翻訳|death
死とは,生体系の秩序ある制御された形態と機能が崩壊することである。本来は生物個体が生命を失うことの概念であるが,種・個体群や器官,組織,細胞,原形質などの系についても考えられている。老衰による死,つまり寿命が尽きるまで生存する個体は自然ではまれで,多くの個体は捕食,病気,飢餓,気候,事故などの外的要因で死亡する。同じときに生まれた生物の集団の個体の死亡時の齢を記録して曲線を描くと,次の3種類の曲線が得られる。(1)は対数的な死亡曲線(一次反応の速度曲線)で,これは年齢には依存しない偶然の原因によって死の起こる集団にあてはまる。(2)は┐型の曲線で,老化により死の起こる集団があてはまり,(3)は偶然の死因と年齢に依存した死因の複合した中間型の曲線で,多くの動物集団でみられるものである。ヒトの場合,社会の生活水準と工業水準とによって異なり,人口密度,衛生状態,栄養状態,医療などが曲線の形を決定し,社会が進歩するにしたがって曲線(1)から(3),さらに(2)の型へと移る。1825年にゴンペルツB.Gompertzによって,成熟後のヒトの死亡率が,年齢とともに指数関数的に増大することが見いだされた。このことは,一定の年齢間隔ごとに死亡率が倍になることを意味している。ヒトの場合,出生直後の高死亡率が幼少年期にかけて低下し,15歳から25歳にかけて外傷により急激に死亡率が増し,30歳以後は8年ごとに死亡率が倍増する。死は個体の生命維持の面からは内外の環境への不適応とみなすことができるが,集団全体にとっては,一定の生息空間内で限られた資源量をうまく消費して再生産量を最大にするという適応的価値をもつのではないかという見方もある。
個体の死と同様なことは,多細胞生物の体内での細胞死に関しても見られる。多細胞生物の体内では,発生過程においても,また成体において体内の細胞動態が動的平衡に達してからも,多数の細胞が生理的な条件下で死滅している。哺乳類の成体内には,ある種の白血球のように数時間しか生存しないものから,神経細胞のように個体の寿命の続くかぎり数十年も生き続けるものまで,いろいろな細胞が存在する。細胞の寿命と細胞の分裂能力とから,細胞集団は大きく三つに分けられる。(1)細胞の寿命は比較的短いが,個体の生涯を通じて分裂し増殖を続けて,絶えず更新が繰り返されている集団で,小腸の腸腺細胞,造血細胞,表皮の基底細胞がこれに属し,その位置と機能のために細胞全体の損傷と破壊を受けやすい系である。(2)成熟し分化した細胞で,刺激のない平常な状態ではほとんど分裂しないが潜在分裂能力はあり,特別の状況下でだけ急速に増殖する集団で,肝臓・腎臓・骨細胞がこれに属する。(3)生涯の早い時期に分裂を停止するが,個体の生涯を通じて特殊化した機能を営み続ける集団で,筋細胞や神経細胞のように情報の処理と貯蔵に関与した細胞であり,一般に細胞により生産される代謝物が細胞内に蓄積されるものが多い。成人においても,1日に100万個以上の細胞が死に,かつ新生するといわれる。
細胞死は単なる偶然的なものや退化的なものばかりでなく,発生初期などに形態が形成されるため,必然的に起こる予定されたものがある。グリュックスマンA.Glücksmanは動物の発生過程における細胞死の意義を三つに大別した(1951)。(1)系統発生的現象に伴う細胞死で,幼生の生活にのみ役だっていた器官や組織を除く働きをする。高等脊椎動物の前腎・中腎,無尾両生類の尾・えら,完全変態昆虫の幼生器官の除去である。(2)組織形成に伴う細胞死で,軟骨形成時や骨形成時などの器官や組織の分化に役だつ。(3)形態形成に伴う細胞死で,折りたたみ構造や関節のように,いくつかの組織が集まるところに見られ,ニワトリの翼芽後縁の壊死(えし)域,哺乳類の胚の手足の指間の水かき部分の除去,腸管の内腔形成などがその例である。これらの過程は正常発生に不可欠なため,予定され,十分制御されていなければならない。遺伝的要因が関与するもののほか,無尾両生類や昆虫の変態のように,血液中のホルモンに依存する場合や,四肢や翼の壊死域におけるように,局所的因子が死の開始に必要な場合がある。これらの因子が,ゲノムの表現に対する作用を介して細胞のエネルギー代謝を変化させるのか,遺伝情報の転写と翻訳の完全な停止をもたらすのか明確ではないが,細胞死の過程が始まると,膜系に透過性や生化学的変化が生じ,リソソームの酵素系の活性が増し,食細胞が作用を開始する。
こうした予定された死とは別に,発生過程で脊椎動物の神経細胞や哺乳類の卵巣内での卵細胞の大量な細胞死が見られる。神経細胞では標的細胞からの神経成長因子の関与が知られているが,これらの細胞の大量死の意義は,まだ十分には解明されていない。
執筆者:能村 哲郎
医学的には死は,従来,心臓あるいは肺の不可逆的(永久的)な機能停止により判定されてきた。人体を構成する臓器のうち,生命の維持に直接関与する点で重要なものとして,脳,心臓および肺をあげることができる。これら3臓器はそれぞれ中枢神経機能,循環機能および呼吸機能を分担し,生命現象の確保と維持に不可欠な存在である。その相互の関係を見ると,脳はその機能維持に不可欠の酸素を,肺・心臓の働きなくして受けることができず,同様に心臓も肺のガス交換機能なしに酸素を摂取することができない。また肺は心臓の拍動によりその循環が確保され,同時に脳の呼吸中枢の支配によって機能を発揮する。すなわち,この3臓器は互いに支配を及ぼし合いながら密接に関連し,いずれもがともに機能を営むことにより,初めて生命は維持される。ここに,これら3臓器によるいわゆる〈生命の環〉が形成されている。換言すれば脳,心臓あるいは肺のうち,いずれか一つの臓器がその機能を失えば死を意味する。この3者のうち,心臓の機能は心拍または脈拍の有無により,また肺のそれは呼吸運動の存否により,脳のそれは瞳孔反射の様態により,いずれも動的な現象として外部から比較的容易にとらえることができ,死の確認の指標としてきた。すなわち,(1)心臓の拍動停止,(2)呼吸停止,(3)瞳孔散大を,従来から〈死の3徴候〉として死(いわゆる心臓死)の判定を行ってきた。ところが人工呼吸器が開発されこれが医療の場で用いられるようになると,患者の呼吸停止は人工呼吸器によって代償され,したがって呼吸現象の途絶はこの限りにおいて起こらない事態となった。重症患者において,心拍は持続しているが脳の機能が失われている例が出現するに及び,従来の死の概念では律しきれない類似現象として脳死が認識されるようになった。やがて医療技術が向上し免疫抑制剤の進歩もあって,欧米を中心とする諸外国では機能の減退した臓器を他人のそれで置き換える臓器移植が進展してきた。なかでも心臓移植においては従来の3徴候による死の判定では対応できず,新しい死の定義は必須となった。ここに,脳死の問題は臓器移植と絡んで社会の論議の対象とされた。日本では1997年10月16日から〈臓器の移植に関する法律〉が施行され,脳死者からの臓器移植が法を基盤として行われることとなった。
通常,死とは個体の死を意味しているが,これをより細かに観察すると,総体としての個体の死は,必ずしもつねにそのすべての臓器や身体部分の死滅を伴っているとは限らない。例えば心筋や腸の運動能力は,死後数時間にわたり持続することがある。この現象を〈超生〉という。すなわち,個体の死以後も一部の臓器や組織はなお生存を続けうる。このように死に対する視点を変えると,個体の死以外に,個体を構成する臓器レベルの死,さらには臓器を形成する細胞レベルの死等々が考えうる。この個体,臓器,細胞などの各段階は,いずれもそれぞれの有する機能の永久的な停止という点で共通性はもっているが,死を論じるに当たってそのレベルの認識は不可欠で,視点の混同はしばしば論議の混乱をきたす。
死の判定は,通常の場合は前記の方法,すなわち心拍の停止,呼吸の停止,瞳孔の散大という3徴候を用いることにより,比較的容易に行える。しかしここに臓器移植が関与してくると,ときには心臓が拍動している身体から臓器を摘出する必要に迫られる。いわゆる脳死体からの臓器移植である。そこで前述の〈臓器の移植に関する法律〉に関しての施行規則の中で,日本の脳死判定は次の項目によることと定められた。(1)深い昏睡,(2)瞳孔の固定,(3)脳幹反射(対光反射など)の消失,(4)脳波の平坦化,(5)自発呼吸の消失,(6)これらの所見が6時間経過後も変わらないこと。この判定基準は,1985年に発表された《厚生科学研究費特別研究事業 脳死に関する研究班 昭和60年度研究報告書》に記載されたいわゆる〈竹内基準〉に準拠したものである。ただ脳死をもって人の死とするかについては,法の制定に際し国会でも論議が交わされたが,明確な合意を得るにはいたらなかった。
脳死に関して,しばしば混同されるものに,いわゆる植物状態(植物人間)がある。この両者はまったく異なる。すなわち植物状態というのは,重症な脳損傷による継続的な意識障害であり,神経反射や自発呼吸はほぼ保たれ,脳波も平たん波ではない。また発声,開眼あるいは眼球運動などを示すことがある。その名のとおり,脳のいわゆる植物中枢の機能は保たれているわけである。安楽死などの論議に当たっても,少なくともこの2者の相違についての認識は必要であろう。
死を判定することの必要性として,次の三つがあげられる。(1)社会的存在の消滅 死とはもともと生物学的な現象ではあるが,人における死は当然に,その家族的および社会的生活の終了を意味する。人(自然人)として有していた権利・義務も,一般に死とともに消滅する。したがって死の時点を明確にし,これを公にすることにより,死に伴う一連の行政的,法的な諸手続が開始される。(2)治療行為の打切り 患者に対する治療の目的が,生命を救助し健康を回復することにあるかぎり,すでに死に至った者に対する治療行為は無意味であり,その目的を失う。そこで,死の到来を明確にし,以後の治療を停止する。この端的な例は,前記の人工呼吸器により治療中の患者に対して,諸検査にもとづき死を宣告し,機器の作動を停止させることなどに見られる。(3)臓器の移植 すでに死に至っている人から,まだ生存を続けている臓器を摘出して,第三者の生命や健康に役だてようとする場合である。したがってこの場合においては,個体としての死は認定されるが,対象の臓器は,まだ死に至っていない時点を,的確かつ時期を失することなく見きわめることが要求される。しかも移植の効用の点のみから考えるならば,一般に供給者からの臓器の摘出は早期であればあるほど望ましい。このように,前2者においては死の判定は多少の時間的余裕を与えられているのに対し,臓器移植が関与している場合には,判定の正確さとともにそのタイミングも重要となる点で特異である。いずれにしても,死の最終的な判定は医師によってなされる。とくに脳死など,その判定に論議の多い分野においては,複数の専門医による討議が不可欠となる。死が認定された場合には,その医師により死亡診断書または死体検案書が発行される。
→脳死
執筆者:福井 有公
死にかかわる法律というと誰でも思い起こすのは,殺人罪や傷害致死罪を規定している刑法であろう。そこでは〈人を殺してはならない〉という倫理上の原則が,法律上でも自明の原則とされている。その同じ刑法がそういう重い罪を犯した者を罰するために,犯罪者とはいえ人の生命を奪い取るという極刑(死刑)を科している。ただし国によっては生命尊重の思潮から死刑廃止論が強く主張され,死刑廃止が実現されているところもある。
他方,死亡が民法上もつ意味は,いっさいの法律関係の単位である人(自然人)が消滅することである。人の死亡によってその人の財産はもとより,その他の権利や義務はその人一身限りで消滅するのか,それとも一定の人に承継されるのかなどが問題となる。いいかえれば,死亡とは自然人の権利能力の終点であり,その意味で権利能力の起点である出生と対照をなしている。ところで民法は出生については〈私権ノ享有ハ出生ニ始マル〉(民法1条ノ3)という一般的宣言規定をおいているのに対し,死亡については,そうした規定をおいていない。そのかわり,〈相続は,死亡によつて開始する〉(882条)という規定があるし,そのほかにも他人との間の契約上の権利,義務や地位が,主体の死亡により消滅することを示すいくつかの規定がおかれている。例えば,本人の死亡,代理人の死亡による代理権の消滅(111条),借主の死亡による使用貸借の消滅(599条),委任者または受任者の死亡による委任関係の消滅(653条),夫婦の一方の死亡と姻族関係の消滅(728条)などである。これらが共通に前提としていることは,死亡した人に属する権利,義務がその帰属関係を失うということであり,これら諸規定が全体として〈私権の享有は死亡で終了する〉ことを間接的に表現するものといえる。
以上みてきたように,刑法の規定のしかたが,個体の生命を尊重することが法の一つの理想であることを示すのに対し,民法の規定のしかたは,法律関係の単位が個体としての人であることから,個体が消滅するときは個体をめぐる法律関係の後始末が大きな領域を占めることを提示する。
死とは,個体が生の状態からその喪失へと漸次的に移行する連続的過程である。とはいえ,単に法的な問題としてだけでなく,社会的にも,個体のたどるいかなる状態,時点をもって,死と判定するかを決定することは必要なことである。そして死の判定は,社会の代理人としての臨床医に託された問題であった。ところが各国とも法律で,死とは何かについてなんの規定もおいていないのが通例であった。日本もその例外ではなく,わずかに〈死産の届出に関する規程〉(厚生省令42号,1946)が〈死児とは出産後において心臓搏動,随意筋の運動及び呼吸のいずれをも認めないものをいう〉(2条)という規定をおいているのが,死の概念なり認定方法なりを示唆するにとどまるだけであった。それというのも,従来の3徴候(心拍の停止,自発呼吸の消失,瞳孔の対光反射の消失)を死亡の標識とする慣行が臨床上確立し,社会も慣習法として承認してきたので,法律上規定する必要性が感じられなかったからである。
留意すべきこととして,ヒトの生命現象としての死亡という自然的・生物的事実と,自然人である〈人〉の死亡との関係がある。両者の関係には次のようないろいろの意味が含まれる。すなわち,(1)ヒトの死亡という具体的事実さえあれば,それがそのまま法的な〈人〉の死亡になる。(2)死亡は,人間の意思や精神作用と無関係に法律要件たりうる。(3)戸籍記載のための死亡届(戸籍法86条)は,すでに発生した事実の報告的届出にすぎず,自然的な死亡日時が真実の法的死亡日時とされる。このように法律上の死亡は自然的な死亡のみを要素としており,両者は未分化にみえる。しかし,概念として両者は別個の次元に属するものであり,法律上の死亡概念は人為的な評価概念なのである。
自然的に死亡したか否かが必ずしも明らかではないが,法的には死亡したものと擬制する場合もある。すなわち失踪宣告や認定死亡,さらには戸籍上の職権消除などは,いわば生死不明ながら〈死んだものとして処理する〉必要性から編み出された法技術である。
(1)失踪宣告 民法上もっとも明りょうに規定されている擬制的死亡は,失踪宣告(民法30条)である(〈失踪〉の項目を参照)。それは,ある人の生死不明が永続したような場合,その人の家族や利害関係人に不便や困惑を与えることから,一定の要件のもとに,その人を死亡したものとみなす制度である。
(2)認定死亡 失踪宣告のように厳密な手続をしないで,戸籍簿上死亡として扱う制度である。例えば,船舶の難破とか火山の噴火や大火とかで,そこにいた人々が全滅したことは確実だが,死体が発見されないというような場合に,特別失踪の手続をしないと戸籍簿に死亡の記載ができないとなると,実際上ふつごうを生ずる。そこで1914年以来,戸籍法に規定をもうけ,〈水難,火災その他の事変によって死亡した者がある場合には,その取調をした官庁又は公署は,死亡地の市町村長に死亡の報告をしなければならない〉(89条本文)とした。もっともこれは,通常の死亡において,届出義務者が死亡診断書または死体検案書を添付して死亡届をし,戸籍上の記載が行われることの例外の一つにあたる。すなわちそれらに代わる〈死亡の事実を証すべき書面〉(86条3項)の一つとして,責任ある官庁,公署による報告書にもとづく死亡記載を許容した手続規定なのである。これは戸籍記載のもつ一般的推定力以上の実体法的意味をもたず,個々の反証によりその効力はくつがえるし,また,この認定手続後に正規の失踪宣告手続をすることも妨げない,と解するのが妥当である。その報告が誤りで実は本人が生存していた場合,公の報告と戸籍の記載を信じた利害関係者の利益を保護するために,失踪宣告の取消しに関する民法32条を類推適用すべき可能性を閉ざすわけにもいかないであろう。同時にこの戸籍手続が,終始公的機関による行政的処理にもとづいていることを考えると,その解決法においては失踪宣告手続の取消しの場合以上に,本人の利益を配慮すべきであろう。
(3)同時死亡の推定 例えば,同じ場所で被災した夫と妻,親と子など2人以上の者の間で死亡時間の前後を決定するのが困難な場合が起こりうる。そこで1962年,民法にそれについての規定がおかれ,同時に死亡したと推定することとした。その結果,同時死亡者間には相続は起こらないこととなった。
(4)職権による死亡記載 所在不明であってすでに100歳に達する高齢者については,戸籍実務上,職権による死亡記載の取扱いがなされることがある(1957年8月1日民甲1358通達)。
ある人が死亡すると,財産の帰属問題のほかに,遺体(死体)の世話,管理の面で,遺族あるいは一定の者に,遺体に対して次のいくつかの権利義務が発生する。
(1)死亡届 人が死亡した場合には,届出義務者(親族,その他の同居者,家主など)がその事実を知った日から7日以内に,診断書または検案書を添付して,死亡地の市区町村長に届け出なければならない(戸籍法86~93条)。
(2)埋葬,火葬,水葬 死体の葬り方は国により文化によってさまざまである(遺灰を川に流す国,鳥葬が行われている国など)。日本では,〈墓地,埋葬等に関する法律〉(1948)によって,埋葬(土葬をいう),火葬を原則とし,特別な場合として,船員法15条で船舶の乗員の水葬が認められている。火葬は,火葬場以外の施設で行ってはならず,埋葬または焼骨の埋蔵は,墓地以外の区域に行うことはできない。しかし,1990年代に入ってから,自然葬を求める人々の活動に伴い,法務省・厚生省も,礼意をもって焼骨を散骨することは刑法の死体損壊等の罪(190条)に当たらないという解釈を表明した。以来,海などへの散骨を選ぶ人々は増えてきている。埋葬または火葬は,死後24時間を経過した後でなければ行えず,また市区町村長交付の埋葬などの許可証を必要とする。それに先立って,死亡もしくは死産の届出の受理などが行われていなければならない。
なお,〈死体解剖保存法〉(1949)にもとづいて,死体が解剖される場合がある。また,〈医学及び歯学教育のための献体に関する法律〉(略称,献体法。1983)にもとづいて,死体が献体される場合がある。これらは,死の判定後,埋葬・火葬前に行われることである(臓器移植法については後述)。
個体の死の標識として,今まで慣習法として定着してきた3徴候の相互依存作用は,医学技術の発達によって崩れることとなった。それはレスピレーターや人工心肺機器の開発などを中心とする人工的生命維持装置が発達したことによる。そのような機器の介在によって,いわゆる〈dead brain,living heart(死んだ脳,生きている心臓)〉という状態が生ずることとなった。しかも,置換医療の発展の最先端をいく心臓移植の開発は,この状態の矛盾を巧みに利用し,心臓摘出を合法的にしようとするものである。ここに脳死をもって個体の死と考える〈脳死説〉が登場することとなった。こうして脳死説は心臓移植と連動していたため,心臓移植への賛否が脳死論の是非論に反映し,また,脳死説への賛否が心臓移植の是非論に影響するという結果になっていた。もっとも心臓移植は,脳死問題を除いても,その臨床治療としての確立度にいくつかの疑点を残していたため,日本では退潮してしまった。しかし,同じ移植医療の中でも腎臓移植が臨床医療として世界的に確立したことが,脳死概念の実際的必要を保持していたのである。ただし心臓移植の場合と異なり,腎臓の摘出にとっては脳死概念の採用は不可避の条件ではないため,国によりその採否は必ずしも一様ではない。
脳死概念の普遍化を妨げる最大の障壁は,心臓を中心とする3徴候説を定着させてきた社会通念との間にあるギャップである。さらに脳死の判定方法が技術的にも未確立であったことが,人々のためらいを増幅させた。
これらの難点の克服の過程で,脳死の判定基準に関して各国の各種団体による案が相ついで発表された。その間,日本脳波学会の〈脳死と脳波に関する委員会〉(1968)が〈脳死とは,回復不可能な脳機能〉の喪失であるとし,〈脳機能には,大脳半球のみでなく,脳幹の機能も含まれる〉としたことは,その後の脳死論の推移に照らしても意義深い。しかし,脳死は〈脳幹を含む全脳機能の全面的不可逆的消滅である〉とする見解に対し,〈全脳でなく大脳の不可逆的消滅である〉とする見解も存在するが,大勢は前者へ傾いていった。その後10年余の間に,病態解明・検査法の発達などが進み,1980年代から各国で公的基準が次々と発表された。日本でも,厚生科学研究費による特別研究事業として〈脳死に関する研究班〉が83年に発足し,脳死症例の全国調査を行い,85年5月にはその結果を公表し,同年12月には,脳死の判定指針および判定基準を発表した。いわゆる竹内基準(前述)と呼ばれ,若干の批判を受けつつも評価を得たものがこれである。留意すべきは,〈この基準はあくまで全脳死概念に基づく判定指針・基準であり,脳死をもって死とするという新しい“死”の概念を提唱しているのではない〉と自らその限界を明言し,それは〈改めて別の場で討議されるべし〉としたことである。それをうけて,移植医療の推進を図るべく政府が発足させたのが,〈臨時脳死及び移植調査会〉であった。同会は,92年1月最終報告を提出し,医学的にのみならず,社会的・法的にも脳死をもって〈人の死〉とすることを妥当とした。しかし同時に,〈脳死〉は〈人の死〉といえない,そう決める必要がないとする少数意見をも添付していることが注目される。ともあれ,脳死をもって個体の死となすためには,〈病因からみて最善の医療行為をつくしてもなお生理学的な死が確実であること〉,したがって〈脳幹を含むすべての脳機能が廃絶して,心身統御が不可逆的に廃絶していること〉が前提として存在しなければならない,とする見解が妥当であろう。
1994年4月,議員立法の形で〈臓器移植に関する法律案〉が国会に提出され,実質的な審議を経ないまま難航した後,突如97年6月,〈臓器の移植に関する法律〉(略称,臓器移植法。1997)。が成立するという経緯をたどった。本法による臓器提供者(本法の適用対象者)となるためには,第1の要件として書面による臓器提供意思の表明が,さらに第2の要件として書面による脳死判定に従う意思の表明が求められている。こうした2要件をそなえ,かつ,遺族(家族)がそれらを拒まないとき,または遺族(家族)がない場合にのみ,心臓,肺,肝臓,腎臓,その他厚生省令で定める内臓(膵臓,小腸)および眼球が,脳死判定された者(ドナー)の個体から摘出され,移植されるものである。それらの者は,移植医療のための特別な脳死判定に服し(6条3項),脳死した者の身体は死体に含む(同1項)とされている。はたして,それらの脳死の判定がなされた者が,民法上の相続その他すべての法律関係で〈死者〉として扱われるのか否かという肝心の事柄が,本法全体を通して明確にされていない。なお,臓器移植法の成立により〈角膜及び腎臓の移植に関する法律〉(略称,角膜腎臓移植法。1979)それ自体は廃止されたが,脳死した者の身体以外の死体(3徴候による死の判定を受けた死体)からの角膜と腎臓の摘出については経過規定(附則4条)を置き,当分の間,従前どおり遺族の書面による承諾で足りるとした。本法制定後一定期間経過後の見直しの前後を通して,これまでの脳死論議をはじめ,移植医療と救命救急医療との相剋をめぐり,〈いのち〉とは,〈医療〉とは,という問いかけが続くことは必至であろう。
執筆者:唄 孝一+星野 澄子
死を意識し,それを文化のなかに取り込んでいるという点で,人類は特異な生物である。あらゆる人類文化は,死についてのなんらかの対処法,あるいは死を一つの問題と見た場合,その解決法と呼べるようなものを提示している。死の起源についての神話的説明,死後の世界の信仰などは,この解決を観念と空想の領域で示そうとするものであり,人の死をきっかけとして行われる諸儀礼すなわち葬制の存在は,象徴的・演劇的表現の領域で人類がなそうとしてきた死の解決の試みを証明している。こうした問題の設定とその解決の試みを一般化して〈文化における死の受容〉ということもできるが,さらにその奥底には受容の見せかけをとった〈死の否認〉が隠されていると見ることもできよう。いずれにせよ,死を個人の人格の完全な無化とみなし,かつその無化への代償をなんら用意していない文化は存在しない。それは死後も存続する霊魂と他界における第二の生という直接的な形をとることもあれば,死の後にこの世に残る子孫とか名声あるいは生前になし遂げた事跡といった物象に仮託することもあり,あるいは生き残った人々が死者のために行う記念の行事であることもあるが,人間の文化は必ず物理的な死を超える何ものかを提供しているのである。この項では,未開と呼ばれる文化を例にとり,死の代償ないし解決としてここに挙げた三つの方式について述べよう。
E.B.タイラーによるアニミズム説においては,人間が身体とは別の個性的実体(霊魂)をもつという二元論的観念は夢の経験によって支えられ,さらに夢の中にすでに死んだ人の像を見ることから,この実体は死後の存在(死霊)に結びつけられる。すなわち,死者が夢見られる以上彼(の霊魂)はどこかに存在するという理屈が成り立つわけであり,したがってこのことは,他界,霊界のイメージの成立に導くという。タイラーの説はあまりにも合理主義的な説明だとの批判にさらされたが,死後の存在と他界の表象の発生を,人間の記憶の能力と心像の外的投影に求めたことは基本的に正しい。死霊として死後も人の個性が存続するという信仰は,キリスト教などの歴史宗教における霊魂不死の考え方に近いといえるが,未開文化にあってはこの不死を永遠のものとすることはまれである。つまり多くの場合,他界での生はこの世の生ときわめて似かよったものとイメージされており,それゆえに霊魂もまたあの世で死ぬと考えられている。この場合人の死に対して不死を対置するのではなく,第二の生(再生)を対置するのだといってもよかろう。東南アジアの山地民社会でしばしば見られる観念によると,霊魂はこうして溶解し霧や雨となり,大地に入って穀物を実らせる。これを食べることによって後の人は生活を続けていくわけであり,ここに一種の輪廻思想の萌芽,死から生への復帰のモティーフを見ることができる。
他界での第二の生という観念が十分に展開されていない文化(例えばアフリカの牧畜民社会)では,個人の死は子孫の繁栄とか名まえの継承など社会的な代償によって一種の救済を受ける。ヌエル族のあいだで幽霊婚として知られる慣習は,結婚をすることなく死んだ人物の名義で別の者が結婚することによって,そこに生まれた子どもを死者の子どもとする制度であるが,財産の相続など経済的な側面を別にしても,これによって死者は社会的な無化から免れることができるのであり,その意味で死という問題を社会制度のなかできわめて巧みに馴致(じゆんち)するものだといってよい。隣族のディンカにおいても,子どもをもつことは不死を達成する唯一の方法であるといわれている。東南アジア大陸部から島嶼(とうしよ)部にかけて見られる巨石文化のもとでは,巨石記念物の建造がそれを建てた者の生のあかしであり,死後彼の存在が社会のなかに永遠に残されることを保証する。このように社会的達成が死を乗り越えるとする心理は世俗化された現代社会にもあてはまろう。
人類に普遍的に見られる現象の一つに死を儀礼で彩ることがある。この中にはしばしば死を象徴的に克服する生あるいは再生のモティーフが現れる。その極端な例は,メラネシアのいくつかの民族で行われている,遺族が死者の肉体の全部または一部を食べる,いわゆる族内食人の儀礼である。これは死者の生者への直接的同化による死の超克であるが,それ以外にも死の儀礼は性的豊饒(ほうじよう)の表現(例えば乱交)や遊戯の過剰を伴うことが多い。こうして儀礼は死を生に置換する装置となる。ときには死後盛大な儀礼が行われること自体が大きな意味をもつこともある。スラウェシに住むトラジャ族は濫費的といえるほどの祭りを死者のために催すが,これによって個人の死は社会の成員との広範囲なつながりを獲得するのであり,死を生者の営みの中に積極的な意義をもつものとして取り込むことになるのである。
執筆者:内堀 基光
人間の死には,自己の死と他者の死の両面が含まれているが,現実にはそのどちらかの一方に重点をおいてみるのが普通である。そしてその重点のおき方の違いに応じて,死の観念や死に対する態度にさまざまな変化がみられた。一般に他者の死は観察することができるが,自己の死もしくはその観念は,一種の極限的な経験として想像や表象の領域に結びつけられている。例えば,死にかんする科学的で客観的な認識と宗教的・哲学的認識の相違は,そのようにして生じたといえよう。しかしそれと同時に,上記の二つの立場に橋を架けようとする試みが一方で行われてきた。その中から,死にかんする多種多様の神話や儀礼が生みだされ,独特の身体論や宇宙論や他界観が形成されたのである。
つぎに,死の現象はこの地上における一回きりの汚れた肉体の消滅にすぎないとする考え方があるのと同時に,死の現象は生の現象と表裏の関係を保ちつつ,死後の世界とも相関的なつながりを保持しているとする考え方がある。すなわち,死を生との切断を象徴する絶対点であるとするのが前者であり,これにたいし生の世界を死後の世界へと接続する媒介点であるとするのが後者である。例えば,前者の絶対点を強調したのが欧米のキリスト教文化圏であり,それに対して後者の媒介点を強調したのが日本を含むアジアの仏教文化圏である。
ところで,中国の孔子は〈われいまだ生を知らず,いわんや死においておや〉といって,死を未経験の領域に位置づけているが,インドの仏陀は死を涅槃(ねはん)ととらえ,永遠の生命にいたるための出発点と考えた。これに対してイエス・キリストは十字架上で犠牲になり,死んでよみがえった。すなわち,おおづかみにいって,孔子は死を不可知の対象ととらえ,仏陀はそれを生の充実と考えた。そしてキリストの最期は,その死が再生にいたるための断絶とみなされていたことを物語っている。この死に対する三つの態度は,時代をこえ地域をこえて共通に見いだされる特徴であり,神話や芸術,文学や哲学などの種々の観念や発想の母胎ともなったものである。
しかしながら,一般に死の自覚が深まったのは中世であった。孔子や仏陀やキリストなどの活躍した古代世界においては,死をいわば天体の運行にも似た不可避の運命とする観念が優勢であったが,これにたいして中世世界は死の意識の反省を通して〈死の思想〉とでもいうべきものの発展をみた時代であった。例えばJ.ホイジンガの《中世の秋》によれば,ヨーロッパの中世を特色づける死の思想は,13世紀以降に盛んになった托鉢修道会の説教における主要なテーマ--〈死を想え(メメント・モリmemento mori)〉の訓戒と,14~15世紀に流行した〈死の舞踏〉を主題とする木版画によって象徴されるという。当時のキリスト教会が日常の説教で繰り返し宣伝していた死の思想は,肉体の腐敗という表象と呼応していた。肉体の蔑視(べつし)が,〈死を想え〉の聖なる合唱へと接続していたのである。
くしき符合というべきであるが,日本においても〈死の思想〉が急速に広まったのは王朝時代の末期から鎌倉時代の初期にかけてであった。古代末から中世的世界の形成期にかけて姿を現したといえるが,具体的には各種の〈往生伝〉の編述(王朝末期)および《地獄草紙》や《餓鬼草紙》などの六道絵の制作(鎌倉初期)となって実を結んだ。そしてそのような動きに大きな影響を与えたのが源信の《往生要集》であったことは重要である。というのも《往生要集》はその第1章〈厭離穢土(おんりえど)〉と第2章〈欣求浄土(ごんぐじようど)〉によって,のちに日本における地獄学と浄土学の出発点とみなされるようになったからである。その刺激のもとに作られた《日本往生極楽記》や《本朝法華験記》をはじめとする各種の〈往生伝〉には,名のある高僧の生涯やその死=往生の奇瑞(きずい)とともに,無名の修行僧のさまざまな往生のありさまが記されている。これらの〈往生伝〉は修行僧の伝記という体裁はとっているけれども,しかし考えようによっては,人間の死の準備,死の覚悟,死の方法,死の意識といった死にかんする理論と実践を,類型的に記述したものとしても読むことができるのである。そしてこれと対応する文献をヨーロッパ世界に求めるとすれば,中世末に,とりわけオーストリア,ドイツ,フランス,イタリアなどで書かれた〈アルス・モリエンディ(往生術)〉と総称される作品群をあげることができよう。この文献は大きく2種類に分けられる。第1は,死の経験と死を迎える者を最後の旅に誘う技術について論じたテキスト群であり,第2は死と生の関係をとり扱ったもので,人生の無常と死の遍在と現世の営みの無意味さを力説したものである。こうしてみると,少なくともヨーロッパ中世の〈往生術〉と日本の〈往生伝〉においては,死というテーマについて共通の関心が寄せられていたことがわかる。
アリエスPhilippe Arièsの《死と歴史》によれば,ヨーロッパの中世こそは〈己の死〉が発見された時代であったという。この著作は死に対する人間の態度を歴史的に概観したものであるが,それはやがて現代にいたって,〈死をタブー視する〉態度へと転じたといっている。先にのべた〈往生伝〉や〈往生術〉などの中世的な世界観にたいして,死の問題を医学や病院の手にゆだねてタブー視する態度は,たしかに近・現代に固有の死生観に由来するものと思われる。しかし,そのような全般的な状況のなかで,日本人がそれなりに独自の死に対する観念を発達させてきたことはいうまでもない。ここではその問題を,インド人とアメリカ人のそれと比較することを通して浮彫にしてみよう。
インドのベナレス(ワーラーナシー)はガンガー(ガンジス)川の中流域に位置する聖地であるが,そこには医者からも天命からも見放された巡礼たちが,最後の死出の旅路を求めてやってくる。彼らは死後ガンガー河畔で焼かれ,骨灰が川に流されることで昇天する,と信じている。河岸近くにはそれら死の巡礼たちを収容する家が立ち並び,〈解脱の家〉〈休息の家〉と呼ばれている。わずかの近親者だけが付き添い,医者も看護婦もソーシャル・ワーカーも聖職者ももはや立ち入らない。静かな沈黙の2~3週間が過ぎて,最後に遺体がガンガー川へと運ばれる。そこでは火の浄化力が肉体を処理し(火葬),水の浄化力が魂の行方を定める(昇天)という観念が生きている。人間の魂は死後,宇宙と自然のなかを循環すると考えられているのである。これに対してアメリカ人の場合はどうであろうか。近年,死の問題について注目をひいているものにエンバーミングembalmingとクライオニクスcryonicsのテーマがある。エンバーミングとは死後遺体を美しく装うことであり,事故や戦場で遺体が四散した場合はそれらを集めて縫合し,生けるがごとくそれを整えることである。クライオニクスとは人間の冷凍化を意味する。癌のような不治の病にかかった場合,その人をなん年か冷凍化し,治療法が発見されたときに解凍して治療をほどこすというものである。以上の二つの問題に共通するのは,肉体の重視と魂の軽視ということであろう。《死ぬ瞬間》の著者として知られるキューブラー・ロスElisabeth Kübler-Rossは,そのホスピス(死のみとり)運動の経験のなかから一つの仮説を導きだした。すなわち,死病におかされたことを知った患者は初めは衝撃,否認,怒り,抑うつの状態を経験するが,やがて受容の状態へと推移していく。しかし最後には〈デカセクシス〉の心境へと飛躍して死を迎える,というのがそれである。デカセクシスとは現実世界との完全な断絶を自覚することであり,いわば無への進入に身をまかせることを意味する。そしてここでもまた,死の瞬間に魂の働きを認めようとはしない精神態度が顕著に現れている。
以上の事例に比して日本人の場合はどうであろうか。もちろん日本人のうち,先のインド人型やアメリカ人型の考え方をとる人々がいないわけではない。だが日本人の死との交わり方の基本的なパターンは,それらとは明らかに違ったものである。柳田国男によれば日本人は古来,死後はその霊が家の裏山のような小高い山や森に昇ることを自然に信じてきたのだという。山に昇った荒魂(あらみたま)は時の経過とともに清められた祖霊となり,やがてカミの地位にまで上昇していく。そしてそれらのカミは,里に降りてくるときは田の神や歳の神としてあがめられ,またいつしか氏神や鎮守の神としても祭られるようになった。一方,日本の山は神霊の降臨する聖域でもあり,《万葉集》で山部赤人がうたっているように,高く貴く神さびた山(富士山)として尊ばれたのであって,決して単なる自然的な景観や物体などではなかった。やがて仏教が入ってくると,その山は死後におもむくべき浄土もしくは地獄と観念されるようになり,修験道の発達とも結びついて山中他界観が成立した。霊場とされる山中に,阿弥陀原,地獄谷,賽の河原(さいのかわら)などの地名が付されているのはそのためである。むろん日本には,海中や海上のかなたに死後の世界を認めようとする海上他界観がないわけではないが,山中他界の伝承と比べると,その重要性ははるかに軽いものといわなければならない。こうして日本列島における山岳世界は生者と死者を媒介する聖域であり,死後の魂が昇り行く他界であると同時に,そこからカミやホトケがこの世に来臨するユートピアとも観念されたのである。日本人はそのような自然と融合し,そのような山岳世界に包摂されることを願って,死の準備を整えるようになったといえよう。
つぎに死の認識について重要なのは霊と肉の問題である。ギリシアのプラトン主義やオルフェウス教では肉体は魂を束縛するものであり,したがって霊魂を肉体から解放すべきであるということを説いたが,しかしキリスト教は霊と肉の一体視を強調した。なぜなら,キリスト教徒の信条では,死者は肉体をもったまま昇天すると考えられたからであり,新約聖書によると,ゴルゴタにある昇天後のキリストの墓はからになっていたと記されている。日本では古来,ギリシアの場合におけるように霊・肉二元論の考え方が主流を占めてきた。人の死後その遺体を,埋葬までの一定期間地上に放置するという殯(もがり)の風習が古くから行われたが,その背景には魂が遺体から分離し遊離するという観念が横たわっていた。そこから,死後の魂を呼び戻そうとする魂(たま)呼びの儀や,逆に死後の荒魂を抑えつけ閉じこめようとする鎮魂の呪術が行われるようになった。また死後の魂は生者による供養をうければ清められた祖霊となるが,供養や鎮魂によって鎮められない霊は悪霊や怨霊となってたたると信じられた(たたり)。死は単なる肉体の消滅を意味するのではなく,肉体から離れた霊の独自の働きを活性化するのだ,という観念が長いあいだ生き続けてきたのである。
最後に日本人における死の観念を特徴づけるものとして,遺骨崇拝をあげることができる。ヨーロッパにも聖人の遺骨に対する崇拝(聖遺物)がみられるが,日本では11~12世紀以降になって納骨慣習が広い階層のあいだに浸透し,その後の墓制や死者儀礼に甚大な影響を与えることになった。とりわけ明治以降,戦争で死んだ人々の霊を慰め鎮めるために,遺骨の収集とその奉斎,鎮魂の問題が重要視されてきたのは,他の文化圏には見られない現象であって,注目すべき特色である。
執筆者:山折 哲雄
死の図像表現は,それぞれの民族や文明がもっている根源的な死生観と,その土台をなす宗教とに密接に結びついているため,その民族あるいは文明に伝承されている葬送儀礼の総体から引きはなして,図像のみを論ずることは不可能である。また,死の表現は生と死の風俗のもっとも社会学的な現象を示すものであるから,これを狭い意味での〈芸術〉表現とみなすことにも問題がある。
多くの場合(とくに先史時代,古代,原始社会において),死の表現は,死者の霊を彼岸に導き,その再生をはかろうとする呪術的な祭祀のプロセスの中に示される。死後の霊の旅と再生についての,もっとも体系的な思想をもっていたのは,古代エジプト人やチベット人であるが,それはシャマニズムと宗教(仏教,ヒンドゥー教,イスラム教,ジャイナ教,キリスト教)のあるところに普遍的に存在するものである。しかし,墓や〈死者の書〉に描かれた死者や死の支配者および彼岸のイメージは,造形的に独立した〈死〉の図像としてはとらえがたい。エジプトの壁画では,死者は冥界の神オシリスか太陽神アメン・ラーの支配下にあって,自分の生前の行為によって善悪の審判を受け,最終的には魂が祝福された永生の状態に入ることを祈念するプロセスが描かれている。ここでは破壊的要素をもつ存在はオシリスの弟で彼を八つ裂きにしたセト,あるいはアメン・ラーを飲みこもうとする巨大な蛇アポピApopiであろう。しかしそれは,後世におけるように専制君主的な〈死〉の独占権を振るうことはない。死は再生への一つの契機としてとらえられる。しかし,このエジプトの他界観に見られる三つの要素,〈天国と地獄,すなわち光の国と闇の国の対立〉〈死後における神の審判〉〈霊魂の輪廻転生〉は,以上にのべたすべての宗教に共通する。したがって,これらは純粋に死の表現とはいえないが,死後の世界のイメージとしては無数の表現をもち,宗教美術のもっとも生産的な主題となった。
死の表現の第2の型は,個人の葬礼の記念としてのモニュメントであり,古代ギリシアとローマを典型とする。第1の型が死後の霊の呪術的再生を祈念するものであったのに対して,第2の型はかつて生きた生を記念し崇敬する目的をもつ。古代の墓はことごとくそのために作られた。墓のみではなく,アッティカの壺絵,ローマの円柱碑なども同様である。死者は航海をして彼岸へおもむくものと考えられ,石棺は舟の形をとるものが多かった。しかし,ギリシア・ローマの人々も,英雄あるいは半神は,一度死んだのち再生,復活するものと信じていた。したがって,これらの英雄や,此岸と彼岸を往復する人間や神,例えばオルフェウス,アッティスAttis,アドニス,デメテル,ペルセフォネ(最後の2者は〈エレウシスの秘儀〉とかかわりがある)などは,死と再生の秘儀をつかさどるものとして信仰を得たため,これらの神々の表現は,降霊もしくは冥界からの蘇生の秘儀を示すものと考えられる。ペルシアのミトラ信仰もローマに入って同様の表現を得た。第1の型も第2の型も,それぞれ彼岸思想のあるところ,あるいは人文主義的思想のあるところには,並行して,もしくは独立して現れるもので,これは一時代,一文明に限定されるわけではない。しいて要約すれば,第1の型は死後の再生によって死の恐怖から逃れようとするもの,第2の型は,名声と記憶によりこの地上に生命を長からしめんとするものである。パノフスキーは前者を〈死後志向型〉,後者を〈生志向型〉と呼ぶが,究極においては,ともに,いかに人類が死と和解しようとしてきたかを表しているといえよう。
第3の型は,このいずれとも異なり,生の最中にこれを脅かし,破壊する恐るべき死神としての〈死〉の表現である。これについては,ヨーロッパの全人口の1/4が死んだといわれる14世紀半ばのペストの流行が大きな契機となったとされるが,その背景として,キリスト教的な世界観の衰退と,現世における生の向上という中世末期の社会状況があったといえる。第3の型は,死と生の両極をもつ緊張として人生をとらえる意識から生じたもので,ヨーロッパの近世の死生観を代表する。このイメージは14世紀に生じ,18世紀まで続くが,その最も盛んな表現は中世末期からルネサンスの芸術の中に含まれる。
第1にそれは〈死〉そのものの擬人的表現として登場した。これは,草刈り用の大鎌か松葉づえか,砂時計かを手にした骸骨である。古典古代には骸骨としての〈死〉の擬人像は見られなかった。なお,この鎌はローマの農耕神サトゥルヌスやギリシアのクロノスのアトリビュート(持物)である。ケルト人の信仰の中にあった死神オグミオスOgmiosがキリスト教の深層部に残存し,これがアトリビュートをもって独立したイメージを形成したと考えられる。これは中世のタロットの13番目に登場している。〈死〉の擬人像が盛んに描かれるようになった契機の一つは,ペトラルカの《トリオンフィ(凱旋)》の流行であり,15世紀には,勝ち誇る〈死〉が死体を乗りこえて凱旋する版画が各国で作られている。これよりも古く,骸骨の姿をした死者が墓場から出てきて踊るという伝承が中部ヨーロッパにあったが,これが〈死の舞踏〉の図像を形成するのは14世紀以降になってからである。この〈死の舞踏〉は,教皇,皇帝,枢機卿,農夫など,相手を選ばず〈死〉が訪れて手をとるという図像で,もともと宗教劇における典礼の舞踏として始まり,これが図像化されたものである。次に,〈三人の生者と三人の死者〉などの,いわゆる〈生者と死者の出会い〉の主題もよく描かれた。どちらも,〈死はすべての人間を訪れる〉という観念を表現したものである。さらに14~15世紀を通じて,〈アルス・モリエンディ(往生術,死者の心得)〉が広まり,このテキストにつけられた版画には,死者の魂を奪い合う天使と悪魔や,天国および地獄の光景がリアルに描かれている。15~16世紀のドイツには,若い美女の化粧の最中に死が現れる,いわゆる〈ウァニタスvanitas(はかなさ)〉の図像が流行した。この中で最も特徴的な例として,高位にある人物の墓に,その故人の死体の腐食と崩壊のありさまをリアルに表現する〈トランジtransi〉の図像がある。これはフランス,イギリス,ドイツに例が多い。一方,イタリアでは,仮面,ベール,逆さにした松明(たいまつ),蛇,頭蓋骨などで〈死〉を象徴させることが多く,死体や骸骨の表現は少ない。16世紀末から17世紀にかけて,イタリア,フランス,スペイン,オランダで頭蓋骨を花や果物と取り合わせて描く静物画の形式をとった〈ウァニタス〉の図像が盛んに描かれたが,この中では頭蓋骨はつねに〈死〉を表現し,また枯れた花もしくは腐った果物,カエル,蛇など地に住むものなども〈死〉のメタファーと解釈される。
16世紀半ばの反宗教改革期は,再び死についての思想を深刻化させたため,17世紀にはイタリア,スペイン,フランスなどイエズス会の勢力の強い地域に,苛酷な,骸骨による〈死〉の表現が強まった。死に対する民衆の恐怖が,根源的な救済を求めて再び神へと向かうことを企てさせたのであろう。
現世肯定的な18世紀においても,墳墓は骸骨の像で飾られた。しかし,総体的な芸術表現の領域での〈死〉の表現は,スペインのゴヤ,スイス出身のフュッスリ,イギリスのW.ブレークが出るまではほとんど存在しなかったといえる。18世紀末の社会的大激変の中で,再び悪意ある死,トリビアルな生の超越としての死という二つのイメージが,象徴主義的な表現によって復活する。とくにロマン主義と象徴主義の芸術家たちは,死を生の克服として表現するか,もしくは生の否定面,不条理の領域の拡大として表現するようになった。再び鎌をもつ死神(ミレー)や,《死と処女》(ウィールツ),《死神との合奏》(ベックリン)の主題が形を変えて出現する。また,性(エロス)と死の結合も世紀末芸術の主題の一つとなった。
現代においては,一方では科学的世界観によって,他方では物質主義的人生観によって,死の表現は著しく衰退した。先述の第1の型は彼岸の思想を根底としていたが,現代人はこれを失った。第2の型は英雄的な個人の生涯を土台にしていたが,現代の大衆社会は一個人の生をも死をも無意味化している。第3の型は死に対決する生者の哲学から生じたが,現代人は死を単なる物質的な終息としてのみ感受するゆえに,それは肯定的意義を有しえない。このようにして,現代はもっとも和解しがたき死,救いなき死をもっている。さらに現代の医学は,芸術における死の表現の重要な構成要素であった臨死者の人間的ドラマを奪い去った。これによって,つねに人間的な主題のみを表現する〈芸術〉は,現代の〈死〉に,いまだ形を与えることができない。ヒロシマにおける累々たる死体やアウシュビッツにおける骸骨の山,すなわち〈死の勝利〉の図像を示したのは,造形芸術ではなく写真であることが,現代の状況を暗示している。
→葬制 →他界 →墓 →臨終
執筆者:若桑 みどり
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生または生命に対置される概念で、医学、生物学、哲学、宗教、法律学、心理学など種々の角度からとらえられる。
医学的、とくに臨床的に死という場合は、心拍動、呼吸運動および脳機能の永久的停止が明確になったときと考えられており、人の死を判定するうえでは、一般的にみて、これがもっとも矛盾の少ない死の判定基準といってよいであろう。一方、医療技術の進歩に伴って、脳機能の回復見込みがまったくない患者を、人工呼吸器の装着により機械的に維持管理しうるケースが増加し、これに伴って、「脳死」という新しい死の概念や判定基準も示されてきた。しかし、これらは、個体死のなかでも人の死に対する臨床的な考え方であり、他の高等動物の死にもある程度は適応しうるが、あらゆる生物に当てはまるわけではない。したがって、人の死に対する医学的な判定、および死後における法医学的規制等については、「死亡」の項で詳述する。
生物学における死とは、生物が生命を不可逆的に失った状態をいう。一般的には個体の死を意味するが、器官、組織、細胞などのレベルにおいても死ということばが用いられる。「個体が生きている」「細胞が生きている」という場合の生死の基準は、それぞれのレベルで、普通に期待される存在価値が認められるか否か、ないしは、一定の機能を営んでいるか否かにあるといえる。たとえば、バクテリアがその生存を認められるということは、分裂して増殖することができるということであり、殺菌剤や紫外線照射で繁殖能力を失うと、個々のバクテリアが物質代謝を停止しない状態であっても、そのバクテリアは死んだことになる。高等動物では、繁殖能力を失っても神経機能やその他の臓器活動が停止しなければ、その個体は生きているわけであり、生物の種類によって生死の基準が異なってくる。したがって、生物学的な死とは、個体から細胞までのさまざまなレベルでの価値判断の基準、または生命力の規定に基づくものであり、これを概念化すれば、「その不可逆的喪失」という表現が形成される。生物学の進歩に伴って生命の概念が変われば、必然的に生物学的死の概念も変わるということができる。
高等動物個体では、脳の全活動の停止、心拍の停止、呼吸運動の停止がおこり、人工的な蘇生(そせい)の努力がすべて無効であれば、間違いなく死と判定される。これは高等動物個体に期待される存在価値、主として個体の全一性integrityが不可逆的に失われたからである。しかし、個々の細胞、組織、器官は、培養したり他個体に移植すれば生き続けることもある。これらは器官、組織、細胞レベルでは生きているが、個体を生じる例は知られていない(高等植物では、挿木した小枝から植物体を生じる)。下等動物では、ヒドラやカイメンの例のように、個体をつくっている細胞をばらばらに解離しても、集合した細胞塊から新しい個体ができる。この実験では、元の個体は確かになくなったが、細胞は生き残って新個体を生じるわけであり、これらの動物にとっては細胞の生死が重要であり、細胞が生きていれば、生物学的な価値は維持されていることとなる。すなわち下等動物においては、細胞レベルでの生死と個体レベルでの生死の区別が高等動物ほどには明確でないといえる。一方、ゾウリムシやクロレラのように、体が一つの細胞でできている単細胞生物の場合では、細胞の死が個体の死に等しくなる。
[古川理孝・川島誠一郎]
医学が進歩し平均寿命が長くなっても、人間はかならず死ぬものである。しかし、われわれは自分の死を直接に体験することはできない。ただ他人の死の現象を通じて、死を間接的に考察できるにすぎない。われわれは死を免れることができないだけでなく、死がいつ訪れてくるかはだれにもわからないし、死出(しで)の旅から帰った人はいないから、死のかなたに何があるかもまったく不明である。この意味では、生にとっては、死は依然として謎(なぞ)に包まれている。しかも、人間には、いつまでも生きていたいという強い執着もあるから、死はやはり不安や恐怖や悲哀に満ちた事実である。そこで、死は、単なる医学や生物学の問題にとどまらず、哲学や宗教の問題として、いつの時代のどこの国の人間にとっても、重大な意味をもつものとして自覚されてきた。
[藤田富雄]
死は生の否定、生の裏返しであるから、死の意味を問うことは生の意味を問うことと同じであり、死がまだきていないことは、死があらゆる瞬間に可能だということにほかならないから、死の事実を自覚すればするほど、われわれは生きている意味を反省せざるをえなくなり、本来の自己とその生きる目的を主体的に問い直すことになる。そこで、生と死とを全体的、統一的に把握し意味づけをすることによって、死に深い意味を与え、生に充実した内容をもたせることができる。生と死に対する考え方が、つねに不可分の「死生観」として、一体化されて把握されているのは、そのためである。
[藤田富雄]
死を超えて永遠に生き続けたいという人間の切なる願いから、死の問題を時間的に解決しようとする考え方が生まれる。それは次のように類型化できる。
(1)現実の肉体的生命が無限に存続することを信じるタイプ。中国の神仙説が、不老長寿の霊薬である金丹(きんたん)を服用すれば不死になるとしたのを代表として、エジプトのミイラ保存の思想や、キリスト教の最後の審判の日に墓から蘇生して永遠の肉体的生命を得るという終末思想も、このタイプである。現代でも、ホルモン剤を愛用すれば若返ると考えたり、高価な化粧品で若さと美貌(びぼう)が保てると思っている人は多いし、薬や注射でまだまだ死なぬと信じている病人も少なくない。
(2)肉体は消滅しても霊魂は不滅であると信じているタイプ。仏教の西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)や、キリスト教の天国と地獄などの来世観はその代表で、それに伴って死者審判の思想が成立する。またこれとは別に、人間がさまざまな形で生まれかわり死にかわるという再生や輪廻(りんね)の思想もある。霊魂が不滅であれば、死は永遠の生に対する新しい門出である。来世の幸福へのパスポートを入手するために、現世で苦しくても善行を積むべきだとしたり、現実の地獄を理想の天国に変革すべきだとしたり、天国は心の内部に求めるべきだとするように、さまざまな教理と生き方がこのタイプから生じる。
(3)肉体も霊魂も滅んでしまうが、それにかわる不滅な対象に献身することによって、自己を不滅にしようとするタイプ。彼岸(ひがん)や盆や万霊節などに、毎日の生活に追われて忘れていた自分たちの生命の背後にある長い歴史をしみじみと感じる人は多い。父母、祖父母、曽(そう)祖父母というように血筋(ちすじ)をたどっていき、ついにはさかのぼることができないような太古の祖先から、脈々として生命が受け継がれてきた無限の連鎖のなかの一つの環(わ)にすぎない自分に思い至ると、この無限の生命が不滅である限り自分もまた不死であるという自覚に達する。祖先崇拝がその好例である。「生命は短く芸術は長い」というように、科学、芸術、人類の幸福と平和の理想、さらには、日常の仕事や事業など自己の心血を注ぐ対象が永遠であれば、自分も不滅であると信じている研究者、事業の鬼、猛烈社員などは、すべてこのタイプに属する。
(4)肉体も霊魂もそれの代用になるものも消滅してしまうが、現在の行動に自己を集中することによって、生死を超えた境地を体得するタイプ。この好例は、禅の悟りの境地、神と一体となった神秘的体験である。芸道一筋の精進(しょうじん)、血のにじむようなスポーツ練習の積み重ねなどによって、無時間的な一瞬一瞬に、自己をも現世をも忘れた無念無想の境地に入っている人も多い。彼らは、生への執着をも含んだ現実はありのままでありながら、日常生活を新しく意味づけているのである。
[藤田富雄]
どのような死生観をもっていても、人間はかならず死ぬから、臨終がきて中心人物が息を引き取っても、生き残った者は、喜びにつけ悲しみにつけ死者とのつながりを思い出すので、葬送儀礼や年回法要が営まれる。その形式は昔からほとんど変わらないが、その意味づけは変化してきた。死霊の活動を制限するために死体の上に石を置くのが墓の起源であるが、現在では、墓石は死者に対する追憶や敬慕の情の表現という意味が強い。現代人にとっては、死の恐怖のなまなましさよりも、現実の生をいかに豊かに楽しく充実させるかのほうに重点が移っているからである。このように死は主体的に意味づけされるものであるから、死の意味は今後も変化し続けるのは確かである。
[藤田富雄]
いかなる社会でも死は人間にとって重大問題であるが、死をどのようにとらえるか、また具体的にどのように取り扱うかは、社会、文化によって異なる。宗教の役割の一つは、死の意味や人はなぜ死ぬのかに答えることである。ヒンドゥー教は、死は輪廻によっておこると説明する。また死の起源はしばしば神話によって説明され、人間はかつては永遠の生命をもっていたが、たとえば人間が禁忌を犯したり、神が怒って呪(のろ)いをかけたためなどの、なんらかの理由で死ぬようになったとされる。
セレベス島のアルフール人の神話では、地上の人間の食物として神が天から垂らした石とバナナのうち人間はバナナを選んでしまったため、ブラジルのアピナイェ人の間では、人間が岩とアロエイラの木の呼びかけだけにでなく腐った木に対しても答えたため、生命は限りあるものになったといわれる。メラネシアやアフリカには、神霊のメッセージが誤って伝えられたためだという神話がある。たとえばアフリカの採集狩猟民サン人の神話は、月がウサギに「自分(月)が死んでもまた生き返るように、人間も死にふたたび生き返るだろう」と人間に伝えるよう命じたが、ウサギは間違えて「人間は死んだらふたたび生き返らないだろう」と伝えてしまったからだという。個々の死の原因は多くの未開社会で超自然的なものに帰せられる。たとえばアフリカのチェワ人についてのある研究によると、調査時に起きた死亡事件149例のうち、4例は神のしわざ(彼らによれば自然死)、140例は邪術などの呪術(じゅじゅつ)、5例は祖霊が原因とみなされたという。
このように神や精霊あるいは妖術(ようじゅつ)や邪術に死の原因が求められることが多い。アフリカのナイル系牧畜民ヌエル人は、雷や突風で死んだ人間は神が空に連れて行ったと考える。アンダマン諸島では、死は精霊、とくに悪霊のせいとされる。死はまた霊魂との関係でとらえられる。メキシコのツォツィル語系マヤ人は、魂は13の部分からなり、その一部や全部が脱落すると病気になったり死ぬという。また、人間には自分と魂を共有する動物がいて、その動物が死ぬと人間も死ぬと考える。
そのほかにも霊魂の逃亡や喪失を死の原因と考える社会は多い。ただし死後の霊魂の存在を信じる所では、死は単に肉体の滅亡を意味するにすぎず、魂はこの世や死者の世界で生き続ける。オーストラリア北部の先住民は、死後霊魂は霊の中心地へ帰るか、チョウの姿で生活するという。なお、肉体的な死と社会的な死が食い違う場合もある。たとえばヌエル人の社会では、行方不明者の葬儀を行ったあとに本人が帰ってきた場合、葬儀によって彼の魂は犠牲の牛とともにあの世に行き、彼と生者の関係は断ち切られてしまったと考えるので、彼は肉体的には生きていても社会的には死んでいるとされ、親族から親族として扱ってもらえない。一般に、人間は死という自然現象を文化的、社会的に取り扱うことによって、死に意味を与え、死に対する不安や恐れに対処するのである。
[板橋作美]
葬法には、土葬、火葬、水葬、林葬、鳥葬、洞窟(どうくつ)葬、ミイラなどと種類が多いが、水葬のように遺体の全部を永久にこの世から断絶しようとするものと、ミイラのように遺体をそのままの姿で保存し崇拝しようとするものとの両極端があり、その他の葬法においても、死体軟部が焼け、腐り、あるいは動物に食われたあと、骨を拾い集めてふたたび祀(まつ)るものと、一度の処理で終わるものとがある。これを大別すると、遺体もしくは遺骨を保存し尊重するか、遺体のなかの霊魂だけを崇拝するか、に分けることができよう。日本の場合は早くから霊魂信仰が発達し、また近い時代まで濃厚に残存したので、霊肉を分離して、霊魂だけを祀る考え方が支配的であったが、歴史以前にもそれ以後も雑多な文化を受け入れており、そのためいくつかの葬法が混在している。とくに奄美(あまみ)・沖縄諸島では、墓や洞窟にいったん葬り、数年後に開いて肉と骨とを分離する洗骨が行われており、骨を壺(つぼ)に入れて祀り直す習俗がある。
[井之口章次]
日本の祖霊信仰は、霊魂信仰を中核として、あらゆる外来の思想や信仰を変容しつつ受容して、独自の宗教をもちたいという民族的な念願の所産であったから、きわめて雑多な要素を含んでいる。信仰として形の整った中世・近世ごろを基準として、死者の霊魂との関係をみると、天寿を全うし、死後の供養をしてくれる子孫もある普通の死者の霊魂は、33年または50年の間に死の穢(けがれ)を落としてしだいに清まり、個性を失った融合霊となり、村里を見下ろす丘や天空にいて、子孫の生活を見守ってくれるものだと考えられた。正月その他の年中行事の機会や、春秋の祭りをはじめとして、稲作の進行に伴う諸儀礼も、ほとんど祖霊信仰体系のなかに組み込まれ、それぞれの機会に来臨する神を祖霊だと考えるようになった。そのため田の神や山の神のような機能神に関しても、山の神が春に山から降りて田の神となり、秋には山に帰って山の神に戻るという、春秋に居所と機能とを交代する解説が生じ、いまも多くの地方で信じられている。
[井之口章次]
祖霊信仰では、このように円満に生涯を終わった人の場合ばかりを重視し、結婚せずに死んだとか、事故死、戦死、自殺など非業(ひごう)の最期を遂げた人の霊に対する配慮が十分でなかったために、祖霊信仰体系のなかに組み入れることができず、浮遊霊の存在を考えなければならなくなった。祖霊信仰はその不完全さのゆえに宗教にまで高められることなく、やがて道徳や仏教、神社神道などに吸収されてしまう。仏教はこれを無縁仏として供養と救済に乗り出し、それがまた仏教の普及を高めることになった。無縁とよばれる浮遊霊は、いわば肉体を失った霊であるから、霊の抜け出た他の肉体を捜し求めるわけで、葬式の前後に猫又(ねこまた)とか火車(かしゃ)とかいう妖怪(ようかい)が死体をとりにくるというのも、霊の脱出した状態の死体に入り込んで、別の人格として生き延びるということであり、また、山道や峠で、行き逢(あ)い神、かまいたち、ひだる神などに襲われるという霊異現象も、みなこの浮遊霊の存在を認め、それのしわざと考えられたためである。
[井之口章次]
忌みには、神聖なものに近づくために、自らの心身を清らかにしておくというものと、穢に対して身を守る場合とがある。忌みというのは、神聖なものや穢に対して、それに対処する身のあり方や状態をいうが、のちには混同して、穢そのものをさすこともある。しかも穢の最大のものは死と出血であると考えられ、死の穢の場合でも、血縁のつながりで伝わる生得(しょうとく)的なものと、感染的に伝播(でんぱ)するものとがある。なかでも火を通じて感染するという考えが強く、同じ火で煮炊きしたものを食うと穢の状態が共通するといい、「ヒを食う」「ヒがかり」「ヒに食いまじる」などの表現が広く行われている。
なぜ死が穢なのかについては諸説があるが、生命力の失われたものに対する畏怖(いふ)の情が基本で、そこに宗教的な葛藤(かっとう)も加わり、死体の腐れかかったのに対する汚いという感覚との混同によるものと考えられる。
[井之口章次]
死者への儀礼は肉体の処理によって終わるものではない。霊魂の処理までが含まれる。死の忌みは7日目ごとに明け、また年忌(ねんき)を経るたびに清まってくる。それは死体が穢を落として祖霊化を待つ期間であり、遺族の忌み明けの段階であったから、仏教的な供養の考えともあまり抵抗なく結び付きえたのであろう。死者儀礼には、死者に対する哀惜と忘却とが入り混じっている。それは死者のためのものであると同時に、生者のためのものでもある。人の死という厳粛な場面に立ち会うことによって、故人をしのび、自らの運命をも思う。一種の宗教的な感慨に浸り、純粋な気持ちになれる機会である。
[井之口章次]
『岸本英夫著『死をみつめる心』(講談社文庫)』▽『M・エリアーデ著、堀一郎訳『生と再生』(1971・東京大学出版会)』▽『アーノルド・トインビー他著、青柳晃一他訳『死について』(1972・筑摩書房)』▽『加藤周一、M・ライシュ、R・J・リフトン著、矢島翠訳『日本人の死生観』上下(岩波新書)』▽『宗教思想研究会編『日本人の生死観』(1972・大蔵出版)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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死罪・死刑とも。律の五罪のうち最も重いもの。絞(こう)・斬(ざん)の2等があり,絞は軽く斬は重い。死罪の執行は,毎年秋分から次の立春までの間に,都の官市で行われることになっていた。ただし,五位以上または皇親が悪逆以外の罪で死罪となった場合は,その家で自殺することが許された。その執行例をみると,奈良時代から死罪を1等減じて流罪としたことがみえ,818年(弘仁9)には盗犯の死罪を禁止するなど,刑を軽減する傾向がみえはじめる。810年,薬子(くすこ)の変で藤原仲成(なかなり)を死罪に処したのを最後に,1156年(保元元)の保元の乱に至るまで347年間にわたり死罪の執行は行われていない。その間,死罪の判決がでた場合も,別勅により1等減じて流罪とすることが慣例とされていた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… あらゆる愛の基本が,〈なにものかにひかれること〉である点に着眼すると,〈ある主体の,特定の対象にいだく,全体的または部分的な,合一の欲求〉といった,愛の概括的な定義さえ,導き出すことができる。この一見無内容な定義が露呈させるのは,愛と食,愛と死の,根源的な相似性と相関性である。〈合一〉とは,相互発展的な〈融合〉でもありうるが,〈対象を吸収する(食う)〉か〈対象に吸収される(食われる)〉かに偏しやすく,後者への欲求の極限は,生存の緊張から逃れるために個体を解消しようとする,〈死へのあこがれ〉にほかならない。…
…さらに15世紀末から16世紀中期のヨーロッパでは,このアレゴリーはひとつの流行を生み,油彩,版画,タピスリーなどのジャンルでも多く制作された。他方,14世紀前半にヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)の嵐は,〈死を記憶せよ(メメント・モリ)〉の教訓をもつ死のアレゴリーを普遍化し,墓地の礼拝堂のフレスコ(例。ピサのカンポサント。…
…ターパンはかつて東ヨーロッパのステップ地帯に生息していた野生馬で,体高約1.3m,たてがみや尾の長毛は長く豊かで,毛色はねずみ色。野生の最後の1頭の雌が1879年に死亡した。シンリンターパンはポーランドからウクライナにかけての森林地帯に野生していた大型のターパンであるが,歴史時代に入る前に滅んでいた。…
…宮中儀礼の一つ。喪葬令(そうそうりよう)によると,親王または三位以上の者の死を〈薨〉といい,五位以上の者は〈卒〉,六位以下庶人は〈死〉と称して区別した。親王および五位以上の者が没すると,治部省から太政官を経て天皇に奏聞する。…
…人間の死は自然的・生物学的な現象である以上に文化的・社会学的な現象である。知られているすべての人類社会において,死はそれぞれの社会に固有の文化的意味づけを与えられている。…
…都市国家内部にはあたかもギリシアのそれのごとく,支配階級たる士と,被支配階級たる庶民の対立が見られたが,呂刑にいうところの贖罪の制は士に適用さるべきもので,いわゆる五刑,すなわち肉体刑の五等は庶民に適用されたものと思われる。その五等とは,墨は顔に入れ墨すること,劓(ぎ)は鼻先を切りおとすこと,剕(ひ)は足を切ること,宮は男子の勢を去って中性となすこと,大辟は死刑である。最初はその法律が習慣法で,支配層に有利に運営されたため,その弊を去るためしだいに成文法が用いられ,あるものは銅鼎に銘文として彫りこまれ,あるものは竹簡に書かれた。…
…1960年ころまでは個人の死は心臓や呼吸が止まることで決定されて,医学的にも社会的にも混乱はおこらなかった。しかし,最近の医学と医療技術の進歩で,人工呼吸器が普及し,生命蘇生術が高度になり,脳は死んでいるが体が生きている場合が増えてきた。…
… 武士が王朝貴族の生き方に対して武士独自の生き方を自覚したとき,〈弓矢とる身の習(ならい)〉という言葉が生まれた。〈弓矢とる身の習〉は〈大将軍の前にては,親死に子討たるれども顧みず弥(いや)が上に死に重なって戦ふ〉(古活字本《保元物語》)ことで,主君への残るところのない献身である。だがまた,戦闘員として名を惜しみ死をいさぎよくすることである。…
※「死」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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