長谷寺(読み)ハセデラ

デジタル大辞泉 「長谷寺」の意味・読み・例文・類語

はせ‐でら【長谷寺】

奈良県桜井市初瀬はせにある真言宗豊山ぶざんの総本山。山号は豊山。西国三十三所第8番札所。天武天皇の時代に道明が開創と伝える。東大寺、ついで興福寺の末寺であったが、度々の火災ののち、安土桃山時代羽柴秀長による復興を機として、新義真言宗となった。本尊は十一面観音。牡丹ぼたんの名所として知られる。本堂は国宝。初瀬寺。泊瀬寺はつせでら豊山寺ぶざんじ。長谷観音。ちょうこくじ。
神奈川県鎌倉市長谷にある浄土系単立の寺。山号は海光山。坂東三十三所第4番札所。開創は天平8年(736)、開山は徳道、開基は聖武天皇あるいは藤原房前と伝えられる。本尊十一面観音は、奈良の長谷寺の観音と一木二体の像という。長谷観音。新長谷寺。

ちょうこく‐じ〔チヤウコク‐〕【長谷寺】

はせでら

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精選版 日本国語大辞典 「長谷寺」の意味・読み・例文・類語

はせ‐でら【長谷寺・初瀬寺・泊瀬寺】

  1. [ 一 ] 奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山。豊山神楽院と号する。古来、山岳信仰の霊地で、朱鳥元年(六八六)天武天皇の勅命により道明が創建した本(もと)長谷寺に始まる。のち、聖武天皇の勅願寺となり、現在名を称した。本尊の十一面観世音菩薩は平安時代には、貴族、特に女性の信仰が厚かった。所蔵する法華経など三四巻の経巻と銅板法華説相図は国宝。西国三十三所の第八番札所。ちょうこくじ。はつせでら。はつせのてら。長谷観音。豊山(ぶざん)寺。
  2. [ 二 ] ( 長谷寺 ) 神奈川県鎌倉市長谷にある浄土系の単立寺院。山号は海光山。天平年間(七二九‐七四九)の創建。開山は徳道。本尊の十一面観世音菩薩は樟に彫刻した日本一大きな木像として知られ、奈良県桜井市初瀬にある長谷寺の十一面観世音菩薩と同じ木でつくられた一木二体のものと伝えられる。坂東三十三所の第四番札所。新長谷寺。長谷観音。
  3. [ 三 ] ( 長谷寺 ) 福岡県鞍手郡鞍手町長谷にある浄土宗の寺。山号は亀甲山。仁和元年(八八五)空海の弟子万貨の創建。奈良の長谷寺にならい、阿彌陀如来とともに十一面観世音菩薩を本尊としてまつる。長谷観音。ちょうこくじ。

ちょうこく‐じチャウコク‥【長谷寺】

  1. [ 一 ] 奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山、長谷寺(はせでら)の別称。
  2. [ 二 ] 秋田県湯沢市柳町にある曹洞宗の寺。山号は兵龍山。天文年間(一五三二‐五五)の開創。

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日本歴史地名大系 「長谷寺」の解説

長谷寺
はせでら

[現在地名]桜井市大字初瀬

初瀬はせ川西岸、初瀬山(五四八メートル)の山腹に位置。真言宗豊山派総本山。山号は豊山、院号は神楽院。本尊十一面観音。西国三十三所観音霊場第八番札所。豊山ぶざん寺・泊瀬上山はつせかみやま寺・泊瀬寺・長谷山はせさん寺などとも称され、また初瀬(寺)といえば当寺をさした。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔草創・本長谷寺〕

創建については異説が多いが、草創当時の遺品と考えられる銅板法華説相図(国宝)の下部に刻まれた銘文の末尾に「歳は(戌)婁に次る(七月)菟上旬、道明捌拾許りの人を率引て、飛鳥清御原の大宮に天下を治しめす天皇の奉為に敬んで造る」とある。降婁の年をいつにするか、従来から諸説があるが、銘文に「奉為天皇陛下」と「陛下」を用いたことや、銅板に表れた仏塔・仏菩薩の形相から朱鳥元年(六八六)丙戌が有力になっており、また飛鳥清御原大宮治天皇は天武・持統の両説があるが、天武天皇が妥当とみられる。天武天皇は朱鳥元年五月病にかかり、再三平癒を社寺に祈らせたが、同年九月に没した(日本書紀)。法華説相図は川原かわら(現奈良県明日香村)の僧道明が天皇のために、豊山すなわち泊瀬の地に祀ったものと考えられる。右の銅板は西の岡に塔が建てられその下に納められたが、同地は現在の観音堂の西方で、この一画を本長谷もとはせ寺とよび、その開基を道明とする。

〔観音造立・後長谷寺〕

本堂(観音堂)のある所は東の岡で、後長谷のちはせ寺と称す。ここに霊木で刻んだ十一面観音像を祀る仏堂ができたのは、聖武天皇の頃と伝える。菅原道真著と伝える鎌倉時代の「長谷寺縁起文」によれば、播磨国揖保いぼ郡出身の僧徳道が聖武天皇の勅を受け、道明について精舎建立を発願、近江国高島たかしま郡白蓮華谷にあった霊木をもって稽主勲・稽文会の二人の巧匠に命じて二丈六尺の観音像を造立、天平五年(七三三)五月一八日行基が導師となり開眼供養が行われたという。「長谷寺霊験記」には十一面観音の霊験譚が伝えられている。縁起によると、この尊像を納める堂宇の建立について賢憬は非常に苦心し、天平一九年になってようやく観音堂が落慶したという。長谷寺が正史に現れるのは「続日本紀」神護景雲二年(七六八)一〇月二〇日条で、称徳天皇が長谷寺に参詣し田地を施入している。「日本霊異記」には淳仁天皇の兄の船親王が長谷寺に参詣したと記す。承和一四年(八四七)一二月二五日定額寺に列せられ(続日本後紀)、「延喜式」には豊山寺料として二千四〇〇束とある。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]倉吉市仲ノ町

打吹うつぶき山の西側中腹にある天台宗寺院。打吹山と号し、本尊は十一面観音。一般に「はせでら」とよばれ、久米札第一番・伯耆札第三三番の札所。「伯耆民談記」によると養老年間(七一七―七二四)長谷ながたに村に造立され、のち都志都古という者が地勢が大和初瀬はせ(現奈良県桜井市)に似ているとして現在地に移したという。建久年中(一一九〇―九九)源頼朝が佐々木高綱を奉行として当寺の造営を行ったという寺伝があるが、信憑性を欠く(同書)。現河原かわはら片山の国英かたやまのくにふさ神社蔵の梵鐘は正安三年(一三〇一)維夏五日の紀年銘をもち、「伯州久米郷長谷寺鐘(以カ)青鳧参拾三貫文鋳之」と刻される。寺蔵の木造文翁籍公像の胎内銘は応永一三年(一四〇六)仲春一八日の年紀をもち、「伯州打吹山長谷寺為禅院開山文翁籍公老和尚歳七十六辛酉年入滅已暦二十六霜而未造作其像(中略)製作老師像之也」とみえる。これによると、中興開山文翁の代には当寺は禅寺で、彼は二六年前の辛酉の年に死去しているが、辛酉の年とは弘和元年(一三八一)のこととされる。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]榛名町白岩

白岩しらいわの西部丘陵東腹にある。金峰山修験本宗、本尊十一面観世音立像。白岩山と号し、坂東三十三ヵ所観音第一五番札所。通称白岩観音。年次不詳の縁起(岸家蔵)の末尾には、縁起は宝蔵にあったもので天正一〇年(一五八二)正月一八日の奥書があり、明治三年(一八七〇)書写と記される。同縁起によると和銅五年(七一二)開基、安和二年(九六九)本堂建立。長谷寺縁起絵巻(県立博物館蔵)は朱鳥年間(六八六―七〇一)勅願により弘福寺僧道明開基としている。弘安二年(一二七九)奉納大般若経(版本)、永和四年(一三七八)から応永一〇年(一四〇三)の間の大般若経写を蔵する。なお、堂守の大坊系図(浜名家蔵)によると浜名氏の祖浜名左衛門義尊(覚欣権律師)を応永二四年没とする。


長谷寺
はせでら

[現在地名]鎌倉市長谷三丁目

高徳こうとく(鎌倉大仏)の南西、勝景の地にある。海光山慈照院と号する。現在は単立で、もと浄土宗光明こうみよう寺末。大和長谷寺に対して新長谷寺と称したが(鐘銘・懸仏銘)、通称は長谷観音。坂東観音巡礼札所四番でもあった。開山徳道、開基藤原房前、天平八年(七三六)の創建と伝えるが、大和長谷寺の縁起に倣ったもので、明確な開創年次は未詳。文永元年(一二六四)七月に物部季重が鋳造した当寺鐘銘(県史一)に「新長谷寺 当寺住真光 勧進沙門浄仏」とあるから、鎌倉時代末期に成立していたことはわかる。本尊は九・一八メートルの十一面観音立像で、右手に錫杖を持つ長谷寺式の巨像である。「長谷寺縁起」や「坂東観音霊場記」「風土記稿」などは、大和長谷寺と同木同作で海中出現の像と伝える。

「相州鎌倉海光山長谷寺事実」(寺蔵)によると、正治二年(一二〇〇)将軍源頼家の代に大江広元が再興したといい、梵鐘が鋳造された文永元年七月には惟康親王が本堂を造営し、この年、亀山天皇から「長谷寺」の額を賜ったという。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]畑野町長谷

小倉おぐらに接した南西向き斜面にまつさき道に沿ってある。真言宗豊山派、豊山と号し、本尊阿弥陀如来。永享六年(一四三四)に佐渡に流された世阿弥の「金島集」にも「長谷と申して観音の霊地」と記され、「はせでら」ともよばれている。かつては末寺一七ヵ寺を数えた。寺伝によれば、平安初期に山奥の瑞籬みずがき平にあった養禅ようぜん寺・長楽ちようらく寺などが現在地に移り、長谷寺となったとされる。天台寺院であったが、天正一七年(一五八九)上杉景勝軍による破壊後、真言宗寺院として復興したという。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]大船渡市猪川町 長谷堂

長谷堂はせんどうにある。竜福山と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。宝暦一一年(一七六一)の「気仙風土草」では天慶九年(九四六)淳祐の開基とみえ、堂上梁文には長国ちようこく寺と記され、もと赤崎あかさき村にあったとする。また境内に石塔婆が数基あって、いずれも銘文の字はみえないが、そのうちに「文保五年大道」の文字がみえるともある。ただし元禄一一年(一六九八)の「気仙郡古記」では、本尊を不動三尊とする。寺伝によれば、天慶九年近江国石山いしやま(現滋賀県大津市)淳祐を開山として赤崎の小田おだに長国寺が建立され、鎌倉時代には隆盛となった。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]石巻市真野 萱原

真野まの萱原かやはらの丘陵斜面に位置する。舎那山と号し、曹洞宗、本尊は十一面観音立像。寺伝によれば、大同二年(八〇七)の創建にかかる天台宗の古刹長谷寺が寛弘元年(一〇〇四)に焼亡、廃絶ののち、嘉応二年(一一七〇)陸奥鎮守府将軍に就任した藤原秀衡は、平泉都城建設をはじめ領内各地の寺社保護・復興を図り、牡鹿おしか郡内では金華山大金だいきん(現牡鹿町)四八寺坊の造営、長谷寺の再興を果した。源義経が平氏追討の旗揚げに際して郎党とともに長谷寺に参籠、幼名にゆかりの舎那山を山号に奉って武運長久を祈願、石巻から海路鎌倉めざして船出したと伝える。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]夜須町羽尾

夜須町の中心坪井つぼいから北東へ直線距離で一〇キロ、土佐湾を一望する標高五五〇メートルの山上にあり、山下谷間には羽尾はおの集落がある。槙牧山平等院と号し、まき寺ともよばれる。本尊は十一面観音。かつて禅宗吸江ぎゆうこう(現高知市)末で、貞享二年(一六八五)の中興以後は臨済宗妙心寺派。

「南路志」所引の寺記によると、行基が当初「横野山中津尾」に創建し、神亀四年(七二七)現在地へ移ったという。往古は勅願所で、大和の長谷寺と同時に建立され、勅筆の「鶴岳門」の額もあったなどと伝える。「土佐州郡志」は、行基の夢に現れた観音菩薩が夜須川の川上に住みたいと告げ、覚めた行基は早速夜須川の源を尋ね堂宇を営もうとしたところ、何者かが一夜のうちに良材を運んだという伝説を記す。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]高島町音羽

だけ山の山頂近くに位置し、白蓮山と号し、天台真盛宗。本尊十一面観音。縁起は近江国泊瀬寺縁起(内閣文庫蔵)など二種類あるが、その本流は永観二年(九八四)源為憲の「三宝絵詞」にある大和国長谷寺縁起に基づいている。すなわち聖武天皇のとき三尾みお山に一〇丈余の檜があり、常に光を放っていたが、あるとき野火のため檜は焼かれ根が湖上を流れ近江大津おおつ浦に漂泊していた。養老四年(七二〇)大和国高市たけち八木やぎ(現奈良県橿原市)にそれを移したところ、泊瀬はつせ(現同県桜井市)に草庵を結んでいた僧徳道が、この木で十一面観音像を造立しようと発願。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]春日居町鎮目

中尾なかお山の中腹、標高約五〇〇メートルの位置にある。菩提山と号し、真言宗智山派。本尊は十一面観音。養老六年(七二二)に行基によって開創されたと伝える(「甲斐国志」など)。現在は本堂・石造物を残すだけであるが、往古は一千坊の塔頭・僧房があったと伝える(寺記)。近年県が実施した古代官衙・寺院跡の試掘調査によると龍頭りゆうず堂跡・開山院堂跡・仁王門跡の三遺跡から布目瓦・土師器・灰釉陶器、常滑焼などの土器片が出土している。


長谷寺
はせでら

[現在地名]鞍手町長谷

長谷にあり、浄土宗。亀甲山と号し、本尊は阿弥陀如来と十一面観音。寺記によれば、仁和元年(八八五)大和国泊瀬はつせ(初瀬・長谷、現奈良県桜井市)の万貨坊が観音像を背負って諸国を巡り、当地へ至って泊瀬に模して一宇を建てたのが始まりとされる(地理全誌)。当初は真言宗で、往時には寺領五〇〇石、僧坊六区(谷坊・伊屋坊・橋爪坊・池田坊・水上坊・御薗坊)を有したが、盗賊に焼かれて衰退したという(続風土記)。延徳三年(一四九一)六月三日には粥田かいた八尋やひろ郷の住人藤原家信・大蔵女源栄の発願で、「新北村亀甲山長谷寺」に梵鐘が寄進されている(太宰管内志)。明暦二年(一六五六)残雪が浄土宗に改めて再興し、植木うえき(現直方市)真如しんによ寺の末寺となった。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]小川町中小野

八幡はちまん岳の北端の山裾高台にあり、眼下を九州自動車道が走る。山号は泰雲山、曹洞宗で、十一面観音立像を本尊とする。「はせでら」とか「おばせかんのん」ともよばれる。縁起によれば大和国長谷はせ寺より大治二年(一一二七)六月一八日、是眼が勧請したという。永享二年(一四三〇)花の山はなのやま(現豊野村)城主絹脇刑部より田畑三町五反を寄進され、同時に曹洞宗に改宗したという。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]港区西麻布二丁目

正式名称は大本山永平寺別院長谷寺。曹洞宗、普陀山と号し、本尊は大和長谷はせ(現奈良県桜井市)の観音の写である十一面観音。もと赤坂溜池ためいけ近くにあったが天正一二年(一五八四)現在地に移転した。当時は竜雲寺と号していたという。山口修理亮重政を檀那として長谷寺に改め、慶長三年(一五九八)下野大中だいちゆう(現栃木県大平町)一二代宗関を請じて改めて開山とした。延宝二年(一六七四)には山口家が寺社奉行の裁決によって離檀している。徳川吉宗の狩の際にはしばしば休息所とされた。一万八千余坪の広大な境内に塔頭慈眼じげん院をはじめとして、本堂・仏殿・古仏殿・鐘楼堂のほか天満宮などの社、富士塚などがあった。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]鳴門市撫養町木津

金刀比羅ことひら神社の南西麓にある。豊山神楽しんらく院と号し、高野山真言宗。本尊は十一面観音。江戸時代以前の寺歴は不詳だが、阿州三好記大状前書(徴古雑抄)には「木末衛寺」とみえ、戦国期には三好氏から寺領一三貫文を与えられていた。下寺は七ヵ寺、その後長谷寺と改めたという。阿州三好記並寺立屋敷割次第(同書)によれば、客殿・庫裏・取次・玄関(唐破風造)・鐘撞堂・護摩堂・下坊主部屋・奥座敷・土蔵・観音堂・金毘羅堂・御供堂・仁王門・表門・裏門があり、寺立は南向、屋敷一町七反としている。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]中田町浅水 長谷山

南流してきた北上川が北東へと向きを変え、大きく曲流して再び南流する。その周回の中心にあるのが標高五一・三メートルの長谷はせ山で、いわゆる「北上の大迂回部」の要に位置する山として注目される。この丘上に長谷寺があり、遮那山と号し、天台寺門宗、本尊は十一面観音。「封内風土記水越みずこし邑の項に「観音堂、伝云、本州七処之其一而、第三番之札処也、古昔有寺、号遮那山長谷寺」とあり、大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創建と記している。


長谷寺
はせでら

[現在地名]西都市三納

三納みのう川上流の山中、長谷に建つ。初瀬山補陀洛院と号し、真言宗醍醐派。本尊は十一面観音。長谷観音と通称される。寺伝によれば養老元年(七一七)徳道が諸国巡錫の途中この地に立寄り、勅許を得て筑紫鎮護の総道場として創建したという。大永二年(一五二二)に出火し全焼、これを惜しんだ伊東尹祐が翌年三納城主らに命じて工を起こし、高さ二二尺の中尊十一面観音、高さ一八尺の聖観音と勢至菩薩の両脇侍を作らせ、方一〇間の本堂と傍院一二坊を建立して同四年に竣工、伊東義祐はここを祈願所として寺領八町を寄進したという。


長谷寺
はせでら

[現在地名]長野市篠ノ井塩崎 長谷

塩崎長谷地区白助しらすけにあり、真言宗金峰山竜福院長谷寺と称する。本尊大日如来、観音堂の本尊は十一面観音菩薩。ちなみに、長谷の地名小長谷部おはせべは武烈天皇の御子代部みこしろべであったことに由来する。

寺の開基は白助翁。大和の「長谷寺霊験記」には、允恭天皇の六代の孫白助翁がこの国に居住し、双親のため千日湯をたて千本の卒都婆を供養し、これによって善光寺の阿弥陀如来が化し来って長谷の霊地であることを顕わしたという。

寺伝は、仁明天皇の承和五年(八三八)現地に移転、養和元年(一一八一)六月、横田よこた河原の合戦に際し木曾義仲方に従わなかったため伽籃を焼失。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]津山町横山 久保

南沢みなみさわ川に沿った渓間にあり、舎那山と号し曹洞宗、本尊は阿弥陀如来。かつては天台宗で、大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創建になり、南堂山天性寺と号し、その後退転、元応元年(一三一九)筑源が改宗して再興したという(南沢村安永風土記)。平安時代の木造観音立像があり、像高一五五センチで、県指定文化財。長谷寺の向い、小高い丘の雑木林中に「覚心円公」と刻まれた墓がある。藩祖政宗の実弟小次郎(幼名竺丸)の墓である。天正一八年(一五九〇)四月五日、会津黒川くろかわ(現福島県会津若松市)において、政宗の実母保春院による政宗毒殺の陰謀が発覚し、同月七日政宗は小次郎を殺した。


長谷寺
はせでら

[現在地名]熊本市春日四丁目

花岡はなおか山の南東麓にあり、普門山大聖院と号し、天台宗、本尊十一面観音・千手観音。明治七年(一八七四)横手よこて村の清水きよみず寺と合併したため清水寺・清水観音と通称する。長谷寺は「国誌」では「天平年中、行基僧正和州長谷寺ニ擬シテ草創」、その後廃退、慶長一九年(一六一四)越後の僧秀海再興、これより後仏餉田として五反を寄進したと記す。謡曲などで知られる檜垣は当地に寓居し、岩戸いわと観音に日参したという。


長谷寺
はせでら

[現在地名]津市片田長谷町

長谷山の西斜面の中腹にある。臨済宗相国寺派、近田山と号し、本尊は十一面観音立像。寺伝によると、開基は奈良時代大和長谷寺の開基徳道。多気たき郡多気町長谷寺を近長谷きんちようこく寺と称するのに対して、遠長谷えんちようこく寺とよばれるが、文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)に「末寺伊勢国安野東郡字近長谷寺証文一通」と記されており、当寺方が近長谷寺とよばれていた。大和長谷寺の信仰を伝える山岳信仰寺院であったと思われる。


長谷寺
はせでら

[現在地名]いわき市常磐上湯長谷町

ほりうちにあり、宇治山慈光院と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。ちょうこくじともよばれる。大同二年(八〇七)徳一の開山と伝え、本尊も徳一の作と伝える。代々岩崎氏の祈願寺で、天文年間(一五三二―五五)好間よしま村の龍雲りゆううん寺三世一谿玄舸が中興し、曹洞宗に改めた。近世には湯長谷藩の祈願寺であった。本尊の木造十一面観音立像は県指定重要文化財


長谷寺
はせでら

[現在地名]古河市中央三丁目

古河城の出城、諏訪すわ郭を背にして所在。真言宗豊山派。本尊十一面観音。近世の長谷村村域の一部が古河城下に取込まれた部分に位置するため、史料上は長谷村に現れ、天保五年(一八三四)の御領分寺院取調帳(鷹見安二郎文書)

<資料は省略されています>

とみえる。本尊十一面観音はかつて境内に存在した観音堂の本尊で、「古河志」によれば、明応年中(一四九二―一五〇一)古河公方足利成氏が古河城の鬼門仏として鎌倉の長谷寺から勧請し、五代公方義氏が領地を寄進した。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]真田町大字長字真田

真田村字旗見原はたみはらにある。曹洞宗、本尊釈迦如来、創立年月日は不詳。

初め種月庵という庵であったが、戦国末期真田幸隆が開基、晃運を開山とし真田山と号し真田氏の菩提寺。上野国碓氷うすい後閑ごかん村長源寺の末寺。元和八年(一六二二)真田信之の松代移封の際、長谷寺六世が随従し、松代に一寺を建立し、長国寺と称し、真田氏代々の霊廟をおき(長野市の→長国寺、その末寺となる。


長谷寺
はせでら

[現在地名]三光村西秣

八面はちめん山の北東部山麓、長谷集落にある。大久山と号し、高野山真言宗。本尊観音菩薩。「太宰管内志」に「奥院岩窟に仏像多く安置せり」とし、「豊鐘善鳴録」を引いて「釈三界不知何人也、神亀四年春、造豊前下毛之大久山窟、卜幽棲遅焉、窟則仁聞大士安十一面大悲像之霊区也」と記される。天正年間(一五七三―九二)野仲鎮兼のために諸堂ことごとく焼失せられ、三尊のみが兵火を免れた。その後、慶長五年(一六〇〇)細川忠興が金堂を寄進し、享保九年(一七二四)再建された。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]由良町畑

はた南西部の山麓にある。珠石山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は十一面観音。正応四年(一二九一)興国こうこく(現由良町)の開基法灯国師覚心が八五歳のとき開創した。「続風土記」の記す伝承によれば、覚心が竜神に菩薩戒を授けたところその報謝として三顆の宝珠が降り、覚心はその地に一宇を建立、大和長谷はせ(現奈良県桜井市)の観音と同形の観音を本尊とし、名を長谷寺としたのに始まるという。境内の弁財天社は、この宝珠を降らせた竜神を寺の鎮守として祀ったものという。


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]小坂町小坂町

飛騨川と小坂川の合流点近く、小坂町役場南隣にある。吉田山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は十一面観音。小坂観音ともよばれ、創建の年代は不詳。円通来由運志簿(当寺蔵)によれば、僧行基の開基で、本尊は行基作と伝える。康永年中(一三四二―四五)源誠により太子堂が再興されたという。元禄八年(一六九五)の小坂町村検地帳(小坂町教育委員会蔵)には観音堂とみえる。寛政一一年(一七九九)二月火事により仁王門まで残らず焼失したが、焼けた本尊の灰中より胎内仏が無事拾いあげられた(紙魚のやどり)


長谷寺
はせでら

[現在地名]堺市宿院町東三丁

大阪中央環状線の南、顕本けんぽん寺の西にあり、真言宗豊山派、山号神栄山極楽院。本尊十一面観音は俗に宿院観音とよばれて親しまれる。天平勝宝五年(七五三)徳道が開創。聖武天皇が大和長谷寺(現奈良県桜井市)建立後、勅して諸国に長谷寺を建立させたなかで最も古いといわれる(「和泉長谷寺縁起」寺蔵)。かつては六坊の塔頭を有した伽藍を構えていたという(大阪府全志)。江戸時代になると観音菩薩の札所の創設や出開帳が流行するが、当寺でも明和三年(一七六六)三月大和長谷寺の観音開帳が行われた(摂陽奇観)


長谷寺
はせでら

[現在地名]牟礼村大字黒川字前田

浄土宗、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、往古から牟礼むれ村内字玉林山ぎよくりんざんに観音安置の堂舎が一宇あったが、朽廃したため、大永二年(一五二二)、室飯(矢筒)城主島津権六郎某が伯母妙相院宝誉玉林禅宅庵の菩提のため、一宇を建て長谷寺と号した(明治一二年「信濃国上水内郡寺院明細帳」長野県庁蔵)


長谷寺
ちようこくじ

[現在地名]岩井市長谷

香取神社の東一〇〇メートルに所在。補陀洛山と号し真言宗智山派。本尊十一面観世音菩薩。三間四面の観音堂(本堂)の東に弘法大師堂、西に聖徳太子堂、そして鐘楼がある。寺伝によれば享保八年(一七二三)下総関宿領主より三反歩の除地を受けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷寺」の意味・わかりやすい解説

長谷寺(はせでら 奈良県)
はせでら

奈良県桜井市初瀬(はせ)にある寺。真言(しんごん)宗豊山(ぶざん)派総本山。豊山神楽院長谷寺と号する。初瀬(はせ)寺とも書かれ、豊山寺、長谷観音(かんのん)とも称する。本尊は十一面観音。西国三十三所第8番札所。686年(朱鳥1)弘福寺(ぐふくじ)(川原寺)の道明上人(どうみょうしょうにん)が天武(てんむ)天皇の病気平癒祈願のため、法華(ほっけ)説相図銅板(千仏多宝塔を鋳出)を鋳造して西の岡に安置したことに端を発する。この説相図の仏像の様式や鋳造技術は白鳳(はくほう)時代の傑作である。727年(神亀4)聖武(しょうむ)天皇の勅願によって徳道上人(とくどうしょうにん)が東の岡に十一面観音を祀(まつ)る本堂(観音堂)を造立し、ここに長谷寺発展の基礎が築かれた。十一面観音は高さ8メートル余りの木像で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に蓮華(れんげ)の入った水瓶(すいびょう)を持ち、観音菩薩(ぼさつ)の慈悲と地蔵(じぞう)菩薩救済の誓願をあわせ示現している。その後、観音霊場として長谷寺の名は天下に聞こえ、数多くの人々の信仰を集め隆盛の一途をたどった。しかし200年後の944年(天慶7)朱雀(すざく)天皇の代に火災にあい、堂塔・仏像が灰燼(かいじん)に帰したのをはじめ、室町末期の世相の混乱に加え、1536年(天文5)の火災によって一宇を残さず炎上、衰微していった。

 現在の本尊十一面観音立像は1538年東大寺仏生院実清良覚仏師によって造像された。1588年(天正16)大和大納言(やまとだいなごん)羽柴秀長(はしばひでなが)の招請により根来寺(ねごろじ)の学頭専誉(せんよ)がこの寺に住し、堂舎の造営を始めた。江戸時代以後は徳川幕府の庇護(ひご)を受け、以前にも勝る壮麗なる七堂伽藍(がらん)を造営した。現在の本堂(国宝)は1650年(慶安3)徳川家光(とくがわいえみつ)の命により造営されたもので、京都清水(きよみず)寺の本堂と同じ舞台造りである。学山としての長谷寺は密教および倶舎(くしゃ)・唯識(ゆいしき)の学匠が輩出し、諸宗の学徒も多く参集してにぎわった。『法華経(ほけきょう)』28巻、般若心経(はんにゃしんぎょう)付蒔絵(まきえ)経箱、法華説相図銅板などの国宝、銅造十一面観音立像、木造不動明王坐像(ざぞう)、木造地蔵菩薩立像、絹本着色阿弥陀来迎(あみだらいごう)図、絹本着色浄土曼荼羅(まんだら)図、宋(そう)版一切経などの国重要文化財がある。2月14日に行われる追儺会(ついなえ)「だだおし」は有名である。桜の名所および150種7000株のボタンの名所として名高く、古来多くの和歌、俳句、連歌(れんが)などに詠まれた。

[野村全宏]



長谷寺(はせでら 神奈川県)
はせでら

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土系の単立寺院。海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)と号し、長谷観音(かんのん)と通称される。寺伝では大和(やまと)(奈良県)長谷寺の開山、徳道(とくどう)のつくらせた2体の観音像の1体が漂着し、これを縁として736年(天平8)に徳道が創建したものという。本尊は大楠(おおくすのき)に彫られた9メートル余の十一面観音立像で、木像では日本最大といわれる。堂内の内壁左右に銅造十一面観音懸仏(かけぼとけ)(6面)があり、また文永(ぶんえい)元年(1264)在銘の銅造梵鐘(ぼんしょう)があって国の重要文化財に指定されているほか、銅造鰐口(わにぐち)、『長谷寺縁起絵巻』2巻などを蔵する。坂東(ばんどう)三十三所第4番札所。毎年8月10日に四万六千日法要、12月18日には観音歳(とし)の市が開かれ参拝客でにぎわう。

[森 章司]



長谷寺(ちょうこくじ 神奈川県)
ちょうこくじ

長谷寺


長谷寺(ちょうこくじ 奈良県)
ちょうこくじ

長谷寺

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改訂新版 世界大百科事典 「長谷寺」の意味・わかりやすい解説

長谷寺 (はせでら)

奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山(ぶざん)派の総本山。豊山神楽院と号し,古くは泊瀬寺,長谷山寺などとも記される。西国三十三所観音霊場の第8番札所。草創については諸説があるが,《日本紀略》《春記》《東大寺要録》から推考すると,721年(養老5)に大和川原寺の僧道明が山寺を構え,727年(神亀4)より良弁の弟子徳道が,その東南の高所の岩盤を基礎として2丈6尺の十一面観音立像と観音堂を建立し,行基を導師に落慶供養を行ったという。観音堂がすなわち豊山寺であり,道明の当初の山寺は,今日,本(もと)長谷寺として伝えている三重塔を中心とする一画がそれである。豊山寺が泊瀬上山寺として8世紀後半に信仰をあつめていたことは《日本霊異記》で知られる。768年(神護景雲2)寺田8町が施入され,847年(承和14)には定額寺に昇格し,《延喜式》主税式では大和国の正税2400束(120石)が寄せられ,以後寺観が整備された。創建以来東大寺末として法灯を伝えてきたが,990年(正暦1)ころ興福寺の支配するところとなり,11世紀後半には興福寺大乗院が当寺別当職を相承するにいたった。

 本尊十一面観音に対する信仰は世に長谷詣として有名で,《源氏物語》《枕草子》などによっても知られるが,991年(正暦2)の東三条院,1024年(万寿1)藤原道長,1089年(寛治3)摂政藤原師実など貴族の参詣があり,さらに1480年(文明12)には足利義政が7日間参籠している。944年(天慶7)1月に炎上,以後1536年(天文5)6月の炎上まで罹災すること10度に及んだ。とくに1052年(永承7)8月の焼亡は,末法到来を示唆する凶事として深い関心が寄せられた。1469年(文明1)8月の炎上とその再興にあたっては,大内氏の助援を得て李氏朝鮮に高麗船(こまぶね)を派遣し,高麗版《大蔵経》を入手している。1585年(天正13)紀州根来(ねごろ)寺が兵火に焼かれ,専誉(1530-1604)が当寺に入寺してから,新義真言宗の根本道場となった。1612年(慶長17)徳川家康より朱印寺領300石が寄せられ,以後徳川氏の庇護厚く,1650年(慶安3)には本堂(観音堂),登廊,鐘楼などが再興された。1954年には三重塔にかわって五重塔が建立され,また仁王門が再建された。寺宝中,おもなものに装飾経法華経など34巻,銅版法華説相図(千仏多宝塔)(以上,国宝),絹本著色《浄土曼陀羅図》,同《阿弥陀如来来迎図》,銅造十一面観音立像,宋版一切経2766冊(以上,重要文化財)などがある。なお,本尊十一面観音は霊験をもってうたわれ,その同木分身と称し,長谷寺・新長谷寺と称する寺が各地に多数存する。とくに神奈川県鎌倉市の海光山慈照院長谷寺(長谷観音。もと浄土宗,現在は単立寺院)は著名で,徳道を開山とし,本尊は大和長谷寺と同木同作と伝える9m余の十一面観音立像である。
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百科事典マイペディア 「長谷寺」の意味・わかりやすい解説

長谷寺【はせでら】

奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山。長谷寺(ちょうこくじ)とも。天武天皇の病気平癒(へいゆ)を祈って川原寺の僧道明が銅板法華説相図を作って安置したのに始まり,727年徳道上人が十一面観音像を作り観音道場を建てたのが現在の長谷寺といわれる。西国三十三所観音霊場の第8番札所。のち新義真言宗の根本道場となった。本堂は舞台造の大建築。ボタンの名所。
→関連項目桜井[市]真言宗豊山派新長谷寺長谷寺鉢かづき大和青垣国定公園大和猿楽

長谷寺【はせでら】

長谷(はせ)観音とも。神奈川県鎌倉市にある単立の寺。奈良時代に大和の長谷寺の徳道が,クスノキでつくった十一面観音像を海中に投じ,16年後に鎌倉に漂着したので,それを本尊として創建したと伝える。大和長谷寺に対して新長谷(しんちょうこく)寺と称された。北条・足利・徳川氏の外護を受けた。本尊は高さ9mの立像。
→関連項目鎌倉[市]

長谷寺【ちょうこくじ】

長谷寺(はせでら)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷寺」の意味・わかりやすい解説

長谷寺
はせでら

奈良県桜井市初瀬にある新義真言宗豊山派の総本山。豊山神楽院と号し,別名初瀬寺,泊瀬 (はつせ) 寺。また「ちょうこくじ」ともいう。天武天皇の頃,弘福寺道明が北峰にまつられていた宝塔を西谷に移して三重塔と釈迦堂を建立し (本長谷寺) ,のち養老4 (720) 年徳道上人が近江三尾前山よりクスの霊木を東峰に移して2丈6尺の十一面観音の造立に着手し,堂宇を建てて,天平5 (733) 年に行基を導師として開眼供養した (後長谷寺) 。以後観音霊場として栄え,その霊験は海外にも聞えた。一時衰微したが,豊臣秀吉の根来攻めを避けた妙音院専誉が天正 15 (1587) 年当寺に入り,妙音院を移して小池房中性院とし,法相宗を改めて新義真言宗とした。以後寺運は栄え,特に学問を重視して,32世法住の時代には快道,戒定らの俊才を輩出して,その性相学 (倶舎,唯識の批判的研究) は一世を風靡し,その批判精神は明治以後の近代仏教学へと伝えられた。西国三十三所の第8番札所として,またボタンの名所として有名。国宝指定の経典を多数蔵する。 2004年本堂が国宝に指定された。

長谷寺
ちょうこくじ

長谷寺」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長谷寺」の解説

長谷寺
はせでら

初瀬寺・泊瀬寺・豊山寺とも。奈良県桜井市初瀬町にある真言宗豊山派の総本山。西国三十三所観音第8番札所。豊山神楽院(ぶざんかぐらいん)と号す。686年(朱鳥元)弘福(ぐふく)寺の道明(どうみょう)が創建し(本長谷寺),733年(天平5)徳道が堂舎をたてて十一面観音を安置した(後長谷寺)という。当初は行場としての性格をもつ山岳寺院で,東大寺の末寺であった。847年(承和14)定額寺(じょうがくじ)となる。10世紀後半に興福寺末となり,1588年(天正16)根来(ねごろ)寺の専誉(せんよ)が入寺してから新義真言宗の寺院となった。平安時代以来,観音信仰の隆盛にともない貴族から庶民まで多くの参詣者を集め,観音の霊験譚も多く語られた。本堂は国宝。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長谷寺」の解説

長谷寺
はせでら

奈良県桜井市大字初瀬にある真言宗豊山派の総本山
起源は奈良時代と伝えられる。平安時代に観音霊場として栄え,中世は天照大神 (あまてらすおおみかみ) の本地として信仰された。1564年松永久秀により壊滅したが,'87年豊臣秀吉が再興。近世,新義真言宗豊山派の総本山として繁栄。西国三十三札所の第8番にあたる。

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デジタル大辞泉プラス 「長谷寺」の解説

長谷寺(はせでら)〔奈良県〕

奈良県桜井市初瀬(はせ)にある寺院。大和長谷寺ともする。真言宗豊山派総本山。山号は豊山、院号は神楽院。創建年は諸説あり不詳だが、一説には道明による開創。本尊は十一面観世音菩薩(長谷観音)。国宝の本堂(観音堂)ほか、数多くの文化財を保有。牡丹の名所。西国三十三所第8番札所。

長谷寺〔鳥取県〕

鳥取県倉吉市にある寺院。「はせでら」とも「ちょうこくじ」とも読む。天台宗。山号は打吹(うつぶき)山。養老年間の開山と伝わる。本尊は十一面観世音菩薩。室町~明治時代の絵馬を多く所蔵することで知られる。

長谷寺(はせでら)〔神奈川県〕

神奈川県鎌倉市長谷にある浄土系の単立寺院。736年開創と伝わる。本尊の十一面観世音菩薩(長谷観音)は高さ9.18mで、木造の仏像としては国内最大級。見晴台からは、鎌倉の海と街並みが一望できる。

長谷(ちょうこく)寺〔福岡県〕

福岡県鞍手郡鞍手町にある浄土宗の寺院。山号は亀甲山。885年の創建と伝わる。本尊の十一面観音像は平安時代の作で、国の重要文化財に指定。「長谷(はせ)観音」とも呼ばれる。

長谷(ちょうこく)寺〔群馬県〕

群馬県高崎市にある金峯山修験本宗の寺院。山号は白岩山、本尊は十一面観世音菩薩。白岩観音とも呼ばれる。長谷寺縁起絵巻では朱鳥年間の開基としているが異説もある。

長谷寺〔山梨県〕

山梨県南アルプス市にある真言宗智山派の寺院。1524年に建てられた本堂は国の重要文化財に指定されている。

長谷(ちょうこく)寺〔秋田県〕

秋田県由利本荘市にある寺院。曹洞宗。全高約9mの長谷十一面観世音菩薩(通称「赤田の大仏」)で知られる。

長谷寺(ちょうこくじ)〔神奈川県〕

神奈川県厚木市にある寺院。曹洞宗。山号は蓬莱山、本尊は十一面観世音菩薩。

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事典・日本の観光資源 「長谷寺」の解説

長谷寺(第22番)

(東京都港区)
昭和新撰江戸三十三札所」指定の観光名所。

長谷寺

(滋賀県高島市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

長谷寺(第30番)

(鳥取県倉吉市)
中国三十三観音霊場」指定の観光名所。

長谷寺(第4番)

(神奈川県鎌倉市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

長谷寺(第6番)

(神奈川県厚木市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

長谷寺(第8番)

(奈良県桜井市)
西国三十三箇所」指定の観光名所。

長谷寺

(長野県上田市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

長谷寺(第15番)

(群馬県高崎市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長谷寺の言及

【長谷寺】より

…草創については諸説があるが,《日本紀略》《春記》《東大寺要録》から推考すると,721年(養老5)に大和川原寺の僧道明が山寺を構え,727年(神亀4)より良弁の弟子徳道が,その東南の高所の岩盤を基礎として2丈6尺の十一面観音立像と観音堂を建立し,行基を導師に落慶供養を行ったという。観音堂がすなわち豊山寺であり,道明の当初の山寺は,今日,本(もと)長谷寺として伝えている三重塔を中心とする一画がそれである。豊山寺が泊瀬上山寺として8世紀後半に信仰をあつめていたことは《日本霊異記》で知られる。…

【長谷寺霊験記】より

…仏教説話集。編者は長谷寺(奈良県桜井市)関係の僧らしく,13世紀初頭に成立。2巻。…

【三輪神道】より

…その形成は,血脈類を比べると鎌倉末期の覚乗(《天照大神口決》の著者)前後に求められよう。その伝流は,三輪社を中心に室生寺を介して伊勢神宮周辺と深い交流がうかがわれ,伝書類が平等寺のほか高野山と長谷寺に多く伝来し,とくに長谷寺では近年まで神道灌頂が相伝されていた。【阿部 泰郎】。…

※「長谷寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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