人口14億を擁する中国を一党支配する政党。1921年創立。党員は2021年末時点で9600万人を超え、1億人以上のインド人民党に次ぐ。
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中華人民共和国を統治している執政政党。1921年に結成され、中国国民党との抗争に勝利し、1949年政権を樹立した。党員数は8944万7000人(2016)。5年に1度開催される全国代表大会(党大会)がもっとも権威があり、省代表と、国務院、人民解放軍などの国家機関や大衆団体などの党代表、計2000~3000人によって構成される。党大会では党の重要な基本方針を決定し、党大会閉会中の重要事項を決定する中央委員会委員(200人前後)を選出する。さらに中央委員会は中央政治局委員(2017年11月時点で25人)を選出する。中央政治局会議は事実上の政策決定機関で、日常的に各分野別の党中央領導小組(たとえば、外交分野では党中央外事工作領導小組、経済財政分野では党中央財経領導小組といった組織)で重要な政策を討議し方針が絞り込まれ、それをもとに審議・決定する。中央政治局の中核として常務委員会(2017年11月時点で委員は7人)があり、そのトップが党総書記である。
[天児 慧 2018年4月18日]
「中国共産党規約(党章)」によれば、党はマルクス・レーニン主義、毛沢東(もうたくとう)思想を掲げ、共産主義の実現を目ざす「労働者階級の前衛隊」であり、労働者、農民、軍人、知識人の優秀な人材を基幹として構成される。しかし1978年、改革開放路線・経済近代化に邁進(まいしん)するようになって以降、「富強の中国」建設を強調するようになり、そのためには労農兵、革命知識人のみを構成員とすることでは不十分となった。そこで、新しい時代に対応するために共産党の位置づけそのものの転換を提起する必要が出てきた。2000年2月に党総書記の江沢民(こうたくみん)は、いわゆる「三つの代表論」とよばれる新しい定義を行い(後述)、同年秋の第14回党大会で正式に党の公式の考え方として採択された。これによって顕著な業績をあげる私営企業主やハイテク産業の経営者、高学歴の専門知識人らが入党するようになった。共産党はもはや階級政党というよりも国民政党であり、単刀直入にいえば「エリートの党」となったのである。換骨奪胎といっても過言ではない。そのおもな任務も、革命、共産主義の実現というよりも、「富強中国の実現」「中華民族の偉大な復興」といった民族主義的な主張にかわってきた。
1990年前後の共産主義イデオロギーの退潮、共産党の崩壊といった世界的潮流にもかかわらず、換骨奪胎し続けた中国共産党は、党員数も増加の一途をたどった。建国時の党員は450万人(当時の全人口の0.8%)であったが、2016年末の発表では実に8944万7000人(前年比約67万人増)を超える数となっている。このようにして中国共産党は世界最大の政党となった(参考までに2012年末でアメリカの共和党は党員・党友あわせて3130万人、民主党は4351万人)。そして現在も中国内に共産党に対抗できる政治組織はほとんどなく、圧倒的なプレゼンス(存在)をもって政治の実権を掌握し続けている。
[天児 慧 2018年4月18日]
中国共産党は1919年の五・四運動の愛国主義に燃えた青年たちを中心に、ソビエト連邦・コミンテルン(「国際共産主義」の略称。別名第三インターナショナル)の指導を受けながら1921年にコミンテルン中国支部として誕生した。当時は第一次世界大戦が終わり、共産主義国家ソビエト連邦が誕生し、世界では反帝国主義・反植民地主義の運動が各地で燃え広がっていた時期であった。結党の目的は「半封建、半植民地の中国」を救い、将来中国で共産主義社会を実現することであり、以後ソ連からの強い影響を受けながら、中国革命とともに紆余曲折(うよきょくせつ)した道をたどることになる。
結党間もなくソ連から求められたのは、当時最大の革命政党であった中国国民党との合作であった。国民党もソ連・コミンテルン指導のもとでソ連共産党型の組織に改組し、「連ソ容共・工農扶助」を掲げた。1924年に少数政党である共産党の党員は党籍をもったまま国民党に加入するという方式で、第一次国共合作が実現した。1925年3月孫文(そんぶん)が死去し権力を握った蒋介石(しょうかいせき)は全国制覇を目ざし北伐を開始したが、1927年4月その途上の上海(シャンハイ)で共産主義者一掃の四・一二クーデター(上海クーデター)を起こした。第一次国共合作は崩壊し、以後国共対立の時代を迎えた。
国民党からの徹底した弾圧によって共産党は都市での活動が困難となり、江西(こうせい)省一帯を中心として毛沢東のゲリラ戦術を主とした農村根拠地の拡大に重点を移した。しかし、三度に及ぶ国民党軍の包囲攻撃によって撤退を余儀なくされ、1年余りに及ぶ「大長征」を経て西安(せいあん)北方の延安(えんあん)にたどり着き、当地を拠点としてふたたび勢力の拡大が図られた。ほぼ同じ時期、東北・華北一帯への日本の侵攻が激しくなり、知識人・民間人を中心に抗日救国運動が燃え広がった。1936年12月東北を追われた国民党の将軍張学良(ちょうがくりょう)らによって蒋介石に「一致抗日」を迫った西安事件が起こり、国民党と共産党の間で水面下での調整が進められた。1937年七・七事変(盧溝橋(ろこうきょう)事件)によって日中全面戦争となり、第二次国共合作が成立した。
戦争は1945年8月の日本の無条件降伏まで続き、「南京(ナンキン)大虐殺」をはじめ数々の惨劇が生じた。同年4月、第7回共産党大会が開かれ、初めて「毛沢東思想」という表現が使われ、共産党の指導思想となった。同時に国民党主導の統一国家建設に対抗して、毛沢東は「連合政府論」を発表、それは4年余りのちに実現した中華人民共和国建国の基本的な理念・枠組みとなった。
[天児 慧 2018年4月18日]
1949年10月、国共内戦に勝利した共産党は中華人民共和国の樹立を宣言した。共産党がひとまず目ざしたのは、民族政党、民族資本家の政権参加も認めた新民主主義社会の建設だった。しかし、間もなく社会主義建設に邁進(まいしん)するようになり、やがて中国共産党は民主同盟など非共産政党を弾圧し、国家を独占する政党と化していく。
さらに1957年からの反右派闘争によって共産党、とりわけ毛沢東の独裁は強化された。続く「大躍進」はソ連への対抗を意識した毛独自の野心的な社会主義建設であったが、客観的条件を無視し、またあまりにもユートピア的であったために経済の大混乱、3600万人を超える餓死者を生み出す悲惨な事態を招いた(楊継縄(ようけいじょう)による)。
大躍進の挫折(ざせつ)、毛の第一線からの後退によって劉少奇(りゅうしょうき)、鄧小平(とうしょうへい)に経済再建のリーダーシップが託され、「白猫黒猫論」(「白猫でも黒猫でも、ネズミを捕まえる猫がよい猫である」という鄧小平の持論)とよばれるプラグマティズム(実用主義)の実践によって経済復興の成果がみられるようになっていた。しかし、それを「ブルジョア階級の復活」として危険視した毛沢東は、1960年代後半に文化大革命を発動し、劉少奇、鄧小平はじめ彼らにつながる人脈を徹底的に攻撃し、経済もふたたび大混乱に陥った。広く政治弾圧が進められたことで、ますます独裁体制は強まった。
国際的には、1963年中ソ論争が本格化し、文革期にはソ連を修正主義、やがて社会帝国主義と強く批判し対決を深め、1969年には中ソ国境紛争が勃発するほどに深刻化するに至った。
[天児 慧 2018年4月18日]
しかし、極度の貧困と政治弾圧に苦しむ多くの人々から経済、政治の立て直しを求める声が高まっていった。最初に慎重に声をあげたのが「四つの近代化」(工業、農業、科学技術、国防を近代化し、20世紀末までに世界の先進的水準に立たせる戦略)を提唱した周恩来(しゅうおんらい)であり、その遺訓を引き継いだのが復活した鄧小平であった。
鄧は、1976年に死んだ毛沢東の「後継」を自認していた江青(こうせい)ら「四人組」によって、第一次天安門事件(1976)で再度失脚を余儀なくされた。しかし「四人組」の失脚後、鄧は復活し、毛の後継者となった華国鋒(かこくほう)らと激しい権力闘争を繰り広げ、1978年12月の第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)で、経済建設、近代化路線への転換に成功した。さらに「三七開」(三分の批判、七分の評価)というやり方で毛沢東評価に決着をつけ、外資、先進技術の導入をもくろむ経済特別区構想、農業請負制の推進、やがて市場経済導入など、大胆に「改革開放」を推進した。しかしすでに高齢となっていた鄧小平は自らが最高指導ポスト(党総書記)につくことなく、後継者として胡耀邦(こようほう)を党総書記に、趙紫陽(ちょうしよう)を国務院総理(首相)に指名し、自らは一歩下がって大局的な指導をするという、いわゆる「トロイカ体制」によって改革開放の推進を図った。
政治改革の面でも、党・指導幹部の定年制導入、権力の下放・分散化などいくつかの取り組みが進められた。しかし、政治改革論議は党指導の問題、民主化の問題に触れ、政治的緊張が高まり、やがて1989年、第二次天安門事件を引き起こすこととなった。同事件は、1987年に党総書記を解任された胡耀邦の死を契機に、胡の名誉回復を求める声と学生らの民主化要求が結び付き、広範な運動となったため、学生への支持か弾圧かの対立が党内に生まれ、深刻な政治混乱に陥った。鄧小平は弾圧、党総書記の趙紫陽は支持の立場にたち、結局鄧小平の軍導入の指示によって学生運動は鎮圧され、趙紫陽は失脚した。
しかし鄧は間を置かず、「改革開放路線は変わらない」と強く宣言し西側の経済支援の引き留めに尽力した。とりわけ1992年春節に88歳の老体にむち打ち上海、深圳(しんせん)などを訪問し檄(げき)を飛ばしたいわゆる「南巡講話」では、イデオロギー論争をするなと訴え、「社会主義市場経済」を提唱した。これにより、海外からの投資も回復し経済はふたたび高成長に転じた。
[天児 慧 2018年4月18日]
第二次天安門事件以降の鄧小平の基本戦略は「経済開放、政治引締め」であり、その推進を江沢民にゆだねた。江沢民は党総書記、国家主席、軍事委員会主席のトップ三権を独占し、愛国主義のイデオロギー教育を強化した。経済は朱鎔基(しゅようき)が国務院総理に就任し、税制改革、国有企業改革などで辣腕(らつわん)をふるった。2000年、念願の世界貿易機関(WTO)加盟が実現し、対外貿易が活発化し、外資の導入も加速され、指導者自身の予測をはるかに超える勢いで経済成長が進んだ。
そうしたなかで共産党の位置づけに関する深刻な矛盾が露呈した。共産党は長く「労働者階級の前衛隊」と位置づけられてきたが、経済発展を最優先する方針はその主力を最新の知識、能力、技術をもつ企業家、技術者、知識人とせざるをえなかった。そこで2002年第16回党大会で共産党の再定義を試み、(1)先進的な社会の生産力、(2)先進的な文化、(3)もっとも広範な人民の利益という「三つの代表」を主張するようになったのである。また「中国人民と中華民族の前衛である」という一文も加えられた。これによって、共産党は長く固持し続けてきた「階級政党」という概念を放棄し、企業家、高学歴知識人、スポーツ・文芸各界の著名人なども入党できる「国民政党」「民族政党」になった。
[天児 慧 2018年4月18日]
胡錦濤(こきんとう)時代は、数字的にはきわめて順調に発展し、2010年、国内総生産(GDP)で中国はついに日本を抜きアメリカに次いで世界第2位の地位を占めるまでになった。2008年のオリンピック北京(ペキン)大会、2010年の上海国際博覧会(上海万博)も成功裏に終え、中国のプレゼンスを遺憾なく世界に示すこととなった。
しかし一皮むいて内部をみてみると、貧富の格差、非民主的な政策決定、汚職・腐敗の蔓延(まんえん)、沿海内陸をあわせ環境汚染の深刻化などがあり、いわゆる「病める社会」の特徴を同時に強めていった。これに対して胡錦濤政権は「和諧(調和のとれた)社会」の実現を目ざしたが、抜本的な改善には至らなかった。
[天児 慧 2018年4月18日]
胡錦濤を継いだ習近平(しゅうきんぺい)は「二つの百年の成功」という「中国の夢」の実現を大目標に掲げ登場した。一つは2021年で共産党結党100周年であり、全面的な小康社会(まずまずの生活水準確保)の実現と、GDPでアメリカに追いつくことである。もう一つは2049年で中華人民共和国建国100周年であり、総合国力でアメリカと肩を並べ、世界の指導国家となることである。習近平政権が目ざしているものは、共産党指導を堅持して体制の安定を図り、「中華民族の偉大な復興」を実現していくことであり、共産主義社会の実現などほとんど忘れ去られてしまったかのようである。
習近平政権は、そのスタートとして周永康(しゅうえいこう)(1942― )、令計画(れいけいかく)(1956― )ら党の大物、徐才厚(じょさいこう)(1943―2015)、郭伯雄(かくはくゆう)(1942― )ら人民解放軍の大物を逮捕・失脚させるなど徹底した反腐敗闘争(反腐敗運動)を展開し、対抗勢力の指導者を失脚させた。これらの行動は深刻な腐敗・汚職に嫌気がさしていた民衆から喝采(かっさい)を浴びた。同時に権力基盤の弱かった習近平の政権を強化することとなった。
さらに習はこれまで各分野での政策審議、政策提案を行ってきた党中央の各領導小組のトップ(組長、主任)を自ら独占しただけでなく、内外の安全保障、軍事、外交などを統括する新組織・中央国家安全委員会を設立し、その主任にも就任し、およそ権力を構成するあらゆる機関を習が掌握した。解放軍も総参謀部など「四総部」、七大軍区の改組などに手をつけ、習への権力集中を進めた。
2017年11月に第19回党大会が開かれ、習近平第2期政権がスタートした。前年の第18期六中全会で「習近平は党の核心」という位置づけが承認され、第19回党大会では「習近平『新時代の中国の特色ある社会主義』思想」という表現が行動指針として党規約に盛り込まれた。これによって習は毛沢東、鄧小平に肩を並べる党の指導者に格づけされたといえる。さらに習を含む7人の政治局常務委員、25人の政治局員は、派閥均衡的な配置ではなく、李克強、韓正(かんせい)を除き基本的には古くから習と緊密な関係にあった人物、習がトップリーダーになって以降、一貫して習への忠誠を示し、政権強化に功績をあげた者たちによって構成された。トップセブン(政治局常務委員)の一人となった王滬寧(おうこねい)が、政治改革論議が燃え盛った1980年代後半に若手政治学者のスターとして登場したとき、彼が主張したのが、「今の中国には民主化よりも近代化を強く志向する開明的な近代主義者の独裁が必要である」という、いわゆる新権威主義独裁(一般的な開発独裁)が必要であるという主張であった。まさに今日の習近平によってそれが体現されているかのようである。
[天児 慧 2018年4月18日]
憲法上は立法機関の全国人民代表大会(全人代)が最高権力機関と規定されているが、実際には重要事項の審議、基本的方針は党内(たとえば中央政治局、中央委員会など)で決定される。その案が全人代に提出され一応審議・決定されるが、一般的にはごく形式的な手続とみなされている。
今日の中国は周知のように共産党が国家や社会を掌握し、コントロールしている体制である。それを実行するための仕組みとして、きめ細かな統制・伝達・監視の仕組みをつくりあげてきた。それは政府、全人代、裁判所はもちろん企業、工場、学校などあらゆる組織に党委員会や党組(フラクション)を設置し、党指導部の意図や方針を各社会のあらゆる組織の内部にまでしっかりと浸透させ、上級党組織の指導のもとに政府や社会組織をコントロールする仕組みである。そのうえで、党は軍事・公安といった暴力装置をしっかりと掌握し、さらに中央から末端まで宣伝部を組織し、新聞、テレビ、ソーシャルメディアなどイデオロギー分野をコントロールしている。
[天児 慧 2018年4月18日]
党における中央と地方の関係では、下級組織はさまざまな意見や要求を上級組織に上げることができるが、上級組織で決定された政策に関しては絶対服従が要求される(いわゆる民主集中制)。しかし現実には、表向きは地方が中央に従っているようにみせながら、実際には中央の意向に反した行動をすることがしばしば起こっている(「上有政策、下有対策」「陽奉陰違」などといわれる)。既得権益集団と結託した地方政府による環境汚染や腐敗の横行などは、まさにその典型事例である。
このため党中央は地方をしっかりコントロールするためにさまざまな試みを行ってきた。とりわけ省・市(省級に次ぐ)の指導者人事は党中央組織部が一手に握ることによってコントロールしようとしている。あるいは税制改革を通して中央に税収が集まるようにして、財政上の力関係の転換を実現してきた。
[天児 慧 2018年4月18日]
もともと中国王朝体制を「超安定システム」としてとらえる考え方がある。底辺に経済構造(地主経済、農業経済)があり、上層部に儒家正統のイデオロギー構造と皇帝直結の巨大な官僚制構造があり、それら三者が相互補完的に関係しあうことによって、変動はあっても、修復・安定のメカニズムが働き動態的に安定を維持してきたという考え方である。
毛沢東時代も基本的には巨大な農村社会で、上層部に共産主義の正統的イデオロギー構造があり、全人代制度や国務院・人民政府制度などの巨大な官僚制構造があり、基本的な構造としては王朝時代の伝統的統治システムと類似していた。そのうえ、全国的な機構とネットワークをもつ共産党が、イデオロギーと官僚機構をしっかりと掌握していたので、伝統的統治システム以上に強力な体制になっていたと解釈できる。それゆえにこそ、大躍進による経済の瀕死(ひんし)状態、あるいは文化大革命期の官僚機構の瀕死状態でも、国家としては崩壊の局面に至らなかったのであろう。
[天児 慧 2018年4月18日]
党と民衆の関係では、一般的には民衆は共産党体制に対しては所与のものとして受け入れ、体制自体に異議申し立てをするケースは多くはない。しかし近年、自身の権利意識や利益に目覚め、不当にそれらを侵害しようとする者に対しては激しく抗議、対決することも頻繁にみられるようになってきた。「維権運動」とよばれ、当局の社会安定を重視する「維穏」の主張と対立している。地元幹部の不正、腐敗に対しても同様である。また学生を含む非権力の知識人たちで共産党一党体制に疑義をもつ人も増えてきているが、1950年代後半の反右派闘争、文革、天安門事件で当局の徹底した弾圧を受けた経験もあり、党に対する恐怖が強く、表だった行動に走る人々はまだごく少数である。
ちなみに、共産党以外のすべての民主諸党派を合わせても70万人余り(2007年時点)であり、9000万人近くの党員を抱える共産党とは比較にならない。
[天児 慧 2018年4月18日]
毛沢東時代、鄧小平への権力移行期には、もちろん共産党内に派閥・人脈対立は存在した。おもに四つの野戦軍が統合した解放軍の出身野戦軍人脈による派閥対立、党機構内や国務院などでのイデオロギー重視派と実務重視派、改革積極派と保守派の対立として顕在化していた。
江沢民時代以降では、党内に経済既得権益層が生まれ新たな派閥を形成した。石油派=曽慶紅(そうけいこう)(1939― )・周永康ら、石炭派=令計画など山西(さんせい)省出身者、電力派=李鵬(りほう)家族などが代表的なものである。こうした派閥のほかに、出身母体・地域を中心に人脈ができる場合も一般的で、党幹部の親をもつ「紅二代」(太子党)、共産主義青年団を母体とする「団派(共青団派)」、文革・「四人組」失脚以降、上海出身の老幹部たちが意識的にグループ化した派閥=上海派(上海閥)などが比較的目だっている。
[天児 慧 2018年4月18日]
毛沢東、鄧小平が健在であったころは、最終決定権は彼らにあったので、彼らの意思で、ある人物が打撃されることはあっても、それ以外の理由で激しい権力闘争が展開されることは、表だってはあまりなかった。江沢民は第二次天安門事件において上海の民主化運動弾圧で評価を受け、鄧小平の指示でトップに抜擢(ばってき)された。政治基盤は弱く、軍歴のない中央軍事委員会主席であったが、上海派と鄧小平の支持をバックにライバルを次々と引退に追いやり、また自分が抜擢した軍指導者を徐々にトップにつけるなどして基盤を強化していった。
権力闘争による政治消耗を避けるために、鄧小平は生前に江沢民の後継者候補として胡錦濤を指名していた。鄧小平の死(1997)後、2002年第14回党大会で任期満了の江沢民にかわって胡錦濤が党総書記のポストにはついた。しかし中央軍事委員会主席のポストは江沢民が固持し、結局胡錦濤が中央軍事委員会主席に着任したのは2年後であった。10年余り最高権力を握ってきた江沢民はその後も着々と彼独自の人脈を強化し、党政治局、政治局常務委員会でも、中央軍事委員会でも彼は強い影響力を保ち、総書記の胡錦濤、国務院総理の温家宝(おんかほう)らの政策や人事に干渉してきた。胡・温が重視した「和諧社会」の実現、対日協力関係のレベルアップなども十分な成果をあげることができなかった。
2010年ころから、胡錦濤政権のレイムダック(死に体)化がいわれるようになり、2012年秋の第18回党大会では胡錦濤の後継者として有力視されていた共青団派の李克強(りこくきょう)が総書記のポストにつくことができず、習近平にその座を渡さざるを得なかった。習近平は元副総理の習仲勲(しゅうちゅうくん)(1913―2002)を父にもつ「紅二代」であり、江沢民派といわれてきたが、彼の政権誕生の裏で胡錦濤との協力関係があったと考えられた。とくに江沢民との関係が深いといわれていた中央政治局委員・重慶(じゅうけい)市党書記の薄熙来(はくきらい)(1949― 。彼も父が元副総理の紅二代)追い落としでは、胡錦濤からなんらかの支持があったと考えられる。薄熙来の後ろ盾であった周永康一派の一掃、解放軍内の江沢民派のトップであった徐才厚・郭伯雄両副主席の失脚で、習近平と江沢民とは協力でなく対立の関係にあることがみえてきた。
その後も習近平自身への権力集中の野望は尽きず、上述したさまざまな政策決定組織(小組・委員会)のトップについただけでなく、共青団系で自らになびいてこない指導者の排除に乗り出していった。とくに、国家副主席の李源朝(りげんちょう)(1950― )周辺の指導者たちの切り崩しが進み、その結果第19回党大会で李源朝自身の失脚が実現。さらに党宣伝部長の劉奇葆(りゅうきほう)(1953― )が失脚、かつ従来は、共青団第一書記は任期終了後地方のトップに転任するのが通例であったが、今回、共青団第一書記の秦宜智(しんぎち)(1965― )はそのような待遇を受けなかった。こうした人事によって李克強、その背後にいる胡錦濤の共青団人脈の力は一挙にそがれたことになる。しかし、ことはそれほど習近平の思惑どおりにいくかどうか。第19回党大会で習が宣言した、(1)国内経済社会矛盾の克服、(2)「一帯一路」の対外戦略の推進、(3)膨大な資金、技術を投入した「軍事強国化戦略」がもしつまずくようなことにでもなれば、国内で抑え込んだ反習近平勢力の巻き返し、アメリカを軸とした国際秩序維持派の巻き返しは必至となるであろう。
[天児 慧 2018年4月18日]
『天児慧他編『岩波現代中国事典』(1999・岩波書店)』▽『毛里和子著『現代中国政治 グローバル・パワーの肖像』(2012・名古屋大学出版会)』▽『天児慧著『中華人民共和国史』(2013・岩波新書)』▽『天児慧著『「中国共産党」論』(2015・NHK出版新書)』
中華人民共和国の指導政党。1997年現在,5800万人の党員を擁する。
ロシア革命の思想的影響と五・四運動の体験を通じて,中国の急進的知識人のあいだにマルクス主義への関心が高まり,1920年春以降,コミンテルンの働きかけと支援を受けて結党の準備が進んだ。陳独秀,李大釗(りたいしよう)がその中心となり,8月,上海で臨時中央(発起組)を発足させ,同時に外郭の半公然組織として社会主義青年団を結成して進歩的青年の結集につとめた。つづいて北京,武漢,長沙,広州,済南,東京(日本)にも支部(小組)が組織され,在ヨーロッパの留学生のなかからも運動が起こった。彼らは当時,根強かったアナーキズムの影響を排しつつ,マルクス・レーニン主義党の組織づくりを進め,21年7月下旬,上海で秘密裏に第1回全国代表大会(党員数50余)を開き,中国共産党を結成して陳独秀を書記に選出した。
中共はまず全力をあげて労働運動に取り組んだ。公然組織として中国労動組合書記部を設けて活動し,労働運動の全国的な高揚(22年1月~23年2月)に貢献し,社会主義青年団第1回大会(22年5月)が団員5000人と称したように党勢も発展を見せた。中共は22年7月,第2回全国大会でコミンテルンに正式に加入した。だが,コミンテルンが要求していた孫文との連合政策については,国民党政客への不信と労働運動の順調な展開への自負から懐疑的な態度をとる者が多かったが,京漢鉄道ストライキの失敗とそれに続く反動攻勢による労働運動の退潮は,軍閥支配下における合法闘争の限界を悟らせ,統一戦線の緊急性を中共に認識させるものとなった。
23年6月,中共第3回全国大会は国共合作を決定,全党員が個人として国民党に加入し,中国国民党を労働者・農民・都市小ブルジョア・民族ブルジョアの革命的同盟へ改造,発展させるため活動することとした。中共はソ連顧問団とともに孫文の広東軍政府を助け,国民革命軍を創設,強化して軍閥・買辧勢力を排除し,労働運動,農民運動を進めて広東の革命の基盤を固め,公然活動のできない地域では国民党の旗をかかげて革命運動の大衆化を進めた。
25年,中共の指導によって五・三〇運動が起こり,反帝国主義運動が全国的に高揚するなかで,中国の革命情勢は急激に発展した。中共の党勢も25年1月,第4回大会当時の1000人弱から27年5月の第5回大会では6万人弱へ,共産主義青年団(1925年,社会主義青年団を改称)も同じ期間に8000人から5万人へと急速に伸張した。
これを脅威とした国民党の右派・中間派は,孫文の死と五・三〇運動を契機に反ソ・反共の活動を強め,蔣介石を領袖として広東政府における左派・中共勢力に挑戦した(中山艦事件)。当時,革命は民族ブルジョアが指導階級だとする二段革命論をとっていた中共指導部は,合作の維持を至上課題としてこれに譲歩し,とくに軍隊内の影響力を後退させ,北伐の主導権を蔣介石に奪われた。北伐戦争の進展とともに労農運動は大きく発展したが,蔣介石の反動化はいっそう進み,中共は予測された裏切りに準備することなく,27年4月の上海クーデタで大打撃を受けた(四・一二クーデタ)。その直後に開かれた第5回大会でも新局面に対応する正確な方針を打ちだせず,労農運動をみずから抑制するなど自縄自縛の誤りを重ねるなかで,汪兆銘(精衛)ら国民党左派からも排除,弾圧された(1927年7月)。また北方で協力関係にあった馮玉祥(ふうぎよくしよう)の国民軍からも排除され,国共合作による国民革命は敗北に終わった。
→国民革命
中共は党員数が1万余に激減するほどの打撃を受けたが,瞿秋白(くしゆうはく)らを中心に指導部を再建し,南昌蜂起を最初に国民党政権に対する武装闘争に転じた。しかし広州コミューンなど大都市占拠を目的とした諸蜂起は,極左盲動主義の誤りを犯し,すべて敗北に終わった(第1次極左路線)。ただ,湖南での秋収暴動に失敗した毛沢東は,残軍を再編して井岡山区に入り,独自に土地革命と農村革命根拠地建設の闘争を開始した。
28年6月,中共は第6回全国大会をモスクワで開き,革命の性格が反帝国主義・反封建主義の民主主義革命であることを再確認するとともに,農村革命根拠地(ソビエト区)闘争の推進をふくめて,革命の退潮期における諸任務を策定した。ただ,国民党政権のブルジョア性を過大評価し,戦略の中心をなお都市におき,革命の長期性についての見通しを欠くなど,極左偏向の素地は依然たるものがあった。第6回大会でコミンテルンの中共に対する管制が規約上も強化されたが,コミンテルンへの批判も,この大会を契機に表面化した。国共合作失敗の責任を追及するトロツキーのスターリン批判を,陳独秀ら旧指導部をふくむ一部の中共党員が公然と支持し,29年,中共から除名された。彼らはその後,トロツキー派として活動を続けたが,弾圧と内部分裂によって政治的影響力はほとんど発揮できなかった。
30年,農村革命根拠地は11ヵ所,労農紅軍は10万を数え,白色区(国民党支配地域)の組織も回復,発展した。世界恐慌と軍閥抗争による国民政府の動揺を,革命情勢の到来と過大評価した中共は,李立三の主導下に党と紅軍の総力を動員して,7月から9月にかけ大都市占拠をめざした無謀な武装蜂起と作戦を強行して失敗した(第2次極左路線)。中共がこれを李立三の戦術的誤謬として処置したのに対し,コミンテルンは右翼的路線の誤りだとして中共指導部の改組に乗り出した。31年1月,陳紹禹(王明)らソ連留学生出身者が中共中央を掌握し,右翼偏向との闘争を呼号して,ソ連の経験と理論を教条的に中国革命に持ちこんできた(第3次極左路線)。彼らは中間勢力を主敵として対処し,〈満州事変〉後の愛国運動の高揚からみずからを孤立させ,党内では派閥を固め,無原則な党内闘争,反革命粛清を拡大して中共の団結と戦闘力をみずから弱めた。ついには白色区の組織がほとんど壊滅し,33年初め,中共臨時中央は上海から江西省の中央根拠地に移ることを余儀なくされた。
これより先,農村革命根拠地は,30年末以来,国民政府軍の連続した包囲討伐を撃退しつつ発展し,31年11月には中華ソビエト共和国臨時政府(毛沢東主席)を中央根拠地に樹立した。だが王明らは毛沢東の軍事路線,土地革命路線のすべてを右翼的誤謬として否定し,彼を党と紅軍の指導から排除した。しかし極左路線の支配下に,33年以降,各根拠地とも軍事的,経済的,政治的にしだいに弱体化し,34年には国民政府軍の包囲攻撃を支えきれず,紅軍は長征を余儀なくされた。その結果,中共の党勢は10分の1に減ずるほどの損害をこうむったが,35年10月,中共中央が抗日の戦略的要地,陝西省北部に到達しえたこと,長征開始後,コミンテルンとの連絡が途絶し,遵義(じゆんぎ)会議で毛沢東を党・軍の指導的地位に選出するなど,一定の自主性を獲得したことの意義は大きかった。陝北到着後,中共は八・一宣言にもとづき,抗日統一戦線政策を独自に策定し,全国の愛国運動に指導性を発揮するとともに,紅軍討伐に差し向けられた東北軍,西北軍に働きかけて休戦を実現し,さらに西安事件の平和的解決を成功させて,蔣介石および国民党を内戦停止・一致抗日の交渉の席につかせた。
→抗日民族統一戦線
蘆溝橋事件後,国共合作が正式に成立し,中共は合法性を獲得するとともに,土地革命を停止し,ソビエト政府を解消(辺区政府を樹立)するなど必要な譲歩を行い,紅軍,遊撃隊も八路軍,新四軍に改編した。ただ毛沢東らは,蔣介石ら国民党主流の階級的性格(英米派買辧大ブルジョア・大地主)への認識と労農に依拠した大衆的武装闘争が勝利の保障だとする見通しのうえに,国民政府の抗戦に幻想を持たず,統一戦線中においても党派・階級の独立性を保持し,独立自主の原則を堅持することを強調した。八路軍,新四軍は独自に日本軍の背後に入って遊撃戦争を展開,広大な農村に抗日根拠地を建設し,拡大していった。
→土地革命戦争
これに対し,37年11月,ソ連から帰国した王明は,国民党の進歩性と国民政府軍の力量を過大に評価したコミンテルンの見解にもとづき,また統一戦線を階級闘争の休戦ととらえる立場から,抗日戦争の主力は国民政府軍であり,八路軍,新四軍もその統一指揮に服すべきであり,中共の行動も〈すべて統一戦線を通じ〉,蔣介石に合作破棄の口実を与えてはならないと主張し,党内の有力な支持を得た。この二つの路線の闘争は,国民政府軍の敗退と敵後方根拠地の発展という事実の前に,38年10月,延安で開かれた中央委総会(6期6中全会)で毛沢東の勝利に終わった。中共における毛沢東の政治的権威が,これによって確定した。
40年,中共の党員数は80万に発展したが,日本軍の掃討作戦と国民政府の反共攻勢に対抗するためには,その資質を高め,能力を向上させ,大衆との結合を強化することが急務であった。中共は毛沢東の首唱により,42年以降,広範な整風運動を展開し,教条主義の影響を払拭した。43年のコミンテルン解散とあいまって,中共の主体性は強まり,45年4月,延安で開かれた第7回全国大会(党員121万を代表)は,毛沢東思想を活動の指針として確認し,抗日戦勝利後の新民主主義中国建設の展望を明らかにし,大衆路線を政治・組織の根本路線と定めたのである。8月,日本の降伏時,中共指導下の軍隊は120万,民兵は220万,解放区の人口は1億余に達し,日本軍占領地域,国民党支配地域にも広範な党組織を擁するにいたっていた。
日本降伏後,被占領地域の接収をめぐって国共関係は極度に緊張した。アメリカの支援を得た蔣介石は,中共勢力を一掃して独裁体制を再建するため内戦の態勢を固め,中共もまっこうからこれに対抗した。だが広範な中間層は戦争に疲弊し,内戦の回避を要求していた。中共は蔣介石の欺瞞政策を承知のうえで重慶交渉に応じ,双十協定を結ぶ主導権を取って平和への誠意を内外に示した。他方,46年5月,中共は抗日戦争中の地主階級への譲歩=減租減息を廃し,解放区において土地改革を開始した。大ブルジョア・大地主階級の党である国民党と闘うために,労働者・農民を根幹とし,都市小ブルジョア,民族ブルジョアなど中間勢力を結集した人民民主統一戦線をめざす戦略によるものだった。7月,国民政府軍は解放区に対する全面攻撃を開始した。中共は土地改革で奮起した農民に依拠する人民戦争で対抗し,大きな打撃を与えて,翌47年夏には早くも反攻段階に入った。他方,国民政府治下では,政治の腐敗と軍事費増による財政の崩壊,官僚買辦資本による収奪とインフレの進行のなかで,広範な人々が内戦反対,飢餓反対の運動に決起し,第2の戦線を構築した。中共は内戦突入後も自衛戦争のたてまえを崩さなかったが,国民党と官僚資本の正体がすでに大衆的に明白となった47年10月,人民解放軍宣言を発し,初めて蔣介石の打倒と全中国の解放を呼びかけ,官僚資本の没収など基本政策を公表したのである。
48年,戦局は劇的に展開し,人民解放軍は東北・華北を制圧した。国民政府は和議を申し入れ,アメリカは武力行使の恫喝を加え,ソ連は内戦の国際化を避けるため,長江(揚子江)の線で進撃を停止するよう中共に勧告した。だが,情勢を正確に分析した中共は,49年4月,国共和議の決裂の直後に長江渡河作戦を強行,南京,上海を解放し,同年中にチベット,台湾,香港,澳門(マカオ),海南島を除く全土を制圧した(海南島は50年4月,チベットは51年12月に解放)。この間,投機分子,階級的異分子の混入を防ぎ,組織の純潔性を保持するため〈整党〉・〈整軍〉運動を進め,49年3月には中央委員会総会(7期2中全会)で,革命勝利後の基本矛盾が労働者階級とブルジョアジーの矛盾にあることを確認し,活動の重点を農村から都市に移すための思想的・組織的準備を行った。当時,党員数は448万,人民解放軍は400万に達し,抗日戦中解消していた青年組織も4月,新民主主義青年団として再発足した。
中華人民共和国の成立をもって新民主主義革命の段階は終わった。新国家は〈労働者階級が指導し,労農同盟を基礎とする人民民主独裁国家〉と規定され,複数政党制の形式は残ったが,実質上の一党支配のもとで,中共は社会主義的革命の新段階を指導しなければならなかった。中共は建国直後からアメリカの経済的・軍事的封鎖を受け,朝鮮戦争に際しては義勇軍を送り(中国人民義勇軍),インドシナ独立戦争を支援する国際的義務を負うなど困難な環境のなかで,全国の土地改革を基本軸に,国民経済の回復を52年末までにやりとげた。この基礎のうえに,中共は国民経済の社会主義的改造について過渡期の総路線を策定し,53年から第1次五ヵ年計画に入るとともに,農業,手工業の協同化,資本主義商工業の公私合営化を進め,56年末までに完了した。ことに商工業の改造は,人間改造と結合した買戻し方式をとり,社会主義革命に新機軸を開くものであった。
建国当初,ソ連は中共のチトー化を警戒し,両者の関係は平等ではなかった。だが,スターリンの死去,朝鮮戦争の停戦(1953),インドシナ休戦協定成立(1954)などで中共の国際的地位は高まり,56年のポーランド事件(ポズナン暴動),ハンガリー事件ではソ共の対等のパートナーとして登場した。同年9月,中共は第8回全国大会を開き,社会主義制度が基本的に確立したこと,生産力の発展が今後の主要任務であることを確認し,集団指導を強化し,個人崇拝に反対し,民主を発揚することを執権の党=中共自体の課題として強調した。
革命後の順調な発展は,この時期に入り左翼偏向の誤りが重なり,挫折・迂回を余儀なくされる。57年,開かれた党をめざして整風運動が開始されるが,プロレタリア独裁否定の言論出現を契機に反右派闘争に転じ,左翼的情緒が無原則に高揚するなかで,58年には〈大躍進〉運動,人民公社化運動が左翼盲進の失敗を犯して経済的に重大な損害をもたらした。これに対し,中共党内から彭徳懐らの批判が提起されたが,おりからの台湾海峡の軍事的緊張,中国をふたたび従属的同盟者たらしめんとしたソ連の大国主義的圧力への反発とからみ,この批判は反党策動として処断され,偏向の是正は遅れた。59-61年の自然災害のあと,経済再建のため劉少奇の主導で調整政策が実施され,国民経済の回復と発展がみられた。しかし,中ソ対立・中ソ論争とからみ,中国においても資本主義復活の危険性がソ連同様にあるとして,階級闘争を強調する左翼偏向がふたたび強まり,65年には〈党内の資本主義の道を歩む実権派〉の打倒が社会主義教育運動の重点とされるにいたった。この時期,第8回全国大会の路線はほとんど否定され,後半には毛沢東の個人的権威が異常に強調されて文化大革命への伏線となった。
当初,かなりの長期を予測していた過渡期を短期間に終えたことは,確立した社会主義的生産関係と生産力の跛行状況をもたらした。そのため,生産関係を後退させても生産力の発展を優先させようとする路線と,生産関係の質的充実によって不均衡を発展的に克服しようとする路線の対立が生じ,深刻化した。後者の路線を推進する毛沢東ら主流派は,中ソ論争とからめた世論準備を経て,66年,プロレタリア文化大革命を発動し,劉少奇・鄧小平らのいわゆる〈実権派〉を打倒した。69年4月,文革の勝利を宣言した第9回全国大会では,前大会選出の中央委員・同候補委員で再選された者は3分の1にも満たなかった。だが,文革の理念と現実の乖離,対アメリカ政策の転換をめぐって主流派に分裂が生じ,71年9月,林彪事件が発生した。72年,ニクソン訪中と日中国交正常化を実現させ,中共はのちに〈三つの世界〉論として規定される方向へ対外路線を転換した。国内的には,73年8月の第10回全国大会で,文革の混乱を収拾するため打倒された幹部の再起用が行われたが,同時に毛沢東夫人江青を中心に王洪文,張春橋,姚文元からなる〈四人組〉が党の中枢を握り,周恩来,鄧小平に代表される行政・経済の幹部と対立した。76年,周恩来,毛沢東が死去し,〈四人組〉は鄧小平の追い落しを強行したものの党の内外で孤立し,10月,華国鋒らのクーデタによって失脚した。77年8月の第11回全国大会は文化大革命(第1次)の成功・完了を宣言し,中国を現代化された社会主義国とする新たな建設の時期に入ったことを確認して華国鋒を党主席に選出した。
指導部に復活した鄧小平らは,改革・開放政策を推し進めた。81年6月には華国鋒を降格させて胡耀邦をこれに代えた。
12回大会(1982年9月)は計画経済を主体とし,市場調節を従とする方針を提示した。1980年に開設された経済特区はいっそう奨励され,84年には農村の人民公社も解体されて,農業は個人経営が基本となった。一方台湾との統一にはじめて〈一国二制度〉の方式が提起され,97年の香港の中国復帰にも道をつけた。党自体についても主席制を廃して総書記をもってこれに代えた。
13回大会(1987年10月)では,さらに〈社会主義の初級段階〉論を打ちだし,計画と市場が内在的に統一された商品経済確立を目標にかかげ,国営企業における資本主義的手法の導入,各種形態の外国資本の導入など,いわゆる社会主義計画経済の戦略的後退を正当化した。
学生を中心に盛り上がった民主化運動を中共は〈ブルジョア自由化〉として抑圧し,87年1月には,これへの対処を誤ったとして胡耀邦を降格し,趙紫陽を総書記にすえた。89年,さらなる民主化運動の高揚に党内にも亀裂が生じた。鄧小平らは運動を〈動乱〉〈反革命暴乱〉と断定して鎮圧し,いわゆる〈6・4天安門事件〉が発生した。趙紫陽はその責任を問われて解任され,江沢民が後任に抜擢された。14回大会(1992年10月)ははじめて社会主義市場経済を確立することを課題とした。鄧小平が死去し(1997年2月)香港の平和的復帰(同年7月)を実現して迎えた15回大会(同年9月)では江沢民総書記のもと革命の第三世代による指導体制を確立するとともに,経済の公有部門にも株式制の導入を公認するなど社会主義の大胆な解釈を策定した。
執筆者:小野 信爾
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(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)
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ソ連の指導を得て1921年に結成された。建党初期,労働運動・農民運動の発展に力を入れたが,27年の国共分裂を契機に武装闘争に転じ,江西省などの農村地域で根拠地をつくった。国民党の攻撃に敗れ,党中央と紅軍は34年から戦略的撤退を余儀なくされた。35年,中央指導部が改組され,毛沢東は事実上の最高指導者となった。1936年の西安事件をきっかけに,国民党との抗日民族統一戦線が結成された。抗日戦争で,共産党は日本軍の背後に根拠地をつくり,ゲリラ戦を展開し,軍事力と組織力を拡大。46年からの国共内戦で国民党に勝ち,49年に中華人民共和国を樹立。建国以後,共産党はソ連から中央集権型の計画経済体制を導入し,国家建設を進めたが,毛沢東への個人崇拝,経済建設の経験不足および権力闘争の混乱などがあり,反右派闘争,大躍進運動および文化大革命などの失政を重ねた。76年に毛沢東が死去し,華国鋒(かこくほう)はその後継者になったが,78年の第11期3中全会で,鄧小平(とうしょうへい)は党内の実権を掌握し,近代化路線を打ち出した。それから,共産党は一党支配体制を前提に改革・開放政策を進め,経済発展の実績をあげた。市場経済の導入や私営企業主の入党許可を中心に脱社会主義イデオロギーも進んでいる。人事の面で「若返り」政策が推進され,「テクノクラート」は「革命世代」に代わって党内の実権を握っている。近年,江沢民(こうたくみん)らの第3世代から胡錦濤(こきんとう)らの第4世代への最高権力の移行が行われた。
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中国の政党。1921年7月に上海で結成。24年1月,党員が個人的に国民党に加入する方式で第1次国共合作を実現。27年蒋介石(しょうかいせき)の反共クーデタによる合作分裂後,南昌暴動・秋収蜂起などの武装蜂起に失敗,農村根拠地建設に方向を転じた。35年1月の遵義(じゅんぎ)会議以降,毛沢東(もうたくとう)が党の指導権を掌握。日中戦争期には一致抗日の第2次国共合作を推進。延安整風運動をへて,45年第7回代表大会において,毛沢東思想が指導的地位を確立した。第2次大戦後,土地革命を展開し,国民党政府を台湾に駆逐し,49年中華人民共和国を設立。その後三反五反運動・反右派闘争・文化大革命などの政治運動を展開,78年以降経済建設に政策の中心を移している。
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…中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。…
…正式名称=中華人民共和国People’s Republic of China面積=960万km2人口(1996)=12億2390万人(台湾・香港・澳門を除く)首都=北京Beijing(日本との時差=-1時間)主要言語=中国語(漢語)通貨=元Yuan
【概況】
[建国]
1949年10月1日,北京(当時は北平と呼ばれた)の天安門楼上で,中国共産党主席毛沢東は,中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。これによって,台湾および金門,馬祖など若干の島嶼(とうしよ)をのぞき,中国大陸に真の統一国家が実現し,この日はこれ以後,建国記念日,すなわち国慶節として国家の記念日に指定された。…
…国際共産主義運動の路線をめぐり,1960年から64年にかけておこなわれた中国共産党とソビエト連邦共産党との論争。国家関係にまで波及し,中ソ両国の対立を決定的なものとした。…
…もっとも遠距離を行軍した部隊は2万5000華里(1万2500km)を踏破したことから〈万里長征〉とも呼ばれる(図)。 中国共産党は〈王明(陳紹禹)路線〉の政治的・軍事的誤りのために,国民政府軍の第5次包囲討伐を撃退できず,陝西北部を除く各革命根拠地(ソビエト区)の放棄をよぎなくされた。34年8月,まず紅軍第6軍団が湘贛(しようかん)根拠地から包囲を突破して西進,貴州省東部で第2軍団と合流(紅軍第2方面軍)して湖南西部に進出した。…
…安徽省懐寧出身。活動内容からいえば彼の生涯は民族主義者(1900‐12),民主主義者(1913‐20),社会主義者(1921‐28),さらにトロツキスト(1929‐)の4期に分かれるが,中国の社会と政治に最も大きな影響を与えたのは,急進民主主義者として五・四運動期の新文化運動を指導した第2期,そして中国共産党を創立し指導した第3期である。青年時代には反清の革命家として新聞記者,愛国会,秘密結社岳王会等の組織者として活動したが,辛亥革命の失敗が明らかとなってからは,それまでの会党式の組織方法による革命への反省から,国民の文化思想面での革新へと方向を転じた。…
※「中国共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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