ブラウン(英語表記)Karl Ferdinand Braun

デジタル大辞泉 「ブラウン」の意味・読み・例文・類語

ブラウン(Robert Brown)

[1773~1858]英国の植物学者。オーストラリアおよびタスマニア島で多くの動植物を採取し、分類学者として活躍。ブラウン運動細胞核の発見、被子植物裸子植物とを分けるなど多くの業績がある。

ブラウン(Gordon Brown)

[1951~ ]英国の政治家。労働党。大学講師・テレビ記者を経て、1983年に下院議員に当選。1997年から10年間ブレア政権の蔵相を務め、不況から安定成長へと経済を回復させた。2007年にブレアの後任として首相に就任。→キャメロン

ブラウン(Samuel Robbins Brown)

[1810~1880]米国の改革派教会の宣教師。1859年(安政6)来日、横浜でブラウン塾を開き、教育・伝道に努め、植村正久ら多数のキリスト教指導者を育成。また、新約聖書の翻訳に尽くした。1879年(明治12)帰国。

ブラウン(Karl Ferdinand Braun)

[1850~1918]ドイツの物理学者。ブラウン管の発明や、無線通信技術などに業績がある。1909年、G=マルコーニとともにノーベル物理学賞受賞。

ブラウン(brown)

茶色。褐色。とび色。
[類語]褐色茶色焦げ茶色

ブラウン(John Brown)

[1735~1788]英国の医学者。病気は外部からの刺激の過不足によって起こると主張。著「医学の諸要因」。

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精選版 日本国語大辞典 「ブラウン」の意味・読み・例文・類語

ブラウン

  1. [ 一 ] ( John Brown ジョン━ ) アメリカ合衆国の奴隷制廃止運動家。奴隷の蜂起を画策してバージニア州ハーパーズフェリーの連邦武器廠を襲撃したが、失敗に終わり、処刑された。(一八〇〇‐五九
  2. [ 二 ] ( Karl Ferdinand Braun カール=フェルディナント━ ) ドイツの物理学者。ブラウン管の発明、電気計の改良、無線電信の研究などの業績がある。一九〇九年マルコーニと共にノーベル物理学賞受賞。(一八五〇‐一九一八

ブラウン

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] brown ) 褐色。茶色。
    1. [初出の実例]「第三十六等 フラウンと云色に製す」(出典:西洋料理通(1872)〈仮名垣魯文〉三)

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改訂新版 世界大百科事典 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン
Karl Ferdinand Braun
生没年:1850-1918

ドイツの物理学者。ブラウン管の発明や無線の実用化によって有名である。裁判所事務員の子としてフルダに生まれた。マールブルクとベルリンで学び,H.L.F.vonヘルムホルツの下で博士号を取得した。マールブルク,ストラスブール,カールスルーエ,チュービンゲン各大学の教授を務めた。1870年代に半導体の点接触による非対称電気伝導を報告した。これは整流現象に関する初期の重要な研究である。97年に彼は陰極線管を発表した。陰極線は,W.クルックスやW.K.レントゲンらによりすでに知られていたが,ブラウンは陰極線を細いビームにして振らせること(偏向)を行った。陰極線管は彼の名にちなんでブラウン管と呼ばれる。ブラウン管により高速電気現象を観測できるようになり,ブラウン管オシロスコープが登場した。ブラウン管はまた,テレビジョン,レーダー,コンピューターディスプレーに広く用いられるようになった。また,彼は無線電信の送信機,受信機とアンテナとの間に誘導結合を導入し,送信機の周波数とアンテナの固有周波数を共振させるようにした。これら無線研究への貢献のゆえに,彼は1909年にG.マルコーニとともにノーベル物理学賞を授けられた。1898年に,彼はケルンで無線電信会社を設立した。ブラウンとジーメンス・ハルスケ社は共同して,スラビーA.Slabyの特許を武器とするAEG社やマルコーニ系企業と競争した。ドイツの無線通信企業は,ウィルヘルム2世の主張により,1903年にテレフンケン社に統一された。ブラウンはテレフンケン社とマルコーニ系企業との係争に関連して14年にアメリカにわたった。第1次世界大戦におけるドイツのUボート作戦の結果,彼は帰国できなくなりブルックリンで客死した。
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ブラウン
Wernher von Braun
生没年:1912-77

ドイツ生れのアメリカのロケット技術者。ビルジッツの生れ。少年のころに読んだH.オーベルトの《惑星間空間へのロケット》に刺激を受け,宇宙ロケットの研究を志す。ベルリン工科大学に学び,34年にはベルリン大学から液体ロケットに関する研究により学位を取得,一方,この間オーベルトの助手として小型ロケット実験を行っていた。彼の研究は早くからドイツ陸軍の注目を引き,1932年ベルリン工科大学在学中からドイツ陸軍の文官として採用され,やがてペーネミュンデにおいてロケット兵器V2号を開発するチームを率いることになった。V2号は本来宇宙旅行用として構想されていたもののうちのもっとも小型のものであったが,現在の宇宙用ロケットの先駆をなすものである。第2次世界大戦後,その設計チームとともにアメリカに渡り,残ったV2号の実験を継続,50年からはハンツビルの米陸軍ミサイル開発部隊の指導をした。55年アメリカに帰化。当初アメリカは彼をあまり重用しなかったが,ソ連のスプートニクに対抗していたバンガード計画の失敗が続いたことから,彼のチームが急きょかり出され,58年アメリカ初の人工衛星エクスプローラー1号の打上げを成功させた。その後NASAの発足とともに,ロケット開発の中心マーシャル宇宙飛行センターにおいて,アポロ計画用サターンV型ロケットの開発を指導,69年のアポロ11号による人類の月面着陸の成功に多大の貢献をした。次いでNASAの将来計画副長官として有人火星飛行計画を作成したが,アメリカの宇宙予算削減に伴い受け入れられず,72年半ば失意のうちにNASAを去り,フェアチャイルド社へ移った。
執筆者:


ブラウン
George Brown
生没年:1818-80

カナダの政治家。カナダ建国の父の一人とされる。スコットランドに生まれ,1838年ニューヨークに移住。43年にトロントへ移り,翌年から《グローブ》紙を発刊。L.M.ラ・フォンテーヌとR.ボールドウィンの政治改革運動を支持して論陣を張る。51年,連合カナダ植民地立法議会に当選し,58年には2日間の短命内閣を組閣した。1855年,カナダ西部の農民(〈クリア・グリット〉と呼ばれた)の声を代表する2紙を吸収した《グローブ》は,〈人口比例代表制〉と〈ハドソン湾会社領有地の獲得〉という改革党と農民の要求を代弁して,連合カナダ植民地政界に大きな影響力を及ぼすようになる。これらの要求の実現には,全イギリス領北アメリカ植民地の連合と独立,すなわちコンフェデレーションの達成しかないとしたブラウンは,自分と政治的主張を異にする保守党のJ.A.マクドナルドとの提携を受け入れ,64年いわゆる〈大連立〉が成立してコンフェデレーションへの大前進となった。しかしながら,シャーロットタウン会議ケベック会議に出席した彼は保守派と協調し難く,65年に内閣を辞す。67年には総選挙に落選し,73年に上院議員に任命されたもののほとんど政界からは退いた。しかし《グローブ》紙を通じて発揮された,彼の自由党への影響力は非常に大きかったとされる。80年解雇を恨んだ元《グローブ》社員に暗殺された。
執筆者:


ブラウン
Ernest William Brown
生没年:1866-1938

アメリカの天文学者。イギリスの生れ。1887年にケンブリッジ大学の数学卒業試験を上位の成績でパスして特別研究員となった。91年にアメリカに移り,93年ハバーフォード単科大学数学教授となり,学生時代にG.W.ヒルの理論を学んで以来,ずっと関心をもってきた月運動論の研究に専念した。97年に母校ケンブリッジ大学の学位を取得,またローヤル・ソサエティ会員となった。1907年にブラウンは月運動表の計算と出版に理解を示したイェール大学に移り,32年まで数学教授を務めた。ブラウンの月運動論はヒルの理論を引き継ぎ発展させたもので,研究論文は1896-1910年に数次にわたって発表され,またそれに基づいた《月運動表》全3巻は1919年に刊行された。そしてそれまで用いられてきたP.S.ハンセンの表にかわって,1923-59年各国の天体暦に採用された(1960年以降はコンピューターで直接ブラウンの理論式を計算する方式に変更された)。1923年科学アカデミー会員に選ばれ,37年ワトソン牌受賞。著書に《月運動論》(1896),《惑星理論》(シュックC.A.Shookと共著,1933)がある。
執筆者:


ブラウン
Charles Brockden Brown
生没年:1771-1810

アメリカ最初の職業的作家といわれる。フィラデルフィアのクエーカー教徒の商人の家に生まれ,法律を学んだが,1797年に女権論を出版したのを皮切りに健筆をふるった。彼の小説では《ウィーランド》(1798),《エドガー・ハントリー》《オーモンド》《アーサー・マービン》(いずれも1799)の4編が有名である。先の2編は18世紀末にイギリスで流行したゴシック・ロマンスの型をアメリカの舞台に応用したもので,今日にいたるまで連綿とつづくアメリカ文学におけるゴシック的伝統のさきがけと考えられる。しかしその健筆ぶりにもかかわらず収入は乏しく,そのため雑誌編集を試みるが成功せず,フィラデルフィアの家に戻って家業を手伝いながら執筆活動や雑誌編集をつづけた。J.F.クーパー,N.ホーソーン,E.A.ポーなどはブラウンの影響をどこかに受けているという意味で,歴史的には逸することのできない作家である。
執筆者:


ブラウン
John Brown
生没年:1800-59

アメリカの熱狂的な奴隷解放論者。コネティカット生れで,若いころは北部各地を転々としながら,父に従って奴隷の逃亡を助ける地下組織underground railroadに加わり,奴隷制度打倒が神から自分に与えられた使命であると信じるようになった。1855年,カンザス準州が奴隷制度をめぐる争点となったとき,彼は子どもたちを連れて移住し,オサワトミーでゲリラを組織,56年にポタワトミー川で奴隷制度拡大派の5人を殺害した。北部へ戻って一躍ヒーローとなり,59年10月,21人を率いてバージニア州のハーパーズ・フェリーを占領した。彼は奴隷の蜂起を期待したが,ロバート・リーの指揮する軍隊に捕らえられ,12月2日反逆罪で絞首刑となった。彼の死をたたえる歌《ジョン・ブラウンズ・ボディ》は南北戦争中北軍の進軍歌となり,そのメロディは《リパブリック賛歌》として日本に伝えられている。
執筆者:


ブラウン
Thomas Browne
生没年:1605-82

イギリスの文人,医師。オックスフォードや大陸の諸大学で医学を修め,ノリッジで開業し,その地方の名士となった。イギリス全体がはげしい思想・信仰上の変革の波に洗われている時期に,一歩も二歩もしりぞいた立場から,静かな思弁と博学な省察を,特異に高揚した名文に書きとどめた。ラテン語系の朗々たるリズムは比肩するものなく,独特の機知は散文における〈形而上派〉と呼ぶにふさわしい。《医師の宗教》(1643)は,理性と信仰の相克の時代に,ゆとりある寛容の精神を説いている。《迷信論》(1646)は古代ギリシア・ローマ以来の西欧の迷信を無類の博学でもって列挙し,しかもそれを責めるよりはいつくしむ特異な姿勢でつらぬかれている。《壺葬論》(1658)の名文に盛られた死生観はまさしく珍とするに足り,夏目漱石が《三四郎》のなかでその一節の名訳をこころみたゆえんである。英文学史上屈指の文章家であった。
執筆者:


ブラウン
Lancelot Brown
生没年:1716-83

風景式庭園を完成させたイギリスの造園家,建築家。ノーサンバーランド州出身で,1740年にバッキンガムシャーのストウStoweの庭園師となり,ケントとともに造園に携わる。以後,クルーム・コート(ウォーセスターシャー,1752),ブレニム宮殿(オックスフォード近郊,1769),クレアモント邸(サーレー,1772)など200を超す庭園計画に携わる。敷地のもつ〈可能性〉を十分生かした土地改造方法を唱えたことから,〈ケーパビリティ・ブラウンCapability Brown〉とあだ名される。自然美を造園の基準にすべきだという彼の考え方は,レプトンHumphry Repton(1752-1818)へと引き継がれた。
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ブラウン
John Brown
生没年:1735-88

イギリスの医師。スコットランドのバンクル教区に生まれ,少年時代はレスリング,フットボールなどに熱中,18歳でエジンバラ大学へ行き家庭教師をしながら苦学して哲学と神学を修めた。24歳で医師を志し,解剖学教授のモンローAlexander Monro(1697-1767)から無料聴講の許可を得たのをはじめ,熱意を認められて5年間各教授から授業料免除で,医学を修めた。1780年に《医学原論Elementa Medicinae》を刊行し〈ブラウン学説〉を唱えた。生物は刺激に対して興奮するという特性をもち,中等度の興奮状態を保つときは健康であるが,局部的,あるいは全身的に興奮状態が高まるか,弱まるときには病気となると考え,医師は興奮の度合を確かめ,それを鎮めるか,あるいは高めるのが任務だとした。
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ブラウン
Ott Braun
生没年:1900-74

ドイツ人の共産主義者。中国名は李徳または華夫。中国紅軍の大長征に参加した唯一の外国人。ミュンヘンに生まれ,第1次大戦の末期に社会民主党左派を支持,のち共産党に加わる。1926年に逮捕,投獄されるが,28年,脱獄に成功,ソ連に行って軍事技術を学んだ。32年,コミンテルンによって軍事顧問として中国へ派遣され,華南のソビエト区に入る。しかし,彼の軍事に関する正規軍的な思考法は,毛沢東の遊撃戦理論と合わず,また現実的でもなかったのでしだいに影響力を失った。39年ころ,モスクワにもどり,49年以後は東ドイツのマルクス=レーニン研究所で働いた。その回想《大長征の内幕》(1975)は,発表時の中ソ対立を反映して,反毛沢東的な記述にみちているが,長征に参加した外国人の経験としては貴重なものである。
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ブラウン
Ford Madox Brown
生没年:1821-93

イギリスの画家。フランスのカレーに生まれ,ブリュージュ,ヘント,アントワープ,パリで学ぶ。1844年イギリスに定住。45年ローマを訪れ,ナザレ派の画家と交わる。彼らの宗教的で真摯(しんし)な芸術態度に対する共感は,ロセッティらに伝えられ,〈ラファエル前派〉誕生の引金となる。彼自身は結成メンバーとはならなかったが,この若いグループの指導的役割を果たしたことでその存在の意味は大きい。初期にはロマン的,歴史的な主題を伝統的手法で描いていたが,しだいに宗教的,社会的な主題に傾き,晩年は表現に誇張やデフォルメが目だつようになった。
執筆者:


ブラウン
Samuel Robbins Brown
生没年:1810-80

アメリカの改革派教会宣教師。中国の澳門(マカオ)で宣教し,一度帰国のあと1859年(安政6)来日,67年(慶応3)の帰国まで英語の教授と宣教にあたった。62年(文久2)には日本語会話修得のための《コロクイアル・ジャパニーズ(英和俗語辞典)》を出版した。69年(明治2)再び来日し横浜修文館で英語を教えたが,73年塾を開設,井深梶之助,植村正久,本多庸一ら日本基督教会の指導者となる人々を育てた。新約聖書翻訳の委員ならびに委員長として努力したが,病気のために完成を見ずに79年帰国した。
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ブラウン
Robert Brown
生没年:1773-1858

イギリスの植物学者。スコットランド生れ。1798-1805年の間,博物学者としてオーストラリアの探検隊に加わり,ラフレシアをはじめ多くの種属を記載し,また裸子植物の系統上の位置を確立した。植物細胞の顕微鏡観察で細胞核を発見し,M.J.シュライデン(1838),T.シュワン(1839)の細胞説の契機をつくった。ムラサキツユクサの細胞で複雑なタイプの原形質流動を観察し,原形質流動への関心を高めた。ブラウン運動も彼の発見になる。
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ブラウン
Nathan Brown
生没年:1807-86

アメリカ・バプティスト自由伝道協会の日本派遣宣教師。ビルマ(現ミャンマー)とアッサムで23年間宣教,アッサム語訳の新約聖書を完成(1838)した。のち帰国し,《アメリカン・バプティスト》誌の主筆となり奴隷制度の廃止にも努めた。1873年来日,横浜第一浸礼教会を設立。聖書邦訳の共同委員会に加わったが,〈バプテスマbaptisma〉の訳語を〈洗礼〉ではなく〈浸礼〉とすることを主張して辞任,79年独自に新約聖書の日本最初の全訳刊行を果たした。横浜で没。
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ブラウン
Robert Browne
生没年:1550ころ-1633

イギリス会衆派教会の祖。ケンブリッジ大学の学生のとき,カートライトの長老主義の影響を受け,のちこれをいっそう徹底させた。彼の教会観は,各個教会は世俗的権威からも教会的上位の権威からも独立しているという,いわゆる会衆主義で,このため初期会衆派は〈ブラウン主義者Brownists〉と呼ばれた。英国国教会の弾圧を受け,オランダへ亡命したが,帰国後獄中で死んだ。
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ブラウン
Edward Granville Browne
生没年:1862-1926

イギリスのイラン学者。露土戦争に影響を受け,ケンブリッジ大学入学後は,医学を修めるかたわら広くイスラム学に関心をもった。1887-88年,イランに旅行,バーブ教の調査を行った。彼の学風はペルシア語写本の綿密な研究に基づく文献学的方法に特色があるとともに,同時代史にも鋭い関心を寄せ,主著《イラン立憲革命》を著した。87年以来,母校の教壇に立ち,イラン学の基礎を築いた。
執筆者:

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図書館情報学用語辞典 第5版 「ブラウン」の解説

ブラウン

1862-1914.スコットランド生まれ.ロンドン区部の公共図書館に長年勤めながら20世紀初頭の英国公共図書館論をリードした.デューイ流の合理主義的米国図書館学に反発しながら,エドワーズ以来の英国伝統の図書館論を確立しようとした.その著書『図書館経営法』(Manual of Library Economy1902, 1907)は彼の死去後の第3版(1920)以降も彼の名を残したまま刊行が続けられ,第7版(1961)まで刊行されている.また,分析合成型の分類法の先駆といわれる『件名分類法』(Subject Classification1906)も彼の業績として知られている.

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百科事典マイペディア 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン

米国のソウル,ファンク歌手。貧しい家に生まれ,プロ・ボクサーなどを経験した後,〈フェイマス・フレイムス Famous Flames〉の前身となるバンドを結成,ゴスペル・ソングの影響を受けたリズム・アンド・ブルースを演奏した。1956年発表の《プリーズ,プリーズ,プリーズ Please, Please, Please》,1958年発表の《トライ・ミー Try Me》で注目を集め,黒人大衆音楽の中心的存在となった。1960年代後半からは,〈ジェー・ビー・ズ JBs〉を率いて16ビートを基調としたファンクへと移行,1970年に発表した《セックス・マシーン Sex Machine》に見られるスタイルを確立した。黒人としてのアイデンティティを強く表明した歌詞にも特徴があり,後の黒人音楽の発展のみならず黒人文化へも大きな影響を及ぼしている。

ブラウン

ドイツ生れのロケット技術者。中等教育を終えてロケット研究を始め,19歳のとき陸軍のロケット研究所に入り,そこからベルリン工科大学に通学。1936年からロケットA4(V2号)の開発に着手,戦後,米国に移り,1955年帰化。米国では初め陸軍,1960年以降NASA(ナサ)に所属し,レッドストーン,ジュピター,サターンなどの大型ロケット開発を指導,アポロ計画に多大の貢献をした。
→関連項目オーベルトロケット(工学)

ブラウン

イギリスの政治家。スコットランドの牧師の家に生まれ,オックスフォード大を卒業。1983年労働党から下院議員選挙に出馬して当選し,ブレア政権で10年間財務相を担当して実績をあげる。2007年ブレアの後継者として労働党党首,首相に就任した。外交・内政ともブレア政権を引き継ぐ方針を打ち出したが,2008年地方選で労働党は大敗を喫し,党勢立て直しを迫られている。
→関連項目イギリス労働党

ブラウン

米国の小説家。米国最初の職業的文筆家とされる。ラドクリフゴドウィンらの英国ゴシック・ロマンスの影響を受けた。小説《ウィーランド》(1798年),《アーサー・マービン》(1799年―1800年),《オーモンド》(1799年),《エドガー・ハントリー》(1799年)など。

ブラウン

ドイツの物理学者。1883年カールスルーエ工科大学教授,1895年ストラスブール大学物理学研究所長。1887年熱力学の研究からル・シャトリエ=ブラウンの法則を確立。1897年ブラウン管を発明,その他無線電信の発展に寄与し,1909年マルコーニとともにノーベル物理学賞。

ブラウン

米国のオランダ改革派教会宣教師。中国伝道ののち1859年来日。ブラウン塾を開いて神学教育に当たり,井深梶之助植村正久等を育てた。新約聖書翻訳委員長として聖書邦訳に尽力。1879年帰国。
→関連項目明治学院

ブラウン

英国の画家。フランスのカレー生れ。ベルギーで修業後,パリ,ローマを遍歴し,1846年以後ロンドンに定住。写実的手法で,歴史や宗教から取材した絵を描き,ラファエル前派に大きな影響を与えた。代表作は《イギリスの見おさめ》(1852年―1853年,バーミンガム美術館蔵),《労働》(1852年―1865年,マンチェスター市立美術館蔵)など。

ブラウン

英国の植物学者。エディンバラ大学卒。探検船に軍医として乗船し,オーストラリア,タスマニアの動植物を採集。ラフレシアをはじめ多くの新種新属を記載し,裸子植物の系統上の位置を確立した。のち大英博物館植物学部長となる。細胞核を発見し,原形質流動を観察。また花粉観察中にブラウン運動を発見した。

ブラウン

英国の医師,随筆家。信仰と理性の問題を扱った《医師の宗教》(1643年),俗信・迷信を批判した《迷信論》(1646年),霊魂不滅論を展開した《壺葬論》(1658年)などは17世紀散文の代表的文体といわれる。

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朝日日本歴史人物事典 「ブラウン」の解説

ブラウン

没年:1880.6.20(1880.6.20)
生年:1810.6.16
幕末明治のキリスト教牧師,英語教師,聖書翻訳者。アメリカのコネティカット州イーストウィンザー生まれ。父は職人でティモシィ,母は賛美歌の作詞者でもあった信仰篤いフィービ・ヒンスデイル。アマースト大学,エール大学に学び,ニューヨークのユニオン神学校を卒業後,1838年から47年までマカオ,シンガポール,香港で伝道。帰国後はダッチリフォームド教会の牧師。安政6(1859)年,満49歳で家族と共に開港直後の横浜に来て,日本語研究とキリスト教伝道と聖書翻訳事業に着手した。新潟の英学校,横浜の修文館,私塾「ブラオン」塾などで英語を教え,教え子からは井深梶之助,押川方義,植村正久,本多庸一など,日本プロテスタント史上の重要人物が輩出した。またヘボン,グリーンと協力して新約聖書の日本語訳に取り組んだ(1880年刊)。明治12(1879)年帰米,マサチューセッツ州モンソンにて永眠。

(加納孝代)


ブラウン

没年:明治19.1.1(1886)
生年:1807.6.22
明治期のアメリカ・バプテスト派の宣教師。アメリカ初の海外派遣宣教師のA.ジャドソンの要請に応じ,1832年ビルマに赴き,のちインドの奥地アッサムに転じてアッサム語新約聖書,文法書などを出版。1855年帰国し『アメリカン・バプティスト』編集者,海外伝道通信書記,奴隷解放論者として活躍。明治6(1873)年来日,同年の禁教令撤廃直後,横浜第一浸礼教会(横浜教会)を設立,初代牧師となる。聖書翻訳委員に選ばれるが,「バプテスマ」の訳などで対立,委員を辞し,J.ゴーブルの方針を継承し,平仮名で大衆向け新約聖書『志無也久世無志与』を同12年に単独刊行した。2番目の妻シャーロットは夫の死後,C.A.サンズの女子寄宿生を引き継ぎ,いまの捜真女学校の草創期を支えた。<参考文献>『関東学院百年史』『捜真女学校九十年史』

(小檜山ルイ)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

化学辞典 第2版 「ブラウン」の解説

ブラウン
ブラウン
Brown, Herbert Charles

ロンドン生まれのアメリカの化学者.両親はウクライナ出身のユダヤ系移民.1938年シカゴ大学より学位を取得後,同大学の研究助手を経て,ウェイン大学助教授,そして1947年にはパーデュー大学教授となり,1978年名誉教授となった.シカゴ大学研究助手時代にH.I. Schlesinger教授とともにホウ素化合物とその反応について研究し,ホウ素化合物ジボランの簡単で収率の高い合成法を考案した.また,テトラヒドロホウ酸ナトリウムの簡単な合成法も発見したが,この試薬は,以後きわめて用途の広い還元試薬として利用されるようになる.1955年には,ジボランを炭素の二重結合をもつ有機化合物と反応させて有機ホウ素化合物を合成したが,この生成物は有機合成化学において,大変有用性の高い物質である.以上の功績により,1979年ノーベル化学賞を受賞した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

色名がわかる辞典 「ブラウン」の解説

ブラウン【brown】

色名の一つ。JISの色彩規格では「暗いみの黄赤」としている。一般に、黄色の中間色を表す重要な系統色のこと。和名の茶色に相当する位置づけで、多くの派生色をもっている。ココアブラウンココナッツブラウンコーヒーブラウントバコーブラウンバンダイクブラウンヘアーブラウンラセットブラウンなどが代表的。

出典 講談社色名がわかる辞典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ブラウン」の解説

ブラウン Brown, Donald

1905-1980 アメリカのジャーナリスト。
1905年6月24日生まれ。昭和8年来日,「ジャパン-アドバタイザー」(現「ジャパン-タイムズ」)の記者となる。21年GHQ民間情報教育局情報課長として再来日。日本アジア協会副会長をつとめ,日本文化を海外に紹介した。おおくの蔵書は横浜開港資料館に所蔵されている。昭和55年5月17日日本で死去。74歳。オハイオ州出身。ピッツバーグ大卒。

ブラウン Brown, Samuel Robbins

1810-1880 アメリカの宣教師。
1810年6月16日生まれ。安政6年(1859)アメリカのオランダ改革派教会から派遣されて来日,明治2年再来日。新潟英学校,横浜修文館でおしえたのち,6年横浜にブラウン塾をひらき,植村正久(まさひさ),本多庸一(よういつ)らをそだてた。12年帰国。1880年6月20日死去。70歳。コネティカット州出身。ユニオン神学校卒。

ブラウン Brown, Nathan

1807-1886 アメリカの宣教師。
1807年6月22日生まれ。ビルマ,インドのアッサムでの伝道をへて明治6年(1873)来日,横浜の山手に横浜第一浸礼教会(現日本バプテスト横浜教会)を設立。独力で日本初の全訳新約聖書「志無也久世無志与(しんやくぜんしよ)」を完成させた。明治19年1月1日横浜で死去。78歳。ニューハンプシャー州出身。ウィリアムズ大卒。

ブラウン Brown, Albert Richard

1839-1913 イギリスの航海士,技師。
慶応2年(1866)P&O汽船の航海士として来日。明治2年灯台と浮標設置のための灯台船船長として工部省にやとわれる。7年台湾出兵の際は兵員輸送にあたり,18年日本郵船誕生でゼネラルマネージャー。22年離日。1913年12月死去。74歳。ハンプシャー州出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブラウン」の解説

ブラウン
John Brown

1800~59

アメリカの奴隷制廃止論者。奴隷に武器を与えてみずからの解放のために立ち上がらせることを計画し,少数の同志とともに1859年ヴァージニア州にある連邦兵器庫を襲ったが,捕えられ死刑に処せられた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「ブラウン」の解説

ブラウン

生年月日:1866年11月29日
アメリカの天文学者
1938年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ブラウン」の解説

ブラウン

ジョン=ブラウン

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブラウンの言及

【プロイセン】より

… ワイマール共和国のもとでは,プロイセンも他の諸邦と対等の地位に置かれ,プロイセン首相とドイツ首相とは分離された。そして,民主的な議会政治が実現されたプロイセンでは,大戦前とは逆に左派の勢力が進出し,1920年から33年まで,社会民主党のブラウンOtto Braun(1872‐1955)が首相の地位を占めた。しかしナチスの勢力拡大によってプロイセンのこうした新時代も短命に終わり,ヒトラーの政権掌握とともにベルリンはナチス・ドイツの首都となった。…

【宇宙飛行】より

…とくに第1次世界大戦後は宇宙飛行を目標にした研究が盛んになり,23年にいたって,H.オーベルトは《惑星間空間へのロケット》という本を出して,この中で理論だけでなく,具体的な提案を行い,またみずから小型のロケット実験を開始した。このときこのグループの一員であった少年フォン・ブラウンは,後にV2号という本格的なロケット兵器を開発したが,彼自身はあくまで宇宙飛行のためのロケットと考えていた。彼はドイツの敗戦によってアメリカの捕虜となり,以後はアメリカでロケットの研究を続けた。…

【オーベルト】より

…これは29年に出版された《宇宙飛行への道》とともに彼の深い見識を示したものであり,その当時イオンロケットの出現をも予測していたほどである。彼は1927年に設立された〈ドイツ宇宙旅行協会〉の顧問であったが,そこで当時助手の一人であったW.vonブラウンと出会っている。40年ドイツ市民権を得た彼は,ペーネミュンデでブラウンらとともにV2(A4)ロケットの開発に参加した。…

【アメリカ文学】より


[国民文学の興隆(独立革命前後~19世紀初頭)]
 18世紀の後半,イギリス本国からの政治的独立に刺激された文人たちは,拠って立つ文学的伝統の希薄な状況において,ヨーロッパの文学の素材や形式を利用しながらも,アメリカという土壌に根ざした国民文学を形成していく。C.B.ブラウンは古城などを舞台にしたヨーロッパのゴシック・ロマンスの伝統を踏襲しながら,古城の代りに西部の荒野やインディアンといったアメリカ固有の背景を導入した。W.アービングは《ニッカボッカーのニューヨーク史》(1809)で,歴史をフィクションに移し,《旅人の物語》(1824)では,深刻さを欠き,短編が多くなる末期型のゴシック・ロマンスを発展させ,ホーソーンやポーを先取りした。…

【月運動論】より

…月の運動は太陽の摂動力が大きいためにたいへん複雑であり,そのうえ月は地球に近いので高い精度の観測が昔から行われてきた。こうして,複雑な運動を高い精度で解明する月運動論の内容はきわめて膨大なもので,代表的なE.W.ブラウンの月運動論では,月の黄経,黄緯,視差を表す三角級数は全体で1600余の周期項からなっている。その半数以上が黄経に使われているが,その中でもっとも主要な5個の周期項は中心差,出差,二均差,年差,月角差と呼ばれている。…

【庭園】より

…この設計は最初ブリッジマンCharles Bridgeman(?‐1738)によって行われ,彼は庭と外界の境に一種の堀割であるハハーHahahを導入して,何さえぎるものなく眺望が周囲の自然にとけ込んでいくように工夫した。ストーは以後,ブリッジマンと協同したバンブラー,ケント,ギブズ,ブラウンといった名手たちがつぎつぎに手を加えた記念碑的な庭園となる。風景式庭園のさまざまな相を一つに集めた庭として,いまに伝えられている。…

【ブレニム宮殿】より

…巨大な中庭を抱く主屋と,主屋に匹敵する規模の左右パビリオンからなる。L.ブラウン設計の風景式庭園をもつ。【鈴木 博之】。…

【被子植物】より

…しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。正確に双子葉植物,つまり被子植物が範囲づけられたのは,ブラウンR.Brownによって裸子状態と被子状態が区別されてからのことで(1827),分類系において,裸子・被子の区別を双子葉・単子葉の区別より上位においたのはブラウンA.Braunである(1864)。現在,被子植物を双子葉植物綱と単子葉植物綱に二大別することに異議をとなえる人はほとんどなく,科の数もそう大きな変動はないように思われる。…

【裸子植物】より

…ド・カンドルA.P.de Candolleも,それらを双子葉類といっしょにしていた(1813)。裸子植物を今日のように,種子(胚珠)が心皮(心房)に包まれていない植物として正しく認識したのは,ブラウンR.Brownである(1827)。1851年,ホーフマイスターW.Hofmeisterは球果類の球果とヒカゲノカズラ科の胞子囊穂を比較して,両者の器官学的相同性を論じた。…

【ウィーナー過程】より

…時間とともに変化する偶然現象の数学的模型である確率過程のうちで,もっとも代表的なものである。初め,イギリスの植物学者R.ブラウンが顕微鏡で水中にある花粉から出る微粒子を観測しているうちに,それらが激しい不規則運動をしていることを発見した。この運動は,後に水の分子が微粒子と無数といってよいほど頻繁に衝突することによって起こるものであることがわかり,ブラウン運動Brownian movementと呼ばれるようになった。…

【被子植物】より

…しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。正確に双子葉植物,つまり被子植物が範囲づけられたのは,ブラウンR.Brownによって裸子状態と被子状態が区別されてからのことで(1827),分類系において,裸子・被子の区別を双子葉・単子葉の区別より上位においたのはブラウンA.Braunである(1864)。現在,被子植物を双子葉植物綱と単子葉植物綱に二大別することに異議をとなえる人はほとんどなく,科の数もそう大きな変動はないように思われる。…

【ブラウン運動】より

…この運動を初めて観察したのはイギリスのニーダムJohn Tuberville Needham(1713‐81)で,1740年のことといわれているが,当時はこの動く微粒子が動物の精子にあたるのだろうと考えられていた。その後,1826年になって,イギリスの植物学者R.ブラウンがこの動く微粒子の運動をもっとよく調べようとした動機も,植物の受精の研究だった。微粒子の運動が水の対流や振動にひきずられて起こっているのだとは思えない。…

【裸子植物】より

…ド・カンドルA.P.de Candolleも,それらを双子葉類といっしょにしていた(1813)。裸子植物を今日のように,種子(胚珠)が心皮(心房)に包まれていない植物として正しく認識したのは,ブラウンR.Brownである(1827)。1851年,ホーフマイスターW.Hofmeisterは球果類の球果とヒカゲノカズラ科の胞子囊穂を比較して,両者の器官学的相同性を論じた。…

【会衆派教会】より

…かつては組合教会と呼ばれた。16世紀イギリスのR.ブラウンらの〈分離派〉改革運動に起源をもつものでイギリスにも残るが,アメリカでさかんになった。アメリカの植民地時代の初期ピューリタン,ピルグリム・ファーザーズやマサチューセッツに上陸した人々の教派である。…

【キリスト教】より

… イギリスにおいてルター,カルバンの改革思想をうけつぎ,国教会の不徹底な改革を徹底させて近代化の道を開いたのはピューリタン(清教徒)である。R.ブラウン,グリーンウッドJohn Greenwood(?‐1593),バローHenry Barrow(1550ころ‐93)らは国教会から出て独立派independentsとなり,会議制的な長老派をも退けて個々の教会の自主性をたっとび,教職・平信徒の区別のない〈万人祭司〉を実現しようとした。これが会衆派教会(コングリゲーショナル・チャーチ)の基となった。…

【ピューリタン】より

…ただし,ピューリタンの範囲を正確に定義するのは困難で,国教会からの非分離派のカルビニスト(後の長老派),分離派のカルビニスト(後の独立派),分離派の非カルビニスト(後の諸セクト)の三者を包含する用語とするのが通説である。 エリザベス時代は,エリザベスの巧みな行政とともに,教会政治的にはホットギフトJohn Whitgift,思想的にはR.フッカーの活動によって抑止され改革の目的が達成されず,かえってR.ブラウンらの過激なピューリタン(国教会からの分離派)を生み出した。エリザベスの死後ジェームズ1世が即位したとき,ピューリタン牧師たちは〈千人請願〉を提出し改革の推進を求めたが,《欽定訳聖書》作成の願望以外はすべて受けいれられず,国教会体制はさらにひきしめられて継続することとなり,不満なグループはオランダやニューイングランドに移住するようになった。…

※「ブラウン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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