デジタル大辞泉 「郷」の意味・読み・例文・類語
ごう〔ガウ〕【郷】
2 律令制における地方行政区画の最下位の単位「
[類語]田舎・在・
きょう【郷】[漢字項目]
[学習漢字]6年
〈キョウ〉
1 村里。いなか。「
2 ふるさと。「郷関・郷国・郷土・郷里/家郷・懐郷・帰郷・同郷・望郷」
3 ところ。土地。「異郷・故郷・水郷・仙郷・桃源郷・理想郷」
〈ゴウ〉村里。「郷士/近郷・在郷・本郷」
[名のり]あき・あきら・のり
[難読]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
古代律令制下の地方行政組織の一つ。令制では全国を国・郡・里の3段階の行政組織に編成し,50戸を1里として里長を置いたが,715年(霊亀1)郷里(ごうり)制の施行により,この里・里長は郷・郷長と改称された。ただし,郷・里ともに〈サト〉と読まれ,その変化は文字の上のことにすぎない。その後739年(天平11)末から翌年初めにかけてのころに郷里制は郷制へと改められ,以後郷を末端とする地方行政組織が固定して中世に及んだ。この郷(里)は,課役の徴収や兵士の差発・編成など,あくまで律令制支配の必要上設定された行政村落制度であって,2~3の自然集落(村)をほぼ無理なく包摂する形で50戸単位に編戸したものである。日本の場合,唐制(〈郷里(きようり)制〉の項を参照)とは異なり,これと並行して村に一定の公法上の位置を与えることは行われなかった。律令時代の全国の郷数としては,《律書残篇》に4012とみえ,《和名抄》にも約4000の郷名があげられている。
執筆者:鎌田 元一
奈良時代に令制にのっとって設定された,郡の下に立つ公領行政の単位としての郷は,その後平安時代中期までに諸国いちように一定の変化を遂げた。平安中期に到達した諸国諸郷の全容は《和名抄》国郡部の記載によって詳細に知ることができるが,この和名抄郷名は,以後中世にかけて大部分の国でほとんど変化することなく連続して存続する。平安後期に令制以来の郡固有の行政機能が分割ないし消滅するにともない,消滅したかなりの国々では,《和名抄》以来の郷が郡にかわって国衙に直接把握される公領単位となった。しかし,他方郡が分割された国々では,郷は存続しても郡の付属物にすぎず,また諸国一様に郡・郷改編と並行して院・別名(べちみよう)・別保など種々の単位が国衙直属の行政単位として登場するようになったから,郷は依然公領の不可欠の行政単位にはほかならなかったが,平安中期以前のように,諸国の公領が一律に郷から構成されるというような状態はなくなった。
以上は中世公領における郷であるが,平安後期以降荘園が,この公郷を多数含む広大な所領として設定されたケースでは,この郷名は荘園内単位所領の名称としてとどまることが多く,またこれが媒介となって,以上の経緯のない荘園や所領にも内部の単位所領名として郷が用いられることも少なくなかった。さらに室町時代以降になると国衙公領制度自体が消滅するから,公郷は公領の単位としての意味をもたなくなるが,そこでも郷名は新しく編成された行政・所領の単位名として存続することがまれでなかった。室町時代から戦国時代にかけて,以上の経緯の有無にかかわりなく自治村落の性格をもった村落(惣村)や領主の新しい編成単位としての所領が登場するとき,それらは郷をもって呼ばれることが多かったが,それは,中世においても上述のように郷がもっとも広範に用いられた公的行政・所領単位であったからであろう。したがって,中世の郷は,古代律令制下の郷ほど全域的・画一的なものでなく,また実態的に多様なものであるにせよ,中世を通し公的行政・所領単位の基本的指称であったといってよい。
執筆者:義江 彰夫
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古代の地方行政組織の単位。大宝令の施行により開始された国郡里制では50戸を1里として編成したが,律令国家の地方支配の強化のため,717年の霊亀3年式(旧説の霊亀元年は3年の誤りか)によって,それまでの里を郷と改称し,その下にさらに里を設置した郷里制がしかれた。郷は50戸から編成され,郷内から郷長1人が任じられたが,現実の自然村落とは無関係な行政上の単位であった。郷里制は740年(天平12)頃廃止されて地方組織は国―郡―郷となり,律令国家の地方統治の基本単位は郷となった。しかし10世紀以後,地方社会の変動にともない郷はすたれて荘園公領制へと移行し,たんに公領の一定地域をさすようになった。
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…とくに農耕儀礼と結びついた共同体の祭礼では,尸(よりまし)に憑依(ひようい)して飲食の場に祖先神が降臨し,共同体の首長の長寿をことほぎ,農作物の豊作を保証するのである。ちなみに地域的な共同体をいう〈郷(きよう)〉の字も,元来はと書かれて,食物をはさみ2人の人物が相対して座る形を象(かたちど)ったもので,そうした共同体を成り立たせるため共同の飲食という儀式が大きな働きをしていたことを示唆する。 後漢時代の画像石(画像磚)には,墓の主人公の生涯の中でもとくに華々しい場面や楽しかった場面が描かれているのであるが,そこに盛大な宴会が描かれることも少なくない。…
…すなわち戦国以来栄えてきた全国規模の商人は姿を消し,以後は自給自足を目ざす荘園主たちの生産した商品が荘園主を通して流通する規模の小さなものとなった。しかもこの傾向は,儒教の普及にともなって郷村における自給自足の平和な農村経済が賛美され,重農主義が強調されるようになったことにも対応するものであった。しかし商人の地主化は,土地問題をひきおこし,漢の郷里制社会を崩壊せしめる誘因になったばかりか,ひいては漢帝国を滅亡に追いこむことになったのである。…
…漢代では地方を郡県に分けたが,その県の下には古来からの邑の伝統をもつ多くの自然集落が包含された。集落はいずれも城郭で囲まれ,その一つ一つが亭であり,10亭ちかく集まると,その最大のものが郷=都亭となり,他の亭を従えた。そしていくつかの郷が集まると,その最大のものが県=都郷となり,他の郷を従えた。…
… 以上のような困難な償却条件に加えて,共同体的秩序が存置され,強化されたことが注目されなければならない。在来の農村共同体を基礎として村団sel’skoe obshchestvoが,そしていくつかの村団から郷volost’が組織され,村団には経済的機能が,郷には行政的機能が付された。連帯責任制,均等土地利用が維持されたほか,従来の領主権のうち徴税,徴兵,裁判といった権限が共同体にゆだねられた。…
… 首都での革命の知らせは全国に衝撃を与え,この二つの革命は全国に拡大したが,それと同時に,この革命の受益者として,農民と被圧迫民族とが,つくりだされた自由の空間の中で革命に立ち上がることになった。農民は共同体単位で行動をおこし,郷(ボーロスチ。郡と村の間の行政単位)のレベルに委員会をつくった。…
…平安中・後期以降中世にみられる地方官。律令制下の郷(もと里)には郷長(もと里長)がおかれていたが,律令制の弛緩にともなってその地位はしだいに低下し,10世紀にはほとんど消滅した。これにかわって登場してくるのが郷司であるといっても大過はないが,当時郷と呼ばれたものの実態はさまざまなので,その系譜や規模を考慮し,郷司もさしあたり三つの類型に分けてみる必要がある。…
…律令制における地方統治制度。京師以外の地方諸国を国・郡(大宝律令以前は評)・里の行政組織をもって統治し,1里を50戸で構成する制度は,遅くとも浄御原令施行のころにはすでに実施されていたが,715年(霊亀1)の式により,従来の里を郷と改め,その郷の下部単位として新しく1郷に2~3の里を設け,郷には郷長,里には里正を任ずることとした。これを郷里制とよぶ。…
… 実際,中世においても東国と西国の社会には明瞭な差異が認められる。東国も西国と同じ土地制度,荘園公領制の上に立ってはいるが,その単位は郡を基本とし,《和名類聚抄》に載る古代の郷が消滅したあとに成立した新たな郷がその下部単位をなし,名(みよう)は著しく未発達で,在家(ざいけ)が田畠とともに収取単位となっている。おのずと郡そのものが荘園になる場合が多く,荘の規模はきわめて大きい。…
…薩摩藩の行政制度。薩摩藩は藩主居城の鶴丸(鹿児島)城のほかに,領内を113の区画に割って,これを外城(普通には郷という)と呼んでいた。4人に1人は武士という過大人口の武士を扶持するために屯田兵制度をとったのであり,1615年(元和1)の一国一城令があるから,外城といっても城郭があるわけではなく,旧城跡の山麓かまたは城跡と無関係の平地に麓集落をつくっていた。…
※「郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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