阿弥陀寺(読み)アミダジ

デジタル大辞泉 「阿弥陀寺」の意味・読み・例文・類語

あみだ‐じ【阿弥陀寺】

山口県下関市阿弥陀寺町にあった真言宗の寺。安徳天皇が葬られ、中世までは浄土宗。明治8年(1875)、寺を廃して赤間宮となる。→赤間神宮
山口県防府ほうふ牟礼むれにある真言宗御室派の寺。山号は華宮山。文治3年(1187)、東大寺大勧進重源ちょうげんが別所として建立。近世初期まで浄土宗であった。

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日本歴史地名大系 「阿弥陀寺」の解説

阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]防府市大字牟礼 坂本

大平おおひら山の西麓、牟礼むれ平野の北奥の地にあり、華厳宗、華宮山と号し、本尊阿弥陀如来

東大寺再建にあたり、その大勧進職として周防に下った俊乗房重源が、東大寺別所として建久八年(一一九七)に創建、後白河法皇の祈願所とした。建立当時に造られた鉄宝塔(国宝)の銘に次のようにある。

<資料は省略されています>

正治二年(一二〇〇)一一月日の周防阿弥陀寺田畠坪付(周防阿弥陀寺文書)によると、寺用料田畠として二五町九段が付され、その所在地は現山口市域の湯田ゆだすえ吉敷よしき、現防府市域の佐波令さばりよう牟礼令むれりよう大前おおさき枳部きべ富海とのみをはじめ、現徳山市域の久米くめ、現下松くだまつ市域の末武すえたけなどの広範囲にわたっている。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]那智勝浦町南平野

妙法みようほう山の中腹にある山岳霊場寺院。妙法スカイラインの終点広場から石段を登ると山門に至る。山門の正面に本堂、左手に「亡者の一つ鐘」の懸かる鐘楼がある。死者の霊魂が枕飯の炊ける間に樒を持って妙法山に詣で、この鐘を打つと伝え、「人なきに鳴る」といわれる。妙法山と号し、高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。「続風土記」は空海の開創と伝え、寛文(一六六一―七三)の寺記を引いて「当山不貴賤男女骸骨於我山立率都婆石塔、念仏修善祈無上菩提、既是諸仏救世之道場也、肆往昔先徳爰居住多矣、諺曰女人号高野、故不僧尼住持自往古例也」と記す。空海の開創伝承は、「不貴賤男女」の山で「女人高野」ともよばれるようになったことから、のちに付会された説と考えられている。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]熊本市細工町三丁目

細工さいく町三丁目の西側にあり、西は坪井つぼい川土居に沿い、北に西光さいこう寺、南に宗禅そうぜん寺がある。大宝山(大峰山)と号し、院号は来迎院、浄土宗、本尊阿弥陀如来。「国誌」によればもと来迎らいごう院と称し、大宝年間(七〇一―七〇四)行基の開基による法相宗の寺に始まるという。現在池上いけのうえ町の妙観みようかん山麓に「らいごういんびら」の地名があり、池上が発祥地ではないかと考えられている。五〇坊あったといわれるうちの一つ池辺ちへん寺は、遺構・遺物から平安時代初期と推定される。「国誌」にはその後移転した飽田あきた大峰おおみね(現万日山)から記され、山上に本堂、南斜面に僧房があったとある。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]西浅井町菅浦

菅浦すがうら集落の中央山手に所在する。浄光山等覚院と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。もと天台宗であったが、文和二年(一三五三)他阿上人託阿が時宗寺院として再興したという(享保八年「什物等之記録」寺蔵)。貞和二年(一三四六)九月の菅浦庄惣村置文(菅浦文書)は、中世菅浦が惣を確立した最初の掟だが、これに署名した一二名の乙名はすべて時宗の法名である阿弥号や房号をもつ。また菅浦大明神(現須賀神社)を拠点として当寺が念仏の結縁を行うなど、惣的結合の精神的基盤をなしていたとみられる。文明一五年(一四八三)一二月一日の年貢納帳(寺蔵)に寺号がみえており、当時田畑三畝で年貢一斗五合を納めていた。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]栗東町東坂

金勝こんぜ山のひがし谷にある浄土宗寺院。金勝山(または富谷山)大通院と号し、本尊は阿弥陀如来。天正六年(一五七八)安土あづち(現滋賀県安土町)浄厳じようごん院が建立されるまでは近江浄土宗の本寺としての地位を占め、その後は浄厳院の筆頭末寺となる。川辺かわづら(現栗東町)出自で、金勝山の浄厳坊に住した隆尭が、応永二〇年(一四一三)当時女人禁制の山であった金勝山から東坂ひがしさかの里に下りて草堂を結び、弘法の道場としたのに始まる(湖東三僧伝)。二世尭誉隆阿は京都知恩院の第一九世となった。文明一七年(一四八五)三世厳誉宗真が六角高頼の帰依を受けて草堂を拡張、阿弥陀寺と称した。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]鹿島町南屋形 前畑

JR常磐線鹿島駅の北方一・三キロの地に位置する。中目山岩松院と号し、浄土宗。本尊は木造阿弥陀三尊立像。阿弥陀如来像は室町期の作といわれ、脇仏として右に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像を配している。当寺の檀越(施主)は、応永一三年(一四〇六)鎌倉から陸奥行方なめかた郡に移り住んだ新田一族の岩松蔵人義政で、初め横手よこて御所内ごしようちに住んだが病にかかり、のち屋形やかた村に居を構えて方三間の堂を建立。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]山科区北花山寺内町

花山かさん山南東麓、渋谷しぶたに街道に面する。法人名は西阿弥陀寺。等光山と号し、浄土系単立。「言継卿記」永禄元年(一五五八)八月一三日条に「北花山阿弥陀堂」の名がみえるが、阿弥陀寺との関係は不明である。「拾遺都名所図会」に「阿弥陀寺 三宮本地堂也、本尊阿弥陀仏・脇士毘沙門・不動、開祖ハ大僧都頼音坊、寛永年中の建立也、後水(尾脱カ)帝の勅願所也」とあり、東野三之宮ひがしのさんのみや(現山科区)の本地とされている。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]小値賀町笛吹郷

西堀にしぼりにある浄土宗寺院。迎峰山薬師院と号し、本尊は阿弥陀如来。永禄二年(一五五九)貞誉寿学の創建と伝えるが、永禄元年に開基近藤弥次郎、開山寂誉で開創されたともいう(元禄二年「平戸領内寺院改帳」松浦史料博物館蔵)。あるいは永禄元年静蓮社寂誉(永禄七年没)の開山ともいう(浄土宗寺院由緒書・蓮門精舎旧詞)。境内に文明年間(一四六九―八七)三河国鳳来ほうらい(現愛知県鳳来町)薬師如来の分身を祀ったという小祠があったと伝え、迎峰山薬師院の号の由来と考えられる。


阿弥陀寺
あみだじ

近世には阿弥陀寺町にあり、津花つばな町から当寺に通ずる参道は阿弥陀寺坂と称されていた。明治二四年上野うえの町の大火に類焼、沢茂尻さわもしり寅十郎とらじゆうろう沢の現在地に移転、再建された(江差町史)。浄土宗寺院。山号光明山、本尊阿弥陀如来。明暦元年(一六五五)松前正行しようぎよう寺五世の常立が隠居後に姥神うばがみ町の裏山を開いて一宇を結んだ。これにより当地域は阿弥陀堂町と称された(寺院沿革誌)


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]会津若松市七日町

七日なのか町西端の南側にある。正覚山十却院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。慶長八年(一六〇三)の開基。下野国の良然が会津に来ていたとき、蒲生秀行の家臣倉垣氏が願出てこの地に修行道場の寺を開き、若松一之いちの町の検断倉田氏が後ろ盾となって仏殿や方丈などを建立した。元和四年(一六一八)四月から三ヵ月間、僧侶一三〇余人が仏道修行をしたという(新編会津風土記)。明治元年(一八六八)九月二二日会津藩降伏後、城内や市中に横たわっている戦死者の遺体は葬ることが許されなかった。許可になったのは翌二年二月で、初めは賊軍の遺体ということで、埋葬地は小田おだ山と薬師堂やくしどう川原の刑場を指示されたが、哀願した結果、当寺と西名子屋にしなごや町の長命ちようめい寺の二寺に限って許された。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]上京区鶴山町

蓮台山と号し、浄土宗。。本尊は阿弥陀如来。脇壇に織田信長・信忠父子の影像を置く。浄土四十八願寺巡拝の一六番(京羽二重)であった。天文年中(一五三二―五五)僧清玉が近江国坂本さかもと(現滋賀県大津市)に創建した。清玉は生誉とも号し、織田信長の帰依をうけ、上立売大宮かみたちうりおおみや(現上京区)に居住したという(山城名跡巡行志)正親町天皇綸旨(浄家寺鑑)によれば、元亀元年(一五七〇)奈良東大寺大仏殿再建の勧進職にあたったことがわかる。弘治三年(一五五七)三月の三善長慶の禁制、永禄元年(一五五八)・同三年・同一一年の室町幕府奉行人奉書が伝わり、永禄元年の奉書は当寺を無縁所として境内で墓を建てること、壇那土葬を許可する内容のものである。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]岩見沢市四条東

専称山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。内陣向かって右に善導大師(宗祖御師範)を安置。明治一八年(一八八五)利根別とねべつ(現在の利根別墓地付近)に草庵を結び説教所を設立したのが始まりで、士族移住者浅海敦之助と土屋平三が発起人となり、移住者全員を檀徒とすることで札幌新善光しんぜんこう寺住職大谷玄超の援助を得て、同寺末として建立された。岩見沢では最も古い寺で、明治二〇年に寺号公称を認められた(阿弥陀寺寺史・寺院沿革誌)。本尊は同二七年に芝増上寺から下付されたもの、脇士の観音・勢至二体は檀徒から寄進されたものである。明治三一年の堂宇焼失を機に利根別から移り、きた二番地(現在の函館本線東踏切付近)に再建された。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]中区大須二丁目

正覚山と号し、浄土宗。本尊は木造阿弥陀如来坐像。往生おうじよう院ともいった。境内一千二六〇坪が除地(寺社志)。初めは海東かいとう新家にいえ(現中川区)にあり、のち清須きよすへ移った。天文二四年(一五五五)五月、信長は斯波義統の法会を執行した(尾張名陽図会)。慶長一六年(一六一一)当地に移る(市譜)。開山は心蓮社本誉。寛文五年(一六六五)信州善光ぜんこう寺四十八願順礼所の三七番となる(尾張名陽)


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]岩井市長須 荒京

鵠戸くぐいど沼に少し突出たところに所在。屈施竜山称名院と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると大化五年(六四九)に三論宗長洲ながす寺として恵鎮が創建し、弘仁三年(八一二)九代証恵の時に天台宗に改宗。一五代覚円は貞応二年(一二二三)に親鸞の弟子となり、名を安養と称し、寺名を現在のものに改め、真宗の寺とした。親鸞が妙安みようあん寺を訪れた時、鵠戸沼を船で下って阿弥陀寺にも入った。その時、竜が現れて船を転覆させようとしたが、親鸞の説法を聴くと死体を残して天に昇ったという。親鸞は阿弥陀寺に一ヵ月滞在し、旧寺域の菩提樹は親鸞の数珠の一つを埋めたのが生長したものという。天正時代(一五七三―九二)住僧舜永と門徒衆は石山合戦で戦功を挙げたので、顕如より阿弥陀仏画を与えられた。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]稲沢市下津町 東下町

岐阜街道と五条ごじよう川の間にあり、国府山と号し、真宗大谷派、もと東本願寺直参。本尊阿弥陀如来。境内七七九坪。延応元年(一二三九)伊勢安濃津あのつ(現津市)の大宝院祐範が霊夢を受けて創建し、初め真言宗曩謨のうばく寺と号したと伝える。文明年間(一四六九―八七)住職良僧が本願寺八世蓮如の教化を受け真宗に改め、寺号も阿弥陀寺と改めた(稲沢市内寺院調)石山本願寺日記の天文一〇年(一五四一)一〇月二三日の条に「就当番之儀、折津阿弥陀寺令持参候」とみえ、永禄五年(一五六二)織田信長より「当寺如前々、門家並末寺共申付旨裁許可在之」と従来どおり門家および末寺の支配を認める旨の裁許状(当寺文書)を得ている。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]仙台市新寺三丁目

成覚じようかく寺の西にあり、時宗。法王山正覚院と号し、本尊は阿弥陀如来。建治三年(一二七七)一遍の奥州巡化のとき伊達氏四代政依が帰依し、伊達だて梁川やながわ(現福島県伊達郡梁川町)に寺を建て一遍を開山とした。のち伊達氏に従って米沢、玉造たまつくり岩出山いわでやま(現岩出山町)と移り、二代藩主忠宗の時現在地に移った。寺領二四石余を付されたが、宝永五年(一七〇八)大火で類焼。現在の本堂は大正一五年(一九二六)落成したものである。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]右京区嵯峨野宮ノ元町

有栖ありす川東岸に位置し、浄土宗。如意山神通院と号し、本尊阿弥陀如来。伝誉を開山とし、最近の解体修理により、建物は正徳三年(一七一三)の建立であることが明らかとなった。喚鐘にも同年の銘がある。寺伝によると、粟生光明あおこうみよう(現京都府長岡京市)や京都知恩院の僧侶が隠居して住持となったという。当寺所蔵の貞享五年(一六八八)の御祷故実書に、正月一三日正午「上剋御祈祷ト称スルヲ略シテ御祷ト唱ヘ、神明ノ社(斎宮神社)地蔵菩薩(以前の本尊)ヘ洗米御酒ヲ供ヘ、神明社ヘ拝礼シ、地蔵菩薩ノ尊前ニ大木ヲ居ヘ、村中向ヒ合ニ座シ、長サ一尺八寸ノ生木ヲ以テ五穀成長繁栄ノ形ヲ成シ、天下泰平五穀成就、村中繁栄家内和合ト唱ルヲ略シテ、栄和ト唱ヘ」と村人の祈祷の様子が記される。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]箱根町塔之沢

とうノ峰の山中にある。浄土宗、阿育王山放光明律院と号し、本尊は阿弥陀三尊。開山木食僧弾誓が全国各地を遊行の後、塔ノ峰山中の岩窟に籠って念仏修道を始めたのは慶長九年(一六〇四)九月で(「念光覚書」阿弥陀寺文書)、同年一〇月二五日には小田原藩主大久保忠隣より二四町余の境内地寄進を受けており(同文書)、建立はこの頃であろう。同一二年弾誓とその弟子たちは、阿弥陀寺岩窟中に諸霊供養のために八基の五輪塔と五一基の圭頭碑を造立した。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]左京区大原古知平町

大原おおはらの北、焼杉やけすぎ山の西麓古地こち(古くは鴛谷)の奥に位置する。古知谷光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。慶長一四年(一六〇九)弾誓創建、開山堂(本堂)には自作と伝える弾誓上人像を安置(京都府愛宕郡村志)。「都名所図会」によれば、弾誓は尾張国あまべの里の出身。九歳で出家、諸国を念仏修行する木食僧であったが、京の五条大橋より北の空に紫雲たなびき光明あるを発見し、この地に一堂を建立したと伝える。寺号の光明山はこれにちなむ。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]平戸市野子町

野子のこ集落の南にある。志自伎山と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。志々伎しじき神社の別当円満えんまん寺の別院で、向東こうとう庵とも称された。真言宗に帰依した松浦鎮信(法印)がその領内に寺院を建立、これを継承した隆信が大檀那となって円満寺および阿弥陀寺を建立したとも伝える。江戸時代は志々伎神社の祭祀や祈祷を円満寺が執行したのに対して、当寺は葬式や法要などを行った。当寺の裏から志々伎神社の二の鳥居の辺りまで石仏八八体が並ぶ。


阿弥陀寺
あみだでら

[現在地名]三水村大字芋川字飯綱堂

南保山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。

寺伝によれば、往古は字立野たつのに浄土宗阿弥陀堂があり、文明四年(一四七二)蓮如の回国布教の際、住職の恵暢が転宗したという。慶長一八年(一六一三)三河国足助あすけ郷月原村明専みようせん寺の住職光心が脱去して本村にきて、当寺に住し寛永一三年(一六三六)当郡柏原かしわばらに移住、これが柏原村(現信濃町)の明専寺である。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]新旭町旭

あさひ堀川ほりかわ集落の西にあり、延命山と号し、真言律宗。本尊阿弥陀如来。厩戸皇子の開基で、元亨二年(一三二二)律禅の中興と伝える。建武三年(一三三六)足利尊氏が祈願地として寺領を寄進したという。明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に阿弥陀寺とある。永正四年(一五〇七)四月二五日の旦那売券(熊野那智大社文書)に寺名がみえる。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]山科区御陵天徳町

天智天皇陵の南東、旧東海道の北に位置する。山号は吉祥山、浄土系単立寺院。「山州名跡志」は「阿弥陀堂 在同所北方南向、本尊阿弥陀仏坐像八尺作行基・開基同僧、斯所北二町余ニ葬所三昧アリ、是即行基ノ所開、此堂葬所ノ本師堂也」と開基は奈良時代の僧行基と伝える。のち天台宗の別院となっていたが、正平一二年(一三五七)京都知恩院の住持となった円智(読史備要)が、浄土宗に改宗した(宇治郡名勝誌)


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]右京区嵯峨越畑南ノ町

越畑こしはた村の中央付近にあり、曹洞宗。寺伝によれば当村に土着した坂上田村麻呂の子孫田村準玄が、天禄元年(九七〇)に開基。当村の開闢について援助と協力を受けた愛宕あたご山白雲寺の慶俊聖と、貞観二年(八六〇)に当地を訪れてのち、田畑の開闢に「米財令賜」とある坂上田村麻呂の妻薩御前を村の「地主氏神奉崇決定」して霊廟を建立し「社聖宮、御前宮一村氏神奉心仰、無不成就念願、蛭子宮仲条才二依心仰同所建立、同造営菩提所奉安置、西方教主日夜願菩提経、阿弥陀寺唱来」という(「村由来記」村瀬芳巳家文書)


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]新利根村上根本

朝日向あさひなにある。遍照山根本院と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。弘安四年(一二八一)一遍の開基と伝える。慶安三年(一六五〇)覚阿西斬によって中興され、宝暦年間(一七五一―六四)庫裏・方丈・鐘楼、安永三年(一七七四)本堂を再建する。天明四年(一七八四)本堂を焼失するが、寛政一二年(一八〇〇)再建。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]奈良市南風呂町

南風呂みなみふろ町南側に所在。安養山浄土院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。開山は土丸。永徳元年(一三八一)元興がんごう(現奈良市)の一庵に始まり、慶長年間(一五九六―一六一五)鮮誉が本堂を造立して浄土宗を広め、興福寺一乗院宮尊勢から寺号を与えられたという。元和五年(一六一九)に炎上したが、同七年に専阿によって再興された。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]甲賀町櫟野

光明山と号し、本尊は阿弥陀如来。中世には櫟野らくや寺の塔頭七坊の一つであったという。永禄年間(一五五八―七〇)焼失後、天和二年(一六八二)誓誉により再興され、浄土宗となる。明治一六年(一八八三)同じく櫟野寺の塔頭であった安国寺を合せた。木造阿弥陀如来坐像は一材から彫成され、定印を結び、一〇世紀の作とされる。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]下津町橘本

加茂かも川北岸の山麓にあり、丈六山宝蔵院と号する。浄土宗で本尊阿弥陀如来。「続風土記」は慶長三年(一五九八)頂蓮社上誉安養の開基と伝えると記すが、加茂組寺社書上(下津町史)には、古来の言伝えとして恵心が当地に居住し、丈六の阿弥陀絵像を描き本尊としたので丈六山という山号になったが、乱世の中でその絵像を紛失し、その後は慈覚大師円仁作の阿弥陀如来を本尊としているとある。


阿弥陀寺
あみだじ

[現在地名]一色町佐久島 東屋敷

佐久さく島の東に位置する。覚林山報身院と称し、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。「佐久島旧記」によるともとは阿弥陀堂で、天台宗薬師寺の別院であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「阿弥陀寺」の意味・わかりやすい解説

阿弥陀寺 (あみだじ)

周防国牟礼令(現,防府市牟礼)の古寺。山号華宮山。1186年(文治2)後白河法皇により周防国は焼失した東大寺の造営料国に寄進された。造営責任者で周防国務をゆだねられた大勧進重源上人が,国衙領経営と造営用材伐採の拠点として国庁東方に設けた周防別所(南無阿弥陀寺)が同寺の前身である。堂宇が完成をみた97年(建久8)重源は鉄製多宝塔(国宝として現存)を鋳造し,同寺創建の由来を刻みこんだ。以降周防国司職を兼ねる歴代東大寺大勧進上人を住持に,在庁官人を檀越とする同寺は,1281年(弘安4)にその由緒から朝廷祈願所となり,国衙の庇護のもとに寺領を経営し,多くの子院を擁して隆盛をほこった。しかし在庁官人の国衙領横領による東大寺の権威退勢のなかで,本寺東大寺との関係は稀薄となり,1484年(文明16)一山焼失後,大きく衰運に傾いていった。江戸時代前期寛文年間(1661-73)に毛利氏の後援により再興された。華厳宗(真言宗御室派兼宗)。
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阿弥陀寺 (あみだじ)

京都市上京区鶴山町の浄土宗鎮西義の寺院。知恩寺末寺。もと近江坂本にあったというが,生誉清玉は飯尾元運などの援助を得て,1555年(弘治1)管領代の旧跡,京都の芝薬師町に寺を建て,三好長慶の禁制を与えられた。この地は蓮台野に近く,同寺も蓮台山と称する無縁所で,墓所たることを認められ,境内には市場も立ち,能などの芸能も行われた。その後も,室町幕府によって,60年(永禄3)千部経読誦,63年別時念仏のさい,市場を開くことを認められており,織田信長の帰依もうけ,82年(天正10)の本能寺の変のあと,清玉は信長やその家臣の屍を境内に葬った。一方,1570年(元亀1)清玉は正親町天皇の綸旨を得て,東大寺大仏殿再興の勧進上人となり,豊臣秀吉の時代にかけて,洛中洛外諸寺諸山を勧進している。87年秀吉の命で現在地に移った。清玉は秀吉の所領寄進の申し出を拒否し,その怒りを買ったとも伝えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿弥陀寺」の意味・わかりやすい解説

阿弥陀寺
あみだじ

山口県防府(ほうふ)市牟礼(むれ)上坂本にある寺。東大寺別院。真言宗御室(おむろ)派に所属し、華宮山(かぐうざん)と号す。1180年(治承4)東大寺が焼失したのち、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を大勧進職として再建させたが、そのときの復興に朝廷は周防(すおう)一国の租税を東大寺に寄付し、重源を周防の国務の管理に任じた。阿弥陀寺は、重源が殊遇を受けたのち白河法皇の現世安穏を祈って1187年(文治3)に創建。国宝の鉄宝塔には、建久(けんきゅう)8年(1197)重源造立の銘があり、東大寺造営のことを刻んでいる。国の重要文化財に重源坐像(ざぞう)、金剛力士像2躯(く)、阿弥陀寺領田畠注文並免除状1巻、東大寺槌印(つちいん)があり、寺内に本堂、念仏堂、仁王門などが建つ。

[野村全宏]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿弥陀寺」の意味・わかりやすい解説

阿弥陀寺
あみだじ

山口県防府市にある華厳宗 (真言宗御室派を兼宗) の寺。文治2 (1186) 年東大寺再建の大勧進職として周防国司となった俊乗坊重源により建立。また『防長寺社由来』によれば,建久8 (97) 年東大寺別所として創建され,後白河法皇の勅願所となったという。住職には東大寺勧進職が任じられ,塔頭が輪番により寺内の諸沙汰をつとめた。寛文年間に中興され,真言宗に転じたが,1953年もとの華厳宗となり,現在真言宗も兼宗している。建久8年につくられた鉄宝塔は,鋳鉄製で五輪の塔に近い形態を示し,中に水晶五輪塔を奉安する金工史上の秀作。また,その銘文も金石文として高い価値を有しており国宝。

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防府市歴史用語集 「阿弥陀寺」の解説

阿弥陀寺

 1187年に重源[ちょうげん]によって建てられたお寺です。東大寺を建て直すための木材を切り出したり、仏教を広めたりする拠点(別所[べっしょ])として建てられました。

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デジタル大辞泉プラス 「阿弥陀寺」の解説

阿弥陀寺〔山口県〕

山口県防府市にある寺院。華厳宗、真言宗御室派を兼宗。山号は華宮山(かぐうざん)。1187年創建。東大寺別院。鉄宝塔は国宝に指定。アジサイの名所。

阿弥陀寺〔和歌山県〕

和歌山県和歌山市にある浄土宗の寺院。本堂は1633年に造営した2代将軍、徳川秀忠の霊屋を移築したもので、国の重要文化財に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「阿弥陀寺」の解説

阿弥陀寺

(滋賀県伊香郡西浅井町)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の阿弥陀寺の言及

【那智勝浦[町]】より

…入り組んだ海岸線と熊野灘の荒波がつくり出す洞穴や奇岩,また沖の島々は〈紀の松島〉と称される景勝を展開,吉野熊野国立公園の一画をなす。町域北東部には熊野三山の一つ熊野那智大社(熊野大社)をはじめ,西国三十三所の第1番札所青岸渡(せいがんと)寺,〈女人高野〉とも呼ばれる妙法山阿弥陀寺などがあり,一大霊場を形成する。一方,那智湾に臨む勝浦を中心に南紀を代表する温泉郷(勝浦温泉)がひらけ,信仰と観光の町である。…

※「阿弥陀寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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