世界大戦中は流体力学、航空工学の分野を研究し、1920年代からは統計学に着手し、1922年にはハーバード公衆衛生学校の人口統計学教授になり、1929年にはアメリカ統計学会会長に就任した。1920年代は推測統計学の建設期であり、彼の区間推定法、信頼区間の考え方はそれに貢献した。また人口増加を解析的に表現するロジスティック関数を提唱した。

[高山 進]


ウィルソン(Richard Wilson)
うぃるそん
Richard Wilson
(1714―1782)

イギリスの風景画家。ウェールズのモントゴメリーシャーに生まれる。初め肖像画を描いたが、イタリア遊学中、おもにローマとその近郊の廃墟(はいきょ)に心ひかれ、それを題材にして風景画に専念するようになった。1775年ロンドンに帰って数年間はイタリア風景を描いて名声を得、アカデミー会員にもなったが、やがて、イギリスの自然に親しみ、イギリスの風景を描くにつれ無視されるようになった。作風はじみで落ち着きがある。晩年不遇のうちにウェールズに帰ったが、後世風景画の樹立者の一人と認められた。

[岡本謙次郎]



ウィルソン(John Dover Wilson)
うぃるそん
John Dover Wilson
(1881―1969)

イギリスのシェークスピア学者。ロンドン大学、ついでエジンバラ大学教授。1921年から40年以上の歳月をかけて編纂(へんさん)した全集『ニュー・ケンブリッジ・シェークスピア』は、綿密な本文校訂と独自の大胆な推理によって知られる。『ハムレットでは何が起こるか』(1935)、『シェークスピアの幸せな喜劇』(1962)など、豊かな問題提起を含む多くの著作がある。

[村上淑郎]


ウイルソン(Richard Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Thomas Woodrow Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Charles Thomson Rees Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Edwin Bidwell Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(John Dover Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Edmund Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Sir Angus Frank Johnston Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Sir Harold Wilson)
ういるそん

→ウィルソン


ウイルソン(Colin Wilson)
ういるそん

→ウィルソン

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改訂新版 世界大百科事典 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説

ウィルソン
Thomas Woodrow Wilson
生没年:1856-1924

アメリカ合衆国第28代大統領。在職1913-21年。バージニア州で,敬虔な長老派の牧師の子に生まれた。プリンストン大学,バージニア大学で学び,弁護士を開業したが,ほどなく学究生活にもどり,1886年政治学で博士号を得た。女子大学で教職についたのち,90年に母校プリンストンの政治学・法学教授として招かれ,歴史学でも成果をあげ,1902年学長に選ばれた。チューター制の導入,カリキュラム改革などで学長として名声を得たが,大学院設置問題で反対を招き,10年辞任した。同年民主党から推されてニュージャージー州知事に当選,直接予選法,企業規制の強化,労災補償法などめざましい改革成果をあげ,全国的注目をあびた。12年民主党大統領候補となり,独占企業を抑えて人民の自由な機会を回復すると説く〈新しい自由New Freedom〉を掲げ,共和党の分裂に乗じて当選をはたした。大統領として強い指導力を発揮し,関税引下げ,連邦準備法(1913)による銀行制度の改革,クレートン法(1914)と連邦取引委員会法(1914)による独占規制,労働者・農民の保護など世紀初頭からの改革の動きを集大成した。対外的には前大統領タフトの〈ドル外交〉を非難したが,アメリカ自由主義の規範を中南米諸国に押しつけ,メキシコなどへの軍事力を伴う内政干渉にいたった。

 第1次世界大戦に際しては中立を宣言し,中立国としての権利を主張しつつ,和平工作を行ったが,合衆国経済は連合国側との結合を深め,他方ドイツの潜水艦戦によって,ルシタニア号沈没(1915年5月)など国民に被害が生じた。16年非参戦のスローガンで再選をはたしたが,17年2月ドイツが無制限潜水艦戦を開始するに及んで,ついに4月〈世界を民主主義のために安全にする〉ための参戦を議会に求めた。参戦後は大規模な動員体制を確立するとともに,18年1月〈14ヵ条The Fouteen Points〉の平和原則を発表し,自由主義的な新国際秩序の建設を呼びかけた。終戦後みずから渡欧してパリ講和会議を指導し,念願の国際連盟規約を成立させた。しかし国内では連盟による国家主権の制約を恐れる声や孤立主義者の反対があり,共和党員の上院外交委員長ロッジHenry C.Lodgeの工作で,上院は連盟規約を含むベルサイユ条約の批准を拒否した。ウィルソンは国民に直接訴えるべく全国遊説を強行して,途中19年9月病に倒れ,連盟加盟の最後の機会として期待した20年の大統領選挙も民主党の大敗に終わって,失意のうちに世を去った。ウィルソンは強い宗教的使命感を抱いてアメリカ自由主義の理想を終始追求し,彼の指導の下で,現代アメリカの体制の出発点をなした革新主義(プログレッシビズム)運動は収穫期を迎え,また合衆国の世界政治への参加は決定的となった。しかしあまりにも強い彼の理想主義と自己の正しさへの確信は,輝かしい成功とともに多くの人々の反発を招いた。彼が最後の夢をかけた国際連盟加盟が失敗に終わった一因も,ロッジとの妥協をあくまで拒んだ彼自身の態度にあった。
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ウィルソン
Allan Charles Wilson
生没年:1934-91

ニュージーランド生まれの生物学者。1972年よりカリフォルニア大学バークリー校の教授を勤めた。91年,白血病のために56歳で死去。分子生物学の手法を進化学の分野に応用したパイオニア的な研究者として知られている。1960年代,ビンセント・サリッチと共に生化学的な手法を用いて,類人猿とヒトの種間分岐が起こった年代を計算し,ヒトがゴリラやチンパンジーから分岐した年代を500万~400万年前と予測した。しかしこの値は,当時化石の証拠から信じられていた1400万年前という分岐年代とかけ離れていたので,大きな論争となった。1987年には現代人のミトコンドリアDNAの変異から,すべての人類のミトコンドリアDNAは約20万年前のアフリカの女性にたどり着くと発表した。この学説もそれまで定説だった〈多地域進化説〉を否定するものだったので,大きな衝撃を与えることになったが,その後の分子生物学の進展によって,ヒトと類人猿の分岐も,現代人の起源も概ねウィルソンの予測が正しかったことが証明されている。
→ミトコンドリア・イブ仮説
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ウィルソン
Edward Osborne Wilson
生没年:1929-

アメリカの昆虫学者,生態学者。アラバマ州に生まれ,ハーバード大学でアリの研究で博士号を取得,ハーバード大学比較動物学博物館教授になる。一貫してアリ類の行動,生態,地理的分布を研究してきたが,一般理論にも関心が深く,1967年にはマッカーサーR.H.MacArthurと共著で《島の生物地理学説The Theory of Island Biogeography》を執筆し,そのなかで有名な〈種数平衡理論〉および〈r・K淘汰(選択)説〉を提起した。さらに75年には単独で大著《社会生物学Sociobiology:The New Synthesis》を著し,現代遺伝進化学の基礎のうえに人間も含む動物社会の進化理論を打ち立てることを試みた。本書は欧米では生物学者ばかりでなく社会学者,人類学者にも強い影響を与え,ウィルソンの考えで人間社会を解明しようとする潮流も生じた。しかしこれには一部に〈人間社会にみられる差別等を合理化するもの〉との批判もある。他に《人間の本性についてOn Human Nature》《バイオフィリア》《生命の多様性》など多数の著作がある。
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ウィルソン
Angus(Frank Johnstone)Wilson
生没年:1913-91

イギリスの小説家。サセックス州のベックスヒルに生まれ,ロンドンのウェストミンスター・スクールを経てオックスフォードのマートン・カレッジで中世・近代史を専攻,1936年優等で卒業。37-55年まで大英博物館に勤務。その間,同性愛を扱った複雑な風俗小説《毒にんじんその後》(1952)でイギリス中産階級の中に潜む悪を描き文壇に登場,《アングロ・サクソン的態度》(1956),《エリオット夫人の中年》(1958),《動物園の老人》(1961),《笑いごとではない》(1967)などの優れた長編を続々発表,66年以降イースト・アングリア大学の英文学教授をつとめるかたわら,イェール,ロンドン,ケンブリッジその他の英米の諸大学で教え,《ゾラ》(1952),《ディケンズ》(1970)などの評論がある。イギリス文壇の大御所的存在で,全英図書連盟会長(1966-69)その他の役職も務めた。国際ペン・クラブ大会(1957)などで2度来日している。作風はイギリス風俗小説の正統的なものであるが,その底に不気味なほど鋭い人間観察を潜めている。
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ウィルソン
Charles Thomson Rees Wilson
生没年:1869-1959

イギリスの物理学者。1888年にケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジに入学,92年学位を得たのちキャベンディシュ研究所でJ.J.トムソンの研究生となる。1925-34年,ケンブリッジのジャクソン教授職。1894年にB.ネビスの気象観測所で見た光環などの美しい光学現象に魅せられて以来,水蒸気が水滴に凝結する問題の研究に取り組み,この実験のために人工的に霧を発生させる装置(霧箱)を作製,X線で霧箱を照射すると水滴は気体中に生じたイオンを核として凝結することを発見(1895-1900),さらに1911年には電離作用をする粒子の飛程を写真に撮影することに成功した。これによって霧箱は宇宙線,原子核の研究に広く用いられるようになり,ウィルソンはその功績により27年ノーベル物理学賞を受賞した。このほか,彼は1901年ころから帯電体からの漏電を調べ,地球外の大気中に非常に透過力の強い放射線の源泉があることを主張,宇宙線の存在を示唆した。
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ウィルソン
Edmund Wilson
生没年:1895-1972

アメリカの批評家。ジャーナリズムの第一線で健筆をふるいつづけ,F.S.フィッツジェラルドなど自国の新進作家の推輓にも主導的役割を果たした。法律家の父の周到公平な仕事ぶりを受けつぎ,読みの深さと巨視的な把握を身上として,フロイトやマルクスを援用してもつねに特定の思想を超えて対象の本質に迫る。象徴主義批判の書《アクセルの城》(1931)が逆に象徴主義,ひいては20年代文学の先駆的味解の書たりえたゆえんである。書評を主軸とする《古典と商品文学》(1950),《光の岸辺》(1952),《わが歯間の馬銜(はみ)》(1965)の3巻の文学的年代記,社会主義の起源と歴史を劇的に構成した《フィンランド駅へ》(1940)や南北戦争時代の膨大な秘録を渉猟した警世の証言集《愛国の流血》(1962)などの長編評論,《傷と弓》(1941),《ロシアへの窓》(1972)などの文学論集,そのほか小説,戯曲,旅行記,自伝的散文など,いずれも〈最後の文人〉にふさわしい文体の成熟を誇っている。
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ウィルソン
Richard Wilson
生没年:1714-82

イギリスの画家。モンゴメリーシャーのペネゴイスPenegoes生れ。1729年ロンドンに出て,肖像画家および風景画家として出発。初期には,やや通俗的で感傷性を示す肖像画や,当時イギリスで好まれていた地誌的(トポグラフィカル)な風景画を制作。50-57年ころまでイタリアに滞在し,主としてローマ郊外やカンパニア地方の田園で自然の観察を深める。帰国後は貴族から連作風景画の注文も受け,68年にはローヤル・アカデミー設立会員となる。しかし70年代に入って,図書館司書に任じられ,最晩年は画業をほとんど放棄した。風景画家としての彼は,C.ロランの影響が顕著な整った構図と,17世紀オランダの風景画を思わせる自然の写実的表現とが混然一体となった作風を示し,18世紀末~19世紀前半におけるイギリス風景画黄金時代の端緒を開いた。ラスキンは,ウィルソンによって〈自然への瞑想的な愛に根ざした真の風景画芸術の歴史が,イギリスに始まった〉と述べている。
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ウィルソン
Colin Henry Wilson
生没年:1931-

イギリスの評論家,小説家。レスターに生まれ,土地の高校ゲートウェー・スクールを卒業後,1949-50年まで空軍に勤務したのち,パリやストラスブールで職を転々とした。51-53年までロンドンで労働者の生活をしながら大英博物館で独学,ブルジョア社会における実存主義者のあり方をその内側から論じた《アウトサイダー》(1956)で一躍文壇に登場。この後《闇の中の祝祭》(1960),《ガラスの檻》(1966)など数多くの小説,スリラー,ミステリー,SFも発表しているが,彼の本領はあくまで《宗教と反抗人》(1957),《敗北の時代》(1959),《アウトサイダーを超えて》(1965)といった哲学的人生論や,《詩と神秘主義》(1970),《オカルト》(1971)といった〈宗教的〉関心を示す評論にあり,ヨーロッパ大陸のペシミスティックな実存主義に対して,生命肯定,人間意識の高揚を求める新実存主義が,その基本的な姿勢となっている。
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ウィルソン
James Wilson
生没年:1742-98

アメリカ建国期,ペンシルベニアの政治家。スコットランドのセント・アンドルーズ近在に生まれ,1765年アメリカに移住。ジョン・ディッキンソンの下で法律の訓練を受け,74年にイギリス議会のアメリカ植民地に対する権限を否定するパンフレットを著し,翌年大陸会議代議員に選出されて独立宣言に署名した。ペンシルベニアでは連邦憲法に反対する共和派に参加したが87年の連邦憲法制定会議ではマディソンと並んで憲法案の起草に尽力した。90年にペンシルベニア憲法の改正を導き,発足直後の連邦最高裁判所判事(1789-98)に任命された。フィラデルフィア大学(現,ペンシルベニア大学)教授として行った講義は,建国期の代表的な法律論となっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説

ウィルソン
Wilson, J. Tuzo

[生]1908.10.24. オタワ
[没]1993.4.15. トロント
カナダの地質学者,地球物理学者。フルネーム John Tuzo Wilson。地球規模の断層運動のパターンと大陸の地殻構造を明らかにした。特にプレートテクトニクスの研究は,大陸移動説,海洋底拡大説,マントル対流などの理論に大きな影響を与えた。スコットランド移民の父親のもとに生まれた。1930年,トロント大学トリニティ校で学士号取得,カナダの大学初の地球物理学科卒業生となった。その後ケンブリッジ大学セントジョンズ校(1932学士号),プリンストン大学(1936博士号),ケンブリッジ大学(1940文学修士号,1958科学博士号)で学んだ。1936~39年カナダ地質調査所で働き,第2次世界大戦が始まるとカナダ陸軍工兵隊に入隊,大佐まで昇進した。戦後の 1946年トロント大学地球物理学教授に就任。1974年まで務めたのち,オンタリオ科学センター所長となった。1983~86年ヨーク大学学長。1972~73年カナダ王立協会会長。1980~82年アメリカ地球物理学連合会長。1960年代初め,大陸は固定していて動かないという見解が主流となっていた時期に,大陸移動説をあらためて世界的に訴えた。それ以前の大陸移動説では,プレートは互いに近づく(収束型)か,しだいに離れていく(発散型)かのいずれかと考えられていたが,ウィルソンは 1965年,論文 "A New Class of Faults and Their Bearing on Continental Drift"において,プレート同士がすれ違う第3の動きが存在すると主張した(→トランスフォーム断層)。この理論は 1970年代のプレートテクトニクス理論の基盤の一つとなった。

ウィルソン
Wilson, Angus (Frank Johnstone)

[生]1913.8.11. サセックス,ベクスヒル
[没]1991.5.31. サフォーク
イギリスの小説家。オックスフォード大学で中世史を専攻。種々の職業を経て 1936年に大英博物館のカタログ係に就職。 46年に神経症にかかり,作業療法として短編小説を書くことをすすめられたのが文学に入るきっかけで,短編集『悪い仲間』 The Wrong Set (1949) ,『愛すべき時代おくれ』 Such Darling Dodos (50) で,第2次世界大戦後の社会的変動下にある人間の姿を鋭く観察して風刺的に描き,文名を確立した。次いで,自由主義的ヒューマニズムの作家の理想と挫折を主題とする小説『毒人蔘 (にんじん) とその後』 Hemlock and After (52) を発表。 55年からは創作に専念し本格的大作『アングロ・サクソンの姿勢』 Anglo-Saxon Attitudes (56) を完成した。その後の作品には,短編集『変り者』A Bit of Stories (57) ,小説『エリオット夫人の中年』 The Middle Age of Mrs. Eliot (58) ,『笑い事じゃない』 No Laughing Matter (67) ,『魔法のように』 As If by Magic (73) など。ゾラやディケンズに関する研究書も書いており,イーストアングリア大学の英文学客員教授をつとめたこともあり,2度来日している。伝統小説をふまえ,実験的手法も取入れた社会小説家といえる。

ウィルソン
Wilson, Kenneth Geddes

[生]1936.6.8. マサチューセッツ,ウォルサム
[没]2013.6.15. メーン,サコ
アメリカ合衆国の物理学者。1956年にハーバード大学を卒業,1961年にカリフォルニア工科大学のマレー・ゲル=マンのもとで博士号を取得。ヨーロッパ原子核研究機関 CERNに 1年在籍したのち,1963年にコーネル大学の助教授となり,1971~88年教授を務め,1988年オハイオ州立大学に移った。物質の二次相転移という変化に関する一般的な計算法の開発によって,1982年にノーベル物理学賞を受賞。コーネル大学在籍中に受賞対象となった相転移の研究に取り組んだ。物質の二次相転移は決まった温度(あるいは決まった圧力)で起こるが,一次相転移と違って,その温度(臨界点)に達した瞬間に物質全体で一斉に起こる。たとえばある種の金属は,キュリー温度(たとえば鉄では 750℃)まで熱せられると磁性が完全に消失する。ウィルソンの研究は,臨界点近くの状態一般に適用できる理論を構築するための数学的戦略を提唱したものである。

ウィルソン
Wilson, (Thomas) Woodrow

[生]1856.12.28. バージニア,ストーントン
[没]1924.2.3. ワシントンD.C.
アメリカの政治家。第 28代大統領 (在任 1913~21) 。長老派牧師の家に生れ,1879年プリンストン大学を卒業。 90年同大学の法学と財政学の教授,1902年総長。 10年ニュージャージー州知事に当選して政界に入り,革新政治で注目され,12年には民主党から大統領に当選した。「新しい自由」をスローガンに関税引下げ,銀行制度の改革,反トラスト政策の拡充など革新的政策を推進した。対外的にはカリブ海地域に対して軍事干渉を行う一方,第1次世界大戦に際しては当初中立を宣言したものの,17年4月に参戦,翌年1月「十四ヵ条平和構想」を提唱するにいたった。戦後みずからベルサイユ講和会議 (→パリ講和会議 ) に出席,国際連盟の設立を含む平和条約の締結に寄与したが,帰国後議会の反対にあい,かつ病いに倒れたため,アメリカの連盟加入を実現できずに終った。 19年ノーベル平和賞受賞。主著『議会政治論』 Congressional Government (1885) 。

ウィルソン
Wilson, Edmund

[生]1895.5.8. ニュージャージー,レッドバンク
[没]1972.6.12. ニューヨーク,タルコットビル
アメリカの批評家,小説家,詩人。 1916年プリンストン大学卒業後,ニューヨークで『イブニング・サン』紙の記者をしたのち,17~19年フランスの野戦病院,次いでアメリカ陸軍情報部に勤務。除隊後はニューヨークで『ニューヨーカー』などの雑誌に関係しながら,評論,小説,詩,戯曲を執筆。特に批評活動は,19世紀流の歴史批評からマルクス主義批評,新批評,精神分析批評などを網羅した多元的なもので,『死海の書』 The Scrolls from the Dead Sea (1955) をはじめとする学究的な分野ですぐれた成果を収め,現代アメリカを代表する批評家となった。代表作は,ジョイス,T. S.エリオット,プルーストなど 1920年代の偶像的作家たちを,19世紀「象徴主義運動」のなかでとらえ直した『アクセルの城』 Axel's Castle (31) ,精神分析を用いた『傷と弓』 The Wound and the Bow (41) ,南北戦争に関する『愛国の血潮』 Patriotic Gore (62) など。

ウィルソン
Wilson, Harold

[生]1916.3.11. ヨークシャー,ハダーズフィールド
[没]1995.5.24. ロンドン
イギリスの政治家。オックスフォード大学卒業。 1942年 W.ベバリッジに協力しベバリッジ報告作成に貢献。 1945年労働党下院議員,1947年商務大臣に任命されたが,1951年4月朝鮮動乱のための再軍備政策に反対して辞任。 1951年政権が保守党に移行したのち,「影の内閣」 (→シャドー・キャビネット ) の大蔵大臣,外務大臣。 1961~62年労働党執行委員長。 1963年1月,H.ゲイツケル労働党党首の死後,同党党首。 1964年 10月の総選挙では保守党を破り,12年ぶりに政権を労働党に取り戻し,首相に就任。 1966年3月の総選挙で再び保守党に大勝し,引き続いて首相,1970年6月の総選挙で保守党に敗れるまで約5年8ヵ月首相の地位にあった。石炭鉱業その他の国有化,完全雇用と社会保障の実現など,C.アトリー内閣の民主社会主義政策を継承した。 1974年三たび首相に返り咲いたが,1976年引退。

ウィルソン
Wilson, Edmund Beecher

[生]1856.11.19. ジュネーブ
[没]1939.3.3. ニューヨーク
アメリカの発生生物学者,細胞学者。エール,ジョンズ・ホプキンズ,ケンブリッジ,ライプチヒ各大学およびナポリ研究所で学ぶ。 1883年より,ウィリアムズ・カレッジ,マサチューセッツ工科大学,ブリンマー・カレッジなどで教鞭をとり,91年にコロンビア大学に移り,1928年まで同大学の動物学教授をつとめ,ここを生物学研究の世界的な中心地の一つに育て上げた。彼は発生の研究から出発し,それを細胞レベルで研究するようになった。主著『発生と遺伝とにおける細胞』 Cell in Development and Inheritance (1896。 1925第3版) は,発生,遺伝などの諸現象に対する細胞レベルでの説明を試みたもので,発生学,遺伝学,細胞学を結びつける役割を果してその後の生物学の発達に大きな影響を与えた。その後,染色体の行動と性の決定との間の関連性を追究し,05年より発表した一連の論文は,遺伝の染色体説確立のための基礎資料となった。

ウィルソン
Wilson, Richard

[生]1714.8.1. ベネゴーズ
[没]1782.5.15. ランベリス
イギリスの画家。1729年頃ロンドンの肖像画家トマス・ライトの弟子となり,肖像画家となる。1749~57年ベネチアおよびローマに滞在,以後風景画家に転じる。ニコラ・プーサン,サルバトール・ローザやクロード・ロランの影響を受けつつ,イギリス的な独自の画風を創造し,ジョシュア・レイノルズとともに 18世紀イギリス風景画の確立者として,半世紀後のジョーゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーやジョン・コンスタブルの出現を促した。主要作品『スノードン』(1770,リバプール,ウォーカー美術館)。作品はウェールズ国立美術館に多く収蔵されている。

ウィルソン
Wilson, August

[生]1945.4.27. ペンシルバニア,ピッツバーグ
[没]2005.10.2. ワシントン,シアトル
アメリカの劇作家。本名 Frederick August Kittel。 15歳で高校を中退後,独学で詩作を始め,1968年自身の劇団を組織して劇作にも手を染める。その後,長い下積みの期間を経て,演出家のロイド・リチャーズに見出され,1984年『マ・レイニーのブラックボトム』 Ma Rainey's Black Bottomでブロードウェーに進出,一躍注目を集めた。 1987年には次作『フェンス』 Fences (1986) でトニー賞,ピュリッツァー賞を同時に受賞し,アメリカ演劇を代表する劇作家の一人として地位を確立。その後も『ピアノ・レッスン』 The Piano Lesson (1990) で再びピュリッツァー賞を受賞し,活躍を続ける。各作品は,20世紀のアフリカ系アメリカ人の体験を 10年単位で綴る連作的な構成をもち,アフリカ系アメリカ人の口語表現を生かしたリズム感のあるせりふが特徴。

ウィルソン
Wilson, Colin

[生]1931.6.26. レスター
[没]2013.12.5. セントオーステル
イギリスの小説家,評論家。フルネーム Colin Henry Wilson。いわゆる「怒れる若者たち」の一人。靴屋の子に生まれ工業高校中退後,工場労働者など種々の職につき,ロンドンで放浪生活を送ったこともある。評論『アウトサイダー』The Outsider(1956)によって名声を得,『宗教と反抗人』Religion and the Rebel(1957),『敗北の時代』The Age of Defeat(1959),『アウトサイダーを超えて』Beyond the Outsider(1965),『オカルト』The Occult(1971)のほか,小説『暗黒のまつり』Ritual in the Dark(1960),SF『賢者の石』The Philosopher's Stone(1969)などを出した。

ウィルソン
Wilson, Robert

[生]1941.10.4. テキサス,ウェーコ
アメリカの舞台美術家,演出家。ニューヨークでデザインを学ぶかたわら,障害をもつ子供たちと演劇活動を行う。 1969年バード・ホフマン・ファンデーションというプロデュース組織を結成。同年上演した『ジクムント・フロイトの時代と生涯』 The Life and Times of Sigmund Freud,翌年の『聾者の視線』 Deafman Glanceで世界的に注目を集めた。以降,主としてヨーロッパで活動。従来の演出という概念を逸脱し,基本的に戯曲を用いず,舞台は視覚的・聴覚的イメージを中心に構成される。彼は自身の作品をオペラと呼んでいるが,近年は通常のオペラの演出や古典劇の演出も多い。代表作はほかに,『浜辺のアインシュタイン』 Einstein on the Beach (1976) ,未完の大作『ザ・シビル・ウォーズ』 The CIVIL warS (83) など。

ウィルソン
Wilson, Robert Woodrow

[生]1936.1.10. ヒューストン
アメリカの電波天文学者。ライス大学卒業 (1957) 。 1962年カリフォルニア工科大学で学位取得。ベル電話研究所入所 (63) ,無線物理研究部部長 (76) 。 A.ペンジアスとともに宇宙通信のためのアンテナ開発中の 64年5月に,宇宙空間からやってくる微弱なマイクロ波をとらえた。この電波は,宇宙の初めに大爆発があった名残りとして,現在の宇宙全体には 3Kほどのぬくもりに相当する電波が飛びかっていると仮定する「ビッグバン説」の証拠となる発見であった。これにより,ペンジアスとともに,77年にアメリカ科学アカデミーのヘンリー・ドレーパー賞,ロンドン王立天文協会のハーシェル・メダル,78年にノーベル物理学賞を受賞した。

ウィルソン
Wilson, C.T.R.

[生]1869.2.14. グレンコース
[没]1959.11.15. カーロップス
イギリスの物理学者,気象学者。フルネーム Charles Thomson Rees Wilson。マンチェスター大学,ケンブリッジ大学に学び,1925~34年ケンブリッジ大学自然学教授を務めた。雲や霧の発生とちりの関係の研究から,過飽和状態の水蒸気が放射線などで生じたイオンを核として凝縮することを発見。1911年に,その後の核物理,素粒子研究にとって不可欠となった霧箱を完成した。また空中電気の研究にも活躍し,戦時下の阻塞気球を雷から保護する装置の考案でも知られる。1927年ノーベル物理学賞受賞。

ウィルソン
Wilson, James

[生]1742.9.14. カスケード
[没]1798.8.21. ノースカロライナ,エディントン
アメリカの法律学者,政治家。スコットランドで教育を受け,1765年アメリカに移住。フィラデルフィア・カレッジでギリシア語を教える。独立運動に加わり,大陸会議代表に選ばれ,急進的な理論家であったが次第に保守的になった。第2回大陸会議で,ペンシルバニア代表として独立宣言に署名。連邦憲法起草にあたっては,主権在民の理念に基づき,大統領および上下両院議員の直接選挙を唱え,政府というものは州の集合体ではなく,ある政治的な目的のための個人の集合体であると主張した。最初の連邦最高裁判所陪席判事として,90年以後の重要な判決に関係した。

ウィルソン
Wilson, Frank Percy

[生]1889
[没]1963
イギリスの文学研究者。リーズ (1929~36) ,ロンドン (36~47) ,オックスフォード (47~57) 各大学の英文学教授。シェークスピア関係の業績が多く,『マーローと初期のシェークスピア』 Marlowe and the Early Shakespeare (53) などがある。『オックスフォード英文学史』の監修者。遺稿『イギリスの演劇,1485~1585年』 The English Drama,1485-1585 (69) がある。

ウィルソン
Wilson, Henry

[生]1812.2.16. ニューハンプシャー,ファルミングトン
[没]1875.11.22. ワシントンD.C.
アメリカの法律家,政治家。第 18代大統領 U.グラントのもとで副大統領をつとめた (1873~75) 。奴隷制廃止論者で,"Boston Republican" (48~51) を編集。著書"History of the Rise and Fall of the Slave power in America" (3巻,72~77) 。

ウィルソン
Wilson, Dover

[生]1881.7.13. ロンドン
[没]1969.1.15. バラーノー
イギリスのシェークスピア学者。ケンブリッジ大学卒業後,1924~35年ロンドンのキングス・カレッジ,1935~45年エディンバラ大学の教授を歴任。『ハムレットでなにが起こったか』What Happens in Hamlet(1959)などの研究書があるが,最も重要な業績は,創見に満ちた校訂本『新ケンブリッジ版シェークスピア全集』(1921~66)の編集,刊行である。

ウィルソン
Wilson, Charles Erwin

[生]1890.7.18. オハイオ,ミネルバ
[没]1961.9.26. ルイジアナ,ノーウッド
アメリカの実業家。ウェスチングハウス・エレクトリック社の電気技師,デルコ社社長を経て,1929年ゼネラル・モーターズ社の重役,41年同社社長。 53年 D.アイゼンハワー政権の国防長官に起用された。軍需産業界の大立者として国防総省 (ペンタゴン) と実業界との癒着を深めた。

ウィルソン
Wilson, Georges

[生]1921.10.16. シャンピーニシュルマルヌ
フランスの俳優,演出家。 1963年 J.ビラールのあとを受けて国立民衆劇場 TNPの監督に就任し,より現代的・国際的なレパートリーの拡大に尽力。しかし同劇場の観客数の減少は止められず,72年劇場が政府の手から離れリヨンに移ったのを機にフリーとなった。

ウィルソン
Wilson, Thomas

[生]1525頃
[没]1581.6.16. ロンドン
イギリスの人文主義者,政治家。 1561年以後多くの要職につく。国務大臣 (1577~80) 。主著は論理学の便覧『理性の法則』 Rule of Reason (51) と,学者の言葉としての英語の価値を実証した点で重要な『修辞法』 The Arte of Rhetorique (53) 。

ウィルソン
Wilson, John

[生]1627?
[没]1696
イギリスの劇作家。代表作はベン・ジョンソン風の写実的風刺喜劇『詐欺師』 The Cheats (1663) と『山師』 The Projectors (64) 。ほかに悲喜劇『ベルフェゴールまたは悪魔の結婚』 Belphegor,or the Marriage of the Devil (77) がある。

ウィルソン
Wilson, Benjamin

[生]1721. リーズ
[没]1788.6.6. ロンドン
イギリスの肖像画,風景画家,版画家。 1748~50年アイルランドで制作,50年ロンドンに帰り肖像画家となる。 61年ホガースの跡を継いで王室画家となり,76年に王と王妃の肖像を描いた。

ウィルソン
Wilson, Thomas

[生]1663
[没]1755
イギリス国教会の主教。ソダー・アンド・マン教区主教となって土地所有権に関する改革を行い,また著書『教会憲法』 Ecclesiastic Constitution (1704) を書いて,規律に従う厳格な信仰生活を要求した。

ウィルソン
Wilson

アメリカ合衆国,ノースカロライナ州東部の都市。地名はメキシコ戦争の指導者 L.D.ウィルソン将軍にちなむ。有名なバージニアタバコの産地で,その加工を中心として各種の工業が行われている。人口3万 6930 (1990) 。

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百科事典マイペディア 「ウィルソン」の意味・わかりやすい解説

ウィルソン

米国の政治家,政治学者,第28代大統領(1913年―1921年)。民主党。母校プリンストン大学学長(1902年―1910年),ニュージャージー州知事(1910年―1913年)を歴任後,〈新しい自由New Freedom〉を掲げて大統領となる。関税引下げ,連邦準備制度創設,独占禁止法の改定など懸案の諸改革を実現。第1次大戦に際しては,初め厳正中立政策をとっていたが,1917年参戦に踏み切った。十四ヵ条平和原則を発表するなど国際的指導力を発揮し,ベルサイユ会議の立役者となり,国際連盟の創立に尽力した。1919年ノーベル平和賞。
→関連項目第1次世界大戦|パリ平和会議|パワー・ポリティクス|民主党(米国)|民族自決

ウィルソン

米国の批評家,小説家。新聞・雑誌の記者も務めた。プリンストン大学でフィッツジェラルドと同窓,〈ロスト・ジェネレーション〉に対し理解を示すとともに明敏な批評を展開した。象徴主義文学をとおして現代文学の本質を究明した評論《アクセルの城》(1931年)は有名。そのほか《フィンランド駅へ》(1940年)《傷と弓》(1941年)など。
→関連項目マッカーシー

ウィルソン

英国の批評家,小説家。近代の文学と哲学を大胆に論じた《アウトサイダー》(1956年)で一躍世界的名声を得た。次いで《宗教と反逆者》(1957年),《敗北の時代》(1959年),《アウトサイダーを越えて》《オカルト》(1971年),小説《闇の祝祭》(1960年)など多作である。アングリー・ヤング・メンの一人。
→関連項目アウトサイダー

ウィルソン

英国の政治家。1945年以来労働党下院議員。経済問題に通じ海外貿易相,商相を歴任。1950年再軍備問題で右派と対立。1961年外相,1963年労働党党首となり,1964年―1970年,1974年―1976年首相を務めた。
→関連項目キャラハン

ウィルソン

米国の昆虫学者,社会生物学者。ハーバード大学教授。社会性昆虫の生態研究を通じて,社会生物学に到達。膨大な資料を駆使した大著《社会生物学》(1975年)でその主張を展開し,世界の思想界に大きな論争を巻き起こした。そのほか《昆虫の社会》(1971年)《人間の本性について》(1978年)《バイオフィリア》(1984年)など多数の著作がある。

ウィルソン

米国の物理学者。ハーバード大学,カリフォルニア工科大学で学び,1963年コーネル大学助教授。1971年相転移に関連した臨界現象を一般的に説明する方法を発表。1982年ノーベル物理学賞。

ウィルソン

英国の小説家。大英博物館に勤めながら短編集《悪い仲間》(1949年)を発表,以後長編《毒薬とその後》(1952年),《アングロサクソンの姿勢》(1956年)でイギリス小説の伝統を継ぐ一流作家の地位を築いた。ほかに《エリオット夫人の中年期》《動物園の老人たち》等。

ウィルソン

英国の物理学者。ケンブリッジ大学卒,1925年―1934年教授。1897年ごろから霧の発生について研究,1911年霧箱を発表。1927年ノーベル物理学賞。

ウィルソン

フランスの俳優。国立民衆劇場の舞台俳優として認められ,1950年代から映画にも出演する。アリダ・ヴァリと共演したアンリ・コルピ監督の《かくも長き不在》(1961年カンヌ国際映画祭パルムドール)で記憶喪失の浮浪者を演じた名演技で有名。

ウィルソン

米国の天文学者。1963年ベル電話研究所員。衛星通信を研究中の1965年,宇宙背景放射(3K放射)を発見,1978年ノーベル物理学賞受賞。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウィルソン」の解説

ウィルソン(ウッドロー)
Woodrow Wilson

1856~1924

アメリカの政治家,第28代大統領(在任1913~21)。プリンストン大学政治学教授,学長をへて,ニュージャージー州知事として政界入り,1912年民主党大統領候補となりニューフリーダムのスローガンを掲げて当選した。革新主義者として関税引下げ,銀行制度改革,反トラスト法制定などで活躍。対外的にはカリブ海地域に武力介入する一方,第一次世界大戦の勃発に際し中立を宣言,だが連合国側との経済的絆を強め,17年ドイツの無制限潜水艦作戦開始を機に民主主義救済の理念のもとに参戦した。ロシア革命に対抗する立場から18年国際連盟の設立を含む平和構想の原則「十四カ条」を提唱し,パリ講和会議にも出席してその実現に尽力。だが講和条約は上院の批准を得られず連盟への加盟を阻まれた。


ウィルソン(ハロルド)
Harold Willson

1916~95

イギリスの政治家。1945年下院議員となり,労働党政権下で商相などの経済閣僚を務める。再軍備問題で右派と対立したが,61年外相,63年労働党党首となり,64年総選挙に勝って首相(在任1964~70,74~76)。70年下野したあと,74年再度組閣したが,76年突然辞任した。

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最新 地学事典 「ウィルソン」の解説

ウィルソン

Wilson, J. Tuzo

1908.10.24~1993. 4.15 地球物理学者・地質学者。カナダのオタワ生まれ。ハワイ等の大洋に点在する火山活動を,深部からの高温物質の上昇と表面のプレート運動で説明する,ホットスポットの概念を提唱。続いて,海嶺と沈み込み帯の他に,プレート境界としてトランスフォーム断層を導入し,プレートテクトニクスの骨格を完成させた。さらに地球史において過去に遡れば,大陸片が合体・分離を繰り返し,衝突時に大山脈が周期的に形成されるとする,超大陸や巨大山脈の形成を説明するウィルソン・サイクルを示した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ウィルソン」の解説

ウィルソン(アメリカ)
Woodrow Wilson

1856〜1924
アメリカの第28代大統領(在任1913〜21)
プリンストン大学教授・同総長からニュージャージー州知事となり,新自由主義を唱えて民主党から当選。関税引下げ・反トラスト法・連邦準備銀行法などの諸改革に成功し,革新主義の具体化につとめた。外交政策では,パナマ運河・メキシコ問題などで国際協調主義を推進。第一次世界大戦では初め中立をとり,1917年に参戦,18年に十四か条の平和原則を発表して「勝利なき平和」を主張し,パリ講和会議の立役者となった。国際連盟の設立に努力したが,孤立主義政策をとる上院の共和党が反対して国際連盟への加入を否決され,失意のうちに死去した。

ウィルソン(イギリス)
James Harold Wilson

1916〜95
イギリスの政治家
マンチェスターの薬局に生まれ,オクスフォード大学を卒業。1945年に労働党より立候補して下院議員に当選。1963年党首となり,64年首相に就任。ポンド危機・ヨーロッパ共同体(EC)加盟問題で不人気となるなか,1968年スエズ以東からのイギリスの撤兵を宣言。なお,このころから北アイルランド紛争が激化しはじめ,1970年保守党ヒース内閣に交代。1974年の総選挙で再度首相に就任し,EC残留の国民的信任を得て,難局に当たった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ウィルソン」の解説

ウィルソン Wilson, Horace E.

1843-1927 アメリカの教師。
1843年2月10日生まれ。明治4年(1871)来日。大学南校,東京開成学校,東京大学で英語や数学をおしえる。5年日本にはじめて野球をつたえたという。10年帰国。2003年(平成15)新世紀特別表彰で野球殿堂入りとなる。1927年3月4日死去。84歳。メーン州出身。

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デジタル大辞泉プラス 「ウィルソン」の解説

ウィルソン

1944年製作のアメリカ映画。原題《Wilson》。第28代合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンの伝記映画。監督:ヘンリー・キング、出演:アレクサンダー・ノックス、チャールズ・コバーン、ジェラルディン・フィッツジェラルドほか。第17回米国アカデミー賞作品賞ノミネート。同脚本賞、室内装置賞(カラー)、撮影賞(同)、編集賞、録音賞受賞。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ウィルソン」の解説

ウィルソン
Woodrow Wilson

1856〜1924
アメリカ第28代大統領(在職1913〜21)
第一次世界大戦の終盤に14カ条を発表して戦争処理の理念と方法を提唱。国際連盟の設立に貢献したが,提唱国のアメリカは上院議会の反対で連盟に参加せず,失意のうちに死んだ。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ウィルソン」の解説

ウィルソン

生年月日:1786年9月26日
イギリスの東洋学者,インド学者
1860年没

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世界大百科事典(旧版)内のウィルソンの言及

【社会生物学】より

…アメリカの動物学者E.O.ウィルソンが1971年に提唱し,75年に同名の著書で展開した学問体系のこと。従来,別個に進められてきた個体群生態学,集団遺伝学,動物行動学(エソロジー),動物社会の比較研究の成果を統合して,各種の生物がなぜ異なる社会関係(同種個体間の関係)を示すのかという問題を解明し,人間も含む動物社会進化の統一理論を打ち立てようとしたもの。…

【生物群集】より

…太平洋の熱帯付近の島々を例にとって,そこにすむ鳥の種数をまとめてみると,概して面積の大きい島には小さい島よりも多くの種がすみ,また同時に大陸から近い島には遠い島に比べて種数の多い傾向がみられる。マッカーサーR.H.MacArthur(1930‐72)とE.O.ウィルソンは,移入定着率は島の大きさには関係せず,大陸に近ければ高くなり,消滅率は大陸からの距離には無関係に,小さい島ほど大きくなり,またこの二つは共に,その島にすでにすんでいる種の数に関係すると考えた。そしてこの二つの率が一致する点が実際の種数になるとしたのである。…

【アメリカ合衆国】より

…ひとたび大きな戦争が起こり,ヨーロッパの勢力関係に重大な変化が生じる可能性がでてくれば,アメリカは大西洋に隔てられているとはいえ,戦争のなりゆきに無関心ではいられなくなる。第1次大戦に際して,ウィルソンは中立の大国の指導者として交戦国に働きかけ,望ましい形で平和を回復することを試みたが,ドイツが無制限潜水艦戦を開始し,英仏に向かうアメリカ船も攻撃を受けるに及んで,参戦を決意し,国民の大多数もそれを支持した。彼はアメリカの戦争目的について,たんにドイツを破ることではなく,旧来の国際秩序を改革することであると考え,民主的政治体制の奨励,各国民の自決権の尊重,開放的国際経済体制の形成,紛争の平和的解決のための国際組織の結成などを骨子とする新しい国際秩序の構想を表明し,このような国際秩序をつくり維持するためにアメリカが指導的な役割を果たさねばならないという思想,すなわち国際主義を国民に鼓吹した。…

【イギリス】より

…〈イギリス病〉を克服し,インフレと失業を退治する特効薬として,イギリス人の北海油田の開発によせる期待は大きい。【荒井 政治】
[イギリス病,ポンド衰退,高インフレ--1960年代から70年代]
 1964年に政権に復帰した労働党ウィルソン政権は長期的計画に基づく産業の近代化による成長促進,所得政策によるインフレ抑制をめざすが,成果はなく,労使関係の改革にも失敗した。国際収支危機に直面してデフレ政策を取るが,67年にポンド切下げに追い込まれた。…

【委任統治】より

…南アフリカのスマッツ将軍は,ロシア,トルコなどに属した地域は国際連盟自身または連盟が委任する国家によって統治されるべきであると主張した。アメリカのウィルソン大統領は,適用範囲について,ロシアを除き,ドイツの植民地を加えて,スマッツに同調した。日本,イギリス,フランスなどは,アメリカ参戦前にドイツ植民地を占領したうえ,領土権の分配をも互いに約束していたが,同盟国のこのような動きを阻止したいウィルソンにとって,委任統治は好都合な方法であった。…

【議会委員会制】より

…
【アメリカ】
 委員会中心主義の典型はアメリカ合衆国である。《議会政治Congressional Government》(1885)を書いたW.ウィルソンはすでに,委員会を〈小立法部〉とよび,下院の指導者は議長ではなく,おもな常任委員会の委員長たちであり,しかも彼らは内閣のような協同体を構成しないから,指導部の多頭性によって下院の組織はきわめて複雑さを呈する,と述べている。アメリカ合衆国の統治構造においては,権力分立を強調する見地から,行政部は立法の勧告や資料の提出をすることができるだけで,法律の発案権が議員だけに属するしくみになっており,きわめて多数で多岐にわたる法案が議会に提出されるために,それらを整理し審議する必要上,委員会制度が発達した,という事情がある。…

【行政学】より

…これらの制度改革はいずれもアメリカン・デモクラシーに修正を加え,民主制と官僚制,あるいは民主性と能率性とを接ぎ木しようとするものであったといえる。 このような制度改革に政治学の分野から理論的根拠を与えようとしたのが,W.ウィルソン,F.グッドナウなどであった。彼らは,政治の領域と行政の領域を区別し,現代国家における行政の重要性を強調した。…

【孤立主義】より

…ただし孤立主義の時代にも,ラテン・アメリカに対するアメリカ外交は積極的であったし,東アジアの国際政治にもある程度関与するようになっていた。第1次大戦に際して,アメリカはヨーロッパの戦争に加わり,戦争終結と講和とに重要な役割を果たしたが,孤立主義を恒久的に放棄しようとしたウィルソン大統領の政策は,結局議会の承認を得られず,アメリカは国際連盟に参加しなかった。1930年代の国際政治の混乱はアメリカ人の孤立主義の感情を強め,それは35年以降,一連の中立法に具体化された。…

【山東問題】より

…大戦勃発の当初は,日本も中国も局外中立を宣言していたが,ドイツ権益奪取をもくろむ日本の大隈内閣(外相加藤高明)は,イギリス,フランス,ロシアからの協力要請に乗じて,まもなく対独参戦にふみきった。中国の袁世凱政府は,中立維持のため対米接近を試みたが,ウィルソン政府が積極的な姿勢を示さなかったので,日本の圧力の前に,中立除外区域を設定せざるをえなかった。青島のドイツ軍攻撃を名目に山東半島に上陸した日本軍は,中国との約束を破って中立除外区域外にまで進軍し,ついに山東鉄道沿線一帯を軍事占領するとともに,現地住民を虐待した。…

【プログレッシビズム】より

…次のタフト大統領(在職1909‐13)は革新政治家としての個性は比較的弱いが,その在任中には,19世紀後半以来改革運動の懸案であった連邦所得税と上院議員の直接選挙を定めた憲法第16,17修正(ともに1913発効)が成立している。個人の機会保持と自由競争に重点を置く〈ニューフリーダム〉の構想を掲げて登場したウィルソン大統領(在職1913‐21)は,熱心に不正な企業活動を取り締まり,関税を引き下げ,銀行通貨制度の根本的な改革を行い,農民に低利の長期信用を与え,労働条件を改善するための連邦法をつぎつぎに世に送り出した。婦人参政権の憲法第19修正案も1920年に発効成立した。…

※「ウィルソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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