翻訳|ballet
演劇的な舞踊,舞踊劇ともいわれるようなものを指し,劇場的な舞台舞踊である。演劇がせりふによって進行するのに対し,せりふの代りに舞踊およびミーム(マイム)によって進行する劇をいう。一貫した筋があり,2人以上の登場人物をもち,その登場人物が何かの役にふんし,したがってその役の要求する衣装を着し,舞台装置をもった劇で,せりふをいっさい排して舞踊だけによって構成されるものである。ふつう,ダンスといわれるものとの相違は,ダンスがひじょうな広範囲なものを意味し,観客を予想しない民俗舞踊や原始舞踊などをもいっさい含めているのに対して,バレエは初めから観客を意図し,劇場のためのものである点にある。そうしてダンスはバレエという総合芸術の一つの主要な構成分子にもなっているわけで,ダンスそのものがバレエではない。バレエはオペラ,オペレッタ,レビュー,ミュージカルというような舞台芸術の一つのジャンルである。
前記の定義はバレエの先進国であるフランスやロシアで適用しているものであるが,他の諸国ではフランス,ロシアで〈クラシック・ダンス〉といわれて区別しているものを,〈バレエ〉といっていた。これはクラシック・ダンスそのものをバレエと思っていることから起こった誤りである。クラシック・ダンスとは訳せば〈古典舞踊〉ということになるが,それは足の五つの基本的ポジションをもった踊りをいう。その五つの基本的ポジションは,両足の爪先がつねに外を向いていることに特徴がある。これによりクラシック・ダンスは広範囲な動きと,足から爪先に至る長いまっすぐな線を獲得した。クラシック・ダンスの動きは,すべてこの五つのポジションの上に構築されているが,女性舞踊家が足の爪先で立って踊るという特徴もある。そのためイギリスやアメリカではクラシック・ダンスのことをトー・ダンスといった時代もある。さて,こういうクラシック・ダンスのことをバレエと誤用した理由は,従来,バレエにおけるダンスは,クラシック・ダンスに限られていたからである。それゆえクラシック・ダンスをそのままバレエといっても,さして不都合でなかったわけである。しかし20世紀前半から,とくに第2次世界大戦後は,バレエで踊られるダンスがクラシック・ダンスに限らず,クラシック・ダンスに対立するモダン・ダンスをも含むようになったので,バレエを必ずクラシック・ダンスによって踊られるものと考えることは不可能になった。要するに現在ではバレエに使われるダンスはどんなものであってもかまわないので,劇場的なもの,演劇的なダンスであるなら,すべてがバレエである。
ダンスの歴史は人類の発生とともに古いが,バレエはルネサンスのころ始まったと考えられている。14~15世紀によくみられた無言劇や仮面劇,幕間狂言(インテルメッツォ)などからイタリアで発生したものであるということは通説となっている。当時の無言劇は,仮装で仮面をつけた数人によって演じられ,観衆を交えずに彼らだけで踊られた。踊り手たちは集会の中途に突然現れたり,あるいはたいまつや楽隊を先頭にして,徒歩または車に乗って厳かに入場したりした。仮面劇では,にぎやかに飾られた車に分乗して,衣装をつけた役者たちが行列した。そして敬意を表する必要のある人の前にくると,どの車もいちいち止まって,おもな役者が賛辞を朗誦した。幕間狂言は踊りや歌や,大道具のしかけによる小さな場面から成り立ち,芝居や宴会の途中で演ぜられた。無言劇や仮面劇における舞踊の中にはバリballiあるいはバレッティballettiといわれるものがあり,それは今日でいうところの社交ダンスであった。そのballettiがフランスに入ってballetとなった。ballettiはballettoの複数形でballettoはballoの縮小辞である。balloというのはダンスにあたるイタリア語で,語源的には少しもドラマティックな意味をもっていない。それがドラマティックな意味をもつようになったのはフランスに入ってからである。
バレエの原型とみなされている最も優れた実例は,1489年,トルトナのボッタBergonzio Botta(1454-1504)によって,元のミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと,アラゴンのイサベル姫との結婚式のときに行われた幕間狂言である。これは宴会の余興であったが,料理の皿が運ばれるごとに,それに応じた踊りや歌が伴った。このよく考案され,優雅な暗示に富んだ宴会狂言は,全ヨーロッパを通じて有名になり,各宮廷でも同じようなものを演ずるようになった。
この流行はフィレンツェのメディチ家娘カテリーナ(フランスではカトリーヌ・ド・メディシス)という熱心な保護者を得て,フランスの宮廷に移し植えられた。カトリーヌはアンリ2世に嫁ぎ,のちに王となる3人の息子を生んだが,フランスの勢力と富を外国に誇示するために,この宴会の余興に力を注いだ。そのためボージョアイユーBalthazar de Beaujoyeux(?-1587)というバイオリニストを宴会の構成者として重用した。彼の演出した余興のうち最も有名なものが1581年にルーブル宮のブルボンの間で上演された《王后のバレエ・コミークBallet comique de la reine》である。ここではっきり〈バレエ〉という文字が現れ,バレエ史上のトップを飾るほどの重要な位置を占めている。このバレエについては,翌年発行された同名の書に詳細に記録されているが,その序文でボージョアイユーは,バレエを定義して,〈多くの楽器に調和しておおぜいの人が踊る幾何学的混合〉と述べている。このバレエで重要なことは,ボージョアイユーが,踊り,音楽,歌謡,朗誦などを一つに調和して,一貫した筋をもった演劇的バレエを作った最初の人であるということである。また,この時代には演技者のすべてが宮廷人であり職業的な芸人ではなかった。
その後ルイ14世の時代になってバレエはますます発展を遂げた。ルイ14世は自分でも踊ったほどの熱心な踊りの愛好者であったが,職業的な舞踊家の養成を考え,1661年王立舞踊アカデミーAcadémie royale de danseを設立した。これは,J.B.リュリの王立音楽アカデミー(オペラ座)に吸収され付属舞踊学校となるが,専任舞踊教師にはルイ14世の舞踊教師であり,リュリと協力して宮廷バレエを創作したボーシャンPierre Beauchamp(1636-1705)が任命された。今日,クラシック・ダンスといわれるものはアカデミック・ダンスともいわれているが,それはこのアカデミーで教えたダンスのことで,ボーシャンが考案した〈脚の五つの基本的ポジション〉を基礎としている。
ボーシャンの職業的訓練によって,ルイ14世の意図が結実し,アカデミーから優れた舞踊家が輩出するに及んで,バレエは宮廷から劇場へ,すなわち一般大衆のためへと流れ出るようになった。この時代に特筆すべきものは,1681年リュリとボーシャンが《愛の勝利Le triomphe de l'amour》というバレエをサン・ジェルマン・アン・レー宮で初演ののち,オペラ座で上演したことである。なぜかというと,このバレエで初めて女流舞踊家が劇場に現れたからである。宮廷におけるバレエでは女性が現れることはあったが,劇場におけるバレエでは,女性役は仮面をつけた少年によって演じられていたのである。こうしてバレエは,リュリの手により一歩前進したが,それでもなお踊りと歌と音楽と黙劇との混合物であることはやめず,振付においてはメヌエットやガボットなど舞踏室で踊られる踊りが多く,水平の動きのみで垂直の動きというものはなかった。これは重く長い衣装の制約を受けていたためで,衣装の長さを縮め,踵のない靴を採用したカマルゴの出現によって,女性舞踊家は初めて跳躍し,敏速な足の動きを見せるのである。
カマルゴに続いて18世紀の後半,ノベールが現れバレエの根本を改革した。彼によって初めてバレエは,今日の原型をもつにいたった。すなわち,歌やせりふはすべて排され,首尾一貫したドラマとなり,筋や劇的行為はまったくダンスとミーム(マイム)によって表現された。ミームとは黙劇的演技といわれるが,せりふを言う代りに身ぶり,しぐさで表現するものである。バレエには筋があるから説明の部分が必要なわけであるが,それは踊りでは表現されず,ミームで表現される。彼によってオペラとバレエは完全に分離され,今日のバレエの基礎が築かれた。ノベールは自分のバレエをバレエ・ダクシヨンと呼んだが,それが今日のバレエであり,現在では単にバレエといわれている。またこの時代には優れた舞踊家が輩出し,さらに衣装の改革が進み,仮面は廃止された。今日のタイツと呼ばれるものも,19世紀の初めに発明され,舞踊技術の進歩を促した。
次いでイタリアにS.ビガーノが現れ,ノベールの道をさらに発展させた。彼はコール・ド・バレエ(群舞の踊り手)の動きを改革し,その地位を高めると同時に,バレエの主題に関してはとくに意を注いで,ドラマとしてもりっぱな作品を考案した。続いてC.ブラシスが現れ,舞踊の教育法について大きな業績を残した。彼は舞踊の理論,技法の書を数多く書いているが,ミラノのスカラ座の付属舞踊学校の校長として,今日なお,世界各国のアカデミーの模範となる,合理的な教育方法を制定した。ブラシスと同時代,すなわち19世紀初頭を飾る最も大きな名前はM.タリオーニである。彼女の踊った《ラ・シルフィード》(1832)は,いわゆるロマンティック・バレエの成功を決定的にしたものであるが,同時にこのバレエで初めて用いられた特殊なスカートは,今日バレエの制服と考えられているチュチュである。それは純白のオーガンディーとチュールを幾枚も重ねた,釣鐘形のふわふわした軽い霞のようなスカートである。それからもう一つ重要なことは,このバレエ以降舞姫の,ポアントで立つ踊りが顕著になったことである。ポアントは足指の先端のことであるが,これで立つためには特殊な靴がなければならない。彼女の靴は今日のものとは違い,先端に堅いものが入っていないから,おそらく瞬間的に立ったものと思われる。
ロマンティック・バレエというのは,主題に幻想的な妖精物語が選ばれ,主役の舞姫は必ず何かの精,たとえば空気の精,水の精などにふんしている。しかし,主題に外国が選ばれ,異国情緒をねらったものもある。タリオーニと覇を競った舞姫はF.エルスラーで,前者が清純なおとめの役柄を得意としたのに反して,彼女は自由奔放な肉感的な踊りによって人気があった。さらに,最古のバレエの一つとして今日まで伝承される《ジゼル》(1841)を踊ったC.グリジがおり,これら三大舞姫がせり合って,19世紀前半はバレエの輝かしい全盛時代であった。それには詩人のゴーティエがあずかって力あったことも忘れてはならない。
19世紀も半ばを過ぎると,さしも全盛を誇ったパリのバレエも衰えて,その中心地はロシアのペテルブルグに移った。ロシアにおけるバレエは,17世紀の初めピョートル大帝が,ルイ14世を見習って舞踊を民衆の娯楽として採用したことに始まるが,エカチェリナ2世の時代(1762-96)になって,フランスから多くの優秀な振付師,教師が招かれて急速に発展した。1847年にはフランスからM.ペチパが招かれ,ペテルブルグのボリショイ劇場,のちのマリインスキー劇場の振付師として画期的な名作を数多く上演し,この劇場を世界のバレエの中心とした。19世紀末になるとそれも終りを告げるが,死の灰の中から不死鳥が生まれるように,ディアギレフがマリインスキー劇場の若い舞踊家たちを集めて〈バレエ・リュッス〉を組織し,1909年パリで旗揚げをして大成功をおさめた。以来覇権はディアギレフのバレエ・リュッスに移り,このバレエ団が世界のバレエの最先端をゆくこととなった。29年ディアギレフの病死により,同団は解散するが,32年〈バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ〉として復活し,62年まで存続した。
ロシア本国においては,革命後,ソ連邦となってからもバレエは盛んに踊られ,舞踊家の養成に力が注がれ,世界に並ぶものがない優れた舞踊家を多く輩出している。最近の傾向としては,モスクワのボリショイ劇場では,古典の作品の現代的解釈に力を注ぎ,レニングラード・キーロフ劇場(現,サンクト・ペテルブルグ・マリインスキー劇場。〈レニングラード・バレエ団〉の項参照)では,古典の忠実な保存,および優秀な外国の作品の紹介に意を用いている。
イギリスは長らくバレエの輸入国にとどまっていたが,1930年〈カマルゴ協会〉が生まれ,イギリスのバレエを創造する運動が起こった。この協会は二つのバレエ団〈ビック・ウェルズ・バレエ団〉と〈ランバート・バレエ団〉(ともに1931創立)によって,古典の再演と同時にイギリス人の手になる作品を上演し,ついにイギリス・バレエという名に価するものを樹立した。以来,順調な発展を示し,ことに〈ビック・ウェルズ・バレエ団〉は〈ローヤル・バレエ団〉に発展したばかりでなく,〈サドラーズ・ウェルズ・ローヤル・バレエ団〉という別組織のバレエ団をもつほどに成長した。
アメリカもまた,これといったバレエ団のない国であったが,1933年〈バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ〉のアメリカ訪問以来,急激にバレエが盛んになった。ことにバランチンを主とするアメリカン・バレエ学校の設立(1934)によって,多くのアメリカ人の舞踊家を輩出するようになり,それは今日の〈ニューヨーク・シティ・バレエ団〉の母体となった。このバレエ団は,バランチンのストーリーのない〈抽象バレエ〉を多く上演しており,これは新しい時代の新しいバレエとして注目され,その影響は全世界に及んでいる。また39年〈バレエ・シアター(のちのアメリカン・バレエ・シアター)〉も結成され,前者に対抗するバレエ団として活躍している。このバレエ団は前者に比べると,より広範な演目をもち,20世紀前半に活躍したいくつかの〈バレエ・リュッス〉の傾向を踏襲するものといえる。また,この二つのバレエ団のあるニューヨークだけでなく,あらゆる州都,大都市がバレエ団をもち,バレエを専攻して学位の取れる大学が激増するなど,アメリカにおけるバレエの発展には目をみはるものがある。
フランスは〈パリ・オペラ座バレエ団〉が中心となって盛んに新作を発表しているが,マルセイユ(R.プティ)その他の地方都市にも国立バレエ団があって独自の活動をしている。ベルギーでは首都ブリュッセルの王立劇場にM.ベジャールの率いる〈20世紀バレエ団〉が定着し,現在世界で最も先鋭な近代的感覚をもつバレエ団として気を吐いている。イタリアではミラノの〈スカラ座バレエ団〉が往年の盛名を取り戻し,ドイツではすべての大都市にバレエ団があり,ことにJ.クランコの育てた〈シュトゥットガルト・バレエ団〉は優れた作品を多く世に送っている。デンマークでは,ロマンティック・バレエ時代の演目を多く保存している〈デンマーク王立バレエ団〉に国際的な評価が高まり,独自のブルノンビルによる新システムによって教育された踊り手が注目を集めるようになった。他の西欧諸国にもおおむね多くのバレエ団がある。東欧諸国はすべて国立のバレエ団をもつが,教育法,演目については,ソ連の影響が非常に強い。東洋においても香港,フィリピンが公立のバレエ団をもつなど,20世紀後半はまさにバレエの黄金時代である。
その20世紀後半の世界のバレエの特徴をあげると,まず第1は,男性舞踊手の活躍である。従来舞姫の陰に隠れていた男性舞踊手が注目を集めるにいたったのは,男性のための華やかな跳躍技,回転技が,次々と開発されたこと,またこれには,R.ヌレーエフ,M.バリシニコフらソ連からの亡命舞踊家の圧倒的な力量によるところが大きいといえよう。今や舞姫の時代は過ぎ,男性舞踊手の時代となった感さえある。さらに1964年ブルガリアのバルナで初めて開催されたバレエの国際コンクールは,モスクワ,ニューヨーク,パリ,ヘルシンキ,東京などでも開催されるようになり,バレエ技術の,とくに男性舞踊手の技術発展に拍車をかけた。コンクールというものの性質上,目を奪う大きな離れ技が利点となるからである。またモダン・ダンスの演目がバレエのプログラムに入るようになったのも最近の傾向である。モダン・ダンスの作家がバレエ団のために作品を作ることは,従来もままあったが,モダン・ダンス舞踊団の演目をそのままバレエ舞踊家が踊るということは,かつてなかった。バレエの範囲は徐々に広がってゆくのである。
バレエは初めに説かれたように,劇場で上演される舞踊劇であるが,その内容によっていろいろに種類分けすることができる。たとえば歴史的バレエ,民族的バレエといった分け方であるが,そういう種類分けはさして重要でない。しかし,バレエそれ自身の構成方法からくるクラシック・バレエとモダン・バレエとの区別は重要である。クラシック・バレエとは,そのバレエの構成法がクラシックな方法により,そしてそこに用いられるダンスは同じくクラシックなものによるものをいう。クラシックな構成法とは,たとえば主役は必ず舞姫で,男性舞踊手はささえ役として存在するとか,コール・ド・バレエはつねに背景的役割を務めるとかいうふうに構成されたものである。そして必ずミーム(マイム)の場面があり,踊り手でないミーム役者が登場してきたりする。またグラン・パ・ド・ドゥという形式をもっている。
モダン・バレエにあっては,そういう構成法からまったく解放されている。というよりは,モダン・バレエはクラシック・バレエに反対して生まれたものである。男性舞踊手の位置は舞姫と対等になり,あるものではそれ以上になっていることもある。コール・ド・バレエもアンサンブルとして主役的役割を果たしている。またミームはなくなり,グラン・パ・ド・ドゥの形式も失われている。それからそこで用いられるダンスは,クラシック・ダンスによることもあるが,モダン・ダンスによることもある。クラシック・ダンスの場合も,ネオ・クラシック・ダンスといわれる新しい手法を加味した技法のダンスが用いられることが多い。またモダン・バレエでは,筋や内容をもたないバレエもあり,それらはとくに〈抽象バレエabstract ballet〉あるいは〈絶対バレエabsolute ballet〉と呼ばれている。これらはとくにアメリカで盛んであるが,それはバレエというより,ダンスの連続,ダンス組曲といったほうがふさわしい。
日本におけるバレエは,1911年(明治44)帝国劇場の創設に始まるといえよう。帝劇では何か新しいものを上演したいと考え,歌劇部を創設した。そしてロンドンからローシーという演出者兼舞踊振付師を迎えた。ローシーは12年来日,直ちに若い歌劇部員の養成に当たった。それが日本における最初のクラシック・ダンスの訓育であった。その門下から高田雅夫,原(のち高田)せい子らを生んだ。しかしローシーの来日はおそらく早きに過ぎ,また日本に彼から吸収するに足る実力がなかったものと思われる。彼は失意のうちに18年渡米した。外来舞踊家としては,16年ペトログラードから帝室マリインスキー劇場専属のポリス・ロマノフ,エレナ・スミルノワ夫妻が来日して,帝劇で3日間踊った。このとき《瀕死(ひんし)の白鳥》などが踊られたが,これもその来日が早過ぎて,なんらの影響も与えるにいたらなかった。影響が大きく現れたのは,22年来日したアンナ・パブロワで,このとき初めて日本人はバレエというものに対して目を開かされた。それより前,高木徳子が1906年に渡米し,14年帰国,帝劇の本興行に参加して,ローシー振付演出の《夢幻的バレエ》に出演,初めて〈トー・ダンス〉なるものをみせた。しかしやはり強い影響を与えなかったようである。パブロワ来日以来バレエに強い関心がもたれるようになって,21年ロシア革命を逃れて日本に来ていたエリアナ・パブロワが脚光を浴びるようになった。彼女は必ずしも優秀な訓練を経た舞踊家とはいえなかったが,にわかにクラシック・ダンスの教師として仰がれるにいたった。橘秋子,東勇作,服部智恵子,貝谷八百子,島田広などがエリアナの門から出た。しかし真に正統的なクラシック・ダンスを教えたのは,36年日本の外交官と結婚したためにレニングラードから来日したオリガ・パブロワである。彼女も優秀な舞踊家とは断じがたいが,レニングラードで正規な訓練を受けていた。オリガはサファイアと名のり,日本劇場でそのダンシング・チームに正規のクラシック・ダンスを教えた。松尾明美,松山樹子が育ち,東勇作も彼女から多くを学んだ。
バレエが盛んになったのは,第2次世界大戦後で,46年に上海から帰った小牧正英を迎えて東勇作,貝谷八百子,服部智恵子・島田広の各バレエ団の合同になる東京バレエ団が《白鳥の湖》4幕を上演してからである。この東京バレエ団は《ジゼル》《シエラザード》《コッペリア》《レ・シルフィード》などを上演して50年まで7回の公演を続けたが,各バレエ団の活動も活発になり,古典・近代のバレエ,創作バレエの出現を促した。一方,53年に来日した〈スラベンスカ=フランクリン・バレエ団〉の《欲望という名の電車》,54年に小牧バレエ団がA.チューダーとノラ・ケイを招いてみせた《ライラック・ガーデン》などは,多大な刺激を日本のバレエ界に与えた。大型のものとしては57年のボリショイ・バレエ団の初来日に始まり,58年にニューヨーク・シティ・バレエ団,60年にはレニングラード・バレエ団,61年ローヤル・バレエ団と続いて世界最高のものに接するようになった。
そして,1960年ソ連からスラミフィ・メッセレル,アレクセイ・ワルラーモフが設立されたばかりの東京バレエ学校の教師として来日するに及んで,日本のバレエ界の教育法,技術的水準は飛躍的な向上をみせた。現在では世界の檜舞台で踊る森下洋子,スコティッシュ・バレエ団のプリマ・バレリーナ大原永子,東ベルリン・バレエ団やミュンヘン・バレエ団で主役を務めた深川秀夫,カールスルーエ・バレエ団で首席舞踊手の地位にある佐藤勇次らが生まれている。またチャイコフスキー記念東京バレエ団(代表佐々木忠次)は,ベジャールほかの一流の振付師やダンサーを招く一方,定期的に海外にも招かれている。中国との交流を深めた松山バレエ団はヌレーエフとのイタリア公演でも成果をみせた。牧阿佐美バレエ団は橘秋子の没後,牧阿佐美(橘秋帆)を主宰者としウェストモーランドらを招いて古典の新改訂をみせ,活発な公演活動を展開。チューダー作品で出発したスター・ダンサーズ・バレエ団は,K.ヨースの《緑のテーブル》を上演し,創作を主にしたバレエ団の特徴をみせている。そのほか谷桃子バレエ団,貝谷バレエ団,法村・友井バレエ団,東京シティ・バレエ団などそれぞれの持味を生かしたレパートリーをみせている。
執筆者:蘆原 英了+薄井 憲二
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…強い不安・恐怖感を伴う精神病状態のときにも,しばしば出現する。(3)青空に湧きあがった入道雲の一部がどうしても人間の顔に見えてしまうなどのパレイドリア。実際にはそうでないという批判力がありながら対象とは異なって知覚され,情動や連想とは無関係に,いったんそう見えてしまうと意志に反して現れつづける変形した知覚である。…
…小人がたくさん出てくる小人島幻覚も出現し,うじ虫のような小動物がうごめきながら体にいっぱいたかってくるような幻覚では,幻触を伴うことがある。譫妄は一般に夜起きやすく(夜間譫妄),昼間は消失する傾向にあるが,昼間でも目をつぶった患者の両眼を軽く圧迫しながら暗示を与えると幻覚が起きるリープマン現象Liepmann’s symptom,しみなどの無意味な図形が人の顔などに相貌化して見えてしまうパレイドリアのような症状がみられる。症状が重くなると,アメンチアから昏睡に至る。…
※「バレエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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