オスマン帝国(読み)オスマンテイコク(英語表記)Ottoman

デジタル大辞泉 「オスマン帝国」の意味・読み・例文・類語

オスマン‐ていこく【オスマン帝国】

1299年、オスマン1世小アジア建国したトルコイスラム国家地中海周辺のアラブ諸地域、バルカン半島をも支配下におき、アッバース朝滅亡後のイスラム世界の覇者として君臨。16世紀のスレイマン1世ころ最盛期。17世紀末から衰退に向かい、第一次大戦に同盟国側に加わって敗北。1922年、トルコ革命により滅亡。オスマン朝。オスマン‐トルコ。オットマン帝国

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百科事典マイペディア 「オスマン帝国」の意味・わかりやすい解説

オスマン帝国【オスマンていこく】

オスマン・トルコ,オットマン帝国とも。小アジアを中心に北アフリカ,西アジア,バルカン,黒海北部,カフカス南部を支配したイスラム帝国。1299年から1922年まで存続セルジューク朝が分裂した時,オスマンOsmanと名のる人物を中心とした勢力がトルコ系小王国を統合,独立した。ビザンティン帝国領土を合わせ,十字軍を破ったが,バヤジト1世の時,1402年ティムールとのアンカラの戦に敗れて一時分裂した。しかしたちまち再興し,メフメト2世の時にはイスタンブールに都を定めた。さらにバルカンを従え,セリム1世(1512年―1520年)はイランエジプト征服してイスラム世界に君臨した。スレイマン1世の時全盛期に達し,地中海の制海権を握った(プレベザの戦)。同時に君主専制・中央集権化が図られた。文武諸官は身分に応じた封地を与えられ兵力を養ったが,のちには常備軍(イエニチェリ)が軍事力の中核となった。素朴な民衆文学も芽ばえ,また大モスクトプカプ宮殿などが首都を中心に作られた。国内の少数民族は自治を認められ,宗教,習慣を保持した。16世紀末にはドイツ,ポーランド,ロシア,ベネチア連合軍の攻撃を受け,ハレムによる政治の腐敗も加わって,バルカン半島を放棄。さらにピョートル1世以来ロシアの侵略を受け,黒海沿岸からも後退し,西欧列強の干渉が続いて東方問題を招いた。タンジマート(西洋化改革)やオスマン主義を援用して近代国家としての再生を図ったが,帝国内の少数民族も半独立の状態を続けるなかで,1908年青年トルコの革命が起こった。さらに1911年イタリア・トルコ戦争,2次のバルカン戦争で体制はくずれ,ケマル・アタチュルクの革命によって滅亡した。
→関連項目アラビア半島アルバニアイタリア戦争エジプト(地域)エジプト・トルコ戦争エディルネオーストリアカフカスギリシアコソボサフランボルセーブル条約セルビアセルビア・モンテネグロチェコトランシルバニアトルコバルカン半島パン・イスラム主義ハンガリーフサインブルガリアベオグラードヘルツェゴビナボスニア・ヘルツェゴビナボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題マケドニアマムルーク朝ミストラムラト[1世]ムラト[2世]モルドバモンテネグロリラ修道院ルーマニアレパントの海戦ロー露土戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オスマン帝国」の意味・わかりやすい解説

オスマン帝国
おすまんていこく
Osman
Ottoman

中央アジアから移住したトルコ人によって、西部アナトリアに建国されたイスラム王朝(1299~1922)。単にオスマンあるいはオットマン帝国とよばれる場合もある。オスマンと名のるイスラム戦士(ガーズィ)をリーダーとする小集団として発祥し、第一次世界大戦後に滅亡するまで600年以上にわたって西アジア、バルカン、北アフリカの大部分の地域を支配し、世界史上に大きな足跡を残した。

[永田雄三]

帝国の発展

1326年にビザンティン帝国の要都ブルサを征服して首都に定め、54年以後バルカン半島に進出。61年ごろアドリアノープル(現エディルネ)を征服してここに首都を移した。89年コソボ、96年ニコポリス、1444年バルナの諸戦役で、相次いでバルカン諸民族の軍隊を破って15世紀なかばにはブルガリア、ギリシア、アルバニア、セルビア地域を併合し、ビザンティン帝国を孤立させた。1453年、メフメト2世(在位1444~46、1451~81)の率いるオスマン軍はコンスタンティノープルを攻略してビザンティン帝国を滅亡させると、この都をイスタンブールと改名し、国内各地からトルコ人、ギリシア人、アルメニア人などを移住させて新しい首都建設を行った。その結果、16世紀中ごろにはイスタンブールの人口は約50万に達し、ヨーロッパ最大の都市となった。この間に帝国の版図はさらに拡大し、15世紀末にはアナトリアとバルカンのほぼ全土を平定した。16世紀に入るとシリア方面の領有をめぐって、エジプトのマムルーク朝と対立し、1517年にセリム1世(在位1512~20)指揮下のオスマン軍はエジプトを征服してマムルーク朝を滅ぼすとともに、メッカ、メディナの両聖都の保護権を獲得し、ここにオスマン朝の支配者(スルタン)は同時にスンニー派イスラム教徒の指導者カリフの地位をも手中にした(スルタン・カリフ制)。

 スレイマン1世(在位1520~66)はモハーチの戦い(1526)でハンガリーを服属させ、1529年にはウィーンを包囲攻撃してヨーロッパ諸国を脅かし、ヨーロッパの政局に大きな影響を与えた。地中海方面では38年にスペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合艦隊をプレベザ沖の海戦に破り、またチュニジア、アルジェリアをも併合し、東方ではバグダード、バスラに支配権を確立して、メソポタミアを押さえた。これによって、帝国は地中海、黒海、紅海、ペルシア湾の制海権を掌握して、東西と南北に広がる国際貿易路を掌握することに成功し、ここに最盛期を迎えた。

[永田雄三]

帝国内の諸制度

国内においては、メフメト2世以後、歴代のスルタンたちはカーヌーン・ナーメとよばれる法典を整備し、アナトリアとバルカンに住むキリスト教徒男子を強制徴用(デウシルメ制)して、スルタンの奴隷身分である軍人および官僚層を育成したほか、イスタンブールなどの大都市に設置したイスラム高等教育機関(マドラサ)を通じてイスラムの諸学問を修めたウラマー層を育成して、これに教育、司法および地方行政を一任した。都市民の大多数を占める商工民はギルドに組織されていたが、それはまたトルコ人民衆の間に浸透した神秘主義諸教団と密接な関係をもっており、ともに民衆の社会的組織化に貢献した。広大な支配領域全土を通じて駅伝制が発達し、スルタンや高級官僚はモスク、隊商宿、橋、学校、病院などを都市や隊商路上に建設し、遊牧民たちがウマ、ラバ、ラクダなどの輸送手段を提供した。帝国の主要な軍事力をなす在郷軍団はティマール(軍事封土)を与えられたスィパーヒー(騎士)が主力をなしていた。国有地制度に基づく農村社会では6~15ヘクタールほどの耕地を保有する小自営農民が多く、大土地所有者はほとんど存在しなかった。

[永田雄三]

帝国の衰亡

17世紀以後、前述した帝国の繁栄を支える諸制度が崩壊し、東西貿易路が地中海からインド洋―大西洋経由に転換すると、帝国は衰退し始めた。18世紀以後、帝国内部には徴税請負制と大土地所有が普及し、これらを基盤としてアーヤーンとよばれる地主層が勃興(ぼっこう)してスルタンの専制支配を脅かした。19世紀に入ると、これに加えてキリスト教徒被支配民族の独立運動が活発となった。こうした危機に直面してスルタンは、フランス、イギリスなど西ヨーロッパ諸国の教育、技術、制度、法を導入することによって改革政治を行った(タンズィマート)。しかし、19世紀後半以後、帝国の経済はヨーロッパ諸国に支配され、また、バルカン諸国は帝政ロシアなどの支援によって政治的独立をかちとり、エジプトもまたムハンマド・アリー朝が成立して事実上独立した。これに対して国内では、青年将校の主導による民族主義的な立憲革命が起こった(1908年の「青年トルコ党」革命)。

 第一次世界大戦に帝国がドイツ側に加担して敗北すると、アナトリアは連合諸国によって分割の危機にさらされ、ギリシア軍が西アナトリアに進攻した。ここに至って、ムスタファ・ケマル(ケマル・アタチュルク)の指導の下にトルコ国民はオスマン王家に対して反乱し、同時に連合諸国に対する反帝国主義運動を展開した(トルコ革命)。その結果、1922年11月にスルタン制が廃止されてオスマン帝国が滅亡し23年トルコ共和国が成立した。

[永田雄三]

『三橋冨治男著『オスマントルコ史論』(1966・吉川弘文館)』


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旺文社世界史事典 三訂版 「オスマン帝国」の解説

オスマン帝国
オスマンていこく
Ottoman

13世紀末にアナトリア北西部で勃興し,東ヨーロッパ・西アジア・北アフリカを支配した大帝国
これまでオスマン−トルコ帝国と記述されることが多かった。しかし近年の研究で,君主(スルタン)がトルコ人でイスラーム国家だが,多民族と多宗教を包摂し,高級官僚も民族・宗教の別なく登用したところから,単にオスマン帝国と記述されるようになった。
【前期】始祖伝説によるとオスマン家は,セルジューク朝と同じトルコ系オグズ族出身で一部族の長だったといわれる。中央アジアからイランのホラサーン地方に移り,建国の祖オスマン1世の祖父のときアナトリアにはいったとされる。ルーム−セルジューク朝が13世紀半ばにモンゴル人の侵入で滅んだのち,混乱期のアナトリアで多くの侯国が誕生し,1299年ごろオスマン1世によって建てられた国(首都ブルサ)が,のちのオスマン帝国のもとになった。14世紀半ばころからバルカンへの進出を開始してエディルネ(アドリアノープル)に遷都し,1389年コソヴォの戦いに圧勝してバルカンを支配下におさめた。この戦いのあと君主になった第4代バヤジット1世のときから,君主の称号もベイからスルタンに変わった。バヤジット1世は,1396年ニコポリスの戦いで東欧連合軍に勝利して国勢を拡張したが,1402年に西進するティムール軍にアンカラの戦いで大敗し,国家も滅亡の危機にひんした。約10年にわたる空位時代ののち再興され,メフメト2世の1453年,コンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼし,イスタンブルと改称して遷都(以後1922年の帝国滅亡まで首都)。その後クリム(クリミア)−ハン国をも朝貢国とし,正真正銘の帝国期にはいった。徴税制度と軍事制度に関しては,トルコ系の辺境騎士に起源をもつ騎兵シパーヒーが中心で,彼らに対して軍事奉仕の見返りとして徴税権を与えるティマール制(イクター制と同源)も15世紀半ばころに確立された。またスルタンの常備軍は,14世紀後半のバルカン進出とともに実施されたデウシルメ制(キリスト教徒子弟の強制徴用)のなかで,鉄砲を持つ歩兵イェニチェリ軍団として形成された。
【中期】16世紀初めのセリム1世時代,サファヴィー朝に勝利してアナトリア東部を獲得し,さらに1517年マムルーク朝を滅ぼしてシリア・エジプトを領有,メッカ・メディナを保護下に置いた(従来,これをもってスルタン−カリフ制の成立とされていたが,現在この説は否定されている)。続くスレイマン1世時代,モハーチの戦いの勝利(1526)によるハンガリー領有,第1次ウィーン包囲(1529),プレヴェザの海戦の勝利(1538)による地中海の制海権の確立などで帝国は全盛期を現出し,フランスにカピチュレーションを与えた(1536)。彼の死後,レパントの海戦に敗北(1571)するも,地中海における帝国の優位は変わらなかった。その後も第2次ウィーン包囲の失敗(1683),カルロヴィッツ条約(1699)によるハンガリーの喪失まで,帝国の安定期は続いた。帝国内では,16世紀末〜17世紀にかけて火器を使用しないシパーヒーの重要性が薄れ,常備軍中心に移るとともにティマール制も形骸化して,徴税請負制へと変化していった。またこの時期,整備された中央官僚制度はヨーロッパ諸国のモデルとされ,民族や宗教に寛容な政策もあって,国土回復運動にともなうイベリア半島のユダヤ教徒(セファルディム)の最も安全な亡命先となった。18世紀の帝国は,否応なくライバルであるヨーロッパの情報を知り学ぶことが要求される時代となり,同世紀前半のこの動きはチューリップ時代と呼ばれた。18世紀前半,帝国は領土的な大きな喪失はなく,最後の安定期だった。
【後期】オスマン帝国衰退の代名詞とされる“東方問題”の第一幕は,1774年のキュチュク−カイナルジャ条約とこれにともなうクリム−ハン国の喪失で始まった。それまでの領土喪失と異なり,朝貢するイスラーム国家の喪失であり,これ以後帝国のスルタンを,イスラーム世界におけるスルタン−カリフと意識させるような動きが生まれてくることとなった。また技術・制度面での西欧化改革の試み(新政)が18世紀末から開始され,セリム3世によって洋式軍隊(新式軍)が創設された。いっぽう,19世紀にはいると,1821年からのギリシア独立戦争によって東方問題が本格化した。1826年,マフムト2世によって,近代化の障害となっていたイェニチェリが全廃された。そして第1次エジプト−トルコ戦争の敗北によって,1839年にギュルハネ勅令が発布されタンジマートと呼ばれる西欧化改革が開始されたが,ウラマーらの妨害もあって不徹底に終わった。1876年,この改革を打ち切り,ミドハト憲法が発布されるが,翌77年の露土戦争勃発を口実に,アブデュル=ハミト2世によって施行を停止された。また1878年のベルリン条約でヨーロッパ領の大部分を失い,帝国は“ひん死の重病人”と呼ばれるまでに衰退した。1908年エンヴェル=パシャらを中心とする青年トルコ革命が起こり,停止されていた憲法が復活した。青年トルコ政権は,1912年の第1次バルカン戦争に敗北してマケドニアを失うと,外交面でドイツヘの接近をはかった。第一次世界大戦には同盟国側で参戦するが降伏し,1920年8月セーヴル条約を結び西アジアの領土を失った。講和条約交渉中の1919年,ギリシア軍のイズミル(スミルナ)侵入が始まるが,亡国の危機に対処できないイスタンブル政権に対して,ムスタファ=ケマルがトルコ国民党を結成して決起し,20年アンカラ政権を樹立,22年ギリシア軍を撃退した。同年スルタン制が廃止され,600年以上にわたるオスマン帝国はここに滅亡した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オスマン帝国」の意味・わかりやすい解説

オスマン帝国
オスマンていこく
Osmanlı İmparatorluğu; Ottoman Empire

トルコ族の一首長オスマン1世を始祖とするオスマン朝から発展して成立したイスラム帝国 (1299~1922) 。オットマン帝国ともいわれる。 13世紀末小アジア北西部にオスマン一族を中心とする新国家が形成され,隣接するビザンチン帝国領土を征服して勢力を拡大した。オルハン1世のときダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパ側に進出し (1357) ,ムラト1世はエディルネ (アドリアノープル) を首都にしてバルカン諸国の連合軍をコソボの戦い (89) で破った。バヤジッド1世はドナウ河岸のニコポリスにヨーロッパ連合軍を撃破し (96) ,公式に「スルタン」を号したが,小アジアに西進したチムールの軍にアンカラの戦いで大敗した (1402) 。バヤジッドの子メフメット1世はオスマン国家を再建し,その子ムラト2世のときその版図はドナウ川に達した。 1453年メフメット2世はコンスタンチノープルを陥落させ,ビザンチン帝国は滅亡した。コンスタンチノープルはオスマン帝国の首都となり,イスタンブールと改称された。これ以後東方イスラム世界に対する征服が進められ,セリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてその首都カイロに入城した (1517) 。カイロにあったアッバース朝カリフの末裔はセリムに「カリフ」の称号を譲り,ここにスルタン・カリフ制度が成立した。スレイマン1世の治世 (20~66) にオスマン帝国は最盛期に達し,アジア,アフリカ,ヨーロッパにまたがる大帝国が完成された。スレイマン1世をもってオスマン帝国の征服活動はほぼ完了し,大宰相をはじめとする国家官僚による統治機構が確立されたが,帝国内部の諸矛盾は克服されず,衰退の兆しが次第に明らかとなった。 1683年大宰相カラ・ムスタファ・パシャの指揮するウィーン包囲が失敗した頃からヨーロッパにおいて守勢に立ち,露土戦争後に締結されたクチュク・カイナルジ条約 (1774) によって帝国の後退は決定的となった。 1789年に即位したセリム3世は帝国の改革に着手し,これ以後開明的なスルタンが相次いで近代化に努めたがみるべき成果をあげえず,この間にギリシア,北アフリカ,エジプト,バルカン諸邦が西欧の影響下に帝国から離脱した。帝国末期アブドゥル・ハミト2世の専制政治に対し,1908年政治結社「青年トルコ」 (→青年トルコ革命 ) が決起して政権を掌握したが,第1次世界大戦でドイツ側について惨敗した。戦後の混乱を収拾したケマル・アタチュルクは 23年トルコ共和国を宣言し,オスマン帝国は第 36代メフメット6世をもって消滅した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オスマン帝国」の解説

オスマン帝国(オスマンていこく)
Osmanl&idotless; &Iodot;mparatorluğu

1299~1922

アナトリアとバルカンを根拠に,中東,東欧,北アフリカの地域に支配権を行使した大帝国。建国者はオスマン1世で,アナトリアの西北部から台頭した。1326年ブルサを占領して都とし,ビザンツ勢力をアナトリアから駆逐した。1353年頃バルカンに進出し,14世紀末にはほぼ征服を完了。エディルネに遷都した。バヤジット1世のとき,アンカラの戦いティムール軍に敗れ,一時後退するが,すぐに復興を果たした。1453年,メフメト2世ビザンツ帝国を滅ぼしてコンスタンティノープル(イスタンブル)を首都とした。1517年,マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを手に入れ,メッカメディナの保護者となり,名実ともにスンナ派イスラーム世界の盟主となった。16世紀中葉スレイマン1世の治下で最盛期を迎え,その版図は,北はロシア南辺,南はサハラ砂漠,西はハンガリー,東はイラクに及び,さらに,黒海,エーゲ海と地中海の制海権も握った。だが,17世紀には拡大がやみ,西欧との力関係の逆転,体制の老朽化により衰退に向かう。18世紀に入るとロシアの南下に苦しみ,領土は縮小し続けた。18世紀後半以後セリム3世マフムト2世は西欧の技術を導入するなど一連の改革を試みるものの成果はすぐに得られず,被支配民族の反乱もあいついだ。タンジマート期(1839~76年)には近代化のための諸改革が行われ,一時立憲制も実現するが,すぐに専制体制に戻り,財政の破綻から列強の経済的植民地と化す。1908年青年トルコ人革命によって立憲制が復活するが,親独政策の結果第一次世界大戦に敗れ滅んだ。

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世界大百科事典 第2版 「オスマン帝国」の意味・わかりやすい解説

オスマンていこく【オスマン帝国 Osman】

中央アジアから移住したトルコ族によって建国され,西アジア(イランを除く),北アフリカ,バルカン,黒海北岸,およびカフカス南部を支配したイスラム国家。1299‐1922年(図)。正称アーリ・オスマンĀl‐ı Osman(〈オスマンの家〉の意),英語ではオットマンOttoman帝国。公用語はオスマン・トルコ語。アッバース朝やビザンティン帝国の系統を引いて整備された官僚機構による中央集権体制,被支配諸民族の宗教的・社会的自治を認める柔軟な地方統治,門閥を許さぬ能力主義などが帝国の永続を可能にした。

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世界大百科事典内のオスマン帝国の言及

【宮廷】より

…イスラム世界における宮廷制度は,アッバース朝期にカリフがしだいに神権的専制君主化していく過程の中で発展を遂げていったといわれる。その後,イスラム諸王朝にも引き継がれ,オスマン帝国において,最も完成した形をとった。宮廷は文化的にも重要な意味を有し,一方では宮廷儀礼が発達し作法の発展の場となるとともに,他方では文人・学者に活動の場を提供し,また建築家や工芸家の活動を支える一つの核ともなり,学問と芸術の発展に資するところが大であった。…

【ギリシア】より

…ローマ帝政期には中流市民の没落に伴って,ローマの保護のもとで有産市民が市参事官となって地方自治の実権を握り,帝政後期以降には小作制による大土地所有制が発達していったものと推定される。ヘレニズム【太田 秀通】
【ビザンティン帝国,オスマン帝国時代】

[ビザンティン帝国下のギリシア]
 前2世紀以降,すでにギリシアの地はローマ帝国に編入され,属州アカイア,マケドニアが設けられていたが,330年にコンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルが帝国の東の首都と定められ,さらに395年にローマ帝国が東西に分裂すると,コンスタンティノープルを首都としギリシア,バルカンを中心とする東のローマ帝国は,西のローマ帝国とは別の歩みを始めることとなった。東の帝国は一般にビザンティン帝国とよばれるが,その歴史は,ローマ帝国理念,ギリシア文化,キリスト教の三つの要素を独自の形で結合させて発展していった。…

【シリア】より

… 13世紀の中ごろにアイユーブ朝に代わってマムルーク朝が成立したが,マムルーク朝(1250‐1517)時代のシリアは,モンゴルの侵入,疫病の流行,マムルーク朝諸侯間の抗争,15世紀初頭のティムールの侵入,地中海貿易での地位の低下,そして経済力の全体的衰退などにより,徐々にその重要性を失っていき,停滞の時期に入っていった。【湯川 武】
【オスマン帝国時代】
 オスマン帝国(1299‐1922)は,マムルーク朝から1516年にシリアを奪い,17年には同朝を倒してエジプト,ヒジャーズの支配権を得たが,イスタンブールの中央政府にとって,シリアの重要性には時代的・地域的変化がみられる。 初期にはイランのサファビー朝との対応で,北部のアレッポが軍事的にも通商上も重要な拠点であった。…

【セーブル条約】より

…第1次世界大戦後の講和条約の一つで,1920年8月10日,パリ西郊のセーブルSèvresにおいてオスマン帝国のスルタン政府が受諾した条約。オスマン帝国の分割プランは戦時中から戦後にかけてさまざまの機会に取り上げられたが,20年4月の英仏サン・レモ会談で最終案が固まり,これが講和条件の基礎となった。…

【トルコ族】より

…他方,カラ・ハーン朝によって促進された西トルキスタンのトルコ化は,16世紀におけるウズベク族のこの地への新たな進出によって完成を見る。【間野 英二】
[セルジューク朝とオスマン帝国]
 トルコ族と西アジア・イスラムとの関係は,8世紀の初めにアラブ軍が中央アジアに進出し,多くのトルコ族が戦争捕虜として,また購入奴隷として西アジア・イスラム世界にもたらされたことを発端とする。そして,10世紀の中ごろにシル・ダリヤ北方の草原地帯で遊牧生活を送り,素朴なシャマニズムを信仰していた〈オグズ〉と総称されるトルコ系部族に属する人びとの一部が,やがて南下して,マー・ワラー・アンナフルに入り,イスラムを受容した。…

※「オスマン帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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