翻訳|Osman
中央アジアから移住したトルコ族によって建国され,西アジア(イランを除く),北アフリカ,バルカン,黒海北岸,およびカフカス南部を支配したイスラム国家。1299-1922年。正称アーリ・オスマンĀl-ı Osman(〈オスマンの家〉の意),英語ではオットマンOttoman帝国。公用語はオスマン・トルコ語。アッバース朝やビザンティン帝国の系統を引いて整備された官僚機構による中央集権体制,被支配諸民族の宗教的・社会的自治を認める柔軟な地方統治,門閥を許さぬ能力主義などが帝国の永続を可能にした。帝国史は,大きく,前期(建国から16世紀末。トルコ系ガージー(イスラム戦士)の連合国家からスルタンによる専制支配へ移行し,中央集権支配がゆきとどいた隆盛期)と,後期(17世紀から滅亡まで。在地勢力の伸長した17,18世紀と,西欧化改革と経済的植民地化とを特徴とする近代とに区分される)に分けられる。
1071年のマラーズギルドの戦(ビザンティン帝国とセルジューク朝トルコ)の勝利を契機としてアナトリアへ侵入したトルコ族のうち,オスマンと名のる人物を中心とした勢力がビザンティン国境近くのソユットSöğütに建国した(1299)。この勢力は,中央アジア,イランから移住したトルコ系遊牧民(トルクメン)を人的資源とし,ガージー,アヒー(宗教を媒介とした組織のリーダー),デルウィーシュ(神秘主義教団の修道者),および一部のビザンティン辺境領主(アクリタイ)の協力を得て,国境を拡大し,1326年にブルサを征服して首都とし,さらにニカエア(トルコ名イズニク,1331),ニコメディア(トルコ名イズミト,1337)を攻略して,54年にバルカンへ進出した。61年ころ,アドリアノープル(トルコ名エディルネ)を征服して,ここへ首都を移した。その後,コソボの戦(1389),ニコポリスNicopolisの戦(1396),バルナVarnaの戦(1444)などで,あいついでバルカン諸民族を破り,ブルガリア,北部ギリシア,セルビアを支配下におさめた。この間,アイドゥン侯国,カラマン侯国などアナトリアの諸侯国の併合を進めたが,1402年にティムールとのアンカラの戦に敗北し,王朝は一時断絶の危機にさらされたが,すぐにバルカンとアナトリアの領土を回復し,53年にコンスタンティノープルを攻略してビザンティン帝国を滅亡させ,ここをイスタンブールと改めて首都と定めた。15世紀末までにアナトリアとバルカンを統一すると,16世紀初頭にはエジプトのマムルーク朝を破って(1517),アラブ地域を併合し,二聖都メッカとメディナの保護権を掌握すると,オスマン帝国のスルタンは,同時にイスラム世界全体の長としてのカリフの資格を獲得した(スルタン・カリフ制)。西方では,モハーチの戦(1526)によってハンガリーを服属させ,ウィーンを包囲攻撃した(1529)。1522年にはロードス島のヨハネ騎士団をマルタへ追放して地中海の制海権を掌握した。このころ,チュニジア,アルジェリア方面を根拠地としていたアナトリア出身の海賊バルバロス・ハイレッディン・パシャが33年にオスマン艦隊の提督(カプダン・パシャkapdan paşa)に任命されると,北アフリカの併合(1574以降)が決定的となった。16世紀後半,キプロス島の征服(1571)など若干の領土拡張がみられたが,レパントの海戦(1571)に象徴されるように,ハプスブルク王家をはじめとするヨーロッパ諸国の反撃(オーストリア・トルコ戦争)の前に,帝国の領土拡張はようやく停滞した。
建国当初,ガージーもしくはベイbeyと呼ばれた支配者は,第3代ムラト1世(在位1362-89)以後スルタンを名のったが,パーディシャーpādişāh(守護王の意),ハーカーンhākān(大ハーンの意)のごとき,ペルシア的・トルコ的称号も使われた。王位継承の規律はなく,争いが絶えなかったため,メフメト2世(在位1444-46,1451-81)は,スルタンの即位後の〈兄弟殺し〉を法制化した。帝国の統治機構には当初,アナトリアのトルコ系有力者,ウラマー出身者が起用されたが,バルカン半島,とりわけ,コンスタンティノープル征服以後デウシルメ出身者の台頭が著しかった。これらの非トルコ系,奴隷身分の者たちの大部分はイエニチェリなど常備軍団員となったが,その一部は宮廷侍従の経歴をへて,サドラザム(大宰相)をはじめとする中央(のちには地方も)行政機構の枢要な地位を独占した。一方,イスラム国家であるオスマン帝国は,イスタンブールをはじめ各地にマドラサ(イスラム高等教育施設)を建設し,ハナフィー派法学を中心としたイスラムの諸学問を学んだウラマーたちに,帝国の司法と教育,および行政の一部を担当させた。法律制度は〈神の法〉であり唯一絶対性をもつシャリーアであり,その法解釈はムフティーにゆだねられたが,その最高権威者シェイヒュル・イスラム(シャイフ・アルイスラーム)は,トプカプ宮殿(宮廷)内の御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーンdivan-ı hümayun)の権限外にあって,スルタンやデウシルメ出身官僚層の政治的決定事項に対してシャリーアに照らした〈意見書(ファトワーfetva)〉を通じて,これを掣肘(せいちゆう)した。また,各地域の実情に応じた柔軟な統治を実現するために,シャリーアの枠内にとどまることを条件に,カーヌーン(世俗法)およびヤサyasa(禁令)が,スルタンの勅令あるいはシェイヒュル・イスラムの〈意見書〉の形態をとって発布された。地方行政区分は,エヤーレトeyâlet(州),サンジャクsancak(県),カザーkazā(郡)からなっており,前2者にはそれぞれ,ベイレルベイbeylerbeyi,サンジャクベイsancakbeyiと呼ばれる軍政官が派遣された。カザーの行政官はウラマー層に属するカーディー(裁判官)であったが,彼は御前会議に列席する大法官(カザスケルkazasker)に直属し,同時に,刑事・民事訴訟の双方を取り扱うシャリーア法廷を主宰した。このように,ムフティーやカーディーのごときウラマー層が統治機構の一端に組みこまれ,官僚化されたところに,帝国のイスラム国家体制の,イランやアラブ諸王朝とは異なる特徴がある。また,エヤーレトと中央政府との関係は全国一律ではなく,基本的には,ティマール制が適用されて中央政府の直接支配を受けた地域(アナトリア,バルカン,歴史的シリアの一部)と,エジプト,メソポタミア,アラビア半島,北アフリカのようにベイレルベイ,カプダン・パシャ(提督)あるいは土着の支配者(メッカのシャリーフ,東部アナトリアのトルコ系・クルド系遊牧民族長,ワラキア・モルドバの君侯など)を通じて,貢納金を支払うなどの間接的支配を受けるにとどまり,既存の社会組織をそのまま維持した地域とに分けられる。ティマール制のもとでは土地はすべて国有地(ミーリーmiri)とされ,軍事封土の保有者シパーヒーによる農民支配は,カーヌーンによって細かく規定されていた。また,非ムスリム諸民族の場合は,それぞれが属する宗教的共同体(ギリシア正教会,セルビア教会,ブルガリア教会,アルメニア教会,ユダヤ教会など)ごとの内部自治を認められた(ミッレト制)。
帝国の社会的身分秩序は,軍人,官僚,ウラマー層およびその家族,親族,奴隷からなるアスケリーaskerı(さらに武官ehl-i seyfiyyeと文官ehl-i kalemiyyeとに分けられる)と生産者大衆レアーヤーreaya(小商工民,農民,遊牧民を指し,ムスリムと非ムスリムの区別を含まない)とからなり,〈レアーヤーの子はレアーヤーである〉という身分秩序観念があった。そして,イスラムの諸学問を修め,ペルシア文学を愛好し,みずから〈オスマン紳士(オスマンルOsmanlı)〉を自認する支配エリートは,アラビア語,ペルシア語に粉飾されたオスマン・トルコ語を話し,民衆の素朴な口語を〈粗野なトルコ語kaba türkçe〉と呼んだ。彼らにとって〈トルコ人〉とは田舎者,無教養な者を意味した。ただし,デウシルメ,マドラサでの教育のほかにも,個人的能力,チャンスなどを通じてレアーヤーからアスケリーへと社会的に上昇する機会は多く,むしろ能力主義,機能主義にもとづく開放的な社会であった。
商業の面からみた場合,帝国はアナトリアとバルカンを貫通する陸上キャラバン・ルート,および黒海,エーゲ海,アドリア海,地中海,紅海,インド洋を結ぶ海上交易ルートを掌握する中継貿易国家であった。その中心地イスタンブールは,16世紀末には75万前後の人口を擁する巨大な交易地となった。帝室財政はそれによる交易利潤に大きく依存していたから,スルタンは,香料,各種織物,ブドウ酒などの国際商品取引を円滑にするために,外国人商人に通商特権(カピチュレーション)を与えるなど開放的商業政策をおこなった。その結果,イスタンブールを中心とした広大な商業圏が成立した(パクス・オトマニカ)。その反面,この都市の軍需品や食糧を確保するために,とくにアナトリアとバルカンの商工業(ギルドと市(いち))に対する官僚的統制を強化し,鉱山資源(銅,鉄,銀,クロム,ミョウバンなど)の開発や特殊な農作物(とくに米)生産を専売制の下におき,1550年以後帝国領内からの小麦の輸出を禁じた。
16世紀末以後,領土拡大の停止,中央政府の腐敗,人口増加,国際交易路の大西洋への転換,メキシコ・ペルー産銀の流入(1580年代以降)などを契機として帝国の経済・社会体制は動揺し,首都ではインフレ,食糧難,イエニチェリの暴動があいついで社会不安が増大した。地方では,シパーヒーの没落と反乱,イエニチェリの土着化,農民の離村,遊牧民の匪賊化,一部富裕層による土地の兼併などがみられた。1590年代から17世紀半ばにかけて,アナトリア,北部シリアでは,これらを原因として,シパーヒー,下層ウラマー(ソフタsoftaと呼ばれる学生),都市下層民,土地を失った農民,遊牧民による一連の反乱(これらは,1580年代の最初の反乱者シェイフ・ジェラールにちなんでジェラーリーCelali反乱と呼ばれた)が頻発した。
18世紀に入ると,帝国の政治・社会体制は,15,16世紀におけるそれとは,まったく別の様相を呈した。中央では,デウシルメ制が消滅してムスリム出身の書記(カーティブ)層が台頭し,後半には行政の中心がトプカプ宮殿を離れて,大宰相府(バーブ・アーリーBāb-ıĀlī,Sublime Porte)へ移行した。アナトリア,バルカン,歴史的シリアでは,ワーリー(vali,wālī,旧ベイレルベイ),ムタサッルフ(mutasarrıf,旧サンジャクベイ)が影響力を喪失して代官(ミュテセッリムmütesellim)が地方行政を牛耳り,また,ティマール制は,制度としては存在したが実質を失い,徴税機構は,ミュルテジムmültezimと呼ばれる請負人による徴税請負制(イルティザーム)に代わった。代官はふつう,当該地域の最大のミュルテジムであった。ティマール制のもとで維持されていた自営の小農民による土地保有は部分的に解体され,とくに河川流域の肥沃な地帯や交通の要路には,チフトリキ(私的大土地所有)が発達した。イルティザームとチフトリキとを経済的・社会的基盤としてアーヤーンと総称される在地の有力者層が台頭して,代官職や各種の徴税官職を独占し,カーディーの主宰するシャリーア法廷に干渉すると,帝国の中央集権的イスラム国家体制は,アナトリアとバルカンにおいてさえ,重大な危機に直面した。アーヤーン層は,都市において,ハーン,店舗,搾油所,家屋などを建設し,その収入によってモスク,マドラサ,ザーウィヤ,給水施設などの宗教・社会施設をつくって都市化を促進した。それ以外の地域でも在地勢力の台頭は顕著であった。アラビア半島では,18世紀半ばにワッハーブ派が起こり,一時期オスマン帝国の支配を排除することに成功した。エジプトでは,イルティザーム制のもとにマムルーク軍人が勃興し,中央政府の派遣する総督(その多くはパシャの称号を与えられた)を傀儡(かいらい)化した。シリアでもアーヤーン勢力の伸張がみられたが,18世紀末にはボスニア地方出身のアフマド・ジャッザール・パシャAḥmad Jazzār Paşa(?-1804)の過酷な支配を受けた。北アフリカではデイdeyないしはベイbeyを名のる軍人層が実権を握り,帝国支配はすでに名目的なものとなった。
18世紀以後,地中海やバルカンを経由して帝国各地とヨーロッパ諸国との貿易が拡大すると,帝国内部では,これと結びついて非ムスリム商人が勃興した。とくにバルカンでは,征服当初都市を離れていたバルカン諸民族が都市に移り,ムスリム商工民と競合し,彼らの間に民族独立運動が芽生えた。1699年のカルロビツ条約でハンガリーを放棄して東欧から後退した帝国は,18世紀を通じてバルカンへの南進をねらうロシアと抗争したが(露土戦争),1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって,その弱体化を露呈した。帝国の抱える内部的分裂,民族的・地域的対立を利用することによって,中東への政治的・経済的侵出を果たそうとするヨーロッパ列強は,キリスト教徒少数民の権利保障,国内通行税の廃止をはじめとする法体系の一本化などを要求した。これに対して歴代のスルタンは,軍事,行政,教育,法制などの分野における西欧化改革を進めることによって,ヨーロッパの要求にこたえつつ,自己の中央集権的専制支配を再確立する道を模索した。
セリム3世Selim Ⅲ,(在位1789-1807)が新設した西欧型新軍団〈ニザーミ・ジェディードNizam-ı Cedid〉に象徴されるように,帝国の改革はまず軍事組織から始まった。マフムト2世(在位1808-39)は,イエニチェリ軍団を全廃し,同時にこれと結びついたベクターシュ教団を閉鎖し(1826),中央官制を改革して大宰相(サドラザム)に集中していた権力を分散させて,スルタンの権限を強化した。彼はアナトリアとバルカンのアーヤーン相互の間に存在した対立を利用して,彼らの政治的影響力を弱めることによって中央集権体制の強化に成功した。しかし,彼の一連の政策は地方民衆の反発をうけ,これを利用したエジプトのムハンマド・アリーがその軍隊を西アナトリアに進軍させると,ヨーロッパ列強はこぞって干渉し,〈東方問題〉はいっそう激化した。エジプト問題に対してイギリスの支援をあてにしたマフムト2世が1838年に締結したイギリス・トルコ通商は,その後ヨーロッパ諸国との間にも一連の通商条約を結ぶ結果となり,それによってヨーロッパ工業製品の流入をひきおこし,土着産業の衰退をもたらした。翌39年のギュルハネ勅令を契機としたタンジマート(1839-76)改革期を通じて,帝国の行政,法律,教育の西欧化がさらに徹底して進められた。その結果,唯一絶対性を誇ったシャリーアは相対化され,シャリーア法廷の枠外にムスリムと非ムスリムとの間の民事・商事訴訟を取り扱う混合裁判所が設置されるなど,イスラム国家から西欧型世俗国家への移行が進展した。一方,教育の西欧化は,新しいタイプの軍人,官僚,技術者,弁護士,知識人を生み出し,司法や教育分野におけるウラマーの影響力を低下させた。国家レベルにおけるこのような改革にもかかわらず,経済・財政面におけるヨーロッパ諸国への従属は,19世紀を通じて深まり,75年には外債利子の支払不能を宣言せざるを得なくなり,以後,帝国は経済的自主性を喪失した。こうした事態に対して,先にあげた新しいタイプのエリート層は〈新オスマン人〉を名のり,反専制・自由主義・立憲を標榜した運動を展開し,76年にミドハト憲法にもとづく第1次立憲制の樹立に成功したが,やがて,パン・イスラム主義の装いのもとに専制によるオスマン帝国体制を維持しようとしたアブデュルハミト2世(在位1876-1909)の弾圧のもとに沈黙をよぎなくされた。しかし,アブデュルハミトが西欧列強と同じように,国内における地域,民族,宗教,宗派にもとづく対立を利用して被支配民族の自立要求を弾圧したことは,アルメニア問題など将来に大きな禍根を残した。アブデュルハミトの専制支配下に,新聞,雑誌,小説などジャーナリズムの発達によって西欧化はかえって深まって民衆レベルに到達した。また〈帝国の救済〉をめぐる思想潮流は,オスマン主義,パン・トルコ主義(トゥラン主義),イスラム改革主義の間をゆれ動いた。1908年の〈青年トルコ〉革命は,アブデュルハミトの専制を打倒することに成功した(第2次立憲制)が,列強の激しい干渉,思想的・政治的混乱があいつぎ,13年以降青年将校による軍部独裁体制が確立し,そのもとで帝国は第1次世界大戦に加わり敗北した。大戦中にアラブが独立し,敗戦後トルコ革命が成就すると,22年11月,スルタン制が廃止されて,オスマン帝国は,ここに消滅した。
執筆者:永田 雄三
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中央アジアから移住したトルコ人によって、西部アナトリアに建国されたイスラム王朝(1299~1922)。単にオスマンあるいはオットマン帝国とよばれる場合もある。オスマンと名のるイスラム戦士(ガーズィ)をリーダーとする小集団として発祥し、第一次世界大戦後に滅亡するまで600年以上にわたって西アジア、バルカン、北アフリカの大部分の地域を支配し、世界史上に大きな足跡を残した。
[永田雄三]
1326年にビザンティン帝国の要都ブルサを征服して首都に定め、54年以後バルカン半島に進出。61年ごろアドリアノープル(現エディルネ)を征服してここに首都を移した。89年コソボ、96年ニコポリス、1444年バルナの諸戦役で、相次いでバルカン諸民族の軍隊を破って15世紀なかばにはブルガリア、ギリシア、アルバニア、セルビア地域を併合し、ビザンティン帝国を孤立させた。1453年、メフメト2世(在位1444~46、1451~81)の率いるオスマン軍はコンスタンティノープルを攻略してビザンティン帝国を滅亡させると、この都をイスタンブールと改名し、国内各地からトルコ人、ギリシア人、アルメニア人などを移住させて新しい首都建設を行った。その結果、16世紀中ごろにはイスタンブールの人口は約50万に達し、ヨーロッパ最大の都市となった。この間に帝国の版図はさらに拡大し、15世紀末にはアナトリアとバルカンのほぼ全土を平定した。16世紀に入るとシリア方面の領有をめぐって、エジプトのマムルーク朝と対立し、1517年にセリム1世(在位1512~20)指揮下のオスマン軍はエジプトを征服してマムルーク朝を滅ぼすとともに、メッカ、メディナの両聖都の保護権を獲得し、ここにオスマン朝の支配者(スルタン)は同時にスンニー派イスラム教徒の指導者カリフの地位をも手中にした(スルタン・カリフ制)。
スレイマン1世(在位1520~66)はモハーチの戦い(1526)でハンガリーを服属させ、1529年にはウィーンを包囲攻撃してヨーロッパ諸国を脅かし、ヨーロッパの政局に大きな影響を与えた。地中海方面では38年にスペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合艦隊をプレベザ沖の海戦に破り、またチュニジア、アルジェリアをも併合し、東方ではバグダード、バスラに支配権を確立して、メソポタミアを押さえた。これによって、帝国は地中海、黒海、紅海、ペルシア湾の制海権を掌握して、東西と南北に広がる国際貿易路を掌握することに成功し、ここに最盛期を迎えた。
[永田雄三]
国内においては、メフメト2世以後、歴代のスルタンたちはカーヌーン・ナーメとよばれる法典を整備し、アナトリアとバルカンに住むキリスト教徒男子を強制徴用(デウシルメ制)して、スルタンの奴隷身分である軍人および官僚層を育成したほか、イスタンブールなどの大都市に設置したイスラム高等教育機関(マドラサ)を通じてイスラムの諸学問を修めたウラマー層を育成して、これに教育、司法および地方行政を一任した。都市民の大多数を占める商工民はギルドに組織されていたが、それはまたトルコ人民衆の間に浸透した神秘主義諸教団と密接な関係をもっており、ともに民衆の社会的組織化に貢献した。広大な支配領域全土を通じて駅伝制が発達し、スルタンや高級官僚はモスク、隊商宿、橋、学校、病院などを都市や隊商路上に建設し、遊牧民たちがウマ、ラバ、ラクダなどの輸送手段を提供した。帝国の主要な軍事力をなす在郷軍団はティマール(軍事封土)を与えられたスィパーヒー(騎士)が主力をなしていた。国有地制度に基づく農村社会では6~15ヘクタールほどの耕地を保有する小自営農民が多く、大土地所有者はほとんど存在しなかった。
[永田雄三]
17世紀以後、前述した帝国の繁栄を支える諸制度が崩壊し、東西貿易路が地中海からインド洋―大西洋経由に転換すると、帝国は衰退し始めた。18世紀以後、帝国内部には徴税請負制と大土地所有が普及し、これらを基盤としてアーヤーンとよばれる地主層が勃興(ぼっこう)してスルタンの専制支配を脅かした。19世紀に入ると、これに加えてキリスト教徒被支配民族の独立運動が活発となった。こうした危機に直面してスルタンは、フランス、イギリスなど西ヨーロッパ諸国の教育、技術、制度、法を導入することによって改革政治を行った(タンズィマート)。しかし、19世紀後半以後、帝国の経済はヨーロッパ諸国に支配され、また、バルカン諸国は帝政ロシアなどの支援によって政治的独立をかちとり、エジプトもまたムハンマド・アリー朝が成立して事実上独立した。これに対して国内では、青年将校の主導による民族主義的な立憲革命が起こった(1908年の「青年トルコ党」革命)。
第一次世界大戦に帝国がドイツ側に加担して敗北すると、アナトリアは連合諸国によって分割の危機にさらされ、ギリシア軍が西アナトリアに進攻した。ここに至って、ムスタファ・ケマル(ケマル・アタチュルク)の指導の下にトルコ国民はオスマン王家に対して反乱し、同時に連合諸国に対する反帝国主義運動を展開した(トルコ革命)。その結果、1922年11月にスルタン制が廃止されてオスマン帝国が滅亡し23年トルコ共和国が成立した。
[永田雄三]
『三橋冨治男著『オスマントルコ史論』(1966・吉川弘文館)』
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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1299~1922
アナトリアとバルカンを根拠に,中東,東欧,北アフリカの地域に支配権を行使した大帝国。建国者はオスマン1世で,アナトリアの西北部から台頭した。1326年ブルサを占領して都とし,ビザンツ勢力をアナトリアから駆逐した。1353年頃バルカンに進出し,14世紀末にはほぼ征服を完了。エディルネに遷都した。バヤジット1世のとき,アンカラの戦いでティムール軍に敗れ,一時後退するが,すぐに復興を果たした。1453年,メフメト2世はビザンツ帝国を滅ぼしてコンスタンティノープル(イスタンブル)を首都とした。1517年,マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを手に入れ,メッカ,メディナの保護者となり,名実ともにスンナ派イスラーム世界の盟主となった。16世紀中葉スレイマン1世の治下で最盛期を迎え,その版図は,北はロシア南辺,南はサハラ砂漠,西はハンガリー,東はイラクに及び,さらに,黒海,エーゲ海と地中海の制海権も握った。だが,17世紀には拡大がやみ,西欧との力関係の逆転,体制の老朽化により衰退に向かう。18世紀に入るとロシアの南下に苦しみ,領土は縮小し続けた。18世紀後半以後セリム3世,マフムト2世は西欧の技術を導入するなど一連の改革を試みるものの成果はすぐに得られず,被支配民族の反乱もあいついだ。タンジマート期(1839~76年)には近代化のための諸改革が行われ,一時立憲制も実現するが,すぐに専制体制に戻り,財政の破綻から列強の経済的植民地と化す。1908年青年トルコ人革命によって立憲制が復活するが,親独政策の結果第一次世界大戦に敗れ滅んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…イスラム世界における宮廷制度は,アッバース朝期にカリフがしだいに神権的専制君主化していく過程の中で発展を遂げていったといわれる。その後,イスラム諸王朝にも引き継がれ,オスマン帝国において,最も完成した形をとった。宮廷は文化的にも重要な意味を有し,一方では宮廷儀礼が発達し作法の発展の場となるとともに,他方では文人・学者に活動の場を提供し,また建築家や工芸家の活動を支える一つの核ともなり,学問と芸術の発展に資するところが大であった。…
…ローマ帝政期には中流市民の没落に伴って,ローマの保護のもとで有産市民が市参事官となって地方自治の実権を握り,帝政後期以降には小作制による大土地所有制が発達していったものと推定される。ヘレニズム【太田 秀通】
【ビザンティン帝国,オスマン帝国時代】
[ビザンティン帝国下のギリシア]
前2世紀以降,すでにギリシアの地はローマ帝国に編入され,属州アカイア,マケドニアが設けられていたが,330年にコンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルが帝国の東の首都と定められ,さらに395年にローマ帝国が東西に分裂すると,コンスタンティノープルを首都としギリシア,バルカンを中心とする東のローマ帝国は,西のローマ帝国とは別の歩みを始めることとなった。東の帝国は一般にビザンティン帝国とよばれるが,その歴史は,ローマ帝国理念,ギリシア文化,キリスト教の三つの要素を独自の形で結合させて発展していった。…
… 13世紀の中ごろにアイユーブ朝に代わってマムルーク朝が成立したが,マムルーク朝(1250‐1517)時代のシリアは,モンゴルの侵入,疫病の流行,マムルーク朝諸侯間の抗争,15世紀初頭のティムールの侵入,地中海貿易での地位の低下,そして経済力の全体的衰退などにより,徐々にその重要性を失っていき,停滞の時期に入っていった。【湯川 武】
【オスマン帝国時代】
オスマン帝国(1299‐1922)は,マムルーク朝から1516年にシリアを奪い,17年には同朝を倒してエジプト,ヒジャーズの支配権を得たが,イスタンブールの中央政府にとって,シリアの重要性には時代的・地域的変化がみられる。 初期にはイランのサファビー朝との対応で,北部のアレッポが軍事的にも通商上も重要な拠点であった。…
…第1次世界大戦後の講和条約の一つで,1920年8月10日,パリ西郊のセーブルSèvresにおいてオスマン帝国のスルタン政府が受諾した条約。オスマン帝国の分割プランは戦時中から戦後にかけてさまざまの機会に取り上げられたが,20年4月の英仏サン・レモ会談で最終案が固まり,これが講和条件の基礎となった。…
…他方,カラ・ハーン朝によって促進された西トルキスタンのトルコ化は,16世紀におけるウズベク族のこの地への新たな進出によって完成を見る。【間野 英二】
[セルジューク朝とオスマン帝国]
トルコ族と西アジア・イスラムとの関係は,8世紀の初めにアラブ軍が中央アジアに進出し,多くのトルコ族が戦争捕虜として,また購入奴隷として西アジア・イスラム世界にもたらされたことを発端とする。そして,10世紀の中ごろにシル・ダリヤ北方の草原地帯で遊牧生活を送り,素朴なシャマニズムを信仰していた〈オグズ〉と総称されるトルコ系部族に属する人びとの一部が,やがて南下して,マー・ワラー・アンナフルに入り,イスラムを受容した。…
※「オスマン帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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