アメリカのソウル・ミュージック・シンガー。黒人ボーカリストの代名詞ともいうべきスターであり、1950年代以降、何度か浮き沈みはあったものの、つねに第一線で活動し、「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」の称号をほしいままにする人物であった。
ジョージア州メーコンの貧しい家庭に生まれる。10代のころは強盗をはたらき、矯正施設に入れられたこともあった。荒れた生活を救ってくれたのが大好きだった音楽で、仲間のボビー・バードBobby Byrd(1934―2007)と1955年グループを結成し、まずザ・フレームズを名のり、次にフェーマス・フレームズへと発展していった。
ブラウンは当時からゴスペル・ソングに影響されたエネルギッシュなボーカルを得意としていた。1956年に発売されたデビュー作「プリーズ・プリーズ・プリーズ」も、教会の熱狂が最高潮に達したときの高揚感をラブ・ソングへみごとに移しかえたものである。しかしこのころのブラウンは、歌手としての実力はあってもなかなかヒットが出なかった。「プリーズ…」に続くヒットは、2年も後の1958年の「トライ・ミー」で、このバラードはリズム・アンド・ブルース・チャートの1位に輝いた。
1960年代に入り、ブラウンはバンドのリズム改革を始める。当時のリズムの主流はブギ・ウギの流れをくむビートから、よりビートの強い各楽器のリズムが絡みあうアフリカ系ポリリズム(複合リズム)へと変わりつつあった。これがのちにファンクとよばれるものである。ブラウンはこういった黒人音楽の変化を鋭く察知し、自分たちがその先頭に立とうとしたのだった。1960年の作品「シンク」あたりでは、まだその変化ははっきりとはしないものの、「ビウィルダード」(1961)、「プリズナー・オブ・ラブ」(1963)といった得意のバラードをはさみ、1964年のダンス・ナンバー「アウト・オブ・サイト」になると、ブラウンを中心としてすべての楽器や肉声が大中小さまざまな打楽器のアンサンブルのようになった。そして「パパズ・ガット・ア・ブランニュー・バッグ」(1965)、「コールド・スウェット」(1967)、「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック&プラウド」(1968)などの歴史的なファンク作品を立て続けに発表していった。1970年には、10年後のラップの出現を予言したともいわれる作品「ブラザー・ラップ」に加え、ブラウン・ミュージックの金字塔「セックス・マシーン」が発売されている。
このようなブラウンのヒット曲のアイディアやエネルギーは、すべて黒人社会から吸収したものだった。上記の作品にしても、路上で生活する者たち(「セックス…」)、薬物(「コールド…」)、黒人としての誇り(「セイ・イット…」「ブラザー…」)と、黒人社会の言葉と文化が濃厚に反映されている。ブラウンは、子供のころから培(つちか)われた自立と反逆の精神をもとに、同胞の黒人に対して「仲間よ立ち上がるのだ」と音楽でメッセージを送り続けていたのである。1968年に公民権運動の指導者であったキング牧師が暗殺された際、ブラウンがラジオに登場し、全米の怒れる黒人たちに向かって冷静でいることを訴えたという逸話からも、この時期の彼がどれほど黒人社会で支持されていたかがわかる。
黄金期のブラウンを支えたのがJBズというバック・バンドだった。このバンドには多くのミュージシャンが出入りしたが、そのなかではアルト・サックスのメイシオ・パーカーMaceo Parker(1943― )、トロンボーンのフレッド・ウェズリーFred Wesley(1944― )、ベースのブーツィ・コリンズBootsy Collins(1951― )らが、その後もジョージ・クリントンの傘下に入るなど話題の多い活動をしている。
1970年代に入って、ブラウンの勢いにも少しずつ陰りがみえ始めた。時代はファンクから比べればずっと単調なディスコ・ミュージック・ブームにさしかかり、ブラウンも時代の波にのみ込まれていった。だがこの時期のブラウンを一変させたのが、ラッパーのアフリカ・バンバータだった。バンバータはブラウンを自分たちのルーツであるといい、シングル「ユニティ」(1984)で共演、これが皮切りとなり映画『ロッキー4』(1985、シルベスター・スタローンSylvester Stallone(1946― )監督)に使われた「リビング・イン・アメリカ」の大ヒットでふたたびスターの座に返り咲いた。その後、妻への暴行事件による2年間の投獄やセクハラ裁判など、ときおり私生活の暗部が顔を出したが、晩年まで昔と変わらないたくましく力強いステージを続けた。
[藤田 正]
『ジェームス・ブラウン、ブルース・タッカー著、山形浩生訳『俺がJBだ! ジェームス・ブラウン自叙伝』(1993・JICC出版局)』
アメリカのジャズ・トランペット奏者。デラウェア州ウィルミントン生まれ。トランペット、ピアノなど多くの楽器奏法に通じる父親から13歳のときトランペットを贈られる。地元のハワード高校でジャズの普及に尽くす音楽教師からトランペット、ピアノなどの楽器奏法、和声法、作曲・編曲法を学び、短期間で才能を発揮する。このころから彼は「ブラウニー」の愛称で親しまれる。
1948年、デラウェア州立大学に奨学生として進学するが音楽学部がなく数学を専攻。近距離にある大都市フィラデルフィアの、クラブでのセッションに参加。トランペット奏者のファッツ・ナバロFats Navarro(1923―1950)、マイルス・デービス、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972)、ドラム奏者のマックス・ローチといった、当時の最新鋭ジャズ・スタイル「ビ・バップ」の若手ミュージシャンたちと共演の機会を得るとともに、尊敬するナバロから激励され彼のスタイルに傾倒する。
1949年トランペット奏者でビ・バップの立役者のディジー・ガレスピーがフィラデルフィア公演を行った際、ブラウンは臨時メンバーに採用された。そのただならぬ才能にガレスピーは驚き、プロ・ミュージシャンへの道を勧める。同年ブラウンはメリーランド州立大学の音楽学部に奨学生として入学、学生バンドに加わって演奏する。1950年交通事故に遭い1年間療養を余儀なくされる。1951年、回復とともに学業を離れプロ・ミュージシャンの道を歩み出す。同年短期間ながらビ・バップの中心人物、アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと共演し、パーカーをも驚嘆させる。1952年ドラム奏者、歌手のクリス・パウエルChris Powellのバンド「ブルー・フレーム」に加わり、初レコーディング(後に、1956年のブラウン最後の演奏とともに『ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド』(1952~1956)に収録される)を経験する。1953年ニューヨークを訪れ、ブルーノート・レコードのプロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―1987)の勧めにより早速レコーディングを行い『メモリアル・アルバム』(1953)を制作、ブラウンの初リーダー作となる。同年、編曲者・ピアノ奏者タッド・ダメロンTadd Dameron(1917―1965)のバンドに参加。ついでビブラホーン奏者ライオネル・ハンプトンの楽団に加わり、ヨーロッパ・ツアーの折にハンプトンの目を盗んでレコーディングをし、アルバム『パリ・コレクション』(1953)を制作。1954年ドラム奏者アート・ブレーキーのセッションに参加し、ビ・バップを発展、洗練させた形態である「ハード・バップ」の誕生を告げる歴史的アルバム『バードランドの夜』を録音。同年ロサンゼルスでローチと双頭バンドを結成、この年のジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの国際批評家投票により、トランペット新人部門第1位に選ばれる。またエマーシー・レコードと専属契約を結び多くの傑作を録音する。1956年フィラデルフィアからシカゴに向かう途中、交通事故により25歳8か月の生涯を終える。
代表作は『クリフォード・ブラウン・アンド・マックス・ローチ』(1954~1955)、『スタディ・イン・ブラウン』(1955)、『アット・ベイズン・ストリート』(1956)。彼はガレスピー、ナバロらビ・バップ・トランペッター主流派の系譜に連なり、その卓越した演奏技術と輝くような音色はジャズ・トランペッターの理想とまでの高い評価を受けている。彼の率いた双頭バンドは、同時期のマイルス・デービス・クインテットと並んで、ハード・バップ・コンボの定型を作り上げた。また、リー・モーガン、ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)など多くのハード・バップ・トランペッターが彼の影響を受けている。
[後藤雅洋]
ドイツの植物学者。レーゲンスブルク生まれ。カールスルーエ、フライブルク、ギーセン、ベルリンの各大学の教授および植物園長を歴任した。淡水産の藻類のほか、とくにいわゆる顕花植物の研究に力を注ぎ、コケ植物の分類学的位置を明らかにしたうえ、裸子植物・被子植物、双子葉植物・単子葉植物の系統上の位置を明らかにした。この見方は同じドイツのアイヒラーAugust Wilhelm Eichler(1839―1887)やエングラーによって受け継がれ、近代的な植物系統分類学の基礎となった。そのほか、シンパーとともに葉序の配列について解析し、古典的に有名なシンパー‐ブラウンの法則を発見した。哲学者F・W・シェリングの自然哲学の影響を受けていたといわれる。
[佐藤七郎]
イギリスの植物学者。スコットランドの牧師の子として生まれ、エジンバラ大学で医学を修めて軍医となる。植物学に興味をもち、博物学者バンクスJ. Banks(1743―1820)の推挙でイギリス海軍の探検船に乗り組み(1801~1805)、南アフリカ、オーストラリア、タスマニア地方の植物を調査して約4000種の標本を持ち帰った。ロンドンのリンネ協会の司書(1806~1822)、バンクスの蔵書や標本の管理者(1810~1820)を務めながら、オーストラリアの植物の記載・分類を行った。バンクスの死後、彼のコレクションが大英博物館に遺贈されるに伴い、ブラウンは同博物館植物学部長となり(1827)、死ぬまでその地位にあった。バンクスが残した家に住み、生涯独身であった。新しい属や科を記載することによって植物分類法を改良し、心皮の有無によって被子植物と裸子植物を明確に区別した。1827年、花粉内部の小顆粒(かりゅう)の不規則な運動(ブラウン運動)をみいだし、同様な運動は水中に浮遊する非生物的な微粒子でもみられることを確かめた。1831年には、植物の生細胞中に1個の核があることを明らかにした。
[檜木田辰彦]
ドイツの物理学者。ヘッセン州フルダの生まれ。マールブルクで学んだのち、1872年棒や弦の弾性振動の研究で学位を取得した。ウュルツブルク、ライプツィヒ、マールブルク、カールスルーエ、チュービンゲンの各大学に勤めたのち、1895年ストラスブール大学の物理学教授・物理学研究所所長となった。1874年鉱物性金属硫化物が一方向のみに電流を伝える性質をもつことを発見(鉱石検波器の原理)、1887年にはル・シャトリエと独立に平衡移動の法則に到達した。その後、電磁気学的研究を進め、1897年には陰極線管をもとに各種の電磁現象を調べるブラウン管(オシロスコープ)を発明した。また送信距離に限界をもつヘルツ発振器(火花放電による)の問題点を指摘、変圧効果によりアンテナと発振器とが同調する無線システムをはじめ、傾斜ビームアンテナなどを開発した。1909年マルコーニとともに無線通信の研究によりノーベル物理学賞を受けた。なおラジオ放送に関する訴訟でアメリカに渡ったが、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)のため帰国できず、客死した。
[兵藤友博]
アメリカの遺伝学者。ニューヨーク市ブルックリンに生まれる。ペンシルベニア大学で化学を学び、1962年に卒業、同大学で1966年に医学博士号を取得した。同年ボストンのマサチューセッツ総合病院で内科のインターンとして勤務し、1968年にアメリカ国立衛生研究所(NIH:National Institutes of Health)で遺伝病の臨床研究員となった。1971年テキサス大学サウスウェスタン医学校に移り、1974年同校の準教授となり、1976年教授に昇格、1977年遺伝学教授および遺伝病センター所長に就任した。
ともにコレステロールの研究を行ったJ・L・ゴールドステインとは、マサチューセッツ総合病院時代以来の長期間にわたる共同研究者であった。彼らは、生体内でコレステロールが生成される際の酵素の調整作用に注目し、とくに遺伝疾患である家族性高コレステロール血症について研究を進めた。そしてコレステロールの合成が、LDL(low-density lipoprotein、低比重リポタンパク)レセプターによって統御されているメカニズムを解明した。さらに、このメカニズムは遺伝子によってコントロールされ、遺伝子異常が家族性高コレステロール血症を引き起こすことも明らかにした。この業績によってブラウンは、ゴールドステインとともに1985年のノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部]
アメリカの化学者。ロンドンに生まれる。2歳のときに両親とともにアメリカのシカゴに移住した。14歳で父を亡くし、苦学してシカゴ大学で化学を学び、1935年にアメリカの市民権を、また1938年に博士号を取得した。シカゴ大学で助手を務めたのち、1943年ウェイン大学に移り1946年準教授になった。翌1947年にパーデュー大学の無機化学教授となり、1978年まで務めた。
ブラウンは、シカゴ大学時代からホウ素の化学的研究に取り組み、水素化ホウ素ナトリウムNaBH4を発見、それが有機化合物に対して優れた還元力をもつことをみいだした。この化合物は、その後広く還元試薬として利用されている。また、ジボランB2H6の簡単な合成法を発見し、さらにジボランを不飽和炭化水素に反応させ、オルガノボランを合成することに成功した。これはハイドロボレーション反応とよばれ、有機合成において大きな利用価値をもつものであった。これらの業績により、1979年にノーベル化学賞を受賞した。ドイツの化学者ウィッティヒとの同時受賞であった。
[編集部 2018年10月19日]
アメリカの小説家。アメリカ最初の職業的小説家としてゴシック(恐怖)小説、心理小説を書き、後のポーやホーソンの先駆となった。『ウィーランド』(1798)では腹話術の声に操られた宗教的狂信者が描かれ、『オーモンド』(1799)では、倫理から解放されたと過信した殺人犯が、犯そうとした女に殺される。『エドガー・ハントリー』(1799)では、殺人、夢遊病、精神錯乱、アメリカライオンとの遭遇、インディアン相手の戦いなどが描かれ、次の『アーサー・マービン』(1799、1800)では、フィラデルフィアの黄熱病流行を背景に、殺人、裏切り、誘惑、自殺未遂、病死などが描かれる。そのほか、女性の結婚を扱った『クララ・ハワード』(1801)と『ジェイン・タルボット』(1801)がある。彼の小説は、異常心理、暗い感情の緊張、恐怖、殺人などの犯罪、そのほか異常なできごとの写実的描写を特色とするが、イギリスのW・ゴドウィンの思想と小説からの影響は否めないものの、ヨーロッパ風のゴシック小説からの脱却、S・リチャードソンにみられない知的女性像の創造など、アメリカ小説史上の意義は大きい。だが、小説としてクライマックスに迫力がなく、プロットのまとまりを欠く欠点がある。ほかに『月刊アメリカ評論』『文芸とアメリカの記録』を編集し、自ら短編小説や文芸批評を掲げた。アメリカの短編・批評の先駆者としても重要な存在である。
[松山信直]
『八木敏雄訳『ゴシック叢書10 エドガー・ハントリー』(1979・国書刊行会)』
イギリスの政治家。イギリス北部スコットランドの牧師の家に生まれた。「経済学の父」アダム・スミスの故郷で、リノリウム製造が盛んだった鉱工業都市カーコルディで青少年期を過ごし、エジンバラ大学に入学、歴史学を専攻。入学直前、ラグビー中のけがが原因で網膜剥離(はくり)となり、左目の視力を失ったが、優秀な成績で卒業、後に博士号も取得した。1976年からエジンバラ大学などで講師を務め、1980年にはスコットランド・テレビの記者となった。
サッチャー保守党政権時代の1983年に、労働党から下院議員に初当選。当初はサッチャー政権の国有企業民営化に反対するなど伝統的左派イデオロギーの信奉者だったが、やがて現実主義路線に転換。1997年に、旧来の左翼でもなく、新自由主義でもない「第三の道」を掲げるブレア労働党政権が成立すると、財務相となり、イングランド銀行に金利決定権をゆだねる自由主義的な政策を発表した。イギリス近代史上において、財務相の在任期間は最長を誇る。2007年6月ブレア首相の退任に伴い首相に就任。2008年の経済・金融危機以来、経済・雇用状況が低迷、また財政赤字の削減が進展しないなかで行われた2010年5月の総選挙で大敗し、第一党の座を保守党に明け渡し退陣。
[宮明 敬]
イギリス出身のアメリカの天文学者。月の運行表の作製者。ハルに生まれ、ケンブリッジ大学でG・ダーウィンに天体力学を学び、1887年卒業。1889年より特別研究員となったが、1891年にアメリカに渡り、ペンシルベニア州立大学で数学教授に就任、1907年にエール大学数学教授に転じた。そして先達者ヒルGeorge W. Hill(1838―1914)の後継として、月の運行の理論的研究に専念し、1919年その計算方法に基づく『月運行表』を編成した。月の運行は摂動の影響を強く受けるので、天体力学のうちでもとりわけ複雑な計算理論を必要とするが、従来の表よりもはるかに精密であった。
[島村福太郎]
アメリカのSFと推理小説の作家。オハイオ州シンシナティ市生まれ。SF短編を1941年から書き始めた。軽妙洒脱(しゃだつ)、ぴりっとした風刺とコミックな落ちの利いた作風は当時としては珍しいもので、のちに短編集『天使と宇宙船』(1954)や『未来世界から来た男』(1961)などにまとめられた。短編とショート・ショートの名手であるが、奇抜な着想と巧みなプロット構成は長編においても同様で、異次元テーマの『発狂した宇宙』(1949)、ユーモアSFの『火星人ゴーホーム』(1955)、エーリアン・テーマの『73光年の妖怪(ようかい)』(1961)などの作品がある。SFと並行して推理小説にも手を染め、私立探偵エド・ハンター・シリーズの第一作『シカゴ・ブルース』(1947)でアメリカ推理作家協会賞を受賞し、同シリーズは7編、ほかに15編ほどの長編と短編集『まっ白な嘘(うそ)』(1953)などがある。
[厚木 淳]
『井上一夫訳『73光年の妖怪』(創元推理文庫)』
イギリスの医師、文人。ロンドンに生まれ、オックスフォード大学卒業ののち、フランス、イタリア、ドイツの各大学で医学を修める。ヨークシャーで開業後1637年ノリッジへ移る。1671年、医者としての功績でサーの称号を授けられる。旺盛(おうせい)な知識欲と希有(けう)な記憶力の持ち主で、医業のかたわら著述にも励み、『医師の信仰』(1643)など数編の著書がある。『医師の信仰』は信仰と理性の問題を扱い、科学の支配に抗して宗教擁護の立場をとる代表的著作。一般に『迷信論』の名で知られる『伝染性謬見(びゅうけん)』(1646)は、古今の俗間信仰を科学的に、あるいは詭弁(きべん)を弄(ろう)しつつ、博識を駆使して縦横に批判する。偶然発見された骨壺(こつつぼ)をめぐり独自の死生観、霊魂不滅論を展開する『壺葬論』(1658)も、ユニークな主題で注目に価する。しかし、彼の真骨頂は主題の独自性よりも優れた散文スタイルにあり、形而上(けいじじょう)詩に一脈通ずる大胆な措辞は、近年改めて高い評価を受けつつある。
[玉泉八州男]
『堀大司訳『医師の信仰』(『世界人生論全集4』所収・1963・筑摩書房)』
アメリカの改革派(オランダ系)宣教師。中国と日本で伝道活動をした。1859年(安政6)来日して数か所で教えたのち、一時帰国。再来日して、1873年(明治6)横浜の山手(やまて)にブラウン塾を開き、英学と神学を教えて横浜バンドの青年たち(植村正久や本多庸一(ほんだよういつ)ら)を育成した。
[川又志朗 2018年2月16日]
イングランドの分離主義者Separatistで会衆派Congregationalismの創始者。ケンブリッジ大学での学業のあと、イギリス国教会(イングランド教会)を批判する過激な説教をしたため、数回の投獄を体験する。移住先のオランダで執筆した論文「ためらうことなく改革を」(1582)に「ブラウン主義」と評価される思想を展開した。ここには初代教会への回帰志向が記述されている。教会を自覚的信仰者の自由な交わりと規定し、自律的な教会訓練を施し聖職者を選ぶべきだと考え、敬虔(けいけん)主義Pietismの先駆をなした。のち仲間から離脱し、国教会の叙任を受け(1591)、42年間聖職禄(ろく)を得たが、獄死説もある。
[川又志朗 2018年1月19日]
イギリスの哲学者。エジンバラ大学教授を務めた。スコットランド常識学派に属するが、ヒューム、ミルらの伝統との中間的立場を代表する。彼は一方で、ヒュームより進んで因果関係を対象間の斉一的継起と断定するが、他方、外的存在の知識の場合と同様、因果的認識を直覚的、本能的な信念で基礎づける。また、筋肉と触覚の感覚を分け、心的能力の別を能力心理学的でなく、心的なできごとの類型の差とみたのも彼の特色である。著作には、ヒュームの因果論の検討(1805)や『人間精神哲学講』(1820)などがある。
[杖下隆英 2015年7月21日]
アメリカの機械技術者。ロード・アイランド州のプロビデンスに生まれる。父も機械工場主であった。1853年ブラウン‐シャープ社(2001年ヘクサゴンABグループにより買収)を創立し、有力な工作機械メーカーに発展させた。測定器具や工作機械の改良に貢献したが、ブラウンが設計しブラウン‐シャープ社が製作した機械は、万能割出し台を備え、螺旋(らせん)状の切削操作、歯車の切削、その他の工程に応じられるもので、万能フライス盤として機械工作技術に革命的な影響を与えた。没後、自動歯切り盤が彼の社で製作された。
[山崎俊雄]
イギリスの医学者。スコットランドのバーウィックシャー生まれ。エジンバラ大学に入学し、苦学して医学を修めた。同大学の内科学教授カレンWilliam Cullen(1710―1790)の手厚い庇護(ひご)を受けたが、のちにこれに背き、1779年、44歳のときにようやく学業を終えた。1780年に『医学原理』Elementa Medicinaeを著し、独自の医学理論を明らかにした。彼の理論の要点は興奮性ということにあり、生活体はすべてこれを有しており、健康時にはこれが中等度であって、過度か不足のときには病気であると説いた。そして病気の治療には、アヘン剤やウイスキーなどを好んで使用した。
[大鳥蘭三郎]
アメリカのバプティスト派の宣教師。来日前はビルマ(現、ミャンマー)とアッサムで22年間伝道し、『新約聖書』のアッサム語訳を完成。1873年(明治6)同派のゴーブルJonathan Goble(1827―1896)とともに来日し、横浜の山手(やまて)に日本最初のバプティスト教会を創立、死去するまで牧師を務めるかたわら、独力で『新約聖書』の日本語訳を進め、ヘボンらの共同訳より早く1880年に完成した。横浜外国人墓地にある墓碑にはGod bless the Japaneseと刻まれている。
[川又志朗 2018年2月16日]
ドイツの物理学者。ブラウン管の発明や無線の実用化によって有名である。裁判所事務員の子としてフルダに生まれた。マールブルクとベルリンで学び,H.L.F.vonヘルムホルツの下で博士号を取得した。マールブルク,ストラスブール,カールスルーエ,チュービンゲン各大学の教授を務めた。1870年代に半導体の点接触による非対称電気伝導を報告した。これは整流現象に関する初期の重要な研究である。97年に彼は陰極線管を発表した。陰極線は,W.クルックスやW.K.レントゲンらによりすでに知られていたが,ブラウンは陰極線を細いビームにして振らせること(偏向)を行った。陰極線管は彼の名にちなんでブラウン管と呼ばれる。ブラウン管により高速電気現象を観測できるようになり,ブラウン管オシロスコープが登場した。ブラウン管はまた,テレビジョン,レーダー,コンピューターのディスプレーに広く用いられるようになった。また,彼は無線電信の送信機,受信機とアンテナとの間に誘導結合を導入し,送信機の周波数とアンテナの固有周波数を共振させるようにした。これら無線研究への貢献のゆえに,彼は1909年にG.マルコーニとともにノーベル物理学賞を授けられた。1898年に,彼はケルンで無線電信会社を設立した。ブラウンとジーメンス・ハルスケ社は共同して,スラビーA.Slabyの特許を武器とするAEG社やマルコーニ系企業と競争した。ドイツの無線通信企業は,ウィルヘルム2世の主張により,1903年にテレフンケン社に統一された。ブラウンはテレフンケン社とマルコーニ系企業との係争に関連して14年にアメリカにわたった。第1次世界大戦におけるドイツのUボート作戦の結果,彼は帰国できなくなりブルックリンで客死した。
執筆者:高橋 雄造
ドイツ生れのアメリカのロケット技術者。ビルジッツの生れ。少年のころに読んだH.オーベルトの《惑星間空間へのロケット》に刺激を受け,宇宙ロケットの研究を志す。ベルリン工科大学に学び,34年にはベルリン大学から液体ロケットに関する研究により学位を取得,一方,この間オーベルトの助手として小型ロケット実験を行っていた。彼の研究は早くからドイツ陸軍の注目を引き,1932年ベルリン工科大学在学中からドイツ陸軍の文官として採用され,やがてペーネミュンデにおいてロケット兵器V2号を開発するチームを率いることになった。V2号は本来宇宙旅行用として構想されていたもののうちのもっとも小型のものであったが,現在の宇宙用ロケットの先駆をなすものである。第2次世界大戦後,その設計チームとともにアメリカに渡り,残ったV2号の実験を継続,50年からはハンツビルの米陸軍ミサイル開発部隊の指導をした。55年アメリカに帰化。当初アメリカは彼をあまり重用しなかったが,ソ連のスプートニクに対抗していたバンガード計画の失敗が続いたことから,彼のチームが急きょかり出され,58年アメリカ初の人工衛星エクスプローラー1号の打上げを成功させた。その後NASAの発足とともに,ロケット開発の中心マーシャル宇宙飛行センターにおいて,アポロ計画用サターンV型ロケットの開発を指導,69年のアポロ11号による人類の月面着陸の成功に多大の貢献をした。次いでNASAの将来計画副長官として有人火星飛行計画を作成したが,アメリカの宇宙予算削減に伴い受け入れられず,72年半ば失意のうちにNASAを去り,フェアチャイルド社へ移った。
執筆者:長友 信人
カナダの政治家。カナダ建国の父の一人とされる。スコットランドに生まれ,1838年ニューヨークに移住。43年にトロントへ移り,翌年から《グローブ》紙を発刊。L.M.ラ・フォンテーヌとR.ボールドウィンの政治改革運動を支持して論陣を張る。51年,連合カナダ植民地立法議会に当選し,58年には2日間の短命内閣を組閣した。1855年,カナダ西部の農民(〈クリア・グリット〉と呼ばれた)の声を代表する2紙を吸収した《グローブ》は,〈人口比例代表制〉と〈ハドソン湾会社領有地の獲得〉という改革党と農民の要求を代弁して,連合カナダ植民地政界に大きな影響力を及ぼすようになる。これらの要求の実現には,全イギリス領北アメリカ植民地の連合と独立,すなわちコンフェデレーションの達成しかないとしたブラウンは,自分と政治的主張を異にする保守党のJ.A.マクドナルドとの提携を受け入れ,64年いわゆる〈大連立〉が成立してコンフェデレーションへの大前進となった。しかしながら,シャーロットタウン会議,ケベック会議に出席した彼は保守派と協調し難く,65年に内閣を辞す。67年には総選挙に落選し,73年に上院議員に任命されたもののほとんど政界からは退いた。しかし《グローブ》紙を通じて発揮された,彼の自由党への影響力は非常に大きかったとされる。80年解雇を恨んだ元《グローブ》社員に暗殺された。
執筆者:大原 祐子
アメリカの天文学者。イギリスの生れ。1887年にケンブリッジ大学の数学卒業試験を上位の成績でパスして特別研究員となった。91年にアメリカに移り,93年ハバーフォード単科大学数学教授となり,学生時代にG.W.ヒルの理論を学んで以来,ずっと関心をもってきた月運動論の研究に専念した。97年に母校ケンブリッジ大学の学位を取得,またローヤル・ソサエティ会員となった。1907年にブラウンは月運動表の計算と出版に理解を示したイェール大学に移り,32年まで数学教授を務めた。ブラウンの月運動論はヒルの理論を引き継ぎ発展させたもので,研究論文は1896-1910年に数次にわたって発表され,またそれに基づいた《月運動表》全3巻は1919年に刊行された。そしてそれまで用いられてきたP.S.ハンセンの表にかわって,1923-59年各国の天体暦に採用された(1960年以降はコンピューターで直接ブラウンの理論式を計算する方式に変更された)。1923年科学アカデミー会員に選ばれ,37年ワトソン牌受賞。著書に《月運動論》(1896),《惑星理論》(シュックC.A.Shookと共著,1933)がある。
執筆者:堀 源一郎
アメリカ最初の職業的作家といわれる。フィラデルフィアのクエーカー教徒の商人の家に生まれ,法律を学んだが,1797年に女権論を出版したのを皮切りに健筆をふるった。彼の小説では《ウィーランド》(1798),《エドガー・ハントリー》《オーモンド》《アーサー・マービン》(いずれも1799)の4編が有名である。先の2編は18世紀末にイギリスで流行したゴシック・ロマンスの型をアメリカの舞台に応用したもので,今日にいたるまで連綿とつづくアメリカ文学におけるゴシック的伝統のさきがけと考えられる。しかしその健筆ぶりにもかかわらず収入は乏しく,そのため雑誌編集を試みるが成功せず,フィラデルフィアの家に戻って家業を手伝いながら執筆活動や雑誌編集をつづけた。J.F.クーパー,N.ホーソーン,E.A.ポーなどはブラウンの影響をどこかに受けているという意味で,歴史的には逸することのできない作家である。
執筆者:志村 正雄
アメリカの熱狂的な奴隷解放論者。コネティカット生れで,若いころは北部各地を転々としながら,父に従って奴隷の逃亡を助ける地下組織underground railroadに加わり,奴隷制度打倒が神から自分に与えられた使命であると信じるようになった。1855年,カンザス準州が奴隷制度をめぐる争点となったとき,彼は子どもたちを連れて移住し,オサワトミーでゲリラを組織,56年にポタワトミー川で奴隷制度拡大派の5人を殺害した。北部へ戻って一躍ヒーローとなり,59年10月,21人を率いてバージニア州のハーパーズ・フェリーを占領した。彼は奴隷の蜂起を期待したが,ロバート・リーの指揮する軍隊に捕らえられ,12月2日反逆罪で絞首刑となった。彼の死をたたえる歌《ジョン・ブラウンズ・ボディ》は南北戦争中北軍の進軍歌となり,そのメロディは《リパブリック賛歌》として日本に伝えられている。
執筆者:猿谷 要
イギリスの文人,医師。オックスフォードや大陸の諸大学で医学を修め,ノリッジで開業し,その地方の名士となった。イギリス全体がはげしい思想・信仰上の変革の波に洗われている時期に,一歩も二歩もしりぞいた立場から,静かな思弁と博学な省察を,特異に高揚した名文に書きとどめた。ラテン語系の朗々たるリズムは比肩するものなく,独特の機知は散文における〈形而上派〉と呼ぶにふさわしい。《医師の宗教》(1643)は,理性と信仰の相克の時代に,ゆとりある寛容の精神を説いている。《迷信論》(1646)は古代ギリシア・ローマ以来の西欧の迷信を無類の博学でもって列挙し,しかもそれを責めるよりはいつくしむ特異な姿勢でつらぬかれている。《壺葬論》(1658)の名文に盛られた死生観はまさしく珍とするに足り,夏目漱石が《三四郎》のなかでその一節の名訳をこころみたゆえんである。英文学史上屈指の文章家であった。
執筆者:川崎 寿彦
風景式庭園を完成させたイギリスの造園家,建築家。ノーサンバーランド州出身で,1740年にバッキンガムシャーのストウStoweの庭園師となり,ケントとともに造園に携わる。以後,クルーム・コート(ウォーセスターシャー,1752),ブレニム宮殿(オックスフォード近郊,1769),クレアモント邸(サーレー,1772)など200を超す庭園計画に携わる。敷地のもつ〈可能性〉を十分生かした土地改造方法を唱えたことから,〈ケーパビリティ・ブラウンCapability Brown〉とあだ名される。自然美を造園の基準にすべきだという彼の考え方は,レプトンHumphry Repton(1752-1818)へと引き継がれた。
執筆者:星 和彦
イギリスの医師。スコットランドのバンクル教区に生まれ,少年時代はレスリング,フットボールなどに熱中,18歳でエジンバラ大学へ行き家庭教師をしながら苦学して哲学と神学を修めた。24歳で医師を志し,解剖学教授のモンローAlexander Monro(1697-1767)から無料聴講の許可を得たのをはじめ,熱意を認められて5年間各教授から授業料免除で,医学を修めた。1780年に《医学原論Elementa Medicinae》を刊行し〈ブラウン学説〉を唱えた。生物は刺激に対して興奮するという特性をもち,中等度の興奮状態を保つときは健康であるが,局部的,あるいは全身的に興奮状態が高まるか,弱まるときには病気となると考え,医師は興奮の度合を確かめ,それを鎮めるか,あるいは高めるのが任務だとした。
執筆者:本田 一二
ドイツ人の共産主義者。中国名は李徳または華夫。中国紅軍の大長征に参加した唯一の外国人。ミュンヘンに生まれ,第1次大戦の末期に社会民主党左派を支持,のち共産党に加わる。1926年に逮捕,投獄されるが,28年,脱獄に成功,ソ連に行って軍事技術を学んだ。32年,コミンテルンによって軍事顧問として中国へ派遣され,華南のソビエト区に入る。しかし,彼の軍事に関する正規軍的な思考法は,毛沢東の遊撃戦理論と合わず,また現実的でもなかったのでしだいに影響力を失った。39年ころ,モスクワにもどり,49年以後は東ドイツのマルクス=レーニン研究所で働いた。その回想《大長征の内幕》(1975)は,発表時の中ソ対立を反映して,反毛沢東的な記述にみちているが,長征に参加した外国人の経験としては貴重なものである。
執筆者:春名 徹
アメリカの改革派教会宣教師。中国の澳門(マカオ)で宣教し,一度帰国のあと1859年(安政6)来日,67年(慶応3)の帰国まで英語の教授と宣教にあたった。62年(文久2)には日本語会話修得のための《コロクイアル・ジャパニーズ(英和俗語辞典)》を出版した。69年(明治2)再び来日し横浜修文館で英語を教えたが,73年塾を開設,井深梶之助,植村正久,本多庸一ら日本基督教会の指導者となる人々を育てた。新約聖書翻訳の委員ならびに委員長として努力したが,病気のために完成を見ずに79年帰国した。
執筆者:波多野 和夫
イギリスの植物学者。スコットランド生れ。1798-1805年の間,博物学者としてオーストラリアの探検隊に加わり,ラフレシアをはじめ多くの種属を記載し,また裸子植物の系統上の位置を確立した。植物細胞の顕微鏡観察で細胞核を発見し,M.J.シュライデン(1838),T.シュワン(1839)の細胞説の契機をつくった。ムラサキツユクサの細胞で複雑なタイプの原形質流動を観察し,原形質流動への関心を高めた。ブラウン運動も彼の発見になる。
執筆者:佐藤 七郎
アメリカ・バプティスト自由伝道協会の日本派遣宣教師。ビルマ(現ミャンマー)とアッサムで23年間宣教,アッサム語訳の新約聖書を完成(1838)した。のち帰国し,《アメリカン・バプティスト》誌の主筆となり奴隷制度の廃止にも努めた。1873年来日,横浜第一浸礼教会を設立。聖書邦訳の共同委員会に加わったが,〈バプテスマbaptisma〉の訳語を〈洗礼〉ではなく〈浸礼〉とすることを主張して辞任,79年独自に新約聖書の日本最初の全訳刊行を果たした。横浜で没。
執筆者:波多野 和夫
イギリス会衆派教会の祖。ケンブリッジ大学の学生のとき,カートライトの長老主義の影響を受け,のちこれをいっそう徹底させた。彼の教会観は,各個教会は世俗的権威からも教会的上位の権威からも独立しているという,いわゆる会衆主義で,このため初期会衆派は〈ブラウン主義者Brownists〉と呼ばれた。英国国教会の弾圧を受け,オランダへ亡命したが,帰国後獄中で死んだ。
執筆者:小倉 義明
イギリスのイラン学者。露土戦争に影響を受け,ケンブリッジ大学入学後は,医学を修めるかたわら広くイスラム学に関心をもった。1887-88年,イランに旅行,バーブ教の調査を行った。彼の学風はペルシア語写本の綿密な研究に基づく文献学的方法に特色があるとともに,同時代史にも鋭い関心を寄せ,主著《イラン立憲革命》を著した。87年以来,母校の教壇に立ち,イラン学の基礎を築いた。
執筆者:坂本 勉
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(加納孝代)
(小檜山ルイ)
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ロンドン生まれのアメリカの化学者.両親はウクライナ出身のユダヤ系移民.1938年シカゴ大学より学位を取得後,同大学の研究助手を経て,ウェイン大学助教授,そして1947年にはパーデュー大学教授となり,1978年名誉教授となった.シカゴ大学研究助手時代にH.I. Schlesinger教授とともにホウ素化合物とその反応について研究し,ホウ素化合物ジボランの簡単で収率の高い合成法を考案した.また,テトラヒドロホウ酸ナトリウムの簡単な合成法も発見したが,この試薬は,以後きわめて用途の広い還元試薬として利用されるようになる.1955年には,ジボランを炭素の二重結合をもつ有機化合物と反応させて有機ホウ素化合物を合成したが,この生成物は有機合成化学において,大変有用性の高い物質である.以上の功績により,1979年ノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
1800~59
アメリカの奴隷制廃止論者。奴隷に武器を与えてみずからの解放のために立ち上がらせることを計画し,少数の同志とともに1859年ヴァージニア州にある連邦兵器庫を襲ったが,捕えられ死刑に処せられた。
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… ワイマール共和国のもとでは,プロイセンも他の諸邦と対等の地位に置かれ,プロイセン首相とドイツ首相とは分離された。そして,民主的な議会政治が実現されたプロイセンでは,大戦前とは逆に左派の勢力が進出し,1920年から33年まで,社会民主党のブラウンOtto Braun(1872‐1955)が首相の地位を占めた。しかしナチスの勢力拡大によってプロイセンのこうした新時代も短命に終わり,ヒトラーの政権掌握とともにベルリンはナチス・ドイツの首都となった。…
…とくに第1次世界大戦後は宇宙飛行を目標にした研究が盛んになり,23年にいたって,H.オーベルトは《惑星間空間へのロケット》という本を出して,この中で理論だけでなく,具体的な提案を行い,またみずから小型のロケット実験を開始した。このときこのグループの一員であった少年フォン・ブラウンは,後にV2号という本格的なロケット兵器を開発したが,彼自身はあくまで宇宙飛行のためのロケットと考えていた。彼はドイツの敗戦によってアメリカの捕虜となり,以後はアメリカでロケットの研究を続けた。…
…これは29年に出版された《宇宙飛行への道》とともに彼の深い見識を示したものであり,その当時イオンロケットの出現をも予測していたほどである。彼は1927年に設立された〈ドイツ宇宙旅行協会〉の顧問であったが,そこで当時助手の一人であったW.vonブラウンと出会っている。40年ドイツ市民権を得た彼は,ペーネミュンデでブラウンらとともにV2(A4)ロケットの開発に参加した。…
…
[国民文学の興隆(独立革命前後~19世紀初頭)]
18世紀の後半,イギリス本国からの政治的独立に刺激された文人たちは,拠って立つ文学的伝統の希薄な状況において,ヨーロッパの文学の素材や形式を利用しながらも,アメリカという土壌に根ざした国民文学を形成していく。C.B.ブラウンは古城などを舞台にしたヨーロッパのゴシック・ロマンスの伝統を踏襲しながら,古城の代りに西部の荒野やインディアンといったアメリカ固有の背景を導入した。W.アービングは《ニッカボッカーのニューヨーク史》(1809)で,歴史をフィクションに移し,《旅人の物語》(1824)では,深刻さを欠き,短編が多くなる末期型のゴシック・ロマンスを発展させ,ホーソーンやポーを先取りした。…
…月の運動は太陽の摂動力が大きいためにたいへん複雑であり,そのうえ月は地球に近いので高い精度の観測が昔から行われてきた。こうして,複雑な運動を高い精度で解明する月運動論の内容はきわめて膨大なもので,代表的なE.W.ブラウンの月運動論では,月の黄経,黄緯,視差を表す三角級数は全体で1600余の周期項からなっている。その半数以上が黄経に使われているが,その中でもっとも主要な5個の周期項は中心差,出差,二均差,年差,月角差と呼ばれている。…
…この設計は最初ブリッジマンCharles Bridgeman(?‐1738)によって行われ,彼は庭と外界の境に一種の堀割であるハハーHahahを導入して,何さえぎるものなく眺望が周囲の自然にとけ込んでいくように工夫した。ストーは以後,ブリッジマンと協同したバンブラー,ケント,ギブズ,ブラウンといった名手たちがつぎつぎに手を加えた記念碑的な庭園となる。風景式庭園のさまざまな相を一つに集めた庭として,いまに伝えられている。…
…巨大な中庭を抱く主屋と,主屋に匹敵する規模の左右パビリオンからなる。L.ブラウン設計の風景式庭園をもつ。【鈴木 博之】。…
…しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。正確に双子葉植物,つまり被子植物が範囲づけられたのは,ブラウンR.Brownによって裸子状態と被子状態が区別されてからのことで(1827),分類系において,裸子・被子の区別を双子葉・単子葉の区別より上位においたのはブラウンA.Braunである(1864)。現在,被子植物を双子葉植物綱と単子葉植物綱に二大別することに異議をとなえる人はほとんどなく,科の数もそう大きな変動はないように思われる。…
…ド・カンドルA.P.de Candolleも,それらを双子葉類といっしょにしていた(1813)。裸子植物を今日のように,種子(胚珠)が心皮(心房)に包まれていない植物として正しく認識したのは,ブラウンR.Brownである(1827)。1851年,ホーフマイスターW.Hofmeisterは球果類の球果とヒカゲノカズラ科の胞子囊穂を比較して,両者の器官学的相同性を論じた。…
…時間とともに変化する偶然現象の数学的模型である確率過程のうちで,もっとも代表的なものである。初め,イギリスの植物学者R.ブラウンが顕微鏡で水中にある花粉から出る微粒子を観測しているうちに,それらが激しい不規則運動をしていることを発見した。この運動は,後に水の分子が微粒子と無数といってよいほど頻繁に衝突することによって起こるものであることがわかり,ブラウン運動Brownian movementと呼ばれるようになった。…
…しかし,彼の双子葉植物には裸子植物が含まれている。正確に双子葉植物,つまり被子植物が範囲づけられたのは,ブラウンR.Brownによって裸子状態と被子状態が区別されてからのことで(1827),分類系において,裸子・被子の区別を双子葉・単子葉の区別より上位においたのはブラウンA.Braunである(1864)。現在,被子植物を双子葉植物綱と単子葉植物綱に二大別することに異議をとなえる人はほとんどなく,科の数もそう大きな変動はないように思われる。…
…この運動を初めて観察したのはイギリスのニーダムJohn Tuberville Needham(1713‐81)で,1740年のことといわれているが,当時はこの動く微粒子が動物の精子にあたるのだろうと考えられていた。その後,1826年になって,イギリスの植物学者R.ブラウンがこの動く微粒子の運動をもっとよく調べようとした動機も,植物の受精の研究だった。微粒子の運動が水の対流や振動にひきずられて起こっているのだとは思えない。…
…ド・カンドルA.P.de Candolleも,それらを双子葉類といっしょにしていた(1813)。裸子植物を今日のように,種子(胚珠)が心皮(心房)に包まれていない植物として正しく認識したのは,ブラウンR.Brownである(1827)。1851年,ホーフマイスターW.Hofmeisterは球果類の球果とヒカゲノカズラ科の胞子囊穂を比較して,両者の器官学的相同性を論じた。…
…かつては組合教会と呼ばれた。16世紀イギリスのR.ブラウンらの〈分離派〉改革運動に起源をもつものでイギリスにも残るが,アメリカでさかんになった。アメリカの植民地時代の初期ピューリタン,ピルグリム・ファーザーズやマサチューセッツに上陸した人々の教派である。…
… イギリスにおいてルター,カルバンの改革思想をうけつぎ,国教会の不徹底な改革を徹底させて近代化の道を開いたのはピューリタン(清教徒)である。R.ブラウン,グリーンウッドJohn Greenwood(?‐1593),バローHenry Barrow(1550ころ‐93)らは国教会から出て独立派independentsとなり,会議制的な長老派をも退けて個々の教会の自主性をたっとび,教職・平信徒の区別のない〈万人祭司〉を実現しようとした。これが会衆派教会(コングリゲーショナル・チャーチ)の基となった。…
…ただし,ピューリタンの範囲を正確に定義するのは困難で,国教会からの非分離派のカルビニスト(後の長老派),分離派のカルビニスト(後の独立派),分離派の非カルビニスト(後の諸セクト)の三者を包含する用語とするのが通説である。 エリザベス時代は,エリザベスの巧みな行政とともに,教会政治的にはホットギフトJohn Whitgift,思想的にはR.フッカーの活動によって抑止され改革の目的が達成されず,かえってR.ブラウンらの過激なピューリタン(国教会からの分離派)を生み出した。エリザベスの死後ジェームズ1世が即位したとき,ピューリタン牧師たちは〈千人請願〉を提出し改革の推進を求めたが,《欽定訳聖書》作成の願望以外はすべて受けいれられず,国教会体制はさらにひきしめられて継続することとなり,不満なグループはオランダやニューイングランドに移住するようになった。…
※「ブラウン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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