オーストラリア(英語表記)Australia

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共同通信ニュース用語解説 「オーストラリア」の解説

オーストラリア

日本のほぼ真南に位置する。18世紀にクックが上陸し、英国領を宣言。1901年に6植民諸州が統合しオーストラリア連邦を樹立。英女王を元首とする立憲君主制で議院内閣制。総面積は日本の約20倍に当たる約770万平方キロメートル。住民の大半は欧州系白人で、人口は約2600万人。農畜産業と石炭や鉄鉱石などの鉱業が主要産業。2020年の1人当たり国民総所得は5万3690ドル(約690万円)。(シドニー共同)

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改訂新版 世界大百科事典 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
Australia

基本情報
正式名称=オーストラリア連邦Commonwealth of Australia 
面積=769万2024km2 
人口(2010)=2234万人 
首都=キャンベラCanberra(日本との時差=+1時間) 
主要言語=英語 
通貨=オーストラリア・ドルAustralian Dollar

南太平洋にある世界最小の大陸オーストラリアを占める国。国名はラテン語のテラ・アウストラリスterra australis(南の大陸)に由来する。豪州とも略称する。イギリス連邦の一員。

オーストラリア大陸は,ユーラシア大陸などの六大陸の中で,面積(761万km2)が最も小さく,平均高度(330m)が最も低く,標高200m未満の低地の占める割合(39%)が最も大きく,標高1000m以上の高地の占める割合(2%)が最も小さいという,著しく低平で起伏に乏しい特色をもっている。海岸線も単調で,その延長はタスマニア島を含めても3万6700kmで,日本のおよそ1.1倍にすぎない。最北端は南緯10°41′(ヨーク岬),最南端は南緯43°39′(タスマニア島サウス岬),最西端は東経113°09′(スティープ岬),最東端は東経153°39′(バイロン岬)である。

 オーストラリア大陸は,西部台地,中央低地,東部高地の三つの大地形区に分けられ,ほぼ地質区分に対応している。西部台地は一般に著しく平たんで,局部的に残丘状の山地が見られるにすぎない。基盤はオーストラリア楯状地あるいは西部楯状地と呼ばれる先カンブリア層で,にその上に古生代以後の堆積層がのっている。先カンブリア層は,金属鉱物資源の宝庫で,金属鉱床区の分布は,上記の堆積層を除く先カンブリア層の分布にほぼ一致する。その代表はウェスタン・オーストラリア州北西部の鉄鉱石鉱床であるが,マウント・アイザおよびブロークン・ヒルの非鉄金属鉱床もこの地帯の東端にあたる。中央低地(中央東部低地あるいは内陸低地とも呼ばれる)の北部は中生代の堆積層で,地下水利用で知られる大鑽井盆地にあたる。南部は主として第三紀の堆積層であるが,一部は地質的には東部高地の古生層の延長である。東部高地は,タスマン地向斜に堆積した古生層が中生代以降,とくに第三紀に隆起して形成されたものである。西部台地との比較から高地と呼ばれ,また大分水嶺山脈とほぼ一致するが,高地の名に値するのは第三紀末のコジアスコ変動により隆起したオーストラリア・アルプスなど一部のみで,その他は台地が断続的に連なったものにすぎない。西斜面はとくにゆるやかで,中央低地に連続する。東部高地の古生層にも西部台地の先カンブリア層に次いで金属鉱床の発達が見られ,またクイーンズランド中部およびニュー・サウス・ウェールズ中部の堆積層には主として古生代末期(二畳紀)に形成されたボーエン炭層およびシドニー炭層が見られる。さらにビクトリア東部の第三紀層では褐炭の埋蔵が知られている。

オーストラリア大陸は最も乾燥した大陸で,乾燥気候地域(砂漠,ステップ)の占める割合(57%)は六大陸中で最大である。降水量は海岸から内陸に向かって同心円状に減少する。年降水量が500mm以上の地域は国土の29%,800mm以上は11%にすぎない。さらに,水の利用の点からは,二つの制約を考慮しなければならない。第1は,変動度が内陸ほど大きく,年平均値の信頼度が低下することである。したがって干ばつおよび洪水がこの国の主要な災害である。第2は,降水量の多くが蒸発によって失われることである。年降水量に代えて,蒸発を考慮した作物生育期間の分布が,しばしば用いられる。これは,P-4E075>0(ただしPは月降水量,Eは水面からの蒸発量,したがって4E075は土壌からの蒸発量)の月,すなわち土壌からの蒸発量を上回る〈有効な〉降水量のある月が年間何ヵ月あるかを示すものである。一般に5ヵ月以上なら農業が可能,1~5ヵ月では粗放な牧畜のみ可能とされている。これに土壌条件などを加えると,農業の可能な地域はさらに限定される。

 地形,降水,蒸発の条件から,恒常的に地表水の見られる地域は海岸地帯に限られ,内陸では間欠河川あるいは地下水のみが利用可能な水資源である。なお,内陸の湖のほとんどは,干上がった湖床(プラヤ)である。
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オーストラリア大陸は,古く中生代白亜紀の末にアジア大陸と分かれ,長い間孤立してきた大陸なので,多くの固有種を生み出している。その筆頭はフトモモ科(オーストラリア産は45属1200種)のユーカリ属(約500種)とマメ科(同大陸産だけで約110属1000種)に属するアカシア属(約600種,ワットルwattleともいう)である。その他,前者に属するブラッシノキ属(約30種)やネズミモドキ属,ヤマモガシ科(世界で61属1200種,その半数はオーストラリア産)のバンクシア属(50種),ドリアンドラ属(56種)およびワラタwaratah(テロペア属)なども特産の植物である。オーストラリアの植物分布は主として降水量に支配され,中央部の砂漠ではワジ沿いに葉のまばらな,やせた低木やイネ科ツキイゲ属の叢生が見られる。降水量の増加に伴って,砂漠はマルガmulga(アカシア属)やマレーmallee(丈の低いユーカリ属数種の総称)の灌木林,次いでサバンナへと移行し,ついにはマウンテン・アッシュmountain ashやカリーkarri(いずれもユーカリ属)などの巨木が優占する森林帯となる。また,低地の大河沿いには,うっそうとしたレッド・ガムred gum(ユーカリ属)の河辺林が成立する。大陸の南東部にある高山地帯では,特産のオーストラリアン・ヒースAustralian heath(エパクリス科,旧大陸のヒースはツツジ科),叢生草本類,スノー・ガムsnow gum(ユーカリ属)などのアルプス要素が出現する。他方,北東部~北部には,林床につる植物や着生植物がよく繁茂した亜熱帯林~熱帯雨林が出現する。また,西部の内陸ではスタート・デザート・ピーSturt's desert pea(クリアンツス属),紙細工のような花を咲かせるムギワラギク(ヘリクリスム属),カイザイク(アムモビウム属),ヒロハハナカンザシ(ハナカンザシ属,ローダンセまたはロダンテともいう)など乾燥に適応した一年草が自生している。1科1属1種の食虫植物フクロユキノシタはオーストラリア南西端の湿地だけに野生する珍しい植物である。

オーストラリアを代表する動物の筆頭は,世界唯一の,卵を生む哺乳類の単孔類(カモノハシとハリモグラ)および育児囊をもつ有袋類である。すでに述べたように,この大陸は早くに隔離されたために,有袋類は新興の真獣類(有胎盤類)との激しい競争を経験することなく生き長らえられたものの子孫である。これらは海と空を除くすべての環境に適応放散し,多種にわたっている。現存する同大陸の哺乳類(約240種)の種数の半ばを有袋類が占めている。つまり,地下生活に適応したフクロモグラ,樹上性で滑空するフクロモモンガやチビフクロモモンガ,ユーカリの葉だけを食物とするコアラ,草食性で半砂漠にすむアカカンガルー,林縁性のハイイロカンガルー,食肉性のフクロオオカミフクロネコ,アリを専門に食べるフクロアリクイなどさまざまなものが生息する。残りの半分は比較的新しく入って来た真獣類のネズミとコウモリの仲間,先住のアボリジニーが連れて来た野犬(ディンゴ),および植民後に白人がヨーロッパなどから導入したウサギ類,キツネ,シカ,ラクダなどである。オウム科(オーストラリア産52種)の原産地である同大陸からは,733種の鳥類が記録されている。エミュー,ヒクイドリ,ツカツクリ,ワライカワセミ,コトドリ,ニワシドリおよびツチスドリなどユニークな習性をもつものが多い。また,ミツスイ科の種類が多いこと(16属69種)でも有名である。爬虫類(約400種)のうちでは,エリマキトカゲ,マツカサトカゲ,モロコトカゲ,ナガクビガメなどが珍しい。両生類(約70種)はすべてカエルの仲間(無尾類)で,サンショウウオやイモリの仲間(有尾類)は生息しない。淡水魚(約180種)のうち,とくに有名なのは〈生きた化石〉ネオセラトダス(肺魚)である。無脊椎動物のうちで最も種類が多いのは昆虫類で約5万種。猛毒を持つジョウゴグモ,体長が3.6mもあるオオミミズなど珍奇な動物も少なくない。その他,クイーンズランド州の州都ブリズベーンのちょうど北からニューギニアにまで延びる長さ2000kmの大サンゴ礁(グレート・バリア・リーフ)は,世界最長,最大のサンゴ礁であるが,色とりどりの多数の熱帯魚とともに美しい海の花園をつくり出している。
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総人口約1800万のうち,先住民のアボリジニーは35万にすぎない(1996)。第2次大戦終了時までは圧倒的にイギリス系住民が多く,非イギリス系との比率は10対1であった。1947年に始まる大規模な移民受入れ計画の結果,89年までに約420万の移民,約50万の難民があったが,イタリア,ギリシア,西ドイツをはじめ,非イギリス系の移民が増加し,さらにインドシナ難民の受入れなどで,アメリカ型の多民族社会に変貌,イギリス系・非イギリス系の比率は3対1となった。

 先住民の言語は膠着語系で,28の語族,約260の部族語がさらにその倍の方言に分かれていたが,不明の部分も多く(オーストラリア諸語),また今日ではほとんど使われていない。したがっておもにイギリス都市部の方言を核として1830年ころに成立していたオーストラリア英語が国語となっている。英語の母音変化という英語史上の大事件の延長線上に出現したオーストラリア英語は,大陸全土にわたって均一性を保ち,方言はほとんどなく,野卑と洗練の相違だけが見られる。しかもたいていのオーストラリア人が時と場所に応じて双方を使い分ける傾向がある。第2次大戦以降,イギリス本国の英語に対する劣等意識が克服され,近年では学校教育でもクイーンズ・イングリッシュ志向は排除され,オーストラリア英語が国語として確立した。

 全国民の74%がキリスト教徒で,信仰をもつと表明する者の99%を占める。そのうちアングリカン・チャーチ24%,カトリック27%,プロテスタント20%で,ギリシアおよび東ヨーロッパ系移民の急増で正教会は3%を占める。その他,約15万人ともいわれるイスラム,約5万人のユダヤ教徒をはじめ,仏教徒も少数ながら存在する。1960年代から無信仰を表明する者が増え,今日では全国民の13%に達する(1991)。これは60年代以前と比べて40倍以上の増加である。
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約4万年前,海面が今日より90m以上低かったころ,アボリジニーは小舟で東南アジアからこの島大陸に渡来し,狩猟採集生活を営んでいた。15世紀初頭,中国人の船隊が大陸北岸に上陸したのを皮切りに,17世紀初めから後半にかけてタスマンほかの海洋探検家による局地的上陸が行われた。1770年4月28日のJ.クックのシドニー郊外ボタニー湾上陸,同年8月のポゼション島での大陸東部イギリス領宣言(全大陸のイギリス領宣言は1829年)によって,先住民の大陸占拠は終りを告げた。

 1788年1月18日,フィリップArthur Phillipの第1次船団(11隻。総員1473名。そのうち囚人778名,うち女囚192名。子ども12名)がボタニー湾に到着,8日後の26日,よりよい入植地を数マイル北にあるポート・ジャクソン湾内のシドニー・コーブに見いだし,入植を開始した(1月26日は現在オーストラリア・デーと呼ばれる祝日になっている)。入植のおもな理由は,アメリカ植民地の独立(1776)で流刑入植地を失ったためであった。当時の刑法は極端に厳しく,ハンカチを盗んで流刑7年,1シリング以上の盗品をもらったかどで14年というものであった。このニュー・サウス・ウェールズ植民地は,1809年以後5代総督マックオーリーの統治によって軌道に乗った。入植はほかにバン・ディーメンズ・ランド(のちのタスマニア)のホバート(1804),のちのクイーンズランドのブリズベーン(1824),ウェスタン・オーストラリアのスワン・リバー(のちのパース。1829),ビクトリアのポート・フィリップ(のちのメルボルン。1835),サウス・オーストラリアのアデレード(1836)に順次行われた。またフリンダーズMatthew Flindersの大陸一周航海(1802-03),そしてブラックスランドGregory Blaxlandらによるシドニー西方のブルー山脈越え(1813)をはじめとする内陸探検ラッシュによって,広大な農牧地発見が相次いだ。一方,有力入植者マッカーサーJohn Macarthurが19世紀初めスペイン原産メリノー種羊を大陸の風土に合うよう改良し,羊毛産業の基礎を築いた。

 初期のニュー・サウス・ウェールズ入植地ではエマンシピストEmancipist(満期出獄した元流刑囚)とエクスクルージョニストExclusionistの対立が目だった。1840年代に入って元流刑囚とカレンシー・ラッドcurrency lad(イギリス本国生れをスターリングsterlingと呼んだのに対して,植民地生れをこう呼んだ。流刑囚の子弟が多い)の数が自由移民を上回ると,この対立はスクオッター(大牧場主)と小農場主および毛刈職人などの移動労働者との対立に転化し,51年に始まるゴールドラッシュによる人口急増でいっそう拍車がかかった。イギリス本国はスクオッターの土地占有を抑えるべく,初期には株式組織の土地開発会社,61年には新たな土地政策によってセレクターselectorと呼ばれる小農場主を創出した。

 スクオッターによる植民地内のイギリス国有地解放要求が強まるにつれて,1840年代後半にはイギリス本国から大幅な自治権を得て土地を自由に手に入れたいという欲求が高まった。1823年ニュー・サウス・ウェールズに制限つき自治が認められて以来,59年までに他の4植民地も大幅な自治権を獲得した(ウェスタン・オーストラリアのみ1890年)。各植民地議会はスクオッターに牛耳られていたが,各植民地間関税,中国人移民問題など,相互に調整すべき問題を討議すべく,63年以来各植民地の首相による会議がもたれ,1901年の対英独立に向かう実務母体となった。

 1838年の人民憲章発布を頂点として,イギリス本国に人道主義が広まり,流刑反対の気運が高まった。同時に刑法が緩められた分だけ,従来よりは流刑囚の質も悪化した。オーストラリアの羊毛産業が隆盛を極め(1850年の対英羊毛輸出はイギリスが輸入した全羊毛の43%に達した),熟練した農村労働者を必要としたので(流刑囚は都市貧民が多かった),40年には流刑制廃止が実現した。ただし重罪人用のタスマニアほかの島嶼流刑地では53年,労働力不足のウェスタン・オーストラリアでは68年に廃止された。流刑制の下に大陸に送られた囚人は16万~17万といわれる。

1851年から61年ころまで続いた第1次ゴールドラッシュ(第2次は1890年代ウェスタン・オーストラリアで)は,その総産金額(2億1100万ドル)よりも,植民地総人口が1850年の40万5000から60年に114万に,さらに70年までにもう50万増えたことに意義があった。1848年のカリフォルニアのゴールドラッシュは,ほとんど国家体制を確立していたアメリカにはそれほど影響しなかったが,オーストラリアのそれは比較にならないほど影響が大きかった。経済面以外での影響には,明がユリーカ砦の反乱に象徴されるアメリカ式共和主義と反英主義の高揚であり,暗が金鉱地への中国人鉱夫大量流入を契機とする中国人排斥運動(金鉱地では中国人鉱夫の方がはるかに多い所が続出し,同胞人女性を伴わない点でも中国人鉱夫は警戒された)であった。暗にあたる後者は,1855年のビクトリア植民地での中国人移民制限法決定以後,各植民地間首相会議の重要議題となり続け,ついに1901年のオーストラリア連邦結成,白豪主義政策の国是化(実務的には移民制限法で処理)を惹起した。明にあたる前者は,その後の歴史潮流では逆に陰にまわり,連邦結成の契機としてははるかに弱かった。ただオーストラリアの伝統的辺境エートスであるメートシップmateshipを強化し,労働運動に結びつけた功績は大きい。

 初期の労働運動は,熟練工組合による8時間労働制の確保(1856)が頂点となる。ゴールドラッシュの後半にいたって人口急増による経済不況が起こり,賃金カットと労働時間延長が常態化したことへの反動として,争議が頻発した。とくにナショナリズムの高揚,羊毛価格の下落と干ばつによる不況というまったく異質な現象に分裂した1890年代には,クローズド・ショップ制を要求する海員スト,毛刈職人組合ストなどの四大争議が勃発し,結果的に労資調停仲裁制度の設立(1904)をみた。

 大陸中央部に馬蹄形の大内海が存在するという幻想が,内陸探検の大きな動機となっていたが,1860-62年のバーク=ウィルズ隊(R.バーク),61-62年のスチュアートJohn Stuart隊による〈大オーストラリア探検レース〉の結果,中央部は最も乾燥した荒野と判明し,アメリカ開拓の西進運動に似たオーストラリア開拓の求心運動は挫折した。しかし72年アデレード~ダーウィン間にスチュアート隊の探検ルート沿いに大陸縦断電信線が敷設され,さらにダーウィンからジャワ島へ連結され,ジャワ島を経てイギリスや世界各国との交信が可能となった。イギリスから2万2400km離れ,快速蒸気船でも46日かかっていた〈距離の暴虐tirany of distance〉の克服であった。なおスチュアート隊の探検ルートは,現在ハイウェーとなっている。一方,鉄道建設は早くも1854年にメルボルンで始まったが,各植民地で軌間が異なるなど問題を残したまま,やっと1917年に東西横断鉄道が完成した(軌間統一は1970年)。南北縦貫鉄道は1886年に着工されたものの,まだ全通していない。

 1879年には,ニコルEugene Nicolleが開発し,後継者たちが完成した食肉冷凍装置を備えた最初の船がロンドンに肉を運び,風土に適したブラーマン牛の導入もあって,食肉は羊毛に次いで中心的な輸出商品になった。またファラーWilliam Farrerがこの大陸に適した,銹病と干ばつに強い小麦の品種改良に着手し,1902年に新種を開発,新独立国家の国威発揚の象徴として〈連邦小麦〉と名づけた。1879年のシドニー国際博を皮切りに,90年代まで国内各都市で国際博が開かれ,ナショナリズムの高揚を裏づけた。1890年には兼松商店がシドニーに支店を開設,日豪通商の嚆矢となった。

 前述したスクオッターとセレクターおよび移動労働者の対立は,1890年アメリカ国勢調査局がフロンティア(辺境)の消滅を発表したのと時期を同じくして消滅した。すべての土地が台帳に登録された結果,対立も終息に向かったのである。しかしそれまでは,開拓初期から官憲に抵抗してきた伝統的な無法者ブッシュレンジャーbushrangerが後者のグループから輩出し,ネッド・ケリーの逮捕・処刑(1880)によって対立はクライマックスを迎えた。1891,94年の毛刈職人組合の大争議もスクオッターへの抵抗であり(以後スクオッターの斜陽化が始まる),争議の場にはユリーカ砦の反乱の南十字星旗がひるがえった。以後,南十字星旗とネッド・ケリーは反英主義のシンボルとなった。1890年代は最初の文化興隆期であったが,ローソン,ジョセフ・ファーフィーらの作家が踏まえたのもこのような気風であった。

 1899年から1902年にかけて,オーストラリアは南アフリカのボーア戦争にイギリス側に立って義勇軍を派遣したが,これは初めての海外参戦であった。

1901年各植民地が連邦を結成してイギリスの自治領となってのち,労働党(1891結成)の支持もとりつけたりリベラルな保守派政治家ディーキンの3度にわたる内閣によって,保護貿易主義と白豪主義政策の下に国家の礎が築かれていった。首都はやっと1927年にメルボルンからキャンベラに移った。

 第1次大戦勃発をめぐるオーストラリアの熱狂は,前述ユリーカ砦の反乱に象徴される反英主義の底流を色あせたものにし,〈共和国に向かうのは健全だが,それだとイギリスの庇護を失ってアジアの強国の脅威にもろにさらされる。やはりイギリスとの絆を太くするしかない〉というこの国の本質的な保守性を際だたせた。イギリス防衛の名の下に,総人口500万未満のうち40万の壮丁が中東および欧州戦線に赴き,8万が戦死した。イギリス軍参謀本部と時の海相W.チャーチルの無謀な作戦によって,ANZAC(アンザツク)(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)が戦死1万,負傷2万4000の被害を出した,ダーダネルス海峡内のガリポリ湾での戦闘(1915年4~12月)は,オーストラリア,ニュージーランド両国内で聖戦視され,あらゆる悪しき保守性の結節点となっている。1926年イギリスは自治領の内政・外交の自治権を認め,31年ウェストミンスター憲章として法制化したが,カナダとアイルランド自由国は即座にそれを批准したのに,オーストラリアは42年,ニュージーランドは47年まで批准しなかった。対英依存はこの点にも強く現れている。

 第2次大戦ではオーストラリアの掲げる白豪主義に反対し続けてきたアジアの強国日本と戦う羽目になったが,総人口743万中,ヨーロッパ,中東,東南アジア全域での死者・行方不明者3万4000弱,負傷者4万弱の被害ですんだ。また小規模の空襲を除いて,日本軍による本土侵攻はなかった。1941年労働党内閣首相カーティンJohn Curtinはイギリスとの絆を断って対米依存に踏み切り,翌年のシンガポール失陥後,チャーチル首相の反対を押し切ってヨーロッパ戦線からビルマ戦線へ転送中の自国軍を本国に回収した。42年太平洋方面連合軍最高司令官マッカーサーはマニラを退去し,メルボルンにGHQを移した。この戦争は結果的にオーストラリア人をアジアに向かって強く目覚めさせることになった。

1945年に北の隣国インドネシアで発生したオランダ支配廃絶を目ざす民族独立戦争が契機となって,白豪主義による国家存続政策はゆらぎ始めた。またイギリス系や西ヨーロッパ系以外に東ヨーロッパ系移民が増え,小型の多民族社会に移行し始めた。その東ヨーロッパの社会主義化,そして社会主義中国の誕生によって,国民の恐怖の対象はアジアから共産主義へと徐々にすり変えられていった。しかし交戦国日本への恐怖は潜在し続け,対日講和条約には連合国中で最後まで反対した。50年に勃発した朝鮮戦争は,アジアと共産主義という二大恐怖が合体したものと受けとられ,オーストラリアは直ちに派兵した。戦死・行方不明者281名を出す一方,羊毛の特需で牧羊業者は大もうけした。

 このような国内状況を巧みに外交政策と結びつけ,内心は対英依存,実質は対米依存の上に確実に国家を存続させたいという国民多数の心情を基に,1949年から66年まで長期政権を築いたのが後期自由党(1944結成)のメンジーズであった。アメリカ,ニュージーランドとのANZUS(アンザス)条約(1951調印),東南アジア条約機構への加盟(1955)によって反共政策を確立し,同時にアジアが共産化するのは生活水準の低さに起因するとの見地から,イギリス連邦諸国をまとめ,のちには日本,アメリカその他の国々もまじえ,東南アジア諸国への技術援助を軸としたコロンボ・プランを主導した。しかし国内では,共産党非合法化を目的とする憲法修正が1951年の国民投票の結果否決された。56年のメルボルン・オリンピックは,南半球最初のものとしてメンジーズ政権の最盛期を彩った。

 60年代に入ると,イギリスのEC加盟(実現は1973年)がオーストラリア経済に及ぼす影響が懸念され始めた。しかし同時に,鉄,ボーキサイト,ウランなどの卑金属採掘ブームが起こり,日本,アメリカが最大の顧客となった。国民の生活水準は飛躍的に上がり,70年代の労働党による福祉政策の物質的基盤が築かれ始めた。66年に通貨をポンド制からオーストラリア・ドルの十進法に変更した。65年のベトナム派兵は国内に反戦運動を引き起こし,アメリカから入ってきたカウンターカルチャー(対抗文化)的雰囲気を助長することになった。

前述のように60年代には東ヨーロッパ,中東からの移民,難民が増え,例えばメルボルンがアテネ,ニューヨークに次ぐ世界第3位のギリシア人人口を擁するなど,オーストラリアは多民族社会化して,古い体制を打破する荒ごなしが行われた。1967年には国民投票による憲法修正で,アボリジニーに公民権が与えられた。ベトナムへの軍事介入削減,文化助成の強化などリベラルな政策を打ち出したゴートンJohn Gorton内閣が,後に首相となるフレーザーJohn Malcolm Fraser国防相の離反によって1971年に挫折すると,保守の退潮はとどめようもなく,72年12月に23年ぶりにホイットラムの労働党政権が誕生した。新内閣は最初の1ヵ月間に中国承認(翌年には貿易協定を締結),ベトナム介入撤廃を実現した。1950年代半ばから先住民の間に起こっていた土地権要求運動に,ホイットラムは歴代首相として初めて実現への手を打った(調整や実務化に手間どり,実現はフレーザー政権下の1977年になった)。また国連信託統治領ニューギニアとオーストラリア領パプアを1975年にパプア・ニューギニアとして独立に導き,自国を植民地主義から脱却させた。健康保険制度(メディバンク・システム)を中核とする社会福祉制度の確立や,大学授業料の廃止を含む教育予算の拡大も行った。1890年代の第1次文化興隆期の偏狭なナショナリズムを超克した新しい独自の文化創出を目的とする大幅な文化助成政策は,十分に浸透したカウンターカルチャーのオーストラリア文化界への刺激もあって,第2次文化興隆期の基を開いた。しかしこの高福祉政治は,1974年の国際的な石油危機とともに結果的にインフレと失業を増大させ,75年10月,野党が多数を占める上院が予算案通過を阻んだ。ホイットラムが上院半数改選で対抗すると,11月11日,カーJohn Kerr総督は憲法第64条に基づいて,〈1975年の憲法危機〉として歴史に残る首相解任,議会解散を断行した。国論沸騰する中で行われた総選挙では,フレーザーの率いる自由党・地方党連合が史上最高得票で政権党となった。

 フレーザーは新しいタイプの強力な現実主義的保守政治家で,メンジーズのようにイギリス王室への感傷がなく,社会をエリート層中心に見はするものの,社会全体を強力な行政機構の統括下に置き,その上で一般大衆の政府への過大な要求を巧みに拒み,1960-70年代に高まった民衆の政府への期待度を下げていく形でインフレの鎮静にある程度成功し,以後2度の選挙にも勝ち抜いた。外交面では,旧ポルトガル領ティモール問題で前政権が対決していたインドネシアと融和政策をとる一方,アパルトヘイトの南ア共和国とはスポーツ・文化面の交流も断ち,ジンバブウェ独立ではイギリス連邦内で率先してムガベ政権を支持するなど,対米一辺倒でない政策を数多く打ち出した。ただソ連の原子力潜水艦によるインド洋制圧を恐れての強烈なソ連脅威論が保守の地金を露呈した。国内的には,インドシナ難民の大量受入れ(1988年現在10万4000人。アメリカに次いで2位),先住民土地権の実務化,各民族集団の母国語で放送する〈多文化テレビ〉発足など,前政権以上にリベラルな面で実績をあげた。しかし〈1975年の憲法危機〉を経ての政権成立という,後ろ暗い事情,さらにフレーザーの傲岸さなどが新聞関係者の不評を買い続けた上に,79年の石油値上げ以降の国際経済不況に対処するため,81年ころから従来の引締策を棄て国内経済刺激政策に転じた結果,再び年間インフレ率,次いで失業率ともに10%を超えるという最悪の事態に逆戻りし,83年3月,4度目の総選挙に敗れ,メンジーズ政権に次いで2番目に長い政権の幕を閉じた。

代わって登場した労働党政権のホークRobert Hawke首相は,長く日本の総評にあたるオーストラリア労働組合評議会(ACTU)の議長を務めてきた大衆的カリスマ性の強いユダヤ系の政治家で,党議員団リーダーになってわずか1ヵ月余りで首相の座に就いた。しかし前政権が残した10億オーストラリア・ドルの財政赤字を抱え,オーストラリア・ドルの10%切下げ,政・労・資そして消費者各代表による〈経済サミット〉開催など,経済立直しに追われ,理想主義的だったホイットラム政権の轍を踏まないためにも,むしろ前保守政権より保守的な側面すら打ち出した。ホークは産業構造の改革,国際化路線を進め,84年,87年,90年の総選挙を勝ち抜き,労働党としては最長不倒政権を維持し,88年にはこの国の〈入植200年〉を祝った。しかし,91年12月の労働党党首選挙でホークはキーティングPaul Keating元蔵相に敗れ,首相の座もキーティングに譲った。93年3月の総選挙でも労働党は勝利し,キーティング政権は経済だけでなく政治においても,オーストラリアのアジア指向を推進した。96年3月の総選挙では,労働党は自由党と国民党との野党連合に大敗し,ハワードJohn Howard自由党党首を首相に13年ぶりの保守政権が誕生した。長期政権にあきた国民に嫌気されたのが労働党の敗因とみられている。

オーストラリアの国体は,カナダと同じくイギリス国王を頂く点では立憲君主制であるが,独立国としての機能はアメリカ式の共和制に近く,過渡的なものといえる。イギリス国王は日本の天皇に近い象徴的存在のはずであったが,1975年に上・下両院の対立で予算案が成立をみず,労働党政府が維持できなくなりかけたとき,国王の名代である総督が憲法に基づき議会を解散させ,野党である自由党と地方党に選挙管理内閣を組織させ,保守政権への道を開いた。このため過渡的国体の憲法には〈危険領域〉の存在することが明らかになり,大いに論議を呼んだ。

 労働党は91年の党大会で共和制移行を決議し,キーティング労働党政権は,建国100年の西暦2001年までの移行に向けての具体的構想を発表した。世論調査でも共和制支持の声は強い。

 議会は下院(衆議院)と上院(参議院)の二院制である。下院の定数は148名,任期は3年で,人口数を基準とした小選挙区制をとる。上院の定数は各州12名,2特別地域各2名の計76名,任期は6年(特別地域からの議員は3年)で,3年ごとに半数が改選される。18歳以上に選挙権があり,国政レベルの選挙の場合,正当な理由なく棄権すると罰金を課せられる。投票は複雑な優先順位投票制によるため,接戦の選挙区では結果の判明に数日を要することもある。政党は自由党,労働党,国民党(1982年に地方党が改称)の3党が中心で,伝統的に自由・国民両党は連合し,連立政権をつくる。議席のない政党は共産党をはじめ常に数党ある。

 政府は議会に対して責任を負う,いわゆるイギリス型の責任政府である。下院で過半数を占めた政党が組閣する。州も一部を除き,議会は二院制である。州の行政機能は教育,運輸,連邦法・州法の運用,保険,農業などに限られる。司法の中心は高等法院で,首席裁判官1名と6名の裁判官からなる(1977年までは終身任命,以後70歳停年)。下級の裁判機能は,一部を除いて,連邦政府の委嘱によって各州の裁判所が代行する。

オーストラリアはニュージーランドとともに,カナダ,アイルランド,南ア共和国などに比べて,旧イギリス領植民地の中では自主独立の気風が乏しく,対英依存が強かった。その典型的な事実は,先述した1931年のウェストミンスター憲章を42年まで批准しなかったことや,40年ワシントンに最初の大使館を開設するまで,イギリスの各国大使館に代表してもらっていたことに見られる。この極端な対英依存が破られたのは,第2次大戦で日本軍の進攻を食いとめられなかったイギリスに代わって,アメリカの庇護を必要としたことに端を発する。戦後はSEATOに加盟し,ANZUS条約を結ぶなど,アメリカとの軍事的結びつきを強め,ベトナムへの派兵も行った。貿易面では,70年代に入って日本が最大の通商相手国となった。一方,73年にECに加盟したイギリスおよび近隣の旧イギリス領植民地との絆は,いわゆる五ヵ国協定(オーストラリア,ニュージーランド,マレーシア,シンガポール,イギリス)に生きており,この協定に基づきオーストラリアはマレーシアに空軍の小部隊を常駐させている。対外援助では,前述したコロンボ・プランを1950年に実現させ,75年のパプア・ニューギニアの独立後は対外援助の半分以上がアジア,太平洋地域の新興国家に向けられている。援助はアドバイザー派遣,プロジェクト助成,発展途上国からの学生その他の受入れなどの形で行われている。1972年に中国を承認し,以後日本,中国,韓国だけに豪日,豪中および豪韓交流基金事務所を設立して3国との交流に力をいれている。

 三軍兵力は陸軍2万6000人,海軍1万5000人,空軍1万7000人(1996)。1972年労働党政権になって,それまでの徴兵制が廃止され,志願制となった。

オーストラリアは長い間,羊毛を中心とする農・牧畜業と資本・工業製品をイギリスに依存する植民地型経済がその特徴であったが,第2次世界大戦後,英米資本を中心に工業化が積極的に推進された。しかし,その究極の狙いは自らの力による自国防衛を目的としており,その意味で国内製造業保護による育成と,労働力確保のための安定した雇用制度の維持になった。こうした事情が,輸入工業製品に対するバイロー制度(国内で製造されていない品目のみを対象に関税を減免する制度)と高関税制度の併用となった。同時に国内では労働者の既得権確保を目指す強い労働組合を生み出し,世界でも有数の高賃金,高福祉国家をつくりあげた。1960年代,世界は高度経済成長の時代を迎え,一次資源に対する需要が一気に高まり,それを契機に鉄鉱石,石油,天然ガス,ニッケル,ボーキサイト,ウラニウム鉱脈などの企業化が相次ぎ,オーストラリアは未曾有の資源開発ブームを迎えることとなった。1964/65年度には鉱物資源の輸出総額に占める比率はわずか5.2%に過ぎなかったのが,75/76年度は40.6%に達する勢いであった。やがて,高度経済成長を遂げる日本が英,米とならび主要貿易相手国として台頭,オーストラリアの経済基盤は磐石になったようにさえ思われた。

 しかし,70年代に襲った2次にわたる石油危機と通貨危機は,インフレによる賃金の大幅上昇,失業者の急増,オーストラリア・ドルの乱高下を招き,農産物・エネルギー資源の輸出に依存するオーストラリア経済の脆弱性を明らかにした。80年代に入ると,その脆弱性はいっそう鮮明となり,やがて経済悪化の悪循環に陥り構造的危機状況を迎える。アメリカ,ヨーロッパに端を発した農産物の生産過剰体制が国際市況における価格暴落を誘発したのである。同時に先進国で進行したハイテク産業への転換にも立ち遅れ,オーストラリアは世界有数の豊かな国からバナナ共和国(失政により第三途上国に斜陽化すること)に転落する最初の国だと揶揄されるまでになった。こうした構造的危機状態に直面し,政府は連邦政府始まって以来の歴史的転換を行う。それは,社会,政治・経済に留まらず,文化,教育面に至るまでの脱アングロ・サクソン化であった。それは経済システムの開放を世界に宣言するとともに,アジア・太平洋国家の一員を目指す,新国家宣言とも言うべきものであった。以来,政府は紀元2000年をめどに共和制への移行を明らかにするとともに,自由貿易体制を主導すべく,ウルグアイ・ラウンドの最も熱心な推進国となった。

 以下,80年代以降に象徴されるオーストラリア経済の特徴を概観しておく。

一次産品を輸出し,自動車,輸送機器,工作機械など工業製品を輸入する基本パターンに大幅な変化はないが,労使関係の改革,保護貿易の撤廃などにより製造業分野での競争力が飛躍的に高まっている。95/96年度統計では製造業製品に占める輸出比率は25%に達している。アジアへは天然資源の他,建築用資材,運搬・通信機器などの製品輸出も増えており,同時に直接投資も進んでいる。地域別輸出先をみると,アジアのみで55%に達している。さらにニュージーランド向け輸出(7.3%)も急増しており,60~70年代の貿易構造とは様変りの様相を示している。

同じような建国の歴史を持つ隣国ニュージーランドとは経済緊密化協定(CER)を結んでおり,90年以降,商品貿易における関税の撤廃,輸入クオータ制の廃止,さらにはサービス産業,労働力の移動の自由拡大策など,さまざまな取組みが実行に移され,事実上両国の間で自由貿易地域が成立したと言ってよい。さらに両国は95年以降,アジア市場への傾斜を深めるという共通の認識のもと,アセアン自由貿易地域(AFTA)との連携を進めており,今後,さらに広域化したアジアとの経済関係強化が進められるものとみられる。

農業,鉱業がオーストラリア経済を支える重要な基幹産業であることに変りはないが,長期的には産業構造の変化・多様化とともに凋落傾向にある。GDPに占める割合は農業3%,鉱業4%に過ぎない。農業および関連サービス業に従事する労働力は60年以降横ばいで40万人前後にとどまっている。羊毛,牛肉はもちろんだが,小麦,大麦,サトウキビ,トウモロコシ,ブドウ酒が主要な輸出品である。国土の6%が農地,58%が牧草地,14%が森林となっている。主要な天然資源としてはボーキサイト,鉄鉱石,石炭,銅,錫,金・銀,鉛,亜鉛,天然ガス,ダイヤモンドなど多岐に及ぶ。近年国内での加工度が高まり付加価値をつけることに成功しつつあり,製造業分野への貢献が顕著である。

新技術の移転や効率的なマネージメントを導入すべく,積極的な外資導入政策が行われている。その功もあり,アメリカ,イギリス,日本からの投資が年によって変動はあるものの長期的には順調に伸びてきている。GDPに占める割合は15%で,製造業に従事する雇用者数は全労働力の13%に及ぶ。過去10年間の業種別成長度を見ると,手厚い保護を受けてきた衣料品を中心とする繊維産業,履き物産業の衰退が著しいものの,その他は順調に伸び続けている。

依然として日本は最大の輸出国であるが,相対的比重はかつての総貿易額の30%近くから21%台へと落ち着いてきている。オーストラリア政府がアジアを中心に市場の多様化をはかった成果といえる。96年の日本からの輸出は74億ドルで(輸入は142億ドル),依然として日本の大幅入超が続いている。
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大規模農業でないと成立しないやせた土地のゆえに,この国は早くから農村に無産労働者が大量に出現し,好況時には人口の少なさに起因する労働力不足,不況時には労働市場の狭さによる失業,という両極を揺れ動く過程で労働組合が強力になった。1904年には世界最初の労働党政権が成立した。労資調停制度と社会保障制度が早くから発達し,これによって経済問題を政治問題から切り離して労働者階層の資本主義体制への取込みが完了していた。一方,弱い経済機構を外資から守るため,アメリカよりも伝統的に中央政府の主導性が強く,強力な官僚体制が発達した。また労働者側は,せっかく手に入れた高賃金を維持すべく,アジアから低賃金労働者が流入することに強く反対し,白豪主義は革新的なはずの労働党のまことに前近代的な中心綱領になった。

 しかし特に第2次大戦後,膨大なアジア人口の脅威に対抗すべく行われた大規模な計画移民制の実施,難民の受入れ,先住民の雇用促進などによって,労働者階層の最下層部が拡大し,この階層の分裂が進んだ。さらに戦後の経済活動の飛躍的拡大と社会的平等の貫徹傾向に即応すべく,官僚機構や生産販売機構の多面的合理化が社会全体で急速に進んで,戦前の小規模な自営農,商人を中心とする中産階層に,官庁,民間企業に働く新しい中流無産層つまりホワイトカラーが大挙して加わり,この階層でも分裂が進行した。輸出品としては戦前は農産物,1960年からはそれに鉱物資源が加わったが,製造業の大規模な発達が見られなかったため製品を輸出する力が弱く,投資や婚姻で結びついた大牧場主と事業家を中核とする上流階層はかなり固定的である(1972年の調査では人口の11%が国富の40%を保持していた)。近年はホワイトカラーの中にマネージャーとして上流階層の資産運用を代行する者が出てきた。安定した経済成長が続き,60年代の最盛期にいたると,階級(クラス)よりも地位(ステータス)が重視され始めた。この間に中国系,東ヨーロッパ系などの少数民族集団と女性集団も特定の職業の占有を進め,70年代に入ると,先住民は政府補助金を獲得して経済活動からの疎外をある程度克服した。すべての移民にイギリス化を要求する傾向が弱まり,逆に移民が母国の文化に接する機会を与えるべく,〈エスニック・ラジオ〉や〈多文化テレビ〉が発足した(多文化主義)。また高福祉政策によって平均寿命がのびた老人たち(1995年において65歳以上の老人は全人口の11.9%の215万人)は,自らのサブカルチャーを形成し始めた。

 広大な国土に異常に低い人口密度のゆえに,官僚体制が早くから社会全体に浸透し,特に第2次大戦後は社会的不平等の是正に力を発揮してきたが,その一方で非人間的な官僚支配が強まって新しいタイプの不平等が生まれた。60年代にアメリカを中心に高度資本主義国に広がったカウンターカルチャーが,オーストラリアではおもに官僚制攻撃に向けられた。また経済への政府介入が増大するにつれて,経済問題の政治からの切離しに労働者が不満をつのらせ,政策決定への参加を求める傾向が出ている。

 労働組合は企業の枠をこえて職能別に横断的に組織されているため,日本の春闘のような争議時期の統一がとれず,常時どこかの組合がスト中で,社会問題化している。しかし労働調停仲裁委員会(1904設立)が強力な権限をもっており(例えば委員会裁定が州法に抵触した場合は後者が無効となる),2州以上にわたる争議の処理にあたる。労働裁判所は委員会裁定の施行その他に関与する。しかし争議の大半は当事者間で解決されてきている。労働組合の全国組織の最大のものはオーストラリア労働組合評議会(ACTU。1927設立)で,全労働者の約1/3,労組加入者の約3/4を組織している。ACTUは国際自由労連加盟で,ホーク首相がその議長だったように労働党支持である。

 社会保障への国民の意識がいかに高いかは,老齢年金の発足が早い州では1901年であったこと,第2次大戦の最中に児童手当,寡婦年金などが発足した点にもうかがえる。社会保障予算は連邦予算の約25%を占めている。

オーストラリアの教育は,開拓期に実際の仕事に役立つ専門家の不足を解決するため,実学教育中心で発足した。ただでさえ文化の厚みのない新世界国家でのこの基調は,時代が下るにつれて文化の不毛をもたらす元凶となったが,1969年にいたってもなお政府は大学の拡張を抑え,専門学校重視の政策を打ち出した。

 小学校は6~12歳(タスマニアは13歳)で,その前段階に幼稚園などのプレ・スクールがある。中学校は15歳(タスマニアは16歳)までで,ここまでが義務教育である。共学の普通科が多いが,中学の段階から専門別が現れ,農業,工業,商業,家政科専門中学が設けられ,農業科中学には全寮制もある。進学希望者は義務教育年限を2年超過して中学に在籍する。高等教育機関への入学試験は全国的に廃止され,すべて中学での内部評価によって選抜される。高等教育機関は,大学(22校,学生数18万人。1987。以下同じ),高等専門学校と工科大学(48校),技術および継続教育専門学校(200余校)に大別され,専門教育重視が歴然としている。1974年以降これらの機関の授業料は無料である(ただし,87年から大学運営費が徴収され始めた)。最も古い大学はシドニー大学(1850創立)で,メルボルン大学は1853年創立,大学院大学のオーストラリア国立大学は1946年創立である。高等専門学校は多種職業訓練校と単一職業訓練校に大別される。教員養成校もここに含まれ,中学教員資格取得希望者は3~4年通う。大学もこの資格を与える。技術および継続教育専門学校には工業技術科以外に商業・家政科もある。さらに大学,州教育局とともに,種々の成人教育コースを開設している。また遠隔地用の初等教育機関には,通信教育および無線通信教育がある。

 先住民教育には,中学および高等教育機関への就学,海外留学などへの奨学金制度,特別カリキュラムの編成,全豪先住民教育委員会(委員は全員先住民。文部,先住民両省の諮問機関)設立,州教育局諮問機関の設立,高等教育機関への先住民学生無資格入学の検討,先住民教師養成の優先など,特別の配慮が払われている。また,移民教育は英語教育が中心になるが,同時に各民族集団の言語・文化教育も多文化教育プログラムとして具体化されている。

 上記すべての教育機関は公立であるが,小・中学校レベルにはおもに宗教団体系の私立校がある。プロテスタント系中学にはイギリス風のパブリック・スクールが多く,上流階級の子弟を対象としている。有名なものにジローン・グラマー・スクール(1854創立),メルボルン・グラマー・スクール(1858創立)があり,この2校は最も多くの連邦政府首相を生んだ。カトリック系の私立校は労働者階級の子弟を対象としている。私立校もカリキュラムは州のシステムに従う。
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詩では,オーストラリア生れのハーパーCharles Harpur(1813-68),ケンドルHenry Kendall(1839-82),ゴードンAdam Lindsay Gordon(1833-70)らが,新世界の素材をイギリス・ロマン派あるいはラファエル前派など旧世界の手法で表現し始めた。1880年文芸紙《ザ・ブレティン》の発刊とともに,これが核となって辺境開拓の苦労から生まれたエートスであるメートシップに表現を与えようとする文化ナショナリズム(写実主体)が芽生えた。この傾向はバンジョー・パターソンBanjo Paterson(1864-1941),ローソンらの出現によって1890年代に頂点に達した。これと対立する系譜は二十数年遅れて,西欧象徴主義に依拠したブレナンChristopher Brennan(1870-1932)において開花した。二つの系譜は両大戦間に混交し,ソフィスティケーションが進んだが,強いていえば,K.スレザー,J.ライト,J.マッコーリーらは前者の系譜,A.ホープからL.マレーに至る詩人たちは後者の系譜を継ぐ。1960年の反体制文化の詩的代表に夭折したドランスフィールドMichael Dransfield(1948-73)がいる。

 小説では,流刑囚,先住民やアジア人などへの差別虐待,スクオッター(大牧場主)対小農場主・渡り牧童の対立などを背景に社会的写実主義が発達し,クラークMarcus Clarke(1846-81),ボルダーウッドRolf Boldrewood(1826-1915),ファーフィーJoseph Furphy(1843-1912),前述のローソン,X.ハーバートらが現れた。これには詩人たちのジンディウォロバク運動(1930年代末~50年代初め)のような文化ナショナリズム運動も連動した。一方,前述のブレナンの系譜に近く,社会性や文化ナショナリズムは個の神秘を共同体の中に解消し,この国の文学の不毛性の原因になるとしてそれらを拒否し,西欧現代文学の手法に依拠して個の内面を深く掘り下げる傾向の作家に,リチャードソンHenry Richardson(1870-1946),ステッドChristina Stead(1902-83),P.ホワイト,ストーRandolph Stow(1935- )らがいる。1960,70年代世界的に開花した反体制文化のオーストラリア版代表作家はムアハウスFrank Moorhouse(1938- ),ワイルディングMichael Wilding(1942- ),ベイルMurray Bail(1941- )らで,上記二大系譜を小規模ながら止揚した形になっている。一方,反体制文化とは関係なく,ムアハウスらの先駆となった作家に,強烈なパロディ的言語のコラージュを作り上げる短編作家ポーターHal Porter(1911-84),超現実主義的作風のアイアランドDavid Ireland(1927- )がいる。

 戯曲は,小説のローソンに相当するのがエッソンLouis Esson(1879-1943)で,オーストラリアのドラマの創始者と呼ばれる。演劇の項で言及する作家以外に,1960年代以後に活況を呈した戯曲界を代表する作家には,男性中心のメートシップ的エートスの中で苦闘する女性を描くヒューイットDorothy Hewett(1923-2002),アイルランド系オーストラリア人の生活を掘り下げるケナPeter Kenna(1930-87),オーストラリア人同士,あるいは新世界風土からの疎外を描くブーゾAlexander Buzo(1944- ),ヨーロッパを舞台にして間接的にオーストラリア批判を行うナウラLouis Nowra(1950- ),先住民作家メリットBob Merritt(1945- )らがいる。

絵画は,新世界風物の記録画に始まる。ビーグル号にダーウィンと同乗した水彩画家マーテンスConrad Martens(1801-78)がこの期の代表である。ラファエル前派,印象主義などの流入期の画家にはビュベロLouis Buvelot(1814-88)がいる。オーストラリア自生のエートスを強調する文化ナショナリズムが台頭した1890年代の第1次文化興隆期には,ロバーツTom Roberts(1856-1931)を筆頭に,マッカビンFrederick McCubbin(1855-1917),ストリートンArthur Streeton(1867-1943),デービズDavid Davies(1862-1939),コンダーCharles Conder(1868-1909)らの〈ハイデルバーグ派〉が印象主義手法をオーストラリア風に練り直し,以後画壇の主流となった。他方,西欧の水彩画法を学んだ先住民アボリジニーの画家ナマジラは,4万年に及ぶアボリジニーの土着の感覚をオーストラリア白人に紹介,アボリジニー画家の先駆となった。1930年代になると,文学や美術の分野で1890年代に確立した文化ナショナリズムが偏狭かつ時代遅れなものとなったので,それを脱皮しようとする動きが現れた。ハイデルバーグ派の強い影響を脱していった現代画家群では,欧米の新技法をとり入れて新しい意匠でオーストラリアにかかわるテーマを表現し始めた具象画家たちと,文化ナショナリズムの軛(くびき)を脱して国際的立場から現代感覚の描出に専念する抽象画家たちが二大潮流をなす。前者の代表はドライズデールノーランで,後者のそれはフェアウェザーIan Fairweather(1891-1974),オルセンJohn Olsen(1928- )である。しかしウィリアムズFred Williams(1927- )やホワイトリーBrett Whiteley(1939-92)らにおいては,具象・抽象の対立は折衷止揚されていく傾向にある。

 彫刻は絵画,文学に比べて,製作,運搬,展示に不便なため,1890年代の第1次文化興隆期に乗り遅れた。そのため,サマーズCharles Summers(1825-78),ホッフRayner Hoff(1894-1937)という1890年代の前と後に現れた巨人には,偏狭なまでの文化ナショナリズムは見られない。反発すべき先駆的傾向をもたない現代彫刻家は,レッドパスNorma Redpath(1928- ),ロバートソン・スウォンRon Robertson-Swann(1941- )をはじめ大半が抽象派であるが,ダズウェルLyndon Dadswell(1908- ),ボールデッシンGeorge Baldessin(1939-78)らの具象派にも新しい意匠でオーストラリアにかかわるテーマを表現する傾向は強くない。

この国最初の記録映画はフランスで映画が発明された翌年の1896年に作られた。世界最初の長編劇映画は1903年アメリカで製作された《アメリカ大列車強盗》(20分)とされているが,本格的なものは06年のオーストラリア映画《ケリー・ギャング物語》(60分。S. フィッツジェラルド監督)である。1890年代の第1次文化興隆期は文学,絵画,演劇からさらに映画にも及んだわけである。しかし1913年以降は欧米の映画配給網に牛耳られ,外国映画輸入が主体となった。この苦しい時代にロングフォードRaymond Longford(1873ころ-1959)らの製作・監督者が人気作家C.デニスの《センチなやつ》の映画化(1919),同じく人気作家S.ラッドの《おらたちの農場で》の映画化(1920)などの名作を作った。1970年代の第2次文化興隆期までに計500本を超える長編劇映画が製作された。1975年に従来の政府映画振興機関を統合したオーストラリア映画委員会が発足し,78年には全州政府がそれぞれ映画公社を設立,ともに国産映画の資金助成,特に前者は国内外の配給の組織化をも手がけだしている。現代の代表的監督と作品には,P.ウェア《ハンギング・ロックでのピクニック》(1975),《ガリポリ》(邦題は《誓い》。1981),F.シェピシ《ジミー・ブラックスミスの歌》(1978),P.ノイス《ニューズフロント》(1978),B.ベレズフォード《ブレーカー・モラント》(1980)がある。これらは鮮明かつ重厚なリアリズム作品で,前衛化,商業化の激しい欧米の作品に比べると古めかしいまでにオーソドックスであるが,欧米ではかえってその点が好評である。一方,娯楽作品には特にアメリカ的スタイルの商業化が目だつ。その代表的監督と作品には,T.バーストル《アルビン・パープル》(1973),G.ミラー《マッド・マックス》(1979)がある。

シドニーは現在英語圏の大都市では3番目に劇場が多い。全国では常時70弱の劇場が戯曲作品を上演しており,オペラ劇場やバレエ劇場もいれるとその数は90近くなる。この隆盛は1960年代末に政府の文化助成機関が発足し,他の文化部門同様,演劇にも助成金を出し始めたことも一因となった。歴史的にはゴールドラッシュ時代から商業演劇は盛んで,自国作家の小説の翻案ものなどがよく上演されてきた。戯曲,劇団,劇場の三拍子がそろって大成功したのはローラーRay Lawler(1921- )作《17番目の人形の夏》(1955)が最初であった。オーストラリアのエートスの核をなすメートシップの病理をえぐり出したこの作品が,国内はもとよりロンドンで7ヵ月のロングランを続けるまでの反響を引き起こしたことは,文化ナショナリズムをいたずらにうたい上げる1890年以降の傾向を,戯曲作家や演劇関係者だけでなく,観客の一般オーストラリア人自身が脱皮し始めた証拠と見ることができる。1970年代には反体制文化活動の一環として実験的な劇団が輩出したが,その代表はシドニーではニムロッド劇場に拠るグループ,メルボルンでは乳母車工場を改造したプラム・ファクトリー(現在は閉鎖)とラ・マーマ劇場に拠るオーストラリア演劇集団(J. ヒバード,B. オークリー,D. ウィリアムソンらの戯曲作家はここの出身)である。いずれも素材は,オーストラリアのエートスを痛烈にパロディ化したものが多い。
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現在のオーストラリアの音楽の大勢はヨーロッパから移住した白人がもたらしたものである。移民は18世紀の末から始まったが,19世紀後半の交通・通信の発達にも耐え得るだけの独自の民族的な音楽伝統を創り出すにはあまりに遅すぎた。第2次世界大戦以前のオーストラリアの作曲家の作品は,ほとんどヨーロッパのそれを模したもので,保守的な響きをもったものばかりである。この大陸に固有の唯一の音楽はオーストラリアの先住民アボリジニーの伝統音楽である。したがって本項ではこれを先に述べる。

 アボリジニーは長い間,異民族との接触をもたず,その文化は孤立していたので,彼らの音楽はオセアニアの他の諸民族の音楽文化と共通するところがきわめて少ない。1950年代まではほとんど研究対象にされなかったため,不明な点が多いが,世界の他の音楽文化にない非常にユニークな要素を含んでいることは明らかである。広大な大陸に散在しているため,地域的な様式の違いはむろん存在するが,全体としてほぼ一つの音楽文化とみなすことができる。

 その特徴は原則として歌が中心であること。その歌には祭事と結びついた宗教歌と,世俗歌の2種類がある。宗教歌の大半は霊魂の世界から伝えられたものと考えられ,個人あるいは特定の人々がもっている。世俗歌はコロボリーcorroboreeと呼ばれる集団舞踊会で歌われる娯楽のための歌が主体である。両方とも通常踊りを伴うが,踊りなしの歌もある。歌の演奏技法には非言語的な音声(例えば〈シューッ〉〈ウーウー〉〈ギャー〉など)や同音の朗唱から,広い音域の,各シラブルを引きのばして起伏をつけていくメリスマ的な歌い方も含まれている。旋律は概して下降的で,最高最強音から始まり,反復される最低最弱音で終わることが多い。リズム構造は,歌詞のアクセントにもとづいているが,概して複雑である。

 歌の伴奏として使われる楽器とその用法は地域によって異なるが,リズム棒や狩猟用具でもある木製のブーメランのような単純な打楽器,そして手拍子や身体を打つ音などで踊りのリズムを強調する。堅い木に白蟻が孔をあけた木製の長いトランペット(またはドローン・パイプ)であるディジェリドゥーdidjeriduは,北部にのみ演奏され,専門的な訓練を要求される複雑な演奏技法により,明確なリズムをもった低音の連続音が出される。さらに,成人式を受けた男性のみの秘密の儀式で,ブル・ロアラー(うなり木)なども用いられるが,これらの楽器は超自然的な存在,またその声を表すといわれている。

 次に移住民の音楽,現代音楽に目を転ずると,白人の本格的な音楽活動が組織されるようになったのは1840年代以後,自由な移民とともに音楽家が移住するようになってからである。19世紀後半には音楽的な意識が高まり,最初の職業的オーケストラが1888年に設立された。20世紀初期の重要な2人の音楽家は作曲と指揮で活躍をしたニュー・サウス・ウェールズ州立音楽院の院長でもあったヒルAlfred Hill(1870-1960)と,すでに1930年代にオーストラリア音楽の大きな展開を予言していたグレーンジャーPercy Grainger(1882-1961)である。戦中派に属する作曲家の作品は保守的で,後期印象主義,新古典主義の傾向をもつ20世紀初期のヨーロッパにならっており,十二音技法などの前衛的な作法を導入した作曲家はきわめて少数であった。

 第2次世界大戦以後,オーストラリアの音楽文化はその最も大きな展開を見せた。各都市にシンフォニー・オーケストラが組織され,各州の総合大学で音楽学部が設立され,各分野の音楽学会も開かれるようになり,アボリジニー,東アジアやオセアニア諸民族の音楽の歴史的研究や民族音楽学的な調査も行われるようになった。戦後の作曲家は20世紀の作曲技法を積極的に取り入れると同時に,アジアの伝統的音楽(ことに日本の雅楽,インドネシアのガムラン)への関心が高まり,両者を合成して新しいオーストラリア独自の音楽文化をつくり出そうという運動が今日にいたるまで続けられている。その代表的な作曲家はスカルソープPeter Sculthorpe(1929- )とミールRichard Meale(1932- )であり,彼らの作品は国際的にも演奏されている。
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日本とオーストラリアの交流の歴史は両国が近代国家として生まれた時期にまで遡ることができる。1875年,メルボルンで開催された万国博に日本が参加したのと時を前後し,兵庫,広島,和歌山県などから木曜島,トレス海峡における真珠貝(シロチョウガイ)採取のため,潜水夫を中心として漁民が渡航しはじめている。最盛期の1897年ころには木曜島やオーストラリア北西岸のブルームを中心に1000人近い日本人がシロチョウガイ採取に従事したといわれる。1887年には日本郵船を中心とした日本の移民斡旋会社がオーストラリアへの移民事業を本格的に扱いはじめ,大量の日本人移民がクイーンズランドを中心とするサトウキビ農園に移住,厳しい農作業に従事した。しかし,1901年連邦制が発足するとともに有色人種を対象とした移民排斥運動が高まり,かつ日本国内で労働力への需要が高まったこともあり,日本からの移民の道は完全に閉ざされ,以後冷却化の一途をたどった。

 第1次世界大戦時,日本は連合国としてオーストラリアの輸送船団の護衛に日本の軍艦〈伊吹〉を派遣し両国の関係改善に努めたが,オーストラリアの白豪主義に影響を与えることはなかった。その後,両国は第2次世界大戦では敵対関係に入り,本格的な関係修復は52年の対日平和条約発効まで待たねばならなかった。同年,両国は大使館を設置,外交関係は正常化した。依然としてオーストラリアには反日感情が残っていたが,戦後のアジアにおける国際環境の変化(朝鮮戦争,植民地の独立,旧宗主国イギリスに代わるアメリカの台頭)にともない対日関係見直しの気運が高まり,57年には通商協定が締結された。

 その後,漁業協定(1968),査証取決め(1969),租税協定(1970),原子力平和利用協定(1972)などが相次いで締結され,両国の経済協力拡大のための環境づくりがなされた。73年にはイギリスがEC加盟に踏み切り,オーストラリアはあらためてアジアの一員として共存していく道を模索することを強いられた。歴史上初めて日本とオーストラリアの利害が一致したのである。この理解の上に立って,74年に文化協定,76年には有効協力基本条約が締結され,両国の交流は文化,科学技術,スポーツの分野にまで拡大された。両国の相互理解,協力関係はあらゆるレベルにおいて,実効性のある,かつ地が足についた総合的な交流へと広がり,やがて2国間にとどまらず,国連,APECなどの国際協力の分野にまで及ぶようになる。両国が国際社会において共通の理念を分かちあうようになるまでには実に100年を要したのであった。日本政府は民間と協力のうえ,オーストラリア国立大学に豪日研究センターを設立したほか,88年には日豪の最先端科学技術交流の場としての科学技術館をキャンベラに建設している。両国はこうした最近の相互交流進展を記念し,97年を日豪友好記念のための事業年度として指定,各種催しを年間を通じ実施するまでになった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
おーすとらりあ
Australia

オーストラリア大陸およびタスマニア島を主要領域とし、6州2直轄地区からなる連邦。面積769万2024平方キロメートル、人口2074万3000(2007推計)、2371万7421(2016センサス)。「オーストラリア」の呼称は、古代からの言い伝えによる未知の南方大陸を意味するラテン語名「テラ・アウストラリス」Terra Australisに由来する。大陸沿岸の航海で知られる探検家フリンダーズや当時の植民地総督マコーリーの提唱で、1817年ごろから使われ始め、連邦結成(1901)によって正式国名となった。国旗は、青地に白い南十字星などを配したもので、この国の労働運動と民主化の原点とされる「ユーリカEureka砦(とりで)事件」(1854)の際の反乱側の旗に由来する。国歌は1974年に定められた「アドバンス・オーストラリア・フェア」と伝統的なイギリス国歌「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン(キング)」の二つが事実上用いられてきたが、1984年4月、正式に前者に閣議決定。イギリス連邦加盟国。豪州ともいう。

 オーストラリアは南半球にあり、日本のほぼ真南に位置する。三つの標準時帯に分かれ、東部標準時(日本より1時間早い)に対して、中部では30分、西部では2時間の時差がある。

 オーストラリアにとってイギリスは、旧植民地本国であり、イギリス連邦の中心であり、また多くの移住者の出身国であった。しかし、イギリスとの歴史的、伝統的な関係には、単なる本国への忠誠や母国志向にとどまらず、本国の社会に対する抵抗、批判の面も含まれていた。基本的にはイギリスの諸制度、文化、生活様式を継承しながらも、オーストラリア独自の社会的、文化的特色を形成してきた。とくに第二次世界大戦後は、相対的にイギリス離れが進むとともに、アメリカ合衆国、日本、東南アジアとの結び付きが強まり、アジア太平洋国家群の一つとしての性格を強めてきている。国内的にも、非イギリス系住民の割合が高まり、生活様式や意識のうえでも独自の性格が形成されつつある。

[谷内 達]

自然

地形・地質

オーストラリアの地形的特徴は、きわめて低平で起伏に乏しいことである。ユーラシア、アフリカ、南北両アメリカ、南極大陸と比較すると、面積は最小、平均高度330メートルは最低、標高200メートル未満の低地の占める割合39%は最大、標高1000メートル以上の高地の占める割合2%は最小である。海岸線も単調で、その延長3万6700キロメートルは日本の約1.1倍にすぎない。

 オーストラリア大陸は、一般に西部台地、中央低地、東部高地の三つの大地形区に分けられる。西部台地の大部分は平坦(へいたん)な台地、砂漠、平原であり、山地や高原は大陸中央部や北西部のごく一部に限られる。地質的には、オーストラリア楯状地(たてじょうち)あるいは西部楯状地とよばれる先カンブリア層のきわめて古い岩石からなり、地域によってその上に古生代以降の堆積(たいせき)層がのっている。この先カンブリア層は金属鉱物資源の宝庫であり、代表的な鉱床は北西部の鉄鉱石鉱床である。また、マウント・アイザおよびブロークン・ヒルの非鉄金属鉱床も、この先カンブリア層地域の東端にあたる。中央低地(中央東部低地あるいは内陸低地ともいう)の北半部の大半は、中生代以降の堆積層で、地下水利用で知られる大鑽井(だいさんせい)盆地にあたる。南半部は主として新生代第三紀の堆積層で、マリー・ダーリング水系の中・下流域にあたり、マリー・ダーリング盆地とよばれることもある。東部高地は、グレート・ディバイディング山脈を中心とした山地および高原地帯と、比較的狭い河谷平野や海岸平野からなる。地質的には、タスマン地向斜とよばれる古生代の堆積層が、中生代以降に隆起して形成されたものである。この古生層にも、西部台地の先カンブリア層に次いで、金属鉱床の発達がみられる。

 平坦な地形と乾燥した気候とにより、河川や湖沼はあまり発達していない。河川の多くは季節河川、間欠河川であり、湖のほとんども、干上がった塩湖の湖床(プラヤ)である。年間を通してつねに十分な水量のある大河や大湖が内陸にみられないことは、北アメリカ大陸との大きな相違点であり、開拓過程の差異に影響した。

[谷内 達]

気候

オーストラリア大陸の気候の特徴は温暖と乾燥の2点にある。大陸北岸(国土の17%)は熱帯気候、主たる居住地域である大陸の東岸、南岸、およびタスマニア島(国土の26%)は温帯気候に属する。

 オーストラリア大陸はもっとも乾燥した大陸である。内陸から北西部にかけて広がる乾燥気候地域(砂漠気候およびステップ気候)の占める割合(57%)は、全大陸中最大である。降水量は、一般に海岸から内陸に向かってしだいに減少する。年降水量が600ミリメートル以下の地域は国土の80%、さらにその50%の地域では300ミリメートル以下となっている。また、水の利用可能性の点からは、年降水量の分布に関して二つの制約を考慮しておかなければならない。第一は、降水量の変動の度合いが内陸ほど大きいので、年平均値の信頼度が低下することである。したがって、ほぼ毎年確実に期待される降水量は、年平均値よりはるかに低い。第二は、降水量の多くが蒸発によって失われることである。そこで、土壌からの蒸発量を上回る「有効な」降水量のある月が年間に何か月あるかを示した「作物生育期間」という指標が、しばしば用いられる。この期間が5か月以上なら農業が、1~5か月では粗放な牧畜のみが潜在的に可能とされている。いうまでもなく、これに土壌や気温など他の条件を加えると、自然条件の面から農業の可能な地域はさらに限定される。

[谷内 達]

生物相

オーストラリア大陸は、かつてはゴンドワナ大陸の一部で、新生代第三紀の前期ごろ南米と陸続きだった南極大陸から離れ、以来孤立してきたと考えられている。そのため、ゴンドワナ大陸系の原始的な動植物はもちろん、新生代にアジアから入った新しい系統のものも、その多くが独自に進化を遂げ、他の大陸と顕著に異なる生物相を形成している。したがって、この大陸を中心に、植物ではオーストラリア区系界、動物ではオーストラリア区とよばれる独特の生物分布区が設けられている。

 オーストラリアの植物研究は、キャプテン・クックの最初の世界周航の際、隊員のジョセフ・バンクスJoseph Banks(1743―1820)が1770年にボタニー湾に上陸したときに始まる。現在までに1万8000種以上の維管束植物が報告されており、そのうち少なくとも75%以上が固有と見積もられている。ビブリス科(食虫植物)など固有の科があるほか、イシモチソウ科(食虫植物)、エパクリス科、クサトベラ科、ディレニア科、クノニア科などの種類が多いのも特色である。バンクシア属、グレビラ属などヤマモガシ科の植物も種類が多い。これはレスティオ科とともに南アフリカの植物相との類縁を示すものといわれている。植物はいずれも乾燥気候に適応し、山火事に対して抵抗力の強い種類が多い。ユーカリとアカシアの種類の多いことはとくに著しく、ユーカリ(ユーカリプトゥスEucalyptus、オーストラリア人はガム・ツリーgum treeとよぶ)はオーストラリアの樹木のうち、固体数で9割を占めるといわれる。さまざまな環境に適応して進化を遂げたため、高さ1メートル足らずの低木から、高さ90メートル以上に達するマウンテン・アッシュまで、約500種に及ぶ。アカシア(オーストラリア人はワトルwattleとよぶ)もユーカリと並ぶ代表的樹木で、約600種以上がさまざまな環境にみられる。ユーカリは用材や製紙原料として有用である。

 北部から北東部にかけては比較的降水量が多く、ユーカリを主とした常緑広葉樹林があり、北東部の沿岸には熱帯降雨林が狭い幅でみられる。南西部は冬雨夏乾の地中海気候で硬葉樹林がみられ、植物の種類数が多く独特の一地域をなし、キサントロエアのような特殊な植物もみられる。内陸は乾燥しており、中心部は砂漠状である。その周辺は乾燥草原、草原に低木の疎生する群落などがあって、サバナ的植生のところが多い。全般にゴンドワナ大陸起源の乾燥適応の著しい植物が多いのが特色であるが、高山には北半球から由来したキンポウゲ属、スゲ属などもみられる。

 オーストラリアに生息する動物としては、魚類約2200種、両生類約70種、爬虫(はちゅう)類約360種、鳥類約800種、哺乳(ほにゅう)類約230種などが知られている。爬虫類の大部分は有鱗(ゆうりん)目のトカゲおよびヘビで、体長2メートル以上のオオトカゲ類(ゴアナ)、ニシキヘビ類を含む。毒ヘビが20種いるが人命にかかわるものはわずかである。鳥類のうち約530種が固有種である。ダチョウに似たエミューや長大な尾羽がハープに似たコトドリはそれぞれオーストラリア固有の科に属する。このほかコクチョウ、ワライカワセミ、ツカツクリなどが知られている。約60種に及ぶオウムが各地にみられ、住宅地の庭先に野生のオウムをみることも珍しくない。

 オーストラリアのカモノハシとハリモグラは、もっとも原始的な卵生の哺乳類すなわち単孔(たんこう)類で、オーストラリア以外ではニューギニアのナガハシハリモグラしか知られておらず、オーストラリアの動物のなかでももっとも珍しいものの一つである。カンガルーやコアラに代表される有袋(ゆうたい)類は、陸上に住む哺乳動物の過半を占める。有袋類は南アメリカ、オーストラリア、ニューギニアに固有の原始的な哺乳類で、今日ではオーストラリアでもっとも多様に進化しており、樹木におけるユーカリに相当する地位を占めている。一般の哺乳類(真獣類)と同様に、草食性ばかりでなく肉食性を含む多くの種類に分かれている。草食性有袋類のうち、種類数、個体数とも多いのは、カンガルーの仲間とクスクス(オポッサム。オーストラリアでは一般にポッサムとよび、大形の一部のポッサムをクスクスとよぶ)の仲間である。カンガルーは、体長30センチメートル足らずのものから、体長180センチメートル以上のものまで約40種に及び、そのほとんどが地上生活者である。なお、カンガルーという名が「私は知らない」という意味の先住民語に由来するという説には根拠がない。クスクス(ポッサム)は約40種に及び、その多くは樹上生活者で、木から木へと滑空できるものも数種ある。そのほかの草食性有袋類にはコアラやウォンバット、虫食を兼ねる雑食性有袋類としてはバンディクートがある。肉食性有袋類には、小形のフクロネズミなどや、大形のフクロオオカミ、タスマニアデビルなどがある。このうち、フクロオオカミはすでに絶滅したとされている。

 胎盤をもつ高等哺乳類(真獣類)は約100種であるが、ネズミやコウモリの仲間が多く、ヨーロッパ人が持ち込んで野生化したアナウサギやキツネ、そしてウシやヒツジなどの家畜を除けば、他の大陸で繁栄している真獣類はまったくみられない。有袋類以外の肉食獣としては、約9000年前に先住民の祖先とともにアジアから渡来し野生化したイヌといわれるディンゴがある。ディンゴは一度も人間に飼われたことがない真の野生種で、イヌとは別種であるとの説もある。

[今泉吉典・大場達之・谷内 達]

地誌


 オーストラリアの国土は、自然条件、土地利用、人口分布、都市の発達などを総合すると、大都市地域、人口稠密(ちゅうみつ)地域、人口希薄地域の三つの地帯に区分することができる。

[谷内 達]

大都市地域

州都・連邦首都および州都に隣接した11の都市圏、すなわちシドニー、メルボルン、ブリズベン、アデレード、パース、ニューカッスル、キャンベラ、ウロンゴング、ホバート、ジーロング、およびゴールド・コーストである。このうちキャンベラ以外の10都市圏はすべて海岸に位置している。この大都市地域には、全国の人口の約7割、工業労働力の8割余りが集中し、とくに二大都市シドニーおよびメルボルンだけで、全国の人口の約4割、工業労働力の約6割、銀行預金残高の約4分の3、主要100企業の本社の9割が集中している。大都市地域への集中の背景は、第一に、州都が州の行政中心地であるだけでなく、港湾都市および交通網の中心として、歴史的にもっとも早く開発され、奥地開発の拠点となったことである。とくに、各州が別個の植民地として発達し、現在の連邦制のもとでも、州の枠組みが行政的、経済的にきわめて重要であり、州内での中央集権的傾向が、各州都への機能集積と人口集中とをもたらした。第二に、大都市が、市場としての消費・流通機能だけでなく、工業都市としての生産機能をも兼ね備えていることである。第三に、移民の多くが、奥地へ向かわずに大都市に住み着いたことである。これは、奥地の人口収容力が限定されていたことと同時に、移民の多くが大都市居住を目的とした農村出身者であったためである。すなわち、農村から大都市への人口移動が国際的次元で進行したとみることができる。

[谷内 達]

人口稠密地域

土地利用が相対的に集約的で、中小都市および交通網が比較的発達している地域である。自然条件の点からは、作物生育期間が5か月以上の範囲から北部を除いた地域、土地利用の点からは、海岸地帯のサトウキビ、酪農、園芸などの集約的農業地帯から集約的牧畜地帯を経て、小麦・ヒツジ地帯に至る地域、そして人口分布の点からは、人口密度が1平方キロメートル当り1人以上の地域にほぼ相当する。この地域は、国土の約2割、人口の約3割を占める。人口稠密地域の成立には、相対的に集約的な土地利用を可能にした自然条件だけでなく、大都市地域への近接性(距離、輸送条件)が大きく影響している。

[谷内 達]

人口希薄地域

広大な無人地帯を含む文字どおりの人口希薄地域で、国土の約8割を占める。主たる経済基盤は粗放な牧畜と鉱産資源開発で、この地域の主要都市のほとんどは行政上の拠点あるいは鉱業関連都市である。なお、農牧土地利用区分のうえでは、この地域は「肉牛地帯」「ヒツジ地帯」とされており、あたかもこれらの地帯が肉牛あるいはヒツジの飼育に最適で同国の牛肉、羊毛の主産地であるかのような印象をもたれがちであるが、現実には人口稠密地帯のほうが肉牛やヒツジの飼育の点で適しており、生産性が高く生産量も多い。人口希薄地域での肉牛あるいはヒツジへの特化(優位にある商品生産に専門化すること)は、自然条件および市場からの遠隔性による制約から、ほかに選択の余地が乏しいことによる結果にすぎない。

[谷内 達]

中心州・周辺州・中間州

以上の3区分とは別に、各州の産業上の特色から、中心州、周辺州、中間州の三つに分けることができる。ニュー・サウス・ウェールズおよびビクトリア両州は、あわせて全国人口の約6割、農業生産額の約2分の1、工業生産額の約3分の2、そして輸入額の約4分の3を占め、相対的に工業に特化(専門化)した中心州である。これに対してクイーンズランド州、ウェスタン・オーストラリア州およびノーザン・テリトリーは、人口では全国の4分の1余りであるが、農業生産額の3分の1余り、鉱業生産額の6割余り、輸出額の4割余りを占めており、周辺州(資源州)としての性格が強い。サウス・オーストラリア州は農業および工業に、タスマニア州は農業にそれぞれやや特化し、中間州(準周辺州)として、中心州に強く結び付いている。なお、オーストラリアン・キャピタル・テリトリー(オーストラリア首都特別地域)は、ニュー・サウス・ウェールズ州内につくられた特別地域で、首都キャンベラを含む連邦政府直轄地区である。

[谷内 達]

歴史


 オーストラリアへの最初の移住者は、先住民アボリジニーの祖先であろう。その時期と経路は明らかではないが、3万8000年以上前に東南アジア方面から渡ってきたとされている。この人々は、農耕、家畜、金属を知らず、採集、狩猟、漁労に依存して、海岸地帯および一部の内陸河川沿いに生活していた。ヨーロッパ人入植以前の先住民人口は約30万人と推定されている。

[谷内 達]

ヨーロッパ人の来航

世界経済へのオーストラリアの関与は、インドネシアから大陸北岸への季節的往来によるナマコ漁を除けば、19世紀に入るまで皆無であった。ヤンス(来航1606年)からタスマン(同1642年、1644年)に至るオランダ人航海者やイギリス人ダンピア(同1688年)によって、大陸北岸、西部沿岸およびタスマニア島南岸の海岸線がヨーロッパ人に知られるようになったが、いずれもオーストラリアが不毛の地であるとの情報をもたらしたのみで、積極的な調査や植民には結び付かなかった。オーストラリアが植民可能な土地であるとの情報は、大陸東岸を1770年に調査したクックによって得られたが、イギリスがオーストラリアへの植民を決めたのは10年以上のちのことであり、しかもアメリカ合衆国の独立に伴う流刑先の代替地としてであったから、積極的な開発を企図していたとはいえない。

 1788年1月26日、「最初の船団」で到着した流刑者および軍人など約1000人が、現在のシドニーの地に上陸し、流刑植民地が発足した。この日は現在「オーストラリア・デー」とよばれる祝日になっている。東経135度以東の地域(タスマニア島を含む)がイギリスによって領有宣言され、ニュー・サウス・ウェールズ植民地となった。領有範囲は1825年に東経129度以東に拡大され、1827年に全大陸がイギリス領となった。

 1788年から1970年代に至るオーストラリアの歴史は、政治的、経済的に重要な三つの転換期(1850年代、1890年代および第二次世界大戦)を境に、四つの時期に分けることができる。

[谷内 達]

流刑植民地から自由植民地へ

第1期(1840年代まで)は、自由植民地への脱皮の時期であった。1820年代には軍政が終わり、自由移民の増加が顕著となった。流刑者受け入れも1840年から1853年にかけて次々に終了した。ただし、ウェスタン・オーストラリアのみは1849~1868年に流刑者を受け入れた。地理的には、フリンダーズの大陸一周航海(1802~1803)やウェントワースらによるブルー・マウンテンズ越え(1813)に代表されるように、沿岸各地および内陸の調査が進み、現在の各州都への入植が開始され、州の前身の植民地の基礎が築かれた。経済的にも、流刑植民地としての限定的自給方針から脱皮して、羊毛を中心とする植民地経済の基礎が形成された。羊毛の輸出は19世紀初頭に始まり、1830年代にはそれまでの捕鯨などの水産業にかわって主要輸出産業としての地位を獲得した。

[谷内 達]

植民地経済の自立

第2期(1850年代~1890年代)は、植民地経済の自立・発展期であった。1850年代には、東部5植民地が、また1890年にはウェスタン・オーストラリアも、選挙による議会と責任内閣制とを伴う自治植民地となった。一方、1850年代のゴールド・ラッシュは、人口の急増、農牧開拓の進展、交通の発達、都市化の進展、イギリス資本の流入など、大きな経済的、社会的影響を及ぼした。1870年代、1880年代には、内陸への粗放な放牧の拡大を含めて牧羊業が飛躍的に発展し、本国と植民地との国際分業の枠組みのなかで輸出産業としての重要性を著しく高めていった。この時期の鉄道網充実に象徴されるイギリスからの資本流入による公共投資と、冷凍船就航などの技術進歩によって、羊毛産業のほかにも小麦栽培、酪農、肉牛飼育が拡大し始めた。人口(先住民を除く)は1851年の44万から1861年には一挙に117万に急増し、1891年には324万に達したが、経済の実質成長率は人口増加率をさらに上回るものであった。しかし、イギリスからの投資とイギリスへの羊毛輸出に依存する植民地経済の弱点が、1890年代の大不況と干魃(かんばつ)によって露呈し、労働運動の高まりと労働党の結成、社会保障制度樹立などの動きを経て、連邦結成という新局面を迎えたのである。

[谷内 達]

連邦結成による自立と統一

第3期(1900年代~第二次世界大戦)には、連邦結成(1901)による政治的自立と国内統一とを背景に、移民、関税、労働、社会保障などに関する独自の政策、制度が形成されていった。経済的には、1890年代の苦い経験を踏まえた、経済的自立への構造調整期とみることができる。これは、国内産業構造および輸出構成における、羊毛依存からの脱却を意味した。小麦、酪製品、肉、砂糖など、羊毛以外の農牧産品が輸出品としての相対的重要性を高めた。また、鉄鋼や自動車をはじめとする本格的工業化が、第一次世界大戦後の1920年代に開始された。これらの構造調整過程の結実は、1930年代の大不況と第二次世界大戦を経て、戦後に持ち越された。

[谷内 達]

第二次世界大戦後

第4期の最大の特徴は、対外関係の変化であろう。第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国との対日共同行動を契機に、同国との結び付きが深まった。また、イギリスのEC(ヨーロッパ共同体、現EU=ヨーロッパ連合)加盟とともに、相対的なイギリス離れが進み、日本や東南アジアとの関係が重要な課題となった。経済的には、第3期からの構造調整の結実として、大量の資本および労働力の流入に支えられた、完全雇用を伴う経済発展期とみることができる。農牧産品のみならず、1960年代以降の鉱産資源開発の進展が、経済発展に大きく寄与した。このような、一次産品輸出に依存しつつ、国内的には産業保護、完全雇用、社会保障によって安定した高い生活水準を維持するという方式は、1970年代中葉に至って、そのままでは通用しなくなった。日本を含めた他の先進工業国と比べて、生活水準、社会保障水準はかならずしも著しく高いわけではなく、失業率と物価とがともに上昇するという、いわゆる先進国病的な悩みの点でも、他の先進工業国と共通である。したがって1970年代を境に、自由競争原理と経済効率を重視した新たな第5期に入ったとみることができる。

[谷内 達]

政治

政治制度

オーストラリアは、成文憲法をもつ議会制民主主義国家である。イギリス国王が同時にオーストラリア国王である形となっているが、実質的な国家元首は連邦総督であり、議会の招集・解散や閣僚の任免など最高の権限をもつ。ただし、その国事行為は通常慣例的に内閣の「助言」に従った名目的なものにすぎず、総督自身も、事実上内閣が人選し、通例オーストラリア人長老政治家が選ばれる。ただし最近では、このような形のうえでの君主制を廃止してカナダのように共和制に移行することも、現実の政治的課題として議論されている。1999年に実施された国民投票では共和制への移行は否決されたが、その後も議論は続いている。

 連邦議会は二院制である。下院は150議席で、人口分布に準拠した同数の小選挙区から選出され、任期3年である。上院は各州12、各直轄地区2、計76議席で、任期6年、3年ごとに半数改選(ただし直轄地区選出議員は任期3年)である。選挙区は、下院が1区1議席の小選挙区、上院は州あるいは直轄地区が1選挙区となっている。責任内閣制をとり、下院の多数党から首相が選出される。議会解散については、ときに上下両院の同時解散がある。

 主要政党は、労働党(1891結成)、国民党(旧地方党、1918)、自由党(1944)である。通常は自由党および国民党の保守連合と労働党との間で選挙が争われるので、事実上二大政党とみることもできる。オーストラリアでは、世界に先駆けて、1856~1879年に各植民地で記号式無記名投票制を採用した。現在もこの投票制は「オーストラリア式投票制」Australian ballotとよばれる。現在、18歳以上の男女に選挙権があり、あらかじめ候補者氏名が印刷された投票用紙に優先順位を最下位まで記入して投票する。投票は義務であり、棄権すると罰金が科せられる。

 連邦政府の権限は、憲法によって、外交、国防、移民、関税、所得税、外国貿易、州間通商、通信、貨幣、社会保障、2州以上にわたる労働仲裁など、特定の分野に限定されており、多くの行政分野は州政府の所管となっている。

 各州は自治植民地以来の長い伝統を背景に、連邦と同様、総督、議会、政府をもっている。州議会、州政府の権限と責任は、連邦議会、連邦政府に属さないすべての立法・行政機能に及ぶため、きわめて広い。たとえば、大学を含めて公立学校は州立であり、鉄道も原則として州営である。交通法規や酒類販売規制なども州によって異なる。地方自治体制度も州によって多少の差があるが、一般にその機能は日本の市町村に比べて著しく小さく、街路、公園、上下水道、保健衛生施設の維持を中心とした、基本的なコミュニティ・サービスに限られている。

[谷内 達]

外交・防衛

アメリカ合衆国、日本、EU諸国を中心とするいわゆる旧西側先進国との友好、協力関係と並んで、東南アジアをはじめとするアジア諸国との関係や、援助および核実験反対などを通じた南太平洋諸国との関係も緊密で、アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP(エスカップ))、太平洋共同体(旧南太平洋委員会)、太平洋諸島フォーラム(旧南太平洋フォーラム)などのメンバーであるとともに、東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))やアジア開発銀行との協力関係を維持している。また、イギリス連邦の一員として、イギリス連邦諸国との伝統的関係を維持している。

 国防政策の基本は、アンザス同盟によるアメリカ合衆国の安全保障体制のもとで一定の自主防衛努力を維持することにある。イギリス、ニュージーランド、マレーシア、シンガポールと五か国防衛協定を結んでおり、インドネシアおよびパプア・ニューギニアとも協力関係にある。2006年現在、常備兵力は陸軍約2万5300、海軍約1万2800、空軍約1万3100、合計約5万1200である。1964年に抽選式の徴兵制度が採用され、ベトナム戦争に兵力が投入されたが、1972年に廃止。現在はすべて志願制である。国家予算に占める国防支出の割合は約8.6%(2007)である。

[谷内 達]

経済・産業

構造的特徴

オーストラリア経済は、国内経済構造における工業国的な特徴と、輸出構成における一次産品輸出国的な特徴との、二つの顔をもっている。国内経済構造を国内総生産に占める各産業の構成比によって概観すると、その重点は農林水産業から工業へ、そして第三次産業へと移ってきている。労働力構成でもほぼ同様の傾向がみられ、農林水産業の就業者は約4.2%(2005)にすぎない。これは、都市部に人口の88%(2005)が集中しているという事実に対応している。輸出の産業別構成では、農林水産業の割合が低下し、鉱業および工業の割合が上昇してきているが、工業製品輸出においても農産・鉱産加工品への依存度が高い。

[谷内 達]

資源の開発・保全

国土の資源的価値は、水資源の不足、土壌条件、市場からの距離の制約により、その広大な面積に比べて著しく小さい。耕地(樹園地含む)はあわせて国土の6.4%(2005)にすぎず、土地生産性は日本に比べてきわめて低い。土地の資源的価値を高めるために、灌漑(かんがい)、土壌侵食対策、施肥(過リン酸肥料など)の努力が続けられている。水資源については、国内流水量は352立方キロメートルで、1人当り1万8351立方メートル。年間取水量は15.1平方キロメートルとなっており、水資源量に占める割合は4.3%である(2000)。森林(天然林)の面積は国土の5.4%(1995)であるが、そのうち経済的に開発可能な森林は約3分の1にとどまる。森林面積(人工林含む)は約1億6367万8000ヘクタールで国土の21.1%を占めている(2006)。

 土地、水、森林とは対照的に、鉱物やエネルギー資源は豊かである。19世紀以来の金、石炭、銅、鉛、亜鉛、鉄鉱石などに加えて、とくに1960年代以降、鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、ニッケル、原油、天然ガスなどが大規模に開発されてきている。原油の自給率が約71%(2005)であるほかは、多くの鉱産物が輸出されている。

 資源開発の一方で、資源保全、環境保護の問題があわせて考慮されている。水資源、森林資源の保全は政府の重要課題である。鉱産資源開発でも、グレート・バリア・リーフ(大堡礁(だいほしょう))の自然環境保護と石油探査との対立、ミネラル・サンド(ルチル、ジルコンなど)開発と海岸保全との調整、ボーキサイト採掘後の表土復原問題(ウェスタン・オーストラリア州)などの事例がある。ノーザン・テリトリーのウランおよびマンガン開発では、先住民の諸権利との調整が重要課題である。また、ウラン開発は国家的な環境監視体制のもとにある。

[谷内 達]

農林水産業

農林水産業の中心は、小麦、牛肉、羊毛などをはじめとする農業である。国土の約6割(4億4515万ヘクタール)が農用地であるが、耕地面積は農用地の約11%(4974万ヘクタール)で、大半は放牧地(牧場・牧草地)となっている(2005)。農場のほとんどが個人あるいは家族経営である。1農場当りの経営面積は、地域差、個別差が著しいが、経営類型別にきわめて大まかにいえば、果樹・野菜が20ヘクタール以下、サトウキビが40ヘクタール、酪農が80~200ヘクタール、小麦・ヒツジが800~1700ヘクタール、粗放な牧羊が平均4000ヘクタール、粗放な牧牛が平均1万5000ヘクタールといったところである。土地生産性の差が著しいので、経営面積と収益規模とは無関係である。

 農業を作物と畜産とに分けると、粗生産額による作物部門の割合が高まってきている。主要農畜産物は、小麦、牛肉、羊毛、果実・野菜、牛乳、サトウキビである。1950年代後半以来、小麦、牛肉、サトウキビの生産量が拡大してきたのに対して、羊毛は横ばい、牛乳は低下の傾向にある。ただし輸出面では、小麦および羊毛がもっとも重要で、牛肉および砂糖がこれに次ぐ。農業は、労働生産性が高く国際競争力のある輸出産業として、国民経済において重要な地位を占めている。しかし、酪農などの不振部門も抱えており、マーケティング・ボード(流通調整のための政府機関)による流通対策や、価格保証制度、生産割当てなど、直接間接に政府の政策的援助が重要な役割を果たしている。

 林業における木材伐採量は3387万3000立方メートル(2006)で、日本の約1.4倍にあたり、その約6割が広葉樹(おもにユーカリ)である。日本にチップを輸出しているが、これに対しては、国内の森林資源保護の点から一部に反対論もある。

 水産業の中心はクルマエビ、イセエビなどの甲殻類で、エビ類は水産業粗生産額の4割余り、輸出額の約7割を占める(2002)。そのほかには、マグロなどの魚類、カキなどの貝類、養殖真珠などがある。海洋水産物生産量は日本の約4.8%(2006)、食用水産物の1人当り消費量は22.3キログラムで、日本(66.3キログラム)の約3分の1である(2002)。1979年に200海里水域が設定され、日本とは日豪漁業協定が結ばれている。

[谷内 達]

鉱工業

鉱業は、未加工のまま鉱産物を輸出するだけでなく、国内での精錬・加工を通じて、工業の生産・輸出にも寄与している。とくに非鉄金属の多くは、国内で精錬・加工されてから工業製品として輸出される。日本への鉱産物輸出が著しく未加工鉱産物に偏っているために見落とされがちであるが、このような工業部門との関連における鉱業の重要性は、オーストラリアの工業化にとって欠かすことのできない要素であり、今後の国内精錬・加工の進展が課題となっている。

 工業は、資源加工・輸出型と、国内市場向け・輸入代替型との二つの性格をあわせもっている。前者の代表は食品および金属精錬で、輸出依存度が高く、工業製品輸出額の2分の1余を占める。後者は繊維、衣料品、製紙、金属加工、自動車、機械などで、一般に関税や補助金などによる保護水準が高いが、輸入依存度も高い。また、輸出型、輸入代替型を問わず、一般にオーストラリアの工業は、狭い国内市場規模を基盤に、保護政策と海外からの資本・労働力の流入に支えられながら、規模の経済(生産規模を拡大して収益の増大を保つ経済)を達成しようと努力してきたため、企業集中度が高く、外国資本の影響力が強い。企業集中度はとくに鉄鋼、非鉄金属、自動車などで高く、外資集中度はとくに自動車、化学、石油で高い。企業集中と外資進出とを伴う保護政策によって発達したオーストラリアの工業は、国内での直接的な雇用および付加価値の創出・維持と、第三次産業への産業連関効果とによって、国民経済に寄与している。

[谷内 達]

輸出入

貿易依存度は、輸出15.8%、輸入17.8%(2006)で、日本やアメリカ合衆国より高いが、先進工業国のなかでは低いほうである。貿易の第一の特徴は、基本的に食料・原料・鉱物を輸出し、工業製品を輸入していることである。輸出に関しては1960年代以降、羊毛の比重が低下し、鉱産物や製造加工品が急増するという変化はあったが、いまも食料、原料、燃料が輸出額の2分の1余を占めている。第二の特徴は、貿易相手国の変化であり、イギリスの地位が著しく低下し、日本、アメリカ合衆国、中国および東アジア、東南アジア、オセアニア諸国の割合が増加したことである。なかでも中国、日本、アメリカの割合が高く、この3国で輸出の38.1%、輸入の38.1%を占めている(2006)。

[谷内 達]

金融・財政

貿易収支は一貫して黒字であったが、1980年代初めに悪化した。さらに貿易外収支が赤字であるため、経常収支はおおむね赤字であり、これを外国資本流入などによる資本収支の黒字で埋めている。国別の経常収支は、日本に対して黒字で、中国、アメリカ合衆国およびイギリスに対しては赤字である。通貨(オーストラリア・ドル)は1970年代以降、米ドルや日本円に対して長期的に低落傾向にある。外国資本に対しては、国際収支均衡および国内経済の拡大と効率化への役割を評価して、一般に開放的である。外国資本の投資先は製造業や鉱業が多かったが、最近では金融、保険、不動産、観光、サービスなどへの投資が中心になってきている。

 金融では、銀行のほか保険会社、証券会社、各種金融会社(マーチャント・バンクなど)が重要な役割を果たしている。中央銀行であるオーストラリア準備銀行(RBA)やオーストラリア資源開発銀行、第一次産業銀行のような政策金融銀行を連邦政府が運営するとともに、一般の銀行業務を商業銀行(連邦政府出資の連邦商業銀行を含む)が担当している。このほか、貯蓄銀行および住宅貯蓄組合が住宅金融を行っている。

 財政の特色は、州政府の権限と責任が大きいのに比べて、歳入面では連邦政府が重要な役割を果たしていることである。これは、連邦政府が所得税(個人および法人)徴収や起債権限をもつことをはじめとして歳入基盤が強いのに対し、州政府の税収源が限られているためである。したがって連邦政府の総歳出の約4分の1が交付金および貸付として州政府に移転される。この移転額は州政府の歳入の約2分の1近くに相当する。交付金のかなりの部分は、面積、人口などの客観的指標による基準でなかば自動的に配分され、財政基盤の強い州から弱い州への再配分効果が強かったが、最近ではそれがやや薄れて実質的な目的、内容に則して配分されるようになってきている。

[谷内 達]

交通

国土の広いオーストラリアでは交通の役割はきわめて重要である。国内旅客輸送では、各都市を結ぶ航空路線網の発達と乗用車の利用の多いことが特色である。鉄道は、大都市圏の近距離大量輸送を除くと、乗用車や長距離バスに比べてもその役割は小さい。国内貨物輸送量(トンキロ)の内訳は、道路輸送が約44%、鉄道(鉄鉱石専用鉄道を含む)が約41%、海運が約14%(2003推定)で、1980年代以降、海運の役割が低下し、道路輸送の役割が強まってきている。

 航空は国内の都市間輸送の主役で、カンタス航空の国内部門(旧オーストラリア航空)とアンセット航空の二大航空会社およびこれら2社の系列の航空会社7社が各都市を結んでいた。しかし、2001年9月アンセット航空の経営悪化により親会社のニュージーランド航空が経営権を放棄、これによりアンセット航空および系列会社の運航が全線停止となり、これらの航空会社は事実上倒産した。その後、政府の援助を受け、アンセット航空はアンセットマーク2として一部国内線の運航を、さらに系列会社も州政府の援助を受けるなどして独自に運航を再開したが、2002年3月には国内線の運航も停止、約65年の歴史に終止符を打った。オーストラリアの国内線はバージンブルー航空、ジェットスター、リージョナル・エクスプレスなどが営業を行っている。なお2001年現在、オーストラリアとその領土内で認可されている空港の数は281あり、そのうち国際定期便の発着する国際空港は10ある。このほか小型機による地方航空会社が小都市や辺地を結んでおり、さらに自家用機の利用も発達している。国際定期旅客輸送はアンセット航空の国際線停止により、その9割をカンタス航空が占めることとなったが、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件やその後の世界的な景気後退の影響を受け国際線市場は低迷している。

 鉄道(鉄鉱石専用鉄道を除く)の総延長3万9844キロメートル(2001)のうち、ニュー・サウス・ウェールズ州(大部分)、ビクトリア州、クイーンズランド州、サウス・オーストラリア州(州都圏のみ)、ウェスタン・オーストラリア州(大部分)については各州政府が運営し、その他は連邦政府が運営する。また州間貨物輸送は連邦政府、州政府の共同出資による別の機関が運営している。

 道路の総延長は約91万3000キロメートルで、舗装率は38.7%(日本の道路舗装率79.3%の約2分の1)である(2005)。都市間の高速道路は無料で、都市部以外の幹線道路では速度制限が100キロメートル前後であり、時間距離では日本の高速道路並みである。

[谷内 達]

社会

住民

オーストラリアの社会は、第二次世界大戦後の移民政策の結果、南欧・東欧系やアジア系の住民が増加して著しく多様化し、イギリス系住民の割合は4分の3足らずへと低下した。現行移民政策では、一定の客観的条件に合致する限り、いっさいの人種、国籍などによる区別をしないことが明確に規定されている。1980年代の移民流入のほぼ半数が東南アジア系を中心とするアジア系移民で、総人口に占めるアジア系住民の割合は約7%(2005推定)に達し、北米やブラジルなどを上回る。ヨーロッパ系住民に限ってみても、南欧・東欧系住民によって多様化が進み、アメリカ合衆国に準じた複合社会的性格が強まっている。英語以外の言語による新聞・雑誌も売られ、テレビ放送も行われている。先住民に対しては、現在では法律上、制度上の差別はなくなり、実質的な地位向上対策が課題である。すでに伝統的な採集狩猟生活者は皆無というべきで、約半数が都市生活者である。

[谷内 達]

国民生活

人口増加率は移民流入の動向に左右される。たとえば1970年代には経済情勢や生活水準の伸び悩みを反映して移民流入が減少し、人口増加率が低下した。

 1人当り国内総生産(GDP)は日本のほぼ90%(2005)であるが、物価水準などを考慮すると実質的には大きな差はない。また賃金水準も日本とほぼ同水準であり、男女間の格差は日本よりもはるかに小さい。オーストラリアの生活水準が世界的に高水準であることは事実であるが、日本を含めた先進国のなかでとくに高いわけではない。たとえば住宅については、持ち家が3分の2を占め、床面積が広いなど、日本に比べると高水準であるが、アメリカ合衆国ほどではない。とくに大都市地域では、所得に対する住宅の相対価格が、地価上昇も含めて上昇しており、集合住宅が増え、床面積が小さくなる傾向にある。

 1960年代まで2~3%であった消費者物価上昇率は、1970年代、1980年代には5~10%へと上昇し、ようやく1990年代に入って2%台に戻った。2000年代に入って以降は2~4%台で推移している。また失業率は1970年代前半までの完全雇用に近い水準(2%以下)から、その後は8%前後の高率が続き、1990年代にはさらに悪化した。しかし2000年代に入ると6%台となり、2007年現在では4.3%と低下している。

 労働組合は、主として職能別組合で、長い歴史的伝統を誇るが、組織率は1980年代の55%から33%(1995)、23%(2002)へと低下してきている。労働運動の伝統を反映して、最低賃金制、週5日・40時間制、年次有給休暇(3~4週間)制などの諸制度が早くから発達してきた。また、ストライキに至らずに労使紛争を解決するために、強い権限をもつ調停仲裁制度が設けられている。多くの労使紛争がこれによって解決されているが、日本に比べてストライキが多いことも事実である。しかしこれは、先進工業国のなかで日本がストライキのきわめて少ない国であるためで、他の先進工業国に比べて、とくにオーストラリアでストライキが多いわけではない。

[谷内 達]

教育

教育は原則的に州政府の責任であり、教育制度は州によって多少異なる。小学校は6~7年制、中等学校は5~6年制、あわせて12年間で、義務教育期間は6~15歳の10年である(タスマニア州は16歳まで)。高等教育機関としては、大学(3~6年制)と専門学校(半年~3年制)がある。39校ある大学(総合大学)のほとんどが国公立(国立および州立)である。大学への進学率は日本よりやや低いが、大学と専門学校とをあわせると日本の大学や短大への進学率と大差ない。

[谷内 達]

福祉

1909年の老齢年金発足以来、オーストラリアは、世界でもいち早く多種多様の社会保障、福祉制度を発達させてきた。その中心は政府の財源に依存した無醵出(むきょしゅつ)・直接支給方式による年金・手当である。しかし、このような手厚い制度は高水準の税負担を伴うものであり、高福祉、高負担社会の問題を避けることはできない。また諸制度がすでにほぼ完備してしまったことと、財源上の制約とによって、今後の大幅な福祉政策の拡大は期待しにくくなっており、受益者負担のような側面を加味せざるをえなくなっている。たとえば、1975年7月に発足した医療費無料化(国庫負担)制度は、財源難でたちまち実行不可能となり、1976年10月に醵出制の一般的な健康保険制度に切り換えられた。

 政府による直接的な社会保障、福祉行政のほかに、政府からの補助を受けながらも、民間団体による事業も発達している。高齢者への食事配達サービスや、奥地のフライング・ドクター・サービス(航空機利用の往診)なども、民間団体の事業である。

[谷内 達]

文化

国民性

オーストラリア人の国民性に関連してしばしば用いられることばは、「平等主義」あるいは「仲間意識(マイトシップ=メイトシップmateshipのなまり)」であろう。これらは、反エリート的、反権力的、弱者保護的な相互扶助精神ともいうべきもので、この国の民主政治、労働組合運動、社会保障制度などの発達も、このような平等主義的伝統に裏づけられたものであるといわれている。また日常生活においても、少なくとも表面上は、社会的な階層や立場の差を感じさせない習慣がみられる。ホテルやレストランで原則としてチップが不要なことや、タクシーの乗客が助手席に座ることなどが、身近な例としてしばしば指摘される。さらに、オーストラリア人の気質が一般に気さくで人なつこいといわれることも、このような平等主義的伝統に関係しているといわれている。

 また、オーストラリア人の特徴として、開拓者的、農民的な、荒削りの「たくましさ」がしばしば指摘されている。シドニーのような大都市をも含め、「農業祭」が地域社会での重要な年中行事であることや、キャンプ、バーベキュー、各種スポーツのような、体力、時間、空間を多く要する野外活動が盛んであることも、この点に関連して理解されることが多い。

 オーストラリア人の国民性に関するこれらの特徴は、主としてイギリス系オーストラリア人によって歴史的に形成されてきたものであり、あくまでイギリス人との比較のうえでの相対的なものにすぎない。したがって、すでに工業化、都市化が進み、また非イギリス系オーストラリア人の影響が増しつつある今日において、額面どおり通用するわけではない。オーストラリア人の大部分は、他の先進国の多くの人々と同様に、冷暖房設備と電気製品のある家に住み、自動車を乗り回し、肥満を気にする都市生活者であり、もはや往時の「たくましさ」からは縁遠い、とするほうが現実に近いであろう。

[谷内 達]

文化・芸術

オーストラリアの文化は、先住民起源のものを別にすれば、イギリス文化を基盤にして、これにオーストラリア独自の要素が加わって発達してきたものである。アメリカ文化の影響は、開拓時代の駅馬車、現代の自動車、ハンバーガーやコーンフレークなど、生活文化の物質面にみられるが、全体的には予想外に小さい。オーストラリアの文化が、とくに第二次世界大戦後、イギリス的要素を弱めつつあることは事実としても、単なるアメリカ化ではなく、移民構成の変化に伴う南欧などの諸文化の影響を含めて、多様化の道をたどっているとみるべきであり、新しいオーストラリア文化が形成途上にあるといえる。

 オーストラリアの都市には、文化・芸術関係の施設がよく整っている。各州都に、かなりの規模と水準とを誇る博物館、図書館、美術館、植物園、音楽堂およびオーケストラなどがそろっており、中小都市にも図書館やスポーツ施設がそろっている。また、オーストラリアの歴史を見直す動きが活発で、各地に郷土歴史資料館がある。さらに歴史的に重要な建造物や景観を維持管理、復原、保全するための財団(ナショナル・トラスト)が活躍している。

 音楽、美術、文学、映画などの芸術活動の多くは西欧諸国一般と共通で、音楽家のネリ・メルバのようにオーストラリア出身で国際的に活躍している芸術家も少なくない。これらの一般的な芸術活動のほかに、オーストラリア独自の風土、歴史、社会に題材を求めた芸術活動も評価が高まってきており、ノーベル賞作家ホワイトPatrick White(1912―1990)のように国際的に評価される者も登場している。

[谷内 達]

日本との関係


 日本人とオーストラリア人との接触の記録は、日本では1831年(オーストラリア捕鯨船の北海道上陸)、オーストラリアでは1867年(日本人芸人の興行)にそれぞれさかのぼることができるが、実質的な日豪関係は、真珠貝採取のための日本人労働者の渡豪の始まった1870年代からといえる。日本人の渡豪は、真珠貝採取やサトウキビ農園労働の労働者が中心で、1880年代以後本格化したが、まもなくオーストラリアの移民政策のもとで衰微していった。

 羊毛貿易は1879年に始まり、1890年の兼松(かねまつ)商店進出(シドニー)による直接買付けで本格化し、その後長い間、日豪貿易の中心となった。第二次世界大戦後の日豪貿易再開時にも羊毛が中心であったが、1960年代以降、肉類、砂糖、鉄鉱石、石炭など品目が多様化してきている。オーストラリアは、日本にとってこれらの商品の重要な供給国であり、日本はオーストラリアにとって、これらの商品を中心に、輸出全体においても最大の市場になっている。また日本はオーストラリアに自動車、自動車部品、映像機器などを輸出しており、オーストラリアにとってこれら商品の対日輸入依存度はきわめて高い。このような貿易の拡大に伴い、砂糖、牛肉、自動車などの輸入規制や価格をめぐって、ときにトラブルも生じる。

 両国間の外交関係は、19世紀末のタウンズビルやシドニーへの日本領事館設置を経て、通商協定(1936年)、公使館開設(1940年東京、1941年キャンベラ)へと進展したが、太平洋戦争により中断した。なお日本は、オーストラリア本土を攻撃した唯一の国である。戦後は、1952年東京、1953年キャンベラにそれぞれ大使館が置かれて外交関係が再開され、1957年の通商協定を経て、1976年には経済関係の枠を越えた包括的な友好を目ざして友好協力基本条約が結ばれるに至った。同年発足した豪日交流基金による事業をはじめ、文化交流も活発になりつつある。なお、友好協力基本条約署名30周年にあたる2006年(平成18)は日豪交流年とされた。また、名古屋市(対シドニー)など6都府県99市区町村6港(2005)が、オーストラリアの州、都市、港と姉妹関係にある。2007年現在の在豪日本人は約6万3500人、在日オーストラリア人は約1万1400人である。このほかに2007年には年間約57万人の日本人がオーストラリアを訪れ、約22万3000人のオーストラリア人が日本を訪れている。

 オーストラリアでの日本語教育は1917年にさかのぼることができるが、とくに最近の進展は著しく、2003年現在、高等教育機関61、初等・中等教育機関2081、学校教育以外の機関67において日本語教育が行われ、約38万1000人が学んでいる。日本語学習者数は韓国(89万4000人)、中国(38万7000人)に次いで世界第3位となっている。またオーストラリア国立大学をはじめいくつかの大学では、日本語のみならず、日本の歴史、政治、経済、文化など幅広い高水準の日本研究が進められている。

[谷内 達]

『M・クラーク著、竹下美保子訳『オーストラリアの歴史――距離の暴虐を越えて』(1978・サイマル出版会)』『J・ブレイニー著、長坂寿久・小林宏訳『距離の暴虐』(1980・サイマル出版会)』『橋爪若子著『オーストラリア入門』(1985・古今書院)』『金田章裕著『オーストラリア歴史地理』(1985・地人書房)』『C・マクグレガー著、穐田照子訳『オーストラリアの人々』(1987・PMC出版)』『関根政美他著『概説オーストラリア史』(1988・有斐閣)』『堀武昭著『オーストラリアの日々――複合多文化国家の現在』(1988・日本放送出版協会)』『川口浩・渡辺昭夫編『太平洋国家オーストラリア』(1988・東京大学出版会)』『L・キルマーチン他著、吉井弘訳『オーストラリアの社会構造』(1988・勁草書房)』『R・テリル著、田村泉訳『オーストラリア人』(1989・時事通信社)』『中野不二男編『もっと知りたいオーストラリア』(1990・弘文堂)』『藤川隆男著『オーストラリア歴史の旅』(1990・朝日新聞社)』『竹田いさみ著『移民・難民・援助の政治学――オーストラリアと国際社会』(1991・勁草書房)』『岩本祐二郎著『オーストラリアの内政と外交・防衛政策』(1993・日本評論社)』『V・カラン著、関根政美・関根薫訳『オーストラリア社会問題入門』(1994・慶應通信)』『P・ハゲット他編、谷内達訳『図説大百科世界の地理23 オセアニア・南極』(1997・朝倉書店)』『ジェフリー・ブレイニー著、加藤めぐみ・鎌田真弓訳『オーストラリア歴史物語』(2000・明石書店)』『河合利光編著『オセアニアの現在――持続と変容の民族誌』(2002・人文書院)』『小山修三・窪田幸子編『多文化国家の先住民――オーストラリア・アボリジニの現在』(2002・世界思想社)』『島崎博著『オーストラリア――未来への歴史』(2004・古今書院)』『藤川隆男編『オーストラリアの歴史――多文化社会の歴史の可能性を探る 世界に出会う各国=地域史』(2004・有斐閣)』『石田高生著『オーストラリアの金融・経済の発展』(2005・日本経済評論社)』『竹田いさみ・森健・永野隆行編『オーストラリア入門 第2版』(2007・東京大学出版会)』『社本一夫著『オーストラリア歴史と自然の紀行』(2008・西田書店)』『ウォーレン・リード著、田中昌太郎訳『オーストラリアと日本――新しいアジア世界を目指して』(中公新書)』『遠藤雅子著『オーストラリア物語――歴史と日豪交流10話』(平凡社新書)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア

◎正式名称−オーストラリア連邦Commonwealth of Australia。◎面積−769万2024km2。◎人口−2271万人(2012)。◎首都−キャンベラCanberra(36万人,2011)。◎住民−イギリス系77%,ほかにイタリア系,オランダ系,ギリシア系,ドイツ系など。先住民は約28万人。◎宗教−キリスト教80%(英国国教会,カトリック,プロテスタントなど)。◎言語−英語(公用語)。◎通貨−オーストラリア・ドルAustralian Dollar。◎元首−英女王エリザベス2世,総督ピーター・コスグローブPeter Cosgrove(2014年3月就任)が代行。◎首相−マルコム・ターンブルMalcolm Turnbull(1954年生れ,2015年9月就任)。◎憲法−1900年7月制定,1901年1月発効。◎国会−二院制の連邦議会。上院(定員76,任期6年,3年ごとに半数改選),下院(定員150,任期3年)(2015)。◎GDP−1兆152億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万7298ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−4.4%(2003,クリスマス諸島,ココス諸島及びノーフォーク島を含む)。◎平均寿命−男79.9歳,女84.3歳(2010―2012)。◎乳児死亡率−3.3‰(2012)。◎識字率−99.5%。    *    *豪州とも。南半球にあり,世界六大州の一つを占めるイギリス連邦内の自治国。6州と2準州(テリトリー)からなる。混血も含め49万人(2005)の先住民がいる(アボリジニー)。〔自然〕 他の大陸に比べて海岸線は単調で,北岸にカーペンタリア湾,南岸にスペンサー湾などの湾入があり,北東岸沿いにグレート・バリア・リーフがある。東岸を南北に走るオーストラリア・アルプスが,太平洋岸と内陸部の分水嶺をなす。最高峰はコジアスコ山。その西に自噴水井戸の多い中央低地がある。西部は大陸の過半を占める安定した楯(たて)状地で,準平原をなし,内陸部にギブソン砂漠グレート・サンディ砂漠などの大砂漠がある。大陸北岸はサバンナ気候,南岸は地中海式気候,東西の海岸は温暖な多雨気候。生物は他の大陸に見られない原始的な種を含む点に特色があり,ハリモグラカモノハシの単孔類,カンガルーフクログマなどの有袋類,鳥ではエミューコトドリなどの固有種がすむ。ユーカリの原産地。〔経済・産業〕 農牧畜業が主で,羊毛の生産は世界最高,小麦,バター,チーズ,食肉なども産する。羊,牛とも南東部に最も多く分布するが,北東部,南西部にもある。鉱業も重要で,鉄鉱,石炭,鉛,ウラン,スズ,金,銀の産がある。ボーキサイト,石油もある。近年工業の伸びが著しく,鉄鋼,機械,食品加工,化学などが行われている。〔政治・歴史〕 英国王の任命する総督が置かれ,総督は国王の権能を代行する。連邦議会は上院と下院からなり,総督が議会の召集権と下院の解散権をもつ。総督は下院第一党の党首を首相に任命,首相の勧告により各大臣を任命する。主要政党は自由党,労働党,国民党。連邦を構成する6州はそれぞれ独自の憲法と議会をもち,自治権は強大。 先住民は約4万年前,東南アジアから渡来したとみられる。1770年ジェームズ・クックがシドニー郊外に上陸,英国領を宣言した。1788年以後流刑植民地となったが,19世紀半ばに金鉱が発見され,ゴールドラッシュが起こり,人口が飛躍的に増加した。他方,30万人と推定された先住民は次第に衰退した。19世紀後半までに流刑制度が廃止され,六つの自治植民地が誕生した。1901年各植民地が連邦を結成して英国の自治領となり,対英独立を果たした。長くいわゆる白豪主義を掲げ,有色人種の移民を受け入れなかったが,1960年代にはいって,一定の条件下での受入れが行われるようになった。とくに1975年以降,インドシナ難民を大量に受け入れ,オーストラリアは文化多元主義を採る多民族社会に向かっており,1992年の〈マボ判決〉に象徴されるように先住民政策も転換しつつある。また1990年代以降は,アジア・太平洋諸国との連携をめざす方向が顕著になっている。1990年代後半こうした政策を批判し,白豪主義への回帰を思わせる〈ワン・ネーション党〉が出現している。1999年の国民投票で,立憲君主制から共和制へ移行するとの提案は否決された。2001年,2004年の総選挙で,ハワード首相の与党が勝利したが,2007年の選挙で労働党が勝利し,ケビン・ラッドが首相に就任した。2010年6月,支持率が低下したラッドの辞任を受け,副首相のギラードが労働党党首,首相に就任。オーストラリア初の女性首相。ギラードは7月に議会を解散して総選挙に臨み〈緑の党〉などの支持を受けて僅差で勝利。2012年2月の労働党党首選をラッドと争い,勝利して再選された。しかし,ギラード政権の政策は不評で支持率が低下した労働党は再度ラッド氏を党首に選出。ラッド首相は2013年9月に連邦議会選挙を実施することを発表。同総選挙でアボット率いる自由党を含む保守連合が勝利し,2007年12月以来,久々に政権に返り咲いた。自由党は2007年の総選挙で政権を失ってから,2度の党首交替を経て,2009年12月にアボットが党首に就任。以来副党首のジュリー・ビショップと共に党を率いる。ビショップはアボット政権発足と同時に外相就任した。外交的には対米同盟を基軸とすると共に,アジア・太平洋を外交・貿易政策上の優先地域に位置づけているが,中東に関しても,米国の中東政策を強く後押ししている。創造的なミドルパワー外交を唱え,G20,国連等の多国間枠組みを活用するマルチ外交も重視している。貿易面では,APEC及びWTOを通じた多角的自由貿易体制強化や二国間及び多国間自由貿易協定を強力に推進している。2015年9月自由党の党首選挙が行われ,ターンブルがアボットに勝利し新党首に選ばれ首相に就任した。
→関連項目経済連携協定シドニーオリンピック(2000年)メルボルンオリンピック(1956年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
Australia

正式名称 オーストラリア連邦 Commonwealth of Australia。
面積 768万8126km2
人口 2589万2000(2021推計)。
首都 キャンベラ

オーストラリア大陸およびタスマニア島などからなる国。イギリス連邦の構成国。国名はラテン語のテラ・アウストラリス(南方の大陸の意)に由来。17世紀のオランダ人航海家アベル・J.タスマンの来航,1770年のジェームズ・クックの東海岸上陸ののち,1788年のニューサウスウェールズ植民地発足がこの国の起源。その後 19世紀前半にタスマニア,ビクトリア,クイーンズランドの各植民地が分離し,サウスオーストラリア,ウェスタンオーストラリの両植民地が建設され,今日の州の原型が成立した(→ニューサウスウェールズ州タスマニア州ビクトリア州クイーンズランド州サウスオーストラリア州ウェスタンオーストラリア州)。1901年に連邦を結成。植民地の後身である 6州と,ノーザンテリトリーと呼ばれる准州,オーストラリアンキャピタルテリトリーと呼ばれる連邦政府直轄地区により構成される。連邦が外交,軍事,貿易などかぎられた権限を州から委譲されているほかは,州政府が広い権限をもち,政治的経済的社会的には州が重要な地域単位である。住民のうちオーストラリア先住民は全人口の 2.5%にすぎない。ほかはイギリス系やアイルランド系が多いが,特に第2次世界大戦後は南ヨーロッパ系や東ヨーロッパ系の住民が増え,大都市にこの傾向が著しい。1979年に「白豪主義」を制度上撤廃し,アジアからの移民も増加,今日では約 7%に達している。都市人口は全人口の 85%を占め,州都およびキャンベラなど 10万以上の都市に 70%以上が集中している。これは大陸の自然条件および交通条件により,居住適地が東部,南東部,南西部の狭い海岸にかぎられることと,州経済の中心としての州都の重要性が高いことのためである。高い生活水準と進んだ社会福祉制度を支える経済は,農牧業および鉱業に依存してきた。農牧業従事者は少ないが,関連する 2次産業,3次産業への波及や輸出において重要。羊毛,肉,コムギ,酪製品など農牧産品は,1990年代初めには輸出額の約 40%を占めていたが,2010年には約 10%まで減少している。鉱業は 19世紀以来の金,石炭,非鉄金属(銅,鉛,亜鉛)に加え,第2次世界大戦後,特に 1960年代以降,鉄鉱石,原料炭,ボーキサイト,ニッケル,ウランなどの大規模な開発により,輸出においても関連工業への波及や辺地の開発の点からも重要性が増大し,2010年には輸出額の約 70%を占めた。工業は鉄鋼,自動車をはじめ国内市場向けの諸製品の生産と,農牧業,鉱業,エネルギー資源を背景とした資源関連工業に特色がある。非イギリス系住民の増加,アメリカ合衆国や日本,東南アジアとの経済関係の強化により,イギリスとの関係は相対的に弱まってきている。公用語は英語。(→オーストラリア史

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旺文社世界史事典 三訂版 「オーストラリア」の解説

オーストラリア
Australia

太平洋南西端,オーストラリア大陸とタスマニア島などからなる,イギリス連邦内の自治共和国。豪州ともいう。首都キャンベラ
1770年イギリス人クックがイギリス領を宣言し,88年以後,流刑植民地となる。シドニーを起点に羊毛生産の拡大によって西部へと開拓が進み,1830年ごろには自由移民も本格化した。1840年には人道主義的な理由と自由労働者保護のため,流刑制度は廃止された。1851年に南東部で金鉱が発見され,ゴールド−ラッシュが始まると植民者が急増,とりわけ中国人移民の増加は白人労働者の脅威となり,80年代には白豪主義が現れた。なお,移民の増加と白人の開拓に伴い,先住民アボリジニーの数が激減した。1901年6州からなる自治領が成立し,31年にはウェストミンスター憲章でイギリス連邦の構成国となり,国際法上の独立国となった。しかし,イギリスへの依存心が強く,オーストラリア議会が同憲章を批准したのは1942年だった。戦後,1951年に太平洋安全保障条約(ANZUS),54年には東南アジア条約機構(SEATO)に参加し,西側の集団安全保障体制の一角を形成したが,72年労働党内閣の成立以後,中立外交を指向している。また1970年以降,白豪主義の撤廃もあり,多民族化・多文化社会化が進んでいる。1980年代以降は,日本を含むアジア諸国との経済・貿易関係の強化に転じ,さらに91年,労働党は連邦成立100周年にあたる2001年を期して,「共和制に移行」する決議を行った。1999年,これに関する国民投票が行われたが,提示された大統領制度に関して国民の不満があり,移行案は過半数を獲得できなかった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オーストラリア」の解説

オーストラリア
Australia

イギリス連邦内の独立国。先住民のアボリジニは約6万年前に東南アジア方面から移住してきたとされている。1770年クック(ジェームズ)がこの大陸の東岸に上陸して,ニュー・サウス・ウェールズと命名。その後イギリスの流刑植民地となり,19世紀に入って牧羊業が発展,1850年代に金鉱が発見されてから移民が激増した。タスマニア,西オーストラリア,南オーストラリア,ヴィクトリア,クイーンズランドなどの植民地が1901年よりオーストラリア連邦を形成して,イギリス帝国内の一自治領となった。金鉱山の労働者として多数の中国人が流入し,これに対してヨーロッパ人以外の労働者を制限する白豪(はくごう)主義政策がとられた。2度の世界大戦に参戦することにより国家意識が強くなり,51年,ニュージーランドとともにアメリカとのANZUS(アンザス)条約を締結する。70年代以降,経済復興と防衛的観点からアジア系の移民も多数受け入れ,現在では多文化主義を標榜している。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オーストラリア」の解説

オーストラリア

南太平洋のオーストラリア大陸とタスマニア島からなる連邦国家。漢字表記は濠太剌利亜,略称は豪州。1770年イギリス人クックが東部海岸を踏査,イギリスの領有を宣言。当初はおもに流刑植民地であったが,1850年代に金鉱が発見され,人口が急増した。日本からも農・漁業のオーストラリア移民が渡航,アジア系移民と白人との抗争が激化したが,1901年6州がオーストラリア連邦を結成後,白豪主義をとり移民の入国は制限された。日露戦争後,日本の南進を警戒して日豪関係は悪化,第2次大戦では交戦状態に入りニューギニア方面で激戦。戦後は日本の占領・管理にも参加した。51年サンフランシスコ講和条約,57年日豪通商協定に調印。戦前から兼松商店が開いた羊毛貿易のほか,小麦・牛肉や鉄鉱石などの資源輸出国。72年成立の労働党政権が人種差別を廃止。現在は日本との文化・技術交流や観光客も増大している。イギリス連邦加盟国だが,太平洋圏の米・日・東南アジア諸国との結びつきが強まっている。首都キャンベラ。

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世界大百科事典(旧版)内のオーストラリアの言及

【オセアニア】より

…アジア大陸と南・北アメリカ大陸の属島を除いた,太平洋諸島とオーストラリア大陸(属島を含む)とを合わせた範囲をオセアニア(大洋州)と呼ぶ。太平洋の大半を含むのでその範囲は広大であるが,陸地総面積は900万km2にたりず,しかもその86%をオーストラリア大陸だけで占めている。…

【白豪主義】より

…オーストラリアにおける白人優先政策。19世紀半ばからのゴールドラッシュ時の中国人鉱夫流入,19世紀後半のクイーンズランド植民地のサトウキビ農園における太平洋諸島のカナカ族の導入(ブラックバーディングblackbirding)で,白人労働者は警戒心を強め,各植民地単位で中国人やカナカ族の移民制限法を成立させた。…

※「オーストラリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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