大沢村(読み)おおさわむら

日本歴史地名大系 「大沢村」の解説

大沢村
おおさわむら

[現在地名]真室川町大沢

した村の北東にあたり、真室川支流大沢川、および同川支流の小又こまた川・小国おぐに川の谷間に散在する蟻喰ありばみ以上沢いじようさわ野崎のざき砂子沢いさござわ巣子すご田郎たろう(太郎)小川内こがわうち(小河内)・小又・広倉ひろくらなどの集落に分れ、西方の西郡にしこおり地区はまがり川支流西郡川の流域に集落が点在する。大沢川沿いに青沢あおさわ越が通り、庄内方面と結ばれ、また現秋田県由利ゆり矢島やしま町方面との交流も盛んであったといわれる。一方で、周囲を山に囲まれた隔絶した地域で、平家落人集落との伝承があり、「新庄寿永軒見聞集」に森林資源の豊富な山として大沢山があげられるように古くから林業も盛んであった。縄文時代の集落跡である上野うえの大向おおむかい古屋敷ふるやしき・巣子・小川内などの遺跡がある。

戦国期、当地を含む鮭延さけのべ郷は出羽仙北せんぼくの小野寺氏、庄内の武藤氏や最上氏の抗争の地となり、「新庄古老覚書」によれば永禄六年(一五六三)岩鼻いわばな(現戸沢村)にあった小野寺氏家臣の鮭延氏は武藤氏の攻撃を受け、それまで庄内領であった当地と京塚きようづか(現鮭川村)以南の鮭延氏領を交換したとされる。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]今市市大沢町

北東に高知たかち(三九八・二メートル)があり、西方を赤堀あかほり川、その東を支流やなぎ川が南東へ流れる。河内かわち郡に属し、北は薄井沢うすいざわ村。両川の間を南東から北西へ走る日光街道の宿で、集落は街道沿いにある。南方口で猪倉いのくら村からの道、木和田島きわだしま村からの道、北の根室ねむろ村からの道が合し、北方口で御老中ごろうじゆ街道が北へ分れる。日光山往古社領六十六郷に大沢郷がみえ、光樹院領(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に「日光山大沢」の「瀧蔵寺」がみえる。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、田三〇石余・畑一一四石余。日光領への編入は寛永二一年(一六四四)と考えられる。毎年四月門主の日光在山中は毎日独活五把、一二月から一月の在山中は毎日芹一〇把を納めた(日光山森羅録)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]塩沢町大沢

大窪おおくぼ村の北。西は山地で、三国街道を分岐する大沢峠越の道が、湯の入ゆのいりを経て伊達だて(現十日町市)へ通じる。北は樺野沢かばのさわ村、東は田中たなか村。枝村に大沢新田、支集落に宮在家みやざいけ大谷内おおやちがある。年不詳の上葺萱注文(雲洞庵文書)雲洞うんとう庵へ上葺萱を供出する地に「二千五百把 大沢郷」とある。字村の内むらのうちから樺野沢へ通じる古道沿いに御屋敷おやしきの地字が残る。字宮島屋敷みやじまやしきは文禄三年定納員数目録にみえ、御館の乱後に栃尾在番、のち新発田しばた在番となった宮島三河守や春日山御留守居衆の宮島与八郎とかかわりがある。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]佐久市大字大沢

南・西・北の三方は前山まえやま村の地籍で、東南は臼田うすだ(現南佐久郡臼田町)、東は本新町ほんしんまち村である。蓼科たてしな山の裾野が長く北東に延びる。この裾野が東に傾斜して佐久平に及ぶ沢の一つに集落が展開する。川はこの沢を伝わって東に向かい、村の中央を貫流して片貝かたかい川に入る。居川の沢沿いに本郷ほんごう大地堂おおじどう・大沢新田の集落があり、本郷の北西と東斜面の山裾に、地家じけの集落がある。

嘉暦四年(一三二九)の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「御射山左頭、佐久郡伴野庄大沢・鷹野郷」と記される。建武二年(一三三五)伴野庄年貢注文案(大徳寺文書)に「大沢村 二百五十貫文」とあり、この頃伴野ともの庄の一郷村として成立していたことがわかる。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]岸和田市大沢町

泉郡に属し、内畑うちはた村の南、牛滝うしたき川上流域に位置する。牛滝川は支流東風谷こちたに川・原谷はらだに川・しがたに川を次々に合せて村内を北流し、牛滝街道が牛滝川本流に沿って走る。近世初頭の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「大沢壱円」として、との原・てこひ村・牛滝・山口村などが列挙される。

村内には一山両流(天台・真言宗)の古刹牛滝山大威徳だいいとく寺があり、真言宗本坊方六軒・天台宗穀屋坊方五軒の門前在家が門前町を構成したという(泉州記)。この門前町は牛滝村と通称されたが、大威徳寺朱印高二石余以外の同村分の高は大沢村の村高に含まれていた。その村高は正保二年(一六四五)は六五八石余で、うち一三二石余は日損所(「和泉国村高帳」鬼洞文庫蔵)。ちなみに天和元―三年(一六八一―八三)の免状(田中家文書)では六五八石余のうち二五五石余は永荒・川成。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]山田町大沢

山田湾の北岸下山田村の東に位置する。集落の北方に当地の土豪大沢氏の館跡がある。大沢与右衛門の譜(参考諸家系図)には「信直公旧地ニ依テ大沢村ニ二百石ヲ賜フ」とあるが、慶長元年(一五九六)九月一五日の南部信直知行宛行状(宝翰類聚)によれば船越助五郎は当地に一八〇石の知行地を受けている。しかしまもなく没収され、全村蔵入地となる。正保国絵図に村名がみえ、高九六石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二三四石余、七ヵ年平均の免二ツ四分三毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方一一五石余・畑方五一石余。天保八年(一八三七)の惣高書上帳(郷土史叢)によれば高一七九石余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]烏山町大沢

横枕よこまくら村・大木須おおぎす村の北、那珂川左岸にあって、集落は同川の支流で西流する大沢川の谷地に位置。北は富山とみやま(現馬頭町)、東は常陸国鷲子とりのこ(現茨城県那珂郡美和村)、西は興野きようの村など。那珂川縁には河岸が置かれ、村内を烏山城下から常陸国へ向かう街道が東西に通る。同街道は西方対岸宮原みやばら村から那珂川を渡河して当村に入るが、両村を結ぶ渡船があった。文明四年(一四七二)四月二八日の那須資持充行状(平沼伊兵衛氏所蔵文書)で「那須之内興野・大沢」の両村が興野備中に与えられた。古くは興野村の枝郷であったという(元禄一五年「興野村明細帳」石塚二郎文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]益子町大沢

東部丘陵地から西部の低地に向かって船橋ふなばし川と大羽おおば川が流れる。東はいい(現茂木町)、北はなか村。宇都宮と常陸国笠間かさま(現茨城県笠間市)を結ぶ街道が東西に走る。慶長九年(一六〇四)伊奈忠次から円通えんつう寺に宛てた寺領証文(円通寺文書)に「大沢」とみえる。慶長一九年から寛文一一年(一六七一)まで常陸麻生藩領。慶安郷帳では田八五一石余・畑二四三石余。ほかに円通寺領と薬師免各六〇石がある。寛文一一年から幕府領となり、延宝八年(一六八〇)から幕府領と旗本内藤領の二給、天和三年(一六八三)から旗本曲直瀬・梶川を加え四給、元禄四年(一六九一)内藤領が上知され三給、同一〇年旗本土屋・榊原・本多を加え六給となる。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]松前郡松前町字大沢

近世から明治二年(一八六九)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」によれば文亀二年(一五〇二)大沢に永善坊(のちの寿養寺)が建立されたといい、「松前家記」には永正一四年(一五一七)「大沢ノ寿養寺ヲ大館ニ遷ス」とあることから、一六世紀の初めにはある程度の集落の存在が考えられる。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和三年(一六一七)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永一六年(一六三九)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

大沢村
おおざわむら

[現在地名]輪島市大沢町

赤崎あかさき村の西、日本海に面した海岸と後背山地に立地。主集落は大沢湊にあり、地内中央を大沢川が北流する。中世志津良しつら庄の内。近世、下大沢村ともいう。天正一〇年(一五八二)七月二一日付の前年分の大沢村年貢算用状(加越能文庫)では定納高一六〇貫八一〇文(米五三六俵一升)、うち三二二俵余は蔵入、七俵余は豆納、一〇〇俵は金子一枚納、未進分一〇六俵余。同一二年分の算用状(同文庫)によれば田一八町余(うち荒一町八反余)・畠一七町八反余(うち荒六町三反余)、扶持高五反(内記分)、残高二七町四反余で米八二二俵余、損免(百姓取分)三ツで定納分五七五俵余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]米沢市大沢

大小屋おおごや村の南東、大部分は吾妻あづま山系の山地で、羽黒はぐろ川上流の河岸段丘上におもな集落がある。板谷いたや街道の街村で、宿駅が置かれた。幕府に提出された郷帳では近世末まで山上やまかみ村に含まれている。寛文元年(一六六一)の人数改帳(市立米沢図書館蔵)では山上村のうち「大沢」とみえ、人数二六五。元禄一五年(一七〇二)の米沢領変地帳(同館蔵)では山上村の枝村として村名が載り、元文四年(一七三九)の「山林台帳」によると五ヵ所の柴林・松林があった。上杉領村目録には山上村の四ヵ枝村の一として記載され、村高二二六石余、本免一ツ三歩八厘余、反別田一二町八反余・畑八町一反余(文化元年改)、家数四二・人数二二一、馬一七・牛五、蚕利三両三分、高夫頭懸籾二二六俵余・麦一八俵余・利籾一三俵余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]滝沢村大沢

諸葛もろくず川と雫石しずくいし川の合流点北西に位置し、東は下栗谷川しもくりやがわ(現盛岡市)、西と南は篠木しのぎ村、北は鵜飼うかい村。正保国絵図に村名がみえ、高一八四石余。「雑書」寛文八年(一六六八)一〇月四日条によれば、当村ほか四ヵ村に「御馬買衆近日下着被成候ニ付而、道普請御百姓手透無之ニ付、御馬買御下着以後ニ可被仰付」とある。延宝二年(一六七四)六月二二日条では、当村を灌漑する越前えちぜん堰に、簗・鮒などを禁止する制札が立てられている。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に蔵入高六二五石余とあり、七ヵ年平均の免は四ツ五分三毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方一千九五石余・畑方一〇二石余で、当村へ土淵つちぶち(現盛岡市)が入るとある。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]弘前市大沢

堂ヶ平どうがたい山北麓にあり、東は石川いしかわ村、西は松木平まつきたい村、北は堀越ほりこし村に接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「大沢」とあり、寛永一七年(一六四〇)一一月二日の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状(国立史料館蔵)に村名がある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀ひらか郡に村名があり、村高四〇九・二石、うち田方は三六二・一二石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高は変わらない。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高八八五・八九九石、うち田方七二二・二三九石、畑方一六三・六六石。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]横手市大沢

真昼まひる山地の西麓に位置し、東は山内さんない(現平鹿郡山内村)、西は横手前郷よこてまえごう村に接する。村内を横手川が貫流し、それとほぼ平行して横手から小松川こまつがわ(現平鹿郡山内村小松川)を経て南部領越中畠えつちゆうはた(現岩手県和賀郡湯田町)に通じる小松川街道が通る。

岩瀬御台様御事覚書(学法寺蔵)に「岩瀬御台様は佐竹右京大夫義宣の御台にて御座候処、依御不縁横手御城へ被替、須田美濃守被付置、横手大沢村にて二百石の御知行被附置」とある。

大沢村
おおざわむら

[現在地名]篠山市大沢

味間あじま村の南東に位置し、西部に禄庄ろくしよう山・佐幾さぎ山がある。平安末期から大沢庄などとみえ、これを継承した大沢村は広域であったが、寛永一一年(一六三四)頃にしん町・中野なかの村・坂戸さかど村、小畑おばた(大沢新村)などが分立したという(「大沢村々由緒書」杉本家文書)。さらに元禄八年(一六九五)すぎ村が分れたとされる。うち坂戸村は寛延元年(一七四八)に大沢村と改称して古名を継ぐが、その後も大沢村は広域通称としても用いられることがあって混用された。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]田尻町大沢

篦岳ののだけ丘陵が南西に枝状に張出した麓と江合えあい・田尻・百々どうどう川などが形成した自然堤防上・低湿地に立地。東に加護坊かごぼう山があり、北は小塩おしお村、南は北小牛田きたこごた村、上郡かみごおり(現涌谷町)涌谷わくや(現涌谷町)、田尻、中埣なかぞね(現小牛田町)への道が通る。寛永一七年(一六四〇)の検地帳(宮城県図書館蔵)では田三七貫九六七文、反別三〇町七反余、うち上々田二町五反余・上田四町八反余・中田八町六反余・下田一一町二反余・下々田三町五反余、畑四貫七七三文、反別一一町二反余、うち上々畑一町二反余・上畑二町六反余・中畑三町六反余・下畑三町四反余・下々畑二反余で、名請人四四、亘理左馬介家中が多い。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]三鷹市大沢一―六丁目・野崎のざき三―四丁目

野崎村の西に位置し、北は下小金井村(現小金井市)、西は上石原かみいしわら(現調布市)。南西部が低く川が流れる。野川沿いに水田が開かれていた。田園簿に村名がみえ、田八七石余・畑一六九石余、幕府領。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(箕輪家文書)では高三二三石余、反別は田一四町五反余・畑六二町九反余、藪・萱野など三二町余、屋敷数五二。「風土記稿」によると江戸日本橋から行程六里余。家数九五。農間に男は薪を採り江戸で販売した。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]山北町大沢

明神みようじん川支流の最奥にある山間の村。南の蒲萄ぶどう(現朝日村)から蒲萄峠を経て出羽街道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分大沢村 中」とみえ、本納四四石七斗三升・縄高九四石三斗九合三勺、家四軒、「ふだうか谷ヨリ十五里」とある。正保国絵図では高一四〇石余。正徳二年(一七一二)の黒川俣組十一ケ村明細帳(板垣家文書)によれば田高一〇四石七斗余・畑屋敷六石四斗余、家数一三、馬七・牛二。農間には宿場勤めをする。

大沢村
おおさわむら

大正一二年(一九二三)から昭和二九年(一九五四)まで存続した村。現松前町の南東部に位置し、成立当時西は福山町、南は日本海。大正一二年四月一日上及部かみおよべ村・大沢村・荒谷あらや村・炭焼沢すみやきざわ村が合併し、二級町村として発足、四大字を編成した。村役場は大字大沢に置かれた。発足時の戸数・人口は三二二戸・二千一六人。昭和八年の世帯数三七七、うち水産業三〇一・農業三六で、その他四〇であった。総生産額三六万九千円余のうち水産業が八四パーセント強で、農業・林業の順であった。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]雄物川町大沢

北流する雄物川西岸、由利郡に延びる街道沿いに位置し、きたノ沢・駒場こまば沢・くろ沢・小沢おざわ沢・うちノ沢などの沢がある。江戸期は雄勝おがち郡に属す。集落北側の沢にある金峰山上法じようぼう寺一帯は中世以来の山伏修験場。由利と平鹿を結ぶ要衝ですえ館跡に隣接することから中世以来の集落である。「秋田風土記」の「古城在、城主不詳」とは末館をいう。

大沢村
おおざわむら

[現在地名]湖東町大沢

平松ひらまつ村・下里しもざと村の南、南菩提寺みなみぼだいじ村の南東、北花沢きたはなざわ村の北西にあり、北花沢村・南菩提寺村・下里村の荒地を、元和二年(一六一六)頃から南菩提寺村の太田庄左衛門が開発した。そのため南菩提寺村・北花沢村・下里村の枝郷とされ、貞享二年(一六八五)の大沢村新検地帳(杉村文書)によれば、南菩提寺村より一四町余、北花沢村より一七町一反余、下里村より三町八反余が渡され、高三〇〇石余とある。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]大子町大沢、那珂郡山方やまがた久隆くりゆうの一部

久慈川上流部西の支谷大沢川中流域にあり、東は頃藤ころふじ村。「新編常陸国誌」に「モト大子村ト同地ナリシト云フ、中世源氏長倉氏ノ族、ココニ居リ、大沢氏トナル」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大沢村」とみえ、同一五年の御代官郷高帳(「田制考証」所収)の村々高寄新家惣右衛門分によると全域が蔵入地であったが、同二一年の御知行割郷帳によると佐野兵左衛門の給地となり、大半が畠地で田は三石余であった。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]下田市大沢

蓮台寺れんだいじ村の西、東流して稲生沢いのうざわ川に注ぐ蓮台寺川の上流に位置する。北条氏所領役帳に伊豆衆のうちに役高一二貫五八四文「大沢小針」とみえ、当地に小針氏がおり、大普請の時は半役を負担している。永禄一三年(一五七〇)四月九日、北条氏康は大沢郷に移っていた西浦重須にしうらおもす(現沼津市)の百姓を、伊東政世に命じて重須に帰住させた(「北条氏康朱印状」土屋文書)。元亀四年(一五七三)三月一七日、北条氏は休徹斎に元のとおり大沢の陣夫を使用することを認めた(「北条家朱印状写」記録御用所本古文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]能生町大沢

ほこヶ岳(一三一六・三メートル)から発する島道しまみち川が能生川と合流する地点に立地。能生谷ではいちばん大きな沢となっている。鶉石うずらいしから島道へ通じる道筋にあたる。また鉾ヶ岳下の吹原ふきはら峠を経て早川はやかわ谷の音坂おとざか(現糸魚川市)へ至る山道の出発点でもある。この山道は、古代北陸道の脇道とも推定されるが、戦国期は春日山かすがやま(現上越市)と越中口の出城とを結ぶ軍用道路とされ、はちみね往来などと記される。大沢には門前もんぜんの地名が残る。里伝には円満寺・東晃寺の真言宗寺院があったと伝えるので、その門前集落であったろう。早明はやあけの字名があり、土地では「はいやけ」とよび、口碑によれば柱道はしらみちの利根川太郎左近家が、分家を出していちばん早くこの地を開いたので、早明となったとする。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]八王子市加住町かすみまち

丹木たんぎ村の西にあり、北方に高月たかつき村がある。慶長七年(一六〇二)の多西之郡大沢村検地帳(大沢家文書)、寛文七年(一六六七)の検地帳(同文書)が残る。田園簿では田九石余・畑六石余で幕府領。元禄二年(一六八九)の田畑小物成村差出帳(大沢家文書)では家数一四・人数五四、拝島はいじま領として高三六石余、田二町八反余・分米一四石余、畑屋敷六町三反余・分米二一石余。畑作は大麦・小麦・粟・稗など、稲作は摘田で、稲の品種は「きもつはひろ」、用水は湧水で、溜井二ヵ所は埋まり、百姓人数少なく、捨て置くと記される。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では高家前田領一八石余・旗本川村領一八石余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]茂原市大沢

上太田かみおおだ村の北西に位置し、丘陵に囲まれる。山辺やまべ郡に所属。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に大沢村とみえ、高二〇三石。慶長一六年(一六一一)八月の検地帳(大沢区有文書)に「御縄打水帳大沢之郷」とあり、高二三四石余、反別は上田八町四反余(石盛一三)・中田二町六反余(石盛一〇)・下田九町三反余(石盛六)、上畑二町一反余(石盛八)・中畑一町七反余(石盛五)・下畑一町四反余、屋敷四反余、分米は計二三四石余。寛永一〇年(一六三三)以来旗本三淵氏が二〇〇石を支配したと考えられ(「寛政重修諸家譜」など)、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二〇〇石、旗本三淵領、家数四三。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]藤里町大沢

藤琴ふじこと川の東岸にあり、北は藤琴村、西は矢坂やさか村、南は荷上場にあげば(現二ッ井町)に接する。藤琴川の支流大沢川の流路に沿って幾つかの集落が発達した。村の大部分が山地。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「四百拾八石八斗七升 こかけ村 大沢村 ぬかの村」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には大沢新田村とあり、天保郷帳にも「古者大沢新田村」とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には支郷として一之又いちのまた村・弐た又ふたまた村が記される。

幕末期の「六郡郷村誌略」によると、当村は高四一一石三斗九升、免五ツ五歩。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]八王子市南大沢みなみおおさわ

大栗おおくり川の支流大田おおた川のほぼ全流域を占める。北は上柚木かみゆぎ村。相州津久井つくい(現神奈川県津久井町)から江戸に至る往還が村内を通る。大田川の谷は大栗川に注ぐ辺りでは東西から尾根が迫り、上流部では扇形に開き、多くの谷戸を抱えている。田園簿に村名がみえ、田五七石余・畑三七石余で幕府領。寛文四年(一六六四)・貞享元年(一六八四)当時も幕府領(「日野町助人馬村々手形」佐藤家文書)。元禄郷帳では高三八二石余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]柏崎市大沢

東は大沢峠越で山野田やまのた(現刈羽郡小国町)、西は鯖石さばいし川を挟んで石曾根いしぞね小清水こしみず、北は山室やまむろ村、南は岡田おかだ(現刈羽郡高柳町)。柏崎と岡野町おかのまち(現高柳町)を結ぶ道とこの道より分岐する大沢峠越の道がある。大沢峠越あるいは南のえのき峠越は、文明一八年(一四八六)道興准后が「廻国雑記」に記した山室と三桶みおけ(現小国町)間の古道と考えられる。近世中期以降、この道は関東への近道として見直され、赤谷あかたにを経て千手せんじゆ(以上現中魚沼郡川西町)へ至った。

大沢村
おおざわむら

現輪島市大沢町・上大沢町・西二又にしふたまた町・上山かみやま町一帯に比定される中世村。志津良しつら庄の内。

永和五年(一三七九)正月一一日の弥郡時具譲状案(弥郡文書)に「しつらのしやう大さわむら」とみえ、時具は当村の地頭職五分の二を弥郡丹内左衛門の息若正丸を養子として譲渡し、康暦元年(一三七九)能登守護吉見氏頼から安堵されている(同年四月一三日「吉見氏頼書下案」同文書)。永徳元年(一三八一)七月一二日当村地頭職五分の二のうち「ふたまたのみやう」と「たしろ」「かきうち」が時具の女房に譲られた(「弥郡時具譲状」同文書)。同二年二月一八日、弥郡時氏が知行する村内黒杉くろすぎ分の文書を紛失したため、時氏の私的文書をその代りにすることにし、志津浦時長ら弥郡一族とみられる三名がこれを確認している(「志津浦時長等連署置文案」同文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]静岡市大沢

西河内にしごうち川上流、同川に合流する玉川大沢たまがわおおさわ川流域に位置し、南は横沢よこざわ村。北西のおお(一一〇八・七メートル)からッ峰(一三五〇メートル)を越えると井川いかわ郷に至る。永禄六年(一五六三)五月二六日に今川氏真が朝倉六郎右衛門尉に与えた安部西河内あべにしごうちの諸村の棟別銭を免除する判物(写、判物証文写)に一三ヵ所の一つとして「大沢」が含まれている。広域地名としての安部山あべやまに属すると思われる。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]湯之谷村大沢

佐梨さなし川中流の右岸にある。西は吉田よしだ村、南は佐梨川を挟んで干溝ひみぞ(現小出町)の山、東は葎沢むぐらざわ村、北は羽根はね川を挟んで池平いけだいら(現広神村)。正保国絵図に村名がみえ、高一六九石余。天和三年郷帳では高一七六石余、ほかに同所新田六四石一斗余がある。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では家数五一、男一四七・女九七。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]松前郡松前町字大沢

明治二年(一八六九)江戸時代から続く大沢村が根森ねもり村を合併して成立。大正一二年(一九二三)まで存続した。松前湾に注ぐ大沢川流域に位置し、南は同湾。明治二年の合併前の戸数五八・人数三四三(松前町史)。以降もしばらくは戸口集計などの数値が別々に出されており、「渡島国地誌提要」では大沢村七六戸(士族三・平民七三)・三四三人(士族男五・同女九、平民男一六五・同女一六三、僧一)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]島本町大沢おおざわ

尺代しやくだい村の北方にある山村で、水無瀬みなせ川の最上流部にあたる。集落は狭小な谷間にある。長寛二年(一一六四)八月一五日の神峯山寺秘密縁起(神峯山寺文書)に「当山寺領所之事」として「大沢村之納五十斛」とみえる。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図によると高八六石余、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では高九九石余。江戸時代を通じ高槻藩領。寛永年間、入会山の境界をめぐって当村および尺代村と川久保かわくぼほか一七ヵ村(現高槻市)との間で紛争が起こった。同一七年、小堀政一ら幕府代官の裁決により解決したが、その時当村村山はからすヵ岳・狸か迫の尾・まる山の尾・よこ谷圦石尾の白石・高塚たかつか山頂の北西部となった(近藤家文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]東白川村五加ごか 大沢

白川下流域右岸に開けた山村で、東は宮代みやしろ村、西は中屋なかや(現白川町)。承久の乱の戦功により大沢左衛門尉重道は承久三年(一二二一)加茂郡大沢郷を賜ったと伝える(美濃国諸家系図)。天正一七年(一五八九)と慶長一五年(一六一〇)に検地が行われた。慶長郷帳では高六六石余。正保郷帳では田方三三石余・畑方三二石余。正保四年(一六四七)の定納帳(立教大学史学研究室蔵)には高九四石余とあり、定納高は山年貢ともに四一石余であった。宝永二年(一七〇五)相地改では本家一二・脇家一六(交告文書)、明治四年(一八七一)末の家数三二・人数一九三(同文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]吉井町大沢

東谷ひがしや村の東、東は多比良たいら村、南は上日野かみひの村・下日野村(現藤岡市)と接し、南部は大沢山と称する標高三〇〇―七〇〇メートルの山地、北部はじよう(八束山、四五三メートル)を負い、その間を南東部から流出する大沢川が西流する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高七七石余はすべて畑方。文政年間(一八一八―三〇)の家数二六・人数一〇一、馬三、農間稼は炭焼、女は養蚕をなし絹太織類を織った(「組合村々明細帳」群馬大学蔵)。明治一〇年(一八七七)頃の家数二五・人数一一六、牡馬一二。繭二八石余、絹五〇疋などを産し、農桑を業とする者二四戸、養蚕を業とする女二九人(郡村誌)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]修善寺町大沢

山田やまだ川上流域に開けた谷間の村で、東は堀切ほりきり村、北は重須おもす(現沼津市)。江戸時代は君沢くんたく郡に属する。もと堀切村と一村であったのが寛永二一年(一六四四)分郷したとされる(増訂豆州志稿)。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によると高一二四石、元禄初年高帳では新田高五石余。元禄郷帳では熊坂くまさか村枝郷として高一三六石余。初め幕府領、延享三年(一七四六)から天明二年(一七八二)まで陸奥棚倉藩領。文化四年(一八〇七)段階は旗本津田領で、同領として幕末まで続いた(韮山町史)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]会津坂下町坂本さかもと

只見ただみ川右岸段丘上にあり、北東の気多宮けたのみや村から沼田街道七折ななおり坂の急坂を下った所にある。北は和泉いずみ村、東と南は山地。本村の東二町四〇間余に端村新田しんでんがある。永延二年(九八八)越後の城重則が会津八館を築いた際、当地に外島としま城を構えたため外島村とも称したという(会津鑑)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三四石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高四二石・新田高一六石余、免五ツ七分二厘余、本村の家数一一、竈一三、男四六・女三九、馬五、新田の家数五、竈五、男九・女二八。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]塩川町会知かいち

赤星あかほし村の西、田付たづき川の東岸に位置し、対岸西方は大木おおき村。慶徳組に属した。本村の南西に端村深町ふかまちがあり、南辺を阿賀川が西流する。古くは東大木ひがしおおきと称した。天文一二年(一五四三)新宮しんぐう熊野社(現喜多方市)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の取組第五番に東大木とみえ、後筆で「今、大沢」との注があり、当地からも田楽相撲に参加していた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沢とみえ、高七二九石余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]五條市大沢おおざわ

行者杉ぎようじやすぎ(大沢峠)東南麓、朝谷あさたに川上流の大沢おおざわ谷に立地する渓谷村落。慶長郷帳では村高二九〇・八二石、領主旗本青山石見。青山石見は「断家譜」によると大橋与左衛門重賢の次男、通称五郎右衛門、剃髪して法斎、還俗後青山石見守と称し、「仕織田信長領千貫文、後属福島正則、関ケ原役以有軍功大神君江被召出還俗青山常陸(忠成)介授名字、依之改青山石見、其後御使番、慶長二十年乙卯大坂役城内江令内通事露顕、同閏六月十一日切(ママ)」とある。以後幕府領(代官中坊左近)、元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]播磨町大中おおなか

東中野ひがしなかの村の東、山之上やまのうえ(現加古川市)潰目つぶれめ池の南に位置する。中世は摂津住吉神社領阿閇あえ庄に属したと推定され、正平九年(一三五四)には同社の造営用途として預所一貫八〇〇文・下司四〇〇文・公文四〇〇文・庄役二貫文を大沢一色で負担している(同年八月日「住吉社造営用途注進状」住吉松葉大記)慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方一六七石余・畑方一石余。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]上市町大沢

茗荷谷みようがだに村から大岩おおいわ川支流沿いの上流の山中に位置し、東の山中に中野又なかのまた村がある。当地熊野社の伝承によれば、明応三年(一四九四)中山元秋という者が山間の沢上に住居し、子孫を分家して一村を立てたという(上市町誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高五九石、免三ツ、小物成は山役二八匁・蝋役三匁・炭窯役一三匁(三箇国高物成帳)。その後享保一三年(一七二八)に検地引高二三石が発生、一方享保八年・同一七年、延享元年(一七四四)・享和三年(一八〇三)の手上高が計四石余あって都合高四〇石余となる(天保一一年「高免帳」杉木家文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]喜多方市岩月町宮津いわつきまちみやつ

中田付なかたづき村の北西にあり、北東は入田付いりたづき村、西は上岩崎かみいわざき村。もとは中田付村と一村であったが、正保二年(一六四五)同村から分れたという(新編会津風土記)。寛文五年(一六六五)の「小田付組土地帳」によると高三七一石余、免四ツ七分八厘三毛余、反別は田方一七町九反余・畑方一二町八反余、家数二〇(竈数二二)、男五八・女六三、馬一〇。綿役金二分・同銀一〇匁六分七厘、山役金一両二分・同銀三匁八分四厘、役漆木一千四九二本などを負担していた。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]下郷町大沢

小野おの村・湯原ゆのはら村の西、阿賀川の支流大沢川左岸の丘陵と山間地に立地。湯原村から大沢川沿いに桜山さくらやま村に至る道が通る。沢が深く、また多くの沢があることからの村名と伝える。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高一七三石余。南山御蔵入領小出組に属する。寛文五年(一六六五)の「土地帳南山小出組八箇村」によれば、端村のかみ村・久景ひさかげ(日サ影)両村を含め高一七五石余、免四ツ、反別畑三五町余、家数二八・竈数四〇、人数男一一五・女一〇六、馬一七。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]東広島市西条さいじよう町大沢

田口たぐち村の南に位置する。黒瀬くろせ川支流松板まついた川北側の平地を中心に、西・北の低丘陵をも村域とする。このほか下三永しもみなが村や福本ふくもと村・馬木うまき村などに飛地があった(芸藩通志)。村高は近世を通じて三三五・四石であった(元和五年「安芸国知行帳」、明治三年「郷村高帳」広島大学蔵)が、明治三年(一八七〇)高に入っていない土地が約一町(うち田が八反)あった(郷村高帳)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]魚津市大沢

布施ふせ谷の布施川左岸にあり、西は黒沢くろさわ村など、南は東城とうじよう村。平氏の落武者の大沢庄左衛門が村を開いたという伝承がある(下新川郡史稿)。正保郷帳では高九三石余、田方四町五反余・畑方一町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一〇八石・免五ツ五歩、小物成は山役三八匁、蝋役二匁・鮎川役一匁・鱒役一匁(三箇国高物成帳)。享保八年(一七二三)など二度の手上高があり、天保一一年(一八四〇)の打銀高一一二石余(「高免帳」杉木家文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]河辺町大沢

岩見いわみ川西岸にあり、南に高岳たかおか村が隣接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には記載がなく、天和四年(一六八四)の御黒印高帳河辺郡村々(河辺町郷土誌)に高八八石一斗六升二合と記され、高がすべて新田高となっている。当高の大部分は給地であった(六郡惣高村附帳)。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「廿軒。諸井村とも大沢村を云へり。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]勝浦市大沢

浜行川はまなめがわ村の西に位置し、汀沿いを伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。南は海食崖が発達している。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四六石。正保国絵図では高四〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高四三石余で家数五三、三卿の清水領。享和元年(一八〇一)当時は幕府領(伊能忠敬測量日記)旧高旧領取調帳でも幕府領。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]小川町芳井よしい

苅田かりた村の西にあり、集落は東流する権津ごんづ川の谷地に発達。天和元年(一六八一)から貞享三年(一六八六)まで烏山藩領(烏山町史)、翌四年幕府領となり幕末に至る。元禄郷帳では高七三石余、旧高旧領取調帳でも同高を記す。北関東農村での荒地増大に対処するため明和元年(一七六四)当村以下一四ヵ村で、持主のなくなった荒地を江戸町人のうちから希望者を募って与え、無年貢の措置を施して再開発をさせている(御触書天明集成)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]菟田野町大字大沢

古市場ふるいちば村東北に所在。明治二一年(一八八八)の村合併願書には古名大佐和おおさわ村を正元年間(一二五九―六〇)大沢村に改称したとある。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「一丁大沢内」とみえる。

慶長郷帳の村高一三〇・六八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)以降幕府領。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]松崎町大沢

峰輪みねわ村の東に位置し、集落の間を那賀なか川が流れる。那賀郡に属する。江戸時代の領主の変遷は峰輪村と同じ。元禄郷帳によると高一六六石余。「掛川誌稿」では戸数四五・人数一八八。依田佐二平は元治元年(一八六四)自邸内に大沢塾を開き、明治二年(一八六九)には同塾を江奈えなに移した。また同三年邸内に大沢学舎を設けた。

大沢村
おおざわむら

[現在地名]土山町大沢

南土山みなみつちやま村の南西にあり、田村たむら川の南方丘陵中に立地。慶長五年(一六〇〇)幕府領となり、元禄郷帳では大久保常春領。天明村高帳では京都所司代牧野貞長領、旧高旧領取調帳では武蔵川越藩領。寛永石高帳では高一四九石余、慶安二年書上はその内訳を田六四石余・畑屋敷二五石余・永荒川成山崩六〇石余と記す。

大沢村
おおざわむら

[現在地名]加古川市志方町大沢しかたちようおおざわ

野尻のじり新田村の西に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方三四五石余・畑方二三石余。領主の変遷は細工所さいくじよ村と同じ。一橋徳川家領村々様子大概書(一橋徳川家文書)によると田三〇町七反・高三五四石余、畑八町余・高三六石余、旱損がち、小物成は山年貢銀・御林下草冥加銀・夫米、家数一二五・人数五二三、牛一七、農間に薪取・草刈・縄や俵作り・木綿織、米の津出しはさと村。

大沢村
おおそむら

[現在地名]能都町大沢・羽生はにゆう

小浦おうら村の北の山間部に位置し、珠洲すず郡に属する。南西流する大沢川の水源にあたる。正保郷帳に村名がみえ高三〇石余、田方一町四反・畑方六反余。承応三年(一六五四)の村御印の高三〇石余、免三ツ五歩(能登奥両郡収納帳)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]下田村大沢

笹巻ささまき村の南にあり、南は山越えで二日町ふつかまち(現栃尾市)に至る山道に沿う。村域内に二日町沢の地名があり、江戸時代以前に定期市が開かれていたことが想像される。なお慶長五年(一六〇〇)越後一揆の際、八十里越はちじゆうりごえで会津から侵攻した二、三千の加勢を含めた一揆勢が大沢に集結、戦いが行われた(九月一〇日「堀秀治書状」河野文書)

大沢村
おおさわむら

[現在地名]山崎町大沢

千種ちくさ川の支流志文しぶみ川の上流域に位置し、南は塩野しおの村・銀山ぎんざん村・今出いまいで村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は土万ひじま村と同じ。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]本荘市小友おとも 大沢

東南は万願寺まんがんじ村、東北は金山かねやま村、西南は荒町あらまち村、西北は小友川を挟んで館前たてまえ村と接する。

藩政期の村高を示す資料はない。明治五年(一八七二)には一五五石(旧高旧領取調帳)、明治初年の戸数二三戸、人口一四六人、馬三一頭とある。

大沢村
おおさわむら

[現在地名]高崎市大沢町

南流する利根川右岸一帯に広がる沖積地にあり、東から南にかけては萩原はぎわら村。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では総社領に村名がみえる(高崎藩領)。高一六三石余、田方一一町一反余・畑方六町四反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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