一般に契約の保証物件をいう。古く《類聚名義抄》に〈ムカヘリ〉(《日本書紀》では〈ムカハリ〉)あるいは〈シロ〉の訓が与えられているように,質の原義は本物・本人に代わって本物・本人と同じ機能を果たすものの意である。その意味で身代(みのしろ)は質の原型の一つを示している。
→質権
古代
律令法における質は,占有質と無占有質(こんにちの質と抵当)とを含んだものであり,また動産質と不動産質を区別していなかった。奈良時代の月借銭(げつしやくせん)などでは,動産,不動産が質物としてあげられている。ただし,不動産質である田宅の質入れを禁止する法令が751年(天平勝宝3)以後何度か出された。しかし実際には不動産質の質入れも盛行した。質取主は質物を保全する義務を負い,債務不履行の場合には一定の条件のもとに売却し,その代価をもって債務の弁済に充てる売却質を原則としたが,債権者に帰属する流質の慣行もあった。
中世
売買・貸借などの取引における担保・抵当を質といった。貸借において担保を必要としたことはいうまでもないが,中世には売買にも担保を必要とした。
(1)売買契約の場合 古代や中世の場合,取引(所有の移動)の対象となる物の所有は,実態的には家の共同的家産という性格が強く,個人の私有という性格はひじょうに脆弱である。他方観念的には物と所有主体(〈本主〉といい,個人ではなく家)とは一体的に結合しているものとみなされた。このように特殊な所有の実態と観念は,もろもろの物の交換,取引行為を根底から規定した。すなわち売買にはつねに本主の請戻権が付随し,買主の権利は債権に近い限定的・有期的な占有権でしかなかったのである。したがって担保は,貸借における債務不履行に対処するためのみならず,売買における本主の追奪あるいは第三者の追奪に対処するためにも必要であった。また中世には私的契約に対する国家権力あるいは地域権力の公的な保証・関与が構造的にきわめて不十分であったために,契約当事者は契約に関する紛争や不履行のいっさいを,基本的には当事者間で処理せねばならなかった。この点から質に関する社会慣行は複雑化,多様化せざるをえなかった。
(2)貸借契約の場合 第1に不動産の質入れには,入質と見質の別があった。入質は契約と同時に質地の占有が貸主に移転するもので,これに2形態あった。すなわち,借主が負債を返還するまで貸主が質地からの収益を獲得するものと,貸主が元利相当分の収益を獲得した上で借主に返還するものである。後者はいわゆる抵当で,差質ともいう。質地の占有は契約後も借主がこれを保留する。見質にも2形態あって,債務不履行となった場合,ただちに質地の所有権が貸主に移転するものと,質地について元利相当分を収穫するまで貸主に移譲するものである。このような質に関する社会慣行は売買と混合されて,本物返売買,本銭返売買,年季売などと呼ばれる場合もあった。第2に動産の質入れは,契約成立と同時に質物が貸主に移譲されるが,その所有権は依然として借主にあった。この場合,鎌倉幕府法では利息が元本の額を超過した時点で借主は請戻権を喪失(質流)し,質物は貸主の所有に帰するのを原則としたのに対し,公家法では貸主が元本を超過する利息の徴収を禁止するのみである。第3に人身の質入れには2形態あって,質人と身代というが,両者の差違はいまだ分明でない。
→土倉
執筆者:小田 雄三
近世
近世社会の質は,民衆生活を支える具体的で有力な補完機能を果たした。地域や職業集団に特有な人間諸関係に対応する質は,社会のすみずみまで浸透した。その働きは大きく分けて質地,家質,株質,質奉公,質物となる。
(1)質地 近世農村に広範,膨大に存在した長期・中期の不動産質金融。寛永の田畑永代売買禁止令(1643)以後,幕府は一貫して農民の土地売買を禁じたが,農村地域の実情から,しだいに多様な形態で土地流質が生じざるをえなかった。そして18世紀中葉以降は,名主(庄屋)への届出,村役人・五人組・親族証人の加判,名主裏書があれば,質地の流地は許容された。流地が各地域で大量に現実化したことにより,地価および地代の地域的平準化と社会的一般化が生じ,耕地担保の農村金融が確実化し,地方商工業を促進させ,下からの近代化を準備することになった。
(2)家質 都市町人の家屋敷処分は自由であり,家質はもっとも安全確実な商人・職人層の不動産担保金融であった。町名主・五人組立合いのもと,永代売買証文をそえて金主に〈家屋売渡し家守請状〉をもって家賃を払い,質入期限以内は家守として従来どおり居住する。家屋書入れ金融は流質期限切れの時点ではじめて売渡証文と家屋敷の移動を行うもので,大坂などに多かった。近世後期には家持ちで家賃や地代収入を家屋抵当金融の利子払いに充当しながら活計を保つ階層が多くみられた。
(3)株質 江戸十組問屋(とくみどんや)や大坂二十四組問屋などの諸商業株の独占的結合体は,転・廃業による株の譲渡をきびしく制限して商業流通の秩序維持を図ったが,転・廃・休業せずに営業しながら金融の道をつけるために,問屋株を質入れする場合があった。株の評価額が干鰯魚〆粕油問屋で1株500両,藍玉問屋1株200両,下り廻船問屋1株3000両といわれた幕末には,これらの株が取引同業者間の金融担保の対象にされ,営業を支えた。そのほか蔵質・荷質など民事の物品質や商事の質物貸付とみられる商人間の金融も発展した。
(4)質奉公 年貢上納にさしつかえた零細小農民,生活苦や享楽の果ての都市貧民層が,妻子を一種の人質として金主方へ奉公させることによって金融の道をつけることをいう。年季奉公より長期の場合が多く,奉公人の従属度も高く,金主側の不満や奉公人の不始末の場合には代人を差し出す必要がある。借金の利息部分のみでなく元金部分にくい込む返済は居消奉公と呼ばれた。地方豪商などにおいては,担保流れで手放した農地の小作料未納分の弁済や出入職人層の家計補助や取引差額未払い弁済のために,質奉公人が入ることが多かった。
(5)質物 質物は短期動産質金融として江戸後期から明治期を通して全盛を迎えた。庶民の生計維持からばくちを含む娯楽享受までの必要を補完する手段である。衣類,蚊屋,夜具ふとん,装身具,家財道具,刀剣骨董品から職人・博徒の印半纏にいたるまで,すべて質物金融の対象となった。質物金融は,地域の社会関係が安定し庶民が貨幣経済の中で生活しはじめた所で盛んとなる。つまり質屋と質置主が顔見知りであるか,仲介者を通して信用がつくといった,せまい範囲の地域意識を必要とする。近世初期には京大坂や江戸,城下町・門前町で中世の継続として登場し,しだいに全国に広がった。幕藩制は,質屋のもつ庶民生活への補完性と社会秩序を維持する上での役割(犯罪摘発)を高く評価して17世紀初頭以来,各種各様の取締りと監督を行った。五人組帳前書きにもその取締りに関する約条が記載されている。19世紀に入り,都市周辺農村を含め商品経済が貧農層までも巻き込んで蚕食しはじめると,小質屋が群生し,庶民の生計と小商工業を支えた。
執筆者:斉藤 博