ブラウン(Clifford Brown)(読み)ぶらうん(英語表記)Clifford Brown

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ブラウン(Clifford Brown)
ぶらうん
Clifford Brown
(1930―1956)

アメリカのジャズ・トランペット奏者。デラウェア州ウィルミントン生まれ。トランペット、ピアノなど多くの楽器奏法に通じる父親から13歳のときトランペットを贈られる。地元のハワード高校でジャズの普及に尽くす音楽教師からトランペット、ピアノなどの楽器奏法、和声法、作曲・編曲法を学び、短期間で才能を発揮する。このころから彼は「ブラウニー」の愛称で親しまれる。

 1948年、デラウェア州立大学に奨学生として進学するが音楽学部がなく数学を専攻近距離にある大都市フィラデルフィアの、クラブでのセッションに参加。トランペット奏者のファッツ・ナバロFats Navarro(1923―1950)、マイルス・デービス、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972)、ドラム奏者のマックスローチといった、当時の最新鋭ジャズ・スタイル「ビ・バップ」の若手ミュージシャンたちと共演の機会を得るとともに、尊敬するナバロから激励され彼のスタイルに傾倒する。

 1949年トランペット奏者でビ・バップ立役者ディジー・ガレスピーがフィラデルフィア公演を行った際、ブラウンは臨時メンバーに採用された。そのただならぬ才能にガレスピーは驚き、プロ・ミュージシャンへの道を勧める。同年ブラウンはメリーランド州立大学の音楽学部に奨学生として入学、学生バンドに加わって演奏する。1950年交通事故に遭い1年間療養を余儀なくされる。1951年、回復とともに学業を離れプロ・ミュージシャンの道を歩み出す。同年短期間ながらビ・バップの中心人物、アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと共演し、パーカーをも驚嘆させる。1952年ドラム奏者、歌手のクリス・パウエルChris Powellのバンド「ブルー・フレーム」に加わり、初レコーディング(後に、1956年のブラウン最後の演奏とともに『ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド』(1952~1956)に収録される)を経験する。1953年ニューヨークを訪れ、ブルーノート・レコードプロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―1987)の勧めにより早速レコーディングを行い『メモリアル・アルバム』(1953)を制作、ブラウンの初リーダー作となる。同年、編曲者・ピアノ奏者タッド・ダメロンTadd Dameron(1917―1965)のバンドに参加。ついでビブラホーン奏者ライオネル・ハンプトンの楽団に加わり、ヨーロッパ・ツアーの折にハンプトンの目を盗んでレコーディングをし、アルバム『パリ・コレクション』(1953)を制作。1954年ドラム奏者アート・ブレーキーのセッションに参加し、ビ・バップを発展、洗練させた形態である「ハード・バップ」の誕生を告げる歴史的アルバム『バードランドの夜』を録音。同年ロサンゼルスでローチと双頭バンドを結成、この年のジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの国際批評家投票により、トランペット新人部門第1位に選ばれる。またエマーシー・レコードと専属契約を結び多くの傑作を録音する。1956年フィラデルフィアからシカゴに向かう途中、交通事故により25歳8か月の生涯を終える。

 代表作は『クリフォード・ブラウン・アンド・マックス・ローチ』(1954~1955)、『スタディ・イン・ブラウン』(1955)、『アット・ベイズン・ストリート』(1956)。彼はガレスピー、ナバロらビ・バップ・トランペッター主流派の系譜に連なり、その卓越した演奏技術と輝くような音色はジャズ・トランペッターの理想とまでの高い評価を受けている。彼の率いた双頭バンドは、同時期のマイルス・デービス・クインテットと並んで、ハード・バップ・コンボの定型を作り上げた。また、リー・モーガン、ドナルド・バードDonald Byrd(1932―2013)など多くのハード・バップ・トランペッターが彼の影響を受けている。

[後藤雅洋]

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