室町時代(読み)ムロマチジダイ

デジタル大辞泉 「室町時代」の意味・読み・例文・類語

むろまち‐じだい【室町時代】

足利あしかが氏が京都室町に幕府をおいて政権を保持した時代。尊氏たかうじが幕府を開いた延元元年=建武3年(1336)から15代将軍義昭織田信長に追放される天正元年(1573)に至る約240年間。また、元中9=明徳3年(1392)の南北朝合一までを南北朝時代、応仁元年(1467)応仁の乱勃発以降を戦国時代とよぶこともある。足利時代

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精選版 日本国語大辞典 「室町時代」の意味・読み・例文・類語

むろまち‐じだい【室町時代】

  1. 日本史の時代区分の一つ。足利氏が政権を握り、京都室町に幕府を開いた時代。ふつうは足利尊氏が建武式目を制定した建武三=延元元年(一三三六)から、天正元年(一五七三)一五代将軍義昭が織田信長に追われるまでをいう。上限について、南北朝時代を別に区分し、下限について戦国時代を区別するなど諸説がある。経済的には荘園制の崩壊、流通経済の拡大がみられ、文化的には北山文化・東山文化など、公家化した上級武家を中心としておおむね禅宗の影響を強く受ける一方で、猿楽・連歌・茶の湯・立花などの新しい芸能分野が確立した。また、応仁の乱以後、中央の知識人が地方に乱をのがれて文化の地方普及が進んだ。〔国文学読本緒論(1890)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「室町時代」の意味・わかりやすい解説

室町時代(年表)
むろまちじだいねんぴょう

政治

南北朝時代


1333(南朝)元弘3(北朝)正慶2 閏2月後醍醐天皇、隠岐を脱出。5月六波羅陥落。新田義貞、鎌倉を攻略。6月後醍醐天皇、京都に戻る。7月このころ記録所設置。9月雑訴決断所設置
1334(建武1) 1月大内裏造営計画を発表。10月護良親王捕らわる
1335(建武2) 7月北条時行、挙兵し鎌倉を奪う
1336(南)延元1(北)建武3 2月足利尊氏、海路鎮西に敗走。5月尊氏、摂津兵庫・湊川で楠木正成を破る。11月建武式目を制定
1337(南)延元2(北)建武4 7月南北両軍が河内・和泉両国で交戦(~10月)
1338(南)延元3(北)暦応1 8月北朝、尊氏を征夷大将軍とする
1339(南)延元4(北)暦応2 8月後醍醐天皇没
1340(南)興国1(北)暦応3 4月幕府、寺社本所領押領を厳しく断罪
1341(南)興国2(北)暦応4 11月北畠親房、常陸国関城に移る
1342(南)興国3(北)康永1 6月懐良親王、薩摩で島津貞久を破る
1343(南)興国4(北)康永2 11月関・大宝両城陥落、親房は吉野へ戻る
1345(南)興国6(北)貞和1 8月天竜寺供養、足利尊氏・直義ら臨席
1346(南)正平1(北)貞和2 12月幕府、守護人の非法などについて法を定める
1347(南)正平2(北)貞和3 11月楠木正行、摂津国天王寺で細川顕氏らを破る
1348(南)正平3(北)貞和4 1月正行、河内国四條畷で敗死
1349(南)正平4(北)貞和5 閏6月足利直義と高師直との不和により京都騒動す
1350(南)正平5(北)観応1 6月高師泰、足利直冬追討のため京都を出発。10月直義、京都を脱出。12月直義、南朝に帰降
1351(南)正平6(北)観応2 2月尊氏と直義、講和する。上杉能憲、高師直・師泰を殺す。8月直義、北陸に逃げる
1352(南)正平7(北)文和1 2月尊氏、鎌倉で直義を殺す
1353(南)正平8(北)文和2 9月尊氏、後光厳天皇を奉じて入京
1354(南)正平9(北)文和3 12月足利直冬・桃井直常ら京都に迫り、尊氏、後光厳天皇を奉じて近江国武佐寺に走る
1355(南)正平10(北)文和4 2月南北両軍、京都で争う
1356(南)正平11(北)延文1 1月越前守護斯波高経、尊氏に降る
1357(南)正平12(北)延文2 2月光厳・崇光上皇ら、京都に帰る
1358(南)正平13(北)延文3 4月尊氏没。12月足利義詮、征夷大将軍となる
1359(南)正平14(北)延文4 11月畠山国清、東国の軍勢を率いて入京
1360(南)正平15(北)延文5 3月国清、河内国金剛寺を焼く
1361(南)正平16(北)康安1 9月細川清氏、義詮に離反する。12月清氏・楠木正儀らの南軍京都に迫り、義詮近江へ逃れる
1362(南)正平17(北)貞治1 9月足利基氏、伊豆箱根に陣取り畠山国清を降す
1363(南)正平18(北)貞治2 この春、大内弘世、幕府に帰服する
1364(南)正平19(北)貞治3 11月細川頼之、伊予国の河野通朝を攻略する
1365(南)正平20(北)貞治4 2月幕府、春日社造営の棟別銭を諸国に課す
1366(南)正平21(北)貞治5 8月斯波高経・義将父子、幕府に疑われ越前に走る
1367(南)正平22(北)貞治6 11月義詮、政権を義満に譲り、頼之を管領とする
1368(南)正平23(北)応安1 12月義満、征夷大将軍となる
1369(南)正平24(北)応安2 1月楠木正儀、細川頼之の求めで幕府方に走る
1370(南)建徳1(北)応安3 12月頼之と土岐頼康、不和になる
1371(南)建徳2(北)応安4 3月後光厳天皇譲位。後円融天皇践祚
1372(南)文中1(北)応安5 8月今川了俊、大宰府を攻略し懐良親王を追う
1373(南)文中2(北)応安6 8月楠木正儀・細川氏春ら河内天野行宮を襲撃
1374(南)文中3(北)応安7 6月幕府と島津氏の使い、入明するが退けられる
1375(南)天授1(北)永和1 8月了俊、少弐冬資を肥後水島の陣に誘い殺す
1376(南)天授2(北)永和2 8月幕府、大隅・薩摩守護を了俊に兼帯させる
1377(南)天授3(北)永和3 10月肥後・薩摩などの国人、一揆契状を交す
1378(南)天授4(北)永和4 3月足利義満、室町殿(花の御所)に移る
1379(南)天授5(北)康暦1 閏4月諸将が細川頼之討伐を求め、義満、頼之の管領職を罷免する(康暦の政変)
1380(南)天授6(北)康暦2 6月足利氏満、関東八か国に小山義政討伐を命ず
1381(南)弘和1(北)永徳1 11月白旗一揆、義政の鷲城を攻撃
1382(南)弘和2(北)永徳2 4月義政、氏満の軍に敗れて自殺
1383(南)弘和3(北)永徳3 6月義満、准后となる
1384(南)元中1(北)至徳1 6月氏満、円覚寺山門造営料を課す
1385(南)元中2(北)至徳2 12月山名氏清、山城守護となる
1386(南)元中3(北)至徳3 8月幕府、山門諸社神人の乱入狼藉を禁じる
1387(南)元中4(北)嘉慶1 4月信濃国の村上頼国ら、善光寺で挙兵する
1388(南)元中5(北)嘉慶2 5月上杉朝宗、常陸国男体城を攻める
1389(南)元中6(北)康応1 2月高麗の兵船、対馬を攻める
1390(南)元中7(北)明徳1 閏3月幕府、土岐康行を討つため兵を送る
1391(南)元中8(北)明徳2 12月山名満幸・氏清ら幕府軍に敗れる(明徳の乱)
1392(南)元中9(北)明徳3 閏10月後亀山天皇帰京し、後小松天皇に神器を譲る

室町時代


1393(明徳4) 11月幕府、洛中洛外の土倉・酒屋役の制を定める
1394(応永1) 12月義満、将軍職を義持に譲り、太政大臣となる
1395(応永2) 閏7月幕府、今川了俊を京都に召還する
1396(応永3) 4月九州探題渋川満頼、筑前国博多に到着する
1397(応永4) 1月小山若犬丸、陸奥国会津で自殺
1398(応永5) 4月義満、北山殿に移る
1399(応永6) 11月義満、大内義弘討伐のため八幡に出陣。12月堺城陥落し義弘戦死(応永の乱)
1400(応永7) 1月義満、上杉憲定に了俊討伐を命じる。了俊降る
1401(応永8) 5月義満、僧祖阿らを明に派遣する
1402(応永9) 8月祖阿ら、明使とともに帰国する
1403(応永10) 2月明使帰国す。僧圭密ら同行する
1404(応永11) 5月明使、「日本国王之印」と刻した金印と、勘合をもって来航する。義満、北山殿で引見
1405(応永12) 8月明使帰国す。義満、兵庫で明船を見る
1406(応永13) 7月幕府、室町殿修理のため段銭を山城国に課す
1407(応永14) 7月遣明使、明使とともに帰国する
1408(応永15) 5月義満没
1409(応永16) 10月足利義持、三条坊門の新第に移る
1410(応永17) 6月島津元久上洛し、義持に謁見する
1411(応永18) 9月幕府、明使王進を入京させず
1412(応永19) 8月後小松天皇譲位、上皇として院政を開始
1413(応永20) 4月伊達持宗ら挙兵し、陸奥国大仏城に拠る
1414(応永21) 5月足利持氏、鎌倉酒壺銭1年分を円覚寺修造料として寄進する
1415(応永22) 4月幕府、前年蜂起の北畠満雅討伐のために出兵
1416(応永23) 10月上杉禅秀・足利満隆ら、鎌倉府を襲撃する。持氏、駿河に逃れる(上杉禅秀の乱)
1417(応永24) 1月禅秀・満隆ら、持氏の軍に敗れて自殺
1418(応永25) 1月幕府、足利義嗣を殺す
1419(応永26) 8月持氏、武蔵国南一揆に禅秀の余党を討たせる
1420(応永27) 8月義持病む。10月義持平癒する
1421(応永28) 6月常陸国の額田義亮、反乱する
1422(応永29) 閏10月佐竹興義が反乱、義持、上杉房実に討伐させる
1423(応永30) 3月義持、義量に将軍職を譲る
1424(応永31) 2月義持、持氏と和睦する
1425(応永32) 2月義量没。11月持氏、義持の猶子となることを請う。義持は使者に会わず
1426(応永33) 6月持氏、武田信長討伐に向かう
1427(応永34) 10月義持、赤松満祐の所領を赤松持貞に与える。満祐、これを怒り、自邸を焼き播磨国に帰る
1428(正長1) 1月義持没、籤により義持の弟の青蓮院義円が将軍の後嗣となる。9月京畿の土民、徳政と号して蜂起する(正長の土一揆)。11月幕府、土一揆の狼藉を禁じる
1429(永享1) 3月足利義教、征夷大将軍となる
1430(永享2) 2月義教、持氏討伐を企て、諸将に諫止される
1431(永享3) 8月持氏、初めて永享の年号を用いる
1432(永享4) 2月大内持世、弟の持盛と家督を争う
1433(永享5) 1月義教、朝鮮使と室町殿で会見
1434(永享6) 9月遣明船、明使とともに兵庫を出発。11月土岐持頼、延暦寺衆徒を攻め坂本を焼く
1435(永享7) 2月幕府、延暦寺山門使節らを捕らえて殺す
1436(永享8) 5月幕府、借物弁済の法を定める
1437(永享9) 6月持氏、上杉憲実討伐の噂あり。憲実父子、相模国藤沢に逃れる。8月持氏、憲実を慰撫する
1438(永享10) 8月憲実、持氏と不和になり上野国に出奔。持氏出陣。幕府、諸国の兵に討伐を命じる
1439(永享11) 2月憲実、持氏らを攻めて自殺させる(永享の乱)
1440(永享12) 3月結城氏朝、持氏の子安王・春王・永寿王を迎えて挙兵
1441(嘉吉1) 6月赤松満祐、将軍義教を謀殺して播磨に走る(嘉吉の乱)。8月畿内で土一揆蜂起、徳政を求める(嘉吉の土一揆)。9月幕府、一国平均の徳政令を公布。閏9月幕府、天下一同の徳政令を出す
1442(嘉吉2) 11月足利義勝、征夷大将軍となる
1443(嘉吉3) 2月幕府、鳥羽の徳政一揆の首謀者を斬る。7月義勝没し、弟義成が家督を継ぐ
1444(文安1) 閏6月幕府、造内裏段銭を諸国に課す
1445(文安2) 3月赤松満政、山名持豊と戦い敗死
1446(文安3) 9月幕府、六角久頼らに六角時綱を討たせる
1447(文安4) 7月山城・大和・河内・近江で土一揆蜂起
1448(文安5) 5月幕府、土民の集会を禁じる
1449(宝徳1) 4月足利義成、征夷大将軍となる
1450(宝徳2) 4月長尾景仲ら、足利成氏を襲い江の島へ追う
1451(宝徳3) 9月京都で土一揆蜂起。10月奈良で土一揆蜂起
1452(享徳1) 8月幕府、東寺南門に徳政禁制の札を掲げる
1453(享徳2) 3月遣明船、肥前国五島から明に向かう
1454(享徳3) 4月畠山持国の継嗣問題おこる。10月山城国で土一揆蜂起。幕府、分一徳政令を公布
1455(康正1) 6月今川範忠、幕命により鎌倉に入り、成氏は下総国古河に移る。10月幕府、徳政条令を改める
1456(康正2) 4月幕府、造内裏段銭・棟別銭を諸国に課す。9月近江国土一揆、日吉八王寺社に拠る
1457(長禄1) 10月土一揆、京都に入り諸将の軍勢を破る
1459(長禄3) 8月幕府、京都七口に新関を置く。9月大和国土一揆蜂起。11月京都の土一揆蜂起
1460(寛正1) 9月足利義政、畠山義就の出仕をとめる
1461(寛正2) 6月毛利豊元ら河内国で義就と争う。11月幕府、天竜寺に勘合を与える
1462(寛正3) 5月畠山政長、河内国金胎寺城に義就を破る。9月京都で土一揆蜂起。10月奈良で土民が蜂起
1463(寛正4) 4月政長、義就を紀伊に追う。9月京都で土一揆蜂起
1464(寛正5) 12月義政の弟義尋、還俗して義視と改める
1465(寛正6) 1月蓮如、延暦寺衆徒に追われ近江国堅田に移る
1466(文正1) 8月両畠山軍、大和・河内で戦う。9月義政、義視殺害を計り、義視、細川勝元第に逃れる

戦国時代


1467(応仁1) 1月義就、上御霊社で政長を破る(応仁の乱の開始)。5月細川勝元、山名持豊、その勢力を京都に集め、両軍激しく戦う。8月大内政弘入京
1468(応仁2) 1月四方拝など諸儀を停止する。8月東西両軍、法性寺・藤森などで戦う。11月義視、義政と不和
1469(文明1) 7月大内政弘、摂津の諸城を攻略。10月山名是豊ら、摂津国兵庫で政弘の軍を破る
1470(文明2) 5月西軍山名政豊ら、東軍に応じる
1471(文明3) 3月足利成氏、伊豆国三島で足利政知と戦う
1472(文明4) 1月山名持豊、細川勝元に和を求めるが成立せず
1473(文明5) 3月持豊没。5月勝元没。10月畠山義就、山城国淀に出兵。12月義政、将軍職を義尚に譲る
1474(文明6) 11月加賀一向一揆蜂起
1476(文明8) 9月義政、大内政弘に両軍の和平をはからせる
1477(文明9) 11月政弘ら帰国。土岐政頼も美濃国に下る
1478(文明10) 7月義政、義視と講和
1479(文明11) 3月幕府、内裏修造棟別銭を畿内に課す
1480(文明12) 9月京都の土一揆蜂起、各所に放火する
1481(文明13) 10月義政、小川第から聖護院山荘に移る
1482(文明14) 3月畠山政長ら、義就を討つため京を出る
1483(文明15) 6月義尚、母日野富子と不和となり小川第を出る
1484(文明16) 6月両畠山軍、宇治で合戦。義尚、小川第に戻る
1485(文明17) 12月南山城の国人・百姓、両畠山軍に撤退を要求
1486(文明18) 2月山城国人、宇治平等院で国中の掟を定む
1487(長享1) 9月義尚、六角高頼討伐のため近江坂本に在陣
1488(長享2) 6月加賀一向一揆、守護富樫政親を攻略
1489(延徳1) 3月義煕(義尚改め)、近江国鉤の陣で没
1490(延徳2) 7月足利義材、征夷大将軍となる
1491(延徳3) ▽伊勢長氏(北条早雲)、堀越の茶々丸を殺す
1492(明応1) 12月近江国鎮定し、義材帰京する
1493(明応2) 4月細川政元、将軍義材を追放し、清晃をたてる
1494(明応3) 12月足利義高(清晃改め)、征夷大将軍となる
1497(明応6) 10月畠山尚順、河内高屋城に畠山義豊を攻める
1498(明応7) 9月足利義尹(義材改め)、朝倉貞景を頼る
1499(明応8) 9月畠山尚順、義尹に応じ摂津国に侵攻
1500(明応9) 10月幕府、撰銭令を定める
1501(文亀1) 閏6月幕府、大内義興追討の綸旨を受ける
1503(文亀3) 3月幕府、朝鮮に通信符を求める
1504(永正1) 9月薬師寺元一、細川澄元擁立を計り淀城に拠る
1505(永正2) 9月細川政元、香西元長を攻める
1506(永正3) 9月一向宗徒、長尾能景を敗死さす
1507(永正4) 6月細川澄之、父政元を殺し、澄元を近江に追う
1508(永正5) 4月細川高国挙兵し、澄元近江に逃げる
1509(永正6) 6月三好之長、山城国に出陣
1510(永正7) 6月上杉顕定、長尾為景と戦い敗死
1511(永正8) 8月足利義尹、細川高国ら丹波国に走る
1512(永正9) 8月幕府、撰銭令を定める
1513(永正10) 3月義尹、大内義興・細川高国と対立し近江に走る
1514(永正11) 4月幕府、私闘を禁じる
1516(永正13) 7月北条早雲、三浦義同・義意父子を攻め滅ぼす
1518(永正15) 8月大内義興、和泉国堺より帰国
1519(永正16) 11月細川澄元・三好之長ら四国より兵庫に至る
1520(永正17) 5月細川高国入京し、之長を破る
1521(大永1) 12月足利義晴、征夷大将軍となる
1523(大永3) 8月毛利元就、安芸国吉田郡山城に入る
1524(大永4) 1月北条氏綱、武蔵国江戸城を攻略
1525(大永5) 5月六角定頼、浅井亮政らを攻撃のため出陣
1526(大永6) 12月幕府、徳政令を定める
1527(大永7) 3月三好元長、足利義維・細川晴元を擁し堺に至る
1528(享禄1) 9月足利義晴、近江の朽木稙綱を頼る
1529(享禄2) 9月細川高国、備前国浦上村宗を頼る
1530(享禄3) 8月高国・村宗、摂津国で細川晴元勢と争う
1531(享禄4) 6月三好元長、高国を摂津国天王寺で破る
1532(天文1) 6月本願寺証如、元長を堺に攻撃。元長自殺
1533(天文2) 6月細川晴元、証如と講和する
1534(天文3) 9月足利義晴、近江から入京する
1535(天文4) 8月北条氏綱と今川氏輝、武田信虎を甲斐に破る
1536(天文5) 7月延暦寺衆徒、洛中で法華宗徒と戦う(天文法乱)
1537(天文6) 6月松平広忠、駿河から三河国岡崎城に帰る
1538(天文7) 9月浅井亮政、近江国北部諸郡に徳政令を出す
1539(天文8) 閏6月三好範長(長慶)、三好政長と合戦
1540(天文9) 9月尼子詮久、毛利元就を攻撃
1541(天文10) 11月足利義晴、近江国坂本に逃れる
1542(天文11) 8月今川義元、織田信秀に三河国小豆坂で敗れる
1543(天文12) 7月細川晴元、摂津国芥川城に入る
1544(天文13) 11月毛利元就の子隆景、小早川氏を継ぐ
1545(天文14) 8月今川義元、駿河国で北条氏康と戦う
1546(天文15) 8月堺の会合衆、三好範長の兵を撤退させる
1547(天文16) 3月足利義晴・義藤、山城国北白川城に入る
1548(天文17) 12月長尾景虎(上杉謙信)家督を継ぐ
1549(天文18) 6月三好長慶、摂津江口で三好政長を攻め滅ぼす
1550(天文19) 2月大友義鑑、家臣に殺される
1551(天文20) 7月松永久秀ら、相国寺で香西元成らを破る
1552(天文21) 1月足利義藤、三好長慶と和睦し帰京する
1553(天文22) 8月長尾景虎、信濃国川中島で武田晴信(信玄)と戦う
1554(天文23) 3月相模・駿河・甲斐の三国講和成る
1555(弘治1) 10月毛利元就、陶晴賢を安芸国厳島で破る
1556(弘治2) 4月斎藤利政(道三)、長良川で子義龍と戦い敗死
1557(弘治3) 4月毛利元就、大内義長を長門勝山城に滅ぼす
1558(永禄1) 11月足利義輝、三好長慶と和睦して入京する
1559(永禄2) 2月織田信長、上洛して義輝に謁見
1560(永禄3) 5月信長、尾張国桶狭間で今川義元を破る
1561(永禄4) 閏3月長尾景虎、関東管領となり上杉氏を継ぐ
1562(永禄5) 1月信長、清洲城で松平元康と同盟を結ぶ
1563(永禄6) この秋三河一向一揆蜂起
1564(永禄7) 2月松平(徳川)家康、三河一向一揆を鎮圧
1565(永禄8) 5月三好義継・松永久秀、足利義輝を殺す
1566(永禄9) 11月毛利元就、尼子義久を出雲富田城に攻め破る
1567(永禄10) 10月松永久秀、三好三人衆を東大寺に破る
1568(永禄11) 9月信長、足利義昭を奉じて入京する
1569(永禄12) 10月信長、北畠具教を降伏させ伊勢を平定
1570(元亀1) 9月本願寺顕如、諸国の門徒に檄し信長と敵対す
1571(元亀2) 5月信長、伊勢国長島の一向一揆を攻撃
1572(元亀3) 12月信玄、家康を遠江三方ヶ原で破る
1573(天正1) 7月信長、将軍義昭を追放する

経済・社会・文化

南北朝時代


1334(建武1) 8月二条河原に落書が掲げられる
1336(南)延元1(北)建武3 5月美濃国茜部荘民、軍勢の乱入による荘内荒廃を東大寺に訴える
1337(南)延元2(北)建武4 ▽陸奥国中尊寺焼ける
1338(南)延元3(北)暦応1 ▽大飢饉おこる
1339(南)延元4(北)暦応2 この秋『神皇正統記』成る
1341(南)興国2(北)暦応4 12月足利直義、天竜寺船を元に派遣
1342(南)興国3(北)康永1 4月幕府、五山十刹の序列を定める
1344(南)興国5(北)康永3 8月東大寺衆徒、神輿を奉じて入京
1346(南)正平1(北)貞和2 9月近江国菅浦で惣の置文を定める
1349(南)正平4(北)貞和5 6月四条河原の橋勧進田楽行われる
1350(南)正平5(北)観応1 ▽倭寇、高麗の沿海を侵犯する
1351(南)正平6(北)観応2 10月『慕帰絵詞』がつくられる
1352(南)正平7(北)文和1 11月尊円法親王『入木抄』を撰する
1354(南)正平9(北)文和3 4月倭寇、高麗の船40余艘を奪う
1355(南)正平10(北)文和4 9月駿河守護今川範氏、徳政令を出す
1356(南)正平11(北)延文1 10月若狭太良荘民、公文の非法を訴う
1358(南)正平13(北)延文3 1月天竜寺焼ける
1359(南)正平14(北)延文4 4月二条為定『新千載和歌集』成る
1361(南)正平16(北)康安1 6月京畿大地震、摂津国四天王寺の金堂転倒する
1362(南)正平17(北)貞治1 ▽京畿干魃
1363(南)正平18(北)貞治2 6月山城国久我・鳥羽の住人、争う
1365(南)正平20(北)貞治4 10月紀伊国東村で村掟を定める
1367(南)正平22(北)貞治6 2月高麗使者、幕府に倭寇禁圧を要請
1369(南)正平24(北)応安2 4月延暦寺衆徒、神輿を奉じて入京
1370(南)建徳1(北)応安3 □『太平記』成る
1372(南)文中1(北)応安5 12月二条良基『応安新式』を撰定
1373(南)文中2(北)応安6 10月幕府、鎌倉五山の制を定める
1374(南)文中3(北)応安7 2月勧進聖、京都四条橋を修造
1375(南)天授1(北)永和1 ▽高麗使がきて倭寇禁圧を要請
1376(南)天授2(北)永和2 この春、絶海中津、明から帰国
1377(南)天授3(北)永和3 1月播磨国矢野荘民、一味同心し逃散
1379(南)天授5(北)康暦1 10月義満、僧春屋妙葩を僧録とする
1380(南)天授6(北)康暦2 ▽義満、鹿苑院を創建
1381(南)弘和1(北)永徳1 12月宗良親王『新葉和歌集』を撰する
1382(南)弘和2(北)永徳2 閏1月春日社焼ける
1385(南)元中2(北)至徳2 8月義満、春日社などに参詣
1386(南)元中3(北)至徳3 7月幕府、南禅寺を五山の上とする
1387(南)元中4(北)嘉慶1 閏5月阿蘇山、噴火する
1388(南)元中5(北)嘉慶2 9月義満、駿河国で富士山を観る
1389(南)元中6(北)康応1 3月義満、安芸国厳島社に参詣
1390(南)元中7(北)明徳1 9月義満、越前国気比社に参詣
1391(南)元中8(北)明徳2 ▽飢饉、疫病流行

室町時代


1393(明徳4) 12月播磨国矢野荘民、逃散する
1394(応永1) 10月武蔵国佐々目郷民ら、強訴を計る
1395(応永2) 2月義満、伊勢神宮に参詣する
1396(応永3) 3月大内義弘、朝鮮に捕虜を送還する
1397(応永4) 4月義満の北山第、立柱上棟
1399(応永6) 3月興福寺金堂供養、義満臨席する
1400(応永7) ▽『風姿花伝』三編までまとまる
1401(応永8) 2月土御門内裏、炎上する
1402(応永9) 2月今川了俊『難太平記』を著す
1403(応永10) 6月落雷で相国寺大塔焼ける
1404(応永11) ▽琉球、幕府に使船を派遣する
1405(応永12) 2月若狭国に大風
1407(応永14) 11月鎌倉円覚寺焼失
1408(応永15) 8月京都暴風雨、寺社多数倒壊
1410(応永17) 2月天竜寺を再度五山の首座とする
1412(応永19) 6月南蛮船、若狭小浜にくる
1413(応永20) □如拙『瓢鮎図』を描く
1414(応永21) ▽京都清凉寺『融通念仏縁起』成る
1416(応永23) 1月京都暴風雨。3月京都大火事
1417(応永24) 2月山城国醍醐と山科の郷民が争う
1418(応永25) 6月近江国大津の馬借、強訴する
1419(応永26) 6月朝鮮の兵、対馬を襲う
1420(応永27) ▽朝鮮使節来朝
1421(応永28) ▽飢饉、疫病流行
1422(応永29) 5月義持、朝鮮に大蔵経を求める
1424(応永31) 8月義持、朝鮮に大蔵経板木を求める
1425(応永32) 8月相国寺焼ける
1426(応永33) 6月近江坂本の馬借、京都に乱入
1427(応永34) 5月京都大洪水、四条・五条橋流出
1429(永享1) 11月義教、室町殿新造会所に移る
1430(永享2) 11月世阿弥『申楽談儀』成る
1431(永享3) 7月京畿飢饉
1434(永享6) 2月京都大火、民家280町焼ける。11月興福寺領の百姓、渡唐段銭に抵抗
1436(永享8) 閏5月京都桂河原で勧進女猿楽あり
1438(永享10) 5月飢饉、疫病流行し死者多数
1439(永享11) 閏1月上杉憲実、足利学校に宋版の経典寄進
1442(嘉吉2) ▽伊豆大島噴火
1443(嘉吉3) ▽対馬国の宗貞盛、朝鮮貿易の条約を定める(嘉吉条約)
1445(文安2) 9月幕府、土倉の納税忌避を禁じる
1446(文安3) この夏大洪水で近江国瀬田大橋流失
1448(文安5) 7月洪水で京都五条大橋流失
1449(宝徳1) 4月山城国大地震、寺社多く倒壊
1450(宝徳2) 6月細川勝元、竜安寺を創建
1451(宝徳3) 10月義成、北小路第に学問所をつくる
1455(康正1) ▽建仁寺勧進船を朝鮮に派遣する
1456(康正2) 1月遠江国蒲御厨の百姓、土倉を襲う
1459(長禄3) 9月大和・山城両国暴風雨
1460(寛正1) 8月諸国大風・洪水。大飢饉となる
1461(寛正2) 1月大飢饉、死者で鴨川が埋まる
1461(寛正2) ▽備中国新見荘民、武家代官を排斥
1463(寛正4) 8月新見荘代官祐清、荘民に殺される
1465(寛正6) 9月義政、春日社参詣
1466(文正1) 閏2月遣明船、肥前国呼子浦で遭難

戦国時代


1467(応仁1) ▽瑞渓周鳳・一休宗純ら、兵乱を避けて地方に赴く。心敬、伊勢で法楽千句興行後、東国に赴く
1468(応仁2) 8月一条兼良・九条政忠ら、戦乱を避け奈良に赴く
1469(文明1) ▽太田道真、武蔵国河越で宗祇・心敬らと連歌会を催す
1470(文明2) 3月義政、室町殿で猿楽を催す
1471(文明3) ▽東常縁、宗祇に古今伝授を行う
1472(文明4) 12月一条兼良『花鳥余情』を著す
1473(文明5) 10月山城国賀茂の郷民、幕府設置の諸関撤廃を要求する
1476(文明8) 9月大隅国桜島噴火
1479(文明11) 4月蓮如、山城国山科に本願寺を建立
1480(文明12) 7月一条兼良『樵談治要』を著す
1483(文明15) 2月義政、東山山荘を造営
1483(文明15) 10月大和国布留郷民、古市氏と争う
1486(文明18) ▽雪舟『四季山水図』を描く
1488(長享2) 3月宗祇、連歌会所奉行になる
1489(延徳1) 2月東山山荘観音殿、上棟
1490(延徳2) 12月伊勢国山田に火災あり
1497(明応6) ▽陸奥国飢饉
1498(明応7) 8月諸国大地震。浜名湖、外海に通ず
1500(明応9) 6月祇園会山鉾巡行復興
1501(文亀1) 9月宗祇、三条西実隆に古今伝授する
1503(文亀3) ▽諸国干魃、飢饉
1505(永正2) 7月幕府、京都の盆踊りを禁止
1509(永正6) 7月宗長、駿河から宇都宮などを巡る
1510(永正7) 4月朝鮮三浦の日本人、釜山を攻略
1512(永正9) 6月豊原統秋『体源抄』を著す
1513(永正10) 6月狩野元信『鞍馬寺縁起絵巻』成る
1514(永正11) ▽幕府、僧南湖らを朝鮮に派遣
1518(永正15) 8月『閑吟集』成る
1521(大永1) 12月北条氏綱、相模箱根に早雲寺建立
1523(大永3) 4月細川高国・大内義興の明への使、寧波で争う
1526(大永6) 4月今川氏親「今川仮名目録」制定
1527(大永7) 5月近江国得珍保山越衆、商売掟制定
1530(享禄3) 3月大内義隆、幕府に遣明船復活要請
1533(天文2) ▽神谷寿禎、石見銀山で灰吹法成功
1536(天文5) 4月伊達稙宗「塵芥集」を制定
1538(天文7) 7月大内義隆、朝鮮に大蔵経を求める
1539(天文8) 8月京畿・諸国に大雨、洪水
1540(天文9) 8月諸国大風雨
1541(天文10) 5月朝鮮王、大内義隆に儒書・漏刻を贈る
1542(天文11) 10月池坊専応『口伝書』を著す
1543(天文12) 8月ポルトガル人、鉄砲を伝える
1544(天文13) 7月幕府、京中の風流を停止させる
1545(天文14) 3月宗牧、東海道を歴遊し江戸に到着
1547(天文16) 6月武田晴信(信玄)「甲州法度」制定
1549(天文18) 7月ザビエル、薩摩国鹿児島に上陸
1550(天文19) 8月ザビエル、肥前国平戸に移る
1551(天文20) 10月ザビエル、豊後からインドへ帰る
1552(天文21) 8月ガーゴ、大友義鎮に謁見
1555(弘治1) ▽ガーゴ、平戸に来て布教する
1556(弘治2) 6月ビレラ、豊後に来る
1559(永禄2) 8月ビレラ、上洛する
1562(永禄5) 6月大村純忠、肥前国横瀬浦を開港
1565(永禄8) 7月ビレラとフロイス、京都から追放
1567(永禄10) 10月織田信長、美濃加納楽市場に制札掲ぐ
1570(元亀1) ▽ポルトガル船、長崎で初の交易
1572(元亀3) 7月狩野直信、瀟湘八景図屏風を描く


室町時代
むろまちじだい

時代区分と名称

広くは1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が「建武式目(けんむしきもく)」を定め幕府を開いたときから、1573年(天正1)将軍足利義昭(よしあき)が織田信長によって追放されたときまでをさす。そのうち1392年(元中9・明徳3)の南北朝合体までをとくに南北朝時代とよび、1467年(応仁1)以降をとくに戦国時代とよぶことも多い。したがって、狭くは室町時代とは1392年以降応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱までということになる。室町幕府という中央政権を基準にして広く解するのが古くからのとらえ方であるが、今日学問的には、南北朝時代および戦国時代のそれぞれの政治・社会経済構造や史的意味の独自性を追求しようとする考え方が強い。「室町」という名称は、1378年(天授4・永和4)足利義満(よしみつ)が京都北小路室町(京都市上京(かみぎょう)区)に新邸、いわゆる「花の御所」を造営し、以後そこが室町殿とよばれて幕府の拠点となったことによる。なお、この時代を将軍家の家名によって足利時代とよぶこともある。南北朝時代、戦国時代についてはその項目に譲り、以下は主として狭義の室町時代について述べる。

永原慶二

政治過程と支配形態

南北朝合体は実質的には南朝の消滅であり、これによって中央・地方における武士の分裂抗争も名分的よりどころを失い、室町幕府の安定が進展した。地方では守護(しゅご)による国人(こくじん)の被官化が進み、将軍を頂点とする封建的主従制が貫徹していったことによって、統合が強まったのである。将軍義満は1394年(応永1)将軍職を9歳の子の義持(よしもち)に譲って太政(だいじょう)大臣となり、翌95年太政大臣も辞して出家した。これは、武家の頂点にたつとともに、太政大臣として公家(くげ)の最高の地位を占め、さらに法皇に準ずる国政全般の頂点的立場にたとうとする意図に出たものであった。したがって、義満は出家してもなお政権を掌握し続け、99年には、非一族守護のなかで大きな力をもつ大内義弘(おおうちよしひろ)を挑発して討つとともに、比叡山(ひえいざん)が京都市中の酒屋土倉(さかやどそう)に対して保持していた倉役賦課権を没収するなどして、寺社勢力にも威圧を加え、武家、公家、寺社諸支配層に君臨する権力を集中した。ついで、1401年義満は初めて明(みん)に入貢遣使し、以後対外的には「日本国王」を称したが、その前提はこのような国内統合の成功にあった。その後北山第(きたやまだい)を造営し、そこを院の仙洞(せんとう)に擬して政務をとったが、08年に死去した。国家史的には義満によって初めて事実上の武家王権が成立したのである。

 義満にかわって政権を行使するようになった義持は父と不和だったため、北山第から三条坊門の新邸に移り、1411年には明使の入京を拒否して国交を絶った。また16~17年に前関東管領(かんれい)上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が叛乱(はんらん)を起こすと、鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)を助けてこれを鎮圧、幕府の安定に努めた。23年、将軍職を子の義量(よしかず)に譲ったが、義量は2年で病死、義持も28年(正長1)に死んだ。

 義持は後嗣(こうし)を定めず死んだため、斯波(しば)、細川(ほそかわ)、畠山(はたけやま)らの有力守護大名、および義満・義持の信任厚く、政務に深くかかわっていた醍醐(だいご)寺座主(ざす)三宝院(さんぽういん)門跡の満済らが後嗣について協議したが決められず、結局籤(くじ)によって義持の弟青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)を選び、還俗(げんぞく)させて義教(よしのり)とし、これを擁立した。その就任早々、伊勢(いせ)国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝後亀山(ごかめやま)法皇の子を擁して叛乱、それに続いて、代替り徳政を要求する大規模な正長(しょうちょう)の土一揆(つちいっき)が近江(おうみ)、山城(やましろ)、大和(やまと)からその周辺の国々にまでわたって広く蜂起(ほうき)し、翌29年(永享1)には播磨(はりま)の土一揆が守護方軍兵と戦うという危機的事態を迎えた。さらに鎌倉公方(くぼう)持氏の反幕行動も表面化した。義教は幕政面では管領をはじめとする有力守護大名の力を抑えるため、奉行人(ぶぎょうにん)制度を強化し、また守護大名家の庶子や国人を将軍直属の奉公衆(ほうこうしゅう)に編成して軍事力をも強化、将軍権力の専制性を高めた。また北関東や奥羽地方南部の諸将を京都扶持衆(ふちしゅう)として援護し、さらに陸奥篠川(むつささがわ)に配置された足利満直(みつただ)と結んで持氏への対抗力を強めた。

 本来幕府のもっとも重要な出先機関として東国支配の任を負っていた鎌倉公方は、守護の任免権などを除いて、大幅な権能を与えられていたが、そのためかえって早くから反幕的行動をとった。持氏の父満兼(みつかね)は応永(おうえい)の乱(1399)に際し大内義弘と呼応して反逆を企てた。このような鎌倉と京都の対立は、1438年持氏がその軍事行動を諫止(かんし)した関東管領上杉憲実(のりざね)を討とうとしたため、憲実が上野(こうずけ)に逃れ幕府に援助を求めることによって破局を迎えた。永享(えいきょう)の乱である。義教は駿河(するが)、信濃(しなの)、越後(えちご)の軍を動かし持氏を追い込め、翌年これを鎌倉で自殺させた。また1440年には、結城氏朝(ゆうきうじとも)ら持氏派の諸将が下総(しもうさ)結城の城に持氏の遺子安王・春王・永寿王を擁して大規模な反幕行動を起こしたが、これも上杉憲実および幕府が動員した大軍によって鎮圧された。

 ところが1441年(嘉吉1)播磨・備前(びぜん)・美作(みまさか)の守護赤松満祐(みつすけ)は、結城合戦勝利の祝宴と称して将軍義教を自邸に招き、その場でこれを暗殺した。満祐は、かねて義持・義教に圧迫を加えられていたうえ、義教が一色義貫(いっしきよしつら)らを追討したことから、いずれ自分も誅伐(ちゅうばつ)されると恐れて先回りしたらしい。満祐は領国播磨に下って抗戦したが、幕府は山名持豊(やまなもちとよ)らを送ってこれを倒した(嘉吉(かきつ)の乱)。

 しかしこれを契機として、室町幕府権力の弱体化が進行する。義教が殺されると、その直後に、義教に不興を被って河内(かわち)に下っていた畠山持国(もちくに)が兵を率いて入京し、管領細川持之(もちゆき)にとってかわろうとした。細川が一族で讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、土佐(とさ)、淡路、備中(びっちゅう)、丹波(たんば)などの守護職(しき)を保持、強大な守護領国制を展開していたのに対し、畠山は能登(のと)、越中(えっちゅう)、河内、紀伊(きい)の守護職を保持したもののやや劣勢で、かねてから幕政の主導権を取り戻そうとしていたのである(翌年持之にかわり管領となる)。持国は将軍代替りによる徳政一揆の蜂起を巧みにとらえ、一揆の圧力を利用しつつ、自己の立場を有利にした。このとき幕府は初め山城一国に適用する徳政令を発布したが、翌月には「天下一同」徳政令を出さなくてはならなかった(嘉吉の徳政令)。

 義教の横死によって8歳の子義勝(よしかつ)が擁立されたが、2年後病死したため、その弟義成(よししげ)(のち義政(よしまさ)と改める)が継いだ。義政も年少のため義教の室日野重子(ひのしげこ)が後見として強い発言力をもち、守護勢力を抑えようとした。この間、足利持氏の遺子永寿王を公方として鎌倉に戻し、元服して成氏(しげうじ)と名のらせたが、成氏もまた反幕府に走り、下総古河(こが)に拠(よ)って古河公方とよばれた。そのため義政は、出家していた弟を還俗させて政知(まさとも)とし、これを東下させたものの、伊豆韮山(にらやま)の堀越(ほりこし)にとどまり鎌倉に入れず、堀越公方とよばれた。またこのころは、徳政を要求する土一揆がほとんど毎年のように蜂起した。これに対し、幕府は分一銭(ぶいちせん)と称して、債務者が債務額の10分の1もしくは5分の1を納めれば徳政を認めるとしたり、逆に債権者が分一銭を納めれば徳政をやめる徳政禁制令を発し、財政不足を補填(ほてん)した。義政は浪費家で「一代九度の晴の儀」と評されたように、儀式、観劇(猿楽(さるがく))、観桜、寺社めぐりなど豪華な遊楽にふけり、1461年(寛正2)の未曽有(みぞう)の大飢饉(ききん)・大量餓死のなかでもいっこうに省みようとせず、たまりかねた後花園(ごはなぞの)天皇がこれを詩に託していさめるということさえあった。

 義満以来、守護大名の統制手段として、大名家の惣領(そうりょう)決定に将軍が介入することが行われだし、とくに義教・義政の介入はたびたびで、それが大名家の内訌(ないこう)を招いた。畠山持国の後継をめぐる養子政長(まさなが)と実子義就(よしなり)の争いも、義政の介入によってかえって激化した。また、細川勝元(かつもと)が山名持豊(もちとよ)を牽制(けんせい)するために赤松政則(まさのり)に赤松家を再興させようと考え、義政がそれを支持したため、細川対山名の対立も激化した。これに将軍家の継嗣として義政が弟義視(よしみ)を選んだあと、夫人日野富子(とみこ)が義尚(よしひさ)を生んだことから、曲折はあったものの、結局、義政・義尚・細川勝元・畠山政長、対、義視・山名持豊・畠山義就という形で東西両軍に分かれ、さらに斯波家なども分裂し、多数の守護大名・国人がこれに加わる応仁・文明の乱となった。

 1467年(応仁1)から77年(文明9)に至る応仁の乱は、京都を焼け野原に化すとともに、地方では守護代・国人が残存する荘園(しょうえん)を最後的に侵食し、また下剋上(げこくじょう)によって守護を倒し、戦国大名への道を歩みだした。大乱終結後数年を経ず、義政は東山(ひがしやま)山荘の造営を開始し、ここに移った。日野富子は夫との不和から別に住んで京都七口(ななくち)関からの関銭徴収を強化し、米投機、金銭貸付などに力を入れた。この間、なお戦いを続ける畠山義就・政長に対し、義政・富子が適切な対応を欠いたことから、1485年には山城国一揆が蜂起して両軍を撤退させ、以後南山城地方に10年余にわたる国一揆の自治が実現した。この事件は応仁・文明の乱によって失墜した幕府の権威をいっそう傷つけたもので、この直後から、加賀の一向(いっこう)一揆蜂起による守護富樫政親(とがしまさちか)の自殺、東方における伊勢長氏(いせながうじ)(北条早雲(ほうじょうそううん))の伊豆韮山(にらやま)奪取などの戦国期入りを象徴する事件が続く。義政の子義尚は1487年(長享1)将軍権威の回復を目ざして近江守護六角高頼(ろっかくたかより)追討の軍を起こしたが、若くして暴飲不節制だったため陣中に死に、ともかくも将軍が幕府の中心にたつ時代はここに終わった。将軍はこれ以後なお1世紀近くも存続するが、細川政元(まさもと)以下それぞれの時期の中央有力者に擁立され、ときには翻弄(ほんろう)され、あるいは殺されることもありながら、形ばかり命脈を保ったのである。

[永原慶二]

経済と社会

室町時代は経済的には発展の顕著な時期である。農業では、用排水技術・肥培技術の進歩と品種の改良・多様化などによって耕地の安定と集約的利用が進んだ。土地生産力の上昇の半面、荘園領主権の弱化から、農民層の手元に残される剰余部分を加地子(かじし)として売買することが行われ、加地子収取権を集積する加地子名主(みょうしゅ)層が成長した。加地子名主層は「百姓」身分に属する有力農民で、惣(そう)とよぶ村落共同体結合の指導層となり、さらに惣村の地域連合を発展させ、自治的権利を強めるとともに、しばしば荘園領主に対する年貢・夫役(ぶやく)の減免を求める闘争や、幕府に対し徳政令を求める土一揆の先頭にたった。

 そうした生産力の向上と農民闘争によって、農民の手によって販売される農産物や農産加工品の量が増し、とくに苧麻(ちょま)、荏胡麻(えごま)などをはじめとする農産物・農産加工品の商品化が進んだ。またそれに伴い定期市(いち)が各地に発生し、その主要なものは町場化した。敦賀(つるが)、小浜(おばま)、大津、坂本、淀(よど)、尼崎(あまがさき)、兵庫、堺(さかい)など京都・奈良の外港的性格をもつ港津、また博多、尾道(おのみち)、安濃津(あのつ)、大湊(おおみなと)、品川、三国湊(みくにみなと)、蒲原津(かんばらのつ)なども、列島沿岸航路の発展によって都市的繁栄を遂げた。農村内部における社会分業は、鍛冶(かじ)、紺染め、番匠(ばんしょう)などを主とするにとどまるが、製塩、窯業、製紙、製材など地域の条件に即した特産物生産は各地で進んだ。

 中央都市京都は、伝統的な首都という性格に加え、幕府の開設、守護在京制、五山禅院の相次ぐ創建等の事情から人口増加が著しく、全国各地から送り込まれてくる物産のほか、織物、工芸品、焼物、刀剣武具などをはじめとする高級商品の生産が盛んで、多くの職人を分化発展させた。また洛中(らくちゅう)洛外の酒屋(醸造業者)は少なくとも300を超え、多くは土倉という保管業・金融業を兼営した。土倉は第三者からも合銭(ごうせん)とよぶ投資資金を多額に預ったが、庶民よりもむしろ年貢米・荘園支配権を担保としてとれる公家・武家に貸し付けた。室町時代の経済面における特徴の一つは、貨幣流通が急激に発展し、地方の年貢物も和市(わし)とよぶ取引相場によって現地で換算され、銭で納められるようになったこと、中央支配層の経済が貨幣経済化することによって金融関係、為替(かわせ)取引など信用経済が発展したことがあげられる。ただ見逃せない事実として、それら都市的・経済的諸機能の発展および伝統的な穢(けが)れ観念とかかわって、都市の清掃や道つくり、屍牛馬(しぎゅうば)処理などの労働に従事する人々や下級の各種芸能を業とした人々が卑賤(ひせん)視されたことがある。散所(さんじょ)、河原者(かわらもの)、唱門師(しょうもんし)などはその主要なものである。

 この間、室町時代を通じて、荘園制の解体がますます進んだ。南北朝時代以来、本所(ほんじょ)領とよばれる武家側地頭(じとう)設置の荘園では半済(はんぜい)が行われ分割が進んだ。それを免れた寺社本所一円地でも請負代官制の一般化によって、荘園領主が直接支配力を現地に及ぼすことは不可能になり、一定の年貢を受け取るだけのケースが多くなった。公領は多く守護領に転化した。しかも応仁・文明の乱によって、残存していた荘園の大半も地方領主の手によって侵食され、中央領主の権利は不知行(ちぎょう)状態に陥った。これにかわって守護領国制と国人の領域支配が進行し、土地の領有形態は荘園制的「職(しき)」の領有から一円的な領域支配へと転換していった。

[永原慶二]

国際関係

この時代の外交・国際関係は、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)が明(みん)を建国し太祖洪武帝(こうぶてい)となることによって新しい局面に入った。すなわち、明帝は周辺諸国家に対し招撫(しょうぶ)入貢を促すための使者を送ったが、その一環として日本にも69年(正平24・応安2)明使がきて、当時九州に勢力をもっていた南朝側の懐良(かねよし)親王に倭寇(わこう)鎮圧と入貢を求めた。このころ朝鮮半島から中国沿岸にかけての倭寇が活発だったため、明も高麗(こうらい)もその抑止を強く求めていたのである。72年(文中1・応安5)明使がふたたび博多に来着、今度は幕府に国書を呈した。義満は使者を送ったが臣礼をとらなかったため拒否された。その後今川了俊(いまがわりょうしゅん)は倭寇が捕らえてきた民衆を高麗に返送するなど、独自の動きをとったため、義満は懐良・了俊の外交行動を抑え、外交権の独占を急がなくてはならなかった。また明が皇帝に臣従し冊封(さくほう)を奉じた場合のみこれを受け付け、商人レベルの交易に対しては海禁政策をとっていることを知ったため、義満は国内統合が一段落した1401年(応永8)明帝に対し臣礼をとって使者を送った。04年には明側からも永楽帝の勘合と「日本国王之印」が届けられ、以後いわゆる勘合貿易が行われるようになった。貿易品としては日本からは硫黄(いおう)、刀剣、扇などを出し、明からは銭貨、生糸、薬種などを入れた。また朝鮮半島でも、倭寇鎮圧にも力を発揮した李成桂(りせいけい)が1392年に高麗を倒して李朝を開いたのに応じ、義満は使者を送って国交を開いたが、朝鮮は明とは違って、互いの間に上下関係はなかった。1419年、朝鮮は対馬(つしま)を倭寇の根拠地とみて襲撃することがあったが、まもなく誤解に基づくことを認識し、以後、対馬の宗(そう)氏や大内、小早川(こばやかわ)など西国の守護・国人とも個別に通交関係をもった。

 このころ琉球(りゅうきゅう)ではしだいに統合が進み、中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)・北山(ほくざん)の三勢力が形成されていたが、1429年(永享1)中山の尚巴志(しょうはし)が北山、南山を倒して全島の統一に成功し、「日域を以(もっ)て唇歯(しんし)、大明を以て輔車(ほしゃ)」という両属関係を保った。同時にその商人は広く南海方面にまで進出し、日明間の中継貿易に活躍した。日本では対明勘合貿易は義持の代で一時中止、義教の代に復活したが、遣使の回数は概して少なかった。そのうえ16世紀後半にはその主導権が大内、細川などの大名の手に移っていったのに対し、琉球の場合は遣使回数もはるかに多かった。

[永原慶二]

宗教・文化

宗教の面では、伝統的に公家と結び付いてきた南都北嶺(なんとほくれい)勢力を抑えるという意味もあって、南禅(なんぜん)・天竜・建仁(けんにん)・東福(とうふく)・万寿(まんじゅ)寺の京都五山(相国(しょうこく)寺の創建により南禅寺は五山の上とされた)に幕府の特別な保護が加えられ、多くの所領が寄進された。五山禅僧は詩文・漢籍に通じ(五山文学)、幕府と結び付いて政治・外交にも関与する一方、幕府も僧録制度を設けて、禅院・禅僧の管轄を強化した。春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が初めて僧録に任じ、以後代々相国寺の鹿苑院(ろくおんいん)住持がこれを兼ねる習わしとなった。

 五山禅院が力をもつようになると、真言(しんごん)、天台宗などの地方寺院も禅宗に改宗するものが続き、禅宗は地方に大きく発展した。他方、民衆の間では時宗が広い支持を集めたが、室町中期に蓮如(れんにょ)が出て、近江、越前(えちぜん)などで布教したことから、応仁以降になると、浄土真宗(一向宗)が北陸・東海地方などを中心に民衆の間に広まり、その門徒はしばしば一向一揆を起こすようになった。

 文化の面では、建築、庭園、水墨画などに禅風が強い影響をもたらした。これは北山・東山文化の諸面にうかがうことができる。龍安寺(りょうあんじ)の庭園に代表される枯山水は、簡素で象徴性に富み、その代表的なものの一つである。しかし、室町時代の文化のもう一つの重要な特徴は、鎌倉時代までと違って文化が宗教を離れ、生活文化的傾向を強めてきたことである。この時代に大流行した田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)の能は、もともと神事として演ぜられたものであるが、とくに猿楽は、観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)以降しだいに独立的な演劇として発達した。また猿楽の能の合間に演ぜられる狂言は機知と風刺に富んだ娯楽劇となった。卑賤(ひせん)の芸能といわれる各種の下級芸能も、発生的には宗教と無縁でないが、みな娯楽性を強めるようになった。また書院造の建築様式の発達と不可分の立花(りっか)、茶はいっそう端的な生活文化というべきものである。さらにこの時代には和風料理の基本型が確立し、衣服の面では従来は下着にほかならなかった小袖(こそで)が表着(おもてぎ)となり、女性の服装は総じて軽快で生活しやすい型を追求するようになった。

 これと並んで室町文化のもう一つの特徴というべきものは、文化の創造・享受の仕方の集団性ということである。南北朝時代以来盛んだった連歌(れんが)は多数の人々が寄合(よりあい)の席で自由に参加できるもので、二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)に「在々所々ノ歌連歌点者ニナラヌ人ソナキ」といわれるように自由で大衆的な方式で楽しまれた。勧進(かんじん)能の形をとった猿楽の上演も、賀茂川原に桟敷(さじき)を設け貴賤の別なく観覧できるという開放性をもっていた。さらに茶会にしても、しばしば闘茶という形で人々が茶の品種の当て比べをするといった集団遊戯性をもっていた。猿楽能、連歌、茶などはいずれも発展過程で芸術として洗練され高められてゆくが、その発生過程では集団性・大衆性を特徴としている。それらはこの時代の村落共同体・都市共同体である惣(そう)の寄合などを社会的基盤として形成されたものといえるであろう。

[永原慶二]

『京都市編『京都の歴史2・3』(1968、71・学芸書林)』『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』『佐藤進一著『足利義満』(1980・平凡社)』『永原慶二著『中世内乱期の社会と民衆』(1977・吉川弘文館)』『永原慶二著『日本中世の社会と国家』(1982・日本放送出版協会)』『今谷明著『室町幕府解体過程の研究』(1985・岩波書店)』『今谷明著『守護領国支配機構の研究』(1986・法政大学出版局)』

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改訂新版 世界大百科事典 「室町時代」の意味・わかりやすい解説

室町時代 (むろまちじだい)

広義には,1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡のあとをうけて,同年の建武政府の成立から,1573年(天正1)南山城の槙嶋城における室町幕府の崩壊までをいうことが多い。しかしこの見解も,終期に関しては異説もあり,1568年(永禄11)の織田信長上洛までとする意見,1576年の安土築城までとする見方などがある。いずれも次の安土桃山時代ないしは織田・豊臣時代(略して織豊期ともいう)へと続く政治史上の時代区分であるとの認識では一致している。中世後期という場合は,この広義の室町時代を指すのが普通である。織田政権を全国統一を目ざした近世的権力とする見方に立てば,終期は1568年に置くのが妥当であろう。

 次に狭義には,1392年(元中9・明徳3)の南北朝合一以降,1493年(明応2)の明応の政変までを室町時代とし,以前を南北朝時代,以後を戦国時代として,広義の室町時代を3分割する見解がある。しかし室町幕府が1336年(延元1・建武3)にはじまるというのは今日学界の通説であり,途中幾度かの紛擾があったとはいえ,ほぼ全国的政権として存在したことは否定すべくもないから,建武政府をも含めて1333年より1493年までを室町時代として,南北朝の対立を相対的に低く見る理解も有力である。この場合は中世後期を室町・戦国の両時代に分けることになる。なお,終期の1493年を応仁・文明の乱が勃発する1467年(応仁1),あるいは同乱の収束する1477年(文明9)に繰り上げる見方もある。

 なお,広義の室町時代を使う場合,南北朝期を室町初期,戦国期を室町後期と呼びかえることもある。以上のように,この時代区分としての用語は,広狭さまざまの長さに受け取られ,誤解を生じやすいこともあって,今日学界では中世後期の語で代用することが多くなっている。

政治・経済史を含めた時代区分である〈中世〉の後半に当たり,同時に中世から近世への永い過渡期にも相当する。以前はこの時代を前期封建制の後半期とし,後期封建制(純粋封建制)への準備期ととらえていたが,その後,朝廷,公家,寺社などの王朝本所権力の残存,再編に着目して,公家,武家が相互補完的に人民を支配する権門体制の後半期,幕藩体制成立への過渡期に当たるという説が有力になってきた。ただ15世紀前半に足利義満が公武両権力の頂点に立つに及んで,王朝に対する幕府の権限は圧倒的に優位となり,権門体制説が唱える,天皇が国王の地位にあるとする論点がこの時代になお妥当するか否かは議論が分かれるところである。いずれにせよ,権門体制が応仁の乱で終局的に解体するというのは諸説一致している。

 このように,平安後期以来の権門体制がこの時期まで存続するか否かは問題があるが,南北朝後期以来,守護大名の領国把握の進展,幕府の守護による連合政権的性格に着目して,この時期特有の政治体制として〈守護領国制〉なる概念が提唱された。事実,南北朝期は守護職が頻繁に更迭され,内乱を反映して守護の分国掌握は進行しなかったが,15世紀に入ると,おおむね守護職は各大名家で世襲され,在地の有力土豪(国人(こくじん))も家臣団(被官(ひかん))に編成され,守護代,郡代(ぐんだい)による強力な統制下に,地方分権化が展開するようになる。しかし西国や畿内ではなお荘園制が根強く残存し,守護の統治も荘園制の枠内においてしか実現されないとする立場からは,封建制を推進する担い手は守護でなく国人であるとして,〈国人領主制〉という概念が新たに呈示され,かなり有力な説となっている。1368年(正平23・応安1)執事細川頼之が公布した半済(はんぜい)令は,有力寺社公家など,一部荘園領主を温存するとともに,中小荘園領主を切り捨て,守護の直轄領としたので,畿内近国では荘園制が一部再編強化される一方,遠隔地,辺境では守護の大名領国化が進展し,応仁の乱後は守護,守護代層が自立して戦国大名が出現した。畿内では,畠山氏が家督紛争で衰えたのちは,山名氏,細川氏が覇を競い,応仁の乱で山名氏も山陰に逼塞すると,ひとり細川氏が四国,畿内を支配し,1493年将軍廃立を強行して幕府をも実質的に傀儡(かいらい)化した。しかしこの地域は荘園領主および農民の力が強く,強力な領国制を展開できないまま三好氏,松永氏らの台頭を招き,織田信長の入京を前に,戦国大名と呼びうる権力は現れなかった。
室町幕府

この時代は〈下剋上〉と呼ばれるように庶民の成長と台頭が著しく,支配層の脅威とさえなった日本史上最も躍動的な時期といえる。平安末より始まった二毛作は全国に普及し,運河網の発達,揚水車の発明普及,番水の整備などによる水利灌漑の進展があって,15世紀前半には畿内で三毛作が出現し,朝鮮通信使を驚嘆させるに至った。なお牛馬耕,人糞尿使用,鳥獣駆除などの技術も見逃せない。このような農業技術の改良による生産力の発達は,加地子(かじし)と呼ばれる剰余を農民層に蓄積させ,古い荘園制を支える(みよう)は解体して,各地に(そう)と称される農民の自治的村落共同体が簇生(そうせい)した。中世の農民には武器保有の自由があり,14世紀後半にかけて守護の課役や荘園領主の年貢増徴に抵抗して農民は村落単位に〈荘家の一揆〉を結成し,15世紀に入ると,土倉(どそう)・酒屋など高利貸資本からの加地子得分奪還を目ざして〈徳政一揆〉が戦われ,畿内の農民は京洛の大社寺に閉籠(へいろう)して気勢をあげ,幕府や大名を震撼させた。農民から武士,商人へと転化する者も多く,階層間はきわめて流動的で,殺伐の風潮とともに自由がみなぎった時代でもあった。これら土一揆(つちいつき)の母胎となった惣が横に連合して郡中惣(ぐんちゆうそう),国一揆を結成し,ついには播磨,山城,伊賀のように国内から守護勢力を追放する運動にまで発展している。

 在地における富の留保は手工業,商業を発達させた。1445年(文安2)の兵庫北関では船の入港数が1000艘を超え,瀬戸内沿岸各地には陶器,莚,染料,紙,鉄などの主産地が形成され,備後の塩,阿波の藍,備中檀紙,備後表,備前壺,千種鉄などは15世紀に名産として大量に畿内に流入している。前代から発達をとげた刀剣は,玉鋼(たまはがね)と呼ばれる日本独特の良質鋼鉄を素材とし,その鋭利性によって中国に大量に輸出される一方,明からは銭貨が流入して,貨幣経済はいっそう発達した。実に日本は当時世界屈指の武器輸出国であった。なおこの時代将軍足利義満が国内を統一しながら自国通貨によらず明銭を通貨としたのは,中国銭が北アフリカから東南アジア,東アジアと,回教・仏教圏に広く国際通貨として流通していたためである。一大消費都市である京都,奈良,堺を抱える畿内経済の円滑化をはかるために,近江坂本,京都下京には〈米場〉と呼ばれる米穀取引市場が成立し,なお魚介類については山城淀に魚市が,近江粟津と京都六角町には粟津供御人(あわづくごにん)(粟津橋本供御人)による生鮮魚介,塩,塩合物(しおあいもの)を中心とした日常雑貨の一大卸売市場が形成され,供御人はさながら総合商社の販売人のごとく全国を自由通行して売りさばいた。また石清水八幡の荘園から運上された荏胡麻(えごま)は山城大山崎油座で製油され,灯油として全国に独占販売され,各地の夜に光明をもたらし,文化の発展に寄与した。これらの商工業にはが結成され,山科家,興福寺,石清水社などの荘園領主が本所として権益を握っていたが,彼ら権門は決して古代的勢力の残存なのではなく,畿内の経済発展段階に適応した柔軟な中世的権力であり,流通を促進した積極的保護者と評価すべきである。

 都市は京都が武家,公家,寺社の集住する権門都市として栄え,人口数十万に達したと推定されるが,反面朝鮮使節の観察しているように乞食などの下層民も多く,1461年(寛正2)の大飢饉には,洛中のみで餓死8万人を数えたという。奈良は大和一国を支配する興福寺の門前町として京都に次ぎ,堺,兵庫,博多は貿易都市として繁栄した。地方には守護の分国支配の拠点となった守護所が国ごとにあって都市が成立,さらに郡には郡代が城郭を構築し,戦国期に至って城下町に転化したものが多い。備後尾道,讃岐宇多津などは守護所と同時に港湾機能を兼ね備えた港町で,殷賑(いんしん)を極めた。東国では鎌倉が武家の町として最大であったが,15世紀半ば,鎌倉公方(くぼう)が下総古河(こが)に逃亡して以降荒廃し,新たに相模小田原,武蔵の江戸,河越などが城下町として簇生する。15世紀後半,蓮如の布教活動によって一向一揆が強大化すると,山城の山科,越前の吉崎,摂津の石山,近江の堅田などの寺内町が北陸,畿内に形成され,環濠と土塁によって民衆の居住域を囲繞(いによう)するという,わが国に特異な城壁都市が初めて登場した。河内高屋城や小田原はこの寺内町の様式を導入した戦国大名の都市であった。京都,堺などでは戦国期に町組などの都市自治体が結成され,町衆(まちしゆう)による町政運営が行われた。

 以上のような都市の発展を支え,可能にしたのは建築・木工業の技術改良である。棟梁-番匠という職人組織(大工座)が大社寺を中心に形成され,14世紀末には大鋸(おが)と呼ばれる巨大な2人挽きの縦引鋸が発明され,大規模な製材が初めて可能になった。近江葛川など山村を中心に板商売が興ったのも,大鋸の貢献が大きい。素材は先述の玉鋼で,背後に製鉄技術の優秀さがある。畿内を中心とする大量の木材需要を満たすため,阿波,土佐南岸の海部,甲浦,安田などの港からは連日数百石積の榑船(くれぶね)が兵庫に入港し,建築材以外の薪材は淡路および讃岐北岸の各地から小型船によって山城の木津,淀へ運ばれている。なお陸上交通は,関所の濫設がたしかに阻害要因となったが,各分国では守護が伝馬制を創始し,やがて戦国大名の駅制へと発展した。

 金融については,延暦寺や五山の禅院,熊野社などの有力寺社が日吉上分米(ひえじようぶんまい),祠堂銭,熊野講銭などと称する門信徒の零細資金をかき集め,合銭(あいぜに)と呼んで土倉・酒屋などの高利貸資本に出資するというメカニズムが成立していた。貨幣経済に巻き込まれた在地領主,農民は留保していた加地子(かじし)をはき出すはめになり,徳政一揆が頻発したのである。このように,巨大な寺社勢力や一部公家が流通過程を掌握し,武家すらもその機構に頼らざるをえないという状況が,この時代の大きな特徴であった。武士の荘園侵略に目を奪われて,一方的にこの時期の趨勢を見誤ってはならない。

 身分制の面では,下人所従は相対的に希薄化したが,辺境ではなお労働力不足で,人身売買は依然として一部に行われ,謡曲《隅田川》や《閑吟集》などにみられる人買伝承にそれは反映している。女性史については,この時期はいわゆる嫁取婚の時代に入り,女性を支配する家父長の権限が強化されつつあった。販売業や家内労働など,女性の社会的進出が活発化していたにもかかわらず,宮座などの村落結合の場から女性は締め出され,やがては女性を道具視する政略婚の盛行をみ,女性史は冬の時代に突入する。庶民の台頭と同時に女性蔑視が進行するという,古典ギリシア世界の現象が再現していることに注意すべきである(高群逸枝《女性の歴史》)。散所河原者の皮革業,造園業への貢献も著しく,将軍義政は彼らを保護さえしているが,一般人の差別視も徐々に深化していった。

上層社会,すなわち公家,武家,寺社などの権門と民衆に分けて叙述する。1398年(応永5)義満が営んだ北山第(金閣)に象徴される初期の権門の文化を北山文化,応仁の乱後義政が造営した東山山荘にちなむ後期の芸術を東山文化と呼ぶ。いずれも王朝に系譜を引く公家文化を上層武家社会が融合,吸収して成立したもので,前者は学芸としての五山文学(詩文),堂上連歌,茶寄合,能楽,日明貿易を介しての唐物趣味などに代表される。美術面では折衷様仏堂建築,禅院の方丈建築と庭園,水墨画が高度な発達をとげた。軍記《太平記》は武家の一大叙事詩であるとともに,権門一般や庶民の側からの社会批判をも投影している。北山文化の主たる舞台は五山の禅院であり,その担い手は天章周文に代表されるような東班衆(とうばんしゆう)の禅僧であった。一方東山文化の方は,前者を基調としながらも,将軍義政の近習である奉公衆(ほうこうしゆう)や同朋衆(どうぼうしゆう)が参加し,山水(せんずい)河原者や猿楽者のような下層民をも差別なく登用した義政の同仁思想から,庶民性が濃厚に反映することになった。東山文化の造形としては書院造,茶室建築,床飾が発生し,狩野派に代表される装飾画,能面,茶釜,茶碗などの工芸も,幽玄を基調とする独特の美意識に裏打ちされて発達した。そうしたことから,近世以降の和様生活様式が,東山時代に淵源をもつという見方が有力である。

 さて民衆の側では,仮名文字がようやく庶民層に普及し,領主に対する経済的要求の手段である嗷訴(ごうそ)の申状を農民自身が執筆するようになり,文字は貴族の独占物ではなくなった。喫茶の民間普及はこの時代に著しく,村落の宮座では茶寄合や地下(じげ)の連歌会が行われ,都市では寺社の門前などに一服一銭(いつぷくいつせん)の茶売人が住人や参詣人に湯茶をひさいだ。このような民衆文化の舞台となったのは,村落結合の場である宮座が行われた鎮守社の長床(ながとこ)であるが,惣村の神社建築は惣結合の象徴として,この時期意匠的に最も発達した。すなわち拝殿や幣殿が本殿に連接する建法が生じ,比翼春日造や比翼入母屋造など連棟建築が登場し,屋根の意匠は唐破風(からはふ),千鳥破風が合成されて,仏堂建築の保守化に比し,きわめて自由闊達な展開をとげ,近世の城郭建築にも大きな影響を与えたのである。この時期の彫刻界が不振であったのに比して,神社建築の細部意匠には,蟇股(かえるまた),手挟(たばさみ),脇障子,持送(もちおくり)などに庶民性の豊かな造形が施されている。

 芸能関係では,大和,丹波,近江など畿内近国の農村において,南北朝内乱期に猿楽(さるがく),田楽,延年風流(ふりゆう)などの民間芸能を母胎として狂言が生み出された。能は主題を古典世界から取り,舞踊と歌謡を織り込んだ演劇として発展,上層社会に迎えられ,やがて世界に誇る洗練された象徴劇に到達する。それに対し狂言は現実世界をテーマとして民衆の側からする権門への批判,滑稽,諧謔を含み,風刺劇として成立したまさに民衆文化の遺産であるといえよう。《田植草紙》や御伽草子,《閑吟集》,小歌なども,民衆の間に普及した文芸として見落とせない。都市においては奈良,京都を中心に,権門による禁圧にもかかわらず熱狂的な風流踊(ふりゆうおどり)がしばしば催され,仮装などに町衆の趣向がこらされ,初めは弾圧に回った公武の支配者たちが,後には見物に殺到する事態さえ現出した。京都祇園会の山鉾も,応仁の乱で中絶したのを町衆の富力によって再興し,祇園社の神事としての性格が,まったく町衆自身の祭礼へと一変した。祭礼費用いっさいは土倉・酒屋の出銭や町衆負担の地口銭により充当され,舞踊や音曲の伝授には一部の公卿も協力し,文字どおり町をあげての芸能となったのである。

 応仁の乱によって,一時的に京都が戦火に被災するや,公家,僧侶は争って地方の守護,国人の居館へと流寓し,大名たちも京下りの文化人を優遇したから,戦国期には京都の公家文化が大いに地方に伝播した。有名な雪舟の水墨画は,周防の大内氏や石見の益田氏らの庇護に支えられて大成されたのである。このように,室町期は文化面でも下剋上の風潮が横溢し,貴族文化をも摂取・融合して洗練された高度の遺産を後代に伝えた時代であるといえよう。
中世社会
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「室町時代」の意味・わかりやすい解説

室町時代
むろまちじだい

足利氏による武家政権の時代をさす。3代将軍足利義満が京都に室町殿を造営して以来,ここで幕府政治を行なったことから初代将軍足利尊氏,2代将軍足利義詮にさかのぼって足利政権の時代をさすようになった。尊氏が延元1=建武3(1336)年光明天皇を立てて政権を握った時期から,元亀4(1573)年7月 15代将軍足利義昭織田信長に京都から追放された時期とする。この間,初代尊氏,2代義詮の時期を含む元中9=明徳3(1392)年の南北朝合体までを南北朝時代とし,また応仁の乱以降,事実上幕府の威令の行なわれなくなった時期を戦国時代と細分することもある。室町幕府の全盛期は南北朝合一により武家政権と貴族政権の間の抗争が終わった足利義満の時代で,鹿苑寺金閣に代表される北山文化の隆盛をみるが,守護大名の領国の強化,応仁の乱を契機とする戦国大名の領国の展開とともに,幕府の権威は衰退する。8代将軍足利義政慈照寺銀閣に代表される東山文化の推進者となった。この時代の文化は,公家文化を基調とした武家文化の展開,日明交渉を基礎とする大陸文化の影響,文化の地方浸透と庶民化の傾向を示した。

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百科事典マイペディア 「室町時代」の意味・わかりやすい解説

室町時代【むろまちじだい】

足利時代とも。1336年足利尊氏が室町幕府を開いてから,15代将軍義昭が織田信長に京都を追放され幕府が滅亡した1573年までの時代。始期・終期については,ほかにも諸説ある。鎌倉幕府の滅亡から3代将軍義満による全国統一までの動乱期は南北朝時代と通称。応仁・文明の乱以後は戦国時代と呼ばれる。
→関連項目足利義視小早川氏相良氏日親日本奉行人益田氏松浦氏

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旺文社日本史事典 三訂版 「室町時代」の解説

室町時代
むろまちじだい

広義では1338年足利尊氏の室町幕府創設から,1573年幕府滅亡までの約240年間をさす
足利時代ともいう。1336年建武式目制定を成立期とする説,狭義では南北朝時代・戦国時代を除き,1392年南北朝合体から,1477年応仁の乱終結までをさす説などもある。この時代は,政治上では幕府権力が弱体で,台頭してきた守護大名に支えられ,経済上では商業が発達し,商人が勃興した。社会上では,郷村制の成立で結集した庶民の力が土一揆となって発揚されるようになり,文化上では,武家文化が公家文化を圧倒し,水墨画のように宋・元文化の日本化も進められた。さらに,武士・商人・農民の支持を得て,能・狂言・茶道・連歌・御伽 (おとぎ) 草子のような新文化が出現するようになった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「室町時代」の解説

室町時代
むろまちじだい

足利時代とも。時代区分の一つ。南北朝合一がなった1392年(明徳3・元中9)から,室町幕府が織田信長によって滅ぼされた1573年(天正元)までの2世紀弱をさすことが多い。1467年(応仁元)の応仁・文明の乱以降,幕府が衰微して各地に戦国大名が割拠した時期を,戦国時代として区別することもよく行われる。また鎌倉幕府が滅亡した1333年(元弘3)ないし建武政権が崩壊した36年(建武3・延元元)に始期をおき,南北朝期を含めることもある。足利氏が京都室町に幕府をおいた時期にあたるのでこの名がある。

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防府市歴史用語集 「室町時代」の解説

室町時代

 1333年に鎌倉幕府がほろびてから、1573年に織田信長[おだのぶなが]によってほろぼされるまで、京都の室町に幕府があった期間を言います。時代の区分にはいろいろな考えがあり、はじまりを建武の新政[けんむのしんせい]がくずれた1336年にする場合や、南北朝時代を別にして、1392年からを室町時代にする場合もあります。また、1467年の応仁の乱[おうにんのらん]以後を戦国時代として区別する場合もあります。

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世界大百科事典(旧版)内の室町時代の言及

【守護領国制】より

…南北朝・室町時代の社会構成上の概念。鎌倉幕府の中央集権的体制が崩れ,室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称する。…

※「室町時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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