石川(県)(読み)いしかわ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

石川(県)
いしかわ

本州の中央部、日本海側にある県。北陸地方の中心的位置を占め、東は富山、南西は福井、南東は岐阜県に接する。県名は、明治初期に一時県庁の置かれた石川郡美川(みかわ)の郡名に基づく。南北に細長い県で、北半部は能登半島(のとはんとう)で日本海に突出し、富山湾を東側に抱き、古くは能登国であった。南半部は加賀(かが)国で、南端県境の白山(はくさん)を主峰とし、北西に地形は傾斜し、金沢平野で日本海に面する。世界的な深雪地帯に位置する。県境が分水界をなし、豊富な降雨雪は、県域を流下する諸河川で日本海に注ぐが、能登半島では短小な河川が樹枝状に発達し、水に乏しい地域である。地形の関係から加賀では古くは県外との交流は不便であったが、現在は鉄道と航空、自動車交通で容易になった。能登は海上交通が古くから発達したものの、冬は交通途絶に近かった。近代的な海上交通の発達にも取り残され、僻地(へきち)性を濃くしていき、近年は過疎地となっている。米、絹織物を主産物とし、九谷(くたに)焼、漆器、加賀友禅(ゆうぜん)その他伝統工業が発達し、近代工業も進展している。越中(えっちゅう)国(富山県)を含め、近世は加賀百万石といわれた金沢藩(前田氏)の統治が続き、城下町金沢にはその伝統がいまに存続する。文化水準が高く、生活の豊かな県で、県庁所在地の金沢市はその典型といえる。金沢平野をJR北陸本線が縦断し、この沿線に商工業が発達し、人口集中も著しい。能登半島は先端ほど人口流出が甚だしく、出稼ぎも多く、人口の定着が大きな課題となっている。自然と温泉にも恵まれ、観光業の発達も目覚ましい。
 人口は全県的には漸増の県で、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)には75万人、1940年(昭和15)には76万人で、終戦時の1945年には疎開人口もあって89万人に急増した。また、戦後の1947年には引揚者などが加わり93万人、1970年100万人、1985年115万人、2000年(平成12)118万人と、自然増による緩やかな伸びとなっていたが、2005年の国勢調査人口は117万4026人、2010年の国勢調査人口は116万9788人、2015年は115万4008人とわずかながら減少傾向に転じている。面積は4186.09平方キロメートル、2018年4月現在、11市5郡8町からなる。[矢ヶ崎孝雄]

自然


地形
県域の地形は南高北低を特色とする。南端県境にある白山(2702メートル)を主峰とする両白(りょうはく)山地は北西に低下し、北東―南西方向の狭長な金沢平野に臨む。金沢平野の前面には砂丘が発達し、日本海に面する。手取(てどり)川をはじめ大聖寺(だいしょうじ)川、梯(かけはし)川、犀(さい)川、浅野川などの諸河川も北西流し、日本海に注ぐ。平野部には手取川扇状地や河北、柴山(しばやま)、木場(きば)などの潟湖(せきこ)があり、周辺に低湿地が展開し、水田地帯が広がっている。能登半島は丘陵性の地形で、南部に宝達(ほうだつ)丘陵、北部に奥能登丘陵があり、邑知潟(おうちがた)地溝帯が基部にあって、能登最大の水田地帯をなす。金沢平野から邑知潟地溝帯にわたる地域はもっとも発展した地域である。能登半島では樹枝状の小河川が複雑に丘陵地を刻み、また海岸段丘も発達し、七尾(ななお)湾のような湾入もある。架橋された能登島や、日本海に浮かぶ孤島の舳倉(へぐら)島、七ツ島もある。
 自然公園には、日本三名山の一つといわれる白山の山岳美と原始景観の保存のよい白山国立公園、外浦(そとうら)の男性的海岸美と内浦の女性的海岸美とが対照的な能登半島国定公園、加賀海岸の自然美と、潟湖、温泉郷と変化に富む越前加賀海岸国定公園(えちぜんかがかいがんこくていこうえん)がある。県立自然公園には、獅子吼手取(ししくてどり)、山中大日(やまなかだいにち)山、碁石(ごいし)ヶ峰、白山一里野、医王山の5か所がある。[矢ヶ崎孝雄]
気候
気候は日本海岸式気候で、降水量が多く、金沢で年平均2398.9(1981~2010)ミリメートル、とくに積雪を含む冬の降水量(1月269.6ミリメートル)の甚だしい点に特色がある。白山麓(ろく)は深雪地帯であり、能登半島では積雪は少ない。冬の日照不足にひきかえ、夏はむしろ太平洋岸より日照時間は多い。湿度の高いのも特色で、漆器、絹織物など伝統工業発達の一基盤をなしている。夏はむし暑いが、冬はさして寒くない。梅雨、台風などの影響は比較的少なく、春先のフェーン現象が特色である。[矢ヶ崎孝雄]

歴史


先史・古代
石川県最古かつ唯一の旧石器時代遺跡、灯台笹遺跡(とだしのいせき)が手取川左岸の能美(のみ)山地(能美市)にあり、人類居住の古さが認められる。海や潟沿い、平地に広く縄文時代の遺跡が発見され、能登(のと)町の真脇遺跡(まわきいせき)、かほく市の上山田貝塚(かみやまだかいづか)、金沢市のチカモリ遺跡、野々市(ののいち)市の御経塚遺跡(おきょうづかいせき)は国指定史跡である。弥生(やよい)時代には稲作と金属器の普及をみ、防御的な高地性集落跡や首長墓も多く、沖積地に竪穴(たてあな)式住居跡も発見されている。羽咋(はくい)市の吉崎・次場遺跡(よしざきすばいせき)は国指定史跡である。県下からは全国的にも珍しい弥生櫛(くし)や北限の銅鐸(どうたく)も出土し、玉造りの遺跡もみられる。古墳時代の遺跡の発掘も著しく、前方後方墳から前方後円墳までが分布する。能登島(七尾市)の須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳、中能登(なかのと)町の雨の宮古墳群、宝達志水(ほうだつしみず)町の散田金谷(さんでんかなや)古墳、能美市の和田山・末寺山(まつじやま)古墳群と秋常山古墳群、加賀市勅使(ちょくし)町の法皇山横穴古墳と二子塚町の狐山古墳などは国指定史跡である。埴輪(はにわ)や割竹形木棺、箱形の木棺・粘土槨(ねんどかく)・石棺などが発見され、銅鏡・刀剣・玉・甲冑(かっちゅう)、鉄製の剣・鏃(やじり)・斧(おの)など多彩な副葬品が出土している。
 大和(やまと)国家の蝦夷(えみし)経営に関連し、「越(こし)」とよばれた北陸が重視されてきた。7世紀末、越国は越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、越後(えちご)に分立されたが、石川県域は越前に属した。718年(養老2)蝦夷征討のため能登国が分立した。ただし、741年(天平13)には越中に合併、757年(天平宝字1)にふたたび能登は独立した。一方、加賀は823年(弘仁14)越前国より分立した。また、能登の国府は七尾市、加賀の国府は小松市にあったとされている。律令(りつりょう)時代、渤海(ぼっかい)国の使者が能登の福良(ふくら)(志賀(しか)町)に来着し、また越中国司の大伴家持(おおとものやかもち)が視察のため能登を巡行し『万葉集』に歌を残していることも注目される。なお、10世紀までは各地に土豪も輩出し、能登の羽咋君(はくいのきみ)、能登臣(のとのおみ)、北加賀の道君(みちのきみ)、南加賀の江沼臣(えぬのおみ)が勢力を振るった。ついで武士団の新しい豪族が発生し、林、富樫(とがし)氏が伸び中世加賀を支配した。一方、能登の石動山天平(せきどうさんてんぴょう)寺、明泉(みょうせん)寺などもかなりの衆徒をもち、加賀では白山宮が強く、京都へ神輿(みこし)を担ぎ強訴もした。[矢ヶ崎孝雄]
中世
源義仲(よしなか)の北陸進出、平家の敗退に伴い、富樫氏その他の加賀武士もその輩下で上洛(じょうらく)したが、義仲の死で加賀武士も敗れた。能登は長谷部信連(はせべのぶつら)が外来地頭で、以後この子孫が近世に至るまで支配し、加賀では地元武士の富樫氏が強力になり守護となった。一方、能登は、畠山(はたけやま)氏が守護となり七尾城を本拠としたが、1577年(天正5)畠山、長(ちょう)氏(長谷部氏の子孫)は七尾城で上杉謙信(けんしん)に敗れた。加賀では蓮如(れんにょ)が浄土真宗本願寺派の布教に努めたが、その教団組織の一向一揆(いっこういっき)は富樫氏を1488年(長享2)に滅ぼし、約100年間加賀を支配し、「百姓の持ちたる国」と称し注目された。その本拠は尾山御坊(おやまごぼう)で、金沢城はこれを受け継いだ。織田信長の命によって前田利家(としいえ)は能登を治め、柴田勝家(しばたかついえ)は北陸攻めを行い、一向一揆は1580~1582年(天正8~10)制圧された。1581年前田利家は能登国を、勝家の臣佐久間盛政(さくまもりまさ)は北加賀2郡を与えられた。ところがまもなく柴田勝家と豊臣秀吉(とよとみひでよし)の争いとなり、佐久間盛政は賤(しず)ヶ岳の戦い(1583)に敗れ、利家がかわってその支配者となり、七尾から金沢に移り、加賀、能登を支配するに至った。[矢ヶ崎孝雄]
近世
金沢藩はこのあと豊臣秀吉、徳川家康より領土を加増され、加賀、能登、越中3国の120万石を領有し、さらに近世を通じて改易もなく、最大の大名として封建的統治を続けてきた。ただ江戸幕府に対しては終始気をつかい、3代利常(としつね)は次男利次(としつぐ)を富山藩主、三男利治(としはる)を大聖寺(だいしょうじ)藩主として2支藩を置き、徳川家と姻戚(いんせき)関係を結んで安泰を図ったが、因循な気風を醸成する面もあった。しかし、領土は雪国ではあるものの米作地であり、産米を大坂に北前船(きたまえぶね)の海運で販売し、能登では製塩が重要な財源となった。漁業、鉱業も活発であり、金箔(きんぱく)、漆器、絹織物、九谷焼、友禅などの工芸にも力を入れた。技術は京都から導入したが、これらは現在も伝統工芸として石川県の特色となっている。さらに藩は学問・芸能を奨励し、図書の収集、科学技術の育成、教育に努め、能、歌舞伎(かぶき)、万歳(まんざい)なども盛んになった。ただ明治維新にあたっては、雄藩にもかかわらず、主導権は握りえず、政治の中心から遠ざけられる結果ともなった。[矢ヶ崎孝雄]
近・現代
1871年(明治4)の廃藩置県で、金沢、大聖寺両県と七尾県(能登と越中射水(いみず)郡)が置かれた。石川県の名は1872年に用いられ、金沢、大聖寺県と新川(にいかわ)郡を除く七尾県域を統治した。このとき県庁を金沢から石川郡美川に移した。これは、金沢の町民が新しい行政体に非協力のためで、県庁移転の結果金沢がさびれ、1年足らずで県庁の金沢復帰を要請し、実現をみたものの、県名はそのままで今日に至っている。1876年には越中、越前をあわせ、大きな石川県が成立したが、1881年福井県が分立し、1883年に富山県も独立し、現在に至る能登、加賀2国の石川県が確定した。明治初年、石川県は県勧業試験場を設け、殖産興業に努力した。製糸社を設立し、輸出羽二重(はぶたえ)の生産増大に努めた。1898年北陸本線が米原から金沢まで通じ、1899年には七尾港が開港場となり、絹織物の力織機が金沢で完成。1900年(明治33)には電灯が金沢に輝き、電信電話事業も始まった。交通、通信などの近代化が著しく進んだが、当時盛大であった九谷焼、羽二重の輸出にこれらが貢献する点は大きかった。一方、金沢は軍都で第九師団が金沢城跡に置かれた。県下経済の支柱は米作にあり、耕地整理や用水の近代化工事は全国的にみても早くから進められた。鉄道交通の発達に伴い、山中をはじめ山代(やましろ)、粟津(あわづ)、片山津の加賀温泉郷、能登の和倉(わくら)温泉などが発展するようになった。ただ冬の大雪時には交通途絶で悩まされた。
 第二次世界大戦後、とくに高度経済成長期を経て、県下の近代化は著しく進んだ。鉄道の複線電化、高速自動車道の開通、小松空港、能登空港、金沢港の開設、邑知、今江、柴山、河北の各潟の全面・一部干拓、手取川その他河川上流部のダム建設などがあり、とくに鉄道・道路の除雪体制が整い、雪による交通途絶からは解放された。2015年には北陸新幹線長野―金沢間が延伸、開業した。一方、行政・選挙面では保守王国といわれるものの、アメリカ軍の軍事基地問題をめぐる紛争となった内灘(うちなだ)闘争(1952)や原子力発電所設置反対など住民闘争には根強いものがみられる。[矢ヶ崎孝雄]

産業

産業の基幹は米作農業で、水田率は83%(2015)と高く、水稲単作農業である。ただし、専業農家率は16%にすぎない。工業は伝統的な繊維工業から機械工業へと中心が移ってきている。とくに金沢平野の工業化が進み、能登は過疎で、奥地は出稼ぎを主とする。漁業は能登で発達する。金沢と加賀温泉郷と能登を主体に観光業の発達が目覚ましい。本州の日本海岸ではもっとも産業の発達した県の一つである。[矢ヶ崎孝雄]
農業
経営耕地面積は4万1500ヘクタールで、うち水田は3万4500ヘクタールを占め(2015)、水稲単作農業である。農家総数2万1087のうち、専業は3424にすぎず、農家経済は圧倒的に農外収入に依存しているのも特色。農外収入源は、金沢平野から口能登(くちのと)では主として官公庁、工場などへの通勤、奥能登では出稼ぎによっている。都市化の進展で、不動産業を営む農家も増えている。金沢平野から邑知潟(おうちがた)地溝帯にわたる地域は一面の水田地帯で、しかも一毛作田であるが、土地改良、機械化が進んでいる。手取川扇状地を中心に早場米を産する。用水は手取川はじめ豊富な河川水によっているが、能登では溜池(ためいけ)が多くみられるものの、用水に不足している。兼業農家は請負耕作などにより水田経営をしているのが現実である。なお、現在稲作の減反が求められ、転作に苦心している。畑作経営では、金沢平野前面の砂丘地や、能登の海岸段丘が中心で、砂丘地ではブドウ、スイカ、サツマイモ、野菜、海岸段丘ではタバコ、野菜などが栽培される。奥能登丘陵地ではクリ栽培が行われ、ウシの放牧場も開かれている。県下の特産業、産物としては、小松市のイグサ、金沢市のリンゴ、金沢、加賀市のナシ、白山(はくさん)市の水田酪農、内灘砂丘のビニル水田、スイカ、高松砂丘のブドウ、能登町の施設園芸などがある。[矢ヶ崎孝雄]
林業
林野面積は約27万9000ヘクタール(2015)で県土の3分の2を占め、うち民有林は約25万3000ヘクタールである。林業地は白山麓の両白山地と能登半島にある。保安林は約8万5000ヘクタールで、水源涵養(かんよう)林が主であるが、砂丘地の飛砂防止林、保健保安林などもある。能登ではアテ(アスナロ)や杉の植林が行われるが、広葉樹や松が丘陵地に多い。白山麓ではブナの天然林が広く、杉の植林も行われる。また、珠洲(すず)のマツタケのほか、シイタケ・エノキタケ・ナメコ栽培も広くみられる。[矢ヶ崎孝雄]
水産業
約600キロメートルの海岸線をもつ石川県では、水産業も盛んである。経営体は1718(2013)で、個人経営が1630を占め、会社69、漁業生産組合3、共同経営16である。沿岸漁業は能登が中心で、小漁港が多数あり、日本海の大和堆(やまとたい)へも出漁する。主要漁獲物はイワシ、アジ、サバ、カレイ、イカ、ニギスなどであり、ブリ、アワビ、ズワイガニ、ナマコなど著名なものがある。巻網でイワシ、サバ、定置網でイワシ、ブリ、サバなどをとり、釣りでイカを漁獲する。能登の七尾、宇出津(うしつ)・小木(おぎ)(能登町)、蛸島(たこじま)(珠洲市)、輪島、金沢、橋立(はしだて)(加賀市)などが主要な漁港である。一方、遠洋漁業へも進出し、蛸島、小木・姫(ひめ)(能登町)から、北海道のイカ釣りや、北洋のサケ・マス漁に出漁し、一時はオーストラリアへイカ釣りにも出た。しかし遠洋漁業が制限され、労働力の高齢化が進むなかで、養殖、栽培漁業に力が注がれるようになった。石川県水産総合センター生産部の2事業所(志賀町、白山(はくさん)市)では水産生物の種苗生産、放流に努めており、一方、河川ではサケの放流を進めつつある。[矢ヶ崎孝雄]
鉱工業
藩政時代以降、県域で金山、銅山が開かれ、明治になっても稼行されてきた。しかし、現在は金属鉱山はまったくみられず、両白山地の陶石、能登の珪藻(けいそう)土が採掘されているだけである。陶石は小松市花坂のものが江戸時代から九谷焼に用いられ、白山(はくさん)市鳥越(とりごえ)、辰口(たつのくち)のものは衛生陶器の原料として県外に移出され、天草(あまくさ)に次ぐものとされる。珪藻土は珠洲市飯田周辺、七尾市和倉に大量に産し、断熱れんが、こんろなどに加工され、断熱性結露防止壁材、土壌改良剤など利用面の開発に努めている。なお、輪島漆器にも「地の粉」として一部利用される。
 工業は、石川県は福井県とともに世界的な長繊維織物工業地域を形成してきた。江戸時代、絹織物産地としてすでに知られたが、幕末からアメリカへの輸出羽二重(はぶたえ)生産が始まり、明治以降に急速な発展を遂げた。大正時代は人絹織物の生産も伸び、第二次世界大戦後は合成繊維織物工業へと発展してきている。金沢平野が主産地であるが、能登半島先端まで広がっている。ただし、開発途上国の追い上げに現在悩まされている。これに関連し織機(しょっき)の生産が発達し、機械工業も発展、その生産額は現在繊維工業を上回っている。織機、ブルドーザー、自転車部品、電気機器その他各種機械のほか、先端工業へと進展している。化学工業、金属工業、窯業・土石工業などがこれに次ぐ。一方、各種伝統工業の発達しているのも特色で、輪島塗、山中漆器、金沢漆器、九谷焼、金沢箔(はく)、加賀友禅、金沢仏壇、七尾仏壇、牛首紬(つむぎ)、加賀繍(ぬい)の10品目が国の伝統的工芸品の指定を受けており、その他多彩なものが存続している。これらの多くは加賀藩以来の伝統に基づいている。[矢ヶ崎孝雄]
開発
石川県は日本海側ではもっとも産業経済の発展した地域であり、民力も大都市に次いで高い。しかし、太平洋岸に比べては開発が後れており、そのレベルアップに努力してきた。交通面で北陸自動車道が建設され、能登有料道路も開通した。白山麓の深雪地もスキー場開発、手取川ダム建設に伴い、冬季も交通が確保されている。七尾港に次いで金沢港が1970年(昭和45)開かれ、小松空港とともに国際性をもっている。両白山地では手取川、大日(だいにち)、我谷(わがたに)、犀川などのダム建設が進み、上水道、工業用水、発電、洪水調節を図っている。水不足の能登では小規模の生活ダムの建設が進められている。丘陵地を開発し栗(くり)園、放牧場などができ、能登島に架橋もされた。また、工業団地ができ、原子力発電所も建設された。加賀、能登を通じ観光開発にも力が注がれている。2003年(平成15)能登半島北部、輪島市、穴水町、能登町の1市2町にまたがる木原(きはら)岳周辺に能登空港が開港した。[矢ヶ崎孝雄]
交通
県下の交通は、1898年(明治31)北陸本線の金沢開通のころを契機にして、著しく変容した。すなわち、同年七尾鉄道会社線(現、JR七尾線)が七尾まで通じ、翌1899年七尾港も開港場となった。それまで県下には小港湾が多く、海運が交通上大きな役割を果たしたが、汽船の就航により多くは姿を消した。一方、私鉄が北陸本線から分岐して敷設されたが、高度経済成長期以後、その多くは廃止され、自動車交通の比重が高まってきた。北陸本線は複線電化され、能登地方では七尾線が輪島まで延伸され、途中の穴水からは能登線が建設されたが、国道の整備、北陸自動車道、能登有料道路(2013年無料化。のと里山海道)の建設などにより貨客を奪われ、能登線と七尾線の一部区間は、第三セクターのと鉄道となった。その後も利用客の減少は続き、2001年(平成13)穴水―輪島間が、2005年穴水―蛸島間が廃止された。2015年3月には北陸新幹線が金沢まで延伸され、県内にはじめて新幹線の駅ができた。しかし、北陸本線の金沢―直江津間は第三セクターに移管され、石川県部分はIRいしかわ鉄道となった。白山麓では白山白川郷ホワイトロードが岐阜県に通じ、福井県への国道も整備された。港湾は金沢港が貿易港として開港し(1970)、小松空港は東京、成田、新千歳、仙台、福岡、那覇に定期便が就航し、国際空港としてソウル、上海、台北、貨物便がアゼルバイジャン、ルクセンブルクとの定期便のほかチャーター便が発着している。能登半島北部には2003年能登空港が開港した。積雪による交通途絶からは解放されるようになった。[矢ヶ崎孝雄]

社会・文化


教育文化
江戸時代、新井白石(あらいはくせき)は「加賀は天下の書府」といっている。金沢藩は学者を集め、美術工芸の名工を京都から招いた。教育・文化の水準は高く、この伝統はいまに受け継がれている。金沢藩は文学校の明倫堂(めいりんどう)、武学校の経武館(けいぶかん)の2藩校を置いたが、幕末に洋式学校の壮猶(そうゆう)館と七尾語学所を設けた。七尾語学所のイギリス人教師パーシバル・オスボンのもとからは英才が多数育った。加賀市の大聖寺藩には文学校の時習(じしゅう)館(学問所)、武学校の有備(ゆうび)館があった。1870年(明治3)にはプロシア人デッケンを教授に鉱山学校が設けられた。ついで1874年石川県立師範学校、1879年金沢医学校、1887年第四高等中学校(後の旧制第四高等学校)が開設された。これらはさらに高等教育機関として整備され、第二次世界大戦後、国立の諸学校は金沢大学に統合発展した。さらに、1990年(平成2)国立の北陸先端科学技術大学院大学が辰口(たつのくち)町(現、能美(のみ)市)に創立された。ほかに、公私立の12大学と2高等専門学校、5短大があり、北陸の学問・教育の中心となっている。なお、伝統工芸技術の伝習のため、輪島市に県立の輪島漆芸技術研修所、能美市に県立の九谷焼技術研修所などがあり、一般人を受け入れている。マスコミでは『北国新聞』『北陸中日新聞』の地方紙、民間放送に北陸放送、石川テレビ放送、テレビ金沢、北陸朝日放送、エフエム石川などがある(2012)。またタウン誌の発行も盛んである。美術館、郷土資料館などの施設も各地に整っている。さらに、一般的に消費生活の水準は高く、住宅事情にも恵まれている。[矢ヶ崎孝雄]
生活文化
生活文化の特色は、日本海に面して、世界的ともいわれる深雪地帯にあること、古くから開け、近世を通じて加賀百万石の前田氏の治下に置かれ、その文化遺産を受け継いできた点にある。戦災、天災もなく、関西と関東、東北地方とを結ぶ廊下地帯にあり、外からの文物の移入はあるものの、よくその伝統文化を持続し、それに誇りをもっている県である。金沢は城下町の文化を存続している点で、全国的さらには世界的にも注目され、わが国の伝統文化を代表する都市の一つである。金沢平野は城下町を支える恵まれた水稲単作農業の農村地帯で、各種の副業が発達し、郷土芸能も豊富である。白山麓は山村地帯で、江戸時代には天領であった。焼畑を主にした出作り農業で注目され、最深積雪4メートルに及ぶ深雪地でもあり、独自の山村文化をもっている。ただ近年はダム建設に伴い、過疎に拍車がかかっているが、他面観光に力が注がれ、スキー場群がみられる。能登半島は海岸に恵まれ、古代、大陸や朝鮮の文化が定着しており、九州、山陰からの文物も伝わっている。一方、近世には北前船により大坂、蝦夷(えぞ)間の交流も活発であった。しかし、明治以降は陸上交通の発達が後れ、僻地(へきち)性を濃くし、古い民俗や芸能などが温存され、多彩な生活文化がみられる。外浦(そとうら)の民家は、冬の季節風を防ぐ間垣(まがき)で家を囲み、内陸部では谷合いに山を背に、水田を前にして家を建てている。近世には、長い海岸線に沿い漁業、製塩を営み、水田は乏しく、内陸では農畜産業や林業、製炭などを行い、出稼ぎも盛行した。現在、製塩、製炭は廃れ、米作が進んでいるが、過疎からの脱却は半島先端部へいくほど後れている。
 金沢は都市の発展に伴い、市街地が周辺に拡大し、旧市街も近代化されつつあるが、なお城下町の景観を残している。主要道路沿いは町人の街で、現在も商店街である。武家屋敷には土塀が巡らされ、用水も流れており、庭木など緑も多い。町家は密度が高く、平入りの家並みが続き、屋内には街路から後園(こうえん)に抜ける通り庭があり、冬は下ろした屋根雪を外に運び出す通路になる。また、積雪が多いため、ゴムの長靴は必要品であり、屋根瓦(がわら)にはつやのある釉薬(うわぐすり)瓦が多く用いられている。茶の間には火袋といって、屋根裏まで通しになった吹き抜けがあり、冬の明かり取りとなっている。雪を考えての家造りである。鮮度の高い魚料理が食べられるのが金沢であるが、冬は食料の保存が必要で、ブリを挟み麹(こうじ)漬けしたかぶらずしが有名である。なおカモのじぶ煮、ゴリ料理など江戸時代からの名物もある。茶道、華道も盛んである。加賀宝生(ほうしょう)といわれる能楽も盛大で、金沢市に県立の能楽堂がある。これも加賀藩以来の伝統で、謡(うたい)は広く市民に普及している。美術面でも金沢は水準が高く、市立の金沢美術工芸大学をもつ。金沢藩の保護奨励で金沢漆器、加賀象嵌、加賀友禅、九谷焼、大樋(おおひ)焼その他伝統工芸が発達し、文化勲章受章者や国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された人が多く輩出している。なお、オーケストラ・アンサンブル金沢が1988年に発足している。[矢ヶ崎孝雄]
民俗芸能
金沢の年中行事では、江戸時代からの伝統をもつ出初式(でぞめしき)の加賀鳶(とび)から、春の花見や蓮如忌(れんにょき)(4月)があり、6月の「金沢百万石まつり」は1952年(昭和27)に従来の市祭を改称したものであるが、もっとも盛大である。7月1日は氷室(ひむろ)の日で、将軍に雪を献上したのにちなみ、まんじゅうを食べて健康を祝う。秋祭には獅子舞(ししまい)(加賀獅子)が盛んである。金沢平野では5月中旬、小松市のお旅祭があり、少女の歌舞伎(かぶき)狂言がりっぱな曳山(ひきやま)の上で演じられ、風格の高いものである。夏は野々市(ののいち)のじょんから踊、それに虫送りの行事がある。秋から冬にかけて真宗の報恩講が各地、家々で営まれるのも特色である。また、南部の加賀市の菅生石部(すごういそべ)神社では五穀豊穣(ほうじょう)をかけて青竹を割り競う、勇壮な竹割祭がある。
 雪の深い白山麓では、報恩講は手厚く行う。白山市尾口(おぐち)地区では2月に「でくまわし」(国指定重要無形民俗文化財)という人形浄瑠璃(じょうるり)芝居が演じられる。また、同市白峰(しらみね)地区では7月の白山開山祭の宵宮(よいみや)に風流踊(ふりゅうおどり)の一種である「かんこ踊」(国選択無形民俗文化財)が踊られる。12月9日には山祭を行い、これで山仕事を終わりとする。近年、雪だるまウィークでにぎわっている。
 また、民俗の宝庫といわれる能登では祭礼、芸能がきわめて豊富である。正月のアマメハギ(国指定重要無形民俗文化財)は、青少年が鬼面をかぶって家々を訪れ、「怠け者はおらんか泣く子はいないか」と回って歩く奇祭である。2月の豊作を念ずる田遊(たあそび)行事のゾンベラ祭(輪島(わじま)市門前町(もんぜんまち)地区)、3月気多(けた)神社の神事おいで祭(平国(くにむけ)祭、羽咋(はくい)市)、5月の能登半島最大の祭礼である、青柏祭(せいはくまつり)(国指定重要無形民俗文化財)、7月は向田(こうだ)の火祭(七尾市)、能登一円で行われるキリコという長方形の巨大な神灯を担ぐ夏祭(オスズミ祭)や、石崎奉灯祭(いしざきほうとうまつり)(七尾市)がある。9月のお熊甲祭(おくまかぶとまつり)(七尾市)、12月と2月の田の神を家に迎える「奥能登のあえのこと」(ともに国指定重要無形民俗文化財)は全国的にみても珍しい行事である。この「あえのこと」は単独で、また「アマメハギ」は「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産の代表一覧表に記載されている。また、名舟御陣乗太鼓(なぶねごじんじょうだいこ)と「能登のまだら」は、県指定無形民俗文化財となっている。民謡では、製塩作業中に歌った砂取節や、能登麦屋節(ともに県指定無形民俗文化財)があり、江戸時代から歌い継がれている。[矢ヶ崎孝雄]
文化財
文化財は豊富で、かつ水準が高い。とくに金沢は、近世の金沢藩および明治以降の文化財に富み、東京、京都に次ぐ。白山は古代から山岳信仰で栄え、半島の能登は大陸や出雲(いずも)との関係が深く、早くから開け、文化財も多い。
 金沢の文化財は、金沢城跡の石川門、三十間長屋の国指定重要文化財に象徴され、兼六園は国指定特別名勝として評価が高く、園内の成巽閣(せいそんかく)(国指定重要文化財)は書院造の典型で優れている。また重要文化財などの町家その他民家を集めた金沢湯涌江戸村がある。明治以降の重要文化財も多く、和洋折衷の尾山神社(おやまじんじゃ)神門(国指定)や尾崎神社(国指定)、れんが造りの旧第四高等中学校の建物(国指定)など風格のあるものがある。なお、城下町のおもかげを示す武家屋敷、町家も特色である。伝統工芸の金箔(きんぱく)、象嵌(ぞうがん)、和紙などの製作用具の国指定重要有形民俗文化財があり、さらに加賀友禅、金沢蒔絵(まきえ)などの高度な技巧による工芸生産が著名である。石川県立美術館に国宝の色絵雉(きじ)香炉、銘吉光の剣が収蔵されている。
 金沢平野では小松市の那谷寺(なたでら)が自然と人工美を調和させた寺院建築で知られる。前田利常(としつね)の再建で、国指定重要文化財となっている。国指定史跡として加賀市の法皇山(ほうおうざん)横穴古墳、狐山(きつねやま)古墳などや、古代の末松廃寺(すえまつはいじ)跡(野々市市)があり、開発の古さが知られる。また、加賀市の長流亭や、野々市市の喜多(きた)家住宅も国指定重要文化財である。
 白山麓では白山比(しらやまひめ)神社の木造狛犬(こまいぬ)、白山市白峰地区の林西寺(りんざいじ)の銅造十一面観音立像が国指定重要文化財で、白山信仰によるものである。また、山麓の山地一帯に展開した出作りの民家と生活用具が白峰に保存され、加賀市、金沢市にもその生産・生活用具がまとめられている。これらは焼畑に関するもので、文化的にきわめて貴重で、ともに国指定重要有形民俗文化財である。加賀市山中温泉(やまなかおんせん)地区の山奥、九谷焼発祥地の九谷焼磁器窯(かま)跡は国指定史跡で、九谷焼研究上重要なものである。
 能登では羽咋市の気多神社(けたじんじゃ)、日蓮(にちれん)宗妙成寺(みょうじょうじ)の建造物など国指定重要文化財が多い。羽咋市寺家(じけ)遺跡と、能登町真脇(まわき)遺跡は、学術的価値が高く、七尾市の能登国分寺跡とともに古くから開けた地であることが知られ、国指定史跡。穴水(あなみず)町の明泉寺(みょうせんじ)石造五重塔は鎌倉後期のものといわれ、珍しい形で国指定重要文化財。一方、輪島市上・下時国家(ときくにけ)、七尾市座主家(ざすけ)、宝達志水(ほうだつしみず)町喜多家(きたけ)、珠洲市黒丸家など国指定重要文化財の民家が多いのも特色である。羽咋市豊財院(ぶざいいん)にある平安中期の木造馬頭観音・十一面観音・聖観音(しょうかんのん)の立像3体も国指定重要文化財である。七尾市の国指定重要文化財久麻加夫都阿良加志比古神坐像(くまかぶとあらかしひこしんざぞう)は一木丸彫りで平安後期の作、神威に満ちている。また、珠洲市の揚浜製塩用具、能登の漆掻(うるしか)き用具および加賀、能登の漆工用具、金沢の金箔、加賀の手漉(てすき)和紙、加賀象嵌の製作用具などは、伝統的な生産に関する国指定重要有形民俗文化財である。輪島市の輪島塗は長い歴史をもち、技術的にも優れた芸術品である。[矢ヶ崎孝雄]
伝説
金沢の地名は「金城霊沢(きんじょうれいたく)」の泉の伝説によるという。これは諸国に分布する財宝発見の「芋掘り長者」と同じで、「いも」には鋳物師(いもじ)の意味があり、昔の金属売買に携わる人々がこの伝説を伝播(でんぱ)させたものである。また、継母のために、洪水の犀(さい)川に沈められた幼い姉妹ゆかりの地蔵が金沢市内にある。「お銀まいの、どこまで水がきたかいの、首まで水がきたわいの」という素朴な手鞠唄(てまりうた)とともに哀切な伝説が生きている。金沢の西、金石(かないわ)には「子育て幽霊」の伝説がある。南加賀には源平に関する伝説が多い。篠原(しのはら)(加賀市)では討ち死にした斎藤実盛(さねもり)の伝説は御霊(ごりょう)信仰となって広く流布し、虫送りの行事の起源とされている。謡曲『安宅(あたか)』にある小松市の安宅ノ関は、北陸道の要路、義経(よしつね)伝説のなかでもっとも有名な地である。義経伝説は諸国に分布する貴種流離譚(たん)である。同じ小松には平清盛(きよもり)の寵(ちょう)を受けた「仏御前(ほとけごぜん)」の墓がある。仏御前は世の無常を感じ故郷に隠棲(いんせい)したが、仏御前に懸想した男の女房が嫉妬(しっと)して殺したと伝えている。口(くち)能登の七尾城は「霜は軍営に満ちて秋気清し」の詩で知られている。1年余の凄惨(せいさん)な攻防を繰り返して上杉謙信(けんしん)を悩ませた堅城であったが、ついに落城した。この城には白米(はくまい)城やオカネ火(怨念火(おんねんび))などの伝説が残っている。中能登(なかのと)町久江(くえ)は義民「道閑(どうかん)さま」の伝説で有名である。道閑はいまも久江の農民の胸に生きている。奥能登の恋路(こいじ)海岸の悲恋伝説は若者に人気があって、毎年7月に慰霊の火祭りが行われる。珠洲市の須須(すず)神社は義経ゆかりの宮で、奥州落ちの道中安全を祈願して奉納したと伝える蝉折(せみおり)の笛が社宝になっている。1911年(明治44)まで曹洞(そうとう)宗大本山であった総持(そうじ)寺の門前町剣地(つるぎじ)(輪島(わじま)市)は、地名に残っているように鬼神(きじん)大王と、名刀にまつわる伝説があって興味が深い。[武田静澄]
『日置謙編『石川県史』全5巻(1927~1940・石川県) ▽川良雄著『石川県の文化財』(1962・北国新聞社) ▽『石川県史 現代篇』(1)~(6)(1962~1995・石川県) ▽青野寿郎・尾留川正平編『日本地誌10』(1970・二宮書店) ▽下出積与著『石川県の歴史』(1970・山川出版社) ▽若林喜三郎監修『石川県の歴史』(1970・北国出版社) ▽『石川県の歴史散歩』(1973・山川出版社) ▽新加能風土記編集委員会編『石川県の歴史と風土』(1979・創土社) ▽矢ヶ崎孝雄編著『ふるさと加賀・能登――身近な地域の地理巡検』(1981・東京法令出版) ▽『角川日本地名大辞典17 石川県』(1981・角川書店) ▽北国新聞社出版局編『石川県大百科辞典』(1993・北国新聞社) ▽川崎茂編『ビジュアル版にっぽん再発見17 石川県』(1997・同朋舎)』

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