デジタル大辞泉 「罪」の意味・読み・例文・類語
つみ【罪】
1 道徳・法律などの社会規範に反する行為。「
2 罰。1を犯したために受ける制裁。「
3 よくない結果に対する責任。「
4 宗教上の教義に背く行為。
㋐仏教で、仏法や戒律に背く行為。
㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。
[形動]無慈悲なさま。残酷なさま。「
[類語](1)
罪は意識的に犯す行為で、罰が付随するのに対し、咎(とが)は無意識に犯す過失、あるいは欠点であるとみられる。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
罪という言葉には大別して法律に違反する〈犯罪〉,道徳的規範に反する〈罪悪〉,宗教的戒律にそむく〈罪業(ざいごう)〉の三つの意味がある。犯罪は社会の法的秩序を破る行為であり,法にもとづいて刑罪を加えられる。このように犯罪は具体的行為にもとづいて構成されるが,これに対して道徳的な罪悪感が生ずる根底には一般に良心の呵責(かしやく)といわれるものがあり,また宗教的な罪業意識をおこさせる根拠には神や仏など超越的存在がかかわっていると考えられてきた。しかし道徳的な良心も神や仏などのうながしによって触発されることが多いから,道徳的な罪悪と宗教的な罪業とはかならずしも厳密に区別することはできない。英語では犯罪にはcrimeが,罪悪と罪業には両者を含んでsinがほぼ対応しよう。罪は一面で,罪悪といういい方からも知られるように,人間の悪しき行為にかかわり悪と表裏の関係にある。だが他面で罪は,本来人間は無垢(むく)の存在ではありえないという自覚にもとづくものであるから,単なる善悪という相対的な価値基準を超える意識であるといわなければならない。こうして罪からの解放や脱却を模索するため,改悛や懺悔(ざんげ),救済や解脱(げだつ)などの問題が浮かび上がってくる。
仏教における罪は法(ダルマ)にそむく行為,戒律に反する行為であり,その代表的なものが〈五逆〉ないし〈五逆罪〉である。すなわち(1)母を殺すこと,(2)父を殺すこと,(3)僧(阿羅漢)を殺すこと,(4)仏の身体を傷つけること,(5)教団の和合一致を破壊することの5種の罪をいい,無間(むげん)地獄に堕ちる罪であるから〈五無間業(ごむげんごう)〉ともいうが,これは基本的には同じ仏教でいう〈五悪〉(または〈十悪〉)や,キリスト教でいう〈七大罪seven deadly sins〉などと同じく道徳的規範に反する罪悪に属する。ところがのちになると,人間存在そのものが罪に覆われたものであるとの自覚があらわれ,それが極楽や地獄などの他界観や応報思想と結びついて浄土教的な罪業観が生じた。紀元後にインドで成立した浄土教は,このように原始仏教以来の倫理的な罪悪観をいっそう掘り下げたところに特徴があった。そしてこれが中国に伝えられると,唐代に活躍した善導によって浄土教の罪業意識はさらに深く追求され,やがて日本の親鸞の思想に大きな影響を与えた。すなわち親鸞によれば,人間は本質的に罪悪深重(ざいあくじんじゆう)の凡夫であり,救われざる存在であるが,しかしただ一つ阿弥陀仏の他力を信ずること=他力本願を通して救われるのだ,という(《歎異抄》)。またこのような救済への転換には,懺悔と善知識(師)による導きが必要であると説いた。この点において親鸞のいう罪と救いの論理はキリスト教における原罪と罪の赦し(ゆるし)の教説に類似しているということができよう。
日本には古来,人間による悪行とともに穢(けが)れや禍(わざわい)などをも含めた神道的な罪の観念があった。すなわち農耕を妨害して神祭りを冒瀆する天津罪(あまつつみ)や社会秩序を破壊する国津罪(くにつつみ)は前者の悪行に属するが(天津罪・国津罪),同時に死や病気,けがや出産の穢れ,天変地異など人間生活を脅かすものも罪であるとし,それらを除去して正常な状態にひきもどすためいろいろな祓(はらい)や禊(みそぎ)が必要であるとされた。日本の場合,罪は祓や禊によって容易に除去されるという意識が強く働くため,先の浄土教的な罪業意識は深くは浸透しなかったといえよう。かつてアメリカの人類学者R.ベネディクトは,その著《菊と刀》において日本の文化を欧米の〈罪の文化〉に対して〈恥の文化〉であると規定したが,日本文化に罪の意識が希薄であることを指摘したものとして注目される。
→恥
執筆者:山折 哲雄
聖書とキリスト教の伝統にみられる罪の観念は多様かつ複合的である。それは穢れ,弱さ,病気,死などの物理的・身体的なものにはじまり,過失,迷い,犯行などの意志的・行為的なものを加えて,さらに神の前での反抗という高次の精神的なものに及んでいる。そこで罪は身体的なものと精神的なもの,具体的なものと抽象的なものという両極をもつが,P.リクールが《悪の象徴論》(1960)第1部で論じるように,高次のものは低次のものを含み,これを象徴化しているといえる。さらにこの書の第2部が扱う原罪と〈最後の審判〉という観念があるが,これらは歴史の始めと終りのできごととして何ほどか神話的表現を避けられない。罪は存在の限界をなすといってよく,創造の否定たる死と無につらなっている。しかし創造は,単に被造物をあらしめるだけでなく,罪という否定的なものを克服する救済を予想しているのであるから,罪は有無の対立を引き出すだけでなく,創造者たる神の義(救いを含む義)にさからうものとして,神と被造物との絶対的な質的差異を明らかにするのである。それゆえ,絶対に聖なるものに対してわたしは滅びるという自覚が,罪意識の原点である。《詩篇》22篇の〈われは虫にして人にあらず〉,《ヨブ記》16章・19章,ルターのいう〈震撼させられた良心〉,R.オットーのいう〈戦慄すべき神秘〉がこれにあたる。そのため,キリスト教の罪観念は一般的価値としての善悪の観念によっては測られないものがある。キルケゴールは《死に至る病》(1849)第2部で,悪を善の欠如や無知と呼ぶギリシア哲学の規定は,キリスト教の罪観念をほとんど理解しないものだ,という。この書は罪を神の前での絶望,反抗と呼び,神と人間との根源的関係の齟齬(そご)と規定したが,この規定はS.フロイトやユングにおいても顧みられている。
聖書では,パウロが《ローマ人への手紙》5章にいうように,律法以前の罪,律法の下での罪,恩恵の下での罪が区別される。これは先に述べた罪の身体的,行為的,精神的の3段階に応じるといえる。恩恵の下での罪とは,イエスを裏切ったイスカリオテのユダの罪,パウロでいえば十字架を空しくすることである。ただし段階といっても,聖書は《創世記》と《ヨハネの黙示録》を始めと終りにおき,そのなかで,原罪と第2の死を述べているのであるから,罪意識の発展はいわず,罪はどの段階においても根源的なものに出会っているとみるのである。しかも罪は,歴史と人間のきわめて具体的な状況の中での神との関係において自覚された。原罪や〈最後の審判〉でさえ,預言者とそれに続く黙示思想家とによって,イスラエルの歴史と運命の問題として自覚されたのであって,けっして初めからあった抽象的な観念ではない。聖書の罪意識はまったく具体的・現実的なので,たとえば《イザヤ書》45章のように神は〈光をつくり,闇を創造する〉といった,ゾロアスター教の二元論すれすれのことがいわれ,《ヨハネによる福音書》のようにグノーシス的二元論をかかえこむことすらある。あるいは,イエスは病気癒(いや)しの奇跡を多く行ったが,これが罪の赦し(贖罪)と一つであって,およそご利益宗教的ではなかったことは,先に述べた罪の全体性からしてのみ理解されよう。《ヘブル人への手紙》5章は,イエスには罪がなかったが,弱さのゆえにはげしく神に祈ったと述べており,これもイエスの無罪性を,弱さという人間一般のものから切り離して教義的・形式的にはいえないことを示している。このように罪なき者が罪を負うとの逆説から,〈すべての罪はキリストの前で犯される〉というアンセルムスの言葉,あるいは〈真の義人はキリストと共に地獄におちる〉というルターの言葉が理解される。パウロの神学の中心は,イエスの死が決定的な罪の赦しとなったゆえんの解明にあてられている。《ローマ人への手紙》7章は,律法の神聖さを強調し,律法によって断罪される人間の滅びを描いているが,その人間は〈わたし〉個人であるとともに〈アダム的人間〉でもあって,ここにいう罪を単にエゴイズムと呼ぶことはできない。パウロによれば,罪の赦しは歴史的・共同体的であるとともに終末論的・人類的であり,信仰者といえども地上では肉の弱さと死の刺(とげ)が除かれていない。しかし同書8章によれば,霊による救いのゆえに罪は死んだといわれ,そこで罪は象徴化されて〈むさぼり〉と規定されている。
2世紀以後の教会では,罪の赦しをサクラメントに結びつけて教会内に固定する傾向が強く,赦罪の方法と順序を法的に規定したテルトゥリアヌスの考えが長く尾を引いた(贖宥)。神学においては,罪の赦しは無償か有償か,全面的か部分的か,代理的か自力的かが論じられた。ペラギウスの自力的道徳主義はアウグスティヌスによって退けられたが,教会は正統と異端の争いをかかえ,全体としてみて現世的・道徳主義的な罪の理解にとどまらざるをえなかったといえる。これはニーチェがキリスト教の矮小化とみて批判の俎上(そじよう)にのせたことでもある。ユングは,西洋のキリスト教がプラトンの〈エロス〉と対立するあまり,罪理解も対象的なものに縛られていたと指摘するが,これも象徴化の不十分さを指摘したものと解される。
しかし今日では2度の世界大戦,ことにアウシュビッツの大量虐殺を通じて,改めて罪の非合理性と虚無性を問う終末論的理解が広まっている。
→悪 →救い →罰
執筆者:泉 治典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
広くは法律的、道徳的、または宗教的な規範に反した行為すべてをさすが、とくに宗教的な意味での背反行為を、法律上の犯罪などから区別して「罪」ということがある。英語のsinの訳語として用いられるときには、主として宗教的な意味である。原始社会ではタブー(禁忌)を犯すことが罪とされたが、その場合には社会的、道徳的、宗教的な罪観念が未分化で、混然一体としている。
[松本 滋]
もともと日本語では「つみ」という語は、「つつみ」のつづまった形で、「つつむ」という動詞に由来する。何事にせよ悪いことがあるのを「つつむ」といい、古語の「つつむことなし」「つつみなし」(悪いことなし)とか「つつしむ」などは、いずれもそこから派生したものである。したがって日本古代においては、道徳的悪行のみでなく、病をはじめとするもろもろの災いや穢(けが)れたこと、醜いこと、その他何でも世の中の人が憎み嫌うことはすべて「つみ」とされた。そこでは特定の神の意志ではなく、人間の共同体の全体的意向が中心的準拠点になっていることは、意味が深い。『延喜式(えんぎしき)』の「大祓詞(おおはらえのことば)」では罪を「天津罪(あまつつみ)」と「国津(くにつ)罪」とに大別している。天津罪は畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしざし)、生剥(いきはぎ)、逆(さか)剥、屎戸(くそべ)で、神話によれば須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)で犯した罪がその原型とされているが、主として農業共同体の秩序を乱すような行為からなっている。これに対して、国津罪は生膚断(いきはだだち)、死膚(しにはだ)断、白人(しろひと)、胡久美(こくみ)、己母犯罪(おのがははおかせるつみ)、己子(おのがこ)犯罪、母与子(ははとこと)犯罪、子与母(ことははと)犯罪、畜(けもの)犯罪、昆虫(はうむし)の災(わざわい)、高津神(たかつかみ)の災、高津鳥(たかつとり)の災、畜仆(けものたお)し、虫物為(まじものせる)罪で、殺生(せっしょう)、傷害、近親相姦(そうかん)などのほか、自然の災禍や肉体上の醜さ、呪咀(じゅそ)行為までが罪として同列に数え上げられている。「つみけがれ」という語に示されているように、これらの罪はいずれも穢れと同一視された。そしてその穢れから清まるための儀礼として、禊祓(みそぎはらえ)が重要な意味をもつ。また罪穢れは人間性に深く根ざした悪ではなく、祓えの力によって祓い清めうるものと考えられた。その点、原罪や煩悩(ぼんのう)の観念と本質的に異なっている。
[松本 滋]
日本古代に限らず、古代社会においては、一般に法律的、道徳的、宗教的な罪の間に明確な分化がなく、政治・宗教的権威がそのすべてを統御していた。中国古代では、罪は「天罰」の対象であり、また君主(天子)の下す刑罰は、天罰の代行としての意味をもっていた。後代になって天の宗教性が希薄になるにつれて、罪はその本来の宗教的意義を失い、単に「法を犯すこと」を意味するようになった。キリスト教やイスラム教の母胎となった古代イスラエルの宗教伝統においても、初期においては宗教と政治は未分化であった。ただイスラエルにおいては超越的な唯一神への信仰が中心的であり、それに関連して罪は本来的に神に対する不服従、反逆という意味をもっていた。「創世記」に描かれたアダムの堕落の物語がそれをよく象徴している。
[松本 滋]
キリスト教においては、罪は人間の内面に深くかかわる問題としてとらえられている。すなわち、アダムが罪を犯して以来、人間は罪と死のもとにあり、人間がそれから解放されるのは、律法を忠実に守り行うことによってではなく、人間の罪を贖(あがな)って死に、そしてよみがえったイエス・キリストを信ずる信仰によってであるという。その場合、律法は人間に罪の自覚を生ぜしめる意味をもつものとされた。教会の発展に伴い、「大罪」と「小罪」の区別が行われた。大罪は偶像崇拝、殺人、姦通(かんつう)などで、これを犯した者は教会から破門され、永遠に地獄の罰を受けるものとされた。小罪は懺悔(ざんげ)し、罪を贖う行為をなすことによって、赦(ゆる)しを受けることができるものである。ローマ・カトリックは伝統的にこの区別を保持してきたが、プロテスタントはこれを認めず、ただ神に反逆する行為・態度を罪とする一般的立場をとっている。
仏教においては、罪は「性罪(しょうざい)」と「遮罪(しゃざい)」とに大別される。性罪はどういう立場の人が行っても本質的に罪悪であることで、たとえば殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪婬(じゃいん)、妄語(もうご)などがそれにあたる。殺生のなかでも父母や阿羅漢(あらかん)に対するそれはとくに重く、出仏身血(仏の身体を傷つけること)および破和合僧(教団を分裂攪乱(かくらん)させること)と並んで、「五逆」とよばれる重罪に数えられる。大乗仏教では、これらに誹謗正法(ひぼうしょうぼう)(仏法をそしること)を加えて五逆という場合もある。
遮罪というのは、本来的に罪悪ではないが、戒律で禁止されていることに背反した行為をさす。たとえば飲酒(おんじゅ)などがそれである。のちに展開した浄土仏教においては、罪悪の観念は人間性に深く根ざした内面的問題として意識された。すなわち人間存在は、「罪悪深重(じんじゅう)、煩悩熾盛(しじょう)」なるものとして把握され、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願の力(他力)による救済が渇望、信仰された。
[松本 滋]
宗教心理学的には、罪の意識(罪悪感)はすでに幼児期(生後4、5年ごろ)にフロイトのいう「超自我」(良心)の形成とともに生じてくる。エリクソンによれば、罪の意識とは、精神分析的には、実際に犯さなかったばかりか、事実上実行不可能な行為を、想像のうえで自分が犯してしまったと感じる意識だという。
[松本 滋]
『『折口信夫全集1 古代研究』(1954・中央公論社)』▽『岸本英夫編『世界の宗教』(1965・大明堂)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…罪穢(つみけがれ)を祓い清めるときに,その代償として差し出す物品のこと。上代においては,罪穢はともに祓によって消滅すると考えられていたが,律令制度の確立後にはもっぱら罪は刑によって,穢は祓によって解除されると考えられるようになった。…
…犯罪に対する法律上の効果として,犯罪を行った者に科せられる制裁をいう。日本の現行法は刑罰という語を用いないで刑と呼んでいる(刑法第二章)。…
※「罪」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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