デジタル大辞泉
「カール」の意味・読み・例文・類語
カール(Karl)
(1世)[742~814]フランク王。小ピピンの子。ゲルマン民族を統合し、西欧をほぼ統一。法制を整備して中央集権国家をつくり、800年、教皇から西ローマ帝国皇帝を戴冠。学術文化を奨励、その成果はカロリング‐ルネサンスとよばれた。カール大帝。シャルルマーニュ大帝。
(4世)[1316~1378]神聖ローマ帝国皇帝。ボヘミア王。ボヘミア王ヨハンの子。金印勅書を発布して皇帝選挙の手続きを確定。アビニョン捕囚中の教皇のローマ帰還を実現した。プラハ大学の創立者。
(5世)[1500~1558]神聖ローマ帝国皇帝。スペイン王としてはカルロス1世。生涯、内外の反乱の処理に終始。宗教改革に反対してルター派を弾圧、新教諸侯と争ったが、アウグスブルクの和議で、信教の自由を承認。
(12世)[1682~1718]スウェーデン王。列強のスウェーデン分割に対抗、北方戦争を起こしたが、ポルタバの戦いで敗北。
カール(〈ドイツ〉Kar)
氷河の浸食によって、山頂直下の斜面が、すくい取ったように円形に削られた地形。日本では飛騨・赤石・日高山脈などにみられる。圏谷。
カール(curl)
[名](スル)
1 髪の毛を巻いた状態にすること。また、その髪。巻き毛。「内巻きにカールさせる」「ピンカール」
2 曲げること。ねじること。
カール(Eric Carle)
[1929~2021]米国の絵本作家。色紙を切り張りするコラージュの手法を用いて、動物や昆虫などを描いた作品を数多く残した。作「はらぺこあおむし」「パパ、お月さまとって!」など。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
カール
- ( Karl )
- [ 一 ] ( 五世 ) 神聖ローマ帝国皇帝(在位一五一九‐五六)。スペイン国王としては、カルロス一世(在位一五一六‐五六)という。宗教改革に反対したが、一五五五年、アウグスブルクの宗教和議で新教(ルター派)を公認した。(一五〇〇‐五八)
- [ 二 ] ( 一二世 ) スウェーデン国王(在位一六九七‐一七一八)。北方戦争を起こし、ナルバの戦いで勝利をおさめウクライナに向かったが、ポルタバの戦いでロシア軍に大敗した。(一六八二‐一七一八)
カール
- 〘 名詞 〙 ( [英語] curl ) 髪の毛が巻き毛になること。髪の毛を巻くこと。また、その髪。〔外来語辞典(1914)〕
- [初出の実例]「僕は〈略〉捲毛(カアル)の消えかけた彼女のおかッぱへ斜に頤を載せた」(出典:アパアトの女たちと僕と(1928)〈龍胆寺雄〉八)
カール
- 〘 名詞 〙 ( [ドイツ語] Kar ) 氷河地形の一つ。山の頂上近くが氷河にけずられてできた、半欠けの椀(わん)状のくぼみ。圏谷(けんこく)。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
カール(大帝)
かーる
Karl der Große
(742―814)
カロリング朝第2代のフランク国王(在位768~814)。フランスではシャルルマーニュCharlemagne。初代のカロリング国王ピピン(小)の長子。768年父王の死により、カールは王国の北半を、弟カールマンは南半を分割統治し、771年弟の死とともに全王国の統治者となった。
[平城照介]
カールのもとでフランク王国は最大の版図に達した。まず772年、それまでたびたびのキリスト教化の試みに頑強に抵抗し、異教信仰と政治的独立を守り抜いてきたザクセン人に対し、武力による征服とキリスト教化に着手、その後約30年間、豪族ウィデキントを首領とするザクセン人民の激しい抵抗をくじくため、ほとんど毎年のように遠征を繰り返し、ザクセンの貴族層を懐柔したり、あるいはアラー河畔のウェルデンで、反乱を起こした(782)ザクセン人の指導者4500人を処刑する過酷な手段まで用いて、804年ついにこれを平定した。また773年、ランゴバルド王デシデリウスが教皇領を侵したのを口実にイタリアに遠征、翌年首都パビアを占領し、ランゴバルド王国を併合してその王位についた。西方ではイベリア半島のイスラム教徒の脅威を除くため、再三ピレネー山脈を越えて遠征を行い、801年バルセロナを占領、フランクの支配をエブロ川まで広げ、カタルーニャ地方に辺境領を設置して、イスラム支配地域から逃れてきた者を定住させ、防衛の任務を負わせた。さらに東方では、自立性の強かったバイエルンの大公タシロを廃位、バイエルン、ケルンテンの両地方を直轄領とし(788)、796年にはアバール人の国を滅ぼして、パンノニア、ダルマチア地方にまで勢力を広げた。
[平城照介]
かくてカールは、ほとんどのゲルマン系諸部族を統合し、西はピレネー山脈から東はエルベ川に至る、北は北海沿岸から南は中部イタリアに至る、西ヨーロッパの政治的統一を達成したが、この実力を背景にローマ教皇権と結び、800年にはローマで教皇レオ3世から皇帝として戴冠(たいかん)された。「西ローマ帝国の復活」といわれるこの事件は、西ヨーロッパが東ローマ(ビザンティン)帝国の影響から名実ともに独立したことを示し、812年、東ローマ皇帝ミハエル1世にも、カールの皇帝権を承認させることに成功した。カールはまた794年フランクフルトに全国の教会会議を招集し、聖像崇拝に関するニカイア公会議(787)の決定を受け入れることを拒否させ、西方教会に対する指導権をも確立した。
[平城照介]
カールはこの広大な領土を支配するため、国内の各部族の部族法典の成文化により、それぞれの部族の独自性をある程度認めるとともに、従来の部族大公制を廃止して、全国をグラーフシャフト(伯管轄区)に組織し、カロリング家の地盤であったアウストラシア地方の豪族層をグラーフGraf(伯)として派遣し、あるいは在地の豪族をグラーフに任命し、領内の裁判、貢租の徴収、兵員の招集などの任務にあたらせ、定期的に国王巡察使を派遣してグラーフを監督させた。また多くの勅令を発して国家機構の整備に努め、とくに豪族層の隷属民化しつつあった自由農民の保護に注意を払うと同時に、封建制度をも積極的に利用したが、このことは中世のヨーロッパ封建諸国家の共通の出発点ともなった。王権の経済的基礎をなしたのは王領地であるが、カールが発布したといわれる(これには異論もある)「御料地令」は、王領地の管理、経営の方法を詳細に規定したもので、彼の関心が経済や社会生活にまで及んでいたことを示している。
[平城照介]
伝記作者アインハルトの伝えるところでは、カールはきわめて敬虔(けいけん)な人柄であったとされ、教会や修道院に対しては多くの所領や特権を与えて保護し、高級聖職者に文化上、政治上の重要な任務をゆだね、彼らを王権の重要な支柱とした。とりわけ、カールのイニシアティブに発するカロリング朝ルネサンスの主要な推進者は、これらの高級聖職者であった。すなわち、アーヘンの宮廷を中心に、アルクイン、アインハルト、パウルス・ディアコニスらの聖職者が活躍し、古典文化、キリスト教、ゲルマン民族精神というヨーロッパ文化の三大構成要素は、カール大帝の時代に初めて完全に融合し、政治的にも文化的にも宗教的にも、将来のヨーロッパの歴史的発展の基礎が置かれたということができる。彼の伝記としては、側近に仕えた前述のアインハルトの『カール大帝伝』をはじめ、いくつかのものがあるが、しだいに一種の理想的帝王として偶像化され、中世の武勲詩の主人公ともされた。
[平城照介]
『J・カルメット著、川俣晃自訳『シャルルマーニュ』(白水社・文庫クセジュ)』▽『J・ブウサール著、井上泰男訳『シャルルマーニュの時代』(1973・平凡社)』▽『木村尚三郎編・訳『世界を創ったひとびと第6巻 カール大帝』(1980・平凡社)』▽『増田四郎著『西洋中世世界の成立』(1950・岩波全書)』▽『アインハルト著、国原吉之助訳『カール大帝伝』(『世界文学大系66 中世文学集』所収・1966・筑摩書房)』
カール(5世)
かーる
Karl V
(1500―1558)
神聖ローマ(ドイツ)皇帝(在位1519~56)。スペイン王としてはカルロス1世(在位1516~56)。ハプスブルク家のオーストリア大公フェリペとスペイン王女フアナとの子としてガン(ヘント)で生まれ、フランドルでフランス文化の影響を受けて育った。1516年、母方の祖父フェルナンドの死去によりスペイン王位につき、カスティーリャとアラゴンのほか、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、スペイン領アメリカ植民地を継いだ。また3年後の19年、父方の祖父マクシミリアン1世の死去により、フランス王フランソア1世と激しく争ったすえにドイツ皇帝に選ばれ、ヨーロッパ最大の君主となった。
スペイン王として、またドイツ皇帝としての彼の治世は、イタリア支配をめぐるフランスとの対立、ドイツにおける新教派勢力との対決、レコンキスタ(国土回復戦争)とアメリカ征服以来のスペインの帝国拡張主義の三つの問題で彩られ、東ではトルコの脅威、北ではイギリスとオランダの興隆がこれを取り巻いていた。ハプスブルク家の膨張に脅威を感じたフランソア1世は、他の諸国と結んだり、トルコや新教徒と通じたりして長期の戦争をしかけた。しかし、カール5世は1525年のパビアの勝利、27年のイタリア制圧、29年のカンブレーの和約によってその意図をくじき、大きな犠牲を払ったすえ、44年のクレピーの和約でイタリア戦争を収め、この間29年にはウィーンを包囲したトルコ軍を撃退した。
諸侯や都市が政治的に分裂・割拠し、皇帝の権力が弱かったドイツでは、宗教改革が混乱を深めていた。彼は教皇を味方につけるため旧教の側にたち、1521年のウォルムスの国会で新教を禁止し、自説の撤回に応じないルターを追放刑に処した。しかし、反乱の勃発(ぼっぱつ)でスペインへ帰り10年近く皇帝が不在であったこともあって、その間ドイツでは新教勢力が広がり、46~47年のシュマルカルデン戦争ではミュールベルクの戦いで新教派諸侯の同盟軍に大勝したが、皇帝の権力強化を恐れたザクセン公モーリッツらの変節でドイツ政策は破綻(はたん)をきたした。ドイツの政治的分裂と宗教的対立は解決されず、55年のアウクスブルクの国会でルター派諸侯と宗教和議が締結された。最後にスペインでは、内政を犠牲にしてハプスブルク家の帝国拡張主義の夢を追い続けた。自らは1526年ポルトガル王女イサベルと結婚し、息子フェリペ(2世)をイギリス王女メアリーと結婚させてフランス包囲勢力をつくったが、国内産業は発展せず、中南米から獲得した富も拡張政策に消費し尽くされた。そのつけはフェリペ2世のときに国家破産、異端の蔓延(まんえん)、帝国諸地方の反乱となって現れ、重税、密告と狂信、鎮圧戦争という結果を生むことになる。
晩年には中風を患って身体の自由を欠き、1556年にドイツ皇帝の位を弟のフェルディナント1世に、スペイン王位を子のフェリペ2世に譲り、ユステの修道院に隠退して2年後の58年9月21日に死去した。
なお、彼はドイツ皇帝としてはドイツ語を片言しかしゃべれず、スペイン人からは外国人の大臣を連れてやってきた「外国人の国王」とみられていた。スペイン王在位の40年間にスペインに滞在したのは前後6回、計16年に満たなかった。
[諸田 實]
『成瀬治著『国際政治の展開』(『岩波講座 世界歴史14 近代1』所収・1969・岩波書店)』▽『魚住昌良著『宗教改革時代の諸変革』(『ドイツ史』所収・1977・山川出版社)』▽『J・H・エリオット著、藤田一成訳『スペイン帝国の興亡 1469―1716』(1982・岩波書店)』
カール(Jerome Karle)
かーる
Jerome Karle
(1918―2013)
アメリカの物理化学者。ニューヨークに生まれる。ニューヨーク市立大学で化学と生物を学び1937年に卒業、1938年ハーバード大学で修士号、1943年ミシガン大学で博士号を取得した。第二次世界大戦中は、シカゴ大学でマンハッタン計画(原子爆弾製造計画)に参加した。戦後、1946年にワシントンDCの海軍研究所に入り、1968年には物質構造研究室の主任研究員となった。その間、メリーランド大学で講義を行っているが、彼はイギリス、ドイツ、カナダなど世界各地で講義を行っている。なお、妻のイザベラIsabella Helen Karle(1921―2017)も著名な結晶学者である。
カールは、1950年から1957年にかけて海軍研究所でハウプトマンとともに、物質の結晶構造の決定に関する共同研究を行った。結晶にX線を照射し、得られた回折像を解析して結晶構造を決定するX線構造解析は、これまでも有力な研究方法として利用されていた。しかし従来の方法は、データの解析に時間がかかり、また結晶の条件などに限界がみられた。彼らは、解析に数学的手法、とくに統計学的手法を取り入れることにより、短期間に直接的に結晶構造を決定する方法(カール‐ハウプトマンの方法または直接法とよばれる)を開発した。この業績により、カールはハウプトマンとともに1985年のノーベル化学賞を受賞した。
[編集部]
『安岡則武著『これならわかるX線結晶解析』(2000・化学同人)』
カール(Robert F. Curl Jr.)
かーる
Robert F. Curl Jr.
(1933―2022)
アメリカの化学者。テキサス州アリスに生まれる。ライス大学で化学を専攻し1954年に卒業。カリフォルニア大学バークリー校に進学し1957年博士号を取得。ハーバード大学での研究を経て、1958年ライス大学助教授、1967年から同大学教授。マイクロ波分光法や赤外線分光法を用いてフリーラジカルの反応における動きや電子的な構造などを研究した。
1985年、R・スモーリー、H・クロートとの共同研究で炭素原子60個からなる新しい化合物を発見する。それまで、炭素の単体としては黒鉛(グラファイト)やダイヤモンドなどが知られていたが、それらとは異なる新しい構造で、化学的に非常に安定した性質をもち、しかもかご状の形(六角形と五角形が組み合わさったサッカーボールと同じ形)をしていると予想されたため、これをフラーレンと名づけた。フラーレンはその構造の中に原子を閉じ込めることができたり、超伝導性をもたせることができ、まったく新しい素材として電子工学や医学に応用が期待されている。フラーレン発見の功績に対して、スモーリー、クロートとともに1996年のノーベル化学賞を受賞した。
[馬場錬成 2018年6月19日]
カール(4世)
かーる
Karl Ⅳ
(1316―1378)
ルクセンブルク家出身の神聖ローマ(ドイツ)皇帝(在位1347~78)。正式な戴冠(たいかん)は1355年。ベーメン(ボヘミア)王ヨハンJohann von Luxemburg(1296―1346、在位1310~46)の長子。ベーメン王としてはカレル1世Karel Ⅰ(在位1346~78)。幼名はウェンツェル。若くして伯父フランス国王シャルル4世の下に預けられ、その名にちなんでカールと改名した。同国王とローマ教皇クレメンス6世によって、政治家として教育を受けた。父王が失明したため、早くからベーメンの実質的統治者となっていたが、1346年ウィッテルスバハ家のドイツ国王ルードウィヒ4世の対立国王に選ばれ、同時に父王の死によりベーメンの王位を継承、翌47年のルードウィヒの死、ならびに49年のウィッテルスバハ家との和解後、支配権を確立、以後、家領拡大政策を積極的に展開して、王権の基礎の強化に努めた。とりわけ家領の中核をなすベーメンの経営に力を傾け、鉱山の開発、交通路の整備などを行って、首都プラハを東欧経済の中心にしたほか、1344年には司教座を大司教座に昇格させ、48年にドイツ最初の大学をこの地に建設、多くの学者を招いたので、プラハ大学はパリ大学に次ぐ学問の中心となった。また1356年、ニュルンベルクおよびメスに招集した帝国会議で金印勅書を発布し、7名の選帝侯の多数決による皇帝選挙の手続を確定し、同時に選帝侯に多くの特権を承認した。このように彼は中世後期の皇帝のなかで、きわめて個性的な統治を行った支配者であるが、その治世については歴史的評価が分かれている。たとえば金印勅書に関して、これが、皇帝選挙の際対立国王の出現(諸侯が分裂して、いわゆる二重選挙を行う事態)を防止したと評価する立場と、ドイツの領邦分裂体制への大きな足掛りとなったと評価する立場とがそれである。1978年は彼の死の600年祭にあたり、それを記念して多数の学術的研究が刊行され、彼の業績の再検討が活発に行われている。
[平城照介]
カール(14世)
かーる
Karl ⅩⅣ
(1763―1844)
フランスの軍人、のちにスウェーデンおよびノルウェーの国王(在位1818~1844)。現スウェーデン王室の祖。元の名はベルナドットBernadotte, Jean Baptiste Jules。南フランスのポーの出身。1780年軍に入り、1789年のフランス革命勃発(ぼっぱつ)後頭角を現し、1794年将官となり、ライン地方、イタリアなどで戦った。1798年駐ウィーン大使、1799年夏陸相。ナポレオンの独裁成立後一時閑職に置かれたが、1804年元帥となり、1805年以後軍団司令官としてオーストリア、ドイツ、ポーランドなどを転戦。1806年ポンテ・コルボ大公に叙せられた。1810年スウェーデン議会から、前年3月の革命により即位した国王カール13世(1748―1818、在位1809~1818)の養嗣子(ようしし)に指名され、妻子とともにスウェーデンに赴く。ただちに王太子として政治、軍事の実権を握り、1812年フランスと絶縁し、1813年対ナポレオン戦争に参加、1814年デンマークにノルウェーを割譲させた。1818年即位。在位中、対外的には協調政策をとり、経済の再建にも一定の成果をあげたが、内政面ではかなり反動的な政策をとり、また生涯スウェーデン語を学ぼうとしなかった。彼の妻ユージェニーBernardine Eugénie Désirée(1777―1860)は、ナポレオンの兄ジョゼフJoseph Bonaparte(1768―1844、ナポリ王(在位1806~1808)、スペイン王(ホセ1世José Ⅰ。在位1808~1813))の妻ジュリーMarie Julie Clary(1771―1845)の妹である。
[本間晴樹 2022年8月18日]
カール(Gustav Ritter von Kahr)
かーる
Gustav Ritter von Kahr
(1862―1934)
ドイツの右翼政治家。バイエルンに生まれる。1917年、上バイエルン県知事となる。1920年3月、カップ一揆(いっき)の影響下にバイエルンの右翼ブルジョア政府の首相となったが、中央政府の緊急令と妥協せざるをえなくなり、1921年9月辞職。その後、1923年9月、バイエルン政府によって州総監に任ぜられると、バイエルン駐留の国防軍司令官フォン・ロッソウの支持を受けて中央政府に対抗し右翼独裁を企てたが、運動の主導権をめぐってヒトラーと対立、同年11月のヒトラー一揆を失敗させた。1924年に中央政府と和解後、バイエルン行政裁判所長官となった。1934年6月30日、突撃隊最高幹部レームが粛清された際、ヒトラー一揆の裏切り者としてナチスによって殺害された。
[松 俊夫]
カール(谷)
かーる
Kar ドイツ語
氷河の侵食によって山稜(さんりょう)直下の谷頭部につくられる円形ないし馬蹄(ばてい)形の平面形をもつ谷。圏谷(けんこく)ともよばれる。切り立ったカール壁と、比較的緩やかな傾斜をもつカール底からなり、カール底は急なカール壁によって三方を囲まれる。カール底の末端では傾斜が急に変わり、下流に向かって階段状に急傾斜で落ち込む場合と、大きな傾斜の変化をもたずにカール底からそのまま氷食谷へ連続する場合とがある。カール底末端で傾斜が急変するときには、カール底が逆傾斜して末端に基盤岩の高まりをつくることが多い。この高まりは谷棚(たにだな)とよばれる。逆傾斜したカール底には、解氷後に湖がつくられる(カール底湖)。
カールの成因については諸説があるが、氷河の表面より上方にそびえる急なカール壁で強力な凍結破砕作用が働き、カール壁を侵食・後退させること、および氷河底面での侵食作用によるカール底の掘り下げが重要視される。カール底はほぼ雪線(せっせん)の高さに形成されるので、その高度はカールがつくられた時期の雪線高度の復元に用いられる。カールは積雪量が多く、日射を受けにくい所にできやすいから、北半球では山脈の北側や東側に多い。日本では日高山脈や日本アルプスの森林限界付近に、氷期につくられた多くのカール地形がみられる。
[小野有五]
カール(12世)
かーる
Karl Ⅻ
(1682―1718)
スウェーデン王(在位1697~1718)。カール11世(1655―1697、在位1660~1697)の息子。1697年即位、まもなく親政を開始した。1700年北方戦争が始まると、自ら軍を率いてまずデンマークを下し、さらにナルバにおいてロシア軍を撃破。続いてポーランドに侵入し、1706年までにポーランド、ザクセンを制圧。1707年ロシア侵攻を開始したが、1708年補給困難のためウクライナに転じ、1709年ポルタバにおいて大敗、トルコに亡命した。トルコ宮廷を動かしロシアと開戦させたが、1712年ロシア・トルコ両国の講和を不満とし、追放され1715年帰国。帰国後、ロシア、デンマーク、プロイセンなどの攻撃により窮地にあったスウェーデンを救うため、軍を再建する一方、ロシアとの単独講和を企てる。1718年ノルウェーに侵入し、フレデリクスハル要塞(ようさい)を攻囲中に戦死。子供はなく、妹のウルリカ・エレオノラUlrika Eleonora(1688―1741、在位1718~1720)とその婿のヘッセン地方伯フレドリク(フレデリック1世Fredrik Ⅰ。1676―1751、在位1720~1751)が後を継いだ。治世の大半は戦陣にあり、通称を「兵隊王」という。
[本間晴樹 2022年9月21日]
カール(6世)
かーる
Karl Ⅵ
(1685―1740)
ハプスブルク家のドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝、在位1711~40)。スペイン継承戦争に際して王位の継承を求め、スペインで戦ったが、兄ヨーゼフ1世の死後、皇帝位とオーストリアの全家領を継いだ。スペイン王位の代償に旧領の一部を得て領土を広げ、プラグマティッシェ・ザンクツィオン(国事詔書)により領土の不分割を布告したが、長女マリア・テレジアへの相続実現のため苦悩した。音楽や芸術を愛好するバロック時代最後の君主であった。
[進藤牧郎]
カール(2世)
かーる
Karl Ⅱ
(823―877)
通称禿頭(とくとう)王。西フランク国王(在位843~877)。ルードウィヒ1世(ルイ1世、敬虔(けいけん)帝)と後妻ユーディットとの子。父帝が先妻との3人の子供(ロタール1世、ルードウィヒ2世、ピピン)の間に帝国を分割した817年の取決めを、カールのために修正しようとしたため、兄弟間の争いが生じ、843年のベルダン条約により、彼はピレネー山脈よりローヌ、ソーヌ、マース川に至る西フランク王国を獲得した。その後もロタール2世の死に際して、次兄の東フランク国王ルードウィヒ2世と結び、ロタールの領土ロートリンゲンを分割した(メルセン条約、870)。875年ローマで皇帝に戴冠(たいかん)されたが、国内の豪族の台頭に悩まされ、ノルマン人の侵入にも苦しめられた。
[平城照介]
カール(3世)
かーる
Karl Ⅲ
(839―888)
通称肥満王。東フランク国王(在位876~887)。ルードウィヒ2世(ドイツ人王)の末子。864年父王の死後、遺領分割によりアレマンネン王となったが、2人の兄が夭折(ようせつ)したため、882年全東フランク王国を統一してその国王となった。(881年皇帝に戴冠(たいかん))。さらに西フランク国王カールマンの死後、西フランクの豪族たちに推戴されて、885年以降西フランク国王をも兼ね、ベルダン条約(843)以後分割されたカロリング帝国の再統一を達成した。しかし、カール自身は政治力に欠け、886年、ノルマン人の包囲からパリを解放しようとして屈辱的な条約を結んだりしたため、翌年、甥(おい)のアルヌルフと諸侯たちにより廃位された。
[平城照介]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
カール[4世]【カール】
神聖ローマ皇帝(在位1355年―1378年),ドイツ王・ボヘミア王(在位1346年―1378年)。ボヘミア王ヨハンの子。1346年皇帝ルートウィヒ4世の対立王に選ばれる。1355年戴冠,1356年金印勅書を発布して国内を整備した。アビニョン捕囚中の教皇のローマ帰還を実現。ボヘミアの経済的繁栄,文化的隆盛を招来し,帝国の政治的重心は東へ移動した。
→関連項目カルロビ・バリ|ジギスムント|プラハ大学|ルクセンブルク朝
カール[2世]【カール】
西フランク王国国王(在位840年―877年),西ローマ皇帝(在位875年―877年)。禿頭(とくとう)王der Kahleとも。敬虔(けいけん)王ルートウィヒ1世の末子。843年ベルダン条約で王国を分割,西フランク王国を取得。870年メルセン条約で次兄東フランク国王ルートウィヒ2世とロタリンギア(ロートリンゲン)を分割した。地方貴族の台頭に悩み,ノルマン人の侵入に屈して朝貢。876年東フランク王国に進入するも敗退。
→関連項目ロタール[1世]
カール[12世]【カール】
スウェーデン国王(在位1697年―1718年)。1700年北方戦争を起こして,デンマークに侵入,ナルバの戦でロシア軍を破り,ポーランドに進出。1709年ポルタワの戦でロシア軍に大敗したが,のがれて抗戦継続。ノルウェーとの戦闘で戦死。スウェーデンはバルト海の覇者の地位を失う。
カール[3世]【カール】
東フランク王国国王(在位876年―887年),西フランク国王(在位885年―887年)。肥満王der Dickeとも。東フランク国王ルートウィヒ2世(ドイツ人王)の末子。881年東フランク国王として初めて帝冠を受け,885年西フランク国王を兼ね,形式上旧フランク王国の再統一に成功したが,ノルマン人の侵入を防げず,ドイツ諸部族の手で廃位。
カール[大公]【カール】
オーストリアの将軍。オーストリア皇帝フランツ2世の弟。フランス革命〜ナポレオン時代にしばしばフランス軍を破って勇名をはせた。ナポレオンの最大の好敵手とされ,1809年アスペルンの戦での勝利は特に有名。立憲君主制を主張して皇帝と対立。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
カール
Kar[ドイツ]
山岳氷河の浸食作用によって形成された氷河地形の一種。谷氷河によってつくられた氷食谷(U字谷)の谷頭部に位置し,圏谷(けんこく)とも呼ばれる。山頂あるいは稜線との間は急な圏谷壁となっており,この谷壁で馬蹄形に囲まれるようにして,比較的平らな圏谷底がみられる。形態が円形競技場(ラテン語circus)に似ており,英・仏語ではcirqueという。圏谷が背中合せとなる稜線はぎざぎざなやせ尾根(ナイフ・リッジ)となり,グラートGrat,アレートarêteなどと呼ばれる。三つ以上の圏谷に囲まれた山頂は角錐形となり,ホルンと呼ばれる。圏谷底は周囲の圏谷壁からの崖錐に埋められやすいが,逆傾斜をするように深く圏谷底が削られた場合には圏谷湖が見られることもある。
この地形は主として最終氷期(6万~1.4万年前)の氷河拡大期に形成されたが,現在でも氷河氷が残っているものもある。これを圏谷氷河という。圏谷底はほぼ雪線の高さに形成されるので,圏谷が形成された当時(最終氷期)の雪線の高さを復元することができる。これを現在の氷河の雪線の高さと比較してみると,世界的にみて約1000mほど現在の方が高くなっている。そこで1000mにつき約6℃という気温の高度減率を用いて,氷期には現在より気温が6℃ほど低かったなどと推定することができる。
日本では日本アルプスや日高山脈で多数の圏谷地形を見ることができる。圏谷底の標高はそれぞれ2600m,1600mくらいで,いずれもほぼ森林限界に一致している。圏谷底より上では山地斜面はハイマツなどの灌木林や草地(お花畑)などとなっており,急峻な圏谷壁ともあいまって,典型的な高山景観となる。圏谷底は平たんなこと,水の便があることなどの理由から,登山のベース・キャンプ地となり,山小屋が造られることも多い。
執筆者:野上 道男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
カール
Karle, Jerome
[生]1918.6.18. ニューヨーク,ブルックリン
[没]2013.6.6. バージニア,アナンデール
アメリカ合衆国の結晶学者。1937年ニューヨーク・シティ・カレッジを卒業。1943年にミシガン大学で物理化学の博士号を取得,1943~46年マンハッタン計画に参加し,その後海軍研究試験所で働いた。1940年代後半,海軍研究試験所でハーバート・A.ハウプトマンと結晶構造の研究で共同研究を始めた。彼らは,X線結晶回折(→X線回折)の結果得られる写真フィルムの多くの点の配置を記述する数式を導き,1949年に発表。その後,この方法を利用して多くのホルモン,ビタミン,抗生物質を含む数千もの低分子生体物質の三次元構造が決定された。1967年に海軍研究試験所の首席科学官となり,2009年に退官するまで研究生活を続けた。その間の 1985年,結晶によって X線が回折されたときに形成されるパターンから化合物の分子構造を推定する数学的方法を開発した功績によって,ハウプトマンとともにノーベル化学賞を受賞した。
カール
Curl, Robert F. Jr.
[生]1933.8.23. テキサス,アリス
[没]2022.7.3. テキサス,ヒューストン
アメリカの化学者。 1957年カリフォルニア大学バークリー校で博士号を取得。 58年ライス大学準教授などを経て,同教授。 85年 R.E.スモーリー,H.W.クロートとともに,黒鉛にレーザーを当てて気化させ新しい炭素分子を作り出す実験を行い,6角形と5角形の頂点に炭素原子をおいたサッカーボール状の構造をもつC60の生成に成功,ドーム構造で有名な建築家のバックミンスター・フラーにちなんで「フラーレン」と命名した。続いてラグビーボール状の C70 も生成。 C60 に関しては日本の大沢映二が 1970年にその理論的可能性を予言していた。非常に対称性が高く安定した性質をもつフラーレンは超伝導物質の材料や新しい複合材料など化学の分野を大きく発展させた。 96年スモーリー,クロートとともにノーベル化学賞を受賞。
カール
Kar; cirque
氷河地形の一種で,原語はオーストリア東部の言葉。圏谷ともいう。氷食地域の谷頭または山腹斜面に発達する半碗状の凹地。側壁は強い氷食の結果,急斜面をなし,底部は緩傾斜で,逆傾斜することもある。圏谷氷河の上縁付近に深い裂け目 (ベルグシュルント ) が生じ,底に達して底部の風化削剥を助ける。北半球では日射や西風の影響などで山地の東および北側斜面に多い。カール底に湖,末端にモレーンが発達する場合がある。日本では日高山脈,日本アルプスなどに存在する。 (→氷河作用 )
カール
Cale(Cailler), Guillaume
[生]? メーロ
[没]1358.6. クレルモン
フランス,ジャックリーの乱の指導者。ナバール (ナバラ) 王シャルルの軍隊に捕えられ処刑された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
カール(1世)
KarlⅠ
742〜814
フランク王国,カロリング朝最盛期の王(在位768〜814)
ドイツではカール大帝(der Grosse),イギリスではチャールズ大帝,フランスではシャルルマーニュと呼ばれる。ピピンの子。兄とフランク王国を分治したが,兄の死後全フランクを統治し,ザクセン族を征服した。さらに教皇の要請でイタリアのロンバルド(ランゴバルド)族を討ってローマ教会とのつながりを強化し,スペイン北部や東欧を征服してほぼ西ヨーロッパ世界を政治的に統一した。800年教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝の帝冠を受け,ローマ教会のビザンツ帝国からの自立と西欧社会のキリスト教化を促進し,古典文化を受けいれてアーヘンの宮廷を中心にカロリング−ルネサンスをおこした。ゲルマン諸族の伝統を尊重しながら中央集権化に努力するとともに,古典ローマ・キリスト教・ゲルマン文化の融合者,中世西欧世界の確立者として歴史的に重要な役割を果たした。
カール(5世)
Karl Ⅴ
1500〜58
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位1519〜56)
母方の系統からスペイン王カルロス1世(在位1516〜56)となったのち,1519年皇帝に選ばれた。彼の強大を恐れるフランスのフランソワ1世とのイタリア支配をめぐるイタリア戦争が激化し,カンブレー条約でフランスの締出しに成功したが,1527年のローマ略奪と反宗教改革はイタリアのルネサンスを終わらせた。いっぽう,国内ではルターの宗教改革に対して,フランスへの対抗上,教皇と結び新教諸侯と戦ったが,反カール運動を抑えきれず,1555年アウグスブルクの宗教和議を結ばざるをえなかった。1556年弟フェルディナント1世に帝位を,子フェリペ2世にスペイン王位を譲って引退した。
カール(6世)
Karl Ⅵ
1685〜1740
神聖ローマ皇帝(在位1711〜1740)
スペイン継承戦争でブルボン家と王位を争うが,皇帝に選ばれスペイン王位を断念。1714年のラシュタット条約で,南部ネーデルラントとナポリを獲得,またオスマン帝国と戦い,18年のパサロヴィッツ条約でハンガリーを領有し,オーストリア−ハプルブルクの最大領土を実現した。プラグマティック−ザンクションを発布し,長女マリア=テレジアの相続に努力。しかしその後オスマン帝国の圧迫に苦しみ,ポーランド継承戦争に敗れナポリをフランスに譲った。彼の死後にはオーストリア継承戦争が勃発した。
カール(12世)
Karl Ⅻ
1682〜1718
スウェーデン王(在位1697〜1718)
王の年少に乗じ,ロシア・ポーランド・デンマークの3国がスウェーデンの分割をはかったのに対し,北方戦争を展開した。戦局優位のまま長駆してウクライナに侵入したが,1709年ポルタヴァの戦いで大敗してコンスタンティノープルに亡命。帰国後,ノルウェー遠征中戦死した。これ以後,スウェーデンはバルト海の覇権を失い,大国の地位をおりた。
カール(2世)
Karl Ⅱ
823〜877
西フランク王国の王(在位843〜877)。禿頭 (とくとう) 王(der Kahle)とも呼ばれる
カール1世の孫。次兄ルートヴィヒと組んで長兄の皇帝ロタール1世を攻め,843年ヴェルダン条約を強制した。ロタール2世の死後,再びルートヴィヒと協力し,870年のメルセン条約でその遺領を分割した。その結果,ルートヴィヒは東フランク王,カールは西フランク王となった。
カール(3世)
Karl Ⅲ
839〜888
フランク王(在位881〜887)。肥満王(der Dicke)とも呼ばれる
弟カール(2世)とフランク王国を分割したルートヴィヒ王の子。876年東フランク王となり,884年には西フランク王位をも相続して,フランク王国の統一を再現したが,広大な領土の統治に悩み,またパリをノルマン人の支配から解放できなかった。甥のアルヌルフによって廃位され,帝国は以後分裂した。
カール(4世)
Karl Ⅳ
1316〜78
ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位1347〜78)
大空位時代ののち,ベーメン王(在位1346〜78)から皇帝となる。1356年に発布した金印勅書で七選帝侯を確定したが,その後これが帝権の弱化を招いた。在位中,本拠地ベーメンの経済・文化を高め,1348年には帝国内最初の大学としてプラハ大学を設立した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
カール
株式会社明治が生産・販売するスナック菓子。トウモロコシを原料とした一口大の生地を油で揚げずに乾燥させ、味付けしたもの。名称は、カールした菓子の形状と、昭和30年代に流行した玩具「カール人形」に由来する。イメージキャラクターは野良着姿の「カールおじさん」。1968年に発売された。以来、同社の代表的な商品として長年親しまれてきたが、売上の縮小や生産・販売体制の見直しなどにより、2017年8月生産分をもって中部地域以東(福井県・岐阜県・三重県以東)における販売を終了することが予定されている。以後は関西地域以西(滋賀県・京都府・奈良県・和歌山県以西)のみで「カールチーズあじ」と「カールうすあじ」が販売され、「カールカレーあじ」やその他のシリーズ商品については全国的に生産・販売が終了されることになっている。
出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報
カール
カール
Curl, Robert Floyd, Jr.
アメリカの化学者.テキサス州にあるライス大学で学び,1957年カリフォルニア大学バークレー校で学位を取得.ハーバード大学を経て,1958年母校のライス大学に赴任し,1967年教授となった.星間分子の研究者としてH.W. Kroto(クロトー)とは長年の親交があり,1985年KrotoをR.E. Smalley(スモーリー)に紹介し,フラーレン発見のきっかけをつくった.この発見に対して,1996年Kroto,Smalleyとともにノーベル化学賞を受賞した.
カール
カール
Karle, Jerome
アメリカの結晶学者.ニューヨーク市立大学で学び,1943年ミシガン大学で学位を取得.大学院時代に夫人のIsabellaと出会う.マンハッタン計画に従事した後,1946年海軍研究所に入所.1953年X線回折パターンから位相情報を得る直接法の数学的基礎を,同僚のH.A. Hauptman(ハウプトマン)とともに発表.その後,この方法をさまざまな結晶構造の解析に適用するため,同じく結晶学者である夫人のIsabellaとともに記号和の方法を開発した.結晶構造決定の直接法の開発で,1985年Hauptmanとともにノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
カール
株式会社明治が販売する菓子。トウモロコシを原料としたノンフライスナック。1968年、チーズ、チキンスープが発売。その後カレーやコーンポタージュ味など様々なフレーバーが販売された。2017年、中部より東での販売が終了。現在は「チーズあじ」「うすあじ」が西日本限定で販売されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
かーる 【カール Curl】
波が崩れる直前の一番掘れている力のある部分。ライディング中、この場所にいつも居続けることがサーフィンの基本である。
出典 (株)デジサーフ、(株)セキノレーシングスポーツサーフィン用語集について 情報
カール
生年月日:1862年11月29日
ドイツの政治家
1934年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のカールの言及
【フィンランド】より
…次いでヨハン3世Johan III(在位1568‐92)は1581年フィンランドを大公国に格上げしてロシアに対抗しようとした。またカール9世Karl IX(在位1599‐1611)は重税のために蜂起したフィンランドの農民一揆〈棍棒戦争〉を利用してフィンランド貴族を一掃し(1599),ここに王権を確立した。 次に勇王[グスタブ2世]のもとで強力となったスウェーデンは,武力によってロシアを封じ込め,1617年ストルボバの和議により東カレリアとイングリアを手に入れ,エストニアを合して,さらにポーランドを押さえ,リボニアまで手中に収めた。…
【ポーランド】より
…しかもワーザ家は元来がスウェーデンの王家(スウェーデンでの呼び名はバーサ家Vasa)であり,父ヨハン3世(1537‐92)が死ぬと,ジグムントはスウェーデン王位も継ぐことになった。しかし熱心なカトリック教徒であったジグムントは,ルター派のスウェーデン貴族に嫌われ,叔父のカール9世(1550‐1611)によってスウェーデン王位を追われてしまった(1599)。ジグムントの不寛容政策は,1573年に信仰の自由を決議したシュラフタにも不人気であった。…
【ポーランド】より
…しかもワーザ家は元来がスウェーデンの王家(スウェーデンでの呼び名はバーサ家Vasa)であり,父ヨハン3世(1537‐92)が死ぬと,ジグムントはスウェーデン王位も継ぐことになった。しかし熱心なカトリック教徒であったジグムントは,ルター派のスウェーデン貴族に嫌われ,叔父のカール9世(1550‐1611)によってスウェーデン王位を追われてしまった(1599)。ジグムントの不寛容政策は,1573年に信仰の自由を決議したシュラフタにも不人気であった。…
【回転】より
…(2)空間内に微分可能なベクルト場Vがあり,点(x,y,z)にベクトル(u,v,w)が対応しているとき,点(x,y,z)にベクトルを対応させることにより,新しいベクトル場が得られる。このベクトル場をベクトル場Vの回転といい,rot Vまたはcurl Vで表し,ローテーションVまたはカールVと呼んでいる。[ベクトル解析]【中岡 稔】。…
【登山】より
…クロアール,リンネ,ルンゼなどいろいろの言葉が用いられるが,だいたい同義である。 カールKar[ドイツ]圏谷。氷河の頭頂部にある半椀状の地形。…
【木曾山脈】より
…また木曾山脈の樹木限界は,標高2500m付近にあるといわれているため,これより低い経ヶ岳・恵那山両地区では高山植生(お花畑や高木林)を観賞することはできない。駒ヶ岳地区の山稜部付近の砂礫地に生育する乾性高山植生は,濃ヶ池,駒飼ノ池,千畳敷,三ノ沢,池ノ平,摺鉢窪(すりばちくぼ)などのカールに見られる湿性高山植生と著しい対照をなし,高山景観に変化と情趣とを添えている。地質では経ヶ岳地区はおもに古生界からなり,駒ヶ岳・恵那山両地区はおもに中生代の貫入になる花コウ岩,流紋岩などからなる。…
【浸食作用】より
…既存の河食を受けた山地の起伏に順応して着生した氷河が山地氷河で,その氷食の結果は特徴的な高山地形alpine landformを現出する。谷奥にみられる圏谷([カール])の場合,圏谷氷河の底部は氷河の移動による圧力の変化によって凍結融解現象がおき,底部に接する岩石を破砕する。さらに巨大な氷体の圧力と独特の回転運動によって,氷と岩屑が削磨作用を及ぼし,平たんまたは凹形の圏谷底をつくる。…
【地形】より
…地形学が地学の中で一大分科をなしているのは,地質・岩石を超越して地形独自の一般性が認められるからである。例えば氷河による浸食地形の典型として圏谷([カール])地形がある。圏谷は山地氷河が谷頭部集水域で,氷体独自の回転運動,氷体の及ぼす底部への重圧と氷体周縁の霜の浸食作用が合作することにより形成される半環状の岩壁をめぐらした特徴的な地形である。…
【登山】より
…
[近代的登山の発展]
近代的登山の幕開けとなったのはアルプスの最高峰モン・ブラン(4807m)登頂である。1760年,ジュネーブの自然科学者[H.B.deソシュール]はフランスのシャモニを訪れ,モン・ブランの初登頂者に賞金を出すことを提唱し,これにこたえ86年シャモニの医者M.G.パカールと案内人の水晶取りJ.バルマが登頂に成功した。ソシュール自身も翌年登頂している。…
【氷河地形】より
…またこれらの地形から,かつての氷河の流動方向を知ることができる。 5万分の1の地形図に表現される程度の大きさの地形としては,氷食岩峰,[カール](圏谷),氷食谷などがある。谷の最上流部にはアイスクリームをスプーンでしゃくったような形をしたカールが形成される。…
※「カール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」