埼玉(県)(読み)さいたま

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

埼玉(県)
さいたま

関東地方7都県のうち、西部のほぼ中央に位置する県。北は群馬県、南は東京都、東は千葉県と茨城県、西は山梨県と長野県、北東部でわずかに栃木県に接し、計1都6県に囲まれた内陸県である。県庁所在地のさいたま市は政令指定都市である。東西約107キロメートル、南北約60キロメートル、面積3798.08平方キロメートルで、国土の約100分の1。歴史時代は武蔵(むさし)国の北半にあたっていた。県名は埼玉郡の郡名に基づく。埼玉の読みについては、『万葉集』に「サキタマ」、『和名抄(わみょうしょう)』に「サイタマ」とある。語源については、幸魂(さきみたま)の転訛(てんか)説(本居宣長(もとおりのりなが))、そのほかタマを水辺あるいは国府の置かれた多摩郡の名とし、サキをその前方の意とするものなどがあるが未詳。東京都に接する県南地方から都市化が激しく、都心部から放射状に走る鉄道網に沿って、人口密集地域が延びる。県域のなかば近くは、都心から50キロメートル圏内に入る。このため工場や住宅が多く、東京の強い影響下にある。
 1876年(明治9)、今日の埼玉県の区域が確定したころの人口は約90万にすぎなかったが、鉄道交通の発達や近代産業の普及に伴い、人口はしだいに増加し、1920年(大正9)には約132万になり、第二次世界大戦中にはさらに増加し200万を数えるに至った。とくに1960年代以降、経済の高度成長に伴い、県内各地に住宅団地や工業団地が形成されると、人口は1960年(昭和35)243万、1970年387万、1977年には500万を超え、1985年586万、1995年(平成7)には676万に達した。2010年の人口は719万4556人である。地域別では、東京のベッドタウンとして大規模な住宅地化が進んでいるJRの東北本線、高崎線、東武鉄道伊勢崎(いせさき)線、同東上線、西武鉄道新宿・池袋の各線、つくばエクスプレスなどの沿線で人口増が目覚ましく、これに反して秩父(ちちぶ)山地や北西部の山麓(さんろく)地方では人口減少の傾向が著しく、全県的な人口増加のなかで、地域差が生じている。
 2012年12月現在、41市8郡22町1村からなる。[中山正民]

自然


地形
地形は、県全体として南西から北東へ向かうに従って、山地、丘陵地、台地、低地としだいに高度を減じ、東部は低く北東端から東にかけて低地帯をなし、ここを利根川が流れている。南西端は中生層を主体とする秩父(ちちぶ)山地で、甲武信(こぶし)ヶ岳(2475メートル)、雲取(くもとり)山(2017メートル)、両神(りょうかみ)山(1723メートル)など2000メートル前後の山々がそびえている。秩父山地の中央部は秩父中・古生層からなり、一部は陥没して秩父盆地を形づくっている。盆地内部は第三紀層を主体とした丘陵地で盆地を切って流れる荒川やその支流沿岸には河岸段丘が発達し、秩父市をはじめとして市街地や村落がみられる。秩父山地の北東端は長瀞(ながとろ)変成岩よりなる高度1000メートル以下のなだらかな丘陵性の山地で、中腹まで水田や畑地がみられ集落が発達している。
 西部の山地と関東平野の間には、高度差数百メートルの落差をもつ八王子―高崎構造線が走り、その北東側には、南から狭山(さやま)、加治(かじ)、高麗(こま)、毛呂山(もろやま)、比企(ひき)、児玉(こだま)の丘陵が孤立して発達している。侵食が著しく進んだ丘陵地には、所々関東ローム層が覆い、その下部は厚い礫層(れきそう)がみられる。これらの丘陵の東部には洪積台地が広がっている。この台地も利根川および荒川の本支流によって侵食が進み、南から武蔵野(むさしの)、入間(いるま)、櫛挽(くしびき)、本庄(ほんじょう)の台地が発達している。これら台地の表面も厚いローム層で覆われ、その下層は厚い礫層のため地下水の貯留がなく、近世中期まで台地面の開発は進まず、台地全面にわたる開発が行われたのは農業技術の発達した近世中期以後のことである。
 関東平野中央部や東部は利根川および荒川の支流の砂礫(されき)が堆積(たいせき)してつくった沖積低地で、平野は県北東部から東側にかけて、北西―南東方向に広がっている。とくに、関東平野の中央部にあたる東部地域は、第三紀以来土地の沈降運動が続いた地域である。なかでも久喜(くき)市を中心とする沖積低地は利根川や荒川の中流部にあたり、これらの河川が集中する終末部の低湿地は、過去において中小の湖沼地帯をなし、河川は蛇行(だこう)して流れていた。
 この低湿地には規模の異なる起伏をもつ微地形が数多くみられる。とくに利根川沿岸で顕著な微地形は自然堤防である。自然堤防は一般に洪水時に濁流が堤防から溢流(いつりゅう)した結果つくられた微地形といわれている。しかし、利根川の自然堤防は、歴史時代に二度も発生した浅間山の大噴火で生じた火砕流の末端が河道に堆積したものと考えられている。近世の土地利用はクワ、アイ、現代のそれは野菜、果実など畑作であったが、戦後1960~1980年代には旧河川の地下水をくみ上げて水田として利用されていた。
 県内には、関東山地に含まれる甲武信ヶ岳、両神(りょうかみ)山、新緑や紅葉の季節が美しい中津峡、江戸時代から信仰の対象である三峯(みつみね)神社などがあって、秩父多摩甲斐(ちちぶたまかい)国立公園に含まれている。また山地東部の低山地域には、奥武蔵、黒山、長瀞玉淀(ながとろたまよど)、上武(じょうぶ)、武甲(ぶこう)、両神、西秩父などの県立自然公園の地域となっている。県立自然公園にはこのほか、丘陵地域に狭山、比企丘陵、東部の平野に安行武南(あんぎょうぶなん)の3地域がある。[中山正民]
気候
県の気候は、一般的に太平洋側の地域でみられる降水量の極大月が9~10月に現れる型で、そのうえ関東平野の北部にそびえる脊梁(せきりょう)山地のため、冬季は晴天乾燥日が連続する。冬の季節風は日本海を横断している間は湿潤な気団であるが、列島に入り北部山地に雪を降らしている間にすっかり乾燥した気団に変わる。この乾燥した強い冷たい冬の季節風のルートは、県西部では北-南、東部では北西-南東の風が卓越し、それぞれ榛名(はるな)おろし、赤城おろしとよばれている。この強い風を防ぐため、いまでも県内各地に防風林で囲まれた家がみられる。冬でも風の静かな夜間は、家庭内の暖房や自動車のエンジン熱のため、都市中心部の気温は周辺部より1℃ほど高い。この現象がヒートアイランドである。
 夏は季節風が弱く、海陸風の影響が強く現れ、一日のうち風の吹く方向が逆になることが多い。このような風系が現れる期間は、おもに7、8、9月の3か月間で、11~14時の風は高度1000メートルの南または南東風の海風、14~18時は北またはそれより低い北西の陸風となって大気は循環している。海陸風は風の弱い夏の東京湾岸で生じ、工場地帯や首都圏の道路網で発生する汚染物質を上空から内陸に運搬する恐れが多い。
 広大な関東平野の夏季の内陸から吹きだす陸風は、雷雲の方向に影響を与えることが多いといわれている。晩春から初夏にかけて生じる雷雲の通り道は比較的一定し、利根川、江戸川の沿岸を通る割合が高く、このため沿岸の市町村は大きな被害を受けることが多い。とくにこの時期が収穫期にあたるナシやトマトの被害は甚大である。[中山正民]

歴史


先史・古代
所沢市砂川遺跡、新座(にいざ)市市場坂(いちばざか)遺跡、川口市浦寺(うらでら)遺跡など、県内各地の台地のローム層から各種の旧石器が発見されている。また、縄文早期から晩期の、各時期のものと認められる遺跡・遺物は数多く、なかでも古(こ)東京湾の入り江に沿った洪積台地には、新郷(しんごう)(川口市)、水子(みずこ)(富士見市、国指定史跡)、真福寺(しんぷくじ)(さいたま市、国史跡)、栄光院(えいこういん)(松伏(まつぶし)町)などの貝塚が分布している。また、河川の上流域にも、高麗(こま)住居跡(日高市)や、桜ヶ丘組石遺跡(深谷(ふかや)市)などの遺跡がみられる。これらのことから、すでに5000~6000年ほど昔から、本県の各地域は、狩猟・採取を中心とする人々の生活が展開していたことがわかる。約2000年前ごろから、水田耕作を主とする弥生(やよい)式の文化が波及した。このころのものとしてはさいたま市大宮区高鼻(たかはな)町や川越市仙波(せんば)をはじめ、多くの住居跡が発見されている。
 大和(やまと)朝廷の勢力が関東地方に波及すると、本県も、県北地域から漸次大和文化の影響を受けた。このため、県北地域には、各地に古墳群が数多くみられるが、とくに、埼玉(さきたま)古墳群(行田(ぎょうだ)市、国史跡)は有名である。これらの古墳は有力な氏族の首長の墓所で、形をとどめるもの10基、跡で確認できるものが20基もある。行田市にはこのほか小見真観寺(おみしんかんじ)古墳(国史跡)もあり、吉見(よしみ)町の吉見百穴(ひゃくあな)(国史跡)は古墳時代末期の横穴(おうけつ)墳とされている。5世紀から6世紀にかけて本県にあった豪族としては、知々夫国造(ちちぶくにのみやつこ)や无邪志(むさし)国造などで、またすこし時代が下って笠原(かさはら)氏があった。
 大化改新により国郡制度が敷かれ、地方制度も整備されたころ、本県の大部分は武蔵(むさし)国の一部(国府は東京都府中市)に組み入れられ、秩父もその一郡となった。708年(和銅1)には秩父から朝廷に自然銅が献上され、年号を和銅(わどう)と改めたことは有名である。当時武蔵は人口希薄であったため、渡来人の移住が盛んで、県内の地域が漸次開かれ、郡の数も増加した。なかでも、716年(霊亀2)に置かれた高麗(こま)郡や、758年(天平宝字2)の新羅(しらぎ)郡(後の新座(にいくら)郡)は有名である。この結果、『延喜式(えんぎしき)』によると武蔵国に21郡があげられ、そのうち埼玉県には15郡が含まれていた。
 奈良末期からは、有力者の土地私有が激しくなり、各地に荘園(しょうえん)が成立するに至って、地方制度は徐々に乱れ始めた。とくに、任期の終わった国司や、中央に志を得ない貴族らは、こうした荘園を基礎に、地方に土着するものが多くなった。関東地方では、いわゆる関東八平氏がもっとも有力であったが、こうした有力者を中心に、各地に武士団が成立した。ことに武蔵七党は有名で、そのうち、児玉党、猪俣(いのまた)党、丹(たん)党は児玉・大里・秩父方面に、村山党は入間(いるま)郡、野与(のいよ)党は埼玉郡に勢力を張った。[中山正民]
中世
1180年(治承4)源頼朝(よりとも)が挙兵するや、これら諸党に属する武士たちは、源氏の旗下に馳(は)せ参じ、鎌倉幕府建設の礎石となった。これらのうち、本県に根拠地をもったものとしては、熊谷(くまがい)氏、久下(くげ)氏、比企(ひき)氏、畠山(はたけやま)氏らがあり、いずれも史書に掲載されて著名である。
 鎌倉末から南北朝時代にかけては、各地に戦乱が絶えなかった。本県に広がる各地域も同じように戦乱の巷(ちまた)と化したが、ことに新田(にった)氏が鎌倉攻めに際して戦った小手指ヶ原(こてさしがはら)(所沢市)の合戦は有名である。室町幕府が成立するや、本県の各地域は関東管領(かんれい)の支配下に置かれ、その勢力の消長にしたがって、県内の豪族の分布も大きく変動した。これらのうち土着の名主(みょうしゅ)層は、県内各地をその根拠地として活動し、彼らを中心として郷村(ごうそん)の自治的な気運が高まった。このころ、こうした武士たちを礎(いしずえ)として本県の南部に勢力を張ったのが太田氏で、岩槻、河(川)越などの城が築かれた。
 戦国時代に至り、本県の各地域は上杉、後北条(ごほうじょう)、武田諸氏の角逐の場となり、深谷、河越、岩槻などの城を挟んで攻防が行われたが、大部分は後北条氏の治下に置かれた。その後、豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐により、後北条氏は滅び、かわって徳川氏が関東に入国し、本県の地もその支配下に置かれた。[中山正民]
近世
徳川氏は各枢要の地に譜代(ふだい)の家臣を配置し、その後、徳川氏の覇権が確立するや、これらを整理して、忍(おし)、川越、岩槻、岡部の4小藩を置き、ほかを直轄領とし、旗本知行(ちぎょう)地以外には、郡代や代官を置いて支配した。
 本県の地は、江戸に近接する地域であり、また幕府の交通政策により、県内を通過する奥州街道、日光御成(おなり)街道、中山道(なかせんどう)などが整備され、その沿線には多くの宿駅が置かれ、交通、輸送量の増加に伴ってそれらは非常に繁栄した。かくて、川越、忍、岩槻などの城下町および宿場町は、地方農村の経済的中心となり、農村における商品生産を刺激した。特産物として有名な川越イモ、狭山茶、秩父絹、行田足袋(たび)、岩槻人形、川口鋳物(いもの)、小川和紙などは、このころにその基礎を確立したものである。1764年(明和1)末、県域を中心に中山道沿いに起こった伝馬(てんま)騒動(武上(ぶじょう)騒動)は、中山道の交通量増大を理由に幕府が課した増助郷(ましすけごう)に反対する農民の一揆(いっき)で、参加者20万といわれ、江戸期最大の広域闘争であった。
 また、幕府は鋭意治水・開発に努め、関東郡代伊奈(いな)氏の忠次(ただつぐ)、忠治(ただはる)、忠克(ただかつ)3代によって利根川や荒川およびそれら河川の支流で行われた流路整備、備前渠(びぜんぼり)用水や葛西(かさい)用水の開削などが行われ、県の東部低地一帯は新しい水田地帯に一変した。8代将軍吉宗(よしむね)が紀州からよんだ井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)は、見沼(みぬま)、その他の池沼を干拓し、これにかわる、利根川水系最大の見沼代用水を完成し、これを灌漑(かんがい)に利用するほか、水運も開いた。一方、武蔵野台地では、川越藩主松平信綱(のぶつな)による野火止(のびどめ)新田や同柳沢吉保(よしやす)などによる三富(さんとめ)新田開発によって、開拓が進められた。また信綱は、新河岸(しんがし)川の舟運も開いた。この江戸前期から中期の開発で、県内全体では約360の新田村落が増加し、農業生産力は著しく発展した。[中山正民]
近・現代
1867年(慶応3)江戸幕府の大政奉還があり、地方制度に関しては、府藩県三治制が採用された。1869年(明治2)にかけて、本県域では、県内に本拠を有していた忍、川越、岩槻の3藩と、本拠をもたない前橋ほか13藩と一橋(ひとつばし)家領がそのまま置かれるとともに、旧幕府蔵入地および、旗本知行地、寺社領などが上知(あげち)されて、新しく大宮県(後、浦和県)ほか5県(岩鼻県・韮山(にらやま)県・葛飾(かつしか)県・小菅(こすげ)県・品川県)となった。さらに、1871年7月の廃藩置県によって藩が県に変わったが、上記の県が依然としてそのまま置かれたので、同年11月になってそれらの諸県を整理統合して、埼玉・入間の両県を設定するとともに、印旛(いんば)県(後の千葉県の一部)を含ませた。その後、1873年入間県は群馬県とあわせて熊谷県となったが、1876年に分離して埼玉県に合併され、ほぼ現在の県域が確定した。明治の新政が行われた1883年には日本鉄道会社の最初の路線として高崎線が開通し、翌1884年には秩父事件が起こった。明治時代は利根川には天明の浅間山大噴火による噴出物が多く堆積したため水害が激しかったが、しだいに河川改修が行われ農産の豊かな近郊県となった。
 1922年(大正11)川越に本県最初の市制施行があり、1933年(昭和8)に熊谷、川口が、県庁所在地の浦和(現さいたま市)が市制施行したのは1934年である。1953年(昭和28)の「町村合併促進法」の公布によって、明治以来続いていた町村が大幅に変化し、町村の合併が大々的に行われ、それ以前の8市、315町村が、合併の結果18市、39町、52村となった。さらに1956年の「新市町村建設促進法」の公布により、1959年4月までに23市、33町、39村と大きく変わった。その後、首都圏における人口増によって新市が続々誕生し、市の数では全国一となっている。2001年(平成13)浦和、大宮、与野3市が合併し、人口100万を超えるさいたま市が誕生した。さいたま市は2003年、埼玉県初の政令指定都市に移行した。[中山正民]

産業

埼玉県の産業別就業構成比の変化をみると、1960年(昭和35)には農業が34.4%、製造業22.4%であったものが、1970年になると製造業は34.4%と増加したが、農業は逆に14.6%に減少し、順位は逆転した。その後、農業従事者数はますます少なくなり、1980年には6.6%、1995年(平成7)には3.1%、2000年には2.4%と大きく減少した。このことは、地域開発に伴い、埼玉県の産業が質的にも量的にも大変化したことを物語っている。このような産業者構成比の変化は、地域における農業や工業の景観変化となって現れる。すなわち、第一次産業が優位の時代の農村は単純に水田や桑園の広がり農家が散在する景観であったが、第二次産業が優位になると、水田や畑であった場所には大工場が建設され、その周辺には住宅が多くなり、量から質へ内部構造が大幅に変化した。また、同じ畑でも野菜が多くなり、内容的な変化もみられるようになる。[中山正民]
農業
県域の大部分は、関東平野とよばれる台地と低地からなる広い平坦(へいたん)地が広がり、しかも東京に隣接する自然・歴史的環境、社会的条件によって県全体の農業は、経営にいくつかの特色がみられる。
 2001年(平成13)の統計では、農作物の生産高は、野菜41.6%、米22.9%、畜産17.3%、花卉(かき)10.0%の順で、大都市近郊にみられる野菜、花卉、畜産品のみを集計すると農産物の約半数以上を占め、全域が都市近郊型農業に変わっていることがわかる。
 野菜類は県内各地で生産されるが、農業景観は地域の自然・歴史的環境、社会的条件と深い関係をもつ。県内でもっとも顕著な野菜作りの行政地域としては、県北部の深谷(ふかや)、本庄(ほんじょう)両市を核とし、その周辺の熊谷(くまがや)市妻沼(めぬま)地区、上里(かみさと)町一帯の北東地域である。このほか野菜の生産地域は、県南東部の中川沿岸の越谷(こしがや)市、加須(かぞ)市と久喜(くき)市菖蒲(しょうぶ)地区、武蔵野台地北西部の川越市、所沢市、旧大宮市(現さいたま市)、三芳(みよし)町などがある。県北の地域は利根川およびその支流沿岸の肥沃(ひよく)な沖積地を中心に、ネギ、キュウリ、ホウレンソウ、ナスなど多様な野菜がつくられ、国内でも屈指の野菜栽培地域である。東部地域は近世における江戸周辺の野菜栽培地域としての歴史をもっていたが、今日では都市化によって経営を放棄する農家も多く、耕地面積が減少し生産量は少なくなった。西部台地の地域は関東ローム層を表土とする地域で、ニンジン、ゴボウ、サトイモなど根菜類を中心とした地域である。これらの野菜の県全域の生産量は全国的にも高く、とくにナス、キュウリ、ホウレンソウ、ネギ、ゴボウ、サトイモなどの収穫高が多い。とくに深谷を中心とした大都市向けの野菜栽培は、沖積土壌、用水、トラック輸送など数々の条件に恵まれた地域としても注目されている。
 野菜の生産量に比して米は相対的にその地位は減じているものの、総収穫量は17万7200トンで、全国生産量の第19位(2002)である。生産地域は利根川、荒川沿岸の羽生(はにゅう)、加須、行田(ぎょうだ)、川越などの市域、およびその周辺の市町村を含む一帯で、米作地はこれら両河川沿いに帯状に延びる沖積低地である。これらの市町村の位置する県の北東部から東部に至る近世以来の米作地には、葛西(かさい)用水や見沼(みぬま)代用水などの用水網が発達し、用水をためる溜井(ためい)とよばれる貯留施設が所々につくられ、全国的にも重要な米の産地となっている。
 伝統的ないし本県の特徴的農産物としては、繭、ナシ、狭山茶などがある。産繭(さんけん)量は73.9トン(2002)で全国第3位である。南埼玉郡と児玉郡で生産される埼玉ナシは生産量1.8万トン(2002)で、日本ナシとしては全国第6位。県南西部で産する狭山茶の栽培面積は1981年に3290ヘクタールで全国第4位、生葉収穫量は1万0300トンで第9位であったが、2002年には収穫量939トンで第10位となっている。そのほか、川口市安行(あんぎょう)から、さいたま市緑区大門付近にかけて植木、苗木栽培が盛んである。[中山正民]
林業
木材は山地の広い秩父地方から産出されるが、入間川上流の飯能(はんのう)市の山地に植林した西川材は、江戸時代から有名である。年間素材生産量は3.4万立方メートル(2001)で、そのほとんどはスギ・ヒノキなどの針葉樹である。生シイタケ生産も多い。[中山正民]
鉱業
本県第一の地下資源は秩父地方の石灰岩で、武甲(ぶこう)山を中心に採掘され、おもにセメントの原料となっている。金属鉱山(鉛・亜鉛鉱山であったが、のち鉄鉱山)である秩父鉱山は1978年4月に金属採掘を停止し、石灰・珪砂のみの採掘となった。[中山正民]
工業
第二次世界大戦前から戦後にかけて、県の工業は近世以来の絹織物、鋳物(いもの)、金属工業などの在来工業が局地的に小規模に行われていたにすぎず、近代工業にはみるべきものはほとんどなかった。このような工業事情が長く続いたのはさまざまな原因があったであろうが、基本的には近代的な経営観が生まれず、耕地に愛着をもつ農業的構想が支配的であったためである。こういった構想が大きく変革したのは1960年代に入ってからである。このころ、県内の各地域では耕地を改変して大規模な工業団地をつくる構想がもちあがった。県内の各地は東京に近く、広い耕地はいくらでもあったので、最新式大型の工場を建設する十分な敷地が得られた。このため川越狭山(かわごえさやま)、大宮上尾(おおみやあげお)、深谷などの工業団地がつくられ、多くの工場が移転してきたり、新たにつくられたりした。
 県内における工業の発展は目覚ましく、おもな工業製品には電気機械、輸送機械、一般機械、化学、食料品の5業種があげられる。都道府県別の製造品出荷額ではこれらの種目の増加は著しく、合計製造品出荷額は全国でも上位に位置する。すなわち、深谷、川越、熊谷の電気機械、狭山、上尾の輸送機械などは県の代表的な工業製品といえる。以前用いられた京浜工業地帯の範囲は著しく変形し、内陸に入り込んだものになっている。今後、工業地帯なる用語を用いる際は、構想を変えて用いる必要があろう。
 在来工業では、秩父市の絹織物、行田市の足袋(たび)や被服、小川町の和紙、さいたま市岩槻区の人形、川口市の鋳物、川越市・春日部(かすかべ)市の桐(きり)細工、加須(かぞ)市の鯉幟(こいのぼり)、深谷市や本庄市、児玉町の瓦(かわら)や土管などがあり、時代の影響などを受けながらも細々と存続している。
 工業用地としての利用が激しい県南東部では、1960年代の初めごろから、工業用水としての地下水くみ上げによる地盤沈下が現れ、1965年ごろからはいっそう激しくなり、川口市内では年間100ミリメートルを超える所も現れた。県ではこの対策として、草加(そうか)市・八潮(やしお)市方面に東部第一工業用水道を、浦和(現さいたま)・蕨(わらび)・川口各市方面に中央第一工業用水道を設け、地盤沈下の間接的対策とした。[中山正民]
開発
東京の外縁に位置する埼玉県の地域的な特徴は、自然・歴史的環境、社会的条件として、丘陵地、台地、沖積地が広がっていること、交通体系が整っていることなどがあげられるが、開発の時期は戦後で比較的遅い。開発の対象としての土地は地形的にさまざまであるが、土地利用として際だっているものは、住宅、都市、工場、レジャーなどを目的とするものである。
 1960年代以後、高度経済成長により重化学工業が発展し、県内各地に工業団地が形成された。その団地には新規工場が建設され、工場の周辺に新しい住宅群の建設ラッシュが続いた。1980~1990年代のバブル現象の出現によって、首都圏およびその周辺地域に及ぶ人口は増加し、県内に新しい住宅地や事務所や工場が形成され、都市景観は変貌(へんぼう)した。こういった景観は、JR埼京線、東北本線、高崎線や私鉄の東武伊勢崎線、東上線沿線の群馬、茨城、栃木の県境まで連続してみられた。その代表的なものは都市再生機構による武里(たけさと)、松原、三郷(みさと)、日高などの広大な団地である。これらの大団地を地形的にみると初期には台地、低地で造成されたが、今日では土地が傾斜しているうえ東京から遠い日高の丘陵地にまで及んでいる。これは、工作機械の進歩が大きな原因である。レジャーとしてのゴルフ場の地域開発も同じで、初期は西部の台地が中心であったが、今日では多くが西部丘陵地や秩父盆地内の丘陵地に及んでいる。[中山正民]
交通
埼玉県は全体的にみると、東京の北方に位置し、東部、中央部は関東平野、西部は関東山地に広がっている。このため埼玉県下の交通体系は、東京とのかかわりが密接で通過交通が主である。交通体系は、(1)東京を中心としておもに関東平野内の各地を相互に結ぶ放射状の交通で首都東京と強い結び付きをもつ路線、(2)平野内の二つの地域を結ぶ圏状の交通(東京からの遠近によっていくつかのルートがある)の二つに分けられる。
(1) 放射状の交通道路には、東北自動車道(北東方面)、関越自動車道(北西方面)、国道4号(旧奥州街道)、国道17号(東京―高崎―新潟)、国道122号(旧日光御成(おなり)街道)、国道254号(旧川越街道の延長)があり、交通体系を形成している。
 放射状の鉄道としては、JR線の東北新幹線(東京―新青森)、上越新幹線(東京―新潟)、主として県内および東京との通勤・通学の京浜東北線(横浜―大宮)、東北本線(宇都宮線、上野・池袋―黒磯)、高崎線(大宮―高崎)、埼京線(大崎―川越)、第三セクターの首都圏新都市鉄道によるつくばエクスプレス(秋葉原―つくば)、地下鉄では第三セクターの埼玉高速鉄道線(赤羽岩淵―浦和美園)、民鉄では東武日光線(東武動物公園―東武日光)、東武伊勢崎線(浅草―東武動物公園―伊勢崎)、東武東上線(池袋―川越―寄居(よりい))、西武池袋線(池袋―所沢―吾野)、西武秩父線(吾野―西武秩父)、西武新宿線(西武新宿―所沢―本川越)がある。そのほか、県内の大宮―内宿(伊奈町)間に埼玉新都市交通(ニューシャトル)がある。朝夕のラッシュ、休日のレジャーなど、道路、鉄道のいずれも大混雑することが多い。通勤・通学の大動脈である民鉄は浅草のほかJR線の池袋、新宿をターミナルとし、都心までは結ばれていなかったが、1980年代後半より都内の地下鉄とすべて相互乗り入れをするようになり混雑緩和が図られている。
(2) 圏状交通としては、道路では、東京外環自動車道(三郷―大泉)、首都圏中央連絡自動車道(鶴ヶ島―青梅)、国道16号、国道125号、国道463号がある。鉄道では、JR線の川越線(大宮―川越―高麗(こま)川)、武蔵野線(府中本町―南浦和―西船橋)、八高線(八王子―寄居―倉賀野(くらがの))、民鉄の東武野田線(大宮―野田―船橋)などがある。以前、県内の各都市はそれぞれ独立した傾向が強く、鉄道も別系統で結ばれていたため相互関係は弱かったが、首都圏としての構造をもつように変わり、再構築され、近代的な大変化がみられるようになった。[中山正民]

社会・文化


教育文化
近世初期以来、江戸に近いこの地では寺院を中心とした庶民教育が盛んであったが、中期以降は県内各地に私塾と寺子屋がつくられ、江戸近隣の影響を受け、両者あわせた数は700近くに達した。私塾ではとくに久喜(くき)の遷善(せんぜん)館、妻沼(めぬま)の両宜(りょうぎ)塾などが名高い。藩校には、忍(おし)藩の進修館、岡部藩の就将(しゅうしょう)館・学聚(がくしゅう)館、川越藩の博喩(はくゆ)堂・長善館、岩槻藩の遷喬(せんきょう)館などがあり、各藩には儒臣を置いて、藩主自ら勉学にいそしんだ。また、藩校には、江戸の大学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)、山県大弐(やまがただいに)らを招き、それぞれの藩校には優秀な教官がいたので、教育の程度は非常に高かった。しかも、江戸近隣という利点もあって、県内各地から、当時の日本を指導する大学者が現れた。そのなかでも『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した盲目の碩学(せきがく)塙保己一(はなわほきいち)は、児玉郡保木野(ほきの)村(現本庄市)の出身で、古典の考証、史料の編纂に大きな特色を表した。このほか、橘守部(たちばなもりべ)は伊勢(いせ)の人であるが、約20年間県東部の幸手(さって)に住んで、国学関係の業績をあげた。
 明治維新後は、各地に郷(ごう)学校が設立され、これが学制頒布(はんぷ)後小学校へと変わった。1901年(明治34)の尋常小学校は398校で、就学率96%は、全国平均の88%を大幅に上回るものであった。中等教育では、中学校が1896年(明治29)県立第一尋常中学(現浦和高校)、女学校では私立埼玉女学校(現浦和第一女子高校)が設立され、その後各地に広まった。さらに高等教育では、1897年埼玉師範学校、1921年(大正10)旧制浦和高等学校が浦和に設置された。これらの高等教育機関は第二次世界大戦後統合され、埼玉大学(さいたま市桜区)となった。このほか大学としては、公立大学1、私立大学41、私立短大13(2013)がある。文化施設としては、県立浦和図書館(さいたま市浦和区)をはじめ、県内3か所の県立図書館、県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区)、さきたま史跡の博物館(行田(ぎょうだ)市)、嵐山史跡の博物館(嵐山(らんざん)町)、川の博物館・自然の博物館(長瀞(ながとろ)町)、県立近代美術館(さいたま市浦和区)などがある。マスコミ関係では『埼玉新聞』、民間放送としてはテレビ埼玉があるが、県内のほぼ全域が在京キー局のサービス・エリア内にある。ほかにFMNACK5、FMCHAPPY、フラワーラジオ、REDSWAVE、すまいるエフエムがある。[中山正民]
生活文化
東京を中心とする文化の中央偏重、県南一帯を中心とする都市化の進行、東京都内に職をもつ人の脱埼玉化などのため、独自の文化が急速に失われつつある。しかし、注意深くみるとこの地域独特の生活文化がかなり残っている。
 かつて、埼玉県の平野部の農村住宅は、冬季の寒冷な季節風を防ぐため、ケヤキ、杉を主とした屋敷森に囲まれ、特色ある景観を呈していた。都市化の進展とともに多くの木が次々と切り倒されているが、現在も屋敷森の数は少なくない。また、利根川や荒川の沿岸の低地にある加須(かぞ)市北川辺(きたかわべ)地区や吉見町には、水塚(みづか)とよばれる、母屋(おもや)より高く土盛りした洪水時の避難小屋がみられた。1960年代ごろよりダム、堤防などの洪水防備が徹底して洪水が少なくなったため、水塚はだいぶ壊されはしたが、わずかながら残存している。都市景観で県内でもっとも特色のある町は川越である。ここは、東京近郊の都市のうち最大の風格をもった都市で、旧市街地の中心部には蔵造(くらづくり)といわれる土蔵造の商家が続いていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 郷土料理は、低地、台地、山地に3区分できる。低地ではウナギ、ナマズ、コイなどの川魚料理が有名で、利根川、荒川沿いの各地に川魚料理屋がある。このほか岩槻(いわつき)方面では「コイの白和(しらあ)え」という料理が伝えられている。台地は古くからのサツマイモの産地で、さつまいも餅(もち)、いもとろ飯、いも切り揚げ物などの郷土料理がある。山間部では、ヤマノイモ、コンニャクイモなどの産が多く、いろいろな料理に用いられている。山地の入口の飯能(はんのう)では、そばのつなぎにヤマノイモを使い独特な風味を出している。コンニャクは煮物、刺身、汁の実など用途は広い。土産(みやげ)品の菓子にも名高いものがある。いもの粉・きな粉などでつくる落雁(らくがん)「初雁(はつかり)城」は川越の名菓であるし、また草加を中心とした「草加煎餅(せんべい)」や熊谷(くまがや)の「五家宝(ごかぼう)」などが有名である。
 民俗芸能では、もっとも広くかつ数多くみられるのは獅子舞(ししまい)と神楽(かぐら)である。獅子舞は、東は春日部(かすかべ)市西金野井(にしかなのい)の香取(かとり)神社のものから、西は秩父市浦山の大日如来(だいにちにょらい)堂や諏訪(すわ)神社のものまで、全県にわたって分布するし、神楽も東部鷲宮(わしのみや)神社の催馬楽(さいばら)神楽をはじめ、西部の秩父神社の神楽など県内各地に分布する。両者とも国の重要無形民俗文化財に指定されている。また騎西(きさい)町の玉敷(たましき)神社神楽は国の選択無形民俗文化財。そのほか、春日部市大畑(おおはた)の香取神社のやったり踊(7月15日)、蓮田(はすだ)市上閏戸(かみうるいど)の愛宕(あたご)神社の式三番(国の選択無形民俗文化財、10月14日)、川越市南大塚(1月15日)や、東松山市上野本の餅つき踊(11月23日)、川越市古谷本郷古尾谷(ふるやほんごうふるおや)神社のほろ祭(9月15日)、同市下老袋(しもおいぶくろ)の弓取式(2月11日)、美里(みさと)町駒衣(こまぎぬ)の伊勢(いせ)音頭(7月25日)などが有名。お囃子(はやし)では、川越市川越まつり(10月第3土・日曜日)の上覧囃子と、秩父夜祭(12月2、3日)の秩父屋台囃子(国指定重要無形民俗文化財)が名高い。わずかに残存するものとしては、横瀬町のふくさ(横瀬)人形や荒川村白久(しろく)の串(くし)人形(ともに国の選択無形民俗文化財)がある。特殊な神事では、毛呂山(もろやま)町出雲伊波比(いずもいわい)神社と、ときがわ町萩日吉(はぎひよし)神社の流鏑馬(やぶさめ)があり、同町大野神社の送神祭や、神川(かみかわ)町渡瀬(わたらせ)の木宮(きのみや)神社の座祭も同類が少ないめずらしい祭り。また、狭山(さやま)市梅宮神社や荒川村熊野神社の甘酒祭、美里町猪俣(いのまた)と秩父市吉田地区では百八灯(ひゃくやとう)の火祭がある(猪俣は国の重要無形民俗文化財)。鉄砲祭といわれる小鹿野(おがの)町飯田(いいだ)の八幡(はちまん)神社祭や神川町阿久原の有氏(ありうじ)神社の盤台(ばんだい)行事といわれる裸(はだか)まつり、秩父市吉田地区椋(むく)神社の竜勢(りゅうせい)まつりは特殊な祭りである。
 これらの祭りのうち観光行事として取り扱われるものは、前述の川越祭、秩父夜祭、毛呂山の流鏑馬などで、遠方から見物人が集まる。そのほか春日部市宝珠花(ほうしゅばな)の大凧(たこ)揚げ、熊谷市のうちわ祭、大宮氷川(ひかわ)神社の大湯(だいとう)祭も伝統ある祭りで人出が多い。このほか、第二次世界大戦後新しく始められたものとしては、さいたま市桜区のさくら草祭、狭山市・深谷市・小川町などの七夕(たなばた)祭、長瀞の舟玉祭などがある。
 文化財については、県下全域にわたってかなりの数になるが、重要なものについて述べれば次のようなものがある。もっとも古い住居跡としては、日高市にある高麗(こま)石器時代住居跡で、縄文中期の竪穴(たてあな)住居跡として国の史跡に指定されている。荒川扇状地の東端に位置する行田市一帯は、古墳、条里遺構など古代の遺跡の多い所である。とくに115に及ぶ金象眼(きんぞうがん)の文字が刻まれた鉄剣(国宝)が眠っていた武蔵埼玉稲荷山(いなりやま)古墳をはじめ、9基の古墳のある場所は「さきたま風土記(ふどき)の丘」とよばれる史跡公園となっている。このほか、吉見町には、市野川に面する丘陵斜面に吉見百穴(国指定史跡)があり、237基の横穴墓は古墳末期のものとして有名。また、古代高麗(高句麗(こうくり))人が居住した日高市の新堀地区には、高麗神社や聖天(しょうてん)院などがあり、国指定重要文化財の梵鐘(ぼんしょう)や大般若(だいはんにゃ)経などを蔵している。ときがわ町西平にある慈光(じこう)寺は奈良時代に開山したもので、国宝の法華経一品経(ほけきょういっぽんきょう)・阿弥陀(あみだ)経・般若心経をはじめ、多くの文化財がある。
 中世の史跡としては、寄居町にある鉢形(はちがた)城跡が有名で、国の史跡となっている。川越は中世から城のあった所であるが、城下町として整備されたのは江戸初期からで、国指定重要文化財「大沢家住宅」をはじめ文化財が多い。とくに喜多(きた)院と東照(とうしょう)宮には、国の重要文化財として指定を受けた建造物や絵画(紙本著色職人尽絵(しょくにんづくしえ)や三十六歌仙額(がく)など)が多い。そのほか、国の重要文化財としては日枝(ひえ)神社の社殿がある。新座(にいざ)市にある平林(へいりん)寺は岩槻から移した寺で、川越藩主であった松平家の菩提(ぼだい)所であるが、境内林は国の天然記念物であるし、建物は県の文化財として指定されている。また熊谷市妻沼の歓喜院聖天堂は江戸中期の建立で、県下唯一の国宝建造物である。そのほか、国指定史跡には見沼(みぬま)通船堀や栃本(とちもと)関跡などがある。なお、秩父市の秩父神社、久喜(くき)市鷲宮(わしみや)の鷲宮(わしのみや)神社、さいたま市大宮区の氷川神社、大滝村の三峯(みつみね)神社など由緒ある神社には、国や県指定の重要文化財がある。また、神川町御嶽(みたけ)の鏡岩、春日部市の牛島のフジなどが特別天然記念物に指定されている。[中山正民]
伝説
秩父山地の山づくりは、非凡な体力をもつダイダラ坊の事業とされている。埼玉県にはとりわけ「長者伝説」が多い。そのなかで、朝日・夕日長者などのように、富におごって神の恩寵(おんちょう)を忘れた者は、末は没落の運命をたどった。富裕も没落もともに神のおぼしめしによると、長者伝説は教える。榛名(はるな)湖(群馬県)に「竜女(りゅうじょ)伝説」がある。それは蕨(わらび)城が落城して城主が討ち死に、その妻女が夫の後を追って湖に入水(じゅすい)した。その霊が竜女に化したと伝えている。水神を女体とみる信仰は古くからあり、その信仰を背景にして生まれた伝説である。秩父市荒川地区の手櫃淵(てひつぶち)の主も竜女で、水中に斧(おの)を落とした樵(きこり)が水底の竜女から宝をもらって富を得た。しかし、心がおごるようになると没落したとある。飯能(はんのう)市にも類話がある。水神信仰から派生したとみられる伝説に「椀(わん)貸し淵」がある。東松山市、桶川(おけがわ)市舎人新田(とねりしんでん)、坂戸市小沼、吉見町などに椀貸し沼や淵があって、膳(ぜん)椀が入用のとき数量を書いた紙を水に浮かべると、翌朝には岸に流れ着いていた。それが、不心得者がいたために恩寵をもらえなくなったという。昔は難工事に人柱と称し、生きながら埋められた人の霊で柱を強化しようという「人柱伝説」が、全国に広く分布していた。川越城の築城にも世禰(よな)姫が犠牲になったという。そのほか幸手(さって)市、横瀬町、加須(かぞ)市大利根地区、神川町などにある。その堤を巡礼堤とよぶ所があるのは、たまたま通行した女巡礼を捕らえて人柱に立てたためと伝えている。女性が人柱になる場合が多いのは、水神の祭りに関与した巫女(みこ)がこの伝説を語り歩いて広めたからであろう。行田市忍(おし)に「播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)」とよく似た伝説をもつお菊稲荷(いなり)がある。「お菊伝説」のルーツはこの地だといっている。奥州安達ヶ原(あだちがはら)の「鬼女伝説」もさいたま市大宮区の堀の内が本家で、奥州はこの地の伝説が伝播(でんぱ)したという。『江戸名所図会(ずえ)』や『諸国俚人談(りじんだん)』などに「奥の安達ヶ原とするは誤なるべし」とみえているところから考えると、本県の伝承はかなり古いようである。[武田静澄]
『『埼玉県史』全7巻(1931~1939・埼玉県) ▽『武蔵国郡村誌』全15巻(1953~1955・埼玉県立図書館) ▽『日本地誌6 群馬・埼玉』(1968・二宮書店) ▽毎日新聞社浦和支局編『埼玉の明治百年』上下(1968・毎日新聞社) ▽小野文雄著『埼玉県の歴史』(1971・山川出版社) ▽埼玉新聞社編・刊『埼玉大百科事典』全5巻(1974~1975) ▽早船ちよ・諸田森二著『日本の伝説18 埼玉の伝説』(1977・角川書店) ▽『日本の伝説5 南関東』(1978・世界文化社) ▽『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(1980・角川書店) ▽国土地理院編『埼玉県の自然と社会』(1982・日本地図センター) ▽柳田敏司著『埼玉県郷土の文化財』(1982・国土地理協会) ▽小山博也著『県民100年史 埼玉県の百年』(1990・山川出版社) ▽『新版埼玉県の歴史散歩』(1991・山川出版社) ▽埼玉県地学教育研究会編『新版 埼玉県 地学のガイド』(1992・コロナ社) ▽小野文雄監修『日本歴史地名大系11 埼玉県の地名』(1993・平凡社) ▽『県別郷土歴史叢書 埼玉県誌』(1997・千秋社) ▽岩井茂著『さいたま地名考』(1998・さきたま出版会) ▽田代脩他著『埼玉県の歴史』(1999・山川出版社) ▽塩野博編『埼玉の遺跡』(2000・さきたま出版会) ▽毎日新聞さいたま支局編『さいたま動物記』(2001・毎日新聞社) ▽埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編『みて学ぶ埼玉の歴史』(2002・山川出版社) ▽埼玉県立自然史博物館編『埼玉・大地のふしぎ オールカラーガイドブック』(2004・埼玉新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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