デジタル大辞泉
「ブラック」の意味・読み・例文・類語
ブラック(Joseph Black)
[1728~1799]英国の化学者。フランスの生まれ。普通の空気と異なる気体として二酸化炭素を初めて区別し、化学反応を定量的に明らかにした。また熱現象を研究し、潜熱・比熱を発見。
ブラック(Georges Braque)
[1882~1963]フランスの画家。フォービスムを経て、ピカソとともにキュビスムを創始。のち、具象性を帯びた独自の画風を確立した。作「ギターを持つ女」など。
ブラック(John Reddie Black)
[1827~1880]英国のジャーナリスト。1861年(文久元)来日し、英字週刊紙「ジャパンヘラルド」、邦字新聞「日新真事誌」などを創刊、日本の非近代性を論評。著「ヤングジャパン」など。
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ぶら‐つ・く
- 〘 自動詞 カ行五(四) 〙 ( 「つく」は接尾語 )
- ① ぶらぶらゆれ動く。ぶらぶらする。ゆらゆらする。ぶらめく。
- [初出の実例]「まことに二斗わきにぶらつきて有し故みえず」(出典:咄本・百物語(1659)上)
- 「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」(出典:鼻(1916)〈芥川龍之介〉)
- ② 気持などが定まらなくなる。ふらつく。
- [初出の実例]「公事の裁許に心を不レ用、ぶらついて延引に及ぶもあり」(出典:政談(1727頃)四)
- ③ すぐ前にちらつく。
- [初出の実例]「国家の大事と成事、鼻の先にぶらつけ共」(出典:浄瑠璃・津国女夫池(1721)一)
- ④ ぶらぶら歩きまわる。散歩する。また、あてどもなく過ごす。ぶらぶらして暮らす。
- [初出の実例]「我は道にぶらついて」(出典:浄瑠璃・娥歌かるた(1714頃)五)
ブラック
- [ 一 ] ( Georges Braque ジョルジュ━ ) フランスの画家。印象派・野獣派を経たのち、ピカソとともにキュービスムを創始、その代表的画家となる。第一次世界大戦後、具象性の強い独自の画風へ向かった。作品に「壜とコップ」「ギターを持つ女」など。(一八八二‐一九六三)
- [ 二 ] ( John Reddie Black ジョン=レディ━ ) 日本の新聞の先覚者。イギリス人。幕末に来日し、横浜で「ジャパン‐ヘラルド」「ジャパン‐ガゼット」主筆となり、のち、英字雑誌「ザ‐ファー‐イースト」を創刊。明治五年(一八七二)邦字新聞「日新真事誌」を発刊。著書「ヤング‐ジャパン」。(一八二七‐八〇)
ブラック
- 〘 名詞 〙 ( [英語] black )
- ① 黒。黒いこと。黒い色。
- ② コーヒーにミルクや砂糖を入れないこと。また、そのコーヒー。
- [初出の実例]「コーヒーはブラックを飲む様に致します」(出典:モダン化粧室(1931)〈ハリー牛山〉)
- ③ 印刷で、肉太の活字。
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ブラック(Georges Braque)
ぶらっく
Georges Braque
(1882―1963)
フランスの画家。パリ近郊のアルジャントゥイユ生まれ。父は建築装飾画の請負業者。少年期をル・アーブルで過ごし、父の後を継ぐべく徒弟奉公に入る。1900年パリに出てエコール・デ・ボザールのボナのアトリエやアンベール画塾で学ぶが、05年のフォービスム誕生をきっかけにフォーブの一員となり、明るく輝かしい色彩を駆使して、アントウェルペン(アントワープ)や南フランスのラ・シオタの風景を描いた。しかし、07年秋のサロン・ドートンヌでのセザンヌ回顧展に大きな衝撃を受け、画面構築への関心を強めてゆき、同年『アビニョンの娘たち』を完成したピカソとともに、キュビスムの造形革命を開始する。翌年夏、セザンヌゆかりの南フランスのレスタックで、緑と茶褐色を主調に、幾何学的形態によって構成された一連の風景画を制作。やがて、見る対象から手に触れることのできる対象へ、対象と対象の間の空間の探求へと関心を移行させ、風景画を放棄して静物画へと向かい、身辺のものを画題とする。キュビスムは、ピカソよりもむしろブラックのセザンヌ研究によって展開したというのが近年の説であるが、09年末から2人はとりわけ緊密に制作し、ともに分析的キュビスムの手法を練り上げてゆく。そしてその緊密さは2人の作品をほとんど区別しがたくすることにもなった。色彩は黒、灰色、褐色と限られたものとなり、具象性もしだいに薄らいでゆくが、13年ごろ、画面に新聞紙や壁紙などを貼(は)り付けたパピエ・コレの技法を開発し、総合的キュビスムへと移行する。この時期の作品は明るさをもち、面を重ねた構造は、よどみのない空間を示唆する。
1914年、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)により招集を受けて負傷、長い療養生活ののち、17年に招集解除となってふたたび絵筆をとる。初期キュビスムの厳しい直線のコンポジションは放棄されるが、対象の再現性を保ちながら、それを自由に分解・再構成して、なかば抽象的なデザインのさまざまな可能性を開拓し続ける。また、籠(かご)を頭にのせるギリシアの風習から想を得た20年代の「カネフォール」のシリーズでは古典的世界へのあこがれを示し、さらにフランス的美質の保持者、古典的伝統の後継者との自覚をももつ。49年から56年にかけて描かれた「アトリエ」シリーズは、過去のテーマと実験とを総括する試みであり、縹渺(ひょうびょう)たる詩情に満ちた不思議な世界を展開する。そこに現れた鳥のモチーフは、さらに「鳥」シリーズとして発展するが、それは、生涯の最後にあたって、それまでひたすら描いてきた静物という静かな閉じられた世界からの離脱を象徴するかのようである。ブラックの作品は、精妙な色彩と洗練されたデザイン感覚に基づいており、理知と感情とのみごとなバランスを保持している。パリで没。
[大森達次]
『R・コニャ著、山梨俊夫訳『ブラック』(1980・美術出版社)』▽『J・ポーラン著、宗左近・柴田道子訳『ブラック――様式と独創』(1980・美術公論社)』
ブラック(James Whyte Black)
ぶらっく
James Whyte Black
(1924―2010)
イギリスの薬理学者。スコットランドのハイランド地方に生まれる。1946年セント・アンドリューズ大学医学部を卒業、1947年シンガポールに渡り、エドワード7世大学で教職についた。1950年イギリスに戻り、グラスゴー大学を経て、1958年総合化学会社のICIに入社、1964年スミス・クライン・アンド・フレンチ研究所に移り、1973年ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの薬学部主任教授に就任した。その後、1977年ウェルカム研究所で部長職につき、1984年からロンドン大学キングズ・カレッジで薬学教授を務めた。
交感神経の働きを調節するための神経遮断薬を研究し、1964年に心筋に関するβ(ベータ)受容体の遮断薬であるプロプラノロールの開発に成功、この薬は狭心症や高血圧の治療に広く用いられるようになった。さらにヒスタミン受容体の研究では、胃液分泌抑制作用をもつH2受容体遮断薬シメチジンを1975年に開発した。従来の新薬開発が試行錯誤と偶然に頼っていたのに比べ、彼は仮説を立て、理論に基づいて合理的に薬を開発していった。1988年、「薬物療法における重要な原理を発見」したとして、アメリカのG・B・エリオン、G・H・ヒッチングスとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部]
ブラック(Joseph Black)
ぶらっく
Joseph Black
(1728―1799)
スコットランドの医師、化学者。アイルランド出身でボルドー在住のワイン商人の息子。ベルファストで初等教育を受けたのち、グラスゴーおよびエジンバラ大学で学ぶ。グラスゴー大学解剖・植物学教授(1756)、エジンバラ大学化学教授(1766)。優れた教師として名声を博す。学生ではなかったが、グラスゴー大学器械修理人であったJ・ワットも教えを受けた一人である。熱学の分野で潜熱と比熱の概念を確立したが(1761~1766年ころ)、博士論文中の化学部門を拡張した「マグネシアアルバ、生石灰、および他のアルカリ物質に関する実験」(1756)は歴史に残る論文となった。結石の治療に用いられていたカ性アルカリにかえてブラックはマグネシアアルバ(塩基性炭酸マグネシウム)を取り上げた。煆焼(かしょう)により顕著な重量減があり、生成物は酸で発泡しない。これを酸に溶解し、真珠灰(炭酸カリウム)で処理すると、出発物質がほぼ定量的に得られた。この重量の増減はある種の「空気」の出入に起因すると洞察して彼は、それが普通の空気とは異なることを化学的に確かめた。それは「固定空気」(炭酸ガス)と命名された。こうして異種気体の存在が初めて知られ、以後20年のうちに、水素、窒素、酸素などの気体の発見が相次いだのである。ブラックのこの業績は、気体化学のみならず定量化学の創始であるといえよう。
[肱岡義人]
ブラック(John Reddie Black)
ぶらっく
John Reddie Black
(1827―1880)
日本の新聞草創期に活躍したイギリス人。スコットランドに生まれる。海軍士官を経てオーストラリアで商業に従事。1861年(文久1)来日し、横浜で『ジャパン・ヘラルド』紙の編集、経営に参加する。1867年(慶応3)10月12日夕刊『ジャパン・ガゼット』、1870年(明治3)には日本紹介雑誌『ファーイースト』を横浜で創刊したのち、1872年3月16日東京で『日新真事誌』を創刊した。この新聞は、1873年5月、井上馨(かおる)、渋沢栄一の「財政意見書」をスクープ、翌1874年1月には板垣退助(たいすけ)らの民撰(みんせん)議院設立建白書をいち早く掲載したほか、新政府の施策を自由に論評したため、政府は1875年1月ブラックを左院顧問に任命、新聞から手を引かせたのち、6月には新聞紙条例を公布して、外人が新聞の持ち主になることを禁じ、翌7月ブラックを解雇した(新聞は12月5日廃刊)。怒ったブラックは1876年上海(シャンハイ)に去るが健康を害し、1879年日本へ戻り、日本滞在記『ヤング・ジャパン』を執筆、翌1880年6月10日死去した。
[春原昭彦]
『ねずまさし他訳『ヤング・ジャパン――横浜と江戸』全3巻(平凡社・東洋文庫)』
ブラック(Green Vardiman Black)
ぶらっく
Greene Vardiman Black
(1836―1915)
アメリカの歯科医学者。イリノイ州に生まれ、独学で歯科医師となり、21歳のとき歯科医業を開いた。1883年にシカゴ歯科医学校Chicago Colledge of Dental Surgeryの教授となり、1891年にはノースウェスタン大学に転じ、6年後には歯科部長に就任した。彼は未開発の新しい分野を研究開発し、実験用器具はすべて自己考案のものであった。歯科医学のすべての方面にわたり調査し、手術操作を標準化し、歯科医学用語の規準をつくった。これらを学習課程に応用し、窩洞(かどう)の名称、窩洞形成の規格化をも行い、また予防拡大の理論はよく知られる。充填(じゅうてん)用金箔(きんぱく)や歯科用アマルガム合金の改良にも努めた。アメリカの偉大な歯科医学者、教育家であった。また彼の息子アーサーArthur D. Black(1870―1932)も歯科医学者として知られている。
[本間邦則]
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ブラック
Georges Braque
生没年:1882-1963
フランスの画家。ピカソと並ぶキュビスムの創始者。アルジャントゥイユに生まれ,ル・アーブルで育つ。父の家屋塗装業を継ぐために徒弟奉公に出るが,彼は後にこの技術をキュビスムのトロンプ・ルイユに役だてる。1902年,画家を志してパリのアカデミー・アンベールに通う。初め印象派に倣うが,05年からフォービスムの傾向に転じ,さらに07年にセザンヌの影響から画面構築への関心を高める。同年ピカソと会い,その《アビニョンの娘たち》を見たのが彼の芸術の大きな転機となり,翌年から共同でキュビスムの造形革命を創始した。10年ころ以降,主題は風景画から静物画にうつり,楽器や花など身辺のオブジェを扱う。また13年ころ,画面に新聞紙や壁紙などを貼りつけたパピエ・コレpapier collé(コラージュ)を制作。14年までのキュビスムの論理的展開を主導したのが2人のどちらであったかは説の分かれるところである。14年,第1次大戦開戦により召集され,翌年負傷。22年から〈カネフォロス〉の連作により古典的主題に傾く。29年の《円卓》は,絵画に現実性を取りもどそうとする〈総合的キュビスム〉の帰着点と見ることができる。
ブラックは生涯を通じて絵画空間の問題に取り組んだ。とくに39年の《二重奏》により室内空間の探究を始め,40年代末から50年代半ばにかけての〈アトリエ〉の連作を経て,精神的空間ともいうべき仮想空間に飛翔する鳥の表現に到達する。ここで彼は,対象どうしをも,また対象と自分とをも隔てることのない,一つの理想的調和を実現する空間を見いだしている。〈この調和に達したとき,人は一種の虚無の状態に到達する。そのときすべてが可能となり,すべてが正当となり,生命は永遠の啓示となる〉。これは,彼が芸術を通じて得た宗教的認識であったといえよう。
執筆者:八重樫 春樹
ブラック
Hugo La Fayette Black
生没年:1886-1971
アメリカの法律家。アラバマ州生れ。1906年アラバマ大学ロー・スクールを卒業。同州で弁護士実務に従事した後,アラバマ州選出上院議員(1927-37),合衆国最高裁判所裁判官(1937-71)を務める。最高裁裁判官に指名されたとき,上院でのその承認に際して彼がかつてクー・クラックス・クランに属していたのではないかという疑いが出され,問題となった。しかし就任後は,リベラル派の代表者の一人となった。彼は,憲法の解釈に当たって,第1に憲法の文言を重視すべきだとする。例えば,言論の自由についていっさいの制限を認めないとする彼の立場は,憲法第1修正に言論の自由が制限されることがありうることを示す文言がないことをよりどころの一つとしている。憲法の文言が明確でない問題については,制定当時の意図によるべしとする。この点で,彼は判決の中で歴史に関する資料をよく引用したが,なかには我田引水的な引用と思われる点もある。全体としてみれば,W.O.ダグラスと同じ立場に立っていたが,例えば憲法に明文のないプライバシー権を認めるのに反対したことにみられるように,ときにダグラスと意見を異にしたことの一因は,このような憲法の文言重視という基本的立場にある。
執筆者:田中 英夫
ブラック
John Reddie Black
生没年:1827-80
日本の新聞草創期のジャーナリスト。スコットランドに生まれる。海軍士官であったが,のちオーストラリアで商業に従事し,帰国の途次,来日してそのまま滞在,日本で没した。1861年(文久1)11月横浜で創刊された《ジャパン・ヘラルド》の主筆となり,67年(慶応3)同じく横浜の《ジャパン・ガゼット》に移って主筆を務めた。そのかたわら70年には月2回刊の絵入り英文雑誌《ファー・イーストThe Far East》を創刊し,好評を得て76年まで発行を続けた。しかし,彼を有名にした最大の事業は日本語新聞《日新真事誌》の刊行である。72年創刊の同紙は忌憚(きたん)のない論調と整った紙面構成とによって当時の大新聞(おおしんぶん)の模範とされた。なお,遺著《ヤング・ジャパン》も幕末・明治初期の日本の政治社会状況を伝える貴重な記録として高く評価されている。
執筆者:平井 隆太郎
ブラック
Harold Stephen Black
生没年:1898-1983
アメリカの電気工学者。フィードバック増幅器を発明したことで知られる。マサチューセッツ州レオミンスターに生まれ,ウースター工科大学に学んだ。1921年にベルシステムのウェスタン・エレクトリック社に入り,25年にベル電話研究所に移った。彼は,多チャンネル長距離電話線に挿入される中継器のひずみ低減について研究した。中継器に使用される真空管でひずみが生じても増幅器としては低ひずみとなるように,フィードフォワード増幅器とフィードバック増幅器を開発した。彼のフィードバック増幅器は27年に発表された。フィードバックの原理は,今日まで電話,オーディオなどの音声増幅器だけでなく,産業用,軍事用の各種増幅器,自動制御機器に広く用いられている。ブラックはまた,パルス符号変調方式も研究した。
執筆者:高橋 雄造
ブラック
Joseph Black
生没年:1728-99
イギリス,スコットランドの医師,化学者。炭酸ガスの発見者として知られる。フランスのボルドー生れ。グラスゴー大学,エジンバラ大学で医学を学び,両大学の教授を歴任する。優れた教師として名声を博す。潜熱と比熱の概念を提唱し(1756-60),J.ワットに影響を与える。結石治療薬の研究中,石灰や炭酸マグネシウムの加熱による重量減少が空気とは異なる気体の放出によることを見いだし,これを固定空気(炭酸ガス)と命名した(1756)。この発見は,空気以外の気体の初めての認識であり,気体化学および定量化学を創始したものである。
執筆者:肱岡 義人
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ブラック
幕末〜明治初年,日本で活躍した英国人新聞記者。スコットランド生れ。初め海軍士官。1861年―1862年ころ来日,横浜で週刊《ジャパン・ヘラルド》,のち日刊《ジャパン・ガゼット》(いずれも英字新聞)の主筆をつとめる。1870年半月刊の絵入り英文雑誌《ファー・イースト》を創刊し好評を博した。1872年には当時の大新聞(おおしんぶん)の模範とされた日本語新聞《日新真事誌》(はじめ隔日刊,のち日刊)を発行して日本政府を批判した。このため政府は1875年彼を太政官顧問に迎えて《日新真事誌》から手を引かせた。1876年上海で《ファー・イースト》の新版を発行。横浜で没した。著書《ヤング・ジャパン》(1880年)は幕末維新史の好資料。
ブラック
英国の化学者,物理学者。フランスのボルドー生れ。グラスゴー大学で医学を学び,同大学教授を経て,1766年エディンバラ大学教授。1754年初めて炭酸ガス(固定空気と呼んだ)と空気とを区別し,前者が石灰石,炭酸マグネシウムから生じることを発見。また熱と温度を区別し,潜熱を発見,熱容量の概念を確立するなど熱の定量的研究の基礎を築いた。
→関連項目熱|熱素説
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ブラック
Black, Sir James
[生]1924.6.14. アディングストン
[没]2010.3.21.
イギリスの薬理学者。フルネーム Sir James Whyte Black。1946年セントアンドルーズ大学医学部を卒業,その後いくつかの大学で教鞭をとり,1958年からインペリアル化学工業の上級薬理学者,1964年からスミス・クライン&フレンチ研究所の生物学研究部門の長を務め,1978年ウェルカム研究所治療研究部長に迎えられた。1984年ロンドン大学キングズ・カレッジの教授に就任し,1993年に同カレッジ名誉教授となる。1992~2006年ダンディー大学学長。狭心症が心筋のβ受容体と関連することに着目し,β受容体を遮断する薬プロプラノロールを開発,さらに胃潰瘍の発症に関与する物質ヒスタミン受容体を遮断する薬シメチジンの開発にも成功した。1988年,薬物療法の重要な原理の発見により,ジョージ・ハーバート・ヒッチングス,ガートルード・ベル・エリオンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞。1981年ナイトに叙され,2000年メリット勲章を授与された。
ブラック
Black, John Reddie
[生]1827.1.8. スコットランド
[没]1880.6.11. 横浜
明治初期の日本で活躍したイギリスのジャーナリスト。文久年間 (1861~64) に横浜へ来て,ハンサードが経営する英字週刊紙『ジャパン・ヘラルド』 (→ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー ) の編集者となり,慶応3 (67) 年には独立して日刊英字紙『ジャパン・ガゼット』を創刊。明治3 (70) 年英字雑誌『ザ・ファー・イースト』を創刊,月2回刊で同9年まで続けた。次いで同5年3月東京で日本語の日刊新聞『日新真事誌』を創刊。治外法権を利して,政府批判の筆陣を張った。そこで政府は 1875年1月ブラックを左院に雇入れ,その条件として新聞を手放させたうえで,同年6月に新聞紙条例を公布して外国人の新聞所有を禁じ,同年7月解雇した。ブラックはその後も日本や上海で新聞を創刊したが成功せず,死の直前に『ヤング・ジャパン』 (2冊) を執筆した。
ブラック
Braque, Georges
[生]1882.5.13. アルジャントゥイユ
[没]1963.8.31. パリ
フランスの画家。ルアーブルの美術学校,パリのアカデミー・アンベールで学ぶ。 1906年アンデパンダン展に出品。初めはフォービスム的画風の絵を描いていたが,セザンヌの影響を受け,07年南仏エスタックの風景を立方体を重ねたように描き,それがキュビスムの名称の起源となった。ピカソと並んでキュビスムの代表的画家とされ,またパピエ・コレの手法を創始した。第1次世界大戦に従軍し負傷。 18年以後は従来の黒,黄土色を主調とする作品と決別し,緑や灰色を加えた重厚な色彩による静物や室内風景を描き,22年からは人物の連作を始め,彫刻も制作した。第2次世界大戦中に健康を害したが大作の制作を続け,48年ベネチア・ビエンナーレで大賞を受賞。代表作は初期の『エスタックの家』 (1907,ベルン美術館) など。
ブラック
Black, Joseph
[生]1728.4.16. ボルドー
[没]1799.11.10. エディンバラ
イギリスの化学者,医者。グラスゴー大学で医学,自然科学を学び,1751年エディンバラ大学に移り,医学の勉強を続けた。恩師 W.カレンを継いでグラスゴー大学の化学の講師 (1756) を経て,同医学教授となる。特に「固定空気」 (炭酸ガスのこと) の分離同定とその諸性質に関する研究および潜熱の理論を確立 (61) したことで知られている。 J.ワットとも親しく,ブラックの潜熱理論はワットの凝縮蒸気機関の発明に大きな影響を与えたといわれている。ほかに比熱の概念,アルカリの研究など,その業績は多いが,著作は少く,わずかに死後彼の講義ノートに基づいて出版された『初等化学講義』 Lectures on the Elements of Chemistry (1803) ほか数編の論文が知られているのみである。
ブラック
Black, Jeremiah Sullivan
[生]1810.1.10. サマセット
[没]1883.8.19. ブロッキー
アメリカの法律家,閣僚。主として独学で法律を学び,1830年弁護士となった。 42年,ペンシルバニア州地方裁判所裁判官に選出され,51年,ペンシルバニア州最高裁判所裁判官となり,57年 J.ブキャナン大統領により連邦司法長官に任命された。連邦論者としてのブラックはブキャナンに大きな影響を与え,これは 60年ブラックが国務長官に任命されてからはさらに大きなものとなった。ブラックは諸外国が南部連合 Confederacyを承認しないよう警戒したのである。リンカーンが大統領に就任してのちはブラックは国務から退き,弁護士を開業した。南北戦争後は,連邦最高裁判所において,過激な共和党の南部再建案に反対する立場の代表者となった。
ブラック
Black, Davidson
[生]1884.7.25. トロント
[没]1934.3.15. 北京
カナダの解剖学者,人類学者。第1次世界大戦に軍医として従軍後,中国に渡り北京協和医学院教授 (1918~21) 。 1921年 O.ズダンスキーと J.G.アンダーソンが北京郊外周口店で発見したヒトの大臼歯化石をシナントロプス・ペキネンシスと命名,以後シナントロプスの調査と研究に主導的役割を果した。主著"On the Discovery,Morphology and Environment of Sinanthropus Pekinensis" (1934) 。
ブラック
Black, Eugene Robert
[生]1898.5.1. アトランタ
[没]1992.2.19. ニューヨーク,サウサンプトン
アメリカの銀行家。発展途上国援助問題の権威。ジョージア大学卒業。 1937~49年チェース・ナショナル銀行頭取,47~49年世界銀行アメリカ代表,49~63年世界銀行総裁。 L.ジョンソン大統領特別顧問 (東南アジア開発計画担当) ,ウ・タント国連事務総長特別財務顧問などを歴任。その後アメリカン・エクスプレス,ITT社,『ニューヨーク・タイムズ』,ロイヤル・ダッチシェル社などの顧問。著書『経済開発の外交』 The Diplomacy of Economic Development (1960) 。
ブラック
Black, Max
[生]1909.2.24. バク
[没]1988.8.27. ニューヨーク
ロシア生れのアメリカの分析哲学者。コーネル大学教授。ケンブリッジ大学で数学を研究,その間 G.ムーア,L.ウィトゲンシュタインの影響を受け,哲学における言語論を研究。 1957年に訪日し,東京で現代アメリカ哲学を講じた。主著『哲学的分析』 Philosophical Analysis (1950) ,『言語の重要性』 Importance of Language (1962) 。
ブラック
Black, John
[生]1783. スコットランド
[没]1855.6.15.
イギリスのジャーナリスト,翻訳家。エディンバラ大学に学びながら会計事務所に勤めていたが,1810年ロンドンに行き,『モーニング・クロニクル』紙の外信部記者となった。 17年同紙の編集長。 43年退職後は文筆活動に専念。イタリア,ドイツ文学に関する評論のほか,ロンドンの『ユニバーサル・マガジン』への寄稿,『タッソーの生涯』の著書などがある。
ブラック
Black, Sir Misha
[生]1910.10.16. バクー
[没]1977.10.11. イギリス,ロンドン
ロシア生まれのイギリスのデザイナー。「デザイン・リサーチ・ユニット」を主宰。国際連合教育科学文化機関 UNESCOの博覧会展示顧問を務めた。そのほか各種の国際的な博覧会の展示を担当。主著『展示デザイン』 Exhibition Design。
ブラック
Black, Greene Vardiman
[生]1836.8.3. イリノイ,スコット
[没]1915.8.31. シカゴ
アメリカの歯科医,歯科病理学者,細菌学者。 1890~91年アイオワ大学,91~1915年ノースウェスタン大学各教授。歯科の治療学,充填学,保存学に科学的な基礎づけを行うほか,治療用の器具の改良など,多方面に業績を残した。
ブラック
Black, George
[生]1891.4.20. バーミンガム
[没]1945.3.5.
イギリスの劇場支配人。多くのミュージック・ホールの経営者として芸能界で活躍。特にパレイディアム劇場で 1935年から上演を開始した「クレイジー・ギャング」シリーズが有名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ブラック
没年:明治13.6.11(1880)
生年:1827.1.8
明治時代の新聞発行者。スコットランド生まれ。文久3(1863)年来日。横浜でハンサードの英字紙《The Japan Herald》の共同編集人となる。慶応3(1867)年,日刊英字紙《The Japan Gazette》を発行。明治5(1872)年,邦字紙『日新真事誌』を創刊。7年板垣退助らの「民撰議院設立建白書」を掲載したが,外国人のため筆禍を免れた。8年,政府の策略によって,左院御雇いとなって『日新真事誌』から離れた直後に同紙は廃刊された。その憤懣から9年『万国新聞』を無届けで創刊するが,それも短命に終わった。その後,上海に渡り,英字紙《The Shanghai Mercury》を創刊する。12年に再来日し,著書『ヤング・ジャパン』を執筆した。長男のヘンリーは落語家快楽亭ブラックとして活躍した。<参考文献>『日新真事誌復刻版』,浅岡邦雄「『日新真事誌』の創刊者ジョン・レディ・ブラック」(『参考書誌研究』37号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
ブラック【black】
色名の一つ。JISの色彩規格では「黒」としている。一般に、すべての光を完全に吸収し、反射しない色をさす。ただし、これは理論上の黒であって実際にそのような物質は存在しないとされる。そのため、日常生活で「黒」といっている物はすべて「黒のようなもの」ということになる。したがってブラックはブラックであり、ほかの色で形容しようがない。また、ブラックは無彩色であり、ホワイトの対語。このブラックとホワイトはもっとも古く発生した色名の概念とされる。具体的なブラックの色名には煤すすを原料とした顔料のランプブラック(lamp black)がある。炭素が原料なのでカーボンブラックともいえる。
出典 講談社色名がわかる辞典について 情報
ブラック
ブラック
Black, Joseph
フランス生まれのイギリスの医師,化学者.固定空気(二酸化炭素)の発見者として知られる.グラスゴー大学で学んだ後,1754年エジンバラ大学より医学で博士号を取得.1756~1766年グラスゴー大学教授,1766~1799年エジンバラ大学教授として多くの後進を育てた.熱学の分野においては,潜熱および比熱の概念を発見した.化学の分野においては,マグネシア・アルバ(水酸化炭酸マグネシウム)の加熱による質量の減少が,通常の空気とは異なる種類の気体の放出が原因であることを見いだし,これを固定空気と命名した.このことは,近代的定量化学の創始と位置づけられるとともに,気体化学研究の幕開けをも意味している.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
ブラック Black, John Reddie
1827-1880 イギリスのジャーナリスト。
1827年1月8日生まれ。快楽亭ブラックの父。文久元年(1861)来日。横浜で週刊紙「ジャパン-ヘラルド」,日刊紙「ジャパン-ガゼット」の主筆となる。明治5年日本語新聞「日新真事誌」を創刊,政府の政策を批判し,8年政府の干渉により同紙は廃刊となった。明治13年6月11日横浜で死去。53歳。スコットランド出身。著作に「ヤング-ジャパン」。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
ブラック
Georges Braques
1882~1963
フランスの画家。フォーヴィズムの運動に加わったが,1908年「エスタック風景」でピカソとともに立体派の運動を起こす。静物画,人物画が多く,渋い色彩で洗練された知的な画面を構成している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ブラック
Georges Braque
1882〜1963
フランスの画家
初め野獣派(フォービスム),のちピカソとともに立体派(キュービスム)を創始。第一次世界大戦後さらに新古典派的な平明な画境を開拓。静物画・室内画に特色がある。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
ブラック
生年月日:1836年8月3日
アメリカの歯科医,歯科病理学者,細菌学者
1915年没
ブラック
生年月日:1884年7月25日
カナダの解剖学者,古生物学者
1934年没
ブラック
生年月日:1827年1月8日
イギリスのジャーナリスト
1880年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のブラックの言及
【熱】より
… 一方,16世紀の終りころから温度計が使われるようになり,気体の膨張など熱現象の研究がようやく実質的な進歩を始めた。水の量が多いとそれだけ長く火にかけないと湯にならないといった日常経験から,熱の量と熱さ,すなわち温度とが漠然とではあっても意識されていたに違いないが,それをはっきり認識したのはイギリスのJ.ブラックであった。彼はG.D.ファーレンハイトらの研究に手がかりを得て,氷がとけるときに温度が変わらないこと,そのときに必要な熱で同量の水の温度を約80℃上げられることを明らかにし,さらに水の蒸発についても同様の事実を発見した。…
【熱素説】より
…熱現象に関する科学的関心は,17世紀に温度計が開発されて,急速に高まった。18世紀にJ.ブラックが比熱と潜熱を発見して温度(熱さの度合)を熱そのものから区別したことがきっかけとなり,熱自体の量を計ろうとする試みが一般化した。このとき,熱の移動に伴って,その量が保存されると考えられたことから,ブラックは,熱を一種の物質とみなした。…
【キュビスム】より
…キュビスムはまた現実の描写に依存しない自律的存在としての絵画のあり方を明確にし,抽象絵画成立へのひとつの道を開いた。〈キュビスム〉の名は,1908年に[G.ブラック]が描いた風景画中の家が立方体(キューブ)に近い形態に簡略化されていたことに由来し,本来嘲笑的な呼称であった。 20世紀の初頭,印象主義の諸特徴を温存しながらも自然の構造を概念的にとらえようとした[セザンヌ]の芸術への注目が,パリの若い画家たちの間に急速に高まった。…
※「ブラック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」