一般に公的でめでたい祝いの宗教的儀式、つまり祝祭を意味する。多くの人を集め、酒や食料が大量に消費されることも多い。そこから「お祭り騒ぎ」などの表現も出てくる。本来は宗教的行為であるが、単に多くの人を集め、にぎやかさや華やかさが強調されて宗教的意味がなくなると、「港祭」とか商店街の「○○祭」などという使われ方をされる。より広義には祭は宗教的儀礼のすべてをさし、祝儀だけではなく、葬式や法要などの不祝儀、病気の治療儀礼、あるいは祟(たた)り神や死霊の怒りを解き、穢(けがれ)を祓(はら)うための儀礼なども含む。それは、「まつり」の語が、宗教的行為をさす語である「まつる」と同じ語源をもつことからきている。
日本語の広義の「まつり」にあたる語は、英語ではライトrite、セレモニーceremony、フェスティバルfestivalであり、それぞれは日本語の「儀礼」「儀式」ないしは「式典」「祝祭」にあたる。儀礼は信仰の行為の側面をさし、ほとんどは定まった様式をもって特定の信仰内容を表現する。儀礼は信仰内容の意味表現の一単位ともみなされ、儀式はそのような儀礼が互いに関係した意味をもって集まった一連の続きとなったものをさすともいえる。儀礼のもっとも単純なものは、神前で柏手(かしわで)を打つとか、十字を切るなどの行為である。しかし、一般に、儀礼と儀式との間にはそれほど明確な区別があるわけではない。祝祭はとくに華やかで大掛りな、ときには強い娯楽性をもつものをさす。神社の例祭などで、「神賑(しんしん)」とよばれるものだけをさして祭とよび、その前後に行われる、参加者が限定された厳粛な神事は祭とは別にみなすこともある。また、儀礼にしろ儀式にしろ、伝統的に受け継がれ変わりにくい様式に従って行われることが多く、そこから「儀礼的な」とか、「儀式ばった」という表現が生まれ、それは内容よりも行動の様式を重んじることをさす表現として用いられる。祭における、このような様式の細部に至るまでの厳格さは、それらの様式が祭を行う人々の信仰内容やそれを支える世界観の具体的表現であることからくる。
[波平恵美子]
祭とよばれるもののなかから、商業的目的のみで行われるものを除くと、祭を行う集団の単位によって次のように分類できる。
(1)家族を単位にした祭。葬式や結婚式、子供の名付け祝いや七五三などの、いわゆる「通過儀礼」とよばれるものの多くは家単位に行われる。治療儀礼、建築儀礼、漁家の進水式、家祓いなど、また正月などの節供、盆、彼岸などいわゆる年中行事でも家単位の祭が行われる。
(2)親族単位の祭。同族団の始祖を祀(まつ)る祭などで、毎年同じ日に同族の人々が本家に集まって祝うとか、始祖の百年忌、二百年忌の法要などもこの種の祭に入る。
(3)村落単位の祭。氏神や鎮守の例祭、年中行事のうち、虫追いやどんど焼きなど、その主体が「ムラ」の子供組であるような場合の祭、通過儀礼であってもムラ中のその年齢にあたる少年たちがそろって成人を祝ってもらうために霊山に登るなどの場合は、ムラの祭となる。臨時に行われる祭として、疫病が流行したとき村境まで病魔を送り出す祭や、干魃(かんばつ)のときの雨乞(あまご)い祭などがある。
(4)国家単位の祭。これは「祝祭日」として、国の法律で定められた休日であることが多い。その内容は、一つには宗教的で伝統的な祭のうち、とくに重要とみなされるもので、日本における正月や彼岸の中日(ちゅうにち)(春分の日、秋分の日)、キリスト教国におけるクリスマスなどである。もう一つは、アメリカにおける独立記念日や日本の建国記念の日などのように、国家の成立を記念するもので、宗教的というより政治的色彩の強いものである。国や地方自治体主催の式典が行われることが多い。
(5)宮中祭。宮中で行われる祭で、時代的変遷はあるものの、祭政一致が存在した古代から伝わる祭もあり、民間の一般的年中行事や全国の神社の祭に組み込まれた祭もある。
(6)神社祭。全国に名が知られていたり、多くの末社が存在するような大社の祭。これらの有名神社は古い時代から全国に信者をもち、その祭には全国から広く信者参拝者を集めてきた。とくに近年は、観光の対象となり、より多くの人々を集めるようになった祭もある。村落単位の氏神や鎮守の例祭と、これら有名大社の祭との違いは、後者が長い伝統と豊かな財源をバックに、華やかで大掛りな、また複雑に発達した祭を行うのに対して、前者が華やかさも、参加者も少なく、祭の内容も単純であるということだけではなく、重要な違いは、ムラの祭に参加する人々がなんらかの形で祭の準備や祭そのものの主催にかかわっているのに対し、後者の祭においては、祭の主催にかかわる人は、それを見物したり、祭を機会にそれら有名神社の参拝にくる人々に比べ、ほんのわずかでしかないということである。京都の祇園(ぎおん)祭などはその例で、観光客も含む見物人は年々増え、300万人を超すといわれているのに対し、祭を主催する氏子は、市街地から郊外へ移住する人が増え、その数が減少して祭の主催が年々困難になるという現象もみられる。
[波平恵美子]
どの単位の集団が主催で、どのような祭を行うかの区別なく、祭には多くの準備時間と労力が費やされ、多大の金銭や物が消費されることが多い。地方によっては、祭を盛大にかつ滞りなく行うためにこそ日常の生活は営まれるべきだとばかりに、日常の生活(「ケ」の生活)をできるだけ切り詰め、その分だけ祭(「ハレ」の生活)に消費しようとする生活様式がいまなおみいだされる。また、このような生活態度は、日本だけではなく伝統的社会には共通して存在するものである。それは、祭は単調な生活に刺激を与えるもの、という考え方をはるかに超えて、祭が行われるのは年のうち数日であるにもかかわらず、祭主体の生活が営まれているといってもよい。こうしてまで祭が行われることの目的ないしは祭のもつ機能については、次のように整理される。
(1)祭を主催する人々にとって、生命や生活を守りその基盤を与えてくれるのは神であり、神を喜ばせ慰めることはすべてに優先する。この考えは人々に生活上の明確な目的や計画や共通した価値観を与える。
(2)祭はつねに滞りなく遂行されなければならず、もしかりに、個人間、集団間に対立や反目があったとしても、祭の遂行上、一時的であってもその対立は解消されることになり、祭主催は、その集団の社会的統合を強化する。
(3)祭のやり方は細部に至るまで定められていて、そのとおりに行わないと神を十分に喜ばすことができないと一般に信じられている。
しかし、実際にはさまざまな事情から少しずつ変化せざるをえない。その場合、主催にかかわる人々の間で徹底して検討され、だれもが納得する形でしか変えることはできない。その理由は、先に述べたように、祭(儀礼)はそれを行う人々の世界観を反映し、祭を通して、それを行う人や見物する人々の世界観を再確認し再統一する機能をもっているからである。そのことを、当の人々は、定められたとおりに行うことによってのみ神を喜ばせうる、という表現で示している。同質的価値観や世界観をもつ傾向の強い社会ほど、祭に対する人々の参与度は高く、弱い社会ほど、その参与度が低くなるのは、以上祭のもつ三つの機能を考えるとき、その理由は明らかである。
[波平恵美子]
『『日本の祭』(『定本柳田国男集 10巻』所収・1962・筑摩書房)』▽『伊藤幹治・渡辺欣雄著『宴』(1975・弘文堂)』