宮城(県)(読み)みやぎ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宮城(県)
みやぎ

東北地方中部、太平洋側に位置する県。北は岩手県、南は福島県に接し、西および北西隅は奥羽山脈を境として山形県および秋田県に隣接する。宮城県という名称は、明治維新時に明治新政府が雄藩仙台藩の名を忌避したため、古代の宮城郷、また宮城野原の名をとってつけられたといわれる。面積は7285.76平方キロメートルで東北6県中もっとも小さいが、人口は234万8165(2010)で6県中もっとも多い。人口密度は1平方キロメートル当り322.3人。1995年(平成7)から2000年の5年間の人口増加率は1.6%を示し、ほかの東北5県がおしなべて停滞または減少を示すのとは好対照であって、この傾向は1970年(昭和45)以降継続していたが、2000年から2005年の5年間では-0.2%と減少に転じた。総人口に占める老年人口(65歳以上人口)の割合は19.9%、15歳未満の年少人口13.8%、15歳から64歳の生産者年齢人口は66.0%となっており、高齢化社会の進展を示している。なお、第1回国勢調査が実施された1920年(大正9)の人口は96万1768であった。1989年(平成1)に政令指定都市となった県庁所在地の仙台市は人口約100万を数え、東北地方の行政、経済、文化の広域的な中心都市となっている。また仙台市とその周辺の多賀城(たがじょう)、名取(なとり)、岩沼(いわぬま)各市の人口を加えると県総人口の約52%を占め(2010)、人口の都市集中が顕著である。
 2013年4月現在、13市10郡21町1村からなる。[長谷川典夫]

自然


地形
宮城県西部には第三紀の奥羽山脈と第四紀に活動した東日本火山帯とが縦走し、これに対して東部では阿武隈(あぶくま)高地と北上(きたかみ)高地とがその末端を南北からのぞかせている。これら東西両山地の中間には、第三紀の丘陵群とそれに続く諸河川の沖積平野が展開している。太平洋岸は牡鹿(おしか)半島以北が複雑なリアス式海岸を呈するのに対し、仙台湾岸では砂浜海岸が続き、中間に松島湾を抱く。以下、地形区ごとに概観する。
 西部山地帯は奥羽山脈を脊梁(せきりょう)とする1000メートル以上の山地で、その上には栗駒(くりこま)山(1626メートル)、船形(ふながた)山(1500メートル)、蔵王(ざおう)山(1841メートル)などの諸火山がそびえている。脊梁山脈の鞍(あん)部は峠として古くから東西交通に利用され、蔵王、栗駒両火山周辺一帯は、蔵王国定公園、栗駒国定公園に指定され山岳観光地となっている。栗駒山麓(さんろく)周辺には栗駒、鬼首(おにこうべ)、鳴子(なるこ)など、蔵王山麓周辺には作並(さくなみ)、秋保(あきう)、遠刈田(とおがった)、鎌先(かまさき)、青根(あおね)、小原(おばら)などの温泉がある。
 北上高地は丘陵性で、古生代、中生代などの古い地層からなり、太平洋岸はいわゆるリアス式海岸で屈曲に富み、海食崖(がい)と鋸歯(きょし)状の湾入があり、海岸部は三陸復興国立公園(旧陸中海岸国立公園、旧南三陸金華山国定公園)に指定されている。各湾内では磯(いそ)物漁業や水産養殖が行われ、波静かな湾奥には気仙沼(けせんぬま)、志津川(しづがわ)、雄勝(おがつ)、女川(おながわ)などの漁港が発達しているが、津波の被害も大きく、1896年(明治29)、1933年(昭和8)には甚大な被害があった。1960年のチリ地震津波の被害を契機に、沿岸平地部にはくまなく防潮堤が巡らされた。阿武隈高地は宮城県南部では丘陵状を呈し、阿武隈川沿いに角田(かくだ)盆地、白石(しろいし)川沿いには仙南平野に属する白石、円田(えんだ)、村田の諸盆地がある。
 東西両山地に挟まれた標高200メートル以下の中央低地帯は、北方の北上低地から南方の仙南盆地に達し、第三紀の丘陵性台地とその間に発達する沖積平野の仙台平野からなる。松島丘陵の北に広がる仙北平野は、北上川、迫(はさま)川、江合(えあい)川、鳴瀬(なるせ)川などがつくった沖積平野で、縄文期には古仙台湾の湾入だった所。洪水の常襲地帯であったが、しだいに干拓され、穀倉地帯となっている。松島丘陵以南には名取川、阿武隈川のつくった狭義の仙台平野と仙南の諸盆地とを加えた仙南平野がある。牡鹿半島西岸から福島県鵜の尾(うのお)岬に至る仙台湾岸は、牡鹿半島以西は平坦(へいたん)な砂浜海岸であるが、松島丘陵の南東部は沈水して松島湾となり、湾内には凝灰(ぎょうかい)岩、頁(けつ)岩などからなる260余の島々が散在し、日本三景の一つ「松島」として特別名勝に指定されている。県立自然公園には、松島、旭山(あさひやま)、蔵王高原、二口(ふたくち)峡谷、気仙沼、船形連峰、硯上山万石浦(けんじょうさんまんごくうら)、阿武隈渓谷の八つがある。なお、県北の伊豆沼(いずぬま)などは、ラムサール条約の「水鳥の保護区」に指定されている。[長谷川典夫]
気候
宮城県の気候は、東部、中部、西部の3地域に区別された地形と、寒暖両海流の潮境に近い太平洋に接していること、内側に仙台湾を抱くことなどから、日本海側より太平洋側の影響を強く受ける。2002年における仙台の年平均気温は12.7℃、年降水量は1240.5ミリメートル。標高500メートル以下の地域は温暖湿潤気候を示し、梅雨や台風の影響はみられるが、冬季に晴天が続き降水量の少ない点では太平洋型を示している。西部山間地域は冬季に北西季節風の影響により降水量の多いことが特徴で、12月から2月にかけては毎月の降水量が100ミリメートル以上で多雪地域をなすとともに、夏季の降水量も多い地域である。内陸地区のうち仙南地方は海洋の影響がやや少なく、年平均気温は10.8~12.1℃、最寒月の平均も1.1~2.5℃で、県内では比較的温暖な地方であるが、盆地内では春季の夜間冷却に伴う霜害にみまわれることがある。仙北の内陸地域は冬季の北西風や夏季の海洋の影響の受け方の少ない地方である。ただ西部の丘陵地域では、山脈の鞍部を通ってくる冬季の西風により、積雪日数50日を超える地域がある。海岸地域のうち三陸地方は背後に丘陵を負っているので、1月の平均気温が0.3℃以上で暖かく、ツバキやタブノキの自生地がみられる。また夏季は比較的気温が低い。夏季に山背(やませ)とよばれる北東風が吹くと、日照不足と低温により稲作は冷害をおこしやすく、農民に警戒されている。[長谷川典夫]

歴史


先史・古代
白石市の松田遺跡は縄文早期の竪穴(たてあな)住居跡で県内最古の押型文土器が出土した。仙南平野、松島湾岸、仙北平野周辺の丘陵縁辺には沼津貝塚、素山(そやま)貝塚など多くの貝塚が分布し、狩猟と漁労の生活文化が開花していたことがわかる。当時の海面は現在より約5メートル高く、現在の平野の広い部分が浅海底であったが、弥生(やよい)期に入ると平野は現在とほぼ同様の形態となり、稲作が行われるようになった。仙台市南部から名取市にかけては多くの古墳がみられ、名取市の雷神山(らいじんやま)古墳(国の史跡)は長さ177メートルに及ぶ前方後円墳で、関東以北では最大級である。
 奈良時代に入ると、724年(神亀1)大野東人(おおののあずまひと)が多賀城に陸奥(むつ)の国府および鎮守府を設け、木ノ下(きのした)(仙台市)に陸奥国分寺および国分尼寺を建立した。当時、北方の蝦夷(えぞ)と対立する大和(やまと)文化の最前線に位置していたのである。多賀城と日本海側の秋田城との中間の大崎(おおさき)市には玉造(たまつくり)軍団が置かれ、また各地に柵(さく)がつくられた。大和文化の北進に伴い、仙北平野でも桃生(ものう)城や伊治(いじ)城がつくられた。803年(延暦22)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は蝦夷征討後、鎮守府を胆沢(いさわ)城(現岩手県奥州市)に移した。平安時代から鎌倉時代にかけては奥州藤原氏の支配するところとなり、本吉(もとよし)地方の産金が平泉(ひらいずみ)文化を支えたといわれる。
 1981年(昭和56)座散乱木(ざざらぎ)遺跡から、1984~1988年には馬場壇(ばばだん)A遺跡から前期旧石器時代の石器が発掘されて注目を集め、以降、仙台平野西部を中心に発掘作業が進んだ。しかし、2000年(平成12)これらの石器発掘にかかわった東北旧石器文化研究所元副理事長藤村新一が当該石器を自ら埋めたとの疑惑が発生。日本考古学協会が2002年馬場壇A遺跡などを検証した結果、発掘はねつ造と判断された。また、座散乱木遺跡は再発掘調査をした結果、1981年当時の発掘はねつ造とされ、遺跡自体は後期旧石器時代か、縄文から古墳時代のものと判断された。[長谷川典夫]
中世
1189年(文治5)源頼朝(よりとも)の奥州征伐によって藤原氏は滅び、頼朝は関東御家人(ごけにん)に陸奥(むつ)の各地を与え、葛西(かさい)氏、伊沢氏を奥州総奉行(ぶぎょう)とした。1333年(元弘3・正慶2)陸奥守(かみ)北畠顕家(きたばたけあきいえ)は義良(のりよし)親王を奉じて多賀城へ入った。南北朝時代になると、奥州では北朝方の斯波(しば)、畠山、吉良(きら)氏らが優位にたった。室町時代、北上川流域の葛西氏、志田、玉造、長岡、賀美(かみ)、遠田、栗原(くりはら)の各郡に勢力を振るった斯波(大崎)氏、それに1522年(大永2)陸奥国守護となり、柴田(しばた)、亘理(わたり)、宮城、名取各郡を支配した伊達(だて)氏の3氏の力が拮抗(きっこう)した。1590年(天正18)葛西、大崎両氏は豊臣(とよとみ)秀吉に小田原攻め不参加を理由に所領を没収され、翌年両氏の所領は伊達政宗(まさむね)に与えられた。[長谷川典夫]
近世
1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、伊達氏62万石の封土が定まり、翌1601年伊達政宗は岩出山から仙台平野の中央に位置する青葉山丘陵東端に城を築き、城下町を建設し地方知行(じかたちぎょう)制を敷いて藩内を統治した。仙台藩祖となった政宗は仙北平野などの低湿地を干拓して米の増産を図るとともに、北上川下流部を改修し、仙北平野の内陸水路を石巻(いしのまき)に集中させ、塩竈(しおがま)から城下への運河を開削するなどの土木工事を行った。江戸への廻米(かいまい)は北上河口の石巻と阿武隈河口の荒浜がその起点となった。そのほか、タバコ、ベニバナ、アイなどの栽培、和紙、魚類の塩蔵、養蚕、馬産、金・銅・鉛の採掘製錬、砂鉄精錬など産業は多彩であった。
 しかし明治維新に際しては、『赤蝦夷風説考』の著者工藤平助(くどうへいすけ)、『三国通覧図説』『海国兵談』を著した林子平(しへい)、『夢物語』の高野長英などの予言と警告があったにもかかわらず、仙台藩は時流にのることができず、逆に奥羽越列藩同盟の中心となり、戊辰(ぼしん)戦争後は28万石に減ぜられた。白石や亘理の藩士は北海道に移住して開拓に従事し、紋鼈(もんべつ)(現在の伊達市伊達紋別(もんべつ)地区)や白石の町を開き、仙台城下の藩士の一部は石巻市西方の大街道(おおかいどう)の開拓に従った。[長谷川典夫]
近・現代
1871年(明治4)廃藩置県で仙台藩は仙台県になったが、当時の県域は刈田、伊具、亘理、柴田、名取、宮城、黒川、加美、志田、遠田、桃生、牡鹿の諸郡と宇多郡の一部からなっていた。翌1872年仙台県は宮城県と改称、1876年磐井(いわい)県の廃止で玉造、登米(とめ)、栗原、本吉4郡が宮城県へ移管され現在の県域になった。しかし、旧仙台藩領のうち磐井、胆沢、江刺(えさし)、気仙(けせん)郡は岩手県域になってしまった。
 明治政府は国内開発の意図をもって、野蒜(のびる)(東松島(ひがしまつしま)市)に洋式築港の計画をたてた。北上川河口から阿武隈川河口に至る内陸運河を掘り、また作並(さくなみ)街道と七ヶ宿(しちかしゅく)街道を改修して日本海側の物資をも野蒜に集中させることをもくろんだものであった。内陸運河や道路改修は順調に進んだが、1878年に始まった港湾建設は1885年の台風による防波堤の破壊により中止され、これにより仙台湾沿岸開発の拠点構築の構想は破れた。その後、鉄道の開通により東北の交通界も陸運中心に転じ、幹線と支線の連絡のよい仙台には第二師団や東北帝国大学が設置され、また東北地方を管轄する中央官庁の出先機関も続々と設けられた。しかし県全体としては、農水産業が卓越し、第二次世界大戦前までの工業は仙台や石巻などに若干みられるにすぎなかった。水田開発のため明治以降も中田沼や広淵(ひろぶち)沼、品井沼の干拓、北上川下流と迫(はさま)川との分離などが進められた。しかし水害常襲地であったこの地域の洪水がほぼ完全に治まるようになったのは第二次世界大戦後の総合開発計画の実施による。すなわち、北上川流域特定地域の開発計画により、栗駒、花山、鳴子(なるこ)などの多目的ダムが建設され、流量調節によって洪水防止や用水確保、発電などが図られ、また仙塩地域では工業開発のための基盤整備が進められた。
 一方、1960年(昭和35)のチリ地震津波により、太平洋沿岸では気仙沼、志津川、女川(おながわ)などの漁港都市を中心に大きな被害を受け、これを機に防潮堤の設置が進んだ。また1978年のマグニチュード7.4の宮城県沖地震では都市部を中心に死者27人、全壊家屋1377戸の被害を出し、現代都市のもつ防災上の問題点を浮き彫りにした。[長谷川典夫]

産業

東北地方の各県と同様に、宮城県も明治以降の開発から長い間取り残され、現在でも農業や水産業が活発な反面、工業の比重は相対的に低い。2000年(平成12)の産業別就業人口の割合は、第一次産業が6.5%で1985年の14.6%から著しく低下したが、依然として全国平均の5.0%を上回っており、逆に第二次産業は26.7%で全国平均の29.5%より2.8%低い。第三次産業は65.8%で全国平均の64.3%をわずかに上回っている。また県内総生産の割合でも第三次産業は76.5%(2001)と高く、これは仙台に集積する第三次産業の影響が色濃く表れているためである。この産業構造を反映して、県民1人当りの所得は258万9000円(2001)で全国平均の約87%にとどまっている。[長谷川典夫]
農林業
宮城県の耕地面積は13万9900ヘクタール(2002)で県総面積の19.2%を占める。そのうち81.3%は田で、普通畑は12.9%、樹園地は1.3%にすぎない。したがって米作が中心で、養蚕や果樹栽培はかならずしも活発ではない。牧草地や林野面積も広くはなく、畜産や林業もあまり振るわない。
 2002年(平成14)の米の生産量は42.7万トンで全国第5位。第二次世界大戦前は東北型の典型とされた宮城県の水田単作農村は、大戦後の農地改革を契機に、農地の改良、新品種の育成、農業技術の進歩、機械力の普及などによって著しく生産力を高め、とくに優良品種の「ひとめぼれ」「ササニシキ」の生産で著名な仙北平野は、山形県の庄内(しょうない)平野とともに日本の代表的米作地となった。蔬菜(そさい)栽培ではホウレンソウ、キュウリ、ハクサイ、ダイコンの収穫量が多く、果樹栽培では明治初年に始まる利府(りふ)町のナシ、亘理(わたり)町・山元(やまもと)町のリンゴ、イチゴ、蔵王町のモモ、リンゴ、ウメなどの栽培があげられる。
 林野面積は41万4000ヘクタール(2000)で県総面積の約57%を占め、スギ、マツ類、ブナなどの素材が生産されるが、労働力不足や輸入外材に押され、経済性が低下している。[長谷川典夫]
水産業
宮城県は全国屈指の水産県で、漁獲量は全国第2位の40万4273トン(2002)に達する。太平洋の三陸沖では千島(ちしま)海流・日本海流の寒暖両海流が金華山沖で合流するため魚類は豊富で、サバ、イワシ、サンマ、カツオなどの好漁場をなし、ほかにマグロ、カレイ、タラなどの近海ものの漁獲がある。牡鹿半島以北ではワカメ、コンブ、ホヤ、ウニなどの磯(いそ)漁業、松島湾、荻浜(おぎのはま)湾、万石浦(まんごくうら)、気仙沼湾などではノリ、カキ、ワカメなどの養殖が行われるが、かつて松島湾を中心に盛況をみせたノリ養殖は全国の6.2%(2002)まで比率が低下した。これは養殖方法が変化して支柱式または浮き流し式の網ひびを使用するようになり、浅海の松島湾から外洋に面する七ヶ浜(しちがはま)町や東松島(ひがしまつしま)市などに重点が移り、経営体数も激減したためである。また志津川(しづがわ)湾をはじめとするギンザケの養殖は全国生産量の99%を占めている。沖合・遠洋漁業に従事する漁船は、唐桑(からくわ)・気仙沼(ともに気仙沼市)、石巻(いしのまき)、渡波(わたのは)(石巻市)、鮎川(あゆかわ)(石巻市)、女川(おながわ)、雄勝(おがつ)、塩釜(塩竈(しおがま)市)、閖上(ゆりあげ)(名取市)、荒浜(亘理町)などの各港を根拠地とするが、漁獲物の水揚げは魚市場、製氷冷凍蔵、加工施設の整備された大漁港に集中し、全国第1位で17%を占めるマグロをはじめ、タラ、カツオ、サンマなどを中心に、石巻、気仙沼、塩釜、女川の4漁港が主要水揚げ港となっている。水産加工面ではちくわ、かまぼこなどの練り製品は全国1位で10%を占め、そのほか、冷凍食品、いか塩辛、タラ塩蔵品なども全国1位の生産量となっている。[長谷川典夫]
鉱工業
古くは東大寺の大仏建立に際して陸奥国から金が献上され、その後も本吉(もとよし)地方の金が平泉文化を支えたと伝えられる。明治から昭和にかけても大谷(おおや)、御岳(みたけ)、馬籠(まごめ)、徳仙丈(とくせんじょう)、弥勒(みろく)、小泉(こいずみ)、新月(にいづき)、鹿折(ししおり)などで金の採掘が行われたが、現在すべて閉山した。西部の奥羽山脈の第三紀の緑色凝灰岩とそれを貫く火成岩地帯には金、銀、銅、亜鉛、鉛などの鉱床があり、栗原(くりはら)市鶯沢(うぐいすざわ)には日本有数の細倉鉱山があって鉛、亜鉛の採鉱と製錬が行われていたが、現在では観光坑道のマインパークおよび鉱山資料館にそのおもかげをとどめているにすぎない。そのほか、北上高地の女川、雄勝、登米(とよま)などで粘板岩が採掘され、屋根瓦(がわら)や硯(すずり)、石碑に用いられる。
 2002年(平成14)の県内製造事業所数(全事業所)は6086、従業者数は13万5000人に達する。製造品出荷額等は3兆4544億円で、全国第24位である。業種別の出荷額等は、食料品18.5%、電子部品11.4%、石油製品7.9%で、以下、電気機器、飲料・飼料、パルプ・紙と続いている。全国平均と比較して、機器類や化学、金属などの比率が低く、食料品や飲料・飼料などの生活関連産業の比率が高くなっている。工場が比較的集中しているのは塩竈(しおがま)、多賀城、仙台、名取、岩沼などのいわゆる仙塩地区であり、これを中核とした仙台湾沿岸地区が主要な工業地域となっている。従来から仙塩地区には、造船、ゴム、特殊鋼、機械、製缶、肥料、録音テープ、時計用ぜんまいなどの工場群があったが、石巻工業港建設後はその背後に木材、飼料、金属、造船などの工場が立地し、仙台港周辺にも石油精製、ガス、鉄鋼などの工場が進出し、また周辺の岩沼市、名取市にもビール、タイヤ、パルプ、機械、繊維などの近代工場が立地するようになった。1984年(昭和59)から仙台市北方の大和(たいわ)町と大衡(おおひら)村にまたがる地域に内陸型の仙台北部中核テクノポリス工業団地が造成されており、高度技術集積都市を目ざしている。
 仙台藩の伝統を継ぐいわゆる伝統工業は意外に振るわない。城下の造営に用いた瓦焼きの伝統を継ぐ瓦・土管の製陶業、堤焼(つつみやき)人形、名取川、白石川の水や山麓(さんろく)の沢水、湧(わ)き水を利用した仙台市太白区の柳生(やなぎう)・中田(なかだ)地区、白石市、丸森町の手漉(す)き和紙などがあり、白石市では紙布織(しふおり)の伝統を工芸品に残している。大崎(おおさき)市岩出山(いわでやま)の凍豆腐(しみどうふ)や寒天製造、白石市の饂麺(うーめん)は地下水と冬季の乾燥気候を利用したものである。そのほか、鳴子町(大崎市)、遠刈田(蔵王町)、弥次郎(やじろう)(白石市)などの宮城伝統こけしが著名であり、仙台市の埋れ木(うもれぎ)細工、堆朱(ついしゅ)、玉虫塗、袴(はかま)地の仙台平(ひら)、登米(とめ)市登米(とよま)町の松笠(まつかさ)風鈴などの伝統工芸もある。宮城伝統こけし、石巻市の雄勝(おがつ)硯、鳴子漆器は国の伝統工芸品に指定されている。[長谷川典夫]
開発
仙台藩による大規模な河川改修工事や明治の野蒜(のびる)築港などの土木事業があったが、第二次世界大戦後は全国的な開発政策に基づいて実効をあげた事業も多い。北上特定地域の開発(1953~1962)は国土保全と資源開発を、仙塩特定地域の開発(1957~1967)は工業立地条件の整備を主導目標としたもので、ついで工業開発、地域格差の縮小をねらいとした低開発地域工業開発地区に仙南、古川、気仙沼の3地区が指定され工場誘致が図られた。全国総合開発計画により1964年仙台湾地区が新産業都市に指定され、石巻港や仙台港の建設を柱として東北一帯に及ぶ工業や流通の一大拠点をつくるとともに、仙台市を中枢管理機能をもつ大規模開発都市とし、東北地方全域の経済社会発展の中核となる総合的な都市圏の形成を促進することになった。さらに東北自動車道、東北新幹線の建設、仙台空港の整備などが進められてきた。また第三次全国総合開発計画に対応する石巻、大崎などの定住圏構想に次いで第四次の開発計画が進められ、これと対応させて、宮城県では陸海空の交通ネットワークの整備、学術・技術・情報の集積により、研究開発拠点、国際情報交流拠点を形成するなどのインテリジェントコスモス構想の具体化を進めている。さらに宮城県では、2007年(平成19)を基準年次、2020年を目標年次として第五次国土利用計画を策定、21世紀にふさわしい均衡のとれた県土利用を目ざしている。[長谷川典夫]

交通

鉄道交通は1887年(明治20)東北線の郡山(こおりやま)―塩釜間が開通し、1891年には上野―青森間が全通した。以後、常磐(じょうばん)線、陸羽東線、石巻線、仙山線、仙石(せんせき)線が開通し、第二次世界大戦後は丸森線(現阿武隈(あぶくま)急行)、気仙沼線が開通し、1982年(昭和57)には東北新幹線が開業し、現在、仙台―東京間は約2時間で結ばれ、県内の産業、文化、観光などに大きな影響を与えている。道路網は幹線の国道4号、6号のほか、関山(せきやま)、笹谷(ささや)両隧道(ずいどう)で奥羽山脈を横断する48号、286号も整備された。また、蔵王エコーライン、牡鹿コバルトラインなどの観光道路も建設され、東北自動車道は1987年に全通し、宮城県を縦貫して東京、青森と結ばれ、また県南部の村田町からは山形自動車道が分岐している。海運は仙台港が中心で、名古屋港、苫小牧(とまこまい)港間にカーフェリーが運航されている。名取、岩沼両市にまたがる仙台空港は、2014年(平成26)時点で、札幌、成田、名古屋、小松、大阪(伊丹、関空)、神戸、広島、福岡、沖縄との間に10の航空路が開設されており、また国際航空路も台北(タイペイ)、ソウル、北京、上海、グアム、ホノルルの6路線が運航されている。2007年には、仙台空港とJR仙台駅を東北本線経由で直結する仙台空港アクセス鉄道が開通した。なお、1987年、東北地方で最初の地下鉄である仙台市営地下鉄(南北線)が開業、現在は東西線の建設が進められている。[長谷川典夫]

社会・文化


教育文化
儒者田辺希賢(まれかた)は仙台藩主4代伊達綱村(だてつなむら)、5代吉村に仕え、藩の文教に力を尽くし、以来田辺家は仙台藩儒学の宗家となった。仙台藩の学問所養賢堂(ようけんどう)は1736年(元文1)に開かれ、田辺楽斎(らくさい)が初代学頭になった。1809年(文化6)学頭になった大槻平泉(おおつきへいせん)は藩校の拡張と学制の刷新を図った。1815年には医学館を設立し、小関三英(こせきさんえい)らに西洋医学を講じさせた。なお、藩主の一族や有力家臣が配された地には郷学が設置された。1691年(元禄4)に創設された岩出山の有備(ゆうび)館のほか、涌谷(わくや)の月将館、亘理の日就館、角田(かくだ)の成教書院などである。1907年(明治40)東京、京都に続く第3番目の帝国大学として東北帝国大学が仙台市に設置された。2012年(平成24)時点で、国立2、公立2、私立11の大学、私立4の短大、国立高等専門学校1校がある。
 報道機関は仙台市に集中する。『河北(かほく)新報』は1897年(明治30)に「白河以北一山百文」といわれた東北の振興を念願として創刊された。現在、東京、大阪、盛岡に支社を置くほか、東北地方に45の支社、総局、支局を配している。このほか、1946年(昭和21)発刊の『石巻新聞』があったが、1998年休刊した。放送は、NHK仙台放送局をはじめ、東北放送(TBC)、仙台放送、宮城テレビ放送(MMT)、東日本放送(KHB)などがある。
 なお、仙台市には日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属する「ベガルタ仙台」があり、2004年には東北地方初のプロ野球チーム「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生した。[長谷川典夫]
生活文化
8世紀に多賀城に鎮守府、陸奥国府が置かれていたように、早くから中央文化に接触し、近世には仙台藩が中央文化の導入に努めたこともあって、優れた文化遺産を有している。多賀城跡(特別史跡)、陸奥国分寺跡、同尼寺跡(ともに国の史跡)はよく保存され、多賀城市の東北歴史博物館には宮城県の古代の資料が豊富に展示されている。仙台藩ゆかりの史跡としては、仙台市に大崎八幡宮(はちまんぐう)、東照宮、青葉城跡、竜宝(りゅうほう)寺、大年(だいねん)寺、瑞鳳(ずいほう)寺など、松島町に瑞巌(ずいがん)寺、陽徳院、観瀾亭(かんらんてい)、五大堂、塩竈市に塩竈神社などがあり、大崎八幡宮本殿(国宝)、瑞巌寺本堂・庫裏(くり)(国宝)、東照宮本殿、陽徳院霊屋、竜宝寺の木造釈迦如来(しゃかにょらい)立像など国の重要文化財も多い。また仙台市博物館は、伊達政宗着用の具足や、慶長(けいちょう)遣欧使節関係資料(国宝)などを展示する。伊達政宗の仙台出府前の居城地大崎(おおさき)市岩出山には学問所の旧有備館および庭園(国の史跡・名勝)があり、また地方知行制による地方領主の城跡や家中屋敷が白石市や涌谷、船岡(柴田町)、岩出山、登米(とよま)(登米(とめ)市)などに残っており、とくに登米の家中屋敷とその町並みの保存がよい。近世の街道交通にかかわるものとしては、奥州街道や浜街道、および奥羽山脈越えの脇(わき)街道の一つ七ヶ宿街道の上戸沢(かみとざわ)、下戸沢(白石市)には旧宿場町の街村形態が残っており、大衡(おおひら)村には街道の松並木が、また栗原(くりはら)市金成(かんなり)の旧有壁(ありかべ)宿本陣(国の史跡)や築館(つきだて)、高清水(たかしみず)の本陣跡などの旧観が残り、仙台藩の寒湯(ぬるゆ)番所跡(国の史跡)も当時の姿をとどめている。馬籠(まごめ)(気仙沼市)は1606年(慶長11)ごろより約300年にわたり仙台藩の砂鉄による製鉄の行われた地で、炯屋(とうや)とよばれる製錬場の跡が各所に残っている。初期の製鉄従事者にはキリシタンが多く、神社の神体など十字架をかたどった鉄製品が多く残されているが、異教の禁以後弾圧を受け、狼河原(おいのかわら)(登米市)や岩手県の大籠(おおかご)(一関市)とともにキリシタン殉教の地となった。狼河原に近い西上沢(にしかみざわ)では、奥州キリシタンの中心人物で、異教徒禁令に従わなかった後藤寿庵(じゅあん)の墓碑が発見されている。米谷(まいや)(登米市)には、荒鉄を精錬し、武具を製作した御鍛冶(おかじ)屋敷跡がある。このほか、国指定史跡には名取市の雷神山古墳、涌谷町の黄金山(こがねやま)産金遺跡、大崎市の木戸瓦窯跡、加美(かみ)町の城生柵(じょうのさく)跡、大崎市の名生館官衙(みょうだてかんが)遺跡などがある。また角田市高蔵寺の阿弥陀(あみだ)堂および阿弥陀如来坐像(ざぞう)、栗原市築館の双林(そうりん)寺の薬師如来坐像、石巻(いしのまき)市小渕浜(こぶちはま)の十一面観音(かんのん)立像などがあり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
 宮城県で特筆すべきは、古来歌人に親しまれた歌枕(うたまくら)の地の多いことであろう。大伴家持(おおとものやかもち)が「天皇(すめらぎ)の御代栄えむと東(あずま)なる陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く」(巻18)と詠んだ地は『万葉集』のなかでもっとも北の地といわれる。宮城野、末の松山、武隈(たけくま)の松、野田の玉川、緒絶(おだえ)の橋、真野(まの)の萱原(かやはら)などの歌枕があり、芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』の句碑も多い。
 民俗芸能では法印神楽(ほういんかぐら)、鹿踊(ししおどり)がよく知られている。法印神楽は牡鹿、桃生(ものう)、登米、本吉の旧郡域で行われ、山伏修験(やまぶししゅげん)の神楽が農民たちによって受け継がれている。石巻市雄勝(おがつ)町の「雄勝法印神楽」は国の重要無形民俗文化財、石巻市の「牡鹿法印神楽」、仙台市の「大崎八幡宮の能神楽」は選択無形民俗文化財。鹿踊は本吉、栗原、名取、柴田、宮城などの旧郡域で行われており、仙台市、宮城地区の「川前鹿踊(かわまえししおどり)・川前剣舞(けんばい)」は選択無形民俗文化財。田植踊は県内各地にあり、仙台市秋保(あきう)地区の「秋保の田植踊」は国の重要無形民俗文化財に指定されている。このほか、国指定重要無形民俗文化財に栗原市金成(かんなり)の「小迫(おばさま)の延年」、気仙地方の農耕行事「室根神社祭のマツリバ行事」と「羽田(はだ)のお山がけ」、登米市の「米川(よねかわ)の水かぶり」がある。民謡では『さんさ時雨(しぐれ)』『遠島甚句(じんく)』『斎太郎節(さいたらぶし)』『塩釜(しおがま)甚句』『秋の山唄(やまうた)』『わしが国』『松島甚句』などがあって東北地方の他県と同様に豊富である。とくに格調高い祝い唄の『さんさ時雨』は漁村で愛好される勇壮な『斎太郎節』とともに県の代表的民謡である。
 年中行事としては、塩竈神社と岩沼市竹駒(たけこま)神社への元旦(がんたん)詣での風習があり、大崎八幡宮のどんと祭り(松焚(まつたき)祭)(1月14日)、塩竈神社の帆手(ほて)祭(3月10日)と、みなと祭(8月上旬2日間)、竹駒神社の初午(はつうま)祭(旧暦2月初午の日から7日間)、石巻市黄金山(こがねやま)神社の5月の初巳(はつみ)大祭、栗原市のくりこま山車(だし)まつり(7月下旬)、石巻市の川開き(8月1日前後の2日間)、仙台市の仙台七夕(たなばた)まつり(8月6~8日)、松島町の灯籠(とうろう)流し(8月の盆)、鳴子(なるこ)町のこけし祭(9月上旬)、栗原市の薬師まつり(11月3日)などはいずれも郷土色豊かな民俗行事である。仙台の七夕祭は他地方の七夕祭りと同様の伝習に加え、この地方が冷害や飢饉(ききん)に悩まされることが多かったため、田の神信仰とも結び付いたものといわれるが、現在では観光的な七夕行事となり、例年200万人以上の観光客を集めている。
 次に宮城県の衣食住についてみてみよう。伝統を引き継ぐ衣服としては、高級絹織物の仙台平(ひら)と八ツ橋織、藩士や庶民の婦女子が自家用につくった地織木綿があったが、後者については、その染色技術が常盤紺形など藍(あい)染めの手法として伝えられるのみである。白石地方に伝わる紙布織(しふおり)は絹糸と紙糸(和紙)とで織った高級織物であったが、現在はその技術を残すのみである。若柳蚊帳(わかやなぎかや)は衣料原料の麻を用いて珍重されたが、近江(おうみ)蚊帳に押され、大正期以後衰退した。なお、2002年(平成14)に精好仙台平の技術が国の重要無形文化財に指定された。
 白石市には風土の特色を生かした饂麺(うーめん)の特産があり、大崎市岩出山の凍豆腐(しみどうふ)は冬季乾燥気候を利用したもの。一般家庭用の食べ物としては、大豆の青豆をつぶして餅(もち)につけて食するずんだ餅と、干しはぜでだしをとり、凍豆腐、かまぼこ、セリ、ダイコン、サケの腹子を用いてつくる正月の雑煮などが特色ある郷土食といえよう。
 土蔵造の商家が多く残っているのは大崎市および村田町で、とくに村田町は在郷商人と地主の町として当時のおもかげをよくとどめている。明治期の洋風建築もしだいに姿を消し、登米市登米町の登米高等尋常小学校は当時の数少ない建築物として国の重要文化財に指定されている。農家建築では、屋敷林に囲まれた茅葺(かやぶ)き屋根のヒロマ型家屋が一般的で、名取、宮城両旧郡域には田字型の間取りのものがみられる。屋根は一般に寄棟(よせむね)であるが、養蚕が盛んだった県南部の地方では半切妻の兜(かぶと)屋根がみられ、また北部の栗原、登米(とめ)の地方には入母屋(いりもや)造がある。煙抜き用に破風(はふ)がつけられることが多いが、登米・本吉地方では気仙(けせん)大工の手になる、棟の上に神祠(しんし)をのせたような堂々たる破風が人目をひく。門構えとしては北部に多い長屋門(中門(ちゅうもん))が目だつ。門の片側または両側に納屋、作業場などを設けた間口が10間(約18メートル)以上もある白壁の建物である。これら伝統ある農家建築のうち、旧中沢家住宅、洞口(ほらぐち)家住宅、旧佐藤家住宅、我妻(あがつま)家住宅などが、国の重要文化財に指定されている。[長谷川典夫]

伝説

「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」将軍に関する伝説は東北地方に多いが、当県も例外でない。田村麻呂は、東夷(あずまえびす)の強豪「アテルイ」と10年にわたった死闘を繰り返した。アテルイは伝説上では「大竹丸」の名で登場する。大竹丸は、侵略者の大和(やまと)朝廷の遠征軍に多くの損害を与えた。鬼神もしのぐすさまじい奮戦ぶりから鬼になぞらえられたが、ついに討たれ、斬(き)られた首は空中高く舞い上がり、落ちた所がのちに鬼首(おにこうべ)(大崎(おおさき)市)の地名となった。大竹丸の祟(たた)りを恐れて田村麻呂が観音を祀(まつ)ったのが松島町の富山(とみやま)観音であるという。そのほか、蝦夷塚(えみしづか)、将軍壇(だん)、篦竹(ののだけ)、花立て壇、将軍馬蹄石(ばていせき)、禊(みそ)ぎ清水、色の清水、鏡ヶ池、赤沼、馬牛沼(ばぎゅうぬま)、馬塚、小迫(おばさま)観音、舞野(まいの)観音、古将堂(こしょうどう)などは蝦夷征伐ゆかりの地といわれている。ついで多いのは「義経(よしつね)伝説」で、いわゆる判官(ほうがん)びいきから生まれた貴種流離譚(たん)である。栗原(くりはら)市栗駒の鞍(くら)掛け石、一迫(いちはさま)の弁慶(べんけい)石、仙台市太白区秋保(あきう)の静御前(しずかごぜん)腰掛け石、松島町の児塚(ちごづか)、登米(とめ)市登米(とよま)町の八坊戻し、大崎市の弁慶笈(おい)掛け松・判官松などがある。石巻(いしのまき)市の笈入りの柳は、義経が武運を祈った名残(なごり)の木と伝える。義経の随身(ずいしん)「常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)」は、義経・弁慶が討ち死にをしたとき釣りに出かけており、不思議な老人より珍魚を馳走(ちそう)され、それ以来不老長寿の身になった。名を清悦(せいえつ)に改めていたが、青麻(あおそ)神社(仙台市)の洞窟(どうくつ)にこもると告げて去ったという。伝説では義経は東北の各地を漂泊したと伝えている。義経の身替りになって死んだのは「相目(あいめ)小太郎」で、その墓は栗原市金成津久毛(かんなりつくも)にあるという。
 「小野小町(おののこまち)」の伝説も多い。小町の生誕地は鳴瀬町の小町原(東松島(ひがしまつしま)市)、その墓は大崎市古川新田(ふるかわにいだ)の小町塚といわれている。松島町にある「桜渡戸(さくらわたりど)」は、小町が老残の身を養った所という。また柴田町の観音堂には小町の持仏が祀られている。瑞巌(ずいがん)寺門前町には「紅蓮尼(こうれんに)と軒瑞(のきば)の梅」の伝説がある。親同士が約束した結婚で女が嫁いでくると、男はすでに死んでいた。女は尼になり、梅の木に歌を詠んで語りかけると、梅は歌の功徳(くどく)によって花を咲かせたり、咲かせなかったりしたという功徳譚(くどくたん)である。「水辺の伝説」も広く分布している。仙台市宮城野区小鶴(こづる)の「小鶴ヶ池」、仙台市青葉区愛子(あやし)の「小鶴ヶ池」、中田町若狭土手(わかさのどて)の「お鶴明神」などは人身御供(ひとみごくう)に結び付いた伝説である。利府(りふ)町の「化粧坂(けわいざか)」は、人身御供に選ばれた小鶴が化粧をし装いを改めた地。大崎市小野の箱清水は、佐夜姫(さよひめ)が化粧の水を使った所とある。
 名取市笠島(かさしま)に貴種流離譚とみられる「藤原実方(さねかた)」の墓がある。実方は左遷されて陸奥守(むつのかみ)として赴任する途中、笠島道祖神の前を馬上で過ぎようとし、神の怒りに触れて落馬して死んだという。浄瑠璃(じょうるり)『碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)』で知られる「宮城野・信夫(しのぶ)」姉妹は、実名を白石領足立(あしだて)村の百姓の娘すみ女とたか女という。父の仇討(あだうち)を志し女中奉公をして武術を学び、敵(かたき)の剣道指南田辺志摩(たなべしま)を討ち果たした。姉妹と父与太郎を祀る白石市大鷹沢(おおたかざわ)の孝子堂には、仇討に用いた鎖鎌(くさりがま)・薙刀(なぎなた)などが納められている。「河童(かっぱ)」にまつわる伝説も多い。色麻(しかま)町の河童川の主(ぬし)とされている「東衛門(とうえもん)」は、田村麻呂東征の先導を務めた河童の親分で、河童明神として近郷の信仰を集めている。[武田静澄]
〔東日本大震災の被害状況〕2011年(平成23)の東日本大震災での当県の被害状況は死者9462名・行方不明者1995名・重軽傷者4013名・浸水面積327平方キロメートル・全壊住家数7万7033棟・半壊住家数9万3555棟・一部破損家数17万9509棟(浸水面積は国土地理院2011年4月18日公表のデータ、ほかは消防庁災害対策本部発表2011年11月11日17時現在のデータ)。
『『宮城県史』全35巻(1957~1987・宮城県) ▽『宮城県の文化財』(1966・宮城県) ▽高橋富雄著『宮城県の歴史』(1969・山川出版社) ▽三崎一夫著『陸前の伝説』(1976・第一法規出版) ▽『角川日本地名大辞典 宮城県』(1979・角川書店) ▽『宮城県百科事典』(1982・河北新報社) ▽『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』(1987・平凡社) ▽『宮城県風土記』(1987・旺文社) ▽『新版宮城県の歴史散歩』(1988・山川出版社) ▽安孫子麟著『宮城県の百年』(1999・山川出版社)』

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