大学(読み)だいがく

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大学(教育機関)
だいがく

大学の定義はさほどに簡単ではない。大学の性格や任務が社会により時代によって変わるので、定義もまた変動する。日本の場合を例にとっても、今日いう大学(新制)とは、初等・中等教育のあとに続く高等教育を行うところの総称であって、そこには大学院や研究所や短期大学も含まれている。しかし戦前の大学(旧制)は、高等専門学校とよばれるものと区別された、より狭義の、エリートを対象とした高等教育機関であった。
 ヨーロッパの中世社会で用いられた今日のユニバーシティの原語、ウニベルシタスuniversitasは、同職者のギルド、組合を意味していた。そのころ、法律など専門の知識を教え学ぶ人たちは、パン屋や鍛冶(かじ)屋などと同様にギルドをつくっていた。そして、学位の授与という点でほかのギルドと異なった。大学は、ドクターたちが次のドクターをつくりだす組織体として社会的に認知されていたのである。したがってヨーロッパではいまでも、ユニバーシティとは学位を出す学校であって、学位を出さない高等教育機関(カレッジやホッホシューレなど)と峻別(しゅんべつ)されることが多い。ヨーロッパほど伝統にとらわれないで、高等教育をより多様な形で展開させてきたアメリカでの定義はどうか。ユニバーシティとは、文理の学問学部を中心に、法学、医学などの専門職学部群と大学院とを擁して、学位を与える総合的な高等教育機関、などといわれている。[横尾壮英・舘 昭]

役割

学位を与えるということは、学問の専門分野で一定のレベルに達したことを証明し、ある資格を公認することである。大学はその役割を、まずそうした専門職の養成にみいだした。法律家、医者、牧師、大学教師といった人たちはもっぱら大学でつくられることになった。しかし大学の人材養成は単なる専門職業人の育成にとどまるものではない。教養の豊かな政治家やジェントルマン、あるいはよき市民の教育もまた大学の重要な使命と考えられてきた。またとくに19世紀以降は、学問研究、つまり新しい知識の開発が大学の重要な任務として自覚されてきた。大学の教師は真理の探究者でもあり、研究に裏づけられない教育は大学教育ではないとされる。以上の二つに加えて、今日の大学にはいま一つ社会へのサービスという任務も課されている。大学はその存在する地域社会から遊離することなく、地域と相互に助け合うときに、研究面でも教育面でもより大きな成果を期待しうるだろう。とくに人間の教育が生涯学習の観点からとらえ直されつつある今日では、大学は社会に開かれた柔軟な存在でなければならないと考えられている。ただ、すべての大学が以上の教育、研究、社会サービスといった使命を三つとも等しく果たすことは容易ではないし能率的でもない。大学はそれぞれの使命を自覚的に選択し、個性的にその性格と伝統とを培っていくべきであろう。[横尾壮英・舘 昭]

起源

ヨーロッパに今日の大学の原型が現れたのは、いまからおよそ800年前のことで、「12世紀ルネサンス」とよばれる社会の変動期においてであった。農業の生産性が高まり、交通が発達して都市がおこり、十字軍による東方世界との接触があり、国民国家や官僚制度や貨幣制度も急速に整ってくるなかで、人々は新しい世界、新しい情報に目を輝かせた。彼らの好奇心が新しい専門的な知識の習得へと向かうとき、新しい専門職が成立し、その社会的地位も保証され始めた。それまでも学校はあったが、それ以外に北イタリアの法律の学校、地中海沿岸の医学の学校、パリその他の神学や教養諸科の学校など、新しい学校が各地に誕生した。そして新しい専門的な知識を教える師匠のもとには、ヨーロッパの各地から青年たちが集まり、教師もまた流動した。
 しかし、そうした教師や学生の多くは他国者(よそ者)であって、居住した都市の市民権をもたなかったから、互いに団結して自己防衛をし、逆境のなかでの不自由をカバーしなければならなかった。安い家屋、いろいろな免税・免役、それに固有の裁判権や教師のサラリーの確保などである。知的活動を事とするその大学集団が、社会のなかで新しい階層として位置づくのは、たやすいことではなかった。彼らはギルドとして団結し、聖俗の権力と闘って、しだいに地盤を確立していったのだが、都市(タウン)と大学(ガウン)は互いに争う場合も少なくなかったし、大学は都合が悪ければほかの都市へ移って新しく居を構えた。
 初期の大学団は、下部組織として出身地別の国民団(ナティオ)をもっていた。その国民団のうえに教養部があり、また別に神・法・医といった学部があった。いずれも固有のルールと役職者、印璽(いんじ)や金庫をもつ自治体であって、役職者は民主的な手続で選ばれた。こうした団体への加入は自由であった。つまり入学試験はなかったが、ラテン語の素養が必要だった。修学の年期は教養諸科で4~7年であった。年期を積んで最終の試験に合格するとドクター(ないしマスター)の称号を与えられ、教師の一員となる資格ができた。学生とドクターの中間身分がバチェラーであったが、こうした階梯(かいてい)は、商工ギルドの徒弟―職人―親方(マスター)、武家社会の小姓―従者―騎士(ナイト)をまねたものだった。
 大学は、新しい専門職やエリートの供給源として、しだいに世の注目をひいた。教皇や皇帝や都市からも目をつけられた。そしてその保護を受けたり、彼らのきもいりで設立される大学が増えていく。大学は自生の時代から政策的な設立の時代に入るのであって、1500年の時点でヨーロッパの各地におよそ80の大学が存在したといわれている。[横尾壮英・舘 昭]

近世以後の大学

ルネサンスが大学に影響を及ぼしたことはもちろんだが、宗教改革の影響はそれ以上に決定的であった。16世紀以後、大学はすべて新旧いずれかの宗派に属することを余儀なくされたし、同時に領邦ないし国家の教育機関として、いよいよナショナリズムの支配を免れえなくなった。聖俗の権力闘争で大学が精神的要塞(ようさい)となることもまれではなかった。そういう傾向と併行するかのように、一部では大学教育の硬直化もみられた。カリキュラムや教授方法のマンネリ化、教師の意欲の欠如など、地域による濃淡はあるが、大学の衰微の時代が続いたのである。したがって、知識人のなかには大学を見捨ててほかに同好の士を求める動きも現れた。その代表的な例は、近代的な思考方法や科学の先駆者たちが結成したアカデミーである。アカデミーは、イタリアに始まってフランス、イギリス、ドイツなどに波及した。それは真実を探る腑(ふ)分けの精神を共通のきずなとし、国境や宗派にはこだわらない自由で私的な人々の集団であった。注目したいのは、彼らを庇護(ひご)するパトロンが各地に現れたこと、大学のなかにアカデミーの自由な精神に刺激されて活性化する例がみられたことである。ハレ、ゲッティンゲンといった近代大学の創設もその延長線上で考えられる。そして、その頂点にたつのがベルリン大学の創設(1810)であった。
 ベルリンでは、大学は自由な学問研究の場、その中枢的組織としてとらえられ、研究への参加がすなわち教育であるとみなされた。そして、そういう新しい大学の使命の自覚とそれに基づく研究教育の実績は、ドイツ国内のみならず他国の大学にも大きな刺激を与えた。たとえばイギリスでは、古いオックスブリッジといろいろな点で対照的なロンドン大学が、有志の手でつくりだされた。地方の諸都市にも、新しい時代の要求にこたえる「市民大学」(シビック・ユニバーシティ)が設けられた。
 ベルリン大学が成立する前後はフランスの大学にとっても歴史的な変革の時期であった。革命とナポレオン体制のもとでフランスの大学はすっかりその姿を変えた。高等の専門職の養成機関としていわゆるグランゼコールが生まれ、他方ユニベルシテは文部大臣の統轄する教育体系の全体の名称となったが、その体制は19世紀を通じて変動を免れなかった。
 アメリカでは最初、東部の植民地にハーバードなど九つのカレッジができたが、それは新世界に教養のある牧師を確保することを主眼としていた。独立戦争後は人々が西に進むにつれて各宗派が競ってカレッジを設けた。とくに1819年ダートマス大学に関する大審院の判決が私学の基金制度を保障してからは、私立大学の数が増えた。しかし同判決は各州に独自の州立大学をつくらせる契機ともなり、宗派にとらわれない近代的な州立大学の出現を促した。また1862年のモリル法によって、いわゆる国有地賦与大学(ランド・グラント・カレッジ)が現れ、農工業などを重視して産業社会に貢献する新しい大学へと発展した。それに、ドイツの影響のもとジョンズ・ホプキンズ大学など大学院大学の誕生があり、さらには「大学拡張」による大学の地域社会へのサービスも始まった。19世紀の後半以後、アメリカの大学は数的に急増した。そしてその種類や形態において、あるいはカリキュラムや研究教育の方法において、きわめて自由で多彩な様態を示し、世界をリードする力強い存在となった。[横尾壮英・舘 昭]

日本の大学の歴史

日本で大学という名が現れたもっとも古い例は、古代の大学寮である。それは、唐の影響を受けた律令(りつりょう)制度の一環として設けられた、貴族の子弟を養成する施設であった。それ以後も高度な修学の場が貴族、僧侶(そうりょ)、武士などを対象として不断に存在したが、大学とはよばれず、明治の初めに欧米の高等教育制度が導入されたとき、ユニバーシティないしカレッジに対応する邦語として、その名が用いられたのであった。
 すでにそれ以前、江戸には昌平黌(しょうへいこう)、地方には藩校など、国民の修学の場は相当に整い、知的水準はなかなかのものであったから、欧米のモデルが現れたときの反応も、きわめて敏感かつ積極的で、文明開化を目ざしてさまざまな学校や塾が現れた。慶応義塾、開成学校、医学校、工学寮、札幌農学校、同志社英学校などなど、官も私もこぞって大学の種を播(ま)いたのだが、そのなかでもっとも早く体裁が整い中身も充実したのは、官の代表東京大学であった。その設立の試みは1869年(明治2)にもみられたが、1877年に法・文・理・医の4部門からなる近代大学としてスタートした。同大学は1886年の帝国大学令により「帝国大学」と名を改め、「国家の須要(しゅよう)に応ずる学術技芸」を教授攻究するところとなる。そしてそれを頂点とする官による高等教育機関の整備は、旧制の高等専門学校を全国的に配置することと、京都、東北、九州などの帝国大学をつくるという二つの方向で進められた。
 他方、私立の高等教育機関も数多くつくられた。法律を教えるもの、宗派立のもの、女子を対象とするものなどで、それぞれが建学の精神や学風をもって、東京や関西に誕生した。それら私立のものを含めた法的整備は1903年(明治36)の「専門学校令」によってなされたが(当時の専門学校の数は50)、専門学校ないし高等の諸学校の大学への昇格意欲は旺盛(おうせい)で、政府は1918年(大正7)、臨時教育会議の答申に基づいて「大学令」を公布した。以来、大学には総合大学のほかに単科大学、官立のほかに公・私立の大学も存在することになる。こうして1940年(昭和15)の大学の数は47校、学生数8万余、そのほかに多くの高等専門学校があった。
 軍国主義が招いた第二次世界大戦では、大学もまた国家とともに破滅するかと思われた。しかし敗戦は破滅よりも再生の機会をもたらした。アメリカに指導された新しい教育体系のもとで、大学は六・三・三の初・中等教育を終えた青年を、男女の差別なしに迎え入れる4年制の高等教育機関となった。国・公・私立という三つの設置形態は、戦前の伝統を背景に存続した。新しく生まれ変わった新制の大学は、1953年(昭和28)の時点で国立72校、公立34校、私立120校、学生数はあわせて44万であり、そのほかに短期大学も228校存在した。大学院も修士、博士の二段階で発足した。こうして、日本の大学は急速に民主化され大衆のものとなった。それは大きな脱皮と発展を意味したが、やがてまた新しい問題をも伴った。たとえば、教育と研究をどう相即させるか、教育の量に対する質の保証、各大学の個性の確認、一般教育の見直し、大学院の整備、それにいうまでもなく大学入試の問題などである。昭和40年代の大学紛争でも提起されたそれらの問題が今後どう克服されるか、いま大学の歴史は曲り角にあるといえよう。2003年(平成15)5月現在の大学数は国立97校、公立76校、私立525校、2000年の学生数は国・公・私立あわせて274万0023人、2003年5月現在の短期大学の数は525校、2000年の学生数は32万7680人である。[横尾壮英・舘 昭]

設置形態等

前述したように、日本の大学には、国立、公立、私立の3種類があり、私立が数的に4分の3を占めている。アメリカには私立と公立の2種類があるが、公立のほとんどは州立で、国立(連邦立)は軍関係などわずかである。ドイツではほとんどが公立(最近私立が加わる)。イギリスではすべてが私立だが、財政その他地域社会や国の援助を受ける度合いが大きいので、私立でありつつ国公立的性格ももっており、フランスはほとんどが国立である。この場合、その設置をだれがどういう形で認めるかが問題になる。たとえばイギリスでは、設置を意図する団体が国王の創立特許状(チャーター)を得て、初めて設立が公認される。日本では大学設置基準というものがあり、その基準に達しているかどうかを大学設置審議会が判定することになっている。アメリカでは、そうした中央の機関はなくて、一般に州の認可を得るのが容易なため、設立された大学が互いに自己規制をしてレベル・ダウンを防ぐアクレディテーションaccreditation方式がとられている。
 設置形態は、大学の財政問題にもかかわるところが大きい。研究や教育の規模が拡大する状況のなかでは、私立大学が授業料収入だけでその経費をまかなうことは不可能だし、大学の研究・教育活動に公的性格があるとすれば、そこに公費の援助があるのは当然だと考えられる。ただ公費の援助は、国や地方自治体の大学に対する干渉や統制を招くおそれがあるので、大学の自治と公費の助成をどう両立させるかが問題になる。日本でも、国費による私学助成が行われており、1998年度の私立大学に対する経常費補助は3700億円余である。[横尾壮英・舘 昭]

内部組織

大学の内部組織としては、学部、学寮(カレッジ)、研究所、附属病院などがある。学部は、大学における研究教育のもっとも普通にみられる単位である。歴史的には神学、法学、医学の「上級三学部」と、その予備的位置からしだいに昇格した哲学部が老舗(しにせ)であって、西欧の大陸部ではこの伝統がいまも色濃く残っているが、19世紀以後は、哲学部から理学部、法学部から経済学部、医学部から薬学部が分かれるというように、分化現象が著しく、いまでは相当に変貌(へんぼう)している。アメリカでは、学部に相当するものをスクールとかカレッジとよんでいるが、ヨーロッパの神・法・医・哲の伝統があまりないことと、実用主義の傾向もあって、さまざまな名称の学部が大胆につくりだされた。家政学部、歯学部、ホテル学部などはアメリカ生まれであり、日本もその影響を受けている。
 学部はその数が増えただけでなく、組織の単位としての再検討も迫られている。日本では筑波(つくば)大学が学系・学群と称する組織によっているし、ドイツでもボフム大学などは学部にかわって学科Abteilung制をとっている。大学の内部組織として、学部とともに重要な役割を果たしてきたものにカレッジ(学寮)がある。これは教育研究の単位であるよりも生活の単位だが、イギリスのオックスフォード、ケンブリッジや、1960年以降に設立された「ニュー・ユニバーシティ」では、学寮が大学の中核的な組織となっている場合が少なくない。とくに古典的な大学の場合には、学寮が固有の基金や財産をもち、自治権ももっていて、チュートリアルなど独自の教育を行ってきた。[横尾壮英・舘 昭]

管理運営

学内の管理運営の方式には、教授会を中心にするものと、理事会を中心とするものとの二つがある。たとえばヨーロッパの大陸部や日本の国公立の大学では、一般に各学部の「教授会の議を経る」ことが管理運営上不可欠のこととなっていて、中世以来の学部自治の伝統がそこにある。しかし今日のマス化した大学では、教授会も適正規模を超えることが多いし、教授たちがすべて管理運営に向いているとも思えないから、人事・予算などすべてを教授会で決めるやり方は、限界にきているともいわれている。アメリカの大学などで多くみられる理事会方式は、ジュネーブのアカデミーでカルバンによって始められ、オランダやスコットランドの大学を経由してアメリカに根づいたものである。ハーバードの場合、理事は5名(日本の私大でも5名以上とされている)、そのもっとも重要な任務は学長の選考、教授の人事、財政上の配慮などである。教授や助教授は教育と研究に専念する立場にある。
 学長にも二つの類型がある。ヨーロッパに由来して日本の国公立大学でモデルになっている学長は、教授等のなかから互選によって選ばれ、その任期は長くない。他方イギリスの大学の学寮長に起源をもつアメリカなどの学長職は、任期が長く理事会から大きな権限をゆだねられていることが多い。
 公権力との関係も、大学の管理運営の大きな問題である。一般に大学は自治を認められていて、国家や地方自治体は、大学に対して財政その他の面で「支持しつつ干渉しない」ことがだいじだといわれている。しかし具体的な事例、とくに政治上の問題、イデオロギーにかかわる問題では、自治の程度をめぐって議論が分かれることも少なくない。[横尾壮英・舘 昭]

教育、研究、開放への道

18世紀のころまでは、ある程度の基礎学力があれば(宗派による制限はあったが)、大学への登録は容易であったが、近代的な学校の体系化とカリキュラムの編成が進むにつれて、入学の条件が問われるようになり、今日、大学入試はどの国でも問題をはらんでいる。ただし、ドイツ、フランス、イタリアのように、高校卒業者にはすべて、ある年齢まではいつでも、どの大学にも登録を認める、したがって大学には厳しい定員制がない国々と、日本のように、どの大学にも定員制があって、年に一度の学力試験で及落を判定する国とは、そのやり方がきわめて対照的である。
 大学教育のいろいろな問題点の一つは、一般教育にある。一般教育は専門教育の基礎を固め、かつ広い視野と豊かな発想を養うために始められた制度だが、それが内実のあるカリキュラムとして活性化され、魅力のある授業となるのにはなお多くの障害がある。1991年の制度改革で、カリキュラム編成の自由が各大学に与えられ、種々の改革が実施されているが、まだ十分な解決をみていない。大学院も日本ではスタッフ、予算、設備など多くの点で中途半端なものになっている。研究者や大学教師の苗床としての大学院の存在意義は大きく、また高度専門職業人養成の機能強化が課題となっている。外国人留学生の数もますます増えるであろう。学位の出し方を含めて大学院にもメスを入れる必要がある。大学の研究を推進するものとして、19世紀以後に発達したのは研究所である。日本でも国・公・私立の多くの大学に附属の研究所、研究センター、研究施設などがある。また、個別の大学に所属しない大学共同利用機関などもその数を増しており、2017年4月時点では国立民族学博物館、国立天文台、素粒子原子核研究所など19施設が存在する。国立大学の附置研究所は、2014年時点で29大学に89研究機関があり、東京大学や京都大学の場合の附置研究所の数は学部の数に匹敵する。
 大学で行われる研究は、基礎的なものと応用的なもの、個人レベルの小規模なものから、いわゆる巨大科学の研究までさまざまである。一般の傾向としては、共同で行われる大型のもの、多くの専門にまたがるものが増えている。研究の方法も、いわば古典的なものから、コンピュータなどを使う新しいものまで多様である。研究の大型化は当然研究費の大型化につながるから、研究組織のリーダーは研究費の確保にも力を注がねばならない。また大学と企業その他産業界や軍との共同研究も盛んになる傾向にあり、それに伴う問題も起こってくる。
 現代大学の第三の機能といえる社会へのサービスは、19世紀にイギリスの大学によって先鞭(せんべん)をつけられ、アメリカの大学に続いて他国もそれに倣ったものである。いわゆる大学拡張university extensionの中身は開放講座、夏期大学、夜間部、通信教育などいろいろであるが、イギリスではそれらの活動が大学と労働者教育協会(WEA)、地方教育当局(LEA)の共同研究として行われてきた。アメリカで最近著しい発達を示しているのはコミュニティ・カレッジである。それは、地域の老幼男女がいつでも、だれでも、なんでも学習できて、やがては学位もとれるような仕組みになっている。大学教育の大衆化のもう一つの形態に放送大学やオープン・ユニバーシティがある。また、特定の大学に所属せずに学習し、学士などの学位がとれる制度があり、日本では独立行政法人大学改革支援・学位授与機構がその制度を実施している。大学はいまや各国民の生涯の教育の一環としての新しい姿をみせつつあるのである。[横尾壮英・舘 昭]
『島田雄次郎著『ヨーロッパの大学』(1964・至文堂/1990・玉川大学出版部) ▽寺崎昌男著『日本における大学自治制度の成立』(1979/増補版・2000・評論社) ▽潮木守一著『大学と社会』(1982・第一法規出版) ▽天野郁夫著『試験の社会史』(1983・東京大学出版会/増補版・平凡社ライブラリー) ▽横尾壮英著『ヨーロッパ大学都市への旅』(1985・リクルート出版部) ▽舘昭著『大学改革 日本とアメリカ』(1997・玉川大学出版部) ▽永井道雄著『日本の大学』(中公新書) ▽皇至道著『大学の歴史と改革』(講談社現代新書) ▽中山茂著『帝国大学の誕生』(中公新書)』

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