疎水性の液状物質を一般に油という。その代表的なものに動植物性油と鉱物性油とがある。前者は長鎖脂肪酸のグリセリンエステルすなわちトリグリセリドを主成分とし,後者は炭化水素が主成分であるというように,その化学的組成はまったく異なる。動植物性油については油脂という名称も用いられるが,この場合,常温で液体のものを油oil,固体のものを脂fatと区別する。油脂は生物組織の構成成分として,またエネルギー源として,タンパク質や炭水化物とともに重要な成分である。動物性油脂と植物性油脂は,グリセリドを主成分として本質的な差異はないが,微量成分,不純物などに差がある。また植物性油脂は一般に動物性油脂より融点が低い。動物性油脂は原料によって陸産動物油脂と水産動物油脂とに大別される。魚油を代表とする水産動物油脂の大部分は,不飽和脂肪酸が多く,液状で特異臭を有するが,産量が多いので硬化油原料として用いられる。これに対して陸産動物油脂の大部分は脂肪で,飽和度が高く,牛脂(ヘット),豚脂(ラード)のように固体であり,これらは食用のほかに工業用および医薬用に用いられる。植物性油脂は,脂肪酸の飽和度にしたがい,乾性油,半乾性油,不乾性油に分けられる。鉱物性油は,その大部分が炭化水素で,鎖構造を有するパラフィン系と環状構造を有するナフテン系に分けられ,石油から精製して揮発油,灯油,重油などが得られる。その大部分は動力用燃料に用いられ,そのほか工業用,薬品原料,溶剤にも用いられる。近年これら天然物油脂のほかに,シリコーン油など特異な物性をもつ各種の油状物質が合成され,利用されている。
→油脂
執筆者:内田 安三
文化史
人類がはじめて利用した油脂は狩猟・漁労によって得られた動物性の油脂であろう。そして,現在の採集狩猟民に見られるように,好んで食される食物として利用されていたと思われる。しかし,やがて食用だけでなく灯火用へと動物性油脂は転用される。ラスコーやラ・ムートの旧石器時代の洞穴で石製のランプが発見されており,その時代にはすでに油脂が灯火として用いられていたことを示す。また,寒冷地においては防寒用に,さらに儀礼の際の身体装飾用に油脂を体に塗ることもかなり早い時期から始まっていたであろう。
動物性の油脂を大量に使用するようになるのは家畜の出現を待たねばならない。クジラやアザラシなどの海獣を除くと,野生の動物は一般に油脂成分が少ないが,家畜化されると急速に脂肪がつき始める。ブタはその典型的なものであり,さらには脂肪採集用に特殊化された脂肪尾羊(中東ではこの尾の脂肪を料理に用いている)と呼ばれるヒツジまで出現するようになる。一方,家畜を獲得したということは,その動物からとれる乳をも手に入れたということである。そしてその乳は獣脂よりも重要な油脂源となる。現在,遊牧民の間ではさまざまの乳製品の加工技術が見られるが,いずれの民族においても乳からバターあるいはバター・オイルをつくっている。このような技術は人類が家畜を入手した後のかなり早い時期にすでに開発されていたと思われる。ただし,バターあるいはバター・オイルは食用とは限らない。インドやチベットではむしろ寺院などの献灯としての方が重要である。
近代製油産業が起こる以前における油脂の世界的分布をみてみると,北アジアから中東,アフリカにかけての遊牧民の地域,ヨーロッパやインドの牧畜民の地域では油脂源として乳が重要であった。一方,熱帯アフリカ,東南アジア,東アジアなどでは植物性油脂が重要であり,採集狩猟民の間では油脂の形ではほとんど用いられていなかった。
植物性油脂の利用のひとつの中心はアフリカにある。その代表的な植物はゴマであり,アフリカのサバンナ地帯で改良され,前1300年ごろにはエジプトで栽培されていた。そして前1000年ごろにはすでにインドに伝えられていた。ゴマの種子は50%もの油脂成分を含むすぐれた油料植物であるが,これから実際に油をとることはさほど簡単なことではない。ゴマ油は少しいった後に圧搾されて油が採集される。しかし多くの場合,いった後にすりつぶして用いる。この方が油脂成分だけでなくタンパク質もいっしょにとれるため食用としては効率がよい。西アフリカの熱帯雨林地帯を起源とするアブラヤシは,果肉部にも油脂分を含む珍しい植物で,原住民は足で踏んだり,煮て上に浮かぶ油を採集している。この植物は単位面積あたりの油脂成分の生産量がずばぬけて高いゆえに,現在では東南アジア一帯で広く商業的に栽培されている。西アフリカにはアブラヤシ以外に,その地の外には出なかったシアーバターノキと呼ばれる有望な油料植物がある。種子から融点38℃のバターのような油脂が採集される。その他,日本では下剤として知られるヒマシ油の原料であるヒマや,キク科のニガーシードNiger seedなどもアフリカで改良された油料植物である。
地中海地方ではオリーブが重要である。古代エジプト人は多くの油を使用したが,オリーブ油はヒマシ油と同様に下層民の水浴後の身体塗装用の油であった。上流の人々はゴマ油を用いていた。オリーブ油が食用として用いられるようになったのはヨーロッパに伝えられてからである。また,この地方で改良されたものには,アマとアブラナ類がある。特に後者はインド,東アジアに伝えられて重要な油料植物となる。
インドから東南アジア,太平洋諸島にかけてココヤシが重要である。ヤシ油はココヤシの胚乳部からつくられるが,むしろその一歩手前のココナッツ・ミルクのほうが食用には一般的である。またこの地域ではトウダイグサ科のククイノキ(キャンドル・ナッツ)から油脂が採集され,灯火用に用いられていた。中国ではダイズ,エゴマ,油茶(アブラツバキ),アブラギリなどの品種改良が進んでいたが,多くは灯火用あるいは雨具用の油として用いられ,食用としては豚脂が重要であった。また,最近になって油瓜と呼ばれる植物が発見され,栽培化が進んでいる。カボチャほどの大きさの果実にアヒルの卵ほどの種子が6~8個入っており,その種子は70~80%の油脂成分を含む優れた油料植物である。なお,アメリカ大陸ではほとんど油脂は用いられていなかった。わずかに,野生の動物,あるいはラマ,アルパカなどからの獣脂が灯火用,薬用などに用いられていたにすぎない。
近代になってから,セッケンや食用油などの需要の増加に伴い,さまざまの新しい油料植物が登場する。原理的には種子を大量に集めることができるなら,どのような種子でも油採集は可能である。実際には一種の副産物として新しい油料植物が現れる。たとえば,ワタの副産物である綿実油や米の副産物である米ぬか油,さらにはトウモロコシからのコーン・オイル,カポックからのカポック油など,いずれもこれまでは油料植物として利用されていなかった植物である。
執筆者:吉田 集而
日本における油の経済史
日本では古くから食用や照明用に,魚油・木実油(イヌガヤの実)・ゴマ・エゴマなどが用いられてきた。とくに中世には,灯火用として社寺や公家が使用したため重要な商品となった。当時,油を製造・販売した組織が油座で,社寺を本所として灯油を献上するなどの奉仕のかわりにその保護をうけ,特権を与えられた神人(じにん)(油神人)の身分をもつ者がおもであった。なかでも石清水八幡宮の保護をうけた山城国大山崎(離宮八幡宮)の油座は,とくに鎌倉時代末から室町時代に,京都を中心とした畿内近国や瀬戸内沿岸にかけて,エゴマの仕入れ・製造・販売の独占権や諸国諸関の関銭免除の特権を握って活躍し,大和では興福寺大乗院を本所とする符坂油座が勢力をふるった。
→油倉 →油座
執筆者:小西 瑞恵 しかし中世末には,これらの油座は特権を失い,大坂・堺の油商人に圧倒された。そのころ原料もエゴマ・ゴマからナタネへと重心が移り,さらに綿実(わたざね)も登場して,ナタネから絞った水油と綿実から絞った白油が近世の油の主流となった。江戸・大坂の需要に応ずる近世の絞油業は,まず大坂長堀川に臨む船場・島之内と天満を中心に展開し,また1705年(宝永2)摂津平野郷には綿実絞油屋が28軒を数えた。14年(正徳4)に大坂へ積み登された商品中,価額の大きいものとして米に次いでナタネ(登せ高15万1000石,銀28万貫)があり,また大坂より諸国へ積み下した商品の筆頭は水油であった。これをみても油が重要な生活必需品となっていたことがわかる。大坂・堺・平野郷の絞油業は数は多いが人力による小規模なものであった。それに迫るものとして,18世紀前期,西摂津灘目に搾油能力の大きい水車絞油業が急速に台頭した。水車油稼専業の村〈水車新田〉もできている。油の生産工程は,まず干した種物を炒鍋(いりなべ)でいる。それを水車の動力を利用した胴突き,もしくは人力によって臼を踏み,粉にする。次にせいろうに入れて蒸したうえ,袋に詰め,重しをかけて油を絞った。
油は食用,灯用に供されたが,江戸・大坂で油切れがおこり,あるいは小売値が騰貴することは都市の治安にも関することであったので,油に対する幕府の統制は他の商品よりもきびしかった。その統制のために諸国から上方に登される種物・油を独占的に買い入れる大坂の問屋機構がつくられた。18世紀初めには,まだ大坂廻着の種物に限られていた大坂株仲間の独占の手は,1743年(寛保3)令でさらに灘目の絞油業にまで伸ばされていく。灘目が他国から種物を買うこと,および灘目で絞った油を江戸へ直積みすることが禁じられ,灘目の絞油屋を圧倒して大坂の独占権が拡大されたのである。こうして61年(宝暦11)までに大坂両種物問屋30軒(菜種問屋20軒,綿実問屋10軒),出油屋13軒の指定がなされ,諸国積登せ種物・油の取扱い独占が確立した。また出油屋に出された諸国の油と大坂・灘目で絞った油はすべて大坂両油問屋(江戸口・京口)の手で江戸積み(江戸・東海道),京積み(大坂とその周辺・京)する流通機構も整った。その後さらに66年(明和3)に,在々絞油屋の全面禁止がなされる。灘目の絞油屋の営業自体も否定され,一段と大坂絞油屋の独占権の強化が進められたのである。しかし70年には灘目の絞油屋や西摂の菜種作農民らの反対に抗しきれず,幕府は摂津・河内・和泉の絞油屋の株仲間加入を認めた。ここに水車新田20株,兵庫・灘目61株の水車油稼を初めとする株立てがなされ,大坂の人力両絞油屋280株をしのぐ搾油力の存在が公認された。ついで73年(安永2)には山城・大和・近江・丹波の絞油稼の株仲間加入が認められた。しかしこのことは,大坂中心の特権的流通機構の中に周辺勢力を組み込み,絞った油をすべて大坂油問屋が独占的に掌握する体制を拡充することにほかならなかった。
しかし,やがてこのような幕府による統制強化をよそに,諸国では無株絞油屋の種物買入れや油稼が盛んとなり,ナタネの専売や藩営絞油業を始める藩も現れて,大坂ならびにその周辺への諸国種物の廻着量は天明(1780年代)ころから目にみえて減少した。すでに種物・油の廻着量が減じていた1817-26年(文化14-文政9)段階の流通状況をみると,大坂油問屋が扱う油は年平均6万2000石。その9割近くが大坂および摂・河・泉で絞ったもの,あとの1割弱が国々からの出油であった。諸国からの出油の減少は幕府が全国的流通を掌握する力を失ったことを示す。大坂油問屋集荷の油は4割が江戸へ,3割が大坂市中へ出された。京都へは主として山城・丹波・近江等から供給されたので,大坂からの出荷は少なかった。廻着量の減少に弱った幕府は32年(天保3)の油方仕法の改正で方針を大転換し,地方での油絞りを認め,むしろそれを奨励して油の廻着増をはからねばならなくなる。ここに幕府-株仲間の独占体制は41年の株仲間解散を待たずしてくずれた。なお,天保ころには江戸地回り油の生産・流通も伸びたが,せいぜい江戸市場の2,3割程度を占めるにとどまったようで,横浜開港後はむしろ輸出に回されることになった。明治期に入って海外よりの石油の輸入により,ナタネ・綿実をもってする絞油業はしだいに衰退に向かった。
→油売 →油かす →油問屋
執筆者:八木 哲浩
油と宗教儀礼
油のもつ清浄作用は,その神秘的な効果のゆえに,世界各地の民族によって古くからさまざまな儀礼や呪術と結合し,聖別の観念を象徴する〈塗(注)油anointment〉として発展してきた。たとえば,キリスト教(カトリック,ギリシア正教,コプト教)における花嫁,花婿,妊産婦,新生児に対する塗油,そのほか戦士や病者や死者への塗油など,いずれも油のもついちじるしい呪術的効果が,儀礼にとって不可欠の媒体と信じられた結果である。とりわけ,恐るべき病気の原因とみなされた悪霊やけがれの祓や除去に対して,油は神秘的な効力を発揮すると確信され,司祭によって特別に使用された。古代イスラエルにおいては,神への供犠も,塗油によって聖別されねばならないとみなされた。王の即位式にみられる塗油は,こうした観念の表出である。メシアは,〈神によって注油された者〉を意味していた。受難を目前にしたイエスに,ひとりの女が高価なナルドnardの香油を注いだという美しい信仰の物語(《マルコによる福音書》14:3以下)も,この系譜に属している。
執筆者:山形 孝夫