宮崎(県)(読み)みやざき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮崎(県)」の意味・わかりやすい解説

宮崎(県)
みやざき

九州南東部、日向灘(ひゅうがなだ)に面し、北部、西部は九州山地が広い面積を占め、南西部は霧島(きりしま)火山である。北部は大分、西部は熊本、南西部は鹿児島の各県に接する。面積7735.22平方キロメートル(2020、全国第14位)、人口106万9576(2020、全国第35位)。県庁所在地は宮崎市。「太陽と緑の国」のキャッチフレーズどおり、台風を除けば温暖な気候で住みよい風土といわれるが、政治、経済、文化の中心から遠く隔たり、主産業は依然農林業が中心である。観光は一時期飛躍的に成長したが、近年は停滞ぎみである。歴史的には、天孫降臨神話や古墳に示されるように、古代に繁栄をみた一時期があったといわれるが、その後とくに近世には諸藩、天領が分立して日向としての地域的統一を欠き、長らく鹿児島の後塵(こうじん)を拝してきた。しかし、近年は空路、海路など多様な交通体系が整備され、都市化の発展が進むなかで、温暖な気候風土に適した産業の近代化を模索しつつある。こうした事情を受けて、1955年(昭和30)以来1970年まで続いた県総人口の減少も1975年には増加に転じ、Uターン、Jターン現象が明瞭(めいりょう)になったが、2000年以降は人口は漸減傾向にある。この間、とくに顕著なのは、宮崎市を中心とする宮崎平野一帯の変貌(へんぼう)である。宮崎市は1995年(平成7)には人口30万人を突破した。学園都市、宮崎港、宮崎空港やテクノポリスの整備などが進み、郊外の発展が著しい。逆に中心市街地は交通渋滞やバブル経済の崩壊の影響を受けやや陰りがみられる。一方、山間に位置する町村では依然として人口減少が続いており、人口の高齢化とともに過疎化現象がいっそう深刻化している状態である。

 2020年(令和2)10月時点で、9市6郡14町3村からなる。

[横山淳一]

自然

地形

宮崎県を大きく地形区分すると、北西部は九州山地、南部は低地帯と鰐塚山地(わにつかさんち)、南西部は霧島火山の四つになる。九州山地は北東―南西方向に走り、県中部まで含む。最大標高は祖母山(そぼさん)1756メートル、国見岳(くにみだけ)1739メートルなど、早壮年期山地で河谷は急峻(きゅうしゅん)なV字谷を形成する。北西部の高千穂(たかちほ)地域と五ヶ瀬川(ごかせがわ)河谷には阿蘇(あそ)溶岩が分布する。九州山地の南東部は宮崎平野、都城盆地(みやこのじょうぼんち)などの低地帯で、臨海部には洪積台地、内陸盆地はシラス台地が広い面積を占め、沖積平野面は比較的狭い。霧島火山はこの低地帯に噴出した火山で、韓国(からくに)岳など大きな火口を有する火山が多い。鰐塚山地はこれら低地帯の南東部に位置する丘陵性の晩壮年期山地(鵜戸(うど)山地を除く)で1000メートル内外である。県内を流れる河川は大淀川(おおよどがわ)を除く大部分が九州山地に発し、五ヶ瀬川、耳川(みみがわ)、小丸川(おまるがわ)、一ツ瀬川(ひとつせがわ)など険しい河谷を発達させている。

 県内の自然公園には、鹿児島県にまたがる霧島錦江湾国立公園(きりしまきんこうわんこくりつこうえん)、日南海岸国定公園(にちなんかいがんこくていこうえん)、大分県にまたがる日豊海岸国定公園(にっぽうかいがんこくていこうえん)、祖母傾国定公園(そぼかたむきこくていこうえん)、熊本県にまたがる九州中央山地国定公園などがあり、県立自然公園として、尾鈴(おすず)、西都原杉安峡(さいとばるすぎやすきょう)、祖母傾、母智丘関之尾(もちおせきのお)、わにつか、矢岳(やたけ)高原の6か所がある。

[横山淳一]

気候

九州の南部に位置して温暖多雨な南海型気候区に属する。宮崎市の年平均気温、年降水量は17.4℃、2509ミリメートルである(1981~2010)。雨は6、7月の梅雨期から8、9月の台風期に集中して降り、冬季は晴天が続く。このため平野部ではほとんど降雪をみない。年間台風襲来数は2~3回。内陸部に入るとやや気候は厳しくなり、一部の九州山地内では積雪のため交通が途絶することもある。都城盆地や高千穂では霧の発生することが多い。

[横山淳一]

歴史

先史・古代

日向(ひゅうが)は天孫降臨神話発祥の地として知られる。この伝説に符合する地名も数多くあり、宮崎市の檍原(あおきはら)(阿波岐原(あわきがはら))や小戸(おど)、高千穂(たかちほ)町の槵触峰(くしふるみね)、都城市・高原(たかはる)町の霧島高千穂峰(きりしまたかちほのみね)、延岡(のべおか)市北川(きたがわ)町の可愛山陵(えのさんりょう)伝説地など県内各地にある。また大規模な古墳群も数多く存し、西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)(特別史跡、西都市)をはじめ、持田(もちだ)(高鍋(たかなべ)町)、新田原(にゅうたばる)(新富(しんとみ)町)、南方(みなみかた)(延岡市)など枚挙にいとまがない。これら古墳の多くは平野を見下ろす洪積台地縁辺部に立地している。国府、国分寺などは西都市に想定されており、児湯郡(こゆぐん)が日向の中心地であった。総じて古代前期は高い文化水準を誇ったということができるが、のちには中央から遠い僻遠(へきえん)の地として流刑や植民の対象地になっていった。荘園(しょうえん)は、都城盆地を中心とする日本最大の規模の島津荘(しまづのしょう)や、宮崎平野に展開する宇佐宮(うさぐう)領、国富(くどみ)荘などがあった。

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中世

これらの荘園を支配した守護(しゅご)・地頭(じとう)のなかから島津氏、伊東氏(いとううじ)、在地領主として土持氏(つちもちうじ)が勢力を伸ばしていった。15~16世紀にかけて、日向主要部は戦国大名伊東氏に属することになり、主城は都於郡(とのこおり)(西都市)に置かれた。隣国薩摩(さつま)の島津氏とは長らく敵対関係にあり、飫肥(おび)、三股(みまた)などの領地にかかわって数多くの戦乱が続けられたが、1572年(元亀3)木崎原(きさきばる)(えびの市)において大敗、1577年(天正5)日向は全域島津氏の領するところとなった。1579年豊臣(とよとみ)秀吉の九州制圧により島津氏は薩摩・大隅(おおすみ)に後退、日向は諸藩の分割統治を受けることになり、この統治形態は江戸時代にも継承された。

[横山淳一]

近世

日向における諸藩は、延岡、高鍋、佐土原(さどわら)、飫肥、薩摩で、椎葉山(しいばやま)、米良山(めらやま)の山村は人吉藩(ひとよしはん)の属地となった。延岡藩は高橋氏以降4氏が転封などを繰り返し、内藤氏に至って安定、7万石を領した。高鍋藩は領地が財部(たからべ)(高鍋町)と櫛間(くしま)(串間(くしま)市)に分かれて3万石を領した。佐土原藩は2万7000石のもっとも小さい藩であるが、薩摩藩(島津氏)の支藩である。飫肥藩5万7000石は伊東氏で、戦国大名伊東氏の子孫にあたる。都城は薩摩藩に属したが、北郷(ほんごう)氏が自治を許されて3万石を領した。のちに北郷氏は島津姓に復帰する。この間江戸時代には、宮崎、本庄(ほんじょう)(国富(くにとみ)町)、穂北(ほきた)(西都市)、富高(とみだか)(日向市)などの天領があり、所領の配置は複雑を極めた。これら諸藩のうち、高鍋と飫肥の両藩は比較的豊かであったといわれるが、幕末にはどの藩も財政に行き詰まり、殖産興業に努めた。これらのなかで飫肥藩の杉造林と製紙業はある程度の成功を収めた。また、天領では製紙業を中心として商工業がかなり栄えたといわれる。

[横山淳一]

近・現代

宮崎県の成立は、1871年(明治4)の美々津(みみつ)県、都城県を経て1873年である。しかし1876年宮崎県は鹿児島県に合併されたため、最終的に宮崎県が確定するのは1883年になってからで、全国でも遅いグループに属する。また西南戦争(1877)の戦場ともなり、宮崎県の近代化はかなり遅れてスタートしたといえよう。「陸の孤島」とよばれた宮崎が近代化に向かって進み始めるのは大正時代に入ってからで、1923年(大正12)日豊(にっぽう)本線開通が大きな役割を果たした。それまでの主要交通路は海路で、大阪から沿岸航路により土々呂(ととろ)(延岡市)、細島(ほそしま)(日向市)、内海(うちうみ)(宮崎市)、油津(あぶらつ)(日南(にちなん)市)、福島(ふくしま)(串間市)港などが結ばれていたにすぎない。鉄道開通に前後して、延岡に化学工場(日本窒素肥料、現在の旭(あさひ)化成)が立地、新たに県庁所在地となった宮崎も1924年都城とともに市制を敷いた。また、山村地域も電源開発の適地として河谷に沿う道路網が徐々に整備され始めた。一方、県内各地の未開発地には四国など各地からの移住民が定着して新しい農法を伝え、今日の宮崎の農業の基盤を築き始めた。従来からの輸出品の木炭、シイタケなどに加えて、昭和初期にはカボチャキュウリ、せん切り大根など輸送園芸の兆しもみられた。この間、五ヶ瀬川の水力発電と水に着目して立地した延岡の化学工業の発達は目覚ましく、1933年(昭和8)市制を敷いたのち、昭和10年代には県下第一の人口を擁するまでになった。また吾田(あがた)には豊富な森林資源を背景としてパルプ工場が立地、第二次世界大戦後の日南市形成の要(かなめ)となった。大戦末期には、宮崎、延岡、都城の3市とも爆撃を受け大きな被害を被った。

 戦後の食糧難の時期には、川南(かわみなみ)町唐瀬原(からせばる)や霧島山麓(ろく)の旧軍用地が開放されて入植開拓が行われた。1950年(昭和25)には小林市(こばやしし)が、翌年には日向市が誕生した。戦後の宮崎市の成長は著しく、1969年には人口20万、1995年(平成7)には30万に達した。工業都市延岡と細島港を有する日向市は1964年に新産業都市の指定を受けた。農業も宮崎平野の施設園芸や都城盆地などでの畜産が大きく伸展している。とくに県南部は超早場米の産地として知られる。これらの背景には陸路のほか、空、海路の交通手段が大きく整備された事があげられよう。

[横山淳一]

産業

農林業を中心とする産業構造であるが、台地が広く水田適地が少ないこと、台風や洪水などの気象災害を受けやすいことなどのため、長らく低い生産性に甘んじてきた。しかし、近年はそうした風土の長所を逆に利用した産業活動の成長がみられて、施設園芸や畜産などを中心として新しい農業地域を形成しつつある。ただし、こうした動きも第一次産業止まりで、工業以降の産業活動は一部を除いて大きな発展は望めそうにない。

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農業

伝統的な宮崎県の農業は、平野での稲作、台地でのサツマイモを中心とする畑作であった。山間僻地(へきち)では1955年ころまで焼畑農業が残り、雑穀などが栽培されていた。1960年代前半になって稲作の台風の被害を避けるために早期水稲が臨海部を中心に定着した。今日この早期水稲は超早場米栽培に移行し、8月には収穫が終わる。この裏作としての野菜栽培が脚光を浴び、保温材料としてのビニルの普及、食生活の高度化と相まって、今日では全国でも有数の施設園芸農業地域に成長した。施設園芸は具体的にはビニルハウスによる野菜の促成、抑制栽培であるが、宮崎の利点は、冬季に温暖で晴天が続くため、他地域よりも生産コストが低く、遠距離輸送の不利を克服できることである。施設野菜はキュウリ、ピーマン、カボチャなどを中心に、その生産は多くが端境期にあたる冬季に集中して、大都市地域に長距離トラック便やカーフェリーを使って出荷されている。ビニルハウスの規模は1戸平均20~30アールで、内部に重油加温設備をもつ。施設園芸は宮崎平野臨海部を中心に作物ごとにそれぞれ栽培地区が特化している。宮崎県南西部諸盆地や中部臨海の台地面では、1965年以降サツマイモの作付けが激減し、かわって乳牛、肉用牛、養豚を中心とした畜産が伸長してきている。肉用牛、ブロイラー、豚の飼育頭数は全国でも上位で、それに伴い、牧草、飼料作物の栽培面積も増加してきている。また、サトイモ、ゴボウなどの畑作物産地としても定着しつつある。

[横山淳一]

林業

用材の生産量は西日本最大で、有数の林業県であり、人工林面積も6割を超える。杉材の生産が多く、弁甲(べんこう)材(船材)としての飫肥杉が有名である。県北部は民有林が多く、県南部は国有林比率が高い。林産物としての乾シイタケは大分県に次ぎ、県北部の山間地域の主要な産業になっている。

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水産業

全般に海岸線が単調なため、よい漁港にはあまり恵まれないが、県北、県南の二つの異なった漁業地域がある。県北は、門川(かどがわ)、北浦、島野浦を中心として、巾着(きんちゃく)網によるイワシ漁が盛んで、ハマチ、タイなどの養殖も行われている。県南は油津、南郷(なんごう)漁港を基地とする近海マグロ延縄(はえなわ)漁、カツオ一本釣りである。内水面では霧島山麓の湧水(ゆうすい)を利用するコイの養殖や、五ヶ瀬川水系のアユ簗(やな)漁、山村でのヤマメ養殖などがある。一ツ瀬川下流域ではウナギの養殖が1970年ころより急速に伸びている。

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鉱工業

かつては槙峰(まきみね)(銅)、見立(みたて)(錫(すず)、硫化鉄)、白鳥(しらとり)(硫黄(いおう))などの鉱山があったが、現在はすべて休廃止中である。近年宮崎平野を中心として天然ガスの開発が進められており、都市ガスなどに利用されている。

 工業は伝統工業の基盤も弱く、近代工業の立地も交通、資本など数々の悪条件に阻まれて十分ではない。県全体の工業出荷額の上位は食料品、電気機械、飲料・タバコ、化学の順で、これらの業種の分布をみると、県北の日向延岡新産業都市に代表される臨海型工業地区、都城市を中心とする内陸資源立地型工業地域、宮崎市など県中央部の労働集約型工業地区などにまとめることができる。しかもこれらの工業の多くは県外資本で、基幹産業を含まないため、自律的な発展を望めない現状である。そのため、宮崎市を中心に高度技術産業集積地域宮崎サンテクノポリス計画を推進しているが、企業進出は停滞ぎみである。延岡市の旭化成は1923年日本窒素肥料工場として立地した。キュプラ、レーヨン、ナイロン、薬品、食品など多くの工場を有し、延岡市工業出荷額の4割以上を占めている。しかし、近年は停滞ぎみで、鉄鋼、石油化学など基幹産業のない単産業都市の限界を示している。日向市は新産業都市の中心として新たに工業用地の造成、工業港の建設などが進められた。しかし現在でも工業用地に空地が目だち、各種の企業が立地するものの相互の有機的連関が薄く、将来に問題を残している。日南市の紙・パルプ工場は飫肥杉の間伐材を原料とする目的で1937年立地したが、現在はチップ材からクラフトパルプ、ほかに高級紙などを生産している。都城市は県内では比較的地場産業の盛んな地域で、弓、木刀、家具、焼酎(しょうちゅう)、製茶などがある。いずれも地元の原料を利用して長い伝統と技術に支えられてきた。このほか繊維、ゴム、衣服などの企業誘致も進み、都城市から三股(みまた)町にかけて工業地域を形成しつつある。宮崎市周辺は電子部品、自動車部品、衣服などの労働集約型企業がいくつか立地しているが、全体的には工業の占める比重は小さい。

[横山淳一]

開発

明治以降でも未開発地域が残されていた宮崎県であるが、大淀川、一ツ瀬川水系の総合開発などによって、農耕地の基盤整備が進んだ。各水系の電源開発や日向延岡新産業都市の形成も行われた。近年の開発は都市型の大規模事業と各市町村が活発に実施している町おこし、村おこしであろう。宮崎市における大型リゾート「シーガイア」や潟湖の浚渫(しゅんせつ)による人工港宮崎港の建設などがあげられる。後者では照葉樹林都市(綾町)、百済(くだら)の里(美郷(みさと)町)、すきむらんど(小林(こばやし)市須木下田)、フォレストピア(県北地域)などさまざまな取組みがみられ、温泉開発も盛んである。

[横山淳一]

交通

宮崎県と他地域との交通は長い間険阻な山地という自然条件に阻まれて、かつては「陸の孤島」とよばれていた。交通条件の整備は県民の大きな悲願であり、それは今日でも変わっていない。現在の交通は、陸、海、空において多様な交通機関が整備されているが、さらなる条件の改善が望まれている。県内の主要幹線は、JR日豊本線(にっぽうほんせん)、国道10号、九州縦貫自動車道宮崎道(宮崎自動車道)、東九州自動車道などである。日豊本線から分岐する鉄道は、吉都線(きっとせん)、日南線、空港線がある。高速道路を利用する長距離バスは福岡と約4時間で結び、鹿児島、熊本へも便がある。空路は宮崎空港から東京、大阪、福岡、名古屋、沖縄、ソウルなどと結ばれ、旅客輸送の中心的な地位を占めている。海路は宮崎港の完成によって従来の日向市細島港は貨物港としての性格を強め、長距離カーフェリーは宮崎港と神戸間に就航している。

[横山淳一]

社会・文化

教育文化

江戸時代の日向は小藩が分立していたが、各藩とも藩学には力を注いだ。最初に藩校をつくったのは延岡藩で、1768年(明和5)学寮とよび、のち広業(こうぎょう)館と改称した。高鍋藩は明倫堂、佐土原藩は学習館、飫肥(おび)藩は振徳堂、都城では明道館の藩校をそれぞれ設立し、子弟の教育にあたった。漢学を主とし、延岡では数学、本草(ほんぞう)学も盛んであった。飫肥藩では安井息軒(そくけん)など著名な学者をも生んでいる。このほか私塾や地方の郷学があったが、庶民の教育活動までは及ばず、1883年(明治16)の義務教育初期の県内での有資格教員はわずかに2.6%、19名で、就学率も37%にすぎなかった。義務教育が浸透するのは明治30年代末期になる。高等教育は1885年の宮崎県師範学校を皮切りに、1924年(大正13)に宮崎高等農林学校、1944年(昭和19)に宮崎県高等工業学校が創立された。これらは1949年に合併して宮崎大学となり、それぞれ教育学部、農学部、工学部に改められた。1974年には県民の悲願であった宮崎医科大学が清武町(現、宮崎市)に新設された(2003年、宮崎大学と統合)。ほかに航空大学校(宮崎市)、南九州大学(宮崎市)、都城工専などが第二次世界大戦後に設立された。近年、宮崎公立大学、宮崎産業経営大学、宮崎国際大学、宮崎県立看護大学、九州保健福祉大学が相次いで設立されている。新聞は地元紙に『宮崎日日新聞』があり、朝刊のほか郷土関係の出版も行い、県内の各分野の優れた業績に対しては宮日(みやにち)各賞を設けている。テレビはNHK、宮崎放送、テレビ宮崎の3局があり、県下全域をネットする。

[横山淳一]

生活文化

宮崎県は江戸時代五つの藩領に分かれており、それぞれ異なった生活環境にあったが、南西部の薩摩藩領を除いては小藩で経済的にも恵まれなかったため、著しい文化の差異は認められない。それよりは、平野の農村と山間僻地の山村との大きな暮らしの相違のほうが目だつといってよい。

 伝統的な農民の服装は、麻でつくられたタナシとよばれる仕事着で、男はこれを縄帯で締めももひき、女は長めのタナシに腰巻、前垂れ姿であった。木綿は明治以降になってやや普及したものの、晴れ着であって、古くなれば刺子を施した刺子半纏(ばんてん)にして仕事着に活用した。沿岸の漁民も木綿の三枚布を刺子したドンザや、ドウブクとよばれた綿入れを漁着とした。履き物は足半(あしなか)という湿地で歩きやすい藁草履(わらぞうり)であった。

 食事は、平野部でも常食は麦飯や麦にヒエやアワを混ぜた飯で、米を食べることは少なかった。また「ねったくり」というサツマイモに餅(もち)を混ぜて練ったものや、団子汁なども好んで食べられた。山間では焼畑農業の産物、アワ、ヒエ、ソバ、トウモロコシなどの雑穀をいろりの鉄鍋で雑炊とし、シイタケ、ゼンマイ、ワラビなど山菜を乾燥して保存利用した。今日の宮崎の郷土料理の中心をなすものは、これらの素朴な庶民の料理を現代風に洗練したものであり、シイタケ、猪(いのしし)料理、冷や汁、だご汁などに代表される。またカボチャなど明治以降に特産物になり郷土料理を代表するようになったものもある。

 住まいは、気候温暖なため、一般的には簡素な造りである。平野部は集村形式の村落が多く、県南西部旧薩摩藩領には半士半農の郷士の住む麓(ふもと)集落が分布する。宮崎平野北部の都農(つの)町から川南(かわみなみ)町にかけての洪積台地面には、第二次世界大戦後の開拓入植地が多く、方格状の地割と散村景観がみられる。県南部、中部は台風の被害を避けるため、集落の多くは竹林に取り巻かれており、屋敷森としては杉も利用される。伝統的な家屋は、平野部では藁屋根、山地ではかや葺(ぶ)きの寄棟で、目の字形の間取りが一般的である。県北西部山地では屋根の棟押さえに千木(ちぎ)を用い、3、5、7本とその多さによって地位を象徴したといわれる。また旧薩摩藩領内には分棟(ぶんとう)型といって、「おもて」と「なかえ」の二棟造りの民家もみられた。間取りは、どま(台所)、ごぜん、おもて、つぼねと一列に並び、おもてが客間、つぼねが家族の部屋になり、ごぜんはどまに接して多くはいろりが切られていた。

 市(いち)は、社寺の祭日や縁日の市以外はほとんど廃れたが、毎年2月第一土・日曜に開かれるえびの市京(きょう)町の二日市は南九州唯一の大市として知られ、数万の人出でにぎわう。

 宮崎県を代表する民俗芸能は神楽(かぐら)である。高千穂神楽がもっとも知られているが、米良(めら)、銀鏡(しろみ)、椎葉(しいば)に代表される山地地域のみならず、霧島山麓の祓川神楽(はらいかわかぐら)や児湯郡一帯の高鍋神楽などほぼ県下全域で行われている。晩秋から冬季にかけて各地で催され、夜を徹して神楽三十三番が舞われる。高千穂地方では、地区ごとに神楽が奉納されるため、秋から冬にかけては太鼓や笛の響きが絶えることがない。「高千穂の夜神楽(よかぐら)」「米良神楽」はともに国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 都城(みやこのじょう)市山之口(やまのくち)町には人形浄瑠璃(じょうるり)が残され、「文弥人形(ぶんやにんぎょう)」は国の重要無形民俗文化財となっている。参勤交代に随従した武士が伝えたものとされており、古浄瑠璃の形態をとどめている。高千穂町にも柚木野人形(ゆのきのにんぎょう)、大人歌舞伎(おおひとかぶき)が伝わり、地域の娯楽として栄えた地芝居であった。

 踊りは、盆に舞われるものとして県北一帯のばんば踊、城下町飫肥(日南市)に伝わる泰平踊が知られる。太鼓を中心にした踊りも多く、国富町のバラ太鼓踊、西都市の下水流(しもずる)の臼太鼓踊(うすだいこおどり)(国選択無形民俗文化財)、小林市の輪太鼓踊などが代表的である。都城市庄内町に伝わる熊襲(くまそ)踊は日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲征伐を主題とする土俗的な舞である。五ヶ瀬町三ヶ所(さんがしょ)神社の荒踊(あらおどり)も戦国時代をしのばせる勇壮な踊りで、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 宮崎県を代表する民謡には高千穂地方に伝わる『刈干切唄(かりぼしきりうた)』、椎葉村の『稗搗節(ひえつきぶし)』がある。

 祭りで大規模なのは毎年10月末宮崎市で行われる宮崎神宮大祭である。呼び物は各地の美女が花嫁姿で登場するシャンシャン馬(うま)で、これは新婚夫婦の鵜戸(うど)神宮参りの風習を祭りに加えたものである。延岡市では今山(いまやま)大師祭、都城市では神柱宮(かんばしらぐう)秋祭りがそれぞれ多くの人出でにぎわう。ほかに、目の神様平景清(かげきよ)を祀(まつ)る生目神社(いきめじんじゃ)縁日祭(宮崎市)や、豊作を祈願する美郷(みさと)町西郷区田代(たしろ)神社の御田植祭(おんださい)、火除(ひよ)けの地蔵を祀る北郷(きたごう)区の宇納間(うなま)地蔵大祭が知られる。

 県下の国の重要文化財建築に椎葉村の那須(なす)家住宅がある。通称鶴富(つるとみ)屋敷とよばれ、源氏の大将那須大八郎(なすのだいはちろう)と恋仲になった平家の落人(おちゅうど)鶴富姫の住家といわれる。日南市の飫肥城下町は武家屋敷と町人町がよく保存され、日向市美々津、椎葉村十根川(とねがわ)とともに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。ほかに高鍋町城下町や宮崎市高岡町麓集落が当時のおもかげを残す歴史的町並みである。

 仏像彫刻では宮崎市瓜生野(うりうの)王楽寺(おうらくじ)の木造薬師如来(にょらい)および両脇侍(きょうじ)像が鎌倉初期の作で檜(ひのき)の寄木造、漆塗りの上に金箔(きんぱく)が施されている。宮崎市佐土原町大光寺(だいこうじ)の木造騎獅文珠菩薩(もんじゅぼさつ)像は南北朝時代の作で両脇侍像四体と天蓋(てんがい)が付随している。国富町万福寺(まんぷくじ)の木造阿弥陀(あみだ)如来像は両脇(わき)に倚(い)像を従えたカヤの一木彫成(いちぼくちょうせい)造で、鎌倉時代の作である。以上の3仏像と興玉神社内神殿(都城市)、神門神社本殿(美郷町)、高千穂神社本殿(高千穂町)などが国の重要文化財に指定されている。

 国の重要有形民俗文化財として、東米良の狩猟用具(西都市歴史民俗資料館に保存)と西米良の焼畑農耕用具(西米良村歴史民俗資料館に保存)が指定されている。米良などの山地では焼畑と狩猟が生業であった。当時使用された火縄銃や火打石などが展示され、米良地方には狩りを模した狩面(かりめん)行事が今日なお伝えられている。そのほか、日向の山村生産用具(宮崎県総合博物館に保存)が国の重要有形民俗文化財に指定されている。

[横山淳一]

伝説

日向は神話の国といわれるように、多くの神話があり、その遺跡というものがある。高千穂の峰(みね)(高原(たかはる)町)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨した聖地という。高千穂の峰の頂上に建つ天ノ逆鉾(さかほこ)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が国造りのときに用いたといわれている。高千穂峡(高千穂町)の付近には、高天原(たかまがはら)、天岩戸(あまのいわと)、天安河原(あまのやすかわら)など、建国神話にちなむ史跡がある。児湯(こゆ)郡の山深い里西米良(にしめら)は大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘磐長姫(いわながひめ)が隠棲(いんせい)した地という。延岡市北東にそびえる行縢山(むかばきやま)は日本武尊が熊襲の巨酋(きょしゅう)川上梟帥(かわかみたける)の一族を征服した所で、民俗芸能の臼太鼓踊はこのときの戦勝祝いに始まるという。日南海岸(宮崎市)の青島は、海幸彦(うみさちひこ)(火酢芹命(ほのすせりのみこと))・山幸彦(やまさちひこ)(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))兄弟の伝説地。同地の青島神社は山幸彦と豊玉毘売(とよたまひめ)、塩筒翁(しおつちのおきな)の3柱を祀(まつ)る。山幸彦と海神の娘豊玉姫の間に生まれたのが鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)で、その子が神武(じんむ)天皇と伝えている。海幸彦は隼人(はやと)族の祖という。海幸彦を祀る潮岳神社(うしおだけじんじゃ)は日南市北郷町北河内(きたがわち)の宿野(しゅくの)にある。

 高千穂峡の五ヶ瀬川の水系には、七折(ななおれ)川の綱の瀬弥十郎、岩戸川の戸無し八郎右衛門(はちろうえもん)、三ヶ所川の雑賀小路安長(さいがのこうじやすなが)、見立(みたて)川の川詰め勘太郎などの河童(かっぱ)の親分がいたという。高千穂町にはあららぎの里の走建(はしりたける)、別名を鬼八(きはち)という悪鬼の伝説がある。開国神話から派生した伝説で、祖母(そぼ)ヶ岳明神の娘鵜目姫(うのめひめ)を奪ったことを知り、神武天皇の兄三毛入野命(みけいりのみこと)がこれを退治し、姫を妻に迎えた。魔性の鬼八は斬(き)られてもすぐによみがえるので、手足を切り別々に分葬した。胴は高千穂町三田井社の境内の鬼八塚に、手足は各地に分けて埋めたという。それでもなお悪霊の祟(たた)りがあったため、熊本県阿蘇(あそ)町に霜宮(しもみや)神社を建てて祀ったと伝える。耳川の上流、東臼杵(ひがしうすき)郡椎葉村は、『稗搗節』で知られている平家落人村である。源氏の那須大八郎は、源頼朝(よりとも)に平家の残党追討の命を受けたが、椎葉の山里に隠れた落人には叛意(はんい)がなかった。大八郎はこの地に屋敷を構えて滞在したと、『椎葉由来記』に記している。大八郎は平氏一族の鶴富姫と恋仲になったが、鎌倉より帰国の命がきて椎葉を去ったという。延岡(のべおか)市の周辺には、高麗(こうらい)娘の哀話が語り伝えられている。甲斐(かい)十郎左衛門は、朝鮮の役に加藤清正と従軍したが、帰還の際に捕虜を連れ帰った。そのなかに、のちに日本人の妻妾(さいしょう)にされた高麗姫がいた。姫の墓は延岡(のべおか)市北方(きたかた)町にある。五ヶ瀬川の上流にある日之影(ひのかげ)町の古刹(こさつ)昌竜寺(しょうりゅうじ)には藤江監物(けんもつ)の墓、その近くに牢(ろう)跡、監物終焉(しゅうえん)の地の碑が建っている。監物は延岡藩家老職を勤めた人で、岩熊井堰(いわぐまいぜき)改良工事を担当したが、これが難工事であるのと、監物の声望をねたむ者の讒言(ざんげん)があったため、親子が入牢を申しつけられた。監物は怒って断食して果てたということである。宮崎市下北方に景清廟(かげきよびょう)、父の菩提(ぼだい)を弔った景清の娘人丸(ひとまる)姫の墓などの遺跡がある。平家の猛将悪七兵衛(あくしちびょうえ)景清の旧跡として有名である。同市生目(いきめ)には景清が自らえぐった両眼を祀ったという生目神社がある。謡曲『景清』は、この伝説をモチーフにしたものといわれ、作者は世阿弥(ぜあみ)という。都城市の鶴丸城跡に布掛松(ぬのかけのまつ)の悲話がある。北郷時久(ほんごうときひさ)が城主であったころ、侍女の小少将(こじょうしょう)が城中の若い侍、桑山刑部(ぎょうぶ)と恋仲になったが、恋は御家の御法度である。駆け落ちのほかなかったが、すぐ追っ手が迫った。ついには進退窮まって自決して果てたという。その時久に2人の男子があった。兄を相久(すけひさ)、弟を忠虎(ただとら)と称した。父は兄を疎み、弟を溺愛(できあい)した。そのため家臣間も時久派、相久派に分かれてことあるごとにいがみ合った。父は相久謀反との讒言を信じて兵をおこし、庄内の金石(かねいし)城を襲撃させた。不用意のところを攻められた相久は、防戦もできず無念の涙を飲んで割腹した。その死後、深夜の城下を白馬の騎士の亡霊がさまようという噂(うわさ)が広まった。父もさすがに悔いて、都島(みやこじま)町に兼喜(けんき)大明神の祠(ほこら)を建立して厚く弔ったという。

[武田静澄]

『宮崎県編・刊『日向の聖地・伝説と史蹟』(1934)』『比江島重孝編『日向の民話1・2』(1958、1967・未来社)』『石川恒太郎著『宮崎県の考古学』(1968・吉川弘文館)』『日高次吉著『宮崎県の歴史』(1970・山川出版社)』『平部嶠南編『日向地誌』復刻版(1976・青潮社)』『宮崎県高等学校社会科研究会編『宮崎県の歴史散歩』(1976・山川出版社)』『『宮崎県の自然と文化シリーズ』全10巻(1977~1982・宮崎日日新聞社)』『宮崎県高等学校社会科研究会理科・地学部会編『宮崎県 地学のガイド』(1979・コロナ社)』『比江島重孝・竹崎有斐著『宮崎の伝説』(1979・角川書店)』『宮武喜三太編『宮崎県大観』復刻版(1984・青潮社)』『『角川日本地名大辞典 宮崎県』(1986・角川書店)』


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