地中海のほぼ中央に長靴状に突き出たイタリア半島を主体とし、サルデーニャ島とシチリア島の二つの大きな島からなる共和国。正式名称はイタリア共和国Repubblica Italiana。英語ではイタリーRepublic of Italyという。域内にはバチカン市国(0.44平方キロメートル)とサン・マリノ共和国(60.57平方キロメートル)の二つの小さな国が存在する。北端は、北緯47度5分29秒、トレンティーノ・アルト・アディジェ州アウリナ谷を望むベッタ・ディターリア山の西、ジェメッラ峰(2387メートル)。南端は、北緯35度29分26秒、ランペドゥーザ島のペッシェ・スパーダ岬。面積30万1318平方キロメートル、人口5699万5744(2001センサス)、5894万1000(2006推計)。首都はローマ。フランス(国境線513キロメートル)、スイス(同718キロメートル)、オーストリア(同415キロメートル)、スロベニア(同218キロメートル)と国境を接する。大陸との付け根の部分で東西にアルプス山脈が走り、半島部では南北に走るアペニン山脈がその背骨をなしている。
[藤澤房俊]
緑、白、赤の三色旗は、フランス革命の影響を受けて、1797年1月北イタリアのレッジョ・ネレミリアで最初に使用され、1848年3月サルデーニャ国王カルロ・アルベルトによって国旗として採用された。1861年のイタリア王国成立に際して、中央の白地にサボイア家の王冠が付け加えられたが、1946年の共和国成立の際に王冠は取り除かれた。国歌は、19世紀のイタリア独立・統一運動、すなわちリソルジメントの中期に、愛国者ゴッフレード・マメリGoffredo Mamèli(1827―1849)が作詞した「イタリアの同胞」にミケーレ・ノバーロMichele Novaro(1822―1885)が曲をつけたものである。1946年からイタリア共和国の正式の国歌となった。
[藤澤房俊]
イタリアという名の由来には定説はない。一般的な説として、紀元前6世紀ごろに南イタリアのカラブリア地方で子ウシ(ビタリ)をトーテム像として崇拝していた原住民に由来するといわれる。彼らはビタリ人とよばれていたが、その後ビタリがイタリアに変化し、その呼称がローマ人に受け継がれ、現在のイタリア半島に住む人々をさすようになった。中世に「イタリア伯爵領」「イタリア侯爵領」とよばれるものが存在したが、それは統一的国家をなすものではなかった。政治的に統一された国家として最初にイタリアの名が使用されたのは、ナポレオン支配時代のイタリア共和国(1803)のことであり、それが改編されてイタリア王国(1805~1814)となった。1861年のサボイア家による統一によって、ほぼ現在の地理的範囲をもつイタリア国が成立した。
[藤澤房俊]
地中海に位置するイタリアは、ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸を結ぶ地理的条件を生かし、歴史的にも重要な地域として存在し続けた。古代には、ローマ人が地中海を足場にアフリカやアジアへとその領土を拡大した。中世には、東洋と西洋の中継地として沿海都市は大いに繁栄し、ベネチアやジェノバのように海を生命とする共和国が繁栄し、輝かしい文明を生み出した。大航海時代には地中海が交易活動の中心から外れたことで、イタリアも衰退の道をたどることになる。1869年のスエズ運河の開通後、しだいに地中海は東西を結ぶ要所として復活し、イタリアもこの新しい状況のなかでふたたび活気を呈するようになる。このように、イタリアは地中海に位置するという地理的環境に著しく条件づけられた歴史的、文化的発展をみたといえる。ただ、イタリアの北部と南部の間には、異なる歴史的過程を経たことで、人種的、文化的、社会的、経済的に著しい格差が存在する。他のヨーロッパ諸国に比べて、遅れて近代国家として出発したイタリアにあって、この格差を埋めることが重要な課題の一つとなった。このことは、いまなお解決されなければならないイタリアの重要な問題でもある。
[藤澤房俊]
イタリアは、ヨーロッパのなかでその脊梁(せきりょう)をなすアルプス山脈から北西―南東方向に延びる半島部と、シチリア、サルデーニャの2島とからなり、地中海の中央部を占めるその位置により明瞭(めいりょう)な自然的単位をなしている。アルプス山脈、アドリア海、イオニア海およびリグリア海を含むティレニア海がその自然的境界をなしているのであるが、スイスのティチーノ州、スロベニアおよびクロアチアのイストリア半島、フランスのコルシカ島は、このような自然的境界内にあるがイタリア領ではない。
[竹内啓一]
イタリアの地質構造はアフロ・ユーラシア大陸の大部分と比較して若く、ほとんどの部分が中生代と新生代のものからなり、それ以前に形成された岩石は、アルプスの高峰を除いては、カラブリア、シチリア北東部、サルデーニャの一部にみられるにすぎない。
イタリアの地形のおおよその輪郭ができあがったのも、地質年代からみれば比較的新しく、アルプス造山運動以降の第三紀である。第三紀を通じて、海底における堆積(たいせき)がなされていたのであって、北部アペニンでは、砂質、粘土質のこの時代の堆積物もみられるが、中部以南のアペニン、シチリア山地では、石灰質の堆積物を主としている。モンブラン、マッターホルン(イタリア名チェルビーノ)をはじめとするアルプス造山運動によって、古い結晶質岩石が、不変成の地向斜堆積物を押し分けて表面に出て、イタリア・アルプスの高峰を形づくったが、アペニンの山地は、鮮新世末期にも激しい褶曲(しゅうきょく)・断層運動を受けて、現在の形をつくった。このため、アペニン山脈では、鮮新世の石灰岩層が1000メートル以上の高度にみられる。このアペニン山脈は、アルプス山脈の南端でこれに接し、東へ凸の形で南北に延びている。この二つの山地の間の低地は、その南の部分がアドリア海をなし、北西部は、ポー川水系の氷河および河川によって運ばれた沖積土に覆われたパダナ(ポー川流域)平野となっている。アルプスの山麓(さんろく)には氷河によってつくられたマッジョーレ湖、コモ湖、ガルダ湖などの氷河湖があり、モレーン(氷堆石(ひょうたいせき))をはじめとする氷河性堆積物が並んでいる。パダナ平野がアドリア海に面する部分の海岸線は、地盤運動と堆積作用の影響を受けて変わりやすく、歴史時代にもかなり変化した。また、ラグーン(潟湖(せきこ))の形成も多く、かつてのラベンナ、現在も残っているベネチアなどは、このようなラグーンを利用した港町である。
北部アペニンには2000メートルを超す高峰は少なく、その主軸は西北西―東南東方向に、すなわちリグリア海寄りからアドリア海寄りに向かっている。中部および南部アペニンに共通して、アドリア海側の谷はアペニンの方向を垂直に切る形をとっているが、ティレニア海側では何列かの支脈があって複雑な形の盆地がいくつか形成されている。アペニン山脈は、中央部で険しく、最高峰はアブルッツィのモンテ・コルノ(2914メートル)である。石灰質の岩石を主とするアペニン山脈は、至る所に鍾乳洞(しょうにゅうどう)や陥没性の小盆地などのカルスト地形をみせている。乾燥した気候と相まって、一般に、はげ山が多いが、他方、伏流した水が湧出(ゆうしゅつ)する石灰岩地帯の末端や低地には、湿地帯が広がっている。19世紀までは、このような湿地帯においてマラリアが暴威を振るい、そのためもあって、集落は丘上に密集する場合が多い。
[竹内啓一]
第三紀にイタリアにおいて活発な火山活動があったことは、各地における火成岩の広範な分布をみてもわかるが、これらの大部分は、エトナ火山を除いて、現在は火山活動を休止している。第四紀に入ると、ティレニア海側に沿った半島の各地およびリパリ諸島で、火山活動が始まった。このなかでも、トスカナ南部の火山、ラツィオ北部の火山はもっとも古く、現在は活動をやめているが、アルバーノ山地、ベスビオ火山、イスキア島、リパリ諸島などの火山は、活動を開始した時期が比較的新しく、ベスビオ火山、ストロンボリ火山などは現在も盛んに活動している。
イタリアはヨーロッパのなかで地震の多い国であるが、その大部分は震源地が比較的浅い。したがって、広い範囲に被害が及ぶことはないが、震源地近くの集落は壊滅的な打撃を受ける。歴史時代における記録をみると、半島中部および南部の山地およびシチリア東部において、地震の頻度が高い。
[竹内啓一]
巨大な地向斜であるパダナ平野の中央を流れるポー川は、イタリア・アルプスから流れ出る河川のほとんどを集め、全長は700キロメートル近く、水運にもかなり利用されている。ポー川を除いて大きな河川はなく、とくにアドリア海側の河川は海岸線に直角に海に注ぎ、流路も短い。アルノ川、テベレ川などは河川としては大きなものではないが、海岸線に並行するアペニン山脈の間の谷を縫って、流路は複雑である。内陸湖としてはアルプス山麓に並ぶ氷河湖のほか、中部イタリアにはボルセーナ湖、ブラッチアーノ湖、アルバーノ湖など、火山起源のカルデラ湖が多い。
[竹内啓一]
イタリアはその大部分が、夏に乾燥する地中海性気候の支配下にある。一般に5月から8月にかけては、亜熱帯高圧帯の支配下に入って乾期となり、10月から翌年1月にかけては、寒帯前線が停滞しやすく、この前線沿いに東進する移動性低気圧が雨をもたらす。中部と南部とでは、冬の降水量は夏の5~6倍から10倍に達するのが普通である。降水量の年ごとの変動は大きいが、平均すれば平地では年間1000ミリメートル以下である。同じイタリアといっても、北イタリアにおいては、冬の気温が低く、また雨期も春秋にむしろ偏り、中央ヨーロッパの気候に似てくる。とくにパダナ平野からアドリア海沿岸にかけての地域は、冬には、バルカン半島から吹き下ろしてくるボラとよばれる局地風の影響を受けて、非常な低温を記録する。局地風として有名なのは、アフリカで発生した低気圧に伴う南風(シロッコ)で、雨や砂塵(さじん)を含み、気温が数度上昇する。イタリア半島の中央部に位置する首都ローマの年平均気温は15.6℃。最高は8月の24.0℃、最低は1月の8.4℃である。年降水量は716.9ミリメートルとなっている。
イタリアの植生は大きく分けると地中海式タイプ、山地タイプ、アルプス・タイプの三つに分けられる。地中海式植生の構成要素には、温帯海洋性気候のものと半乾燥気候のものとがあり、カシワ類などの常緑広葉樹とアレッポマツなどのマツ科の植物が広くみられる。山地タイプの植生は、ブナ、クリなどの落葉性広葉樹およびモミなどの針葉樹によって代表され、北部では標高300メートル以上、南部では750メートル以上の地帯にみられる。現在でははげ山になっているが、先史時代にはこの種の植生はもっと発達していて、多くの山地を覆っていたことが花粉分析の結果わかる。高山マツを主とするアルプス・タイプの植生は、アペニン山脈ではその分布が2500メートルを超す高山部に限られている。
作物として重要なのは、地中海式植生の地帯におけるオリーブであり、ブドウは地中海式植生の地帯のみでなく、山地タイプの植生地帯でも栽培されている。灌漑(かんがい)地や湿地では、ポプラがパルプ材として栽培されている。
[竹内啓一]
イタリアを主要な自然地域に分けると、アルプス地帯、前アルプスおよび湖水地帯、ポー川流域およびベネト平野地帯、北部アペニン地帯、中部アペニン地帯、アドリア海側地帯、ティレニア海側地帯、南部アペニン地帯、シチリア、サルデーニャの10の地帯に分けられる。自然の特徴のみでなく、歴史的背景および経済活動の特色から、大きく北部、中部、南部に分けられることもある。20の州のうちトスカナ、マルケ、ウンブリア、ラツィオの4州が中部イタリアとみなされ、その北の8州が北部、南部半島部の6州とシチリアおよびサルデーニャとからなる8州が南部である。イタリアを大きく南と北に分ける場合には、中部イタリアを北に含める場合が多いが、ラツィオの一部はその自然および社会的特徴からみれば南イタリア的である。第二次世界大戦後の共和国憲法において大幅な自治が認められるようになった20の州についての記述は、それぞれの項目があるのでそこに譲り、ここでは主要な地域をいくつか取り上げて、それらの特色を述べることにする。
[竹内啓一]
ピエモンテは、「山麓(さんろく)」の意で、その名前のとおりピエモンテ州はアルプスの山麓に位置し、全体がポー川の流域を形づくっている。中心都市トリノはもともとサルデーニャ王国の首都としてイタリア統一運動の中心地であった。19世紀末にここに創設されたフィアット社がその後発展し、現在トリノは自動車工業をはじめとする諸工業の中心地にもなっている。ノバーラ県を中心とするポー川流域の平野部は、米作と酪農とからなるイタリアでもっとも豊かな農業地帯の一つである。山麓部ではブドウが栽培され、いくつかのぶどう酒の銘柄を産する。
ピエモンテ州の北西の隅を占める形になっているのがバッレ・ダオスタ州で、ポー川の支流ドーラ川の上流域をなし、モンブラン、マッターホルン、グラン・パラディーゾなどの高峰に囲まれている。中心地アオスタは紀元前25年ローマ人によって建設されたアウグスタ・プレトリアに起源がある。グラン・サン・ベルナール峠、プチ・サン・ベルナール峠などのアルプス越えの交通路にあたるので、古来戦略的な要衝をなしてきた。モンブラン・トンネル、グラン・サン・ベルナール・トンネルが開通した現在、バッレ・ダオスタは北西ヨーロッパ諸国とイタリアとを結ぶ幹線自動車道の通る所となった。住民の大部分はフランス語に近い方言を用いているので、この州ではイタリア語と並んでフランス語も公用語として認められている。
[竹内啓一]
歴史的にみればジェノバ共和国の領域であった所であり、現在でもアペニン山脈のリグリア海側としてジェノバを中心としたまとまりを示し、山がちの州である。ジェノバ、サボーナなどの港湾都市には商工業が栄え、とくにジェノバはイタリア最大の商港である。また海岸部は、イタリア・リビエラをなし、観光保養地として名高い。土地はけっして豊かではないが、ビニルハウスにおける花卉(かき)栽培など集約的な農業がなされている。
[竹内啓一]
イタリア最大の河川ポー川は、アルプスとアペニン両山脈の間の地向斜に広大な平野を形づくり、現在でもトリノまでは水運に利用されており、歴史的にみれば水路としての役割は非常に大きかった。しかし、この広大な平野を政治的、経済的に統合する役割はあまり果たさなかった。中・下流の大部分が州境になっていることからも、このことがわかる。左岸の平野部は、ロンバルディア、ベネトの2州からなり、ピエモンテの平野部から連続する豊かな農業地帯をなしている。アルプス山麓の複合扇状地の末端、標高110~130メートルの所に湧水(ゆうすい)線があり、これより低い部分は、水田と冠水灌漑(かんがい)による牧草栽培が行われている。ポー川中流の左岸平野部は、ジェノバ、トリノ、ミラノを結ぶ工業の三角形地帯の東の部分に相当し、イタリア工業地帯の中枢をなしている。実質的にはミラノからベネチアまで軸状に工業地帯が形成されているし、ミラノは、コモ、ベルガモまでをも含んだ大都市圏の中心である。
ベネチアは、ラグーンに浮かぶ小島を結び付けてできた町で、歴史的にみれば、東地中海に大きな勢力をもっていた共和国の中心であるが、イタリアの大陸部にもその領域をもっていた。現在のベネト州およびフリウリ・ベネチア・ジュリア州がほぼその範囲に相当する。ベネチアは、水の都として知られる観光都市であり地盤沈下や海面上昇による水没の問題を抱えているが、活発な商港でもあり、また対岸のメストレを中心にして、臨海性の重化学工業が発達している。
[竹内啓一]
中部イタリア諸州のうち、この3州はいくつかの共通の性格をもっており、ラツィオが南イタリア的な性格をかなりもっているのに対して、もっとも中部イタリア的な地帯であるということができよう。歴史的にみれば、都市の経済的、政治的力によって、都市と周辺農村部が領域を形づくるという地域構造が典型的にみられた。中世から近代にかけて、農村の開発は都市の土地所有者による折半小作制の普及という形で進められ、ブドウ、オリーブ、穀物などを同一耕地片内で栽培する混合耕作が一般的であった。近年、農業機械の普及のため混合耕作は急速に減少しつつあるが、それまでは、折半小作農の散居と混合耕作とが、これら3州の農村景観を特色づけていたのである。
フィレンツェ、ペルージア、ピサをはじめ多くの都市は、その起源はエトルリア時代あるいはローマ時代にまでさかのぼるが、現在の形態は、中世における経済的繁栄に負っている。いくつかの都市は、古いたたずまいを残したまま現代都市としては停滞しているが、州あるいは県の行政中心になっている都市では、商工業も発展してきている。
[竹内啓一]
中世のローマは、バチカンの門前町にすぎず、やがて教皇国家の首都としてルネサンス、バロック期に町が整備されてきても、それは荒涼としたローマ平原の中に孤立する都市であった。現在、イタリアのほとんどの大都市がその行政区画を越えて大都市圏を形成しているのに対して、ローマは現在でも市域内に農村部を抱えている。しかし、住宅地がかつてのカンパニア・ロマーナ(ローマ農村)とよばれていた粗放な農業地帯にスプロール現象(不規則な広がり)を呈して拡大している。また19世紀までは湿地とヒツジの放牧地であったローマ農村においても、土地改良が行われ、集約的な農業が展開されるようにもなっている。現在国際空港のあるフィウミチーノの海岸部は、ムッソリーニ政権時代の干拓事業によって開かれた地帯であり、さらに南東部の広大なポンティーノ干拓地と同様にファシスト政権の遺産である。
[竹内啓一]
1950年以降、政府による南部開発政策が本格化し、南部の産業構成における第二次産業部門の比重は確かに増大した。しかし、その結果として、南部に本格的な工業地帯がいくつもつくりだされたわけではない。すでに第二次世界大戦前から重化学工業の拠点であったナポリを別にすれば、第二次産業が第二次世界大戦後の開発政策のなかで立地したのは、いわゆる「成長の極」(重点的に工業化を進め、周囲に波及効果を及ぼすよう期待されている中心地)として指定された若干の地帯と、IRI(イリ)(産業復興公社。2000年6月に清算)、ENI(エニ)(炭化水素公社)などの政府の持株会社のコントロールのもとにある企業が設備投資した大規模コンビナートだけである。
北部の工業地帯に匹敵する総合的な工業地帯としては、ナポリを中心とする地帯があるにすぎない。ここには製鉄、化学などのほか、関連産業を多くもつ機械工業が立地し、急激な都市化に対応して建設業も盛んである。カターニアをはじめとする県庁所在地級の都市には、局地的な市場のための加工・組立て工業がいくつか立地するようになっている。
[竹内啓一]
第二次世界大戦後の農業改革は、土地改良による農業生産力発展のための措置を伴うことが原則であったが、現実には、南部の広大な内陸部が2年に一度冬小麦をつくるだけの古代ローマ以来変わらない粗放な土地利用のまま残された。EEC(ヨーロッパ経済共同体)の発足およびイタリア経済の発展に伴って、このような地帯は農業限界地になり、人口が流出して耕作放棄が大量に出現した。1970年代に入って、南部からの人口流出は沈静化したが、これは地方都市の都市化によるもので、過疎地帯の荒廃化は続いている。
[竹内啓一]
すでに19世紀後半から集約的なオリーブや果樹の栽培がなされていたプーリア台地、ナポリを中心とするカンパニア平野部、パレルモ周辺部などのほか、第二次世界大戦後、土地改良事業が成功裏に行われた地帯においては、現在のEU(ヨーロッパ連合)共通農業政策のもとでも、農業が経営として成り立っている。このような恵まれた地帯は大部分が海岸沿いの地帯か、さもなければ河川に沿った灌漑(かんがい)地であり、面積的にみれば内陸の粗放農業地帯に比べて非常に小さい。
[竹内啓一]
イタリアの歴史的展開は、古代から現代に至るまで、ヨーロッパ史のなかでも重要な意味をもつ。都市国家から出発し、ポエニ戦争以後、地中海世界を制覇するローマ帝国。12~14世紀のコムーネ(自治都市)の発展と教皇権の全盛。15~16世紀のルネサンス文化の開花。19世紀のリソルジメント(復興)運動による統一国家の達成。1920年代のファシズム国家。このイタリアの歴史的過程を特徴づけるものとして、次の点を指摘できる。地中海に位置し、東西仲介貿易の重要な役割を果たす地理的条件。カトリック教会の総本山であるバチカン市国の存在。アルプス以北の自治都市と異なる広大な周辺領域(コンタード)を有する数多くのコムーネの発展とその伝統。教皇庁の支配と宗教改革の欠如。そして後進地域南部と先進地域北部の格差。これらの要素が他の西欧諸国の歴史とは異なるイタリア独自の歴史展開を促した。しかし、同時にそれらはイタリアの政治的、経済的、社会的、文化的統一を遅らせ、その矛盾がいまだに存続しているといわなければならない。確かに、外国勢力の介入や国家統一の遅れによって、イタリアは近代ヨーロッパ政治のなかで二流の地位に甘んじていた。イタリア史のこのような特質は、基本的にヨーロッパの歴史的変遷と深くかかわっているだけに、ヨーロッパ史におけるイタリア史の重要性が指摘できるのである。
[藤澤房俊]
イタリアでの国民国家の形成、すなわち国家統一は、1861年に北部のサルデーニャ王国が中心となって、これへの南部および中部イタリアの併合という、いわゆる「上からの統一」の形で達成された。このため、1848年にサルデーニャ王カルロ・アルベルトによって制定されたサルデーニャ王国の欽定(きんてい)憲法がそのまま統一イタリア王国の憲法となった。この憲法は他のイタリア諸邦の憲法と同様に、1848年のイタリア解放運動の国民的な盛り上がりと急進化が進行するなかで、急進民主主義に対する防塁として制定されたものである。政体は代議的君主政体と規定されていたが、実際の運用ではしだいに議院内閣制の形態に移ってきた。
第一次世界大戦後、「損なわれた勝利」のスローガンに象徴されるベルサイユ条約への不満の噴出に加えて、ロシア革命の成功と戦後危機のなかで社会主義勢力やカトリック勢力が強まると、これへの対抗から、元兵士、新旧中間層や地主層を中心としたファシズム運動が台頭し、1922年10月「ローマ進軍」とよばれるクーデターによってムッソリーニがファシスト政権を樹立した。この政権は当初はカトリックの人民党も加えた連合政権であったが、1925年以降ファシスト党の一党独裁、ムッソリーニの個人独裁へと変貌(へんぼう)した。公選の議会は廃止され、憲法は有名無実の存在となった。1940年にヒトラーの後を追って英仏に宣戦したが、敗色が濃くなると、それまでファシズム体制を支えてきた王制、独占資本、教会の三つの伝統的勢力が体制から離反し始め、労働者のストライキやレジスタンス運動も激化した。1943年7月の連合軍のシチリア上陸によって敗戦が決定的になると、国王ビットリオ・エマヌエレ3世らがクーデターを起こしてムッソリーニを解任、逮捕し、バドリオ元帥を首相とする内閣を組織し、9月に連合国に降伏した。降伏公表後、すでに連合軍の支配下にあったサレルノ以南を除くイタリア全土はドイツ軍に占領され、バドリオ首相と国王はドイツの追及を恐れてブリンディジに政府を移した。ドイツ軍に救出されたムッソリーニはヒトラーの要請に従い北イタリアのサロを中心に新しい政権(イタリア社会共和国)を樹立したが、ドイツ占領地域では反ナチ・反ファシズムの武装レジスタンス運動が、共産党、社会党、行動党、キリスト教民主党などを結集する国民解放委員会の指導のもとに展開された。1945年4月には北部主要都市を自力で解放し、北イタリアのドイツ軍、ファシスト軍は降伏し、スイスに向けて逃亡中のムッソリーニもパルチザンに逮捕され、処刑された。
戦後の新しい政治体制については、レジスタンス運動中から諸勢力の間で対立があったが、当面は反ナチ・反ファシズム闘争を優先し、戦後に国民主権の原理に基づいて制憲議会で決定するという妥協が成立した。1946年4月、制憲議会の選挙と同時に実施された国民投票は、共和制支持が1271万8641票(54.3%)、王制支持が1071万8503票(45.7%)という結果で共和制を確定した。制憲議会はキリスト教民主党207、社会党115、共産党104、その他の小政党計130議席で構成されていたが、1947年12月に453対82の多数でイタリア共和国憲法を制定議決し、翌1948年1月1日に施行した。レジスタンスを担った前記主要3政党が当時、連合政権を形成し制憲議会の多数を占めていたため、この憲法は反ファシズム民主主義と労働者の国家運営への参加を推進する社会国家的理念を強調しており、現代における西欧的民主制憲法の一つの典型と考えられている。第1条で「イタリアは労働に基礎を置く民主的共和国である」と規定し、第3条で、市民の自由と平等、人間の自由な発展、国の政治的・経済的・社会的組織への労働者の実効的な参加を妨げる、経済的・社会的障害を除くことを共和国の任務と定め、私有財産の「社会的機能の確保」を規定する(42条)など労働者の基本権の大幅な承認を一つの特徴とする。さらに州の設置による広範な地方自治の承認、司法権独立の確保のための最高司法会議や憲法裁判所の設置、文化財や自然保護のために「共和国は国の風景ならびに歴史的、芸術的家産を保護する」と明記している点などが注目に値する。対外関係については「他国民の自由を侵害する手段として、および国際紛争を解決する方法として戦争を否認し」、諸国家間に平和と正義を確保する秩序を確立するのに必要な主権の制限を承認している。共和政体は改正の対象とならず、ファシスト党の再建は禁止されている。
[高橋 進]
国権の最高機関は国会で、国会は、政府に信任を与えること(議院内閣制)、大統領の任命、大統領・大臣の弾劾、立法権、予算と決算の承認、宣戦、総動員、条約批准の承認などの権限をもつ。上下両院の二院制であり、両院の権限は同等である。通常国会は毎年2月と10月に開かれ、ほかに臨時国会がある。議員の任期は上院6年、下院5年であったが、1963年に憲法の一部を改正して両院とも5年になった。大統領は両院議長と相談のうえ両院または一院を解散する権限をもつ。1970年代以降は政治の不安定化が進み、ほとんど任期満了前に解散している。
選挙制度は戦後ずっと比例代表制を基本としていた。しかし1993年8月の新選挙法によって、小選挙区制を基本として比例代表制と組み合わせる混合制へと移行した。その後、2006年4月の総選挙からは、ふたたび比例代表制のみに戻っている。
下院の定数は630議席(国内選挙区618、国外選挙区12)で国内選挙区は27。バッレ・ダオスタ州選挙区、国外在住者選挙区を除く26選挙区は拘束名簿式の比例代表制で、各選挙区の政党候補者名簿順に当選が決まる。1議席しか配分されていないバッレ・ダオスタ州選挙区は最大数を得票した候補者が当選となる。選挙権を18歳以上、被選挙権を25歳以上の市民がもつ。
上院は定数が315議席で、選挙権を25歳以上、被選挙権を40歳以上の市民がもっている。州を1選挙区とした全国20選挙区(309議席)および国外選挙区(6議席)からなる。各選挙区の定数は人口に比例して配分されるが、上院は州代表であると憲法57条が規定しているので、バッレ・ダオスタやモリーゼなど、人口が少ない6州には定数配分上の配慮がされている。上院は州ごと、下院は全国で最大得票した政党連合(候補者名簿連合)が、定数の55%に当選者数が達しない場合に、55%の議席が与えられるプレミアム制が設けられている。なお上院は選挙による議員以外に、元大統領および学術や芸術の分野で国の栄誉を高めた市民など10人を大統領が終身の上院議員に任命できる。2008年4月29日時点で終身上院議員は7名である。
法案は政府、両院議員、州議会、国民経済労働会議が提出できるほかに、5万人以上の選挙人の署名で提出できる。憲法75条に基づいて、法律の全部または一部の廃止について50万人の選挙人または5以上の州議会の要求があるときに、国民投票が行われる。この実施法は1970年に制定され、離婚法(1974)、治安強化法(1978)、妊娠中絶法(1981)、賃金の物価スライド制(1985)、原子力発電所設置に関する法(1987)、下院選挙法(1991)、上院選挙法、政党への国庫助成、中央省庁の廃止と分権化(1993)などが実施された。国民投票は1990年代に国民自身の手で政治改革を進める手段となった。
大統領は国の元首で国の統一の象徴である。任期は7年で、両院合同会議で両院議員に各州議会の代表3人を加えた選挙人たちによって、50歳以上の市民のなかから秘密投票により選出される。大統領は、法律の公布、官吏の任命、外交使節の接受、条約の批准、軍の指揮、恩赦・減刑、議会の解散などの国事を行うが、これらの行為は、それを発議する大臣の副署がなければ効力を有せず、その大臣がその行為の責任を負う。
行政権は内閣に与えられ、首相は、大統領が慣例として政党の指導者と協議のうえで任命し、閣僚は、首相の提案に基づいて大統領が任命する。内閣は両院の信任を得なければならない。内閣を構成するのは首相のほかに、外務、内務、司法、国防、経済財政、経済振興、農林政策、環境・国土保全、インフラ・運輸、労働・健康・社会政策、教育・大学・研究、文化財・文化活動などの各大臣である。議会と政府の補助機関として国民経済労働会議、国務院、会計検査院がある。
[高橋 進]
憲法は司法権を「自主的な他の諸権力から独立した秩序を形成する」と規定し、その独立を保障している。司法の最高機関は最高司法会議(1958年設置)で、その構成員の3分の2は通常判事により全判事のなかから選挙され、3分の1は両院の合同会議により法律学担当の大学の正教授、および弁護士のなかから選出される。最高司法会議は、裁判官の採用、補任、就任、昇進および服務規律を決定する。裁判官は罷免されない。裁判所には民事の第1審として調停裁判所、簡易裁判所、地方裁判所、刑事の第1審として簡易裁判所、地方裁判所、重罪裁判所があり、上級審として高等裁判所、最高裁判所がある。死刑は廃止されている。このほかに憲法上の争いを扱う憲法裁判所が設けられ(1956年設置)、国と州の法律の合憲性の判断、国の各機関、および国と州、各州間の権限の帰属に関する紛争、大統領と各大臣に対する弾劾を裁定する。憲法裁判所を構成する15人の裁判官は、大統領、両院合同会議、普通および行政最高裁判官によって3分の1ずつ指名される。任期は12年。
[高橋 進]
第二次世界大戦後のイタリア政治は、国家原理としての「反ファシズム民主主義」と、保守および中道政党の恒久政権の下で左翼政党を排除する「分極化民主主義」を特徴としていた。それはレジスタンス闘争がファシズムと王制を打倒し、政治体制を民主主義へと変革したことによるが、同時に戦後改革の不徹底のために、ファシズム体制と協力した旧指導階級や旧秩序が存続し、憲法の示す理念や改革と対立していたことにもよる。大戦直後は国民解放委員会を基盤とした反ファシズム諸政党の連合政権が成立し諸改革を行ったが、デ・ガスペリ首相が冷戦の激化の過程で親米路線を選択し、社会党と共産党を政権から追い出して終わった(1945~1947年)。以後、キリスト教民主党を中心に自由党、共和党、社会民主党の加わる中道連合政権が、1962年まで続く。この時期は、州制度や憲法裁判所、国民投票など憲法の民主的条項の実施法が制定されないまま放置され、「憲法の凍結」の時代といわれる(1947~1962年)。1960年には保守・中道4党はネオファシストである「イタリア社会運動」の支持を受けてタンブローニFernando Tambroni(1901―1963)内閣を成立させるが、反ファシズム闘争の激発ですぐに崩壊し、極右政党との連立政権が不可能であることを示した。保守・中道政党は選挙で漸次的に後退していき、1962年にキリスト教民主党はより政権を安定させるために、社会党を加えるという「左への開放」路線へ転換した。その結果、中道左派連合が1976年まで続く(1962~1976年)。社会党は中道左派政権参加をめぐって左派が分裂して勢力が弱まり、むしろ第二党で野党の共産党がこの間、勢力を増していった。イタリアは1960年代に「イタリア経済の奇跡」といわれた経済成長を遂げ、賃金水準も上昇し、新中間層も生まれたが、政治家と高級官僚による「ソットゴベルノ」といわれる公企業支配が進行した。また、北部中心の高度成長で南北の格差も拡大した。1969年の「熱い秋」とよばれる労働運動の大攻勢と1970年代の石油危機、極左と極右のテロの激化など社会的・政治的・経済的危機のなかで短命の中道左派政権が続いた。1973年に共産党がカトリック勢力との協力を目ざす「歴史的妥協」路線を打ち出して勢力を増大させ、1976年の選挙で34.4%の得票率を得てキリスト教民主党と並んだ。この結果、共産党が支持・閣外協力する一種の「挙国一致内閣」が成立した。しかし、1979年1月共産党は与党を離脱した(1976~1979年)。連合の枠組みはふたたびキリスト教民主党、社会党などの5党体制になったが、キリスト教民主党の主導権は弱まった。1981年6月にはクーデターを企(たくら)む秘密結社に閣僚、政治家、高級官僚等が参加していることが判明した「P2事件」をきっかけに内閣が崩壊した。後継首相に共和党のスパドリーニGiovanni Spadolini(1925―1994)が就任し、戦後36年続いたキリスト教民主党首班の政権がとだえた。1983年には社会党のクラクシが首相の座につき、この下で社会党は勢力を増大させた。1980年代は「黄金の80年代」とよばれ、経済の復調は目覚ましく、労働攻勢も抑えられたが、与党政治家と官僚・財界による公職や公共事業を通じての「汚職都市」化と「政党支配国家」化が進行した(1979~1991年)。
1990年代に冷戦体制の崩壊とともに戦後政治体制の瓦解(がかい)が始まった。1991年2月に共産党主流派が左翼民主党という改革政党へ転換し(左派は共産主義再建党を結成)、1992年選挙で地域主義政党である北部同盟が躍進した。このような政党の変容と並行して、戦後体制の崩壊をもたらしたのは二つの「革命」である。第一はキリスト教民主党を離れたセーニMario Segni(1939― )やレーテ(ネットワークという意の団体)、左翼民主党などの改革派が、国民投票制度を利用して行った「投票による革命」である。これにより、上下両院の選挙制度改革、政党への国家補助の廃止、国家持株省の廃止、中央政府の権限の州への移管などを実現した。第二は「司法による革命」である。1992年2月ミラノから始まった検察による、政・財・官の汚職とマフィアとの関係の追及は、社会党のクラクシ、アンドレオッティ、フォルラーニArnaldo Forlani(1925―2023)ら5人の元首相、ラ・マルファ共和党書記長、デミケリスGianni De Michelis(1940―2019)元外相ら有力政治家やフィアット取締役、オリベッティ社長、IRI(イリ)やENI(エニ)総裁など財界人と官僚総計2000人以上が捜査通告、逮捕、有罪判決を受け、与党有力政治家はすべて失脚するという結末となった。1993年4月キリスト教民主党のアマートGiuliano Amato(1938― )内閣は辞職し、既成政党の政治家ではないイタリア銀行総裁チアンピCarlo Ciampi(1920―2016)が清潔さを評価されて首相に就任した。キリスト教民主党や社会党、自由党、共和党、社会民主党の既成与党は1993年の地方選挙で壊滅的打撃を受け、分裂と解散に至った。こうして、戦後政治体制は崩壊した(「第一共和制」の終焉(しゅうえん))。逆に、政権から排除されていた左翼民主党やイタリア社会運動、北部同盟はこの選挙で躍進した。1994年1月には左翼政権阻止を目的に「メディアの帝王」ベルルスコーニが新保守政党「フォルツァ・イタリア(がんばれイタリアという意味)」を結成した。新選挙制度下の1994年の選挙でフォルツァ・イタリアと旧キリスト教民主党右派、国民同盟(「イタリア社会運動」が中心)、北部同盟からなる右派連合が、左翼民主党を中心とする左派連合や人民党中心の中道連合に勝利し、ベルルスコーニが首相に就任した。この内閣には戦後初めて、ネオファシストの流れをくむ国民同盟から副首相ら5人が入閣した。しかし、ベルルスコーニは自分の企業の汚職と不正献金で弟や側近が逮捕され、彼自身も捜査通告を受け、1994年12月辞任し内閣は崩壊した。1995年1月に左派と北部同盟に支持されて、歴代内閣で初めて閣僚に国会議員を1人も含まないディーニLamberto Dini(1931― )内閣が成立した。同年1月「イタリア社会運動」は解散し、右派保守政党への転換を目ざして国民同盟に合体した。
ディーニ内閣は約1年続いたが、1996年1月総辞職した。同年4月選挙が行われ、左派と中道勢力の連合した「オリーブの木」が勝利し、共産主義再建党の閣外支持を受けて、プロディ左派中道政権が成立した。1997年に戦後政治体制にかわる「第二共和制」の新しい政治システムの形成を目ざして、分権の強化、大統領制への移行を含む憲法制度の改革を検討するための上下両院合同委員会が議会に設けられた。
プロディは財政赤字の削減につとめ、イタリアのヨーロッパ通貨統合(EMU)加盟を確実にした。1998年に新年度予算案をめぐり、プロディ政権の閣外協力団体である共産党再建派が福祉削減の理由で反対にまわり、プロディは内閣信任投票に敗れて辞任、左翼民主党書記長のダレーマMassimo D'alema(1949― )が後任の首相に選ばれた。ダレーマはEMU加盟国に課せられた安定化協定を守るため、緊縮財政に取り組んだが、2000年の統一地方選挙で敗北した責任をとり辞任、元首相アマートがふたたび首相となった。しかし翌2001年の総選挙で元首相ベルルスコーニが率いる中道右派連合「自由の家」が与党を破って勝利し、同年二度目のベルルスコーニ内閣が発足した。自由の家にはベルルスコーニが党首を務めるフォルツァ・イタリアや、国民同盟、北部同盟などが参加した。ベルルスコーニ内閣は、短命の多い内閣のなかで在任期間が第二次世界大戦後で最長を記録した。しかし、イラクへの派兵など親米路線と構造改革に対する反発が強くなり、2006年4月に行われた総選挙では、ベルルスコーニの自由の家は、元首相プロディを中心とした中道左派「連合」にわずかの差で敗北、同年5月にはプロディ内閣が発足した。2008年4月、与党の中道左派の連立崩壊を受けて行われた上下院選挙では、ベルルスコーニ率いるフォルツァ・イタリアと右派政党の国民同盟が合併した「自由国民」が中心の右派連合が両院で過半数の議席を獲得し、ベルルスコーニは四度目の首相の座についた。しかし財政金融危機に対処するための財政緊縮政策や政権運営の手法、また首相本人の素行問題などで不満が高まり、国内での支持率が低下。さらに与党議員の離党などで議会での絶対安定多数を維持できなくなり、2011年11月に辞表を提出した。新首相には経済の専門家であるモンティMario Monti(1943― )が就任した。モンティ政権は議会における大多数の政党の協力のもと、財政支出均衡、経済成長、労働市場改革などの政策を実施した。しかし、2012年12月、政権を支持してきた議会第一党の「自由国民」が政権の信任投票を欠席。これを政権に対する不信任とみなしたモンティは辞意を表明し、上下両院を解散した。2013年2月に行われた総選挙では上院で過半数を得る政党がなく、新政権は樹立できなかった。さらに、4月に行われた大統領選挙でも、5回の投票を経ても新大統領が選出されず、高齢を理由に再任を固辞していたナポリターノGiorgio Napolitano(1925―2023)が新政権樹立に向け協力するという条件で大統領に就任。ナポリターノに首相候補に指名された民主党の下院議員レッタEnrico Letta(1966― )がこれを受諾し、レッタ新政権が発足、新政権は上下両院での信任投票で安定多数の信任を得た。
[高橋 進]
地方自治体は2003年1月時点で20州、103県、8101コムーネ(市町村)に区分されている。憲法が大幅に州自治を認めていたにもかかわらず、戦後しばらくは州議会はシチリアなど地理的、民族的、言語的に特別な問題を抱える5州に設置されていただけであった。1970年の中道左派政権のときに、ほかの15州にも州議会と州政府が設置された。県とコムーネでは、従来、首長の直接選挙がなく、議会から選出された参事会とその長が執行機関を構成して行政の任にあたっていたが、1993年に選挙法が改正され、初めて住民による首長の直接選挙制度が導入された。
(1)人口1万5000人以下のコムーネ 首長候補への投票がそのまま首長候補者と連結した議員候補者リストへの投票となる一票制である。当選した首長と連結した議員候補者リストに総定数の3分の2の議席が与えられ、残りの議席は落選した各首長候補者の連結する議員候補者リストに比例配分される。
(2)人口1万5000人以上のコムーネ 首長候補、議員候補への投票の二票制であるが、議員候補リストは首長候補と連結している。首長選挙で過半数の得票を得た候補者がいないときは、上位2名で決選投票される。議席は各首長候補と連結する候補者リストに比例配分されるが、当選した首長と連結した議員リストに定数の60%が配分されるプレミアム制である。
(3)県 選挙は一票制。それ以外では1万5000人以上のコムーネ選挙と同じである。県には内務大臣が任命する国家官僚の県令prefèttoが派遣され、県知事には権限領域がないコムーネの監督や警察の管轄を行う。
議員選挙では選挙人はリストから1名を選んで投票することができる。首長と議員の任期は4年である。
1990年代中ごろより地方選挙の傾向として、北部では北部同盟とフォルツァ・イタリア、中部では左翼民主党と共産主義再建党、南部では国民同盟を、それぞれ与党とする自治体が数の上で優勢である。住民参加と地方分権化は、とくに自治体の行政において顕著な進展がみられ、多くの自治体に地区住民評議会が設置されて各国から注目されている。
[高橋 進]
対外政策の基本は対米協力とヨーロッパ統合の推進である。1947年2月に連合国側と講和条約を調印したが、講和条約によりイタリアはすべての海外領土の放棄、軍備制限と賠償を約定した。冷戦の展開のなかでマーシャル・プランを受け入れ、ヨーロッパ経済協力機構やNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に参加し、再軍備強化に転じることによって反共親米政策を推進し、アメリカの反共体制の忠実な一員となった。2001年に発足したベルルスコーニ政権も親米政策を推進、2003年のアメリカによるイラク侵攻ではアメリカ支持を表明、戦後のイラク復興支援のための派兵を行った。アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)、地方復興チーム(PRT)に部隊を派遣、国連レバノン暫定軍(UNIFIL)にも部隊を派遣している。また、ヨーロッパ統合に対しては、マーストリヒト条約を批准してEU(ヨーロッパ連合)統合を推進し、財政改革を進めて1999年の通貨統合に参加した。2005年にはEUの基本法となるヨーロッパ憲法を批准している。冷戦崩壊後は、中欧、ロシア、アフリカ、アラビア、湾岸諸国などと密接な関係を発展させ、地中海の安定強化につとめている。旧ユーゴスラビア内戦時にはNATO派遣軍に参加し、EUのアルバニア監視軍の主力にもなった。
[高橋 進]
憲法は侵略戦争と紛争解決手段としての戦争を否認しているが、「祖国の防衛は市民の神聖な義務である」(52条)として義務兵役制をとり、兵役期間は12か月であった。しかし2004年末に平時の徴兵制を停止、2005年より完全志願兵制に移行した。任期が1~4年の期限付きと終身の2種類ある。大統領は軍隊の指揮権を有し、国防上の最高決定機関である最高国防会議を主宰し、両議院の審議を経て戦争状態を宣言するが、実質的責任者は国防会議副議長の首相である。軍備は講和条約の軍備制限条項によって制約されていたが、冷戦の激化のなかで1949年にNATO(ナトー)に加盟、1951年にはアメリカ、イギリスの了解のもとで軍備制限条項の無効化を通告し再軍備強化を進めた。総兵力は18万6049、予備役4万1867。内訳は陸軍10万8000、海軍3万4000、空軍4万4049である。2004年の国防支出総額は343億4500万ドルで対国内総生産(GDP)比は2.0%であったが、2006年は306億3500万ドル(1.7%)、2007年は約177億7000万ドル(0.8%)となり、軍事費の減少傾向が続いている。
[高橋 進]
古代と中世・ルネサンス期において、イタリアの地は、ヨーロッパ経済の重要な中心地であり、かつ「先進地帯」であった。しかし、近代社会の形成に際しては、イタリアは大きな遅れをとらざるをえなかった。
[堺 憲一]
イタリアが1861年に国家統一を達成し、近代化を本格的に推進しようとしたとき、対外的にはイギリス、ドイツ、フランス、アメリカといった諸国ですでに資本主義が著しい発展を遂げていた。他方、国内では封建的な要素を多分に残した農業が支配的であった。北部のロンバルディアとピエモンテの平野部では、灌漑(かんがい)設備を基礎とし牧草栽培を主軸とする合理的輪作を行う大農場経営(酪農、稲作)が形成され、発展しつつあったとはいえ、それ以外の地域では従来からの伝統的農業が一般的であった。たとえば、中部では中世以来の折半小作制(メッツァドリア)、南部ではラティフォンドとよばれるきわめて粗放的な穀作・牧羊を主軸とする大土地所有制度=大経営が広範にみられた。また、工業活動についても、ピエモンテとロンバルディアで製糸業や食品工業などが一定程度展開するにすぎなかった。
イタリアは、そのような条件のもとで、短期間にしかも強力に近代化を達成しなければならなかった。そこで伝統的な農業=土地制度を解体せず、逆にそれを維持、強化する道を選んだ。そうすることによって、近代化を中心的に指導した地主階級の経済的基盤を保護したばかりか、さらには工業化に必要な資本と労働力の供給源として農村を利用する態勢をつくりあげたのである。まず、地主は農民から受け取る地代の一部を工場や銀行に投資したり、公債の購入にあてることができた。次に農村諸階級に課せられた租税は、国家を媒介として鉄道や道路といった産業基礎施設の整備、近代的大工業の育成、公債の利子支払いなどの財政的基盤となった。また農村における膨大な零細農民の存在は、工業や大農場経営への安価な労働力の供給を可能にした。伝統的農業も、新たに形成される資本主義体制のもとで積極的な役割を与えられたといえよう。このような方式は、イタリア資本主義に後進性、脆弱(ぜいじゃく)性、跛行(はこう)性といった特徴を付与したが、ともかくもイタリアに独自な経済発展の道を切り開いたのである。そして、1887年の保護主義的関税改革、1894年におけるイタリア商業銀行および信用銀行の設立、1898年ごろの「白い石炭」とよばれた水力発電の本格的利用の開始など、関税面、金融面、エネルギー面の前提条件を整えた。このようにして1896~1907年ごろには、従来からの製糸業や食品工業に加えて、製鉄、造船、機械、綿業などにおいて産業革命とよばれるような技術的・生産力的発展があった。すでに1853年に創設された造船機械のアンサルドをはじめ、ゴムのピレッリ(1872年設立)、電力のエジソン(1884)、製鉄のテルニ(1884)、機械のブレダ(1886)、化学のモンテカチーニ(1888)、自動車のフィアット(1899)、製鉄のイルバ(1905)とファルク(1906)、事務機械のオリベッティ(1908)、自動車のアルファ・ロメオ(1910)など、その後のイタリア経済の展開に牽引車(けんいんしゃ)的な役割を果たす大型企業体の多くもほぼこの時期に発展の基礎を築き上げている。
この段階のイタリア経済の特質として次の4点があげられよう。まず第一には、1884年のテルニ社の創設や1885年のボゼッリ法による造船業振興に示されるように、とくに基幹産業にあっては、国家の保護と介入がその発展にとって不可欠であったこと。第二には、イタリア商業銀行やイタリア信用銀行に代表されるように、通常の銀行業務のほかに中・長期の産業融資を行うドイツ型の兼営銀行が工業発展に大きな役割を果たし、銀行と大企業の癒着が急速に進行したこと。第三には、近代的大工業が軍事的性格の強い部門や比較的新興の部門に重点的に展開され、それ以外の多くの部門では伝統的な手工業や小企業が支配的であったこと(規模別・部門別格差)。第四には、工業発展が北西部(ロンバルディア、ピエモンテ、リグリアの3州)の限定された地域に集中し、従来の地域的不均衡は縮小されるどころか逆に著しく拡大された。とりわけ南北の格差が、北部の工業化・発展と、南部の停滞・「低開発」というコントラストの形でいっそう顕在化したこと(南部問題の本格化)がそれである。これらの特質のうち、国家の保護・介入と、兼営銀行制度については、前者の全面化と後者の廃止・再編というぐあいに、それぞれ次の段階で新たな局面を迎える。それに対して、規模別・部門別格差と南北格差は、イタリア経済のいわゆる「二重構造」として、いくぶん形を変えつつも第二次世界大戦後に至るまで継承されていく。
[堺 憲一]
第一次世界大戦は、過剰生産に悩む重工業に活路を開いたばかりでなく、軍需を基礎としてそのいっそうの飛躍を可能にした。ところが、戦争が終結すると、生活物資の不足、インフレ、失業のもとで、極度な社会不安にみまわれる。1921年には、戦争中に急成長を遂げたイルバとアンサルドの二大企業、また後者と密接な利害紐帯(ちゅうたい)を有したイタリア割引銀行(1914年設立)などが窮地にたった。それらはいずれも国家の援助のもとで経営規模を縮小したうえで再建されるが、その事件は、兼営銀行制度の弱点を露呈した代表例、国家の手による銀行・企業の組織的救済の最初の例として注目に値しよう。
1922年に発足したファシズム政権の経済政策の基調は、最初の3年間については自由主義的であった。しかし、1925~1926年以後、一転して国家の経済への介入が強力に進められた。穀物関税の強化を軸とするいわゆる穀物戦争の開始(1925)、石油の安定的確保を目的とする国家機関であるイタリア総合石油会社(AGIP)の設立(1926)、通貨発行権のイタリア銀行への一本化・独占化(1926)、リラ切上げ実施(1927)、総合開発事業の開始(1928)といった一連の経済政策が打ち出される。その過程でも重工業を中心とする工業発展はいっそう進む。とりわけ、フィアット、エジソン、モンテカチーニ、化学繊維のズニア・ビスコーザ(1917年設立)など、自動車、電力、化学部門の大型企業体が国家と癒着しつつ、資本の集中と集積、経営の合理化や多角化をますます進展させた。
ところで、この段階のイタリア経済をもっともよく特徴づけるのは、なんといっても混合経済体制の実質上の発足を意味する国家持株会社の成立であろう。それは、1929年にウォール街に端を発する世界恐慌に対するイタリア的対応の帰結といえる。世界恐慌がイタリアに波及すると、イタリア商業銀行、イタリア信用銀行、ローマ銀行(1880年設立)の三大銀行、および長期融資や株式保有などによりそれらと密接に結び付いていた産業界は、深刻な危機に陥った。それに対してムッソリーニ政権は、イタリア銀行に資金援助を続ける一方で、1931年に産業金融機関としてイタリア動産公庫(IMI(イミ))を創設した。しかし、今度はイタリア銀行自体が動揺する危険が生じたので、1933年にいっそう抜本的な銀行、産業救済を図るために、産業復興公社(IRI(イリ))を設立した。IRIは当初暫定的な機関として発足したが、1935年にエチオピア戦争が開始されると、戦時経済推進の手段として1937年に恒久的な国家持株会社に転化した。その間にIRIは、製鉄、造船、機械などの基幹産業(たとえば、イルバ、アンサルド、テルニ、ブレダ、アルファ・ロメオなど)、上述の三大銀行、電話や海運など多数の企業を傘下に置く一大企業グループとして確立された。
またIRIの成立と関連して、1936年に銀行制度の全般的再編が行われた。それによって、従来イタリアの工業発展を支えてきた兼営銀行は廃止された。イタリア銀行は公的な中央銀行となり、「国益銀行」(IRI傘下の三大銀行)をはじめとする商業銀行は短期信用業務のみに専念することとなった。中・長期金融はIMIやIRIのような少数の国家機関にゆだねられた。ただ、商業銀行のうち「公法銀行」に指定された6行(イタリア労働銀行、ナポリ銀行、サン・パオロ銀行、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行、シチリア銀行、サルデーニャ銀行)については、一定の条件のもとで中・長期貸付も可能とされた。こうして、かつてのような銀行と産業の癒着体制は、少なくとも原則的には終結し、政府によって直接統括される新しい銀行制度が確立した。そのような状態のもとで、1940年には第二次世界大戦に突入するのであった。
[堺 憲一]
第二次世界大戦は経済に大きな被害を与えて1945年に終結した。物資は極端に不足し、深刻なインフレと失業が人々の上に重くのしかかった。このような事態のなかで、連合国、とりわけアメリカの援助は決定的な意味をもつことになった。この事実に端的に示されるように、イタリアの戦後復興も、資本主義世界におけるアメリカの経済的ヘゲモニー(指導権)の確立および「冷たい戦争」の進行という国際的諸条件のもとで実現されたのである。1947年には、終戦以降かなりの発言力を有してきた左翼勢力を排除した第四次デ・ガスペリ内閣が成立し、副首相兼予算大臣エイナウディのもとでインフレ阻止と通貨の安定を目ざした強力な引締め政策が実施された。そして、翌1948年マーシャル・プランによる援助の受け入れがなされた。1949年以降、自由貿易的な方向での関税率の修正が行われ、漸次、開放経済への転換が推進された。同時に、自動車、製鉄、電力、化学などの工業部門に対する国家の保護・助成が積極的に行われた。戦時経済推進から戦後復興へと目的を変えて、IRIやIMIの存続・活用が図られた。
こうして、1948~1950年には戦前の生産力水準を回復したばかりでなく、1951~1963年にかけて、ヨーロッパでは西ドイツに次ぐ高度成長を達成し、「イタリア経済の奇跡」とまでいわれた。その結果、戦前には8%にすぎなかった西ヨーロッパ工業生産に占めるイタリアの比重が、1962年には12.3%に上昇している。1963年には、失業率も、イタリア史上もっとも低い3.9%の水準に達している。その間変動はあるものの、物価も比較的安定し、1959年のインフレ率はマイナス0.4%を記録している。高度成長の過程で主導的役割を果たしたのは、フィアット、エジソン、モンテカチーニ、ズニア・ビスコーザ、ピレッリ、オリベッティといった機械(自動車、事務機械)、電力、化学などの民間工業部門、およびフィンシデール(IRIの鉄鋼部門を担当する持株子会社)やENI(エニ)(炭化水素公社。1953年にAGIPなどを母体として創設。石油と天然ガスの安定的確保を課題とする)といった国家持株会社であった。また、電話、航空、高速道路などのサービス部門の拡充が、IRIによって行われ、経済発展に大きな効果を発揮した点についても見落としてはならない。その意味で、高度成長は、1957年のEEC(ヨーロッパ経済共同体)成立にいちおうの帰結をみる経済の国際化という環境のもとで、混合経済体制を強化する形で実現されたといえる。
以上のような高度成長の過程で着実に進行したのは、重化学工業の発展に伴う産業構造の変化である。国内総生産(GDP)に占める農林水産業の比重は、1953年の22.4%から1964年には13.4%に減少し、その後も徐々に後退していく。その際、重要な点は、産業構造の変化の根底に工業による農業の「実質的包摂過程」が存在したことである。
それは、工業による農村の労働力の本格的吸収(脱農化)と農業の「工業化、化学化」(農業機械と化学肥料の使用)という形をとって現れた。ところで、工業発展を地域的にみれば、その主力は北西部の「工業三角形」(ミラノ―トリノ―ジェノバの三つの都市とその周辺部、州でいえば、ロンバルディア、ピエモンテ、リグリア)地帯に集中していたのである。そのため、南部や中部の農村から北西部の工業地帯に向けて大量の労働力移動がみられた。それまで農村に滞留していた膨大な相対的過剰人口が、高度成長の労働力基盤を形成した。しかも、1956年のイタリア人労働者の平均賃金は、経済史家カストロノーボによれば、イギリス人の半分程度、ドイツ人やベルギー人の3分の2程度といわれるほど、相対的に低水準であった。しかし同時に、そのような資本による農業の実質的包摂が進行した結果、従来イタリア資本主義に対して資本と安価な労働力の供給源としての機能を果たしてきた伝統的農業は、もはやそのままの形では利用することができなくなり、解体と再編を余儀なくされた。具体的にいえば、中部の折半小作制(1964年の立法によって、新規の折半小作契約を締結することができなくなった)や南部のラティフォンドに代表されるような伝統的農業の解体が、それである。それが意味することは、とりもなおさず高度成長によって引き起こされた、安価な労働力の伝統的な調達機構の崩壊である。
国民経済のよりいっそうの発展のためには、伝統的農業の抜本的改革が不可欠であるという認識は、すでに第二次世界大戦後の一連の農業政策のなかにうかがわれる。農地改革や「農業発展五か年計画(第一次ピアノ・ベルデ)」(1961)などの一連の農業政策は、灌漑などによる土地改良、自作農の創設・育成、機械化の促進、牧畜業の振興といった課題をもって、そうした再編を上から推進する役割を果たした。その結果、農業の「工業化、化学化」の進行に伴い、いわゆる「機械と化学肥料を使用する家族経営」が多数生み出されたのである。また、南部問題に対する国家の方針が自由放任から介入へ変化したことも、そうした流れと無関係ではない。1950年における農地改革の実施と南部開発公庫の設立によって、本格的な南部開発政策が始動した。当初、土地改良などの農業投資に圧倒的な比重が置かれていたが、1957年以降、徐々に工業投資に重点が移っていった。そして、その年には、国家持株会社に対して新規設備投資の60%、全投資の40%を南部で実現することを義務づける法律が立法化された。その結果、1960年代初めにはENIによるジェラの石油化学コンビナート、フィンシデールによるタラントの大製鉄所が建設されるなど、ともかく南部にも工業化の拠点が形成されたのである。
[堺 憲一]
「奇跡」といわれた高度成長は、1964年以降しだいに鈍化した。伝統的農業の解体、より直接的には1969年の労働攻勢による賃金の上昇、および1973年の石油ショックは、安価な労働力と石油という高度成長を支えてきた条件を解消させた。とくに1970年代におけるGDPの年平均成長率は3.8%に低下している。一挙に4倍に跳ね上がった石油価格の高騰は、インフレを引き起こし、国際収支を著しく悪化させた。1970年代後半のインフレ率は1975年19.2%、1976年16.0%、1977年20.1%、1978年12.2%を経て、1980年には最悪の21.1%を記録するといったぐあいであった。かくしてイタリア経済は、インフレ、不況、失業、国際収支の悪化などによって特徴づけられるいわゆる「危機」の時代を迎えることになった。
それまでの経済発展に大きな活力を与えてきた国家持株会社のその間の動向をみてみると、低成長下であるにもかかわらず、活発な投資活動を展開し、民間企業の吸収、合併を図り、その勢力範囲を拡大している。1983年における国家持株会社の従業員数は、約59万4000人で、そのうちIRIが76.6%、ENIが17.3%を占めている。しかし、組織の肥大化とともに、経営の非能率ぶりを露呈し始める。つまり、経営・管理者層の固定化、役員人事に対する政治家や縁故主義の介在、政党との癒着などの弊害が現れ、また、倒産寸前の不採算企業の買収も加わり、経営の悪化、非効率化が深刻な問題となったのである。さらに化学、造船、製鉄などの重化学工業部門の多くが、国際的競争の激化と世界的な生産過剰によって深刻な不況にみまわれた。1971年に不況産業の救済機関として産業経営参画株式会社(GEPI)が創設され、その重要性がますます増大していること自体に不況の深刻な様相がうかがわれる。
さらに、南部開発政策についていえば、南部に対する巨額な公共投資は、整備された道路網といくつかの工業化拠点と集約的農業地域をつくりだしたが、そのような投資対象から除外された多くの地域では、いっそうの経済的衰退と過疎化が進行している。したがって、南北格差は依然として縮小されず、しかも今度は南部のなかでの地域的不均衡が新たに生じている。南部の伝統的な農業構造を規定してきたラティフォンドは確かに解体されたが、資本主義のいっそうの発展に対応できるような形に再編されたわけではなかったのである。そのうえ、この南部開発政策にあっても、その担い手となる諸機関の管理者層が、政党と結び付いて組織の「私物化」を図り、そのために公共投資の非効率化が顕在化しているのである。
農業に関していえば、GDPに占める農業の比重は漸次低下し、1978年には7.1%(林業、水産業を含む)にまで減少している。集約的な農業経営を育成するという政策については先述のとおりであるが、そうした動きにもかかわらず、集約的な農業が発展しえた地域は、ごく一部の灌漑平野に限定されていた。しかも、従来、比較的順調に発展してきた北部のポー川流域の平野部においても、労働力不足とあいまって、とくにECの共通農業政策の本格的な実施以降は、その地域の主力農産物である牛乳、軟質小麦、テンサイなどについての市場見通しはけっして明るいとはいえない。それゆえ、全体として、農業の後進性、脆弱(ぜいじゃく)性はいまだ克服されたとはいいがたい。たとえば、国際的にみれば、経営規模の零細性は一見して明らかである。また、牧畜の比重とその生産性は依然として低位であり、食肉の輸入は国際収支悪化の大きな要因となっている。それ以外にも、「兼業化」「女性化」「老齢化」「耕作放棄」「農村からの人口流出」に伴う「過疎化」といったさまざまな問題が、イタリア農業に重くのしかかっている。
ところが、成長率そのものはかつての水準からはほど遠いものの、イタリア経済は1984年ころから著しく改善されることになった。それは工業生産の増大、貿易収支の改善、インフレの鎮静化といった現象を伴っていた。ちなみに1986~1989年のインフレ率は、1980~1985年の平均値13.7%から5.5%と大幅に改善されている。労働争議が急減し、ストライキの延べ時間は、1979年の1億9000万時間から1989年の3100万時間へと激減している。そして、「黄金の年」とよばれた1987年には、イタリアは、イギリスのGDPを凌駕(りょうが)して、西側世界第5位の工業国になったのである。著名な経済コラムニストであるトゥラーニがイタリア経済の「第二の奇跡」とよんだそうした経済的再興をつくりあげた要因としてあげられるのは、①フィアットやオリベッティといった大企業の積極的な経営姿勢、②ハイテクを利用した中小企業による「多品種少量生産」の推進、③従来は対決一辺倒であった労働組合の態度の変化、④国民大衆による株式投資の本格化、⑤原油価格の低落とドル安などである。もっとも、その「奇跡」はそれほど長続きしたわけではけっしてない。1980年代の末からは成長率はふたたび低下し、1993年にはマイナス1.2%というように、戦後二度目のマイナス成長を記録しているからである。ただ、イタリアの貯蓄率が日本以上に高く、依然として15%を優に超える水準を堅持していることを見落としてはならないだろう。
[堺 憲一]
1993年のマイナス成長のあと、イタリアの成長率は、安定した物価状況のもとで、1994年2.2%、1995年2.9%とわずかな伸びを記録し、2000年には3.0%を示した。しかし、その後は減少し、2004年には1.2%、2007年には1.6%となっている。2008年のGDPは2兆3139億ドルで、ヨーロッパではドイツ、イギリス、フランスに次いで第4位となっている。また1人当りのGDPは3万8996ドルである。
2007年の各国のGDPの対世界比率をみてみると、イタリア(3.8%)は、アメリカ(25.2%)、日本(8.0%)、中国(6.2%)、ドイツ(6.1%)、イギリス(5.1%)、フランス(4.7%)に次ぐ位置にある。2006年の産業活動別のGDP構成比では、農林水産部門が1.8%、鉱業・製造・建設業部門が21.9%、サービス部門が65.4%となっている。産業別就業人口割合では農林水産部門4.2%、鉱業・製造・建設業部門が29.5%、サービス部門が66.1%である。次に、『フォーチュン』誌(2009)に従ってイタリアの大企業の国際的ランクについて言及すると、売上高で500番以内に入っているのは、10社である。アメリカの140社、日本の68社、フランスの40社、ドイツの39社、中国の37社、イギリスの26社と比べるとかなり少ないが、自動車、石油、銀行の優位性と国家持株会社系企業の重要性が指摘できよう。なお、主要な企業グループとしては、①自動車を核にして、軍需・航空・電気通信などの機械、食品、保険などの企業を含む「アニエッリ=フィアット」グループ、②事務機器・エレクトロニクスのオリベッティを核として、銀行・食品・出版などの企業を包摂する「デ・ベネデッティ」グループ、③穀物貿易を手広く行い、化学・出版などの企業を傘下に置く「フェルルッツィ」グループ、④不動産・放送・金融・広告・出版などの企業を有する「フィニンベスト・ベルルスコーニ」グループなどがあげられる。なお、2002年にフィアットの経営悪化が表面化した。
最近のイタリア経済の動向を知るうえで、いくつかの重要な問題として以下のものがあげられる。まず、依然として大きな課題となっているものとして、失業問題がある。1980年代から失業率は10~12%を示していたが、2001年には9.5%と10%を割り、その後も低下し、2007年には6.1%となった。この数値は、ドイツ(8.4%)、フランス(8.3%)より低く、イギリス(5.3%)よりは高い。また、イタリアの失業率には、地域的格差が存在する。2003年では北部が3.8%、中部が6.5%であったのに対し、南部は17.8%と高かった。また、24歳以下の若年労働者の失業率が男で24.2%、女で30.9%ときわめて高い比率であることも、大きな特徴である。
通貨に関しては、1992年9月の通貨危機によって、欧州為替(かわせ)相場安定制度(ERM)からの離脱を余儀なくされていたが、1996年11月に復帰を果たした。1999年1月に欧州単一通貨ユーロが創設されたが、イタリアは創設時から参加した。2001年1月にはユーロの紙幣と硬貨の流通が始まっている。しかし、イタリアの2004年の財政赤字は対GDP比で3.5%となり、ユーロ安定のために定めたEUによる財政規律協定(財政赤字を対GDP比で3%以内におさえる)を遵守するためにも赤字縮小が求められている。2005年は4.3%であったが2007年は2.2%とやや改善した。
なお経営の非効率や財政への過度の負担といった問題を抱えていた国家持株会社は、1980年代に人員の削減・一部企業の民間への譲渡・組織の再編などを行ったのち、1992年7月国庫省が株主になる形で株式会社に転換し、民営化のプログラムが開始された。
[堺 憲一]
ほかの先進的工業国と比較して、イタリア製造業の最大の特徴は中小企業の圧倒的優位性である。1991年時点で従業員数500人以下、資本金30億リラ以下の企業は、企業数で99.89%(55万1702)、就業者数で80.20%(422万0308)を占め、従業員9人以下の企業は、企業数で82.41%(45万5169)、就業者数で24.44%(128万6191)を占めていた。この傾向は今も続いている。それは、「職人(アルティジャーノ)」による経営が非常に多いことを示している。イタリアの中小企業・職人企業の主要な活動分野は、繊維・衣服、靴、皮、家具、食品といった伝統的な産業部門だけではなく、機械などを含めて多様な産業部門に及んでいる。そして、輸出全体に占める中小企業のウェイトも高く、小規模ながらも、高い国際的競争力を有した企業も多い。むしろ企業規模が小さいほど業績がよいという結果さえ指摘されている。それらの大半は「家族経営」であり、企業内の意思疎通がきわめて良好であること、特定の商品を中心に地域的に特化し、しばしば一つの「産地」が核になり、技能・技術・情報・サービスの密接な相互活用を可能にする地域的分業システムを構築していることなども大きな特徴といえるだろう。世界に名だたる「メイド・イン・イタリー」を支えるのは、そうした中小企業・職人企業の存在なのである。
ところで、高度成長期までのイタリア経済の中心的存在とは、地域的にいえば、ロンバルディア、ピエモンテ、リグリアの北西部3州であった。しかし1971年においては依然として就業者の53.03%を占めていたその比重が、1991年には40.68%へと大きく低下し、逆に、ベネト、エミリア・ロマーニャ、トスカナの3州の比重が27.43%にまで増加した。そうした事情の背景には、1970年代以降に顕在化した前述のような中小企業の発展、それまで工業発展の牽引車(けんいんしゃ)的な役割を果たしてきた化学、造船、製鉄、機械などの重化学工業の主力が、コストの上昇、国際的競争の激化のなかで伸び悩みの状態になっていることなどがあるように思われる。他方、アブルッツィ以下の南部諸州は、全部あわせても、就業者ベースで13.26%にすぎない。南部の状況は、南部開発政策との関係で導入されたごく一部の工業地区を除けば、依然として大きな改善がみられない。なお、主要な工業製品のうち、世界生産に占める比率の高いものとしては、紙・板紙2.6%(2006)、粗鋼2.4%(2007)、鉛2.4%(2006)、自動車1.8%(2007)、自動車ガソリン2.4%(2001)、合成ゴム1.8%(2006)、綿織物2.2%(2000)、セメント2%(2005)、プラスチック2%(2005)などがある。
[堺 憲一]
国土面積に占める農地の割合は48.8%(2005)で、フランスの53.6%よりもやや小さい。生産量は1980年代中葉以降さほど変化していない。2003年の主要農産物の自給率をみてみると、穀類は72.3%で、そのうちの小麦は56.7%となっている。100%を超えるものは米227.0%、野菜類122.3%、果実類107.1%、卵類101.6%があり、100%未満のものはイモ類55.5%、豆類22.4%、肉類78.2%、魚類27.6%となっている。2003年の食料自給率(農林水産省試算)は62%である。
世界でもトップランクの生産量を誇っているのがブドウ832万6000トン(第1位)、ナシ90万7000トン(中国に次いで第2位)、モモ166万5000トン(中国に次いで第2位)、オリーブ342万4000トン(スペインに次いで第2位)で、ワイン生産量も471万2000トンとフランスに次いで第2位となっている(2006)。経営規模に関しては、ドイツ、フランス、イギリスなどの国々と比較すると、小規模経営がきわめて多い点に大きな特徴がある。1989年の数値でいえば、1~5ヘクタール層が経営数全体の67.4%であるのに対して、50ヘクタール以上層がわずか2.2%にすぎない。たとえば、フランスでは、1~5ヘクタール層20.3%、50ヘクタール以上層18.6%、イギリスでは1~5ヘクタール層11.3%、50ヘクタール層34.3%であるのと比べると、その差は明らかである。
[堺 憲一]
イタリアの国際収支の伝統的特質は、恒常的な輸入超過、およびそれに伴う貿易赤字を海外移出者からの送金(すなわち労働力の「輸出」)や、観光・保養を目的とする外国人旅行者の支出によってカバーするという構造であった。というのも、イタリアは世界でも有数の「観光国」だからである。2008年の観光客到着数は4273万人にも及んでいる。ところが、1987年以降、貿易収支は大いに改善され、1992年以降、黒字となっている。それには、1993年以降に顕在化したリラ安を追い風として、輸出が大幅に増加したことが大いに関係している。2007年における世界の総輸出額に占めるイタリアの比率(3.9%)は、ドイツ(10.2%)、中国(9.4%)、アメリカ(9.0%)、日本(5.5%)、フランス(4.2%)に次ぐ数値である。他方、総輸入額に占めるそれ(3.9%)は、アメリカ(15.4%)、ドイツ(8.1%)、中国(7.3%)、日本(4.7%)、フランス(4.7%)、イギリス(4.7%)に次ぐ数値である。
2006年の貿易状況をみると、輸出額4171億5300万ドル、輸入額4425億6500万ドルと、輸入超過である。輸出は機械類27.3%、自動車7.7%、衣類4.8%、鉄鋼4.8%、金属製品4.4%など、輸入は機械類16.5%、自動車10.5%、原油9.0%、鉄鋼5.1%、医薬品3.5%などとなっており、輸出・輸入とも工業製品が圧倒的な比重を占め、イタリアの伝統的な輸出品であった農産物、食料品は大きく後退している。上記以外では繊維品、医薬品、皮革、ガラス、石製品、ワインなども重要な輸出品である。2006年の貿易相手国については、輸入の56.9%、輸出の60.4%がEU諸国によって占められている。おもな輸入国はドイツ(16.7%)、フランス(9.2%)、オランダ(5.5%)、中国(5.2%)、ベルギー(4.2%)、スペイン(4.1%)である。そして主要な輸出国は、ドイツ(13.1%)、フランス(11.7%)、アメリカ(7.5%)、スペイン(7.2%)、イギリス(6.0%)の順となっている。
[堺 憲一]
1839年にナポリ―ポルティチ間(7.7キロメートル)に最初の鉄道が敷かれて以来、鉄道は長らく陸上交通の主力をなしてきた。1938年に至っても、陸上貨物輸送量の70%は、鉄道によって担われていたといわれる。ところが、その後自動車が普及し、道路網が整備されたために、鉄道と道路の比重が逆転している。鉄道は1905年に発足したFS(国鉄)が総延長距離の80%以上を占めていたが、FSは2000年にトレンイタリア株式会社として民営化された。トレンイタリアの営業キロは1万5985キロメートルで、68.1%が電化されている。他方、道路の延長(2003)は48万4688キロメートルで、そのうち、6621キロメートルが高速道路となっている。なかでもミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリを結び、イタリア半島を縦貫する「太陽自動車道路」(アウトストラーダ・デル・ソーレAutostrada del sole)は有名である。
[堺 憲一]
ムスティエ文化、オーリニャック文化の遺跡が発見されたことで、イタリア半島には旧石器時代にグリマルディ人種の祖先を含むさまざまな種族がいたことが推定される。ただし、半島の人種的形成が明らかになるのは、青銅器時代以後のことである。紀元前1700~前1200年の青銅器時代に、半島にはアペニン文化圏とポー文化圏が存在していた。前者はボローニャからタラントにかけて広がっているが、その人種的系譜としてバルカン半島から移動した種族が中心であるという説が強い。後者はポー平野とリグリア海岸に多くの遺跡が発見され、他のヨーロッパ地域にもみられる杭上(こうじょう)住居を特徴としていることから、スイス東部から南下したインド・ヨーロッパ語族にその人種的系譜を求める説が有力である。この南下したインド・ヨーロッパ語族のイタリキは、北西部のリグリ人などの種族との融合や、地中海人種の前シクリ人、シカニ人、エリミ人の文化を吸収することによって、鉄器時代に火葬墳墓を特徴とするビッラノーバ文化を形成する。したがって、古代イタリアの人種的、文化的主体は、インド・ヨーロッパ語族のイタリキといえる。
前6世紀に中部イタリアを支配し、半島の歴史で重要な役割を演ずるのは、エトルスキ(エトルリア人)である。この種族の系譜は、その文字が解読されていないため、まだ明らかでない。ただ金属加工の技術や祭儀にアジアの種族との類似性がみられることから、エトルスキは小アジアから移動してきたという説が有力である。前4世紀初めにケルト人が北から侵入してくると、エトルスキの支配は崩壊する。このケルト人に対決しえたのは、北部ラティウムを中心に支配し、古ラテン人とよばれるイタリキであった。そのイタリキ人のなかで、ラティウム地方のテベレ川下流左岸に住んでいたローマ人は、エトルスキにかわって半島の支配を確立するようになる。
このように、イタリア人は、旧石器時代以来数多くの民族や種族が混合して形成された。現在の住民は大部分がイタリア人であるが、人種的に異なる少数民族が散在する。北部では、ドイツ系が住むトレンティーノ、アルト・アディジェ、フランス系のバッレ・ダオスタ、スラブ系のフリウリ、ベネチア・ジュリアなどがある。これらの地域に対して特別の自治が認められている。また南部イタリアやシチリア島に、陸の孤島のようにギリシア人やアルバニア人の町が存在する。ギリシア人の場合は、古代ギリシアの植民地がそのまま残ったものと考えられる。アルバニア人の場合は、14世紀にトルコの支配を逃れた集団が住み着いたものである。
イタリアでは国民の圧倒的多数が、ラテン語から派生したロマンス語の一つであるイタリア語を使用している。ただ、イタリアは方言の差が著しく、一般に標準語とされるのはトスカナ方言である。そのほかに、バッレ・ダオスタではフランス語が話され、公用語としても認められている。オーストリアとの国境に近いアルト・アディジェではドイツ語が、スロベニアに近いウディネやトリエステではスラブ語が、サルデーニャ島のアルゲーロではカタロニア語が、シチリア島のピアーナ・デルリ・アルバネージではアルバニア語が、南イタリアのアスプロモンテではギリシア語が話されている。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリアでは、1961年、1971年というように、1のつく年に10年ごとに国勢調査が行われる。1861年、すなわちイタリア統一の年の国勢調査では、総人口2212万人であった。ただ、これにはベネト地方(1866年併合)、ローマ(1870年併合)、トレンティーノ、アルト・アディジェ地方(1915~1918年併合)が含まれていない。この地域の住民を加えれば、1861年の段階で2600万人の人口を擁していたことになる。その後、1881年には3000万人、1901年には3300万人、1911年には3600万人と増加している。
第一次世界大戦で60万人という大量の戦闘における犠牲者を出したのち、1921年の国勢調査では、ベルサイユ条約に基づくトレンティーノ、アルト・アディジェ、ベネチア・ジュリア、イストリアなどの併合もあって、人口は3850万人に増加した。第二次世界大戦では第一次世界大戦のような大量の犠牲者を出すことはなかったものの、パリ条約による東部国境の割譲で、一時、人口は減少した。その後の経過は、1951年4750万人、1961年5060万人、1971年5413万人、1981年5657万人、1991年5678万人、2001年5711万人である。このように、戦争による人口の減少を除外すれば、イタリアは年ごとに著しい人口増加をみた。その原因には幼児死亡率の低下(出生1000人につき4.2人。2006)、平均寿命の延び(1951年と2006年を比較すると、男性が63.7歳から78歳、女性が67.2歳から84歳)、疫病の減少などがある。
イタリアの人口問題を考える際に、見逃すことのできない現象がある。それは、統一後百数十年の間に、国内における著しい人口移動があったことである。その一つは、のちに移民に関連して述べるように、農村から都市へ、南から北への移動である。もう一つは、イタリア王国が1861年にトリノを首都と定めたのち、1868年にフィレンツェ、1871年にローマへと遷都したことである。この遷都に伴って、役人、宮廷人などの多量の人口移動が行われた。この二つの原因により、1861年に2万人以上の都市に住む人の比率が19.6%であったのに、1世紀後の1961年には47.7%、1971年には52.4%と高くなっている。また、統一時に10万人を超える都市はわずか11都市であったのに、1961年には36都市、1971年には47都市に増えている。このことは、都市への人口集中と農村の過疎化を引き起こした。
イタリアにおける人口移動には、移民によるものがある。労働力の移動として移民を考えるとき、海外移住と国内移住を分ける必要がある。海外への移民は、19世紀以後の人口増加に伴う世界的現象であるが、イタリアの場合は現在に至るまでとぎれることなく移民が続いている。また、その数においても他国をはるかに上回っている。このことは、イタリアの移民問題がその経済構造に深く起因していることを意味している。
海外移民は大きく3期に区分することができる。第1期はイタリア統一後から第一次世界大戦までで、1913年には1年間で80万人以上のイタリア人が、とりわけ両アメリカ大陸やフランスに半永久的に移民している。第2期は1919年から第二次世界大戦までである。とくにファシズム政権期にはエチオピア、エリトリア、ソマリア、リビアといったアフリカの植民地に国策として多くの移民が行われた。第3期は第二次世界大戦後である。この時期は、全体的に西ヨーロッパのスイス、フランス、旧西ドイツに向けて出稼ぎ的に移民していた。イタリアのほとんどの地域から移民が行われているが、その数が圧倒的に多いのは、経済的に後進地域である南部イタリア、シチリアである。この1世紀の間に、イタリア全域から外国に移民を行った者の数は約2700万人に上る。アメリカの大都市にリトル・イタリーとよばれるイタリア人だけが住む地域があり、南米諸国でもイタリア人だけのコロニーができているほどである。
一方、海外からイタリアへの流入は、1990年の東欧の民主化以降増加したが、不法移民も多い。そのため、2002年にはヨーロッパ諸国中でもっとも厳しいといえる移民法が成立したが、リビアなどからの密入国が続いている。
第二次世界大戦後、農村部から都市部への著しい人口の移動という現象がみられる。とくに、南部の未熟練労働者が、しばしば家族ぐるみで、ミラノ、トリノ、ジェノバのいわゆる工業三角形地帯に移住している。その原因として、南部の経済的後進性や、農業に機械が導入されたことによって過剰となった労働力が、多量に北部の工業地帯に移動したということがいえる。
近年の人口問題として、出生率の低下と人口の高齢化が指摘される。出生率は人口1000に対して9.5人(2005)であり、人口の自然増加率は人口1000人に対して-0.2人(2005)となっている。なお、合計特殊出生率(1人の女性が生涯に何人の子供を産むかの予測指数)は1.32(2004)である。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリアの労働運動の中核であるイタリア労働総同盟(CGIL(チジル))は、反ファシズム闘争の過程で生まれた。1943~1944年にかけて、北イタリアを中心に戦争反対や経済的要求を掲げるストライキが広がり、さまざまな組織が結成された。この時期に反ファシズムの主要な三大政党である共産党、社会党、キリスト教民主党の間で統一労働組合結成の準備が進められ、1947年6月、フィレンツェでCGILの第1回全国大会が開催された。だが、政党間のイデオロギー上の対立、社会党の分裂、国内政治の労働組合への直接的影響といった戦後の複雑な国内、国外の状況もあって、1948年7月のキリスト教民主党系指導者の脱退、続く社会民主党・共和党系の分裂で、統一組織としてのCGILは短期間のうちに分解した。キリスト教民主党はイタリア労働組合連盟(CISL(チズル))、社会民主党・共和党はイタリア労働連合(UIL(ウイル))をそれぞれ結成した。この労働組合の分裂によって、イタリアの労働運動自体も著しく後退し、暗黒時代を迎えることになる。とくに共産党・社会党系のCGILの組合員に対する差別待遇、配置転換、解雇といった激しい攻撃が行われた。この経営者側からの攻撃で労働運動は著しく後退するが、1950年代中ごろから、労働組合の再統一と政党からの自立の要求がしだいに高まってくる。
1962~1963年にかけて、金属産業労働者の協約改定闘争の全国的展開と相まって、労働運動は沈滞を抜け出した。1950年代末から1960年代を通じて、イタリアは著しい経済の高度成長を遂げた。しかし、その発展は、すでに存在していた南北の経済格差、工業と農業の格差を複雑かつ重層化し、同時に技術的再編と再組織、それによる人員の削減、労働強化、労働環境の悪化などをもたらした。1960年代末、年金制度の根本的改革を要求する全国統一ゼネスト、賃金の地域差撤廃の全国統一ゼネストは、経営内の要求闘争から全般的な社会改革闘争へと労働組合運動の変質を促した。さらに、1969年の「熱い秋」を頂点とするイタリアの労働運動は、底辺労働者の直接民主主義による自由投票で選ばれたメンバーからなる工場評議会とよばれる組織を局地的に生み出し、職場の闘争指導や中心的な決定機関となった。1972年には、金属、化学、繊維、食品の分野で約6000の工場評議会が130万人以上の労働者を、建設、農業、サービス部門では8000余りの工場評議会が約230万人の労働者をカバーしている。この工場評議会運動は、労働組合中心から労働者中心へと労働運動の質的変化をもたらした。また、このことは同時に、労働組合の政党依存から自立への過程でもあった。
1969年の労働運動攻勢以後、三大労組の統一闘争が進み、1973年には三大労組の「連合体」が結成され、共同行動をとることとなったが、1980年代に入ると社会・経済危機のなかで、労働組合運動は退潮傾向を示した。とくに社会党のクラクシを首相とする連立政権が1983年に行ったスカラ・モービレ(賃金物価スライド制)の修正をめぐって、この政策を支持するCISL、UILと、これに反対するCIGLとの間で意見の対立が激化し、3団体の統一への動きは挫折(ざせつ)した。なお、スカラ・モービレは1993年に廃止された。1993年に政労使の三者で締結された協定では、2年ごとに三者が協議したうえで、予想物価上昇率を設定し、その範囲内で産業別の団体交渉によって賃上げ率を決定することになった。
以上に述べた三大労組以外に、CISLからのちに分かれた独立労働組合連盟(CISAL)やネオファシスト系の民族労働組合連盟(CISNAL)がある。2002年時点の三大ナショナル・センターの組合員数は、CGIL約550万人、CISL約420万人、UIL約160万人である。なお、組織労働者の比率は、1980年代初頭まで全労働者人口中、約50%弱であったが、1990年代に入って40%を下回った。
[藤澤房俊・池谷知明]
2008年のイタリアの国内総生産(GDP)額は2兆3139億ドルで、1人当りGDPは3万8996ドルである。生活水準の比較はむずかしいが、一般的にイタリアの場合は高いといえる。エネルギー危機以後、イタリア経済は、生産に対する労働賃金の高騰やエネルギー資源の原料価格の世界的高騰による工業生産利益の落ち込み、年金などの拡大による国家財政の圧迫が複合的に交錯する危機に陥った。この状況は、有資格者や大学卒業者の若い知識階層の失業を引き起こし、社会的価値の危機と結び付いた鋭い社会的緊張をつくりだした。その緊張はしばしば大学などの教育の場に震源地をもち、極右・極左グループを生み出した。その結果、ブリガーテ・ロッセ(赤い旅団)によるモロ首相殺害事件(1978)などに象徴される左右両翼のテロが激化することになる。
1994年の就業状況は、2000万2000人の有職者のなかで農業を主とする第一次産業の就業者は157万2000人、製造業就業者は454万2000人であった。一方、1993年の失業者は268万7000人であった。この失業者を年齢的にみると、15~24歳までの失業率は男性が26.8%、女性が34.3%、25~49歳までの失業率は男性5.6%、女性11.7%、50~64歳までの失業率は男性2.7%、女性3.8%である。女性の就業率はあまり高くないが、大学教授、図書館長、美術館長といった要職に女性がついているケースが多い。また小学校の教師の90%が女性である。
2007年の就業人口(15歳以上)は2322万2000人(男性1405万7000人、女性916万5000人)で、製造業が487万人、卸・小売業が354万1000人、不動産業、物品賃貸業等が254万2000人の順に多く、農林水産業等は92万3000人である。2007年の失業率は6.1%で、男性4.9%、女性7.9%となっている。週当り実労働時間(非農林漁業)は34.5時間(男性37.9時間、女性29.7時間)で、41.3時間(男性45.9時間、女性34.8時間)の日本に比べると約16%短い。
イタリアの住宅状況はとくに都市部で厳しい。都市の中心部は土地が限られていることで、郊外に新しいアパート群がつくられている。1978年にエコー・カノーネ法(公正家賃法)ができたが、それによって家の広さ、交通の便、環境、設備など細かい基準で家賃が決められている。この家賃はかなり低価格であることと、それに違反した場合には罰せられることもあって、家主が空き家のまま放置しておく状況が生まれている。
これまでのイタリアの社会保障制度は他の先進国に比べて受給者に有利な制度であったが、そのため膨大な財政赤字の原因となっていた。年金制度改革は1970年代末から歴代内閣が着手したが、大きな改革はディーニ内閣のもとで1995年に行われた。主要な改正点は、年金給付の計算方法を直近5年間の平均報酬ベースから拠出ベースに変更、受給開始年齢の引上げ(2000年までに男性は62歳から65歳へ、女性は57歳から60歳へ)などである。その後も年金制度改革は進められている。保険機関には、民間企業従業者の失業・養老保険を扱う社会保険公庫(INPS)、健康保険などを扱う国民保健サービス機構(SSN)、労働傷害を扱う労災保険公庫(INAIL)などがある。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリアの教育制度の成立は1859年のカザーティ法にみることができる。この法律によれば、下級・上級課程それぞれ2か年の無償の4年制小学校設置が、各市町村に義務づけられた。ただ、義務教育は下級課程2年のみとした。上級学校は人口4000人以上の都市のみに設置され、それは、大学に進学するための古典中学校および高等学校(ジンナッシオ・リチェオ)の準備学校と位置づけられた。その後1877年にカザーティ法を発展させたコッピーノ法が公布され、それによって義務教育年限は3年となり、1904年のオルランド法で6年となった。現行の小学校(初等教育)5年、中学校(前期中等教育)3年という義務教育年限は、1923年のジェンティーレ法で決められた。
義務教育に続く上級学校として、美術学校、音楽学校、それに大学に進学するための普通高校、専門高校がある。専門高校卒業後は、大学の関連学部に進むことができる。普通高校は文科系と理科系に分かれている。大学は国立がほとんどで主要都市にある。ボローニャ大学(1088年創立)、ローマ大学(1303年創立)などの歴史のある大学が多い。私立大学としてはミラノのボッコーニ大学や聖心カトリック大学が有名である。
2001~2002学年度の小学校数は1万8595校、生徒数277万2828人、中学校数は7903校、生徒数は179万4858人である。近年、移民増加によりイタリア語ができない生徒の増加が問題となっている。
かつてイタリア人の99%がカトリック教徒であったが、今日では、カトリック教徒が約97%で、カトリック教徒以外では、プロテスタント、ユダヤ教徒、ギリシア正教徒、イスラム教徒、仏教徒がいる。イタリアは、1948年に憲法で信教の自由を保障している。
[藤澤房俊・池谷知明]
欧米諸国に共通してみられる現象であるが、イタリアでも1950年代後半からのマス・メディア、とくにテレビの普及により、ビートあるいはヒッピー文化が生まれた。これは若い世代の音楽やファッションの分野に限定されるものではなく、古い世代をも広く含めて、離婚、性の自由といった主張を行い、カトリック教に著しく縛られていた価値体系に大きな影響を及ぼした。また自動車、冷蔵庫、洗濯機といった家庭電器製品の急速な普及による消費社会の特徴と、学校、医療機関の拡充による近代的社会生活の枠組みが明確になった。
このような世界的共通現象としての価値体系や社会構造の変質を背景に、イタリアでも社会の本質的変化を促す経験を経ることになる。まず第1番目は、宗教界の新しい動きである。1965~1966年の第2回バチカン公会議後、教皇ヨハネス23世が提起したカトリックの「左旋回」を契機に生じた一つの運動がある。とくに若い司祭たちは、布教活動や慈善事業を通じての一般大衆や信者との日常的接触のなかで、イタリアの社会矛盾を痛切に感じ、社会の根本的改革を主張するようになった。ヨハネス23世の提起は、この若い司祭たちに多大な影響を及ぼし、位階にとらわれないキリスト教を実現し、福音書(ふくいんしょ)の忠実な解釈を主張する運動を引き起こした。この運動は、イタリアで遅れていた教会の世俗化を促進し、1960年代に入ると資本主義社会批判を行うまでになった。この運動は教会に対して破壊的な衝撃を与え、キリスト教民主党内部でも少なからぬ動揺を引き起こした。
第2番目は、就学率、とくに大学進学率の増加ということである。それまで大学への進学は限定されており、それだけに卒業後の社会的地位や職業も保証されていた。だが大学卒業者の増加と経済不況が同時に進行したことで、卒業後の就職は保証されなくなり、大学は大量の学生を抱え、「大学生の駐車場」とよばれるようにさえなった。この状況は、1960年代後半の世界的な学生運動の高揚のなかで、激しい学生の反乱を生み出した。
第3番目は、1960年代末の「熱い秋」とよばれる学生運動の高揚ののち、北部イタリアで始まる青年労働者を中心とする組合運動である。この運動は、イタリアが近代的工業国であるにもかかわらず、所得、権利、そして労働者の社会観などが旧態依然であったことに起因していた。またこの運動は、南部からの出稼ぎ労働者と北部出身の熟練労働者との間に歴然として存在する差別を除去し、労働者が団結しうる広い基盤と労働者の直接民主主義(工場評議会)をつくりだした。
第4番目は、女性解放運動の高揚である。出生率の低下、家庭電気器具の普及による女性の余暇の増大、教育の普及といった状況は、女性が男性と同等の権利を要求し、現代社会の新しい価値体系をつくりだす重要な前提条件であった。これに加えて、1974年5月に行われた「離婚法廃止」をめぐる国民投票で、6対4の比率で一定の条件下で離婚を認める「離婚法」が存続することになったことは、重要な意味をもっている。社会や家庭にカトリックの影響が深く浸透しているイタリアにおいて離婚法が存続することは、画期的な事件であり、女性解放運動にも多大な刺激を与えた。さらに、イタリアの伝統的価値体系に強力な打撃を与えたのは、1978年6月に施行された「妊娠中絶法」で、これにより一定の条件下で妊娠中絶が合法化されたのである。この法律は、女性解放運動の一つの重要な成果であった。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリア文化には、古代ローマの文化的、精神的伝統とカトリック教の影響が強くみられる。とくに、カトリック教との関係はけっして見落とすことができない。確かに、ヨーロッパの文化自体キリスト教と切り離すことはできない。しかし、イタリアは、その中心にカトリックの総本山であるバチカン市国を抱え、歴史的にみてもその影響を強く受け続けてきた。それゆえに、イタリアとキリスト教の関係は他の西欧諸国よりもはるかに強いといわねばならない。たとえば、イタリア・ルネサンス美術の巨匠であるミケランジェロ、ラファエッロなどは、教皇庁の要請を受けて数多くの傑作を残している。その代表的なものが、サン・ピエトロ大聖堂、システィナ礼拝堂にみられる作品群である。また、ローマ、フィレンツェ、ミラノなどイタリアの各都市にみられる数多くの教会建築のなかに、イタリア人の天才的ともいえる芸術的才能が十分に発揮されている。キリスト教との関係は、単に芸術の分野だけでなく、文学、思想、そして国民の生活にまで現在でも強く存続している。
イタリアはまた、古代ローマ帝国の中心的位置にあった。ローマ帝国の場合も、単にイタリアだけにとどまるものではなく、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの3大陸にまたがる広大な広がりを有していた。ただ、その文化的伝統はとりわけイタリアに強く、現在でも古代ローマの遺産がイタリア人の生活のなかで生き続けているといえる。たとえば、白大理石とガラスを基調とする近代的なローマのテルミニ(終着)駅は、セルウィウス・トゥリウス王の城壁(前4世紀)の遺跡を組み入れて、近代的な建築と古代ローマの遺産を調和させている。ここには、歴史的遺産の保護という精神と、イタリア人のなかに根強く残るローマ人の文化的継承者、末裔(まつえい)という誇りをかいまみることができる。
さらに、イタリア文化の形成を語るとき、前述した二つの要素に加えて、次のことを忘れてはならない。12~14世紀のコムーネ時代の影響が大きな意味をもつということである。イタリア文化とは、きわめてあいまいな表現である。イタリア文化とは、フィレンツェの、ベネチアの、ナポリの文化を語ることである。イタリアは、独自の歴史と文化をもつ数多くのコムーネから成り立っている。フィレンツェはメディチ家を中心とする家父長的雰囲気と経済的発展を背景にルネサンス文化を、ベネチアは東西貿易を基礎とする東洋色の強い文化を、ナポリは地中海を舞台とする歴史を反映した文化を、それぞれはぐくんできた。その結果、イタリア文化とは、フィレンツェ、ベネチア、ナポリといったさまざまな都市の固有な文化の集合的なものといえる。現在でも、初対面の会話で、「私はフィレンツェ人です」とか、「私はベネチア人です」と、それぞれの出身地が語られる。このことは、自分たちの郷土に対する強い愛着と、その歴史や文化に対する尊敬と誇りを意味している。このイタリア文化の特殊性は、フランスと比較すると歴然とする。フランスがパリを中心とする文化であるのに対して、イタリアはミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ローマ、ナポリといった多様なコムーネの文化で成り立っている。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリアの一般的な国民性を語ることは非常にむずかしいし、ある意味でそれは不可能なことである。普通、イタリア人は外交的で、たいへん屈託のない、陽気な国民であるといわれる。しかし、前述したように、コムーネの伝統もあって、イタリアはカンパリイズモ(郷土主義)がとりわけ著しく、それぞれの地方が独自の特徴をもっている。南部と北部では、異なる歴史的変遷をみただけに、表面的にも著しい差異が存在する。北部では背が高く金髪の人が多いのに対して、南部では黒髪の背の低い人が多い。北部の人はまじめで勤勉であるのに対して、南部の人は楽天的で怠惰であるという一種の偏見に基づく言い方にも部分的には真実が含まれている。このような地域差を踏まえたうえで、イタリアの国民性は、キリスト教思想に裏打ちされた長い文化的伝統を基礎にする重厚な文化への愛といえる。
家族関係や生活形態は、著しい地域差に加えて、社会階層においても相違がみられる。北部の都市部の場合、その経済的発展や欧米諸国からの影響もあって、生活形態もしだいに変化している。食事を家族全員でとるのはイタリアの一般的習慣であり、イタリアの家族関係を考える場合に重要なことである。しかし、商業都市ミラノなどでは、仕事の都合などで父親は工場の食堂やレストランなどで昼食をとる傾向が強まっている。一方、南部では、家族全員で昼食をとり、シエスタとよばれる午睡をとり、午後4時ごろからふたたび仕事につく。このことは、昼食を挟んで1日の労働を分けるという古くからの習慣である。また、アフリカから地中海を通って吹いてくる熱い湿った風シロッコが、午後の労働に適さないということも原因している。それだけに、南部の人の労働開始は早く、朝7時ごろに働き始めている。このことからいえば、南部の人が怠惰であるという指摘はあたらない。
親子関係については、イタリアでは概して肉親同士の結束が非常に強い。ただ、長男が両親と同居して、その老後の世話をするということはあまりみられない。結婚した子供たちはそれぞれ独立して生活を営み、両親と子供は互いをあてにしない。そこにはよい意味の個人主義が貫かれている。また、けっして十分とはいえないが、年金制度がある程度確立していることもその理由の一つと考えられる。
イタリアの地域社会は、その歴史的な都市構造に強く特徴づけられている。どんな小さな町でもその中心にピアッツァ(広場)があり、その周囲に教会や市庁舎がある。ピアッツァは、地域社会の情報交換の場であると同時に、憩いの場であり、社交の場でもある。そこで政治、経済、家族のことなどが語られる。南部の町では、日曜日に黒っぽい服で正装した男性がピアッツァに集まり、トランプに興じ、議論に口角泡を飛ばしている光景をしばしば目にすることができる。このピアッツァを中心とする地域社会をスムーズに運営するために、血縁、友人、知人関係が重要な役割を果たす。これをクリエンテリズモ(縁故主義)とよび、しばしばスキャンダルを引き起こすほどイタリア社会に深く根を降ろした一つの特徴である。
大部分がカトリック教徒であるイタリア人だが、規則的にミサに行く者は、最近ではその1割にも満たない。それも老人や女性、子供が圧倒的に多い。教会における結婚式の数が減少している一方で、市役所に婚姻届を提出し、結婚の誓約を行う市民婚の数が増加している。この現象は、イタリア人の生活のなかで宗教のもつ意味が弱まったことを示唆しているとも考えられる。だがその一方、クリスマスや復活祭などの宗教的祭日や習慣がいまなお彼らの生活のなかに深く浸透しており、イタリア人と宗教の関係は非常に密接である。
余暇の過ごし方にもイタリア人の国民性の一端をみることができる。日曜日は家族連れで郊外や海に出かける。最近の傾向として、都市部に持ち家はないが、郊外にいわゆるセカンド・ハウスをもち、日曜日や長い夏のバカンスをそこで過ごす。土曜の夜などは、子供を寝かせたあと、夫婦で友人宅や映画に出かける。このように、仕事と私的生活を明確に区別し、家族の、あるいは個々人の生活を確立している。スポーツ活動も非常に盛んである。
日本の野球にあたる国民的なスポーツはサッカーである。各都市にプロ・サッカーのチームがあり、試合のときには旗を車の窓から出して試合場に行き、ひいきのチームが勝ったときなどクラクションを鳴らし続けて車を走らせる熱狂ぶりである。ここにも郷土主義が露骨なまでに主張され、ローマのASローマ、ラツィオ、トリノのユベントス、ミラノのACミラン、インテル・ミラノといったチームをそれぞれの町で応援している。そのほか人気のあるスポーツに、自転車、フェンシング、テニスなどがある。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリアは、国それ自体が歴史的遺跡とよべるほど、古くはエトルリア時代から現代美術に至るまで非常に豊富な文化遺産を有し、2009年6月時点で、世界遺産登録件数(バチカン市国、サン・マリノを含む)は46件に及び、世界最多となっている。至る所に美術館や博物館が存在する。その多くが古代遺跡や歴史的建造物を利用し、それぞれの特色を出している。ディオクレティアヌス浴場跡に建てられ、通称テルメ(浴場)美術館とよばれるローマ国立博物館には、ギリシア・ローマ時代の彫刻が集められており、ローマ時代に宗教上の行事が行われていたカンピドリオの丘にあるミケランジェロの設計したカピトリーノ美術館には、ローマ時代の作品が多く集められている。メディチ家の事務所としてバザーリが設計したウフィツィ美術館にはルネサンスの巨匠ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロなどの作品が、ピッティ家の屋敷としてブルネレスキが設計したピッティ美術館には、ラファエッロなどの作品が集められている。ナポレオン支配時代の1809年に開館したミラノのブレラ美術館には、ロンバルディア出身作家の作品が収蔵されている。このように、イタリアのあらゆる都市に、それぞれの歴史を十分に生かしたさまざまな私立・公立の美術館や博物館が存在する。国や地方自治体も美術作品の保存と管理に積極的な助成を行っているが、数の多さということもあって、それは満足できるものとはいいがたい。警備員の不足を理由に美術館の一部が閉鎖されていることがしばしばあるし、貴重な作品が盗難にあい、外国に持ち出されるケースもある。国や地方自治体は、保存と管理に対する助成のほかに、画家の生誕・死没を記念する催しや研究集会なども積極的に後援している。また、小・中学生の美術館見学が日常的に行われ、日曜日には美術館を一般に無料公開するところが多い。このように、芸術作品との接触がイタリア人の生活のなかに組み込まれており、このことがイタリア人の美意識を高めることにもなっている。
国立の図書館や公文書館も、ミラノ、トリノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、パレルモといった大都市に存在し、一般にそれぞれの地方に関する資料や書物を所蔵している。大規模な図書館のほかに、美術史、医学史、中世史、近・現代史の専門的な図書館が存在する。
劇場は、ローマのオペラ劇場、ミラノのスカラ座、ナポリのサン・カルロ歌劇場、パレルモのマッシモ劇場といった有名なもののほかにも、小規模ではあるが、ほとんどの都市に劇場がある。夏の観光シーズンには、ローマのカラカラ浴場跡やベローナの古代ローマの屋外劇場でオペラの夕べが、またシチリアのタオルミーナではギリシア人の建てた屋外劇場でギリシア悲劇が上演される。それぞれの町がその特色を生かして活発な演劇活動を行っている。オペラの上演開始は午後9時ごろからで、オペラ・シーズンの開演の日は上流階級の社交場となり、天井桟敷(さじき)には多くのファンが詰めかける。国もオペラ活動に積極的な助成を行っている。
公園も各都市に大小さまざまなものがあり、市民生活のなかで十分に機能している。ローマでは代表的なものとしてボルゲーゼ公園、ミラノにはセムピオーネ公園、フィレンツェにはボーボリ公園などがあり、非常によく整備されていて、日曜日になると家族連れが繰り出している。
[藤澤房俊・池谷知明]
ダンテ・アリギエーリの『神曲』、フランチェスコ・ペトラルカの『カンツォニエーレ』、ジョバンニ・ボッカチオの『デカメロン』といったイタリア文学の古典は、世界中でいまなお広く読まれており、イタリア人の誇りとするものである。このイタリア文学の古い伝統はいまでも生き続け、ビアレッジョ賞やストレーガ賞などの文学賞が設けられて活発な文学活動が展開されている。日本では、他の欧米諸国の文学作品に比べて、イタリア文学の紹介される機会はあまり多くない。しかし、現代イタリア文学のなかで重要な位置を占めるチェーザレ・パベーゼ、アルベルト・モラービア、イタロ・カルビーノ、レオナルド・シャーシャなどの作品が翻訳されている。
音楽活動も盛んで、数多くの国際コンクールが催されている。バイオリンのパガニーニ国際コンクール、声楽のベルディ国際コンクール、パバロッティ国際コンクール、トリエステ国際作曲コンクール、イタリア国際ハープ・コンクール、国際サレルノ・ピアノ・コンクールなどがある。こうした活発な音楽活動の背景には、グレゴリウス聖歌に源流をもつイタリア音楽の古い歴史、19世紀のイタリア・オペラの隆盛の伝統がある。このようなイタリア音楽の古い伝統ゆえに、音楽用語にイタリア語が用いられ、バイオリンの名器として名高いストラディバリウスを生み出す土壌がつくられたのである。現在、主要都市に音楽学校が存在し、シエナなどでは夏期音楽セミナーが開かれ、イタリア人の音楽への関心の高さを示している。
イタリアは美術作品の宝庫といえるほど、古くはエトルリア、ギリシア・ローマ、中世、ルネサンスとそれぞれの時代の作品が重層的に存在している。この豊かな芸術的環境がイタリア人の美意識をいまもってはぐくんでいる。現代の世界的彫刻家マリーノ・マリーニ、ペリークレ・ファツィーニPericle Fazzini(1913―1987)、ジャコモ・マンズー、エミリオ・グレコの作品、そしてファッション、カー・デザイン、インテリア・デザイン、事務機器のデザインにみられる優れた美的感覚は、イタリアの歴史に深く根ざしたものである。当然、美術教育も盛んで、各都市に美術学校や美術的遺産保存のための修復学校があり、イタリア人だけでなく多くの外国人も学んでいる。2年に1回開催されているベネチア・ビエンナーレは、1895年に初めて開催されて以来100年余りの歴史をもつ、世界でもっとも古い現代美術の国際美術展として知られている。
イタリア映画は、第二次世界大戦後、ネオレアリズモの旗印のもとで活発な展開をみた。ロベルト・ロッセリーニ監督の『戦火のかなた』、ビットリオ・デ・シーカ監督の『靴みがき』『自転車泥棒』、ルイジ・ザンパLuigi Zampa(1905―1991)監督の『平和に生きる』などは多くの人々に強い感動とショックを与えた。その後、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』『夜』、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』『甘い生活』、ルキーノ・ビスコンティ監督の『若者のすべて』など、世界の映画史に残る傑作が次々とつくられた。こうしたイタリア映画を貫く一本の強い糸は、時代やテーマは違っても、人間への愛であり、人間性の追求である。このことは、イタリアの国民性とも関連しており、イタリア映画に人々がひかれるところでもある。また、ベネチア国際映画祭は、1932年に初開催された世界でもっとも古い国際映画祭で、カンヌ国際映画祭(フランス)、ベルリン国際映画祭(ドイツ)とともに三大国際映画祭といわれる。
[藤澤房俊・池谷知明]
イタリアの出版界の特徴は、大都市に出版社が集中することなく、各都市でさまざまな出版社が特色ある活動を行っていることである。大手としては、トリノのエイナウディ社、南イタリアのバーリにあるラテルツァ社、ミラノのモンダドーリ社やフェルトリネッリ社などがある。新聞も、全国紙とよべるのはミラノの『コルリエーレ・デラ・セーラ』紙、ローマの『レップーブリカ』紙ぐらいで、それぞれの都市で地方紙が発行されている。トリノの『ラ・スタンパ』紙、ローマの『メッサジェロ』紙、フィレンツェの『ラ・ナツィオーネ』紙、ナポリの『イル・マッティーノ』紙などがある。スポーツ紙の全国紙には、『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙、『コリエッラ・デッロ・スポルト』紙がある。全国的経済紙には『イル・ソーレ・ベンティ・クワトロ・オーレ』紙がある。また成人人口1000人当りの新聞発行部数(日刊紙)は189部(2008)であり、他の先進諸国に比べて低い。大衆的な週刊誌には『エウロペーオ』誌、『エポカ』誌、『パノラーマ』誌がある。知識人を対象としたものに『エスプレッソ』誌があるが、この週刊誌は、1978年6月に大統領ジョバンニ・レオーニGiovanni Leone(1908―2001)を辞任に追い込んだスキャンダルを、女流ジャーナリストのカミーラ・チェデルナCamilla Cederna(1911―1997)を中心に大々的に告発した。放送は、公営のイタリア・ラジオ・テレビ社(RAI(ライ))とともに、民間のテレビ局も認可されている。しかし、全国ネットワークはRAI(3チャンネル)と首相を務めるベルルスコーニのフィニンベスト・グループのメディアセット(3チャンネル)の寡占状態にある。イタリアのテレビは、政治勢力(政党)との関係が緊密であり、1990年代初頭までRAIも第1チャンネルがキリスト教民主党、第2チャンネルが社会党、第3チャンネルが共産党の影響下にあり、放送改革が課題となっていた。そのため、2004年に従来の放送法にかわる「2004年コミュニケーション制度改革法」(ラジオ・テレビ制度改革法)が成立した。
[藤澤房俊・池谷知明]
日本とイタリアとの関係は、カトリックの日本布教に始まる。九州のキリシタン大名大村、大友、有馬の3藩による純宗教使節である天正(てんしょう)遣欧使節(4少年)の教皇庁への派遣(1582~1590)、仙台藩主伊達政宗(だてまさむね)が、太平洋をめぐる17世紀の国際的な植民政策、宗教政策を背景に、支倉常長(はせくらつねなが)ほか68名を南欧に派遣した慶長(けいちょう)遣欧使節(1613~1620)などで強化されたが、江戸幕府のキリスト教布教禁止と鎖国政策によって交流は中断された。以後幕末期の開国に至るまで交流はないが、1709年(宝永6)にシチリアの神父ジョバンニ・バッティスタ・シドッチがバテレン最後の潜入者として捕らえられ、取り調べられたおり、新井白石(あらいはくせき)と対談して西洋事情を語っている(『西洋紀聞』)。
初めて国際関係が成立したのは1866年(慶応2)に締結された日伊修好条約である。1870年にイタリアから特派全権公使としてビットリオ・サリエル・デットゥハルが来日し、日本側は佐野常民(つねたみ)を弁理公使に任命、派遣し、1907年(明治40)から大使を交換するようになった。1894年、1912年の二度にわたって通商航海条約を締結したが、明治年間、不平等条約の改正に日本が苦労しているとき、日本の改正提案をイタリアはヨーロッパ各国に率先して受け入れ、数回で交渉は妥結した。1930年代に日独伊3国でファシズム政権が誕生し、1937年(昭和12)の日独伊三国防共協定の成立から1940年の三国同盟の締結へと政治的、軍事的にもっとも親密な関係を結び、第二次世界大戦をいわゆる枢軸国としてともに戦うが敗北した。
日本とイタリアとの文化交流は、明治時代に、フォンタネージ、ラグーザ、キヨソーネらの美術家が美術教育のために日本に招かれて顕著になり、同時に、帰国後、日本文化をイタリアに紹介して深められていった。
戦後はさらに文化交流が盛んになり、とくに映画、音楽、美術、ファッションの分野では著しく、1955年(昭和30)に両国の文化交流の発展のため日伊文化協定が結ばれ、東京とローマにおのおの文化会館を設立している。経済の分野でも、EUの構成国であるイタリアと日本との貿易は近年増大傾向にあり、日本の有力企業がミラノに支店や営業所を設置し、交流を深めている。また、「日本的経営方式」がイタリア企業に導入されている。1981年にはローマ法王ヨハネス・パウルス2世(ヨハネ・パウロ2世ともいう)が、また1982年にはペルチーニAlessandro Pertini(1896―1990)大統領が来日した。
イタリアにおける日本研究は、日本におけるイタリア研究と同様に、以前は古典文学や芸術がほとんどであったが、近年はミラノのボッコーニ大学を中心に日本の経済、社会、政治へと広範囲にわたりつつある。なお、有力な日本研究の機関としては、ほかにナポリ大学オリエンターレ(旧称ナポリ東洋大学。1878年以来「日本学」研究部門が設けられている)が古く、もっぱら日本文化、芸術、歴史研究を中心とするが、19世紀末からイタリアにおける日本研究の先駆者たちがここで教育にあたってきた。2009年現在、20大学23学部で日本語が科目として組み込まれており、そのうちナポリ大学、ベネチア大学、ローマ大学、フィレンツェ大学、トリノ大学で日本研究コースの必須科目となっている。その他の大学では選択外国語となっている。
経済関係では、日本への輸出8244億円、日本からの輸入7055億円(2008)で、おもな輸出品目はバッグ、医薬品、自動車、履物、おもな輸入品目は自動車、オートバイ、カメラ・ビデオカメラ、エンジンなどとなっている。イタリアは日本の輸入相手国の第22位(1.0%)、輸出相手国の第25位(0.9%)である(2008)。また、イタリアから日本への直接投資残高は649億円、日本からイタリアへの直接投資残高は796億円で、イタリアから日本に進出している企業は63社、日本からイタリアに進出している企業は196社(2008)となっている。
[高橋 進]
『竹内啓一著「イタリア」(木内信藏編『世界地理6 ヨーロッパⅠ』所収・1979・朝倉書店)』▽『R・プラッキ著、横山正訳『イタリア――その国土と人々』(1980・帝国書院)』▽『土井正興著『イタリア入門』(1985・三省堂)』▽『川島英昭監修『イタリア』(1993・新潮社)』▽『竹内啓一著『地域問題の形成と展開:南イタリア研究』(1998・大明堂)』▽『岡田温司著『イタリア現代思想への招待』(2008・講談社)』▽『北原敦編『イタリア史』(2008・山川出版社)』▽『河野穣著『イタリア共産党史 1921―1943』(1980・新評論)』▽『伊藤昭一郎著『イタリア共産党史 1943―1979』(1980・新評論)』▽『ファシズム研究会編『戦士の革命・生産者の国家――イタリア・ファシズム』(1985・太陽出版)』▽『清水廣一郎・北原敦編『概説イタリア史』(1988・有斐閣)』▽『後房雄著『大転換 イタリア共産党から左翼民主党へ』(1991・窓社)』▽『真柄秀子著『西欧デモクラシーの挑戦』(1992・早稲田大学出版部)』▽『森田秀男著『どこへ行く連立政権』(1993・三田出版会)』▽『馬場康雄・岡沢憲芙編『イタリアの政治』(1999・早稲田大学出版部)』▽『フランコ・フェラレージ著、高橋進監訳『現代イタリアの極右勢力』(2003・大阪経済法科大学出版部)』▽『シロス・ラビーニ著、尾上久雄訳『揺れる中産階級』(日経新書)』▽『M・バンディーニ著、富山和夫訳『イタリア農業百年史』(1959・日本評論社)』▽『井上隆一郎・伊沢久昭編『世界の企業3 フランス・イタリアの政府と企業』(1975・筑摩書房)』▽『藤川鉄馬著『イタリア経済の奇蹟と危機』(1980・産業能率大学出版部)』▽『岡本義行著『イタリアの中小企業戦略』(1994・三田出版会)』▽『馬場康雄・岡沢憲芙編『イタリアの経済』(1999・早稲田大学出版部)』▽『松浦保著『オリーブの風と経済学』(2001・日本経済評論社)』▽『柳沢修著『イタリアとイタリア人』(1977・日本放送出版協会)』▽『平川祐弘編「南欧の永遠の女たち」(『世界の女性史 第8巻 イタリア』所収・1977・評論社)』▽『片桐薫著『グラムシの世界』(1996・勁草書房)』▽『サルヴァトーレ・ルーポ著『マフィアの歴史』(1997・白水社)』▽『藤澤房俊著『大理石の祖国――近代イタリアの国民形成』(1997・筑摩書房)』▽『斉藤寛海・山辺規子・藤内哲也編『イタリア都市社会史入門』(2008・昭和堂)』▽『小島晴洋・小谷眞男・鈴木桂樹他著『現代イタリアの社会保障』(2009・旬報社)』
基本情報
正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana
面積=30万1336km2
人口(2010)=6048万人
首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間)
主要言語=イタリア語
通貨=リラLira(1999年1月よりユーロEuro)
長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。
現在のイタリア共和国の範囲がイタリアとして理解されるようになるのは,近代になってこの範囲においてトスカナ語が共用語として用いられるようになってからのことである。近代以降,イタリアという地名はさまざまなイメージを引き起こす言葉として用いられてきた。古典古代文明の繁栄した土地として,また,カトリック世界の中心地として,イタリアはしばしば文化的および宗教的巡礼の対象であった。アルプスの北の寒冷な国の人々にとって,イタリア旅行は,貴族や文人などのエリートのステータス・シンボルとしての意味も持っていた。19世紀後半に成立したイタリア王国は,イギリス,フランス,ドイツなどの先進工業化諸国に比して,工業化が遅れ,19世紀末からは特に貧しい南部からたくさんの移民が各国に出て行くようになり,貧しい国イタリアというイメージもゆきわたった。
長靴形の半島部およびシチリアとサルデーニャとから成るイタリアの自然は,かなり多様である。夏にはイタリアのほとんどの部分が低緯度大陸気団の影響下に入って,高温・乾燥によって特色づけられる〈地中海の夏〉によっておおわれるが,冬になると,アペニノ山脈の北部および東側は,中緯度大陸気団の影響を受けて,寒冷かつ湿潤であるし,中南部においても西からやってくる低気圧の影響を受けて,しばしば雨の降る不安定な気候を呈する。
地形的に見ると,アルプス造山運動の影響を受けたアルプス山脈とアペニノ山脈とが,国土の骨組みを形づくっていて,大きな平野はアルプス山脈とアペニノ山脈との間の大きな地向斜が第三紀および第四紀の堆積によってうずめられたポー平原があるにすぎない。北部の山地・丘陵部および中南部の高山部には氷河地形が見られるし,中部イタリアおよび南部イタリアには休火山および活火山が多く,火山地形も各地に見られる。
東部アルプスおよびアペニノ山脈においては石灰岩が卓越していて,独特の山容を呈している。特に南部においては,乾燥した気候とあいまって,山地および丘陵部においては地表水が乏しく植生は貧弱である。また,石灰岩地帯の末端の海岸部においては石灰岩地帯を伏流してきた水が湧き出るので,湿地の広がることが多い。
北部のポー川流域平野においては,乱流していた水路を歴史時代において人間が制御することに成功し,肥沃な沖積平野に水稲などの穀物および牧草,野菜などを栽培する豊かな農業が展開されている。これに対して,中部および南部の石灰岩産地および丘陵部においては,土壌侵食や夏の乾燥に対してテラスの造営や灌漑施設の建設を行わなければならず,近代的な集約農業の展開には多くの困難がともなう。内陸部では古代ローマ時代とほとんど変わらない粗放な乾燥地農業が行われているところも多い。また,低い湿地帯においては,排水路の建設による土地改良が大きな課題になっている。
このようにしてイタリアの自然はもともと人間の生産活動にとって決して恵まれたものではないが,何千年にもわたってそこで展開されてきた人間の活動により,豊かな農地が各地につくり出され,社会・文化活動の結節点としての都市が,限られた立地点を求めて絵画的とも言えるたたずまいを見せている。また,人間の経済活動にとっては,大きな障害になってきたかもしれないが,青い地中海の空,複雑な海岸線,荒々しい山容などは,国内および国外のたくさんの観光客を引きつける観光資源になっている。
現在のイタリアの住民の地域的差異を理解するためには,一方では古代の多様な言語的および民族的要素に対して古代ローマが及ぼした一様化の作用,他方では中世および近代においてイタリアの各地にもたらされたいくつかの民族的要素を念頭に置かなければならない。言語の面から見ると,この二つの過程はかなり明瞭にあとづけられるが,住民の体質的特徴にそれを見ることはかなり困難である。それでも,南イタリアにおけるアラブおよびベルベルの侵入の影響,あるいは北イタリアにおけるゲルマン的要素の影響などは容易に観察できる。
イタリアにおける方言の差異は非常に大きい。しかし,イタリア語とならんで公用語としても認められているアディジェ川上流域のドイツ語系住民と,南イタリアに散在するアルバニア系住民の村の場合を除いて,ほとんどの方言はラテン語が俗語化したロマンス語に属する。北部の方言にはプロバンス語に近いものが多く,アオスタの谷においてはイタリア語とならんでフランス語が公用語として認められている。南部の方言は現代イタリア語のもとになったトスカナ方言とは非常に違っていて,民謡などの形でそれらが広く残っている。しかし,国語としてのイタリア語は,非常によく普及しており,アディジェ川上流域の場合を除いて,国語による言語的抑圧に起因する地域問題はイタリアには存在しない。
→イタリア語
行政上は20州から成り,州の下に県がおかれている。通常北イタリアという場合,ロンバルディア,ピエモンテ,バレ・ダオスタ,リグリア,トレンティノ・アルト・アディジェ,ベネト,フリウリ・ベネチア・ジュリアの7州を指しているが,エミリア・ロマーニャ州を北イタリアに含める場合もある。すでにイタリア統一以前から豊かな農業地帯であったし,繊維工業をはじめとする工業の発達もアルプスの山麓部を中心として見られた。イタリアの統一が北イタリア,特にピエモンテの政治的・軍事的イニシアティブのもとに達成されたこともあって,イタリア王国成立後の経済的発展,特に工業化は北イタリアを主要な舞台にしてなされた。第2次大戦前にすでに,トリノ,ミラノ,ジェノバによって囲まれた地帯は,〈工業三角形〉としてイタリアの近代工業の集中する地帯になっていたが,現在は,ベネチアをも含めて東西に長く延びるイタリア経済の中枢部を形づくっている。特にミラノには,イタリア経済の中枢管理機能が集中し,イタリアの経済的首都になっている。また,ポー川中流域から下流域にかけての平野部は,イタリアでもっとも豊かな農業地帯であり,イタリア統一後も著しい生産力の発展を示した。水稲,小麦などの穀物栽培,牧畜,一部の地帯における銘柄ブドウ酒生産などが,近代資本主義的経営によって営まれている。1950年代から60年代にかけてのイタリア経済の高度成長期には,中部イタリアおよび南部イタリアから約250万の人口が北イタリア,特に都市部に流入した。
中部イタリアは通常エミリア・ロマーニャ,マルケ,トスカナ,ウンブリア,ラチオの5州の範囲を指して用いられている。第2次大戦前には伝統的手工業を除いて近代工業の発達はあまり見られなかったが,現在では,アルノ川流域や臨海部には近代工業が立地するようになっている。農業について見れば,ラチオ州を別にすれば伝統的には折半小作制によるブドウと他の作物とを組み合わせた混合耕作が卓越していた地帯であったが,第2次大戦後折半小作制は急速に衰退し,また,農業の機械化にともなって,ブドウ栽培も限られた銘柄産地において,大規模なブドウの専用栽培を行うようになった。フィレンツェ,ピサをはじめとして中世からルネサンス期にかけて独特の都市文明が発達したところであり,各土地の都心部には歴史的都市のおもかげが残っており,文化遺産も豊富である。政治的に見れば,中部イタリアの諸州においては左翼勢力が非常に強い。
南イタリア(メッツォジョルノ)はカンパニア,アブルッツィ,モリーゼ,プーリア,バジリカータ,カラブリア,シチリア,およびサルデーニャの8州から成っている。歴史的に見れば,サルデーニャを別にすれば,常にナポリを中心とする王国を成していた地域であり,その歴史は北イタリアおよび中部イタリアと非常に違っている。このような歴史的事情と民族的・文化的要素の違い,そして両シチリア王国がピエモンテに軍事的に征服されるという形でイタリアの統一が達成されたという事情のために,イタリア王国のもとにおいて,南部の工業化と農業開発とは非常に遅れ,南北の格差はイタリア統一後大きな問題になってきた。もちろん南部の風土条件が北西ヨーロッパ的近代農業の発展に適していないこと,寄生的大土地所有制が南部社会の近代化を妨げてきたという事情も無視することはできない。第2次大戦後,イタリア共和国政府は土地改革,南部への大規模な公共投資を行って,南部開発事業に本格的に取り組んできているが,南北の格差の拡大をなんとか抑えてはいるものの,南部問題は依然としてイタリア国家にとっての重要な問題として残っている。また,南部開発政策の実施にともなって,南部内部における限られた開発地域とその他の地域との間の格差も大きな問題になってきている。
イタリア人の地縁的な帰属意識は重層的な性格をもっている。都市であれ,農村であれ,日本の市町村に相当するコムーネは,数百年の伝統をもち,大都市域の拡大にともなって都市域に併合される場合を除いて,町村合併などということはない。カンパニリズモ(郷党主義)とも言われるコムーネのまとまりは非常に強い。
第2に注目されるのは,イタリアの県(プロビンチア)は,すべて中心都市(二つある場合もある)の名前によって呼ばれていることである。シエナ人といえば,シエナの都市の住民と同時に,シエナ県の住民をも意味する。これは,都市を中心にして,周辺の農村部が政治的・経済的・文化的なまとまりを形づくっていた歴史を反映するものである。次に,現在,共和国憲法によって大幅な自治権が認められている州(レジオーネ)の多くは,すでにローマ時代から,自然的・文化的なまとまりをもち,しばしば一つの行政単位をなしてきた。大幅な州自治が認められているのも,州がまとまった地域単位をなし,住民がそれに対して強い帰属意識を持っていることによっている。このような地方主義(レジオナリズモ)の主張は,イタリア王国成立(1861)のときから常に強かったが,同時に,イタリアの歴史において,分離独立主義の動きは,ごく少数の例外を除いて存在しなかったと言ってよい。1980年代末からは,北部の立場からの地方主義を唱える北部同盟の政治的影響力が大きくなったが,北部のパダーニャ地方を中心とするパダーニャ共和国の独立は多数住民の支持を受けているわけではない。ナショナリズムという言葉が,リージョナリズムの意味で用いられることのあるフランスやスペインと違って,イタリアにおいては,ナショナリズムの対象はイタリアしかない。郷党割拠主義,地方主義,そして強固なナショナリズムの併存,そこにイタリア人の地縁的帰属意識の特色がある。
執筆者:竹内 啓一
ベネデット・クローチェは,リソルジメント(1861)以前については厳密な意味におけるイタリア史は存在しないと述べている。たしかに単一の政治機構に組織された国家がイタリア半島全域を統治するという事態は,ローマ帝国の時代を除いては見られなかった。全体として見れば,イタリア半島の歴史は,権力の分散状態に特徴があるといえるだろう。
イタリアの名の起源は明らかではない。牛vitulusをトーテムとする部族の名に由来するという説があるが,さだかではない。南イタリアに植民地マグナ・グラエキアを築いたギリシア人がこの名を最初に用いたといわれる。本来はイタリア半島南部のごく一部をさす名称であったが,しだいにその範囲が拡大した。アウグストゥスの時に半島のほぼ全域にローマ市民権が与えられて,イタリアの名で呼ばれるようになり,さらにディオクレティアヌスの改革(3世紀末)によって島嶼部もこれに含まれることになった。このことは,後代,とくにルネサンス期以降の人びとによってしばしば想起されたが,実際には19世紀まで統一が成らなかった。
時代区分についてみると,476年のいわゆる〈西ローマ帝国の滅亡〉とその後の東ゴート王国の成立,ユスティニアヌスのイタリア再征服(540)の時期までを古代として扱うのが普通である(〈テラマーレ文化〉〈エトルリア〉〈ローマ〉の項目を参照されたい)。
568年または569年に北イタリアに侵入したランゴバルド族は半島の多くの部分を支配した。彼らはアリウス派からカトリックに改宗し,固有の言語も失いローマ人の中に吸収されてしまうが,後の法慣習(相続法,刑法)に大きな影響を残した。この時代以降を中世と考える。8世紀後半にフランク人が進出してランゴバルド王国を倒し,800年にカールがローマ皇帝の位についたことにより,半島の歴史はドイツに結びつくことになった。この結合は,カロリング朝断絶後弱まったが10世紀のオットー1世以降ふたたび強化された。カロリング家のピピンによって半島の旧ビザンティン領がローマ教皇に寄進され,教皇領の基礎がつくられたことも重要である。西ヨーロッパ全域に影響力を持つ宗教的権威が世俗的領域的な権力として半島内に存在することは,その後の歴史に大きな影響を及ぼした。
イタリア史のもう一つの特徴は,古代以来都市が衰えはしながらも,政治的経済的中心として存続したことである。ランゴバルドやフランクも都市を行政の中心として利用した反面,封建制はドイツ,フランスのようには発展しなかった。11世紀初頭以降,ヨーロッパ全体の経済発展とベネチア,ジェノバを先頭とする地中海商業の展開の中でイタリアの都市は著しく成長し,コムーネ(自治都市)を形成した。12世紀にドイツ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)がイタリア征服のため6回の遠征を行ったとき,北イタリアの諸都市はロンバルディア都市同盟を結成して対抗し,ついにコンスタンツの和(1183)によって自立的地位を承認させた。研究者の中には,これ以前を封建時代,以後をコムーネ時代と分ける者がいる。一方,南イタリアは8世紀以降イスラム勢力の支配下にあったが,11世紀にノルマンが進出し,集権的なシチリア王国を建てた。その後,支配者はホーエンシュタウフェン家,アンジュー家,アラゴン家と変わったが,北のコムーネ群,南の集権的国家というコントラストは存続した。13世紀に入ると,コムーネ相互の抗争,ポポロ,アルテに結集する商工業者層の台頭によって政治秩序が混乱し,一部の領主層の介入もあって,権力がしだいに1人の手に集中するようになった(シニョリーア制)。ミラノのビスコンティ家,ベロナのスカラ家がその先頭に立ち,ベネチアを除くほとんどすべての都市に拡大し,激しい抗争を展開した。15世紀にはミラノ,ベネチア,フィレンツェ,教皇領,ナポリの五大勢力がイタリアの政治を左右するようになり,ローディの和(1454)以降,政局は一応安定した。この時期にルネサンス文化が発達した。制度史家は,この時代をシニョリーア制ないしプリンチパート(君主)制の時代とする。
1494年,フランス王シャルル8世がナポリの主権を主張して南下し,イタリアの諸国家も外国君主の力を利用して勢力の拡大をはかった。北部ではフランス,南部ではスペインが大きな力をもった。その中で教皇領がアレクサンデル6世,ユリウス2世の下で勢力を増大させた。1519年カール5世が神聖ローマ皇帝に選出されるや,積極的なイタリア政策を展開し,フランスと激しく対立し,イタリアはたびたび戦場となった(イタリア戦争)。戦争はカトー・カンブレージ条約(1559)で終結し,イタリアはスペインの支配下に入った。この間に国土は疲弊し,かつて独占的な立場にあった地中海貿易も全体的に縮小し,イギリス,オランダの新興勢力が進出するようになった。ベネチアの資本は土地に投下され,ジェノバの資本はスペインへ流出した。
18世紀にはスペイン継承戦争の結果,オーストリアがイタリアにおける支配的勢力となった。さらにポーランド継承戦争,オーストリア継承戦争の中で,イタリア諸国家の運命は列強の意のままに変転した。その中にあってサボアに拠点を持っていたサボイア公家がしだいにピエモンテに勢力を拡大し,一時シチリア島を得てその王を称し,1720年にシチリアとサルデーニャ島を交換してサルデーニャ王となった。こうしたイタリア戦争以降の時代を伝統的に外国支配の時代と呼んでいる。18世紀後半にはフランスを中心とする啓蒙思想の影響がイタリアに及び,ロンバルディア,トスカナ,ナポリなどで税制,土地制度,裁判,教会特権の廃止などの改革が試みられたが,いずれも成功しなかった。
執筆者:清水 廣一郎
18世紀末(1796-99),フランス革命軍のイタリア遠征に呼応して,イタリア諸国で共和革命が起こった。〈革命の3年間〉あるいは〈ジャコビーノ革命期〉とよばれている。すべて短命に終わったが,この革命でイタリア統一の思想が初めて政治行動の場に移されたことから,研究者の間ではこの革命期をリソルジメントの開始とする見方が有力である。このあと,イタリアに統一国家が形成される1860年までがリソルジメントとよばれる時期になる。リソルジメントは,ナポレオン体制,ウィーン体制,48年革命の諸局面を経過し,またマッツィーニ,ガリバルディ,カブールらさまざまな人物の活動を通して,それに都市民衆や南イタリア農民の独自の運動を呼び起こしながら,統一国家の成立をもたらした。この統一国家は北イタリアのサルデーニャ王国が他の諸国を併合する形で成立し,61年に国名はイタリア王国となった。
ローマとベネト地方はこの時点ではまだ新国家の外にあったが,アルプス山地からイタリア半島を貫いてシチリア島にまで及ぶ全域がひとつの国家のもとに編成されたのは,古代ローマ帝国以来のことであった。統一国家の成立によって,イタリア史はもはや複数の国家の歴史ではなくなったが,しかし,だからといってイタリア史の構造が単純化したのではない。国家としてはたしかにひとつになったが,そこにはいくつもの地域世界が包摂されることになった。それらの地域世界は,北のアルプスから南のシチリアまで,それぞれに固有の文化,伝統,慣習のもとに成り立っており,また地域世界ごとに独自の文化と伝統に根づいた民衆の日常生活が営まれている。そうした多様な地域世界と民衆の日常生活を,単一の国家制度の枠組みの中に編成していくことは多くの困難を伴うものであった。国家と諸地域あるいは国家と民衆にかかわるこの困難な関係が,統一国家成立後のイタリア史を強く特徴づけている。
→リソルジメント
成立当初の新政府は,多様な諸地域を国家制度の中に編成するうえで,諸地域の大幅な自治を認める分権主義にするか,それとも中央政府に権力を集中する集権主義でいくか,議論が分かれていた。選択されたのは後者で,現在にまで及ぶイタリア国家の中央集権的性格が決定づけられた。この中央集権的性格は,内相直属の官僚として中央政府から各県(この時点で59)に派遣され,行政のみならず,地方生活全般にわたって幅広い権限を有する県知事の制度に顕著であった。中央集権制の選択には,ひとつの状況が強く作用していた。それは南イタリアの農民反乱である。反乱は,1860年から65年まで続き,国家は軍隊を投入してようやくのことで鎮圧した。南イタリアの民衆は,以後長期にわたり中央政府に不信を抱き続け,反乱は語り伝えられながら集団の記憶にとどめられた。この事件は,成立まもない国家と民衆の分裂を端的に示したものといえるが,南イタリアの状況は国家と地域という観点においても問題を残した。
統一以前の南イタリアはシチリア島と共に両シチリア王国に編成され,スペイン系のブルボン王朝の支配下にあった。南イタリアでは巨大都市に成長した首都ナポリを除くと,都市の発展はほとんどみられなかった。したがってここでの地域世界のありようは,大小の都市-農村関係にもとづいて地域世界が形成されてきた北イタリアと違って,ナポリが政治的・行政的な支配権を及ぼしながら,他地域に君臨し,寄生する関係をとっていた。しかし,統一国家の成立によってこの関係は崩壊する。つまり,ナポリが首都から一地方都市に転落し,南イタリアはより広い国家と社会の枠組みのなかに編成し直されるのである。ここから,いわゆるナポリ問題が生じてくる。一方,南イタリアの諸地域は,鉄道の発達にも助けられて,ナポリを素通りし,北イタリアと直接に結びつく関係をもつようになる。これは南イタリアのナポリからの解放を意味したが,しかし他方では北イタリアとの関係で新たに南部問題とよばれるイタリア社会の大きな問題を生みだすことになる。
→メッツォジョルノ
南部問題にはシチリアをも含めて共通して指摘できる問題があるけれども,しかし,シチリアはシチリアで独自の考察が必要である。この島は,地中海の穀倉として古代から諸民族の争奪のもとにおかれていたが,統一以前には両シチリア王国の一部をなして,ナポリからの支配を受けていた。しかし,ナポリの支配を嫌って半島部からの分離を求める自治主義の動きが根強く存在し,新国家に組みこまれたのちにも,この自治主義の要求は機会あるごとに表明された。だが,統一以後のシチリア社会で特に重要なのは,マフィアとよばれる現象が出現したことである。マフィア的現象は,農村ブルジョアジーが国家の諸制度に依拠しないで,みずからの実力の行使によって地域的な支配権を確立しようとする試みとみることができる。こうした試みは,国家的観点からは無法,犯罪とされたとしても,地域社会のなかでは慣習的な正当性の意識によって支えられている面があり,そのような状況のもとでは地域世界と国家の関係はより一層複雑な性格をもつことになる。マフィアの活動はこののち変化していく部分があるが,シチリア社会に対する国家とマフィアの重層的な支配の構造は維持され,現在にまで続く。
イタリアは1866年にベネト地方を,70年にローマを併合して,領土的な統一をほぼ完成させた。イタリア国家の首都は,1864年までトリノ,次いでフィレンツェだったが,ローマを併合すると直ちにローマを首都とした。ローマは,古代にはローマ皇帝,中世以降はローマ教皇という普遍的権威の存在によって,ヨーロッパ史のなかで際だった位置を占めてきた。だが,いまやイタリアの首都となることで,普遍的都市から国民的都市へとその歴史的な性格が変化した。ローマの性格の転換は,ローマ教皇がローマの支配権を失い,ローマ市の一隅(バチカン)に押しこめられる過程でもあった。ローマ教皇はイタリア国家との闘争に入り,カトリック信徒に国家への非協力をよびかける。イタリア史を貫いて存在する国家と教会の錯綜した関係は,この段階でローマ問題とよばれる新たな対立の局面を迎える。この対立は,ファシズム時代のラテラノ協定の締結で和解が成るまで続いた。
1880年代から90年代にかけて,イタリア社会に新しい動きが目立ってくる。それは基本的には工業化の開始と農業恐慌という二重の状況に条件づけられていたが,そのおりに政府が導入した保護主義体制にかかわるところが大きかった。この保護主義体制は諸地域の民衆の生活を圧迫し,負担を強いるものだった。民衆はこれにいろいろな形で抵抗を試みようとし,それに関連して社会主義運動とカトリック運動がしだいに力を強めてきた。政府は1887年に,工業と農業両部門の関税率を引き上げて,それまでの自由貿易政策から保護主義へと方針を転換した。保護主義体制は,北部工業の育成,ポー平原の農業家層の保護,それに南部穀作地帯の大土地所有制の保護を狙いとしたもので,農業と工業ならびに北部と南部の二重の関係の新編成を示していた。この体制によって,大土地所有にもとづく南イタリアの伝統的な社会構造が保護されたことは重要で,南部問題がますます深刻化してくる。南部問題の現実を認識した,いわゆる南部主義者が,これ以降さまざまに発言を続けていくが,その多くは政府の善政を期待するもので,南イタリアの内側に身をおいた視点はなかなか出てこなかった。この点は社会主義者やカトリックの場合も同じで,両者の運動とも北イタリアに重点がおかれていて,南部には浸透しなかった。保護主義体制で圧迫された南イタリアの民衆は,こののち移民として,年々大量の数がアメリカ大陸へ向かった。シチリアでは,この体制に反発した民衆が,シチリア・ファッシとよばれる運動を展開したが,厳しく弾圧されて終わり,そのあとやはりアメリカ大陸へ向かう移民が急増した。
さて一方,イタリアで最も肥沃な農業地帯であるポー川流域の平野部は,資本家的農業経営が支配的で,農業労働者が多数存在した。イタリアの社会主義運動はこの地帯の農業労働者を最大の基盤として発展し,農民同盟や協同組合が盛んに組織された。ポー平原の北部からベネトにかけての一帯は,小農や小作農による農業経営が一般的で,ここではカトリック運動が強かった。国家に対立している教会は国会選挙への参加を拒否していたが,カトリック運動を通じて,精神的な面にとどまらず,民衆の日常的な社会生活の領域にもその活動を及ぼしていた。カトリックによる社会問題への取組みは,教皇レオ13世の労働に関する回勅レルム・ノウァルム(1891)によって一段と活発化し,民衆の窮状を救うための農村金庫,協同組合,民衆学校,保健施設などの設置に努力が示された。政府は民衆の抵抗,あるいは社会主義運動やカトリック運動の台頭に直面して,弾圧策を強める一方,エチオピア侵略に乗り出したりした。侵略(1896)は失敗に終わり,また民衆の不満は1898年に全国暴動を呼び起こすなど,政府の行詰りは明らかとなった。
ここで登場したのがジョリッティで,20世紀初頭の約15年間をイタリア史ではジョリッティ時代とよんでいる。この期間は急速な工業成長が果たされた時期であるとともに,議会制民主主義の形成期とも評価されている。この点に関して,ジョリッティにとって二つの問題は不可分なものとしてあった。順調な工業発展を図るためには社会的な安定が必要であり,それには労働者や社会主義勢力に弾圧策で臨むよりも,議会制の中に導きいれて統合を図る方が有利だとする判断である。しかし,二つともに地域的な限定をもっていた。工業発展は北イタリアのミラノ,ジェノバ,トリノを結ぶ三角形に集中して進行した。労働運動,社会主義運動は,これら工業地帯とポー平原農業地帯を基盤としていた。したがって,ジョリッティ時代の民主主義といわれるものは,北イタリア社会を対象としたもので,南イタリアの民衆には依然として抑圧策が続けられた。ジョリッティ時代は,また思想・文化の面でも新しい動きがみられた。クローチェ,ジェンティーレ,パピーニ,プレッツォリーニ,マリネッティ,コラディーニらがそれぞれの雑誌を中心に思想運動,文化運動を進めた。一般的にいってこの時期の文化は,実証主義に対する批判を共通の出発点としながら,精神,意志,感情の働きを強調する傾向をもち,その一部はさらに政治における暴力や直接行動の契機を重視するもので,その意味ではジョリッティの議会主義的な政治姿勢とは相反する立場にあった。
1914年に第1次大戦が勃発する。イタリアはオーストリア,ドイツと三国同盟を結んでいたが中立の態度をとり,翌15年にロンドン秘密条約にもとづいて協商国側で参戦した。戦争には590万の兵士が動員され,60万の戦死者を出した。諸地域の民衆は,この戦争のなかで,自分が国家の一員であることを統一以来初めて意識する機会をもったといえるかもしれない。イタリアはかろうじて戦勝国となったものの,戦後,これらの民衆の改革を求める運動が農民の土地占拠,工業労働者の工場占拠,都市民衆の反物価高闘争など多様な形態をとっていっせいに噴出した。また,ジョリッティ時代から徐々に政治参加を強めていたカトリックが,みずからの政党の結成にふみきり,19年に人民党をつくったのも注目されるできごとである。人民党はただちに社会党と並ぶ大衆政党となって,議会で大量の議席を獲得するが,それには選挙制度が小選挙区制から比例代表制に替わった事情も関係している。しかし,戦後のイタリアでとりわけ重要なのは,ファシズムという新しい形の政治運動が生じたことである。
ファシズム運動は1919年から始まるが,最初はミラノに拠点をおく,それほど目立たない運動だった。それが大衆性と暴力性を強めるのは20年末からのことで,地域的にはポー平原においてである。ポー平原では19世紀末以来,農業家層と農業労働者の間の闘争が激しく繰り返され,社会主義的な自治体が少なからず誕生していた。ファシズムはこのポー平原を大衆的な直接行動によって制圧したあと,北・中部の諸地域を順次獲得していき,そうした地域的な支配を背景にして,22年10月にローマ進軍を敢行する。このときムッソリーニ内閣が成立し,約20年間にわたるファシズム支配の時代が続く。ファシズムの時代を通じてムッソリーニが首相の座を独占していたが,ファシズムの内部には,サンディカリスト・ファシズム,ナショナリスト・ファシズム,テクノクラート・ファシズム,農村ファシズム,保守的ファシズムなどいくつかの潮流があって,互いに対抗しあいながらファシズム体制が築かれていった。ファシズムの支配は労働余暇組織(ドーポラボーロ)など新しい文化制度をつくって大衆の同意をとりつける一方,批判者の存在を許さない厳格な抑圧的機構をつくりあげた。そのもとで社会と経済の官僚的な統制が図られており,社会と経済はファシズムの時代に停滞したのではなく,むしろ合理的な管理のもとにおかれ始めたのである。ファシズムの歴史は同時に反ファシズムの歴史を伴っているが,イタリアがファシズムから解放される過程は,この場合も地域の問題と密接に関連していた。つまり解放は43年7月のシチリアに始まって,時間的なずれをもちながらしだいに南イタリアから中部イタリアへと進行し,45年4月の北部諸都市の解放で終わるという経過をとった。しかも,それは単に時間的なずれがあったというだけでなく,シチリアからローマまでは主として連合軍の手で解放され,フィレンツェから北の地域はレジスタンスの蜂起で解放したという解放の形態の違いも含んでいた。
→反ファシズム →ファシズム
イタリアではファシズムの崩壊後,君主制の存廃を決める国民投票が1946年6月に実施され,君主制の廃止を求める票が過半数を上まわった。サルデーニャ王国以来のサボイア朝は断絶し,イタリアは共和国として生まれ変わることになった。国民投票と同時に行われた制憲議会選挙では,キリスト教民主党(得票率35.2%),社会党(20.7%),共産党(19%)の3党が他の小党を圧倒し,憲法制定の作業はこの3党を中心に進められた。1年半の審議を経て,47年12月にイタリア共和国憲法は制定され,48年1月から施行された。
憲法審議において,諸政党は反ファシズムの共通の立場を基盤に,以前の中央集権的な国家制度を改革する点で一致し,〈州〉制度 の導入を定めた。これによって,国家統一以来の論争のまとであった地域自治の問題に一定の解決を与えることが図られた。やはり国家統一以来の争点となっていた国家と教会の関係については,審議過程で激しい論争を呼んだが,結局,ファシズム政権と教皇庁の間で結ばれたラテラノ協定をそのまま憲法第7条に挿入することになった。非カトリック勢力は社会生活への教会の介入を防ぐために,ラテラノ協定の廃棄を強く求めていたが,教会の地位は引き続き保障されることになった。
制憲議会は憲法の制定だけを任務として,個々の立法の権限をもたなかったので,憲法に盛られた国家制度改革の精神を現実化する課題は,すべて新議会の立法活動に委ねられた。
新憲法下最初の総選挙は1948年4月に実施され,下院における主要政党の得票率は次のようになった。議会は上院と下院の2院制であるが,選挙は同時に行われ,また両院とも選挙方式は比例配分制で得票率に応じた議席数が割り当てられるため,諸政党の勢力分布は上院も下院もほぼ同じである。キリスト教民主党48.8%,社会党と共産党は合同リストで31%,社会民主党7.1%,自由党3.8%。国際情勢はこの時期すでに,米ソの対立を軸とした自由主義陣営と社会主義陣営の間で緊張が高まっており,キリスト教民主党は前者,社共両党は後者の立場を選択していた。2年前の制憲議会選挙ではキリスト教民主党と社会・共産両党の勢力が伯仲したために,この選挙はその均衡がどちらに傾くか内外の注目を集めたが,結果はキリスト教民主党の勝利に終わった。共和制イタリアにおけるキリスト教民主党の長期政権の始まりである。
キリスト教民主党の指導部は,旧人民党やカトリック系労働組合,それに平信徒組織であるカトリック活動団の出身者から構成されていたが,この党がファシズムと君主制の崩壊したあとのイタリアで,支配政党として登場しえたことには諸種の要因が働いていた。まず,ファシズムの崩壊過程で,教会とカトリック活動団がいち早く社会諸集団の新たな結集軸として立ち現れたことが大きいが,カトリックは社会の諸領域にわたって独自の団体の組織化に努め,広範な社会層の支持を獲得した。そして,こうした大衆組織を基盤とするかたわら,君主制から共和制への移行期の官僚機構に浸透して,官僚政党としての性格も強めた。さらには,財政・金融諸機関をコントロールすることで,中小企業から大企業にいたるまでの経営家層を掌握し,これと密接な関係を結んだ。キリスト教民主党はこのような広い範囲の社会諸集団・諸階層の票を集めて議会第一党となり,デ・ガスペリ首相のもとで中道政権を組織した。
新議会には,共和制憲法の精神に基づいた立法活動が期待されたのであるが,国際的な冷戦構造と,それを反映した国内での左右両勢力の対立の深まりによって,キリスト教民主党政権は保守的傾向を強め,制度改革に消極的な姿勢をとった。このため,憲法は新しくなったものの,民法や刑法の重要な条項でファシズム時代のものがそのまま残るという状態が生じた。それに加えて,ファシズム時代の官吏に対する公職追放の基準がゆるやかであったことも重なり,ファシズムから共和制への移行は断絶を伴ったというより,多くの面で制度的な連続性がみられることになった。
憲法に従えば,イタリアに20の州が設けられ,それぞれ州議会と州政府を有して大幅な自治が認められることになっていた。だが,このうち実際に州制度が導入されたのは,特別州と定められたシチリア,サルデーニャ,トレンティノ・アルト・アディジェ,バレ・ダオスタの4州だけで,このあと63年にフリウリ・ベネチア・ジュリア州が成立したのを除くと,残りは70年まで実施が見送られた。特別州となったのは,地中海上で波乱に富んだ歴史をもつシチリア島とサルデーニャ島のほかに,北イタリアの国境地帯の言語マイノリティの存在する地域で,これらは皆,イタリアからの分離や自治を強く表明していたところである。
キリスト教民主党はカトリックの大衆団体を基盤にしていたものの,党組織自体は強固とはいえず,地域の名望家層と教会に依存するところが大きかった。50年代の半ば以降,ファンファーニやモーロなど新世代は,党を名望家や教会に依存する体質から脱皮させて,国家機関と大衆団体の両方にまたがる堅固な構造の党とすることをもくろんだ。そのためにとられた方法は,行政機関や公共団体の役員ポストを確保し,公的資源を利用しての大衆への利益配分という仕組みであった。つまり,既存の行政機関に加えて,社会福祉や産業活動のための公社,公団,事業団を積極的に設立し,それぞれの職種や地域住民に補助とサービスを施したのである。これら行政機関と半官半民の事業団による補助金配分を通して,キリスト教民主党は大衆団体や住民との利害関係を取り結び,国家機関と市民社会にまたがる党組織を確立していった。
キリスト教民主党の総選挙での得票率は,53年以降40%前後の横ばい状態で,過半数に達することなく,常に連立政権を余儀なくされていたが,最大与党の立場は一貫して変わらなかった。これら連立内閣は平均寿命が1年足らずの短命内閣で,ここからイタリアの政治の不安定さが印象づけられているが,実際には内閣が変わってもキリスト教民主党を中心とする政治の枠組みは同じままであり,政治の不安定というより,政治の動態の欠如というべき現象であった。
キリスト教民主党に次ぐ第2党はイタリア共産党で,1950~60年代の総選挙での得票率は25%前後を維持して確固たる勢力を有していた。共産党は,創設者の一人であるグラムシがファシズム政権下の監獄で書き残した《獄中ノート》を文化思想の拠りどころとし,また中部イタリアのトスカナ,エミリア・ロマーニャ,ウンブリアの地域に〈赤いベルト地帯〉とよばれる強固な基盤を築いていた。56年,書記長トリアッティの指導のもとに構造的諸改革の路線を打ち出して,社会主義へのイタリアの道を唱え,国際共産主義運動のなかでイタリア・マルクス主義の独自の立場を模索した。共産党はキリスト教民主党と並んで二大政党の位置を占めていたが,冷戦構造のもとで政権参加から排除されており,万年野党の立場に置かれていた。政治学者の間には,イタリアの政治を〈不完全な二大政党制〉と特徴づけ,二大政党が存在しながら両者間に政権交代の可能性が生まれず,政権の選択肢が閉ざされてしまっている点に政治の動態を欠く原因をみる見解もある。社会党は得票率15%弱で,第3党の位置にあったが,1950年代半ばに共産党との提携を打ち切って,社会民主主義的性格を強めた。
イタリアは50年代後半から60年代前半にかけて,経済の奇跡とよばれる高度成長を経験するが,キリスト教民主党はこの時期に党組織の改造を果たすとともに,左への開放を提唱して,従来の中道ないし中道右派路線から中道左派路線に政策を転換する。この路線転換は社会党との連立内閣の形成として結実し,その第一歩が63年末のモーロ内閣の成立であった。このあと70年代半ばまで,内閣は交代しながらもキリスト教民主党と社会党の提携した中道左派政権が続くことになる。しかしこの時期は,他方でイタリアの社会と文化の大きな変動の時期で,議会外の社会運動が多様に展開した時期でもあった。
ファシズム崩壊後およそ10年を経た1950年代半ばから,イタリア社会のさまざまな面で変化のきざしが現れてくる。このころにキリスト教民主党の指導部で世代の交代が行われ,政府の統治方式に変化が生じたことはすでに指摘したが,54年には国営テレビの放映が開始された。テレビは新たなタイプの娯楽を提供するとともに,全国ネットで流れるいわゆる標準イタリア語の番組は,学校教育を通じてよりもはるかに効果的に,国民の間での言語の一体化に寄与することになった。55年には自動車メーカーのフィアット社がニューモデルの大衆車の生産を始め,車社会の到来を告げた。これと前後して,半島を縦断する太陽の高速道路(アウトストラーダ・デル・ソーレ)の建設も本格化した。56年は,イタリアを訪れる外国人観光客が初めて1000万人を超え,観光収入はこの国の経済にとって大きな比重を占めることになる。
1950年代後半から60年代前半にかけての経済発展の牽引力となったのは,地域的には北イタリア,とりわけトリノ,ミラノ,ジェノバの三大都市を結ぶ工業三角地帯で,この地帯に向けて南イタリアから大量の労働人口の移動が生じた。だが,高度成長の時代が終わると社会のさまざまなひずみが現れ,60年代後半以降イタリアは多くの事件に見舞われる。まず,68年に学生の闘争が起こった。発端は高度成長後の社会に対応しえない古い教育システムへの批判であったが,それは直ちに社会的,文化的な運動へと広がり,生活上の伝統的な規範や権威に対する異議申立ての行動に転化した。翌69年には,労働と生活のふれあう地点での新しい形態の労働運動が噴出し,〈熱い秋〉と呼ばれる激しい社会状況を生み出した。1968-69年の運動は,これまでにないラディカルな方法で既成の諸制度と諸価値に批判を加え,そこからの解放の志向を表明するものであった。
こうした状況は議会にも反応を呼び起こし,与党キリスト教民主党の抵抗を押さえて,離婚法が70年に成立した。そこでキリスト教民主党は,国民投票に訴えて離婚法の廃棄にもちこもうとした。同党は,結婚や家庭の観念を争点にして,カトリック大衆の動員を図るとともに,伝統的な価値と秩序の崩壊を望まない非カトリック市民の支持をも期待したのである。国民投票は74年に実施されたが,離婚法支持が過半数を上まわって,その存続が確定した。離婚法をめぐる経過は,これも長期の論争を経て78年に成立した人工妊娠中絶法とあわせて,市民生活,精神生活において脱カトリック化が進行し,伝統的な規範からの解放が広く求められていることを明らかにした。
1970年にはまた,立法措置のとられないままに実施が見送られていた〈州〉制度が,ようやく実現の運びとなり,前述の特別5州のほかに,新たに15の州議会と州政府が誕生した。この結果,中部イタリアの〈赤いベルト地帯〉に共産党を主体とする州自治体が成立した。中央議会で万年野党の共産党は,かねてより地方自治体での活動を重視しており,たとえば中世都市ボローニャは,戦後一貫して共産党が市政を担当し,同党はそのボローニャを地方自治のモデル都市として機会あるごとに内外に印象づける努力をしてきた。地方選挙における共産党の進出は,こうした効果の表れでもあるが,福祉事業や社会サービスなど市民生活に直結する業務が中央の行政機関から州のそれに移行したことは,従来の行政のあり方に変化をもたらすことになる。
このような社会変動の中で,イタリアは70年代初めから経済危機を迎える。危機の要因の一つは貿易収支の悪化である。工業化の推進による産業構造の変化は,穀物と食肉の輸入依存度を高める貿易構造を作り出していたが,これに73年秋の石油ショックが加わり,国際収支が極端に悪化した。不況が進行する一方で,物価は急カーブを描いて上昇し,国民の経済生活は苦難を強いられた。75年に労働者の生活保護のためにスカラ・モービレ(賃金の物価スライド方式)が導入されたが,経済不況は雇用情勢を悪化させ,大学卒業者を含めた青年層の失業が増大した。
70年代はさらに,左右の過激派の政治テロが激化した時期でもある。1968年以降,直接行動を志向する議会外新左翼の運動が活発となったが,そうした中から都市ゲリラ的性格をもつ〈赤い旅団〉が生まれた。〈赤い旅団〉は国家権力の中枢部を攻撃目標として,政治家や企業家など要人の誘拐や暗殺を企て,実行した。他方,右翼の側では,ファシズムの崩壊直後から,ネオ・ファシズムの立場に立つ〈イタリア社会運動〉の活動が続いていたが,そこから分離した強硬派の集団が爆弾テロを繰り返した。爆弾テロはボローニャとその近辺で多発したが,それはボローニャが共産党市政のモデル都市であることと無関係ではない。
こうした状況のなかで,73年,共産党書記長ベルリンゲルは,〈歴史的妥協〉のスローガンを掲げて,イタリアの危機に対処するためにキリスト教民主党と協力する用意のあることを表明した。〈歴史的妥協〉路線は内外の注目を集め,76年の総選挙では得票率33.8%に達する躍進をみせた。このころキリスト教民主党は,中道左派路線の行きづまりと離婚法問題での孤立化によって苦境に立たされており,最高幹部のモーロはそれの打開のために共産党との歩み寄りを図った。両党は中道諸党派を含めて,経済の安定と政治テロに対する治安強化を柱とする政策協定に合意し,キリスト教民主党のアンドレオッティを首班に,共産党も与党として閣外協力の立場をとる国民連帯政府の形成にこぎつけた(78年3月)。しかし,国民連帯政府の推進者であるモーロが赤い旅団に誘拐,暗殺される事件が起こり,また緊縮財政によって耐乏生活を強いられる労働者の反発も加わって,79年に共産党が与党から離脱し内閣は崩壊した。
イタリアの思想状況を考えると,カトリック思想と非カトリック思想という伝統的な区分法があるが,現実にはそこに階級的要因や地域的要因がからまって,単一ではない多様な関係が含まれている。非カトリックの領域では,クローチェが20世紀初頭以来,歴史,哲学,文芸評論,美学など多分野にわたる活動で思想界の中心的位置を占めてきた。ファシズムの崩壊後,文学者のビットリーニを中心に《ポリテクニコ》誌が刊行され,新世代による新しい文化の創造が目指されたが,政治と文化をめぐる共産党との論争にまきこまれて短命のうちに終わった。その後,グラムシの《獄中ノート》が公刊され,前述のようなイタリア・マルクス主義といわれるものが生み出されたが,グラムシの思想は単にマルクス主義のみでなく,政治と文化の幅広い分野にわたって大きな影響力をもった。こうして思想界にはクローチェとグラムシを二つの軸とする関係ができあがるが,このほか,ゴベッティやサルベーミニの急進自由主義の系譜に立つ思想潮流も,社会諸事象を個別的に問題化(プロブレマティーク)する方法によって重要な位置を占めている。
イタリアの思想状況にとって,南部問題は常に中心的なテーマのひとつであり続け,クローチェは南部社会の指導階級を論じ,グラムシは従属階級に目を向けた。共和制下で南イタリア社会は諸種の開発事業の対象とされ,少なからず変容をとげた面がある。そうした開発をめぐる議論のなかに,政府の善政に期待をよせる古典的な南部主義の考えもまだ生きている。しかし,変容をとげながらも南部の伝統的な地域世界はなおその姿をとどめており,民衆文化にはそうした姿が映し出されている。近年の傾向として,南部社会の内側に視点をすえて,そこで営まれる生活と文化の固有のありように注目しようとする見方が強まった。そこでは,キリスト教が異教的な民間信仰の要素と深く結びついていることや,あるいは呪術的信仰が根強く存続していることが明らかにされ,そのことの意味に関心が向けられている。それらはもはや遅れた世界の古い文化とみなされるのでなく,自然の世界との身近な接触のなかで生活する民衆の心性において,重要な文化要素をなしていることが指摘されている。このように民衆文化に注目し,地域世界の固有のあり方を重視する考え方は,南部問題に限らず,より広く社会と文化の全体を見直す動きに連なっており,イタリア思想界の新たな動向を示している。
→イタリア映画 →イタリア音楽 →イタリア美術 →イタリア文学
執筆者:北原 敦
イタリアにおいて国民経済の前提となる政治的統一が達成されたのは,1861年のことである。もっとも,統一国家が成立したとはいえ,当時のイタリアは〈圧倒的な農業国〉であった。しかも,北西部のポー川流域の平野部では比較的進んだ大規模な酪農・稲作経営が発達していたものの,中部では中世以来の伝統的な折半小作制,南部では粗放的な穀作・牧羊を軸にした大土地所有制度(ラティフォンド)といった伝統的な農業経営が支配的であった。しかしながら,1880~90年代になると,近代的大工業が創設され,銀行制度が整備された。そして,1896年から1914年にかけて,製鉄・造船・機械・綿業などを中核として,産業革命が行われた。ゴムのピレリ(1872年設立),電力のエジソン(1884),製鉄のテルニ(1884),化学のモンテカティーニ(1888),自動車のフィアット(1899),製鉄のイルバ(1905),事務機械のオリベッティ(1908)といったその後の経済発展を推進する代表的な企業の多くが,この時期に発展の基礎を築いている。ただ,北西部を中心として展開された産業革命は,〈メダルの裏〉として南部問題を生じさせた(〈メッツォジョルノ〉)。南北間の経済格差が顕在化し,南部では移民が恒常化し,シチリア西部ではマフィアが隠然とした勢力を持ち始めた。後進性という南部のイメージが定着したのは,そのためである。1922年から始まるムッソリーニ政権下では,電力・自動車・化学などの重化学工業が一層の発展を見せると同時に,国家機関による産業融資制度が発足し,〈産業復興公社(IRI(イリ))〉と呼ばれる国家持株会社が33年に創設された。現在のイタリア経済の基本的特質をなす混合経済体制が成立したわけである。
第2次大戦は経済・社会に大きな被害を与えて,45年に終結した。戦後におけるイタリア経済の基本的な流れを見る場合,大まかに言って,(1)戦後再建期(1945-50年),(2)〈経済の奇蹟〉と呼ばれた高度成長期(1951-63年),(3)〈危機〉の時代(70年代後半),(4)〈第二の奇蹟〉の時代(1984年から90年代初頭),(5)それ以降,という五つのエポックを指摘することができる。以下では,そうした区分にしたがって,それぞれの時期の特徴を指摘しておこう。
(1)(2)戦後再建期から高度成長期まで 戦争直後のイタリア経済を特徴づけたのは,戦争による家屋・生産設備・交通手段の破壊,インフレ,食糧事情の悪化,エネルギー不足,失業,国家財政の赤字,外貨不足といった諸問題であった。そうした問題に対して,本格的な対策が採られるようになったのは,1947年のことである。というのは,第4次デ・ガスペリ内閣のもとで,ルイージ・エイナウディが,インフレの阻止と通貨の安定をめざして引締め政策を実施したからである。そして,翌48年にはマーシャル・プランによる援助が受け入れられ,戦後再建が大きく前進したことは周知の通りである。また,同じ年に,IRIの存続が決まっている。こうして,50年頃には戦前の生産力水準を回復したばかりではなく,51年から63年にかけて高度成長が達成されることになる。ちなみに,53/54年から63/64年にかけての年平均のGDP(国内総生産)の成長率は5.6%である。その数値は,日本の9.6%,西ドイツの6.0%には劣るものの,フランスの4.9%,イギリスの2.7%を大きく上回っている。その間,失業率は決して低くはなかったが,物価・国際収支・通貨などは極めて安定している。高度成長の過程で主導的な役割を果たしたのは,フィアット,エジソン,モンテカティーニ,ズニア・ビスコーザ(合成繊維,1917年設立),ピレリ,オリベッティなどに代表されるような機械・電力・化学などの民間工業部門,IRIおよび53年に創設された〈炭化水素公社(ENI(エニ))〉といった国家持株会社であった。一方のIRIは,製鉄・造船といった重工業のみならず,電話,航空,高速道路などのサービス部門にも関与し,他方のENIは,石油や天然ガスといったエネルギーの安定供給に貢献し,総じて経済発展に大きな効果を発揮している。その意味で,高度成長は,57年のEEC成立に一応の帰結を見る経済の国際化という環境のもとで,相対的に低い賃金の労働者を活用しつつ,混合経済体制を強化する形で実現されたと言えるだろう。ちなみに,経済史家のカストロノーボにしたがえば,1956年におけるイタリア人労働者の平均賃金は,イギリス人の半分程度,ドイツ人やベルギー人の3分の2以下であった。
ところで,高度成長は,日本の場合と同様に,イタリアの社会・経済を大きく変容させた。第1に,GDPに占める農林水産業の比重は,1951年の22.8%から61年には13.9%に低下し,逆に,工業のそれは36.7%から38.9%に増加した。第2に,工業発展を地域的に見れば,北西部の〈工業三角形〉(ミラノ,トリノ,ジェノバの三つの都市とその周辺部,州で言えば,ロンバルディア,ピエモンテ,リグリア)地帯に集中していたので,南部や中部の農村から北西部の工業地帯に向けて大量の労働力の移動が見られた。〈農村からの人口流出〉が起こったわけである。その結果,労働力を失った伝統的農業は,解体と再編を余儀なくされたのである。第3に,都市化が進行し,自動車や家電に代表される耐久消費財に対する需要が急増した。また,国民経済の一層の発展のためには,後進地帯である南部をそのままの状態では放置できないという考えのもとで,1950年になると,農地改革の実施と南部開発公庫の設立によって,本格的な南部開発政策が開始された。当初,土地改良などの農業投資に圧倒的な比重がおかれていたが,57年以降,徐々に工業投資に重点が移っていった。そして,その年には,国家持株会社に対して新規設備投資の60%,全投資の40%を南部で実現することを義務づける法律が立法化された。その結果,60年代初めにはENIによるジェラの石油化学コンビナート,IRIによるタラントの大製鉄所が建設されるなど,ともかく南部にも工業化の拠点が形成されたのである。
(3)〈危機〉の時代 〈奇蹟〉と言われた高度成長は,1964年以降しだいに鈍化した。伝統的農業の解体,より直接的には69年の〈熱い秋〉と呼ばれる労働攻勢による賃金の上昇,および73年の石油ショックは,安価な労働力と石油という高度成長を支えてきた条件を解消させた。そのため,70年代におけるGDPの年平均成長率は3.8%に低下した。一挙に4倍に跳ね上がった石油価格の高騰は,インフレを引き起こし,国際収支を著しく悪化させた。70年代後半のインフレ率を記しておくと,75年19.2%,76年16.0%,77年20.1%,78年12.2%を経て,80年には最悪の21.1%を記録するといった具合である。かくしてイタリア経済は,インフレ,不況,失業,国際収支の悪化などによって特徴づけられるいわゆる〈危機〉の時代を迎えることになった。それまでの経済発展に大きな活力を与えてきた国家持株会社の動向を見ておくと,低成長下であるにもかかわらず,活発な投資活動を展開し,民間企業の吸収,合併を図り,その勢力範囲を拡大している。なお,83年における国家持株会社の従業者数は,約59万4000人で,そのうちIRIが76.6%,ENIが17.3%を占めている。ところが,組織の肥大化とともに,経営の非能率ぶりが露呈し始めた。つまり,経営・管理者層の固定化,役員人事に対する政治家や縁故主義の介在,政党との癒着などの弊害が現れ,また,倒産寸前の不採算企業の買収も加わり,経営の悪化,非効率化が深刻な問題となったのである。さらに,化学,造船,製鉄などの重化学部門の多くが,国際的競争の激化と過剰生産によって深刻な不況にみまわれた。1971年に不況産業の救済機関として,〈産業経営参画株式会社(GEPI(ジエピ))〉が創設され,その重要性がますます増加していくこと自体に不況の深刻な様相がうかがわれる。さらに,南部開発政策について言えば,南部に対する巨額の公共投資が,整備された道路網と幾つかの工業化拠点と集約的農業地帯をつくりだしたとはいえ,そのような投資対象から除外された多くの地域では,一層の経済的衰退と過疎化が進行した。したがって,南北格差は依然として縮小されず,しかも今度は南部のなかでの地域的不均衡が新たに生じている。南部の伝統的農業であるラティフォンドは確かに解体されたが,資本主義の一層の発展に対応できるような形に再編されたわけではなかったのである。そのうえ,この南部開発政策にあっても,その担い手となる諸機関の管理者層が,政党と結びついて組織の〈私物化〉を図り,そのために公共投資の非効率化が顕在化している。ともあれ,〈不安定なイタリア経済〉というイメージが広く定着したのは,この時代の危機の深刻さに大きな原因の一つがあるように思われる。もっとも,かかる〈危機〉の時代にあって,その後のイタリア経済の発展につながっていく重要な一要素が熟成しつつあったことを看過してはならないだろう。現在,世界中にその名が知られる〈メイド・イン・イタリー〉のブランドを支える数々の商品(アパレル・靴・ハンドバッグ・家具など)を製造する中小企業および従業員数10人以下のいわゆる〈職人企業〉の発展がそれである。
執筆者:堺 憲一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
東ローマ支配下のイタリアにランゴバルドが侵入し建国するが,その王国は774年フランク王カール(大帝)に滅ぼされた。カール没後の混乱に封建的割拠体制が打ち出され,おりから9~10世紀にイスラーム勢力やマジャル人の侵入が繰り返される。さらに,11~12世紀には叙任権闘争により,イタリアは党争の場となった。その間に北・中部イタリアに都市コムーネが栄え始め,南イタリアには両シチリア王国が生まれた。14世紀末以来コムーネに代わって小専制君主が群立し,彼らの宮廷を中心に盛期ルネサンス文化が展開する。しかし大航海時代に続く商業革命の過程で経済は沈滞し,イタリア戦争などによりイタリアはスペインの植民地と化した。18世紀には北・中部の大半がオーストリアの手に帰し,ナポレオンの征略をへて,王政復古後は再びオーストリアに制圧された。これに対しリソルジメント運動が起こり,1861年イタリア統一がなる。統一後,三国同盟を結び,それを背景に北アフリカにエリトリア,ソマリア,リビアなどの植民地を得たが,第一次世界大戦には英仏側に参戦。戦後,労働運動の高揚下に国民ファシスタ党が勢力を得て,1922年政権をとった。エチオピア戦争などその侵略的政策はイタリアをナチス・ドイツと結ばせ,第二次世界大戦に突入したが,43年7月王室と軍部のクーデタによりムッソリーニは失脚。バドリオ政権は無条件降伏と同時に対独宣戦し,レジスタンス運動が連合軍と協力して,イタリアをドイツの占領から解放した。46年6月国民投票により君主制の廃止が決定され,48年1月からはキリスト教民主党を第1党とする共和国が発足した。90年代前半に汚職摘発をきっかけとして政界再編が行われ,94年に第二共和政が発足した。
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ヨーロッパ南部に位置し,地中海に突出した半島とサルデーニャ島・シチリア島を含む国。漢字表記は伊太利・伊太利亜など。日本との関係はイエズス会の日本布教に始まる。バリニャーノによる天正遣欧使節が1585年(天正13)ローマ法王に拝謁。1615年(元和元)には伊達政宗の家臣支倉常長の慶長遣欧使節がローマを訪れている。開国後の正式な外交関係はイタリア王国成立後の1866年(慶応2)の日伊修好通商条約によるが,この不平等条約は94年(明治27)と1912年(大正元)に改正された。明治政府はキオソーネ,ラグーザ,フォンタネージら印刷・美術の外国人教師をイタリアから招いている。37年(昭和12)ムッソリーニ政権が日独伊防共協定,40年日独伊三国同盟を締結,第2次大戦の枢軸国を形成したが,45年ドイツ敗戦後の7月イタリアは日本に宣戦を布告した。第2次大戦後,対日講和条約発効にもとづいて52年国交回復。46年国民投票の結果共和国が成立。正式国名はイタリア共和国。首都ローマ。
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…なお,バロック以来の通奏低音の習慣は,実質的に本来の和声充塡の意義を失いつつはあったものの,演奏に際しては18世紀末(ジャンルや地域によっては19世紀)まで保たれていた。 交響曲の前身はイタリア・オペラの序曲である。これは〈シンフォニア〉〈イタリア風序曲〉と呼ばれ,〈フランス風序曲〉とともに17~18世紀の二大序曲形式となった。…
※「イタリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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