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話す/咄す ハナス

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デジタル大辞泉の解説

はな・す【話す/×咄す】

[動サ五(四)]
言葉で相手に伝える。告げる。語る。「事件を人に―・す」「電話で―・す」
相談する。話し合う。「父に―・してから返事する」
外国語を使う。「ドイツ語を―・す」
交際する。つきあう。
「一條あたりに有徳なる人ありしが、年久しく―・したる人なりしが」〈仮・竹斎・下〉
(遊里語で)遊女を買う。
「鹿恋(かこひ)女郎を―・すくらゐの男は」〈浮・禁短気・六〉
言う[用法]
[可能]はなせる

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

話す
はなす

「話す」とは人間が音声言語を発することである。同じことをさすのに「言う」という動詞もあるので、初めに、その異同を明らかにしておきたい。[国広哲弥]

「言う」と「話す」

ことばを発する行動をさす日本語動詞のうち、おもなものとして「言う」と「話す」があり、その意味はすこし異なっている。「言う」は単にことばを発することであり、内容は「あっと言った」のように非常に単純なこともあり、「言い募る」といえることからもわかるように、一方的な行動のこともある。それに反し「話す」のほうは、相手が傾聴し、理解してくれることが前提となっている。また名詞形の「はなし(話)」にはっきり現れているように、「話す」ときの内容は豊かであるのが普通である。「言い合う」が、互いに自分の言いたいことをかってに言うことをさし、口喧嘩(くちげんか)の場合もあるのに対して、「話し合う」が、互いに相手の言い分を理解し、意見を交換することをさすことを考えると、人間の社会活動を助けることをそのおもな働きとする言語行動を代表する動詞としては、「話す」のほうがふさわしい。「話す」行動はかならず音声を用いるが、音声を用いずに意味の伝達をする行動として、手話がある。「話す」ときには、仮名で書き表せるような個々の音声単位の連続体、すなわち「語」を仲介として意味内容を伝えるが、手話では手や腕の動きによって直接に意味内容を伝える。また「話す」ことは暗闇(くらやみ)でもできるが、手話は相手が見える場合でないと成立しない。[国広哲弥]

言語の起源


ネアンデルタール人の口腔
言語つまり人間の話す能力は、いつごろ、どのようにして発達したかということは、よくわかっていない。いままでいろいろの説が出されてきたが、いずれも憶測の域を出ない。いまから20万年前に生存したと考えられるネアンデルタール人の顎骨(がくこつ)の化石に基づいてその口腔(こうくう)の形を推定することができるが、現在活躍中のアメリカの人類学者フィリップ・リーバマンPhilip Liebermanらは、それによって、ネアンデルタール人は母音としては[I][e][u][][]などのかなりぼやけた感じの音、子音としては[d][b][s][z][f][v]を発音し分けることができただろうという。これは現代の人類よりは劣るが、類人猿よりは優れた能力である。図A図Bにみられるように、口腔の形および脳の構造において、ネアンデルタール人は現代の新生児によく似ている点が注意される。
 図A図Cを比べるとわかるように、現代の成人の口腔が字形をしているのに対して、猿の口腔は緩い弧を描いている。この口腔の形の違いが、多くの異なった音声を発音し分けうるか否かに関係していると考えられる。この現代人の字形の口腔は、人類が直立し始めたことによって生じたと考えられるが、直立によって同時に両手が自由になり、道具をつくり始めたことと相まって、言語の発達に大きな拍車がかけられたのではないかということが推測される。道具をつくる作業は、ある形をつくりだすにはどういう作業をどの順序で重ねていかなければならないかという先回り思考を必要とし、同時に手先を細かく動かす必要もあって、これらのことが脳の発達を促したのではないか、ということが考えられる。[国広哲弥]
動物は話せるか
チンパンジーに言語を教え込む企てがいくつかなされ、そのうちのあるものはかなり成功し、創造的な記号操作能力さえ獲得したといわれるが、いずれも視覚的な符号を操ることに終始し、ついに音声言語を習得するには至っていない。その一因が口腔の形にあることはすでに述べた。オウムなどは人間の音声言語の断片を正確に再現することができるが、個々の語を文法規則に従って組み合わせる能力を習得しているわけではない。つまり現在のところ、人間以外には話す能力をもった動物は存在しない。[国広哲弥]
伝達行動の構造
話すという行動は、典型的には2人の人間が対面し、互いに相手の表情・身ぶり・姿勢などを見ながら発言を交わすことである。これを伝達行動とよぶ。伝達行動によって意味内容が伝えられる経路は、大きく聴覚経路と視覚経路に分けられ、聴覚経路はさらに言語経路verbal channelと声質経路paralinguistic channelに分けられる。この言語経路で伝えられるものは、音声言語、つまり音声単位、語アクセント、文音調などであり、声質経路で伝えられるものは、声の質・高さ・強さ・話す速度などである。視覚経路でとらえられるものは、一般に「身ぶり言語」とも「身体言語」body languageともいわれ、表情・身ぶり・姿勢・対人距離・対人角度が含まれるが、それに加えて、周囲の状況がある。電話対話など視覚経路が欠けている場合には、視覚経路で伝えられるはずの内容をできるだけ聴覚経路に移す必要があるので、対面対話の場合とは言語表現も声の質も変わってくるのが普通である。しかし視覚的内容を完全に聴覚的内容に移すことはできないので、重要な話し合いは対面対話によってなされるのが普通である。
 言語表現が伝える意味と、表情・身ぶりが伝える意味とが食い違う場合には、本心は後者に現れるのが普通である。電車などでよく見られることであるが、席をあけてほしいと思う人が、口では「すみませんが……」と言っているのに、表情を見ると、別にすまなそうでなく、むしろ強要している場合がそれである。[国広哲弥]

話すことと文化


寡黙文化(高脈絡依存型)・多弁文化(低脈絡依存型)
話す能力に関しては、多弁と寡黙の二つのタイプがあるが、このタイプに対する評価は文化によって異なることがある。日本文化では、多弁な人は「おしゃべりな人間」としてあまり高く評価されず、ときには信用できない人間とされる。一方、寡黙はむしろ奥ゆかしさ・朴訥(ぼくとつ)さの現れとして好感がもたれる。アメリカでは逆に、多弁は雄弁として高く評価され、無口な人間は愚鈍とみなされる。多弁を奨励しない日本文化では一般に人前で整った話し方をする技術が磨かれていないが、アメリカ人は小さいときから“Show and Tell”(学校のクラスで皆に何か物を見せながら、それについて説明する訓練)などを通して技を磨いている。アメリカのパーティーではおしゃべりが最大の御馳走(ごちそう)であるが、日本の宴会では酒食と歌が中心である。
 話し方をめぐる相違は、実はその国の文化全体の特質と関連している。図Dはアメリカの人類学者E・T・ホールが示したものである。ここでいう脈絡は、場面の状況をさし、そのなかにはお互いの共通知識も含まれる。日本文化は高脈絡依存型であり、人々はたいていのことは言わなくても互いにわかっていると考えている(ただし、わかっていることが実際に多いかどうかは別問題である)。したがって、言語を用いて伝達される量は少なくなる。ここから「寡黙文化」が生じていると考えられる。一方、アメリカ文化は低脈絡依存型に属し、お互いに共有知識は乏しいので、言わなければわかってもらえないと考えている(ただし実際には共有知識が乏しいわけではない)。ここから「多弁文化」が生じる。この相違は日常の言語使用ばかりでなく、言語芸術にも当てはまり、英語の長大な叙事詩と日本語の俳句に端的に現れている。絵画においても同様である。脈絡依存度の相違は、また、日常に用いられる決まり文句の量にも反映していて、脈絡依存度が高いほど少数の決まり文句を使うだけで用が足りることになる。日本では御馳走になったら一律に「ごちそうさまでした」だけですむが、アメリカではその時その時に応じて個性的な褒めことばを用いなければならない。
 最近の日本では「どうも」がさまざまな場面でさまざまの意味を込めて用いられるが、われわれは脈絡からその意味を容易に推察できる。この現象は、見方によっては、表現の過度な単純化であって、もっとことばを補ってきちんと表現すべきであるということになろうが、単純な表現で誤解なしに伝達が成立する点を肯定的にみることも可能である。[国広哲弥]
話す能力の個人差
同じ日本人のなかでも、話すことの上手な能弁の人と、下手な訥弁(とつべん)の人がある。能弁な人は言いよどみなく話し続けることができ、話の内容もおもしろく、相手を退屈させない。訥弁な人は話すことがあまり思い浮かばず、話してもことば少なである。能弁の人は話すことが楽しく、訥弁の人は話すのがおっくうであり、苦痛でさえある。ただし、この二つのタイプは知性の優劣とは直接の関係はない。また文章を書く能力ともかならずしも並行していない。無口であるが筆まめ、おしゃべりであるが筆不精という例は少なくない。前者を「書記型」、後者を「口頭型」とよぶことができる。[国広哲弥]

話すことと「書く」こと


初めに「話しことば」ありき
人類が言語を発達させたとき、最初は話すことだけであり、文字を考案して書き始めるのはずっとあとのことである。現代に至るまで文字をもたない言語も多く、その研究のためには言語学者が表記法を考案しなければならない。幼児が言語を習得する場合にも話すことが先であり、生涯読み書きを学習しない人もある。五感が正常である限り、話せないが読み書きはできるという人はおそらくいないと思われる。この意味で、言語にとって、話すことのほうが本質的であるといえる。
 話す行動と書く行動は、単に媒体が音声と文字というふうに異なるだけではない。まず、話すときには注意が内容に集中しているのに対して、書くときには注意のかなりの部分が言語表現そのものに向けられるということがある。ある文章を読んだときには気づかなかった表現上の諸点に、その文章を書き写してみると初めて気づくということが多い。次に、書きことばには、話しことばに伴っている視覚的情報が完全に欠落しているので、それを補うために表現上いろいろの変更が加えられる。またゆっくり考える暇があるので、表現は整っている。一方、話しことばはあまりよく考えずに頭に思い浮かぶまま次々に口に出していくのが普通であり、労力もたいしたことがないので、表現が冗長で十分に整っておらず、繰り返し、言い直し、言い誤り、尻(しり)切れとんぼ文、無意味なつなぎの発声(「えーと」「そのーつまり、なんていうか」)などに満ちている。このような事情があるので、話しことばと書きことばは文体が非常に異なることになる。個々の語句についてみても、話しことばでよく用いられるもの、書きことばでよく用いられるものの別がある。
 話しているときには、話し手の注意の焦点は次々に移っていって、前に言ったことを正確に覚えていないことが多く、そのために奇妙な表現が生じることがある。たとえば列車内のアナウンスで非常によく聞く言い方に「この列車の止まる駅は……に止まります」がある。一般に話しことばに含まれる種々の不完全な表現はあまり聞き手にとって障害とならない。それは脳のほうで適当に整理しながら理解しているためと考えられる。一方、研究の口頭発表などの場合、書かれた原稿を読まれると、聞いていてなんとなくわかりにくく、興味がもちにくいということがある。その理由の一つに、音調が平板になって力点がぼやけるということが考えられる。さらに、書かれたものは労力経済のせいで表現に余剰がなく、それが耳による理解の妨げになることが考えられる。[国広哲弥]
話す職業
話すこと自体が職業となっている場合がいくつかある。ラジオ、テレビのアナウンサーはその代表である。フリーのアナウンサー業もあり、各種の催し物の司会などを行う。次に、話術を売り物とする文芸作品の朗読、講談がある。落語ではこれにさらに表情・身ぶりが加わる。落語家は「はなし(咄)家」ともいわれるが、これは「話す」技術が芸の域にまで高められることを示している。落語はひとり芝居ともいえるが、本格的な芝居の台詞(せりふ)は伝達行動としては特異な位置を占める。図Eにみられるように、2人の登場人物の間で交わされる台詞は、同時に第三者である観客にも聞かせることが意図されており、台詞は同時に二重の伝達を行っていることになる。また登場人物間の伝達は虚構のものであり、そこに一つの内的世界が構築されるのに対して、観客への伝達は現実のできごとであり、かつ芸術である。独白も特異な発話行動である。本来なら心のなかで思うことを声に出す点が非日常的であるが、それは同時に観客への伝達行動でもあるという二重性をもっている。このほか、おもしろい口上で客をひきつける大道商人、映画の吹き替えをする声優なども声の職業人ということができる。[国広哲弥]
『国広哲弥著「日本人の言語行動と非言語行動」(『岩波講座 日本語2 言語生活』所収・1977・岩波書店) ▽エドワード・T・ホール著、宇波彰訳『文化としての時間』(1983・TBSブリタニカ) ▽佐々木健一著『せりふの構造』(1982・筑摩書房)』

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