目次 漢字の特質 漢字の種類と造字・転用 起源と変遷 朝鮮,ベトナム への漢字の伝播 日本における漢字 字音 訓 字形 漢字の制限 日本の漢字教育 漢字はその名の示すように中国の文字である。現在中国はもちろん,古代中国文化圏にあった日本および韓国でも用いられている。漢字はエジプト の象形文字(ヒエログリフ ),メソポタミア の楔形(くさびがた)文字 などと同じく古代文字 であり,しかも現代になお用いられている唯一の古代文字である。過去3000年にわたって同じ文字が断絶することなく用いられてきたことは,中国文化の特異な一面を物語っている。
漢字の特質 通説によれば漢字は他の古代文字と同じく表意文字ideographの段階にあるといわれる。表意文字 とは1字がある音を表す表音文字 に対して,1字がある観念ideaを表す文字で,たとえば漢字の〈日〉は太陽の観念を表すようなものである。しかしより厳密にいえば,漢字は表意文字というよりもむしろ表語文字logographであるというべきである。というのは〈日〉は直接太陽の観念を表すというよりは中国語の単語rìまたは日本語の単語hiを表すと考えるべきであるからである。もっとも〈日〉の例だと,この文字の古形 は太陽を象徴していたから〈表意〉といえるであろうが,たとえば〈鯉(こい)〉のような文字になると,この文字自身からはただ〈魚〉に関係があることがいえるだけで,表意はこの場合すこぶる不完全である。〈鯉〉は中国語のlǐ(日本語ならkoi)という語を表すにすぎないのである。この表語性という点では漢字は他の古代文字に比していっそう徹底している。というのはエジプト文字 ではその中にすでにアルファベット的使用も見られるし,メソポタミアの文字には音節文字的用法も認められるに対し,漢字では1字1語の原則が貫かれているからである。表音文字では1字は1音ないし1音節(場合によっては数音ないし数音節)を表し,その結合によって語を示すが,いちいちの漢字はそれぞれの語を表し,その語を構成する音の表記という点では1音節全体を表し,音構造は示さない。たとえば英字のmは音素/m/を表しうるが,それ自身ではなんらの語も示さない。これに反し漢字の〈人〉はなんらの音素も表しえないが,それだけでrén〈人〉という中国語の語全体を示す。すなわち漢字は表音的にはきわめて非能率的である。しかし各字が各語を直接に表し,したがって1字1字が個性をもっている。この1字1語1音節の原則はどうして成立できたかというと,それは中国語という言語の性格にもとづく。
中国語は単音節・無構造・孤立語の類型に属する言語である。すなわち中国語を形成する語は原則として単音節から成り,しかも各語は形態論的構造をもたず,したがって文構成に際して孤立的である。もっとも単音節性は現代中国語では必ずしも守られていないが,古くさかのぼればさかのぼるほどいちじるしい。このような単純な形態をもつ語を示す文字がその語を分析的に示さず,語を全体として表したのもきわめて自然である。ことに1語の形態が単音節から成るという特色はその語を示す文字を独立した1単位とするに有利であった。かくて1語はそれ自身に固有な文字をもつに至ったのである。もっとも中国語の語彙の中には,もともと2音節から成る語も存在した。たとえば朦朧méng lóngというような擬態語は多くの場合2音節であったが,この種の語は全体もしくは部分的重複を本質とし,したがって容易に2単位すなわち2音節に分析できたので,1字1音節の原則に触れることはなかった。このようにして各語はそれ固有の文字を占有する結果として,だいたい語の数だけ文字があるということになり,文字の数はおびただしいものになった。また一方ではこの文字はその表す語の音韻構造を分析的に示すことがなかったため,語の音韻形態を示すことが無効であるか,また不完全であり,その結果音からは遊離してしまい,語の音韻変化 が行われても,その変化から超然とし,したがって文字は言語変化を超越して固定するに至り,かかる文字でつづられる文語が,ほとんど視覚的言語として2000年に近い長い年月にわたって使用されるという特異な現象を示している。漢文と呼ばれる古典文語がそれである。
漢字の種類と造字・転用 ふつう〈六書 (りくしよ)〉と呼ばれる分類がある。六書とは指事・象形・会意・形声・転注・仮借の六つである。このうち前4者が文字の形による分類であり,後2者は文字の転用に関するものである。そして指事と象形が単純な形態を示して基礎をなし,会意と形声とはその複合によるものである。まず象形はその名の示すように物の形に象(かたど)ったもので,〈日〉はその古形では で,太陽に象り,同じく〈月〉も月の形を模したものである。そのほか〈馬〉とか〈鳥〉とかのように具象的な物の象形による文字の類を象形と呼ぶ。これはいうまでもなく太古の絵文字から発生したものであろう。具象的な物の場合はこの方法によって作ることが可能であるが,抽象的な観念を示すには他の方法によらなければならない。たとえば数のごとき場合がそうで,これらは〈一〉〈二〉のように線によって示した。これが指事である。〈上〉〈下〉などもその古形は であって,線に対して上下の点でこれを示した。
象形・指事の方法によって要素的な文字が作られたが,これだけでは多くの語を十分に示すことはできない。そこでこれらの要素文字の結合による文字ができてきた。その結合に二つの方法がある。一は要素文字の観念の結合によってある観念を表す語を示すもので,これを会意という。〈武〉という字は〈戈〉と〈止〉の結合で,武という語の示す概念は干戈(かんか)(戦争)を止めることだと説かれている(ただしこの字源解釈には疑問がある)。また〈信〉という字は〈人〉と〈言〉の結合であって,人間の言葉は信を本質とするところからこの結合がなされたといわれる。結合の他の方法は形声あるいは諧声と呼ばれる。これはその示す語の意味のカテゴリーを示す要素(義符)とその語の音形と同音または近似の音を示す要素(声符)との結合である。たとえば〈枝〉は,義符〈木〉はこの語の意味のカテゴリーを示し,声符〈支〉はこの語の音形を示す同音の文字である。また〈河〉も義符〈氵(=水)〉と音符〈可〉の結合で,可(kě)は近似的に〈河〉の示す語の音形(hé)を示している。この形声文字の原理は造字の最も有効な方法を提供し,この原理の発明によって漢字を広範囲につくり出す可能性を生じ,漢字の大部分がこの方法によってつくられているといわれる。どこの文字も結局は表音の方式によることによって完成されるが,漢字の場合もその例にもれず,その特異な表音法すなわち形声の原理によって大多数の文字を生み出した。ただしその表音は語の音形の全体的表示にとどまり,要素に分解するに至らず,しかも完全でない。
以上4種の方式によって漢字はつくり出されたが,しかしそれでも中国語の全語彙を表しつくすことはできない。必然的に既成の文字の転用によってその欠を補うということが起こる。それが転注と仮借である。転注というのはどういうのか,これには種々の説があってはっきりしないが,どうやら,ある文字をそれが表した語と同意,あるいは意味上関係のある他の語を表すに用いた場合であるらしい。たとえば,〈老〉の字で同意の〈考〉を表したような借字である。しかしこのような借字は,語の識別があいまいになるので,のちには声符を加えて区別を図った。〈考〉は〈老〉に声符丂を加えた形声字である。これに対し仮借のほうは適用範囲が広く,ある文字をその字の示した語の音と同音もしくは近似の音をもつ他の語に適用する場合である。〈求〉は元来皮衣(かわごろも)を意味する語を示す象形文字であったが,この語と同音の語で〈求める〉を意味する語に仮借された。その結果もとの皮衣を意味する語には,この〈求〉の字に義符〈衣〉を加えた形声文字〈裘〉を新たにつくり出すに至った。このように仮借の原理は文字の流用を可能ならしめ,その結果生ずる表語のあいまいさを防ぐために,義符の添加が行われて,語の表示を明確にした。形声文字は転注と仮借から声符あるいは義符の添加によって発生したものである。このように仮借は文字の表音性を利用したものであるが,ここに注目すべきは,中国ではこの表音性を発展させて一時は独特の表音文字をつくり出す方向を取ったが,形声の原理を発明することによってあくまで表語の原則を固執したことである。 →中国語
起源と変遷 この漢字はいつごろつくられたかというと,その起源はわからない。現在知られるその最古の形は殷墟から出土した亀甲,獣骨に刻せられた文字である。これを殷墟文字 または甲骨文字 と呼び,だいたい前1500年くらいといわれる。この文字は多分に絵画的であるが,しかしすでにかなり慣習化され,線条的になっていて,けっしてこの文字の原始状態そのままであるとは考えられない。そこで漢字の起源についてはなおいろいろな可能性が考えられてくる。一つの考えは西方に起源を求める説である。古くから漢字とエジプトあるいはメソポタミアの文字との字形上の類似から西方起源説をとなえる人があるが,それは多くは個々の文字の類似にもとづく空想的な説であってあまり信用はできない。しかし近来アメリカのI.J.ゲルブという人は,この問題を古代文化史全般の新しい角度からとり上げ,古代文字の単源説をとなえ,エジプト文字も漢字もメソポタミアのシュメール文字 に源を発しているという新説を出した。しかしこの説は実証の域に達せず,やはり中国の中にその起源を求めるほうが無難である。今後中国での発掘によってより原始的な文字が出土することを期待する。
殷墟文字についで周代の銅器の銘文の文字が知られている。これを金文 または鐘鼎文(しようてい ぶん)という。これは殷墟文字の系統を受け,いっそう慣習化されているが,きわめて華麗な文字である。これは東周の時代にはいっても西方で行われていたが,東方ではやや異なった字体が使われていたといわれる。後漢の許慎の《説文解字》に載せられている古文という字体は東方の六国の文字であるという。やがて西方に秦が興起してくると,金文の系統を引く字体が現れ,これは石鼓文 (せつこぶん)によって今日に伝えられている。《説文解字》に記されている籀文(ちゆうぶん)もこの系統であるといわれる。籀文はまた大篆(だいてん)という。秦の始皇帝は天下を統一すると,文字の統一をはかり,新しい字体を制定した。これは大篆の簡略化であって,小篆(しようてん )と称する。いわゆる篆書(てんしよ)はこの小篆である。金文にしろ籀文にしろ,あるいは小篆にしろ,いずれもいわば正式の装飾的な字体であって,鐘,鼎(てい)のような銅器やその他碑文などに用いられたものである。
これに対して実用的な字体も使用されたと考えられるが,秦の統一後その実用的な字体が表に現れてきた。いわゆる隷書(れいしよ)がそれである。隷書は前漢・後漢を通じて行われたが,漢末になると,これから楷書(かいしよ)が生まれた。楷書に至って漢字の字体は固定化され,今日に及んでいる。いっぽう楷書が隷書から発展する以前から,篆書や隷書をくずした,より簡略化された草書が用いられた。いわば漢字のデモティック ・スタイルdemotic styleである。このほか行書というのは,楷書をややくずした形で楷書ほど角ばらないときに用いられる。
字体の変遷とともにときどき文字の整理ないし定着化が試みられた。とくに注目すべきは前述の秦の始皇帝の文字統一と唐初の文字整理である。前者はそれ以前に各国で用いられたいろいろの文字や字体の整理統一であった。のち小篆から隷書を通じて楷書に至る字体の変化,〈古文 〉の発掘による経書の今古文の複雑な様相,言語の進展に由来する語と文字の関係等々により文字はなお動揺をまぬかれず,加うるに六朝時代の学術・学派の分裂は文字の上にも無統制を生んだ。隋の統一以後南北分裂の学術の統合は諸方面に認められるが,文字の上にもその顕著な現れが見られる。すなわち顔師古の経書の文字の批判にもとづく顔元孫の《干禄字書 (かんろくじしよ)》,張参の《五経文字》,元度の《九経字様》などはこの文字整理の所産であり,唐の〈開成石経(かいじようせつけい)〉は経書の文字定着の成果である。だいたい,石経 は後漢から文字の標準化を目的としたものであった。唐よりのちも文字の正俗に関する規範的意識はしだいに強化され,各代にわたる字書・韻書 の編纂はたいがいこの意識に導かれている。宋の《類篇》ならびに《集韻》,元の《古今韻会挙要 》,明の《洪武正韻 》,《字彙》などから清の《康熙字典》に及んで漢字の規範は確固たる土台を得るに至った。その間印刷技術の発展に伴って,従来の筆写による流動性がしだいに固定化されたことも忘れてはならない。 →簡体字
朝鮮,ベトナムへの漢字の伝播 漢字は中国固有の文字であるが,隣接の諸国すなわち日本,朝鮮,アンナン (ベトナム)に輸入されて,やがてこれら諸国に根をおろした。しかし3国各自の事情によってそれぞれの発展・消長を異にした。日本(詳細は後述)では漢字をもって漢語を表すとともに日本語を示すにも用い,またその略体から仮名(かな)の発生を見た。朝鮮は韓国では日本と同様,今日に至るまで漢語を表すに用いているが,朝鮮民主主義人民共和国ではこれを廃し,もっぱらハングル (諺文(おんもん))を用いている。しかし韓国でも漢字は漢語の表示にのみ使用し,朝鮮語を示すのには用いない。元来長い間漢字・漢文は朝鮮における正統な文字であり,文語であって,その国字諺文が15世紀に発明されてもその名の示すように,〈卑俗な文字〉であったのである。現在ではこの文字をハングル(大いなる文字)と呼んでいる。ハングル以前には漢字をもって朝鮮語を表すのにも用いていた。新羅時代の金石文や歌謡には漢字の訓読が行われ,とくに助詞・助動詞の類を示すために漢字の音読および訓読を複雑に利用している。その趣は日本の宣命(せんみよう)などに類する。この慣習は文書の中に長い間踏襲され,これを吏読(りとう)と称する。
吏読はハングル発明後にも李朝末期まで用いられた。また漢文を解釈する場合,日本の送仮名に類する吐というものを用いた。これには漢字をそのまま用いることもあるが,通例は漢字の略体を用い,その中には日本の片仮名によく似たものもあり,音・形ともにほとんど全く同じものもある(たとえば,タをtaに用いるがごとき)。おそらくは日本における漢字の使用は朝鮮における実験にもとづき,これを発展させたものである。朝鮮に漢字の伝来した年代は明確でない。中国文化との接触はひじょうに古いが,ことに漢の四郡設置は中国文化の移植を強度にもたらした。しかしこの中国人の植民地文化はその周囲の文化と格段に相違していたため,漢字が真に朝鮮の諸民族の間に浸透したのはやはり三国時代であったと思われる。だいたい4世紀後半にまず北から高句麗にはいり,ついで南から百済にはいった。新羅は最もおそく6世紀に百済を介してはいった。
ベトナムも漢代から中国文化の影響下にあり,朝鮮と同様記録には漢字・漢文を用いていたが,ベトナム語を表すに至ったのは14世紀からである。漢字でベトナム語を表すには日本や朝鮮とちがい,その言語が中国語と同じ類型のものであったから,これを漢字で示すことは比較的容易であった。たとえば没(字音môt6 )をもってmôt6 〈一〉を表すようにである。さらに漢字の構成原理を利用して新たな文字をつくった。たとえば月と正とを合体した がgiêng1 〈正月〉を表すのはまさに会意の方法であり,末(字音mat6 )と目の結合の がmǎt5 〈眼〉を示すのは形声の原理である。これら漢字および漢字の原理を利用してベトナム語を表す文字をチュノム (字喃)と呼ぶ。しかし16世紀ころから,ヨーロッパの宣教師がベトナム語のローマ字化を試み,19世紀にベトナムがフランスの植民地になると,このローマ字が国字となって,漢字による表記はすたれた。このローマ字をクォク・グゥquôc-ngu(国語)と呼ぶ。なお漢字の字形輪郭は,朝鮮のハングルや,契丹・女真・西夏・イ(彝)・ミヤオ族などの文字にかなりの影響を与えている。 →文字 執筆者:河野 六郎
日本における漢字 日本へは紀元1世紀またはその前後に,王莽(おうもう )の貨泉が渡来しているから,そのころには,漢字が知られていただろう。ただし,文字の機能まで十分日本人が理解していたかどうかは疑問である。なぜなら奈良時代になっても,史部(ふびとべ)その他,文字に関係ある部は,すべて渡来人か渡来人の子孫で,文字が一般に理解されるようになったのは,ずっと後世と考えられるからである。
字音 初めて伝わったころの字音は不明であるが,5世紀から6世紀にかけての遺品といわれる埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘,熊本県玉名郡和水町船山古墳出土の刀身銘や隅田(すだ)八幡の古鏡銘,また推古時代の金石文に残された固有名詞 に見られる万葉仮名 の字音,奇(カ),移(ヤ),里(ロ),止(ト)などは,漢・魏のころのものと推定される。これらは朝鮮を経て伝来したらしい。下って《古事記》や《万葉集》に主として用いられた字音 は,世に呉音と呼ばれる字音とだいたい一致する。これは長江(揚子江)下流地方の六朝ころの音で,日本には推古時代前後に流入し,ひろく一般に行われて,日本の字音の基礎をなした。その後,隋・唐の時代になって都が長安に移され,北方音が標準とされるようになったとき,唐制の模倣に力を注いでいた日本では,宮廷で率先して新しい北方音を取り入れ,音博士は北方音を教授し北方音を正音と呼び,僧尼の得度(とくど)にも正音を修得しなければ許可しないと幾度か布告している。したがって《日本書紀》の歌謡訓注には,漢音が多く取り入れられている。しかし,《続日本紀》宣命の万葉仮名などは依然として呉音によるところが多いのを見ても,一般の日本人は,漢音の学習がかなり困難であったと見える。特殊な漢籍仏典の読誦(どくじゆ)のほかに,官職の呼称に至るまで呉音が多く用いられていた。漢音以後,平安時代にはいって唐が滅び宋の時代になると,中国の字音はかなり変化したが,入宋した僧などが,その音を伝えている。また,鎌倉時代に,禅宗の伝来に伴って新しく伝来した道具や食物の呼称などに従来と異なる字音によるものが少なくない。これらを唐音または宋音と呼ぶ。唐音の名は,宋・元・明・清初までの中国字音の日本に渡来したものを総称する。
元来中国字音は,1音節が頭子音・介母(かいぼ)・中心母音・韻尾の4部分より成り,さらに各字ごとに平上去入のアクセント をもっていて,日本語の音節が,母音一つ,または1子音1母音の結合から成るような簡単なものではなく,頭子音の種類も《広韻》で41種あり,日本語の13種にくらべてはるかに多い。したがって中国字音は日本語に取り入れられるにあたって極度に変形され,母国でもっていた音の区別が合併されることが多い。これが,日本における漢語の同音語の発生の主因となっている。また,中国字音の韻尾の部分は,日本では1音節化され,韻尾を有する字は2音節となっている。また,漢字の大部分は形声文字であるところから,字音を類推によって定めてしまい,中国の原音にない音を与えているものもある。これを慣用音と呼ぶ。たとえば,耗(もう),滌(じよう)など。これを百姓(ひやくしよう)読みともいう。
訓 中国の原義に対応する日本語が固定した場合,それを訓という。たとえば,山をヤマ,花をハナと読む類である。しかし,文化・自然を異にする中国と日本との間では,当然文物の相違があり,たとえば鮎をアユ,桜をサクラと訓ずるが,中国では鮎はナマズであり,桜も日本のような花でないという。このように日本独特の意義に読まれる場合を国訓という。なお日本語を表記するのに,特殊な漢字の転用が慣習化したものを当て字 という。
字形 奈良時代の書風は王羲之 を尊重する楷書体であり,平安時代に至って行書,草書も行われた。篆書,隷書は,日本では普通には用いられない。漢字が万葉仮名として用いられ,その略体から仮名が作り出されたことは,周知のことである。なお,会意によって日本で新しく作った文字を国字,和字などと呼ぶ。たとえば,凩(こがらし),峠,畠(はたけ),躾(しつけ)などで,国字の大部分は音をもたない。なお近来日本でも常用漢字 の略体化が行われているが,はやく太平洋戦争前に文部省の国語調査会が約150の略字の使用を許容したが,戦後は当用漢字 の制定と並行して131字の略体を発表し,政府の文書や教科書にこれを用い,また新聞・雑誌などにも実施され,その後数次にわたる追補が行われて一般に普及しつつある。 →仮名
漢字の制限 漢字は1字1語を表すので中国では多くの字が使われているが,日本では古く《古事記》が約1600字,《万葉集》が約2600字を用いているにすぎなかった。明治時代以降,新聞が3000字に制限しようとしたが成功しなかった。第2次世界大戦後当用漢字を定めて,政府の文書・新聞・教科書に用いるようになった。日本語の表記に当たって漢字の使用は有害であるとする論もあるが,漢字を使用することによって中国文化を摂取し,仏教を知ることができた日本文化の今日の段階では漢字を全廃することは不可能であると思われる。なお,1981年10月,常用漢字として1945字が内閣により告示されている。 →国語国字問題 執筆者:大野 晋
日本の漢字教育 漢字教育および漢字学習は他の文字,たとえば〈かな〉や英語のアルファベットなどの教育および学習とは,かなり方法や性格を異にしている。そのおもな理由は,漢字という文字自体のもつ特殊性と,日本における取り入れ方(たとえば訓読み)の特殊性にある。漢字は1字で音だけでなく意味も表示する文字であるから,その学習に際しては,ある程度の語の意味学習を伴う。そのため漢字を正しく読み書き するようになることは,英語でいえば単語のスペリング と意味を同時に学習していくのと似た効果があり,文字学習が知識や概念の一定の習得と結びつくという利点がある。しかし,指示内容(意味)の数に近いだけの字数があること,多くの字を区別するために形態が複雑になっていること,音読み(呉音,漢音などの区別もある)と訓読みを関連させて覚えねばならないことなどのため,その学習には多大の労力と時間が必要とされる。江戸時代の寺子屋から現代に至るまで,漢字教育に多くの時間をさいてきたのはそのためであった。それにもかかわらず,今日,まだ定型化された系統的な指導方法が確立されているとはいえないのが実状である。今後の実践的努力の蓄積の期待される分野であるが,その際,ある程度の系統的指導の可能な字は,それを配慮して教える(たとえば〈言〉と〈舌〉を教えてから〈話〉を教える),読本の中での用法とともに教えるだけでなく,熟語づくりや用例捜しなどと並行して学ばせる,漢字の発生,種類,作られ方,読み方の規則などをとりたてて学ばせる(漢字文化の学習)などを重視する必要がある。なお学習すべき漢字数は,旧学制時代は義務教育6年間で約1360字もあったことの反省から,第2次世界大戦後は1948年に〈教育漢字〉881字を定め,これを9年間の義務教育期間に学べばよいということになった。この数は58年に6年間(小学校)で学ぶべきことになり,68年には996字,89年には1006字となった。 執筆者:汐見 稔幸