デジタル大辞泉 「森」の意味・読み・例文・類語
もり【森/×杜】
2 神社がある神域の木立。「鎮守の―」
[類語]木立・林・森林・密林・ジャングル・山林・雑木林・林野・樹海・樹林・保安林・防風林・防雪林・砂防林・防砂林・原生林・原始林・熱帯雨林・熱帯降雨林・熱帯林・温帯林・寒帯林・紅樹林・マングローブ・広葉樹林・針葉樹林・落葉樹林・照葉樹林・松林・杉林・梅林・竹林
樹木の生い茂った所。杜とも書かれる。一般に林より規模が大きく,より高い木が多いものをいう。日本人が森という場合は,例えば〈鎮守の森〉のように,木が高く内部がうっそうと茂っていて,一種の神秘性を感じさせるようなものを中心に表現している。かつては〈森〉よりも〈山〉〈林〉の用語が多用され,近世各藩の管理する森林は〈御林(おはやし)〉〈御山(おやま)〉であり,村民が利用する森林は〈村持山(むらもちやま)〉〈郷林(ごうばやし)〉であった。また水源涵養(かんよう)林は〈水林(みずばやし)〉とか〈田山(たやま)〉と呼ばれ,海岸の防風・防砂林は〈風除林(かぜよけばやし)〉とか〈砂留山(すなどめやま)〉と呼ばれていた。明治期以後に外国語の訳語としてWald(ドイツ語),woodに〈森〉をあてたのが見られるようになった。しかし,植物学や林学では〈森林〉と呼ばれることが多いし,森林を類型化した場合の呼名にはつねに〈林〉が使われる。
→森林
執筆者:岩槻 邦男+筒井 迪夫
列車や車でヨーロッパを旅行すると,都市近郊に意外に森林が多いこと,それもいかにも整然と,樹木がまっすぐに伸びている感じの森林が多いことが目につく。〈もり〉ということばに,普通,比較的小規模な〈社の杜〉や簡単には近寄れぬ山林を思い浮かべる日本人は,ヨーロッパでは森がより身近な,環境文化の重要な一要素をなしているとの思いをいだくであろう。
もっとも,国土に占める森林面積の比率でいえば,〈森と湖の国〉フィンランド(69.2%)以外,ヨーロッパ各国はおしなべて日本(67.3%)よりその比率が低いのである。自然条件が特殊なアイスランド(1.2%)は別としても,イギリスやオランダはともに8.3%にすぎず,スウェーデンの58.9%以外はおおむね20%台ないし30%台(イタリア20.9%,フランス26.9%,スペイン29.6%,スイス26.0%,旧西ドイツ29.0%,旧東ドイツ29.3%,ポーランド29.5%,オーストリア39.0%など)である。針葉樹と広葉樹の比率は,高度と緯度が高まるにつれ前者が増えるのが普通であるが,ヨーロッパ全体としては大体3対2と推定され,旧ソ連邦(約3対1)や北アメリカ(約2対1)ほどではないにしても,明らかに日本の場合より高い。マツの類ですら蟠竜(はんりよう)というより帆柱のようにすっくと立つヨーロッパではあるが,針葉樹の優位と面積のわりに豊富な森林という印象とは,単に緯度の高さやアルプス山脈による植物相の違いといった地理的要因だけではなく,長い開墾の歴史と植林事業という社会的要因をぬきにして考えることはできない。というのは,P.C.タキトゥスが〈森林に覆われうす気味の悪い〉と伝える中部ヨーロッパは,民族大移動の時代以来,森林面積が約1/3に減ったと推定されるからであり,しかも開墾のおもな対象となったのは,山地および高緯度の針葉樹林ではなく,肥沃な平地の広葉樹林帯だったからである。例えば東ヨーロッパに現在比較的残されているオークとブナ類(シデなど)の混交林は,かつては北ドイツ,デンマーク,ベルギー,イギリスといった,今日比較的森林に乏しい地域にまで広がっていたのだが,今ではすっかり姿を消し,ヨーロッパアカマツがかろうじてその代役を務めている。カバノキ,トネリコ,ポプラ,ときにはオークとすら混交林をなすほど適応性の強いヨーロッパアカマツは,かつてのヨーロッパの代表的樹木ヨーロッパブナにかわって,今日ヨーロッパで最も広範囲に見られる樹種である。オークあるいはヨーロッパナラ(夏ナラ)の森もまためったに見られぬものとなった。中世においてそれはすこぶる珍重されたのである。一つには秋その森にブタを放ち,どんぐりを存分に食わせ太らせるためであったし,一つにはその堅固な材質を建築用材として役だてるためであった。しかし飼料用穀物やジャガイモの栽培によって養豚上の意義が減ずるとともに,造船用材など需要が急激に高まった結果,長い生長期間を必要とし植林の難しいオークの森は乱採の犠牲となったのである。
オークやブナ,カンバなど広葉樹の森は古くは〈白い森〉と呼ばれていた。それに対して〈黒い森〉とは針葉樹の森をさしていたが,今日〈シュワルツワルトSchwarzwald(黒い森)〉といえば,ドナウ川の源流をなす,南西ドイツの山林地帯の名称となっている。その代表的樹種が針葉樹のモミとドイツトウヒであり,しかも北ヨーロッパの国々のドイツトウヒの森が緯度と日照の関係から〈針のように〉細長く生長するのに対し,うっそうと茂り巨木をなすからだともいう。俗に赤モミとも呼ばれるトウヒこそ,林学が盛んなドイツにおいて過去約200年間に最も多く植林されてきた樹種で,現在,旧西ドイツの森林面積の40%以上を占めている。寒気や酸性土壌に比較的強く,植林も容易で,木材としても評価が高いからだが,欠点は高木のわりに根が浅いため風害に弱いことである。森の巨人が嵐とともに荒れ狂いモミやドイツトウヒの大木を根こそぎに倒す,という言い伝えがシュワルツワルト地方に昔からあったが,同一種の植林によって樹高のそろった一斉林では,強風による根返り(倒木現象)の被害が混交林よりもはるかに大きいことが近年も実証されたために,ブナなどの混交林の育成も含めさまざまな植林方式が模索され実験されている。しかし風害以上に今日焦眉の問題となっているのは,工業化社会のもたらした酸性雨その他さまざまな原因による森林の被害,とくに針葉樹の枯死現象であろう。
〈もり〉は古代にあっては異教的祭祀の場あるいは神域であった痕跡がヨーロッパ各地に残されている。中世にあっても森はなお不気味なもの,恐ろしい所であり,町と町,集落と集落を隔てる障害であり,無数の小さな世界の境界であった。〈四つの森の彼方へ〉とはその小世界からの追放を意味したのである。しかし,ガラス製造など木材を大量に消費する産業が発展する近世に至ると,森林は急速に神秘性を失い,人間はこれを侵すことを毫(ごう)も恐れなくなった。その結果もたらされたものが,18世紀末におけるヨーロッパの森の危機的状況である。林学という学問はそれを契機に興り,ロマン派に代表される森林賛美もまたそれを契機に高まっている。立入りの自由な,都市民の憩いの場であるヨーロッパの森林に迫りつつある現代の危機がいかに回避されうるか,今後の課題であるといえよう。
執筆者:新井 皓士
ロシアは森の国であり,森は古くからロシア人の生活の中で重要な役割を演じてきた。東スラブ人の最初の国家はキエフ・ロシアと呼ばれ,現在のウクライナ地方を中心に形成されたが,ステップの遊牧民の圧迫を受けて,12~13世紀からロシア人の政治的重心は,キエフの北東にあたる森に覆われたボルガ川上流に移行した。モスクワを含むこの地方は当時から〈森の中の地〉zales'eと呼ばれていた。16~17世紀にロシアを訪れた西ヨーロッパの旅行家たちは,国境からモスクワまでまばらな集落と焼畑の耕地をのぞいて森がとぎれずに続いていたと記録している。その後さまざまな理由から森の伐採が進んだが,それでも現在なお北部ロシアの諸州ではモミ,マツ,カラマツなどの針葉樹林が全面積の40%から60%を占めている。これに対して南ロシアでは,ステップは別としてマツとオークが多く見られて森林面積の割合は20%程度であり,またモスクワを中心とする中部ロシアではマツ,オークのほかにシラカバ,ブナ,ボダイジュなど針葉樹と広葉樹の混合樹林が全面積の30%ほどを覆っている。
古来ロシア人の意識では森は神の贈物であり,古くは所有権が問題にされることはなかった。唯一の例外は野生のミツバチからのみつの採取で,それはモスクワ諸公の重要な財源をなしたので,ミツバチに害を及ぼすような樹木の伐採は固く禁止されていた。また14世紀以降南方からの遊牧民の襲来を防ぐため逆茂木(さかもぎ)を連ねた数百kmに達する防衛線が構築されたことに関連して,この防衛線上に位置する森は,砲兵庁の管轄下におかれて手厚く保護された。ピョートル1世の近代化政策が始まった18世紀の初頭には,艦船の建造が国家的な緊急事とされ,造船用の木材を確保するため,大河の両岸から50km以内,中級河川から20km以内の森は海軍省の所轄とされ,これらの森でのオーク,マツなどの大木をみだりに伐採することは厳禁された。また森の火事については10km以内の住民が消火に駆けつけることが義務づけられた。森林行政が国有財産省に移管されるのは1837年のことである。革命前のロシアでは森の約70%が国有林であった。
少なくとも18世紀の後半に至るまで,ロシア人の生活の大部分が森林地帯で営まれたところから,森はロシア人の民族的性格に甚大な影響を及ぼしたと考えられている。例えば19世紀の歴史家のS.M.ソロビヨフによれば,ヨーロッパは二つの部分,すなわち西方の石の部分と東方の木の部分からなっている。ロシアの貴族が石の城を構えて封建領主として割拠することなく,強大な君主のまわりで従士団を形成するにとどまったことも,また民衆が石の壁をもつ都市をつくらず,しばしば移動して安価な材料で手軽に住居を建て四方に分散する傾向をもったことも,ソロビヨフはロシアの自然的条件から説明している。それは極端に過ぎるとしても,国家形成の初期に森がロシア人を外敵の脅威から守り,彼らに衣食住の材料を与え,その富の源泉となったことは疑いがない。
古代ロシア人は森や特定の樹木を神聖視し,崇拝の対象とした。キリスト教が普及したのちも,ある種の樹木(おもにシラカバ,ヤマナラシ,オーク)には霊力がやどると考えられて各種の儀式が行われたし,森の精レーシーの信仰は民衆の間にながく残った。開かれた畑や草原がいわば明るい表の世界とすれば,暗い森はある意味では裏の世界でもあり,ここへは表の世界から逃亡農奴や脱走兵や宗教上の異端派などが隠れ家をもとめて逃げこんだ。ラージンの乱の指導者ステパン・ラージンは,配下の者たちに教会で婚礼を行うことを禁じ,ヤナギの木のまわりで式を挙げるように命令した。親の認めない結婚をするときには男が女を奪って森に逃げこみ,まる1昼夜を森で過ごすと追及がやみ,男女がはれて夫婦になれるという風習もあった。
近代から現代にかけて,ロシア文学ではツルゲーネフの《猟人日記》,レオーノフの《ロシアの森》,パウストフスキーの《森林物語》などのような森林文学とも称すべき作品が次々と発表されたこと,また森を描いたシーシキンやクインジなどの数多くの絵画,ショスタコービチのオラトリオ《森の歌》などが人気を博していることの中に,ロシア人の森に寄せる格別の感情をうかがうことができる。
執筆者:中村 喜和
〈森〉という字は《釈名(しやくみよう)》によれば,山中の樹木が群がり立つさまをいう。《周礼(しゆらい)》には,山林をつかさどる役人として山虞(さんぐ)と林衡(りんこう)を挙げ,季節による材木の切出しや山林での祭祀,狩猟に関与した。山林は元来,君主と民の共同の利用に供せられたが,戦国時代になると,君主による家産化が始まった。山林を囲いこんでその生産物を掌握するとともに,開墾して公田とすることが始められたのである。そのため,とりわけ華北においては,自然景観に急激な変化が生じたことと思われる。例えば,泰山の祭りに先立って山麓の配林で祭りを行うのが決まりであったが,その祭りに参加した後漢の応劭(おうしよう)は,いくらも樹木は生えていないと述べている。森に関する伝説が中国に乏しいのもこのことと無関係ではないはずであって,桑林における男女のあいびきは,禹王と塗山(とざん)氏の女の話をはじめとして多くの伝説と歌謡を生んだが,ヨーロッパの森の伝説と異なり,明るいイメージが強い。
執筆者:吉川 忠夫
北海道南西部,渡島(おしま)半島の太平洋側に位置する渡島支庁茅部郡の町。2005年4月砂原(さわら)町と旧森町が合体して成立した。人口1万7859(2010)。
森町北東部の旧町。渡島支庁茅部郡所属。人口5129(2000)。地名はアイヌ語に由来するといわれる。渡島半島の内浦湾側,駒ヶ岳北斜面に位置し,主要な集落はほとんど海岸沿いに展開する。古くから漁村として発達し,漁業就業者が26%(1990)と最も多く,水産加工業の就業者も多い。近年はスケトウダラの不漁から,ホタテガイの養殖に切り替える漁民が増えてきた。駒ヶ岳山麓斜面の一部は放牧地や別荘分譲地として利用されているが,大半は原野となっている。1856年(安政3),1929年には駒ヶ岳の大噴火により壊滅的な打撃をうけた。海沿いにJR函館本線が通る。
森町中西部の旧町。渡島支庁茅部郡所属。人口1万5104(2000)。北は内浦湾に面し,東端に駒ヶ岳がそびえる。中心市街はJR函館本線森駅付近にあり,同本線の砂原回りの支線との分岐点で,国道5号線と278号線の分岐点でもある。道央自動車道の森と大沼公園の二つのインターチェンジがある。16世紀初め,箱館,江差の和人がニシン漁のために定住し,漁業集落が発達した。明治初期から大正末期まで対岸の室蘭との間に定期船が運航され,また函館との間に道路も開通し,函館と札幌を結ぶ中継地として発展した。ホタテガイ養殖,水産加工が盛んで,各河川の流域で米作,駒ヶ岳山麓や海岸段丘でカボチャ,スイカ,メロンなどの栽培が行われる。西部の濁(にごり)川上流に開けた小盆地に濁川温泉(純食塩泉,48~85℃)がある。付近では温泉熱を利用して野菜のハウス栽培も行われる。1982年には地熱利用の森発電所(最大出力5万kW)が完成した。
執筆者:奥平 忠志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一般的には山林あるいは樹叢(じゅそう)をさす。森というとその類語である「林(はやし)」ということばがまず頭に浮かぶが、日本ではかつてこの二つがかなりはっきり区別されていたようである。一般には比較的人里に近い森林のうち自然にできた森林、あるいはそれに近いものを「森」とよび、森になんらかの形で人手を加えることによってできた樹群を「林」とよんでいたらしい。したがって、たとえば鎮守(ちんじゅ)の森は「森」であって「林」ではなく、逆に雑木林や針葉樹の植林地はいかに広範囲にわたっていても「林」であった。「林」の語源は「生やす」だと考えられている。また農学博士四手井綱英(しでいつなひで)(1911―2009)の『もりやはやし』(1974)によれば、かつて獣を追い、キイチゴなどの植物の実や種子を集めた所が「森」であり、焼畑によって森林を切り開いた跡に成立した二次林が「林」ではなかったかという。ただこの二つの区別は現在ではかならずしも明確ではなくなり、原生林とか天然林、あるいは照葉樹林、ブナ林とかいうように、自然に近い森林についても「林」の語が用いられるようになりつつある。このほかでは経済林のみを「林」とする考えもある。
一方、「森」は山岳地域の森林をさし、「林」は平地あるいは里山に広がる樹群をさすという考え方もある。これには四手井の見方も加味されているように思われるが、この場合でも「森」の範囲は人里に比較的近い部分に限られていたようである。そして一般人の生活にあまり関係のない奥地の森林は単に「山」とよばれてきたらしい。
この「森」と「山」の使い方はドイツあたりともよく似ている。ドイツにはシュワルツワルトSchwarzwald(黒森)とか「チューリンゲンの森」とかチェコ国境にかけての「ボヘミアの森」などといった有名な森Waldがいくつかあり、いずれもかつては深い森林に覆われていた。ただ標高は1000メートルは超えず、人の踏み入る場所であったのである。1000メートルを超えるような高地は「山地Berg」とよばれ、両者ははっきり区別されていた。日本と違うところは、「森」が単に樹木の生育地というよりも一つの地域名に拡大されている点で、シュワルツワルトなどは長さが100キロメートルを超えており、低い山脈の意味を備えている。
なお、日本の奥羽山脈北部には狐森(きつねもり)、源太森(げんたもり)のように森のつく地名が多い。これは樹木に覆われた一つの高まりをさしており、「盛(もり)」、つまり盛り上がった地形から生じたのではないかと考えられている。
[小泉武栄]
人間が開発した居住地、農地、原野などに対して、山林の状態が維持されているところに意味がある。日本では古くから神を祀(まつ)る樹叢を森とよぶ習慣がある。『万葉集』にも「神社」あるいは「社」と書いてモリと読む例がある。「社」は中国で土地の神を祀る樹叢の意で、村を鎮護する神の性格がある。日本では、村の中の樹叢といえば、たいていは神社の境内である。「鎮守の森」という語は、その伝統をよく表している。琉球(りゅうきゅう)諸島では、神社に相当する聖地を森とよぶ。樹叢があり、普段、手を加えることを禁じている。神聖な樹叢をモリとよぶ土地は多く、岐阜県にも神社をモリという例がある。
ヨーロッパでも、キリスト教信仰以前には、各地に聖なる森の信仰があった。リトアニアでは、聖なる森での狩猟は禁じられ、人間もここでは人に追われることはなかった。人間の世界に対する自然の世界である。その森で宗教儀礼が行われたのは、森が人間と自然との接点であったからである。チュートン語の「神殿」を表す語から、チュートン人(テウトニ人)の最古の聖地は自然の森であったと推定されている。ケルト人も聖所を森の中に設けた。ケルト語でも、小さな森、林の空地に由来する語が聖所を意味している。森林を支配する神霊の信仰は、多くの民族にみられる。森林地帯で生活するウラル・アルタイ語族の諸民族には、森の主(ぬし)の信仰が発達している。森の主は「森の人」ともよばれ、人間の姿をしていることが多く、狩猟や牧畜を守護するという。これは人間の領域と自然の領域が森で重なり合っている例である。森の人の観念は、ヨーロッパでは森の小人として現れており、小人は自然のなかのもうひとつの人間である。森は人間の世界の源泉の世界で、西アフリカには、人間に宗教を教えたのは森の小人であるという伝えもある。源泉である自然と、人間が獲得した文化が、精神的に交渉する技術が宗教であった。
[小島瓔]
森は食糧となる動植物や燃料を供給し、水の流れを制御するなど人類にとっては切り離せない存在である。しかし、人類の祖先が森林地帯での樹上生活から疎林地帯での直立二足歩行生活に移行して以来、森は日常生活の場ではなくなった。見通しの悪い森の中は不安であり、魅力的な資源が豊富に眠っている一方で、不可解な力が宿っていると感じられる。集落を日常の世界または人の世界とし、森をそれと異なる世界として対置する考え方は普遍的にみられる。それは森を生業の場とする森林狩猟民でも同様である。たとえば極北の狩猟民は、森はもう一つの世界であり、その中で人々がこの世の人間と同じ生活をしていると考える。この世の人々とあの世の人々は相互依存関係にあり、森での狩猟は単に食糧や生活物資を得るための手段ではなく、森の人々との交流という神聖な行為である。狩猟活動に大きな誇りをもち、種々の禁忌(きんき)が設けられているのもそのことに起因する。たとえば、狩猟用具は女性の手に触れさせてはならず、男が狩りに出ている間、集落の留守を守る者は大声を出したり、髪をとかしたりしてはならない。他方、狩人(かりゅうど)も森の中ではつねに居ずまいを正し、ことば遣いも改める。これらは恩恵をもたらす森の人々に対する配慮である。また熊(くま)送り(熊祭)などの狩猟儀礼は彼らへの感謝である。そして、森の人々もそれにこたえて獲物を与える。旧石器時代から熊祭などが行われていたところをみると、このような考え方は非常に古くから普遍的にあったといえよう。
農耕、牧畜が始まり、生産活動の大部分が森の外側に置かれるようになると、森はいっそう日常の場から切り離され、神聖視され、畏怖(いふ)される。森は邪悪なものをはじめさまざまな精霊のすみかとされ、みだりに入ることを避ける。しかし他方、聖地でもあり、森に入ることによって浄化されるという考え方も加わる。たとえば、ヨーロッパでは森に逃げ込んだ者は権力からの訴求を免れるという考え方があり、ロビン・フッドのように森に入って再起を図る貴人の伝説もある。日本でも国土の67%ほどが森林に占められていたために、森はことのほか重要であり、また神聖視される。森に覆われた山を御神体として崇拝するばかりでなく、神社の神域も「もり」とよばれる。農耕、牧畜が始まって以来、森は農地や牧地の開墾、木材資源の開発、そして森に対する畏怖心の軽減のために世界各地で一貫して減少してきた。しかし、森林破壊によって滅亡したと考えられる文明もあり、森はやはり人類にとって物心両面で不可欠な存在である。
[佐々木史郎]
『四手井綱英著『もりやはやし』(1974・中央公論社)』▽『ジョン・スチュアート・コリンズ著、福本剛一郎訳『森、自然と人間』(1979・玉川大学出版部)』▽『大島襄二著『森と海の文化』(1980・地人書房)』▽『四手井綱英・林知己夫編著『森林をみる心』(1984・共立出版)』▽『稲本正文・姉崎一馬写真『木はいきている 森林の研究』(1985・あかね書房)』▽『四手井綱英著『森林』全3冊(1985~2000・法政大学出版局)』▽『信州大学林学科編『世界の森林を歩く』(1987・都市文化社)』▽『堤利夫著『森林の生活 樹木と土壌の物質循環』(1989・中央公論社)』▽『稲本正文・姉崎一馬写真『森の旅 森の人――北海道から沖縄まで日本の森林を旅する』(1990・世界文化社)』▽『西口親雄著『新林への招待』新装版(1996・八坂書房)』▽『安田喜憲著『森の日本文化――縄文から未来へ』(1996・新思索社)』▽『大場秀章著『日本森林紀行 森のすがたと特性』(1997・八坂書房)』▽『安田喜憲著『日本よ、森の環境国家たれ』(2002・中央公論新社)』▽『井上真・桜井尚武・鈴木和夫他編『森林の百科』(2003・朝倉書店)』▽『只木良也著『森の文化史』(講談社学術文庫)』
北海道南西部、渡島(おしま)総合振興局管内の町。渡島半島東岸にあり、内浦湾(噴火湾)に臨む。1921年(大正10)町制施行。2005年(平成17)、茅部(かやべ)郡砂原町(さわらちょう)を合併。JR函館(はこだて)本線、国道5号、278号が通じ、道央自動車道森インターチェンジがある。町名はアイヌ語のオニウシ(樹木の茂った所の意)による。16世紀から和人によるニシン漁業が行われた。東に駒ヶ岳(こまがたけ)、西に狗神岳(ぐしんだけ)がそびえ、町域の大部分は山地・丘陵地で、駒ヶ岳の火山灰に覆われる。駒ヶ岳山麓(さんろく)のカボチャ、ジャガイモの栽培や、濁川温泉(にごりかわおんせん)の温泉熱利用の野菜促成栽培は有名。メロン、プルーンも特産する。漁業はホタテガイ養殖を中心に、カレイ、ホッケなどの漁獲がある。濁川地区では1982年(昭和57)に道内最初の地熱発電所が建設された。青葉ヶ丘公園はサクラの名所。西部の鷲ノ木(わしのき)は1868年(明治1)榎本武揚(えのもとたけあき)が率いる旧幕府艦隊が上陸した地。濁川温泉は町の北西部にあり、1805年(文化2)開湯の古い温泉。町東端の大沼は大沼国定公園域。面積368.79平方キロメートル、人口1万4338(2020)。
[瀬川秀良]
『『森町史』(1980・森町)』
静岡県西部、周智郡(しゅうちぐん)南部の町。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)一宮(いちみや)、天方(あまがた)、飯田(いいだ)、園田の4村を合併、1956年三倉村と原泉(はらいずみ)村の一部を編入。町域の北・東・西三方を春野山地が囲み、中央部を太田川が南流する。天竜浜名湖鉄道が通じる。中心の森地区は江戸時代には信州街道と秋葉神社への表街道の宿場町として繁栄し、古着の町として全国古着市場の相場を左右し、商圏は東北地方へも及んだ。後背の山間部から産出する木材、薪炭(しんたん)、シイタケ、茶などの集散地で、とくに茶は「遠州森の銘茶」で知られる。また、次郎ガキ発祥の地で、カキ・メロン栽培や、水田裏作のレタス生産が盛ん。在来の遠州瓦(がわら)、森山焼などのほかに計器・刃物工業の進出も目だつ。1995年(平成7)には森北戸綿工業団地が完成した。陶芸や和紙づくりなどが体験できる「アクティ森」、旧郡役所の建物を利用した歴史民俗資料館がある。亀久保(かめくぼ)の友田家住宅は国指定重要文化財。「遠江森町の舞楽(とおとうみもりまちのぶがく)」は国の重要無形民俗文化財、次郎ガキ原木は県天然記念物。浪曲で有名な「森の石松」の墓が大洞院にある。面積133.91平方キロメートル、人口1万7457(2020)。
[川崎文昭]
『『森町史』全8冊(1993~1998・森町)』
大分県西部、玖珠(くす)盆地北隅、玖珠郡玖珠町の一地区。旧森町。1605年(慶長10)久留島氏(くるしまうじ)(1万2000石)が角埋山(つのむれやま)南麓(なんろく)に築城したのに始まる城下町で、郡の中心であったが、盆地中央に、1929年(昭和4)久大(きゅうだい)本線豊後森(ぶんごもり)駅開業後は、駅付近に中心が移り、衰微した。城跡は三島(みしま)公園となっている。
[兼子俊一]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…しなの鉄道(旧信越本線),篠ノ井線,長野電鉄,長野自動車道,上信越自動車道の分岐点をなし,国道18号(北国街道)が通る交通の要衝であり,食料品,輸送機械,縫製,メリヤスなどの工業が発展しているが,長野市に近く,その衛星都市としての性格が強い。市の南東の森,倉科地区は日本一のアンズ栽培地で〈アンズの里〉とよばれ,10万本のアンズの花の咲く4月中旬には多くの観光客を集める。アンズの実を原料としたシロップ漬けなどの食品加工業も盛ん。…
…玖珠川中流域に位置し,玖珠盆地の西半を占める。盆地北部の森は江戸時代には久留島氏1万2000石の陣屋町として栄えたが,1929年の久大本線の開通後は帆足,塚脇に町の中心が移った。玖珠盆地には水田が多いが,町域の大半を占める山林原野では牧牛が盛んで,木材やシイタケの生産も多い。…
… 関ヶ原の戦に呼応して旧領主大友吉統が捲土重来を期して,旧臣を糾合した速見郡石垣原(いしがきばる)の戦は,細川,黒田らの軍勢により大敗に終わり,ほかに西軍にくみした臼杵の太田,富来の筧,安岐の熊谷,府内の早川らが除封された。関ヶ原の戦後,府内に竹中,臼杵に稲葉貞通,海部郡佐伯に毛利,速見郡日出(ひじ)に木下延俊,玖珠郡森に来島(くるしま)長親が入部した。このうち,岡,臼杵,佐伯,日出,森の各藩は幕末に至るが,府内は,竹中氏の後,1634年(寛永11)からは日根野吉明が,58年(万治1)からは松平忠昭が城主となり,速見郡木付には,1632年からは小笠原忠知が,さらに45年(正保2)からは松平英親が領有して幕末に至る。…
…しかし,ここでは熱帯降雨林のような極端に多い樹種と旺盛な生長はない。森林には限られた優勢種が現れて,どちらかというと,こぢんまりとしてくる。これは広い意味でいえば,日本にも続いてくるいわゆる照葉樹林帯である。…
※「森」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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