ブラウン(読み)ぶらうん(英語表記)James Brown

デジタル大辞泉 「ブラウン」の意味・読み・例文・類語

ブラウン(Robert Brown)

[1773~1858]英国の植物学者。オーストラリアおよびタスマニア島で多くの動植物を採取し、分類学者として活躍。ブラウン運動細胞核の発見、被子植物裸子植物とを分けるなど多くの業績がある。

ブラウン(Gordon Brown)

[1951~ ]英国の政治家。労働党。大学講師・テレビ記者を経て、1983年に下院議員に当選。1997年から10年間ブレア政権の蔵相を務め、不況から安定成長へと経済を回復させた。2007年にブレアの後任として首相に就任。→キャメロン

ブラウン(Samuel Robbins Brown)

[1810~1880]米国の改革派教会の宣教師。1859年(安政6)来日、横浜でブラウン塾を開き、教育・伝道に努め、植村正久ら多数のキリスト教指導者を育成。また、新約聖書の翻訳に尽くした。1879年(明治12)帰国。

ブラウン(Karl Ferdinand Braun)

[1850~1918]ドイツの物理学者。ブラウン管の発明や、無線通信技術などに業績がある。1909年、G=マルコーニとともにノーベル物理学賞受賞。

ブラウン(brown)

茶色。褐色。とび色。
[類語]褐色茶色焦げ茶色

ブラウン(John Brown)

[1735~1788]英国の医学者。病気は外部からの刺激の過不足によって起こると主張。著「医学の諸要因」。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ブラウン」の意味・読み・例文・類語

ブラウン

  1. [ 一 ] ( John Brown ジョン━ ) アメリカ合衆国の奴隷制廃止運動家。奴隷の蜂起を画策してバージニア州ハーパーズフェリーの連邦武器廠を襲撃したが、失敗に終わり、処刑された。(一八〇〇‐五九
  2. [ 二 ] ( Karl Ferdinand Braun カール=フェルディナント━ ) ドイツの物理学者。ブラウン管の発明、電気計の改良、無線電信の研究などの業績がある。一九〇九年マルコーニと共にノーベル物理学賞受賞。(一八五〇‐一九一八

ブラウン

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] brown ) 褐色。茶色。
    1. [初出の実例]「第三十六等 フラウンと云色に製す」(出典:西洋料理通(1872)〈仮名垣魯文〉三)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン(James Brown)
ぶらうん
James Brown
(1933―2006)

アメリカのソウル・ミュージック・シンガー。黒人ボーカリストの代名詞ともいうべきスターであり、1950年代以降、何度か浮き沈みはあったものの、つねに第一線で活動し、「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」の称号をほしいままにする人物であった。

 ジョージア州メーコンの貧しい家庭に生まれる。10代のころは強盗をはたらき、矯正施設に入れられたこともあった。荒れた生活を救ってくれたのが大好きだった音楽で、仲間のボビー・バードBobby Byrd(1934―2007)と1955年グループを結成し、まずザ・フレームズを名のり、次にフェーマス・フレームズへと発展していった。

 ブラウンは当時からゴスペル・ソングに影響されたエネルギッシュなボーカルを得意としていた。1956年に発売されたデビュー作「プリーズ・プリーズ・プリーズ」も、教会の熱狂が最高潮に達したときの高揚感をラブ・ソングへみごとに移しかえたものである。しかしこのころのブラウンは、歌手としての実力はあってもなかなかヒットが出なかった。「プリーズ…」に続くヒットは、2年も後の1958年の「トライ・ミー」で、このバラードはリズム・アンド・ブルース・チャートの1位に輝いた。

 1960年代に入り、ブラウンはバンドのリズム改革を始める。当時のリズムの主流はブギ・ウギの流れをくむビートから、よりビートの強い各楽器のリズムが絡みあうアフリカ系ポリリズム(複合リズム)へと変わりつつあった。これがのちにファンクとよばれるものである。ブラウンはこういった黒人音楽の変化を鋭く察知し、自分たちがその先頭に立とうとしたのだった。1960年の作品「シンク」あたりでは、まだその変化ははっきりとはしないものの、「ビウィルダード」(1961)、「プリズナー・オブ・ラブ」(1963)といった得意のバラードをはさみ、1964年のダンス・ナンバー「アウト・オブ・サイト」になると、ブラウンを中心としてすべての楽器や肉声が大中小さまざまな打楽器のアンサンブルのようになった。そして「パパズ・ガット・ア・ブランニュー・バッグ」(1965)、「コールド・スウェット」(1967)、「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック&プラウド」(1968)などの歴史的なファンク作品を立て続けに発表していった。1970年には、10年後のラップの出現を予言したともいわれる作品「ブラザー・ラップ」に加え、ブラウン・ミュージックの金字塔「セックス・マシーン」が発売されている。

 このようなブラウンのヒット曲のアイディアやエネルギーは、すべて黒人社会から吸収したものだった。上記の作品にしても、路上で生活する者たち(「セックス…」)、薬物(「コールド…」)、黒人としての誇り(「セイ・イット…」「ブラザー…」)と、黒人社会の言葉と文化が濃厚に反映されている。ブラウンは、子供のころから培(つちか)われた自立と反逆の精神をもとに、同胞の黒人に対して「仲間よ立ち上がるのだ」と音楽でメッセージを送り続けていたのである。1968年に公民権運動の指導者であったキング牧師が暗殺された際、ブラウンがラジオに登場し、全米の怒れる黒人たちに向かって冷静でいることを訴えたという逸話からも、この時期の彼がどれほど黒人社会で支持されていたかがわかる。

 黄金期のブラウンを支えたのがJBズというバック・バンドだった。このバンドには多くのミュージシャンが出入りしたが、そのなかではアルト・サックスのメイシオ・パーカーMaceo Parker(1943― )、トロンボーンのフレッド・ウェズリーFred Wesley(1944― )、ベースのブーツィ・コリンズBootsy Collins(1951― )らが、その後もジョージ・クリントンの傘下に入るなど話題の多い活動をしている。

 1970年代に入って、ブラウンの勢いにも少しずつ陰りがみえ始めた。時代はファンクから比べればずっと単調なディスコ・ミュージック・ブームにさしかかり、ブラウンも時代の波にのみ込まれていった。だがこの時期のブラウンを一変させたのが、ラッパーのアフリカ・バンバータだった。バンバータはブラウンを自分たちのルーツであるといい、シングル「ユニティ」(1984)で共演、これが皮切りとなり映画『ロッキー4』(1985、シルベスター・スタローンSylvester Stallone(1946― )監督)に使われた「リビング・イン・アメリカ」の大ヒットでふたたびスターの座に返り咲いた。その後、妻への暴行事件による2年間の投獄やセクハラ裁判など、ときおり私生活の暗部が顔を出したが、晩年まで昔と変わらないたくましく力強いステージを続けた。

[藤田 正]

『ジェームス・ブラウン、ブルース・タッカー著、山形浩生訳『俺がJBだ! ジェームス・ブラウン自叙伝』(1993・JICC出版局)』


ブラウン(Clifford Brown)
ぶらうん
Clifford Brown
(1930―1956)

アメリカのジャズ・トランペット奏者。デラウェア州ウィルミントン生まれ。トランペット、ピアノなど多くの楽器奏法に通じる父親から13歳のときトランペットを贈られる。地元のハワード高校でジャズの普及に尽くす音楽教師からトランペット、ピアノなどの楽器奏法、和声法、作曲・編曲法を学び、短期間で才能を発揮する。このころから彼は「ブラウニー」の愛称で親しまれる。

 1948年、デラウェア州立大学に奨学生として進学するが音楽学部がなく数学を専攻。近距離にある大都市フィラデルフィアの、クラブでのセッションに参加。トランペット奏者のファッツ・ナバロFats Navarro(1923―1950)、マイルス・デービス、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972)、ドラム奏者のマックス・ローチといった、当時の最新鋭ジャズ・スタイル「ビ・バップ」の若手ミュージシャンたちと共演の機会を得るとともに、尊敬するナバロから激励され彼のスタイルに傾倒する。

 1949年トランペット奏者でビ・バップの立役者のディジー・ガレスピーがフィラデルフィア公演を行った際、ブラウンは臨時メンバーに採用された。そのただならぬ才能にガレスピーは驚き、プロ・ミュージシャンへの道を勧める。同年ブラウンはメリーランド州立大学の音楽学部に奨学生として入学、学生バンドに加わって演奏する。1950年交通事故に遭い1年間療養を余儀なくされる。1951年、回復とともに学業を離れプロ・ミュージシャンの道を歩み出す。同年短期間ながらビ・バップの中心人物、アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと共演し、パーカーをも驚嘆させる。1952年ドラム奏者、歌手のクリス・パウエルChris Powellのバンド「ブルー・フレーム」に加わり、初レコーディング(後に、1956年のブラウン最後の演奏とともに『ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド』(1952~1956)に収録される)を経験する。1953年ニューヨークを訪れ、ブルーノート・レコードのプロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―1987)の勧めにより早速レコーディングを行い『メモリアル・アルバム』(1953)を制作、ブラウンの初リーダー作となる。同年、編曲者・ピアノ奏者タッド・ダメロンTadd Dameron(1917―1965)のバンドに参加。ついでビブラホーン奏者ライオネル・ハンプトンの楽団に加わり、ヨーロッパ・ツアーの折にハンプトンの目を盗んでレコーディングをし、アルバム『パリ・コレクション』(1953)を制作。1954年ドラム奏者アート・ブレーキーのセッションに参加し、ビ・バップを発展、洗練させた形態である「ハード・バップ」の誕生を告げる歴史的アルバム『バードランドの夜』を録音。同年ロサンゼルスでローチと双頭バンドを結成、この年のジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの国際批評家投票により、トランペット新人部門第1位に選ばれる。またエマーシー・レコードと専属契約を結び多くの傑作を録音する。1956年フィラデルフィアからシカゴに向かう途中、交通事故により25歳8か月の生涯を終える。

 代表作は『クリフォード・ブラウン・アンド・マックス・ローチ』(1954~1955)、『スタディ・イン・ブラウン』(1955)、『アット・ベイズン・ストリート』(1956)。彼はガレスピー、ナバロらビ・バップ・トランペッター主流派の系譜に連なり、その卓越した演奏技術と輝くような音色はジャズ・トランペッターの理想とまでの高い評価を受けている。彼の率いた双頭バンドは、同時期のマイルス・デービス・クインテットと並んで、ハード・バップ・コンボの定型を作り上げた。また、リー・モーガン、ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)など多くのハード・バップ・トランペッターが彼の影響を受けている。

[後藤雅洋]


ブラウン(Alexander Braun)
ぶらうん
Alexander Braun
(1805―1877)

ドイツの植物学者。レーゲンスブルク生まれ。カールスルーエ、フライブルク、ギーセン、ベルリンの各大学の教授および植物園長を歴任した。淡水産の藻類のほか、とくにいわゆる顕花植物の研究に力を注ぎ、コケ植物の分類学的位置を明らかにしたうえ、裸子植物・被子植物、双子葉植物・単子葉植物の系統上の位置を明らかにした。この見方は同じドイツのアイヒラーAugust Wilhelm Eichler(1839―1887)やエングラーによって受け継がれ、近代的な植物系統分類学の基礎となった。そのほか、シンパーとともに葉序の配列について解析し、古典的に有名なシンパー‐ブラウンの法則を発見した。哲学者F・W・シェリングの自然哲学の影響を受けていたといわれる。

[佐藤七郎]


ブラウン(Robert Brown、植物学者)
ぶらうん
Robert Brown
(1773―1858)

イギリスの植物学者。スコットランドの牧師の子として生まれ、エジンバラ大学で医学を修めて軍医となる。植物学に興味をもち、博物学者バンクスJ. Banks(1743―1820)の推挙でイギリス海軍の探検船に乗り組み(1801~1805)、南アフリカ、オーストラリア、タスマニア地方の植物を調査して約4000種の標本を持ち帰った。ロンドンのリンネ協会の司書(1806~1822)、バンクスの蔵書や標本の管理者(1810~1820)を務めながら、オーストラリアの植物の記載・分類を行った。バンクスの死後、彼のコレクションが大英博物館に遺贈されるに伴い、ブラウンは同博物館植物学部長となり(1827)、死ぬまでその地位にあった。バンクスが残した家に住み、生涯独身であった。新しい属や科を記載することによって植物分類法を改良し、心皮の有無によって被子植物と裸子植物を明確に区別した。1827年、花粉内部の小顆粒(かりゅう)の不規則な運動(ブラウン運動)をみいだし、同様な運動は水中に浮遊する非生物的な微粒子でもみられることを確かめた。1831年には、植物の生細胞中に1個の核があることを明らかにした。

[檜木田辰彦]


ブラウン(Karl Ferdinand Braun)
ぶらうん
Karl Ferdinand Braun
(1850―1918)

ドイツの物理学者。ヘッセン州フルダの生まれ。マールブルクで学んだのち、1872年棒や弦の弾性振動の研究で学位を取得した。ウュルツブルク、ライプツィヒ、マールブルク、カールスルーエ、チュービンゲンの各大学に勤めたのち、1895年ストラスブール大学の物理学教授・物理学研究所所長となった。1874年鉱物性金属硫化物が一方向のみに電流を伝える性質をもつことを発見(鉱石検波器の原理)、1887年にはル・シャトリエと独立に平衡移動の法則に到達した。その後、電磁気学的研究を進め、1897年には陰極線管をもとに各種の電磁現象を調べるブラウン管(オシロスコープ)を発明した。また送信距離に限界をもつヘルツ発振器(火花放電による)の問題点を指摘、変圧効果によりアンテナと発振器とが同調する無線システムをはじめ、傾斜ビームアンテナなどを開発した。1909年マルコーニとともに無線通信の研究によりノーベル物理学賞を受けた。なおラジオ放送に関する訴訟でアメリカに渡ったが、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)のため帰国できず、客死した。

[兵藤友博]


ブラウン(Michael Stuart Brown)
ぶらうん
Michael Stuart Brown
(1941― )

アメリカの遺伝学者。ニューヨーク市ブルックリンに生まれる。ペンシルベニア大学で化学を学び、1962年に卒業、同大学で1966年に医学博士号を取得した。同年ボストンのマサチューセッツ総合病院で内科のインターンとして勤務し、1968年にアメリカ国立衛生研究所(NIH:National Institutes of Health)で遺伝病の臨床研究員となった。1971年テキサス大学サウスウェスタン医学校に移り、1974年同校の準教授となり、1976年教授に昇格、1977年遺伝学教授および遺伝病センター所長に就任した。

 ともにコレステロールの研究を行ったJ・L・ゴールドステインとは、マサチューセッツ総合病院時代以来の長期間にわたる共同研究者であった。彼らは、生体内でコレステロールが生成される際の酵素の調整作用に注目し、とくに遺伝疾患である家族性高コレステロール血症について研究を進めた。そしてコレステロールの合成が、LDL(low-density lipoprotein、低比重リポタンパク)レセプターによって統御されているメカニズムを解明した。さらに、このメカニズムは遺伝子によってコントロールされ、遺伝子異常が家族性高コレステロール血症を引き起こすことも明らかにした。この業績によってブラウンは、ゴールドステインとともに1985年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

[編集部]


ブラウン(Herbert Charles Brown)
ぶらうん
Herbert Charles Brown
(1912―2004)

アメリカの化学者。ロンドンに生まれる。2歳のときに両親とともにアメリカのシカゴに移住した。14歳で父を亡くし、苦学してシカゴ大学で化学を学び、1935年にアメリカの市民権を、また1938年に博士号を取得した。シカゴ大学で助手を務めたのち、1943年ウェイン大学に移り1946年準教授になった。翌1947年にパーデュー大学の無機化学教授となり、1978年まで務めた。

 ブラウンは、シカゴ大学時代からホウ素の化学的研究に取り組み、水素化ホウ素ナトリウムNaBH4を発見、それが有機化合物に対して優れた還元力をもつことをみいだした。この化合物は、その後広く還元試薬として利用されている。また、ジボランB2H6の簡単な合成法を発見し、さらにジボランを不飽和炭化水素に反応させ、オルガノボランを合成することに成功した。これはハイドロボレーション反応とよばれ、有機合成において大きな利用価値をもつものであった。これらの業績により、1979年にノーベル化学賞を受賞した。ドイツの化学者ウィッティヒとの同時受賞であった。

[編集部 2018年10月19日]


ブラウン(Charles Brockden Brown)
ぶらうん
Charles Brockden Brown
(1771―1810)

アメリカの小説家。アメリカ最初の職業的小説家としてゴシック(恐怖)小説、心理小説を書き、後のポーやホーソンの先駆となった。『ウィーランド』(1798)では腹話術の声に操られた宗教的狂信者が描かれ、『オーモンド』(1799)では、倫理から解放されたと過信した殺人犯が、犯そうとした女に殺される。『エドガー・ハントリー』(1799)では、殺人、夢遊病、精神錯乱、アメリカライオンとの遭遇、インディアン相手の戦いなどが描かれ、次の『アーサー・マービン』(1799、1800)では、フィラデルフィアの黄熱病流行を背景に、殺人、裏切り、誘惑、自殺未遂、病死などが描かれる。そのほか、女性の結婚を扱った『クララ・ハワード』(1801)と『ジェイン・タルボット』(1801)がある。彼の小説は、異常心理、暗い感情の緊張、恐怖、殺人などの犯罪、そのほか異常なできごとの写実的描写を特色とするが、イギリスのW・ゴドウィンの思想と小説からの影響は否めないものの、ヨーロッパ風のゴシック小説からの脱却、S・リチャードソンにみられない知的女性像の創造など、アメリカ小説史上の意義は大きい。だが、小説としてクライマックスに迫力がなく、プロットのまとまりを欠く欠点がある。ほかに『月刊アメリカ評論』『文芸とアメリカの記録』を編集し、自ら短編小説や文芸批評を掲げた。アメリカの短編・批評の先駆者としても重要な存在である。

[松山信直]

『八木敏雄訳『ゴシック叢書10 エドガー・ハントリー』(1979・国書刊行会)』


ブラウン(Gordon Brown)
ぶらうん
Gordon Brown
(1951― )

イギリスの政治家。イギリス北部スコットランドの牧師の家に生まれた。「経済学の父」アダム・スミスの故郷で、リノリウム製造が盛んだった鉱工業都市カーコルディで青少年期を過ごし、エジンバラ大学に入学、歴史学を専攻。入学直前、ラグビー中のけがが原因で網膜剥離(はくり)となり、左目の視力を失ったが、優秀な成績で卒業、後に博士号も取得した。1976年からエジンバラ大学などで講師を務め、1980年にはスコットランド・テレビの記者となった。

 サッチャー保守党政権時代の1983年に、労働党から下院議員に初当選。当初はサッチャー政権の国有企業民営化に反対するなど伝統的左派イデオロギーの信奉者だったが、やがて現実主義路線に転換。1997年に、旧来の左翼でもなく、新自由主義でもない「第三の道」を掲げるブレア労働党政権が成立すると、財務相となり、イングランド銀行に金利決定権をゆだねる自由主義的な政策を発表した。イギリス近代史上において、財務相の在任期間は最長を誇る。2007年6月ブレア首相の退任に伴い首相に就任。2008年の経済・金融危機以来、経済・雇用状況が低迷、また財政赤字の削減が進展しないなかで行われた2010年5月の総選挙で大敗し、第一党の座を保守党に明け渡し退陣。


[宮明 敬]


ブラウン(Ernest William Brown)
ぶらうん
Ernest William Brown
(1866―1938)

イギリス出身のアメリカの天文学者。月の運行表の作製者。ハルに生まれ、ケンブリッジ大学でG・ダーウィンに天体力学を学び、1887年卒業。1889年より特別研究員となったが、1891年にアメリカに渡り、ペンシルベニア州立大学で数学教授に就任、1907年にエール大学数学教授に転じた。そして先達者ヒルGeorge W. Hill(1838―1914)の後継として、月の運行の理論的研究に専念し、1919年その計算方法に基づく『月運行表』を編成した。月の運行は摂動の影響を強く受けるので、天体力学のうちでもとりわけ複雑な計算理論を必要とするが、従来の表よりもはるかに精密であった。

[島村福太郎]


ブラウン(Fredric Brown)
ぶらうん
Fredric Brown
(1906―1972)

アメリカのSFと推理小説の作家。オハイオ州シンシナティ市生まれ。SF短編を1941年から書き始めた。軽妙洒脱(しゃだつ)、ぴりっとした風刺とコミックな落ちの利いた作風は当時としては珍しいもので、のちに短編集『天使と宇宙船』(1954)や『未来世界から来た男』(1961)などにまとめられた。短編とショート・ショートの名手であるが、奇抜な着想と巧みなプロット構成は長編においても同様で、異次元テーマの『発狂した宇宙』(1949)、ユーモアSFの『火星人ゴーホーム』(1955)、エーリアン・テーマの『73光年の妖怪(ようかい)』(1961)などの作品がある。SFと並行して推理小説にも手を染め、私立探偵エド・ハンター・シリーズの第一作『シカゴ・ブルース』(1947)でアメリカ推理作家協会賞を受賞し、同シリーズは7編、ほかに15編ほどの長編と短編集『まっ白な嘘(うそ)』(1953)などがある。

[厚木 淳]

『井上一夫訳『73光年の妖怪』(創元推理文庫)』


ブラウン(Sir Thomas Browne、医師、文人)
ぶらうん
Sir Thomas Browne
(1605―1682)

イギリスの医師、文人。ロンドンに生まれ、オックスフォード大学卒業ののち、フランス、イタリア、ドイツの各大学で医学を修める。ヨークシャーで開業後1637年ノリッジへ移る。1671年、医者としての功績でサーの称号を授けられる。旺盛(おうせい)な知識欲と希有(けう)な記憶力の持ち主で、医業のかたわら著述にも励み、『医師の信仰』(1643)など数編の著書がある。『医師の信仰』は信仰と理性の問題を扱い、科学の支配に抗して宗教擁護の立場をとる代表的著作。一般に『迷信論』の名で知られる『伝染性謬見(びゅうけん)』(1646)は、古今の俗間信仰を科学的に、あるいは詭弁(きべん)を弄(ろう)しつつ、博識を駆使して縦横に批判する。偶然発見された骨壺(こつつぼ)をめぐり独自の死生観、霊魂不滅論を展開する『壺葬論』(1658)も、ユニークな主題で注目に価する。しかし、彼の真骨頂は主題の独自性よりも優れた散文スタイルにあり、形而上(けいじじょう)詩に一脈通ずる大胆な措辞は、近年改めて高い評価を受けつつある。

[玉泉八州男]

『堀大司訳『医師の信仰』(『世界人生論全集4』所収・1963・筑摩書房)』


ブラウン(Samuel Robbins Brown)
ぶらうん
Samuel Robbins Brown
(1810―1880)

アメリカの改革派(オランダ系)宣教師。中国と日本で伝道活動をした。1859年(安政6)来日して数か所で教えたのち、一時帰国。再来日して、1873年(明治6)横浜の山手(やまて)にブラウン塾を開き、英学と神学を教えて横浜バンドの青年たち(植村正久や本多庸一(ほんだよういつ)ら)を育成した。

[川又志朗 2018年2月16日]


ブラウン(Robert Browne、会衆派の創始者)
ぶらうん
Robert Browne
(1550ころ―1633)

イングランドの分離主義者Separatistで会衆派Congregationalismの創始者。ケンブリッジ大学での学業のあと、イギリス国教会(イングランド教会)を批判する過激な説教をしたため、数回の投獄を体験する。移住先のオランダで執筆した論文「ためらうことなく改革を」(1582)に「ブラウン主義」と評価される思想を展開した。ここには初代教会への回帰志向が記述されている。教会を自覚的信仰者の自由な交わりと規定し、自律的な教会訓練を施し聖職者を選ぶべきだと考え、敬虔(けいけん)主義Pietismの先駆をなした。のち仲間から離脱し、国教会の叙任を受け(1591)、42年間聖職禄(ろく)を得たが、獄死説もある。

[川又志朗 2018年1月19日]


ブラウン(Thomas Brown、哲学者)
ぶらうん
Thomas Brown
(1778―1820)

イギリスの哲学者。エジンバラ大学教授を務めた。スコットランド常識学派に属するが、ヒューム、ミルらの伝統との中間的立場を代表する。彼は一方で、ヒュームより進んで因果関係を対象間の斉一的継起と断定するが、他方、外的存在の知識の場合と同様、因果的認識を直覚的、本能的な信念で基礎づける。また、筋肉と触覚の感覚を分け、心的能力の別を能力心理学的でなく、心的なできごとの類型の差とみたのも彼の特色である。著作には、ヒュームの因果論の検討(1805)や『人間精神哲学講』(1820)などがある。

[杖下隆英 2015年7月21日]


ブラウン(Joseph Rogers Brown)
ぶらうん
Joseph Rogers Brown
(1810―1876)

アメリカの機械技術者。ロード・アイランド州のプロビデンスに生まれる。父も機械工場主であった。1853年ブラウン‐シャープ社(2001年ヘクサゴンABグループにより買収)を創立し、有力な工作機械メーカーに発展させた。測定器具や工作機械の改良に貢献したが、ブラウンが設計しブラウン‐シャープ社が製作した機械は、万能割出し台を備え、螺旋(らせん)状の切削操作、歯車の切削、その他の工程に応じられるもので、万能フライス盤として機械工作技術に革命的な影響を与えた。没後、自動歯切り盤が彼の社で製作された。

[山崎俊雄]


ブラウン(John Brown)
ぶらうん
John Brown
(1735―1788)

イギリスの医学者。スコットランドのバーウィックシャー生まれ。エジンバラ大学に入学し、苦学して医学を修めた。同大学の内科学教授カレンWilliam Cullen(1710―1790)の手厚い庇護(ひご)を受けたが、のちにこれに背き、1779年、44歳のときにようやく学業を終えた。1780年に『医学原理』Elementa Medicinaeを著し、独自の医学理論を明らかにした。彼の理論の要点は興奮性ということにあり、生活体はすべてこれを有しており、健康時にはこれが中等度であって、過度か不足のときには病気であると説いた。そして病気の治療には、アヘン剤やウイスキーなどを好んで使用した。

[大鳥蘭三郎]


ブラウン(Nathan Brown)
ぶらうん
Nathan Brown
(1807―1886)

アメリカのバプティスト派の宣教師。来日前はビルマ(現、ミャンマー)とアッサムで22年間伝道し、『新約聖書』のアッサム語訳を完成。1873年(明治6)同派のゴーブルJonathan Goble(1827―1896)とともに来日し、横浜の山手(やまて)に日本最初のバプティスト教会を創立、死去するまで牧師を務めるかたわら、独力で『新約聖書』の日本語訳を進め、ヘボンらの共同訳より早く1880年に完成した。横浜外国人墓地にある墓碑にはGod bless the Japaneseと刻まれている。

[川又志朗 2018年2月16日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン
Karl Ferdinand Braun
生没年:1850-1918

ドイツの物理学者。ブラウン管の発明や無線の実用化によって有名である。裁判所事務員の子としてフルダに生まれた。マールブルクとベルリンで学び,H.L.F.vonヘルムホルツの下で博士号を取得した。マールブルク,ストラスブール,カールスルーエ,チュービンゲン各大学の教授を務めた。1870年代に半導体の点接触による非対称電気伝導を報告した。これは整流現象に関する初期の重要な研究である。97年に彼は陰極線管を発表した。陰極線は,W.クルックスやW.K.レントゲンらによりすでに知られていたが,ブラウンは陰極線を細いビームにして振らせること(偏向)を行った。陰極線管は彼の名にちなんでブラウン管と呼ばれる。ブラウン管により高速電気現象を観測できるようになり,ブラウン管オシロスコープが登場した。ブラウン管はまた,テレビジョン,レーダー,コンピューターのディスプレーに広く用いられるようになった。また,彼は無線電信の送信機,受信機とアンテナとの間に誘導結合を導入し,送信機の周波数とアンテナの固有周波数を共振させるようにした。これら無線研究への貢献のゆえに,彼は1909年にG.マルコーニとともにノーベル物理学賞を授けられた。1898年に,彼はケルンで無線電信会社を設立した。ブラウンとジーメンス・ハルスケ社は共同して,スラビーA.Slabyの特許を武器とするAEG社やマルコーニ系企業と競争した。ドイツの無線通信企業は,ウィルヘルム2世の主張により,1903年にテレフンケン社に統一された。ブラウンはテレフンケン社とマルコーニ系企業との係争に関連して14年にアメリカにわたった。第1次世界大戦におけるドイツのUボート作戦の結果,彼は帰国できなくなりブルックリンで客死した。
執筆者:


ブラウン
Wernher von Braun
生没年:1912-77

ドイツ生れのアメリカのロケット技術者。ビルジッツの生れ。少年のころに読んだH.オーベルトの《惑星間空間へのロケット》に刺激を受け,宇宙ロケットの研究を志す。ベルリン工科大学に学び,34年にはベルリン大学から液体ロケットに関する研究により学位を取得,一方,この間オーベルトの助手として小型ロケット実験を行っていた。彼の研究は早くからドイツ陸軍の注目を引き,1932年ベルリン工科大学在学中からドイツ陸軍の文官として採用され,やがてペーネミュンデにおいてロケット兵器V2号を開発するチームを率いることになった。V2号は本来宇宙旅行用として構想されていたもののうちのもっとも小型のものであったが,現在の宇宙用ロケットの先駆をなすものである。第2次世界大戦後,その設計チームとともにアメリカに渡り,残ったV2号の実験を継続,50年からはハンツビルの米陸軍ミサイル開発部隊の指導をした。55年アメリカに帰化。当初アメリカは彼をあまり重用しなかったが,ソ連のスプートニクに対抗していたバンガード計画の失敗が続いたことから,彼のチームが急きょかり出され,58年アメリカ初の人工衛星エクスプローラー1号の打上げを成功させた。その後NASAの発足とともに,ロケット開発の中心マーシャル宇宙飛行センターにおいて,アポロ計画用サターンV型ロケットの開発を指導,69年のアポロ11号による人類の月面着陸の成功に多大の貢献をした。次いでNASAの将来計画副長官として有人火星飛行計画を作成したが,アメリカの宇宙予算削減に伴い受け入れられず,72年半ば失意のうちにNASAを去り,フェアチャイルド社へ移った。
執筆者:


ブラウン
George Brown
生没年:1818-80

カナダの政治家。カナダ建国の父の一人とされる。スコットランドに生まれ,1838年ニューヨークに移住。43年にトロントへ移り,翌年から《グローブ》紙を発刊。L.M.ラ・フォンテーヌとR.ボールドウィンの政治改革運動を支持して論陣を張る。51年,連合カナダ植民地立法議会に当選し,58年には2日間の短命内閣を組閣した。1855年,カナダ西部の農民(〈クリア・グリット〉と呼ばれた)の声を代表する2紙を吸収した《グローブ》は,〈人口比例代表制〉と〈ハドソン湾会社領有地の獲得〉という改革党と農民の要求を代弁して,連合カナダ植民地政界に大きな影響力を及ぼすようになる。これらの要求の実現には,全イギリス領北アメリカ植民地の連合と独立,すなわちコンフェデレーションの達成しかないとしたブラウンは,自分と政治的主張を異にする保守党のJ.A.マクドナルドとの提携を受け入れ,64年いわゆる〈大連立〉が成立してコンフェデレーションへの大前進となった。しかしながら,シャーロットタウン会議,ケベック会議に出席した彼は保守派と協調し難く,65年に内閣を辞す。67年には総選挙に落選し,73年に上院議員に任命されたもののほとんど政界からは退いた。しかし《グローブ》紙を通じて発揮された,彼の自由党への影響力は非常に大きかったとされる。80年解雇を恨んだ元《グローブ》社員に暗殺された。
執筆者:


ブラウン
Ernest William Brown
生没年:1866-1938

アメリカの天文学者。イギリスの生れ。1887年にケンブリッジ大学の数学卒業試験を上位の成績でパスして特別研究員となった。91年にアメリカに移り,93年ハバーフォード単科大学数学教授となり,学生時代にG.W.ヒルの理論を学んで以来,ずっと関心をもってきた月運動論の研究に専念した。97年に母校ケンブリッジ大学の学位を取得,またローヤル・ソサエティ会員となった。1907年にブラウンは月運動表の計算と出版に理解を示したイェール大学に移り,32年まで数学教授を務めた。ブラウンの月運動論はヒルの理論を引き継ぎ発展させたもので,研究論文は1896-1910年に数次にわたって発表され,またそれに基づいた《月運動表》全3巻は1919年に刊行された。そしてそれまで用いられてきたP.S.ハンセンの表にかわって,1923-59年各国の天体暦に採用された(1960年以降はコンピューターで直接ブラウンの理論式を計算する方式に変更された)。1923年科学アカデミー会員に選ばれ,37年ワトソン牌受賞。著書に《月運動論》(1896),《惑星理論》(シュックC.A.Shookと共著,1933)がある。
執筆者:


ブラウン
Charles Brockden Brown
生没年:1771-1810

アメリカ最初の職業的作家といわれる。フィラデルフィアのクエーカー教徒の商人の家に生まれ,法律を学んだが,1797年に女権論を出版したのを皮切りに健筆をふるった。彼の小説では《ウィーランド》(1798),《エドガー・ハントリー》《オーモンド》《アーサー・マービン》(いずれも1799)の4編が有名である。先の2編は18世紀末にイギリスで流行したゴシック・ロマンスの型をアメリカの舞台に応用したもので,今日にいたるまで連綿とつづくアメリカ文学におけるゴシック的伝統のさきがけと考えられる。しかしその健筆ぶりにもかかわらず収入は乏しく,そのため雑誌編集を試みるが成功せず,フィラデルフィアの家に戻って家業を手伝いながら執筆活動や雑誌編集をつづけた。J.F.クーパー,N.ホーソーン,E.A.ポーなどはブラウンの影響をどこかに受けているという意味で,歴史的には逸することのできない作家である。
執筆者:


ブラウン
John Brown
生没年:1800-59

アメリカの熱狂的な奴隷解放論者。コネティカット生れで,若いころは北部各地を転々としながら,父に従って奴隷の逃亡を助ける地下組織underground railroadに加わり,奴隷制度打倒が神から自分に与えられた使命であると信じるようになった。1855年,カンザス準州が奴隷制度をめぐる争点となったとき,彼は子どもたちを連れて移住し,オサワトミーでゲリラを組織,56年にポタワトミー川で奴隷制度拡大派の5人を殺害した。北部へ戻って一躍ヒーローとなり,59年10月,21人を率いてバージニア州のハーパーズ・フェリーを占領した。彼は奴隷の蜂起を期待したが,ロバート・リーの指揮する軍隊に捕らえられ,12月2日反逆罪で絞首刑となった。彼の死をたたえる歌《ジョン・ブラウンズ・ボディ》は南北戦争中北軍の進軍歌となり,そのメロディは《リパブリック賛歌》として日本に伝えられている。
執筆者:


ブラウン
Thomas Browne
生没年:1605-82

イギリスの文人,医師。オックスフォードや大陸の諸大学で医学を修め,ノリッジで開業し,その地方の名士となった。イギリス全体がはげしい思想・信仰上の変革の波に洗われている時期に,一歩も二歩もしりぞいた立場から,静かな思弁と博学な省察を,特異に高揚した名文に書きとどめた。ラテン語系の朗々たるリズムは比肩するものなく,独特の機知は散文における〈形而上派〉と呼ぶにふさわしい。《医師の宗教》(1643)は,理性と信仰の相克の時代に,ゆとりある寛容の精神を説いている。《迷信論》(1646)は古代ギリシア・ローマ以来の西欧の迷信を無類の博学でもって列挙し,しかもそれを責めるよりはいつくしむ特異な姿勢でつらぬかれている。《壺葬論》(1658)の名文に盛られた死生観はまさしく珍とするに足り,夏目漱石が《三四郎》のなかでその一節の名訳をこころみたゆえんである。英文学史上屈指の文章家であった。
執筆者:


ブラウン
Lancelot Brown
生没年:1716-83

風景式庭園を完成させたイギリスの造園家,建築家。ノーサンバーランド州出身で,1740年にバッキンガムシャーのストウStoweの庭園師となり,ケントとともに造園に携わる。以後,クルーム・コート(ウォーセスターシャー,1752),ブレニム宮殿(オックスフォード近郊,1769),クレアモント邸(サーレー,1772)など200を超す庭園計画に携わる。敷地のもつ〈可能性〉を十分生かした土地改造方法を唱えたことから,〈ケーパビリティ・ブラウンCapability Brown〉とあだ名される。自然美を造園の基準にすべきだという彼の考え方は,レプトンHumphry Repton(1752-1818)へと引き継がれた。
執筆者:


ブラウン
John Brown
生没年:1735-88

イギリスの医師。スコットランドのバンクル教区に生まれ,少年時代はレスリング,フットボールなどに熱中,18歳でエジンバラ大学へ行き家庭教師をしながら苦学して哲学と神学を修めた。24歳で医師を志し,解剖学教授のモンローAlexander Monro(1697-1767)から無料聴講の許可を得たのをはじめ,熱意を認められて5年間各教授から授業料免除で,医学を修めた。1780年に《医学原論Elementa Medicinae》を刊行し〈ブラウン学説〉を唱えた。生物は刺激に対して興奮するという特性をもち,中等度の興奮状態を保つときは健康であるが,局部的,あるいは全身的に興奮状態が高まるか,弱まるときには病気となると考え,医師は興奮の度合を確かめ,それを鎮めるか,あるいは高めるのが任務だとした。
執筆者:


ブラウン
Ott Braun
生没年:1900-74

ドイツ人の共産主義者。中国名は李徳または華夫。中国紅軍の大長征に参加した唯一の外国人。ミュンヘンに生まれ,第1次大戦の末期に社会民主党左派を支持,のち共産党に加わる。1926年に逮捕,投獄されるが,28年,脱獄に成功,ソ連に行って軍事技術を学んだ。32年,コミンテルンによって軍事顧問として中国へ派遣され,華南のソビエト区に入る。しかし,彼の軍事に関する正規軍的な思考法は,毛沢東の遊撃戦理論と合わず,また現実的でもなかったのでしだいに影響力を失った。39年ころ,モスクワにもどり,49年以後は東ドイツのマルクス=レーニン研究所で働いた。その回想《大長征の内幕》(1975)は,発表時の中ソ対立を反映して,反毛沢東的な記述にみちているが,長征に参加した外国人の経験としては貴重なものである。
執筆者:


ブラウン
Ford Madox Brown
生没年:1821-93

イギリスの画家。フランスのカレーに生まれ,ブリュージュ,ヘント,アントワープ,パリで学ぶ。1844年イギリスに定住。45年ローマを訪れ,ナザレ派の画家と交わる。彼らの宗教的で真摯(しんし)な芸術態度に対する共感は,ロセッティらに伝えられ,〈ラファエル前派〉誕生の引金となる。彼自身は結成メンバーとはならなかったが,この若いグループの指導的役割を果たしたことでその存在の意味は大きい。初期にはロマン的,歴史的な主題を伝統的手法で描いていたが,しだいに宗教的,社会的な主題に傾き,晩年は表現に誇張やデフォルメが目だつようになった。
執筆者:


ブラウン
Samuel Robbins Brown
生没年:1810-80

アメリカの改革派教会宣教師。中国の澳門(マカオ)で宣教し,一度帰国のあと1859年(安政6)来日,67年(慶応3)の帰国まで英語の教授と宣教にあたった。62年(文久2)には日本語会話修得のための《コロクイアル・ジャパニーズ(英和俗語辞典)》を出版した。69年(明治2)再び来日し横浜修文館で英語を教えたが,73年塾を開設,井深梶之助,植村正久,本多庸一ら日本基督教会の指導者となる人々を育てた。新約聖書翻訳の委員ならびに委員長として努力したが,病気のために完成を見ずに79年帰国した。
執筆者:


ブラウン
Robert Brown
生没年:1773-1858

イギリスの植物学者。スコットランド生れ。1798-1805年の間,博物学者としてオーストラリアの探検隊に加わり,ラフレシアをはじめ多くの種属を記載し,また裸子植物の系統上の位置を確立した。植物細胞の顕微鏡観察で細胞核を発見し,M.J.シュライデン(1838),T.シュワン(1839)の細胞説の契機をつくった。ムラサキツユクサの細胞で複雑なタイプの原形質流動を観察し,原形質流動への関心を高めた。ブラウン運動も彼の発見になる。
執筆者:


ブラウン
Nathan Brown
生没年:1807-86

アメリカ・バプティスト自由伝道協会の日本派遣宣教師。ビルマ(現ミャンマー)とアッサムで23年間宣教,アッサム語訳の新約聖書を完成(1838)した。のち帰国し,《アメリカン・バプティスト》誌の主筆となり奴隷制度の廃止にも努めた。1873年来日,横浜第一浸礼教会を設立。聖書邦訳の共同委員会に加わったが,〈バプテスマbaptisma〉の訳語を〈洗礼〉ではなく〈浸礼〉とすることを主張して辞任,79年独自に新約聖書の日本最初の全訳刊行を果たした。横浜で没。
執筆者:


ブラウン
Robert Browne
生没年:1550ころ-1633

イギリス会衆派教会の祖。ケンブリッジ大学の学生のとき,カートライトの長老主義の影響を受け,のちこれをいっそう徹底させた。彼の教会観は,各個教会は世俗的権威からも教会的上位の権威からも独立しているという,いわゆる会衆主義で,このため初期会衆派は〈ブラウン主義者Brownists〉と呼ばれた。英国国教会の弾圧を受け,オランダへ亡命したが,帰国後獄中で死んだ。
執筆者:


ブラウン
Edward Granville Browne
生没年:1862-1926

イギリスのイラン学者。露土戦争に影響を受け,ケンブリッジ大学入学後は,医学を修めるかたわら広くイスラム学に関心をもった。1887-88年,イランに旅行,バーブ教の調査を行った。彼の学風はペルシア語写本の綿密な研究に基づく文献学的方法に特色があるとともに,同時代史にも鋭い関心を寄せ,主著《イラン立憲革命》を著した。87年以来,母校の教壇に立ち,イラン学の基礎を築いた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

図書館情報学用語辞典 第5版 「ブラウン」の解説

ブラウン

1862-1914.スコットランド生まれ.ロンドン区部の公共図書館に長年勤めながら20世紀初頭の英国公共図書館論をリードした.デューイ流の合理主義的米国図書館学に反発しながら,エドワーズ以来の英国伝統の図書館論を確立しようとした.その著書『図書館経営法』(Manual of Library Economy1902, 1907)は彼の死去後の第3版(1920)以降も彼の名を残したまま刊行が続けられ,第7版(1961)まで刊行されている.また,分析合成型の分類法の先駆といわれる『件名分類法』(Subject Classification1906)も彼の業績として知られている.

出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン
Brown, Robert

[生]1773.12.21. アンガス,モントローズ
[没]1858.6.10. ロンドン
スコットランドの植物学者。エディンバラで医学を学んだのち,軍医となってアイルランドで服務。 1798年ロンドンを訪れ,当時ロイヤル・ソサエティの会長であった J.バンクスの知遇得た。彼のすすめでオーストラリア探検隊に参加し (1801~05) ,約 4000種の植物を採集。帰国後,それを分類して『オーストラリアの植物』 Prodromus Florae Novae Hollandiaeを著わす (10) 。また,花粉の形が植物を分類するための手掛りを与えることを示した。 1810年バンクスの私設図書館の館員となり,20年彼の植物コレクションを遺贈される。 27年大英博物館に新しく設けられた植物科の管理者となり,バンクスのコレクションをそこへ移す。同年,花の受精を顕微鏡観察している最中,水面に浮んだ花粉粒から出た小粒子が激しい振動運動を行うことに気づき,さらに採集後 100年を経ている植物標本からとった花粉粒の小粒子あるいは無機物の微粒子でさえも,水面で同じように運動することを見つけた。この現象は,その後物理学の研究対象となり,今日ブラウン運動の名で知られている。 31年,ランの受精を研究中に細胞の中に特定の構造が存在することを認め,それを核と名づけた。この発見は細胞内部の構造に対する生物学者たちの関心を高める結果となり,細胞学の興隆にとって,礎石の一つとなった。

ブラウン
Brown, George

[生]1818.11.29. エディンバラ
[没]1880.5.9. トロント
カナダの政治家。 1837年ニューヨークに移住し,43年にトロントへ移った。 44年に週刊紙『グローブ』 (のちに日刊紙となる) を創刊。この紙上において自由主義的見解や政教分離の主張,カトリック教会の影響力への攻撃,カナダ東部と西部の地域代表制による連合カナダ植民地議会ではなく,「人口比代表制」による議会改革案を展開した。カナダ東部 (現ケベック州) からは敵視されたが,カナダ西部 (現オンタリオ州) の農民,特にクリア・グリットからは絶大な支持を得,『グローブ』紙はカナダのジャーナリズムの歴史に一時期を画する人気と影響力を得た。カナダ西部の改革派を代表して 51年連合カナダ植民地下院に選出され,58年8月にはわずか2日間ではあったが A.ドリオンと組んで組閣した。北アメリカにおける植民地の連合には原則的に賛成していたが,保守派の J. A.マクドナルドと協働できなかったのを,64年6月の「大連立内閣」にマクドナルドとそろって入閣したことが,コンフェデレーション実現のきっかけとなった。

ブラウン
Brown, Gordon

[生]1951.2.20. グラスゴー
イギリスの政治家。首相(在任 2007~10)。フルネーム James Gordon Brown。16歳で奨学生としてエディンバラ大学に入学し,1972年卒業。大学講師,スコティッシュ・テレビの記者兼編集者を経て 1983年下院初当選。トニー・ブレアと親交を結び,労働党の政治理念改革を主導,国家社会主義の実現という旧来の路線から,市場経済との共存を目指す現実路線への転換をはかった。1997年の総選挙で労働党が圧勝すると,ブレア政権の財務大臣に就任。政策金利の決定権をイングランド銀行に移管するなどの改革を行ない,以後 10年にわたる在任期間中のイギリス経済の比較的安定した成長を実現した。ブレア退陣後,2007年無投票で労働党党首に選出され,首相に就任。2008年に起こった世界金融危機以降は国際的リーダーシップを発揮したが,国内での不人気を覆せず,2010年5月の総選挙で労働党が惨敗。13年ぶりに第一党の座を失った責任をとって党首を辞任し,首相職も辞した。

ブラウン
Brown, Lancelot

[生]1716. カークハール
[没]1783.2.6. ロンドン
イギリス 18世紀の自然主義造園の主導者。通称 Capability Brown。 1740年ストウのコバム卿の庭園師となり,W.ケントのもとで自然風の作庭を行うなかから,ケントの創始した非整形式造園を踏襲しつつ独自の様式を開拓。大きなスケールのなかに蛇行する湖と細流,木立ちや樹林帯などの大要素を散在させてつくるまろやかさ,スムーズに連続する変化,静寂さを特徴とする。また,建物も従来のように中心的存在として扱うのではなく,造園と同等の設計要素として位置づけ直して,風景のなかに「ピクチャレスク」に配され眺められる対象物となるよう,弟子の H.ホランドとともにパラディオ風の建築を多く建てた。クルーム・コート (1751~52) やクレアモント・ハウス (69~72) はその例。作庭例はドディントン・パーク (64) ,ブレニム宮庭園 (63) ,アシュバーナム (67) など 200近い。

ブラウン
Braun, Wernher von

[生]1912.3.23. ウィルジッツ
[没]1977.6.16. バージニア,アレクサンドリア
ドイツ生れのロケット工学者。富裕な貴族の家に生れ,1930年ベルリン工科大学在学中から宇宙工学の大家の一人である H.オーベルトの助手をつとめた。 32年ベルリン大学入学,34年に同大学からロケットエンジンの研究で学位取得。その後,軍からの援助でロケット研究を続け,第2次世界大戦末,世界最初の弾道ミサイルV-2を完成。戦後アメリカに帰化 (1955) ,アメリカ陸軍の研究所でロケットの研究を続けた。スプートニクでソ連に先を越されたアメリカが,エクスプローラの打上げでようやく面目を保ったのは,彼のグループの努力の結果であった。その後アメリカ航空宇宙局 NASAの枢要な地位にあって,アポロ計画を手がけ,サターン・ロケットの開発を指揮し,人類を月に送り込むことに成功。 72年 NASAを退き,フェアチャイルド社の技術開発の重役に就任した。

ブラウン
Brown, James

[生]1933.5.3. サウスカロライナ,バーンウェル
[没]2006.12.25. ジョージア,アトランタ
アメリカ合衆国の歌手,作曲家。20世紀のポピュラー音楽界に最も影響を与えた一人で,「ショービジネス界一の働き者」「ソウルのゴッドファーザー」と称された。15歳のときに盗みを働いて教護院に収容され,そこで仲間とゴスペル・グループを結成。釈放後,ロック歌手のリトル・リチャードに見出され,音楽活動を始める。ファーストシングル『プリーズ,プリーズ,プリーズ』(1956)は最終的に 300万枚を売る出世作となった。ヒットチャート入りしたシングルは約 100枚,アルバムは 50枚近く。1960年代には公民権運動を背景に黒人の地位向上を目指すメッセージソングを次々と書く。『コールド・スウェット』(1967)などでダンスブームの火つけ役となった。1980年代にヒップ・ホップの広がりとともにブラウンの曲は再び脚光を浴びた。1986年ロックの殿堂入り。

ブラウン
Brown, Michael S.

[生]1941.4.13. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の分子遺伝学者。フルネーム Michael Stuart Brown。ペンシルバニア大学卒業(1962),同大学で医学博士号を取得(1966)。マサチューセッツ総合病院でジョゼフ・L.ゴールドスタインと出会い,ともに国立衛生研究所 NIHに入所(1968)。テキサス大学医学部に招かれ(1971),1977年から同大学教授,遺伝疾患研究センター所長。家族性高コレステロール血症の患者と一般人との遺伝学的な差異を研究。コレステロールを含む血液中の低密度リポ蛋白質(LDL。→低比重リポタンパク)を細胞に取り込む受容体をつくる遺伝子の欠損が原因であることを発見し,コレステロール代謝の機構を解明した。ゴールドスタインとともに 1985年ノーベル生理学・医学賞を受賞。

ブラウン
Browne, Sir Thomas

[生]1605.10.19. ロンドン
[没]1682.10.19. ノーフォーク,ノリッジ
イギリスの医者。当代随一の散文の名手。オックスフォード大学で古典を修め,モンペリエ,パドバ,ライデンの各大学で医学を学んだ。帰国後ノリッジに定住,『医師の宗教』 Religio Mediciを書いた。この書は神秘主義的な信仰心と懐疑的実証的な科学精神とが奇妙に融合している個人的な手記だが,原稿のまま回覧されるうちに無断で出版 (1642) されたため,翌年みずから定本を出版した。『迷信論 (伝染性謬見) 』 Pseudoxia Epidemica (46) も好評を博したが,彼のラテン的な文体が完成されたのは『壺葬論』 Hydriotaphia,Urne-Buriall,『サイラスの庭』 The Garden of Cyrus (ともに 58) においてで,前者は発掘されたローマの骨壺に寄せて葬礼一般を論じながら,死と人間の名声のはかなさを瞑想したもの,後者はエデンの園から始る園芸の歴史を跡づけたもの。

ブラウン
Brown, Peter

[生]1665頃
[没]1735
イギリスの哲学者。トリニティ・カレッジ入学 (1682) ,同校フェロー (92) ,同校学寮長 (99) 。コークとロスの監督 (1710) 。最初は J.トーランドの『神秘ならざるキリスト教』 Christianity not Mysterious (1696) に対する批判によって有名になったが,さらにロックの観念説を批判し,われわれが精神的なものを知るのは物質的なものとの類比によってであると主張して,バークリーと論争をかわした。主著『人間悟性の所為,範囲および限界』 Procedure,Extent and Limits of the Human Understanding (1728) ,『自然的および人間的事物との類比により概念化させられる神的および超自然的事物』 Things Divine and Supernatural Conceived by Analogy with Things Natural and Human (33) 。

ブラウン
Brown, Herbert Charles

[生]1912.5.22. イギリス,ロンドン
[没]2004.12.19 アメリカ合衆国,インディアナ,ラフェーエット
アメリカ合衆国の有機化学者。2歳のとき渡米。1936年シカゴ大学を卒業後,同大学助手。1938年学位取得。1939年ウェイン大学助教授に就任,1947~78年パーデュ大学教授。シカゴ大学助手時代,ホウ素を研究し,ホウ素化合物ジボランの簡単かつ高収率の合成法を開発,また用途の広い還元試薬水素化ホウ素ナトリウムを発見した。1955年には,炭素二重結合をもつ有機化合物にジボランを反応させて有機ホウ素化合物を合成するなど,新しい合成反応を次々に展開し,有機化学の発展に寄与した。これらの業績により,1959年アメリカ化学会ニコルズ・メダルを受け,1979年ノーベル化学賞をゲオルク・ウィッティヒとともに受賞した。

ブラウン
Brown, Henry Kirke

[生]1814.2.24. マサチューセッツ,ライデン
[没]1886.7.10. ニューヨーク,ニューバーグ
ヘンリー・カーク・ブラウン。アメリカ合衆国の彫刻家。ニューヨークのユニオン・スクエアにある『ワシントン騎馬像』の作者として有名。ボストンで 3年間学んだのち,シンシナティに移り住み,その間の 1837年に初めて大理石の胸像を完成させた。1840年にニューヨーク州のオールバニに移ったのち,1842年から 4年間イタリアに遊学,新古典主義的彫刻を身につけた。1846年の帰国後は『ワシントン騎馬像』の制作に着手した。作品は 1856年7月4日の独立記念日に除幕された。多くの騎馬像を制作し,『リンカーン騎馬像』(リンカーン・スクエア),『復活の天使』(ブルックリン)などがある。甥のヘンリー・カーク・ブッシュ=ブラウン(1857~1935)も彫刻家で,『野牛狩り』,ゲティズバーグの『ミード将軍』や『レイノルズ将軍』の胸像で知られる。

ブラウン
Brown, Jim

[生]1936.2.17. ジョージア,セントシモンズ
アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手。本名 James Nathaniel Brown。NFL史上最も偉大なランニングバック RBと称される。シラキュース大学在学中,アメリカンフットボールとラクロスの全米代表選手として活躍。のちに両競技ともに殿堂入りを果たす。 1957~65年クリーブランド・ブラウンズに在籍し,ラッシングヤードと総獲得ヤードの記録を打ち立てた。この記録は 1984年にウォルター・ペイトンによって破られるまで保持した。また9シーズンの間で8回,リーディングラッシャーのタイトルを獲得。1キャリーあたりの平均獲得ヤード (5.22ヤード) の記録保持者。 30歳の全盛期に引退後,映画俳優に転身。

ブラウン
Brown, John

[生]1800.5.9. コネティカット,トリントン
[没]1859.12.2. バージニア,チャールズタウン
アメリカの奴隷制廃止論者。奴隷解放運動者としての天命を悟り,1855年息子4人と奴隷州か自由州かでもめるカンザス地方に乗込んでゲリラ活動を展開,翌年5月ポタワトミーで奴隷制支持者5人を虐殺した (→ポタワトミー虐殺 ) 。カンザスを追われ,東部の奴隷制廃止論者の支持を得て,バージニアとメリーランドの山地に自由黒人,逃亡奴隷のための本拠地建設を計画。その一環として 59年 10月「ブラウンの蜂起」を起し,バージニア州ハーパーズフェリーにある連邦武器庫を襲撃して逮捕され,同年 12月絞首刑に処せられた。死後北部の奴隷制反対派から奴隷解放の殉教者,英雄としてあがめられた。

ブラウン
Brown, Francis

[生]1849.12.26. ニューハンプシャー,ハノーバー
[没]1916.10.16. ニューヨーク
アメリカのユニオン・チャーチの牧師,教育者,セム語学者。父はハミルトン・カレッジの学長 (1867~81) をつとめた S.G.ブラウン (13~85) ,祖父は「ダートマス大学事件」当時,同校の学長であった F.ブラウン (1784~1820) 。ダートマス大学,ユニオン神学校を卒業後,ベルリンに留学。 1879年ユニオン神学校の聖書言語学講師,81年助教授,90年ヘブライ語教授,1908年校長。言語学,語彙学の業績に対し,イギリス,アメリカの諸大学から名誉学位を授与された。主著『アッシリア語研究-旧約研究における利用と誤用』 Assyrilogy; its Use and Abuse in old Testament Study (85) 。

ブラウン
Brown, Charles Brockden

[生]1771.1.17. フィラデルフィア
[没]1810.2.22. フィラデルフィア
アメリカの作家。「アメリカ小説の父」といわれる。初め弁護士をしていたが,生来のロマンチックな気質から文筆に転じて,雑誌編集のかたわら翻訳,政治論文などを発表,W.ゴドウィンの影響を受け,またイギリスのゴシック小説にならって人間の異常な心理を巧みに描く恐怖小説を次々と発表,ポーやホーソーンの先駆となった。主著『ウィーランド』 Wieland (1798) ,『オーモンド』 Ormond (1799) ,『エドガー・ハントリー』 Edgar Huntly (1799) ,『アーサー・マービン』 Arthur Mervyn (1799~1800) など。

ブラウン
Brown, Samuel Robbins

[生]1810.6.16.
[没]1880.6.20.
アメリカのオランダ改革派宣教師。マカオに伝道 (1839~47) ののち来日して横浜に英語塾を開き,英語教育にあたった。『日本語の会話書』 Colloquial Japanese (63) を出版。一時帰国,1869年再来日して横浜の修文館で英語を教え,またブラウン塾を開いて日本の教会の指導者となった本多庸一植村正久井深梶之助押川方義らに神学を教えた。また新約聖書の日本語訳にも貢献した。

ブラウン
Braun, Karl Ferdinand

[生]1850.6.6. ヘッセン,フルダ
[没]1918.4.20. ニューヨーク
ドイツの物理学者。マールブルク大学,ベルリン大学に学び,1872年学位を得た。ウュルツブルク,マールブルク各大学を経て,テュービンゲン大学教授 (1885) ,シュトラスブルク大学教授 (95) 。熱力学などを研究したのち,74年整流作用をもつ結晶を発見,97年にはブラウン管を発明。 1909年 G.マルコーニとともにノーベル物理学賞受賞。第1次世界大戦中アメリカを訪れ,アメリカの参戦により抑留されたまま死亡した。

ブラウン
Brown, George Alfred

[生]1914.9.2. ロンドン
[没]1985.6.2. コーンウォール
イギリスの政治家。トラック運転手の子として生れ,労働組合運動に参加,のち労働党の実力者となった。 1945年下院議員,51年に公共事業相として入閣,60~70年労働党副党首。 64年労働党の H.ウィルソン内閣の経済相,66年8月外相。熱心なヨーロッパ統合運動の推進者で,外相在任中ヨーロッパ共同体 EC6ヵ国を歴訪し,67年イギリスの EC加盟 (第2回) を申請した。ウィルソン首相と衝突して 68年3月辞任。 70年6月の総選挙で落選し,上院議員に任ぜられた。同年ジョージ=ブラウン George-Brownに改姓。

ブラウン
Brown, Ernest William

[生]1866.11.29. ハル
[没]1938.7.22. コネティカット,ニューヘーブン
アメリカの天文学者。ケンブリッジ大学卒業。 1891年アメリカに渡り,のちハバーフォード大学教授 (1893) ,エール大学教授 (1907) 。月の運動理論を三体問題として研究し,1919年従来の5倍も詳しい月の位置表を完成。ほかにトロヤ群の相互作用,冥王星の天王星,海王星に対する引力効果の研究がある。ロイヤル・ソサエティ会員 (1897) ,14年同ソサエティのロイヤル・メダル受賞。アメリカ科学アカデミー会員 (23) ,37年同アカデミー,ワトソン・メダル受賞。

ブラウン
Brown, Olympia

[生]1835.1.5. ミシガン,プレーリーロンド
[没]1926.10.23. メリーランド,ボルティモア
アメリカ合衆国の女権拡張論者。1863年ユニバーサリスト教会の牧師に任命され,アメリカで初の女性牧師となった。1866年スーザン・B.アンソニーと出会い,その後女性参政権獲得のため奮闘。1873年の結婚以後も旧姓を保持した。1887年から 30年間ウィスコンシン女性参政権協会会長。

ブラウン
Brown, Hubert Gerald (Rap)

[生]1943.10.4. ルイジアナ,バトンルージュ
アメリカ合衆国の黒人運動指導者。サザン大学在学中に学生非暴力調整委員会 SNCCに加わり,公民権運動で活躍。1967年ストークリー・カーマイケルの跡を継いで SNCCの委員長に就任,暴力の必要性を公然と主張するなど黒人の闘争をいっそう過激な方向に導いた。幾度も逮捕されたのち亡命。著書 "Die, Nigger, Die!"(1969)。

ブラウン
Braun, Felix

[生]1885.11.4. ウィーン
[没]1973.11.29. クロスターノイブルク
オーストリアの詩人,小説家。ホーフマンスタールの影響のもとに印象主義詩人として出発。『新生』 Das neue Leben (1913) などの詩集のほか,1910年代のオーストリアを象徴的に描いた小説『アグネス・アルトキルヒナー』 Agnes Altkirchner (27) や詩劇がある。 1939年ロンドンに亡命。ウェルフェル以後のオーストリア詩壇の第一人者と目される。

ブラウン
Brown, John

[生]1735. スコットランド,バンクル
[没]1788.10.17. ロンドン
イギリスの医師。すべての病気は外的刺激に対する身体の反応 (興奮性) の過不足によって起り,治療法も鎮静と興奮の2方法があるだけと主張した。王立医師会会長を2度もつとめたが,彼の説には反対者が多く,借金と貧窮のうちにみずからも2つの薬,アヘンとアルコールを飲みすぎて自説の犠牲者となり,死期を早めた。しかし,生命現象を刺激に対する反応としてとらえ,その所在を筋肉と神経としたブラウン説は,その後の医学界に大きな影響を与えた。

ブラウン
Brown, Jacob Jennings

[生]1775.5.9. ペンシルバニア,バックス
[没]1828.2.24.
アメリカの軍人。 1798~1800年 A.ハミルトンの軍事関係秘書。 10年ニューヨーク州民兵軍の准将,12年のアメリカ=イギリス戦争ではニューヨーク州のフロンティアで活躍。 14年アメリカ陸軍の准将となり,カナダ侵攻作戦を試みチッペワとナイアガラで勝利を得たが,海軍の支援がなく失敗に終った。

ブラウン
Brown, Thomas

[生]1778.1.9. カーマブレック
[没]1820.4.2. ブロンプトン
イギリスの哲学者。スコットランド学派 (→常識哲学 ) に属する。 1810年エディンバラ大学教授。 D.ヒューム,T.リード,E.コンディヤックの影響を受け,連想心理学の確立に貢献。主著『人間精神の哲学』 Lectures on the Philosophy of the Human Mind (4巻,1820) 。

ブラウン
Brown, Nathan

[生]1807.6.22.
[没]1886.1.1. 横浜
アメリカのバプテスト派宣教師。ビルマ,アッサムで伝道活動のかたわら新約聖書をアッサム語に翻訳した (1848) 。帰米後奴隷解放運動に尽力。のち J.ゴーブルとともに来日 (73) して横浜バプテスト教会を創立。新約聖書の共同翻訳委員となったが,他派の宣教師と訳語をめぐって意見を異にし,単独で最初の日本語訳新約聖書を完成した (79) 。

ブラウン
Browne, Elliott Martin

[生]1900.1.29. ウィルトシャー,ジールズ
[没]1980.4.27. ロンドン
イギリスの演出家。 1935年カンタベリーにおける『寺院の殺人』の初演をはじめ,T.S.エリオットの作品を多く演出。また 51年には,1572年以来舞台で演じられたことのなかったヨーク聖史劇を上演するなど,現代の詩劇,宗教劇の復活上演の中心として活躍した。

ブラウン
Brown, Alexander

[生]1764.11.17. バリミナ
[没]1834.4.3. ボルティモア
アイルランド生れのアメリカの実業家。 1800年アメリカに移住し,アイリッシュ・リネンの輸入業者となり,貿易,銀行業をおもに扱う企業としてはアメリカ最古のアレクサンダー・ブラウン・アンド・サンズを設立,4人の息子も共同経営者として世界各地に支店を開設した。ほかに鉄道会社ボルティモア・アンド・オハイオ・レール・ロードの設立にも関与した。アメリカ最初の百万長者の一人。

ブラウン
Brown, John Mason

[生]1900.7.3. ケンタッキー,ルイビル
[没]1969.3.16. ニューヨーク
アメリカの劇評家。ハーバード大学卒業。『ニューヨーク・イブニング・ポスト』紙 (1929~41) や『土曜文学評論』誌 (44~55) などの劇評を担当。主著『観客席の二人』 Two on the Aisle (38) ,『ブロードウェー批評』 Broadway in Review (40) ,『物を見ること』 Seeing Things (46) 。

ブラウン
Brown, Ford Madox

[生]1821.4.16. カレー
[没]1893.10.6. ロンドン
イギリスの画家。ベルギー,フランスで学んだのち,ロンドンに定住,ラファエル前派のグループと交わった。明るい色彩と写実的技法で歴史画,宗教画を描き,本の挿絵も描いた。またステンドグラスを制作。主要作品は十数年を費やした大作『労働』 (1852~63,マンチェスター市立美術館) ,マンチェスター市役所の 12枚の壁画など。

ブラウン
Brown, Franklin. H.

[生]1882
[没]1973
日本にバレーボールバスケットボールを紹介し普及に努めたアメリカ合衆国のYMCA体育主事。 1913年東京 YMCAの招きで来日し,関係者にバレーボールとバスケットボールを伝えた。日本および極東スポーツ界の師といわれる。

ブラウン
Brown, Alexander

[生]1843.9.5. バージニア,グレンモア
[没]1906.8.25.
アメリカの歴史家。南北戦争で聴力を失い,郷土バージニア植民地の歴史を研究。従来のイギリス本国中心の解釈を否定し,ロンドン会社内のリベラル派が植民地の諸制度の発展に与えた影響を重視した。主著『合衆国の起源』 The Genesis of the United States (1890) 。

ブラウン
Brown, Henry Billings

[生]1836.3.2. サウスリー
[没]1913.9.4. ブロンクスビル
アメリカの法律家。海事法の権威として有名。 1890~1906年連邦最高裁判所の准判事。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ブラウン」の意味・わかりやすい解説

ブラウン

米国のソウル,ファンク歌手。貧しい家に生まれ,プロ・ボクサーなどを経験した後,〈フェイマス・フレイムス Famous Flames〉の前身となるバンドを結成,ゴスペル・ソングの影響を受けたリズム・アンド・ブルースを演奏した。1956年発表の《プリーズ,プリーズ,プリーズ Please, Please, Please》,1958年発表の《トライ・ミー Try Me》で注目を集め,黒人大衆音楽の中心的存在となった。1960年代後半からは,〈ジェー・ビー・ズ JBs〉を率いて16ビートを基調としたファンクへと移行,1970年に発表した《セックス・マシーン Sex Machine》に見られるスタイルを確立した。黒人としてのアイデンティティを強く表明した歌詞にも特徴があり,後の黒人音楽の発展のみならず黒人文化へも大きな影響を及ぼしている。

ブラウン

ドイツ生れのロケット技術者。中等教育を終えてロケット研究を始め,19歳のとき陸軍のロケット研究所に入り,そこからベルリン工科大学に通学。1936年からロケットA4(V2号)の開発に着手,戦後,米国に移り,1955年帰化。米国では初め陸軍,1960年以降NASA(ナサ)に所属し,レッドストーン,ジュピター,サターンなどの大型ロケット開発を指導,アポロ計画に多大の貢献をした。
→関連項目オーベルトロケット(工学)

ブラウン

イギリスの政治家。スコットランドの牧師の家に生まれ,オックスフォード大を卒業。1983年労働党から下院議員選挙に出馬して当選し,ブレア政権で10年間財務相を担当して実績をあげる。2007年ブレアの後継者として労働党党首,首相に就任した。外交・内政ともブレア政権を引き継ぐ方針を打ち出したが,2008年地方選で労働党は大敗を喫し,党勢立て直しを迫られている。
→関連項目イギリス労働党

ブラウン

米国の小説家。米国最初の職業的文筆家とされる。ラドクリフゴドウィンらの英国ゴシック・ロマンスの影響を受けた。小説《ウィーランド》(1798年),《アーサー・マービン》(1799年―1800年),《オーモンド》(1799年),《エドガー・ハントリー》(1799年)など。

ブラウン

ドイツの物理学者。1883年カールスルーエ工科大学教授,1895年ストラスブール大学物理学研究所長。1887年熱力学の研究からル・シャトリエ=ブラウンの法則を確立。1897年ブラウン管を発明,その他無線電信の発展に寄与し,1909年マルコーニとともにノーベル物理学賞。

ブラウン

米国のオランダ改革派教会宣教師。中国伝道ののち1859年来日。ブラウン塾を開いて神学教育に当たり,井深梶之助植村正久等を育てた。新約聖書翻訳委員長として聖書邦訳に尽力。1879年帰国。
→関連項目明治学院

ブラウン

英国の画家。フランスのカレー生れ。ベルギーで修業後,パリ,ローマを遍歴し,1846年以後ロンドンに定住。写実的手法で,歴史や宗教から取材した絵を描き,ラファエル前派に大きな影響を与えた。代表作は《イギリスの見おさめ》(1852年―1853年,バーミンガム美術館蔵),《労働》(1852年―1865年,マンチェスター市立美術館蔵)など。

ブラウン

英国の植物学者。エディンバラ大学卒。探検船に軍医として乗船し,オーストラリア,タスマニアの動植物を採集。ラフレシアをはじめ多くの新種新属を記載し,裸子植物の系統上の位置を確立した。のち大英博物館植物学部長となる。細胞核を発見し,原形質流動を観察。また花粉観察中にブラウン運動を発見した。

ブラウン

英国の医師,随筆家。信仰と理性の問題を扱った《医師の宗教》(1643年),俗信・迷信を批判した《迷信論》(1646年),霊魂不滅論を展開した《壺葬論》(1658年)などは17世紀散文の代表的文体といわれる。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

朝日日本歴史人物事典 「ブラウン」の解説

ブラウン

没年:1880.6.20(1880.6.20)
生年:1810.6.16
幕末明治のキリスト教牧師,英語教師,聖書翻訳者。アメリカのコネティカット州イーストウィンザー生まれ。父は職人でティモシィ,母は賛美歌の作詞者でもあった信仰篤いフィービ・ヒンスデイル。アマースト大学,エール大学に学び,ニューヨークのユニオン神学校を卒業後,1838年から47年までマカオ,シンガポール,香港で伝道。帰国後はダッチリフォームド教会の牧師。安政6(1859)年,満49歳で家族と共に開港直後の横浜に来て,日本語研究とキリスト教伝道と聖書翻訳事業に着手した。新潟の英学校,横浜の修文館,私塾「ブラオン」塾などで英語を教え,教え子からは井深梶之助,押川方義,植村正久,本多庸一など,日本プロテスタント史上の重要人物が輩出した。またヘボン,グリーンと協力して新約聖書の日本語訳に取り組んだ(1880年刊)。明治12(1879)年帰米,マサチューセッツ州モンソンにて永眠。

(加納孝代)


ブラウン

没年:明治19.1.1(1886)
生年:1807.6.22
明治期のアメリカ・バプテスト派の宣教師。アメリカ初の海外派遣宣教師のA.ジャドソンの要請に応じ,1832年ビルマに赴き,のちインドの奥地アッサムに転じてアッサム語新約聖書,文法書などを出版。1855年帰国し『アメリカン・バプティスト』編集者,海外伝道通信書記,奴隷解放論者として活躍。明治6(1873)年来日,同年の禁教令撤廃直後,横浜第一浸礼教会(横浜教会)を設立,初代牧師となる。聖書翻訳委員に選ばれるが,「バプテスマ」の訳などで対立,委員を辞し,J.ゴーブルの方針を継承し,平仮名で大衆向け新約聖書『志無也久世無志与』を同12年に単独刊行した。2番目の妻シャーロットは夫の死後,C.A.サンズの女子寄宿生を引き継ぎ,いまの捜真女学校の草創期を支えた。<参考文献>『関東学院百年史』『捜真女学校九十年史』

(小檜山ルイ)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

化学辞典 第2版 「ブラウン」の解説

ブラウン
ブラウン
Brown, Herbert Charles

ロンドン生まれのアメリカの化学者.両親はウクライナ出身のユダヤ系移民.1938年シカゴ大学より学位を取得後,同大学の研究助手を経て,ウェイン大学助教授,そして1947年にはパーデュー大学教授となり,1978年名誉教授となった.シカゴ大学研究助手時代にH.I. Schlesinger教授とともにホウ素化合物とその反応について研究し,ホウ素化合物ジボランの簡単で収率の高い合成法を考案した.また,テトラヒドロホウ酸ナトリウムの簡単な合成法も発見したが,この試薬は,以後きわめて用途の広い還元試薬として利用されるようになる.1955年には,ジボランを炭素の二重結合をもつ有機化合物と反応させて有機ホウ素化合物を合成したが,この生成物は有機合成化学において,大変有用性の高い物質である.以上の功績により,1979年ノーベル化学賞を受賞した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

色名がわかる辞典 「ブラウン」の解説

ブラウン【brown】

色名の一つ。JISの色彩規格では「暗いみの黄赤」としている。一般に、黄色の中間色を表す重要な系統色のこと。和名の茶色に相当する位置づけで、多くの派生色をもっている。ココアブラウンココナッツブラウンコーヒーブラウントバコーブラウンバンダイクブラウンヘアーブラウンラセットブラウンなどが代表的。

出典 講談社色名がわかる辞典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ブラウン」の解説

ブラウン Brown, Donald

1905-1980 アメリカのジャーナリスト。
1905年6月24日生まれ。昭和8年来日,「ジャパン-アドバタイザー」(現「ジャパン-タイムズ」)の記者となる。21年GHQ民間情報教育局情報課長として再来日。日本アジア協会副会長をつとめ,日本文化を海外に紹介した。おおくの蔵書は横浜開港資料館に所蔵されている。昭和55年5月17日日本で死去。74歳。オハイオ州出身。ピッツバーグ大卒。

ブラウン Brown, Samuel Robbins

1810-1880 アメリカの宣教師。
1810年6月16日生まれ。安政6年(1859)アメリカのオランダ改革派教会から派遣されて来日,明治2年再来日。新潟英学校,横浜修文館でおしえたのち,6年横浜にブラウン塾をひらき,植村正久(まさひさ),本多庸一(よういつ)らをそだてた。12年帰国。1880年6月20日死去。70歳。コネティカット州出身。ユニオン神学校卒。

ブラウン Brown, Nathan

1807-1886 アメリカの宣教師。
1807年6月22日生まれ。ビルマ,インドのアッサムでの伝道をへて明治6年(1873)来日,横浜の山手に横浜第一浸礼教会(現日本バプテスト横浜教会)を設立。独力で日本初の全訳新約聖書「志無也久世無志与(しんやくぜんしよ)」を完成させた。明治19年1月1日横浜で死去。78歳。ニューハンプシャー州出身。ウィリアムズ大卒。

ブラウン Brown, Albert Richard

1839-1913 イギリスの航海士,技師。
慶応2年(1866)P&O汽船の航海士として来日。明治2年灯台と浮標設置のための灯台船船長として工部省にやとわれる。7年台湾出兵の際は兵員輸送にあたり,18年日本郵船誕生でゼネラルマネージャー。22年離日。1913年12月死去。74歳。ハンプシャー州出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブラウン」の解説

ブラウン
John Brown

1800~59

アメリカの奴隷制廃止論者。奴隷に武器を与えてみずからの解放のために立ち上がらせることを計画し,少数の同志とともに1859年ヴァージニア州にある連邦兵器庫を襲ったが,捕えられ死刑に処せられた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「ブラウン」の解説

ブラウン

生年月日:1866年11月29日
アメリカの天文学者
1938年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ブラウン」の解説

ブラウン

ジョン=ブラウン

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブラウンの言及

【プロイセン】より

… ワイマール共和国のもとでは,プロイセンも他の諸邦と対等の地位に置かれ,プロイセン首相とドイツ首相とは分離された。そして,民主的な議会政治が実現されたプロイセンでは,大戦前とは逆に左派の勢力が進出し,1920年から33年まで,社会民主党のブラウンOtto Braun(1872‐1955)が首相の地位を占めた。しかしナチスの勢力拡大によってプロイセンのこうした新時代も短命に終わり,ヒトラーの政権掌握とともにベルリンはナチス・ドイツの首都となった。…

【宇宙飛行】より

…とくに第1次世界大戦後は宇宙飛行を目標にした研究が盛んになり,23年にいたって,H.オーベルトは《惑星間空間へのロケット》という本を出して,この中で理論だけでなく,具体的な提案を行い,またみずから小型のロケット実験を開始した。このときこのグループの一員であった少年フォン・ブラウンは,後にV2号という本格的なロケット兵器を開発したが,彼自身はあくまで宇宙飛行のためのロケットと考えていた。彼はドイツの敗戦によってアメリカの捕虜となり,以後はアメリカでロケットの研究を続けた。…

【オーベルト】より

…これは29年に出版された《宇宙飛行への道》とともに彼の深い見識を示したものであり,その当時イオンロケットの出現をも予測していたほどである。彼は1927年に設立された〈ドイツ宇宙旅行協会〉の顧問であったが,そこで当時助手の一人であったW.vonブラウンと出会っている。40年ドイツ市民権を得た彼は,ペーネミュンデでブラウンらとともにV2(A4)ロケットの開発に参加した。…

【アメリカ文学】より


[国民文学の興隆(独立革命前後~19世紀初頭)]
 18世紀の後半,イギリス本国からの政治的独立に刺激された文人たちは,拠って立つ文学的伝統の希薄な状況において,ヨーロッパの文学の素材や形式を利用しながらも,アメリカという土壌に根ざした国民文学を形成していく。C.B.ブラウンは古城などを舞台にしたヨーロッパのゴシック・ロマンスの伝統を踏襲しながら,古城の代りに西部の荒野やインディアンといったアメリカ固有の背景を導入した。W.アービングは《ニッカボッカーのニューヨーク史》(1809)で,歴史をフィクションに移し,《旅人の物語》(1824)では,深刻さを欠き,短編が多くなる末期型のゴシック・ロマンスを発展させ,ホーソーンやポーを先取りした。…

【月運動論】より

…月の運動は太陽の摂動力が大きいためにたいへん複雑であり,そのうえ月は地球に近いので高い精度の観測が昔から行われてきた。こうして,複雑な運動を高い精度で解明する月運動論の内容はきわめて膨大なもので,代表的なE.W.ブラウンの月運動論では,月の黄経,黄緯,視差を表す三角級数は全体で1600余の周期項からなっている。その半数以上が黄経に使われているが,その中でもっとも主要な5個の周期項は中心差,出差,二均差,年差,月角差と呼ばれている。…

【庭園】より

…この設計は最初ブリッジマンCharles Bridgeman(?‐1738)によって行われ,彼は庭と外界の境に一種の堀割であるハハーHahahを導入して,何さえぎるものなく眺望が周囲の自然にとけ込んでいくように工夫した。ストーは以後,ブリッジマンと協同したバンブラー,ケント,ギブズ,ブラウンといった名手たちがつぎつぎに手を加えた記念碑的な庭園となる。風景式庭園のさまざまな相を一つに集めた庭として,いまに伝えられている。…

【ブレニム宮殿】より

…巨大な中庭を抱く主屋と,主屋に匹敵する規模の左右パビリオンからなる。L.ブラウン設計の風景式庭園をもつ。【鈴木 博之】。…

【被子植物】より

…しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。正確に双子葉植物,つまり被子植物が範囲づけられたのは,ブラウンR.Brownによって裸子状態と被子状態が区別されてからのことで(1827),分類系において,裸子・被子の区別を双子葉・単子葉の区別より上位においたのはブラウンA.Braunである(1864)。現在,被子植物を双子葉植物綱と単子葉植物綱に二大別することに異議をとなえる人はほとんどなく,科の数もそう大きな変動はないように思われる。…

【裸子植物】より

…ド・カンドルA.P.de Candolleも,それらを双子葉類といっしょにしていた(1813)。裸子植物を今日のように,種子(胚珠)が心皮(心房)に包まれていない植物として正しく認識したのは,ブラウンR.Brownである(1827)。1851年,ホーフマイスターW.Hofmeisterは球果類の球果とヒカゲノカズラ科の胞子囊穂を比較して,両者の器官学的相同性を論じた。…

【ウィーナー過程】より

…時間とともに変化する偶然現象の数学的模型である確率過程のうちで,もっとも代表的なものである。初め,イギリスの植物学者R.ブラウンが顕微鏡で水中にある花粉から出る微粒子を観測しているうちに,それらが激しい不規則運動をしていることを発見した。この運動は,後に水の分子が微粒子と無数といってよいほど頻繁に衝突することによって起こるものであることがわかり,ブラウン運動Brownian movementと呼ばれるようになった。…

【被子植物】より

…しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。正確に双子葉植物,つまり被子植物が範囲づけられたのは,ブラウンR.Brownによって裸子状態と被子状態が区別されてからのことで(1827),分類系において,裸子・被子の区別を双子葉・単子葉の区別より上位においたのはブラウンA.Braunである(1864)。現在,被子植物を双子葉植物綱と単子葉植物綱に二大別することに異議をとなえる人はほとんどなく,科の数もそう大きな変動はないように思われる。…

【ブラウン運動】より

…この運動を初めて観察したのはイギリスのニーダムJohn Tuberville Needham(1713‐81)で,1740年のことといわれているが,当時はこの動く微粒子が動物の精子にあたるのだろうと考えられていた。その後,1826年になって,イギリスの植物学者R.ブラウンがこの動く微粒子の運動をもっとよく調べようとした動機も,植物の受精の研究だった。微粒子の運動が水の対流や振動にひきずられて起こっているのだとは思えない。…

【裸子植物】より

…ド・カンドルA.P.de Candolleも,それらを双子葉類といっしょにしていた(1813)。裸子植物を今日のように,種子(胚珠)が心皮(心房)に包まれていない植物として正しく認識したのは,ブラウンR.Brownである(1827)。1851年,ホーフマイスターW.Hofmeisterは球果類の球果とヒカゲノカズラ科の胞子囊穂を比較して,両者の器官学的相同性を論じた。…

【会衆派教会】より

…かつては組合教会と呼ばれた。16世紀イギリスのR.ブラウンらの〈分離派〉改革運動に起源をもつものでイギリスにも残るが,アメリカでさかんになった。アメリカの植民地時代の初期ピューリタン,ピルグリム・ファーザーズやマサチューセッツに上陸した人々の教派である。…

【キリスト教】より

… イギリスにおいてルター,カルバンの改革思想をうけつぎ,国教会の不徹底な改革を徹底させて近代化の道を開いたのはピューリタン(清教徒)である。R.ブラウン,グリーンウッドJohn Greenwood(?‐1593),バローHenry Barrow(1550ころ‐93)らは国教会から出て独立派independentsとなり,会議制的な長老派をも退けて個々の教会の自主性をたっとび,教職・平信徒の区別のない〈万人祭司〉を実現しようとした。これが会衆派教会(コングリゲーショナル・チャーチ)の基となった。…

【ピューリタン】より

…ただし,ピューリタンの範囲を正確に定義するのは困難で,国教会からの非分離派のカルビニスト(後の長老派),分離派のカルビニスト(後の独立派),分離派の非カルビニスト(後の諸セクト)の三者を包含する用語とするのが通説である。 エリザベス時代は,エリザベスの巧みな行政とともに,教会政治的にはホットギフトJohn Whitgift,思想的にはR.フッカーの活動によって抑止され改革の目的が達成されず,かえってR.ブラウンらの過激なピューリタン(国教会からの分離派)を生み出した。エリザベスの死後ジェームズ1世が即位したとき,ピューリタン牧師たちは〈千人請願〉を提出し改革の推進を求めたが,《欽定訳聖書》作成の願望以外はすべて受けいれられず,国教会体制はさらにひきしめられて継続することとなり,不満なグループはオランダやニューイングランドに移住するようになった。…

※「ブラウン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android