門(出入口)(読み)もん

  • 出入口

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

敷地への出入口。垣や塀などに通行のためにあけられた開口部をさす。門は、開口部を遮断すると同時に、必要に応じて開閉できる必要がある。

 人間が出入りするための門は、開口の間口は1メートル内外なので、ほとんどが片開き式の開き戸タイプである。昨今のマイカー時代を反映し、人の出入りする門と車の出入りする門とを区別する例が増え、折り畳み式の門が車用の門として多く利用されている。乗用車が入るには少なくとも2.5メートルぐらいの幅が必要であり、前面の道路が狭い場合には、1~2メートル門を後退させると、車の出入りが容易になる。

 門は門柱と門扉とからなる。門柱の材料としては、石、鋼材、れんが、コンクリート、コンクリートブロックなどがあるが、いずれも垂直に立てないと扉を吊(つ)ることができなくなるので注意が必要である。門柱部分には、郵便受け、呼び鈴、ブザー、インターホン、照明具などをセットすることが多いので、施工に際しては、事前に明確に打ち合わせを済ませておいたほうがよい。近年は、塀の一部が門柱がわりになり、門柱らしいものをとくにつくらない形式のものが住宅などで見受けられる。

 昔は門扉といえば、木材か竹材が使われたが、昨今の主流は金属製である。木造の扉の価格がたいへん高いためと、雨露にさらされることによる傷みが早く、保全が困難なためである。開閉方式には、片開き、両開きがあるが、開き戸の施錠は、門扉そのものが開放的なものが多いため、なかなかむずかしい。夜間はとくに鍵(かぎ)がなければ開けられない形式にしたほうがよい。自動車が出入りするような大きな開口部には、折り畳み形式のものが手軽である。大きな扉を開き戸にする場合は、門柱に負担がかかるばかりでなく、門扉そのものもゆがんで変形する可能性が大きいので、ガイドレールを床に埋め込み、この上を車が通るようにし、扉がぶら下がるのを防ぐ必要がある。

 門扉のデザインには、鉄パイプ製のもの、板張りのもの、木で格子状に組んだもの、唐戸(からど)状のもの、金網張りのものなど多種多様あるが、水平に桟があるものは、足掛り、手掛りになって乗り越えられるので避けたほうがよい。

 木製扉の場合でも、傷みを少なくすることはできる。たとえば、門扉の上に屋根をつける。屋根をつけないならば、扉そのものの上端に銅板や亜鉛鍍板(どばん)で覆いをかぶせる。あるいは白木のままではなく塗装を施す。こうして、直接木材が風雨にさらされるのを防ぐことによって、扉を長もちさせることができる。鉄製の扉も、2年か3年に1回くらいかならずペイントを塗り替えること。開き戸式と引き込み式があり、開き戸式では、じょうぶな丁番(ちょうつがい)をつけることがポイントになる。

 門扉は相当に重量があり、風圧も受けるので、事故が起きたりしないよう注意する必要がある。扉に緩みが生じた場合は、楔(くさび)を打ち込んだり、角に補強用のL字型、T字型の平板金物をあてがって緩みを直し、ボルトでしっかり締めるようにする。通常、開き戸の場合には、水平にかんぬきを通して戸締まりをすると同時に風圧に耐えるようにする。引き戸の場合には、掛け金(がね)や上げ落とし錠を用いる。このほか、片引き、引き分けの扉もあり、これらに開きのくぐり戸をつけることもある。

[中村 仁]

日本建築の門

日本の門の所在はすでに神話のなかにみえ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が海神の宮に至ったとき、扉のある門があったという。門は家格、あるいは区画の重要度により規模に格差があり、単に出入口をあけるだけのものから、空間の両端に柱を立てるもの、さらに屋根をかけるものなど多種多様である。木造建築のため、正面の柱間(はしらま)の数と戸口の数で規模が表され、三間三戸(さんげんさんこ)、三間一戸、一間一戸などとよばれる。

[工藤圭章]

種類


〔1〕屏中門(へいちゅうもん) 塀重門とも書く。2本の門柱だけのものは略式で、本来は本柱間に扉をつける。貫(ぬき)も屋根もなく、たすきの組子を入れた2枚の扉を吊(つ)るが、この様式ができたのは鎌倉時代ごろと推察される。

〔2〕冠木(かぶき)門 2本の本柱の上部を貫でつなぐもので、中世以降、主として武家屋敷などに用いられた。

〔3〕釘貫(くぎぬき)門 本柱上部に2本の貫があり、冠木門同様屋根はない。神社や住宅をはじめ町の木戸や関所などに用いられ、平安時代の文献にすでにみえている。

〔4〕棟門(むなかど) 「むなもん」ともいう。本柱2本のみで屋根を支えたもので、本柱を冠木でつなぎ、その上下に男梁(おばり)・女梁(めばり)を直交し、男梁上に蟇股(かえるまた)と棟木(むなぎ)を置き、男梁の先端に桁(けた)を置いて屋根をかける。寺院の塔頭(たっちゅう)や公家(くげ)の住宅などに広く用いられ、平安時代の絵巻物に多くみえる。

〔5〕上土(あげつち)門 棟門の屋根を水平な板で葺(ふ)き、上に土を置いたもの。屋根の土止(どど)めとして妻に湾曲した関板を立てるので、平唐(ひらから)門に似た外観を示し、室町時代の武家屋敷に多用された。

〔6〕四脚(しきゃく)門 四足(よつあし)門ともいい、本柱の前後に控(ひかえ)柱を4本立て、屋根を設けた門。一般に本柱は円柱で控が角柱となり、扉は本柱間につく。

〔7〕薬医(やくい)門 正面に本柱を立てて扉をつけ、背面にだけ控柱を立てて、本柱と控柱を同じ屋根の下に収めるもの。

〔8〕高麗(こうらい)門 本柱上に切妻屋根をかけ、扉を開いたときに扉がぬれないように背面と控柱と本柱の両端に小屋根をかけたもの。城郭の枡形(ますがた)の一の門や大名屋敷門に用いられた。

〔9〕櫓(やぐら)門 城の枡形の二の門。石垣間に鏡(かがみ)柱を立てて扉を吊り、この扉口の上から両側の石垣上までに櫓を設けて城門とした。一の門の高麗門とは90度方位を変えて直角の方向に立つ。

〔10〕八脚(はっきゃく)門 中央に本柱が4本並び、その前後に控柱が8本立つ。一般に本柱・控柱とも円柱で、屋根は切妻造が普通である。三間一戸の規模で中央を扉口とし、両脇(りょうわき)に二王や二天、あるいは随身(ずいじん)を祀(まつ)るものも多く、それぞれ二王門、二天門、随身門の名でよばれる。寺社に多く用いられ、東大寺転害(てがい)門ほか遺例も多い。八脚門で内部の天井の本柱と控柱間が化粧屋根裏となり、前後に2棟の屋根裏を見せるようにつくられたものを、本体の大棟をも含めて三棟造(みつむねづくり)という。

〔11〕唐(から)門 屋根を唐破風(からはふ)造にしたもので、平安時代ごろから見受けられ、正面を唐破風造にしたものを向(むかい)唐門、側面のものを平(ひら)唐門とよぶ。寺院の塔頭や住宅などに用いられ、下部の構造は四脚門、棟門などさまざまである。

〔12〕長屋門 長屋と門が結合したもの。江戸時代の大名屋敷に設けられ、長屋には家臣が住んだ。冠木を受ける本柱の間に二枚扉が開き、本柱の一方に小さなくぐり戸がついたもの。

〔13〕楼門 2階建てで、上階に縁を巡らしたもの。屋根は通常、入母屋造(いりもやづくり)平入(ひらいり)で、上下層の境に縁、高欄を巡らし、これを腰組で支える。ほとんどが三間一戸形式で、寺社を通じて鎌倉時代以降の遺例が多い。

〔14〕二重門 重層の門で、上下層に屋根のあるもの。門のうちもっとも大規模なもので、平城京の正門をはじめ、大寺院の南大門や中門などに用いられた。遺構は東大寺南大門、東福寺三門ほか多くを数える。禅宗寺院の三門(三解脱(げだつ)門)で二重門の場合、両側に付属建物があり、そこから2階への階段のついたものを「山廊付の二重門」とよぶ。

[工藤圭章]

名称

建つ場所や方位により種々の名称をもち、総門、表門、大門、中門、三門(山門)、内門、裏門、東門、南門などのほか、安置する像の名称から仁王門、随身門などがあり、用途により勅使門、下乗門の名がある。また古代の宮城門のように朱雀(すざく)門、美福(びふく)門、陽明門、応天門のほか、建礼門、桜田門など特定の名称をもつものがある。

 明治以後は洋風建築の発達で門も洋風のものが増え、現在では大建築は門を必要としないものが多く、一般住宅でも簡易なものが多くなっている。

[工藤圭章]

西洋の門

古代エジプトでは、普通、神殿の正面にピュロンとよばれる門が建てられたが、出入り口を挟んで二つの塔状の高い壁体が築かれているため「塔門」と訳される。この壁体は、各面が頂上から外側に傾斜し、正面には旗竿(ざお)を立てるための縦溝が彫り付けられ、頂上には幾何学文様を施したエジプト式コーニスがのせられる。ピュロンは1神殿に1基ずつ建てられるのが原則であったが、カルナックのアメン大神殿のように、あとで追加されて複数になった例もある。

 都市が発達、整備されて市壁が築かれると都市門が設けられていくが、これらはバビロンのイシュタル門や古代アテネのディピュロン(二重門)にみるように、防御上の理由から内外二重に構築された。しかしその基本形式は、いずれも二つの塔状壁体の間に出入り口を設ける古代エジプトのピュロンのそれを踏襲するものであった。また古代ギリシアでは、紀元前6世紀ごろから、聖域の入口をプロピライア(前門)とよぶ神殿風の建物で飾ったが、前400年ごろからは、アゴラやギムナシオンなどの世俗の場所にも建てられた。その代表的事例がアテネのアクロポリスの入口につくられたもので、一般にプロピライアといえばこれをさす場合が多い。

 前10~前8世紀ごろ、小アジア西部からイタリア半島に移住したといわれるエトルリア人は、東方からもたらした積石法によるアーチ構造の原形を、ペルージアのマルツィア門(前3~前2世紀)にみるような、美しい形式の都市門に発展させた。そして、そのボールト(穹窿(きゅうりゅう))架構法は古代ローマ人に引き継がれ、ヨーロッパ建築史上きわめて重要な役割を果たすこととなった。古代ローマ人は、これに加えて、新材料ともいえるコンクリートの効果をよく認識してこれを運用し、建築構造に大きな飛躍をもたらした。その成果はローマ市のポルタ・マッジョーレ(3世紀)、ドイツのトリールにあるポルタ・ニグラ(4世紀)などの、現存する当時の都市門によく生かされている。都市門のほか、古代ローマ時代には、皇帝や将軍の功績を顕彰するため、凱旋(がいせん)門とよばれるアーチ門が建てられた。その起源はヘレニズム時代の都市門、あるいはプロピライアにあるといわれるが、規模や形式を異にする凱旋門がローマ帝国の版図内の至る所に出現した。現存するものは、(1)大アーチ1個のもの(ティトゥス凱旋門)、(2)大アーチの両わきに小アーチを添えたもの(セプティミウス・セウェルスおよびコンスタンティヌス凱旋門)、(3)交差する十字路に建てられ四つの開口部をもつ四面(しめん)門(トリポリのマルクス・アウレリウス凱旋門)の3種に大別される。

 これらの門はいずれも主権者の権威を顕示する象徴的性格の強いものであったが、中世になると防御を主眼とした軍事的性格が強調されていく。とくに、十字軍の遠征によってイスラムの優れた防御法が取り入れられ、シリアのクラック・デ・シュバリエ(12~13世紀)やフランスのピエルフォン城(14世紀末)などに役だてられたが、城門には跳(は)ね橋、矢狭間(はざま)、落とし格子、射撃孔などが設けられて、門自体が独立した要塞(ようさい)の観があった。

 しかし、15世紀後半になって大砲が実用化され、石の弾丸のかわりに破壊力の強い鋳鉄弾が使われるようになると、市壁や都市門は無力化した。そのため、ルネサンス以降の都市門は防御上の使命をほとんど失い、一方、宮殿や邸宅の門も、中世の教会堂内の障柵(しょうさく)などではぐくまれた技術によって、2本の門柱の間に鉄製の両開き格子扉をはめ込む、装飾を主とした形式のものが一般的になった。しかし、新古典主義時代(1770ころ~1830ころ)になると、ヘルクラネウムやポンペイなどローマの遺跡の発掘で古代への憧憬(しょうけい)が触発されたこともあって、古代ローマの事例を手本とする凱旋門の復活が促された。その代表例に、ベルリンのブランデンブルク門(1788~1791)、パリのカルーセル凱旋門(1806)、同エトアール凱旋門(1806~1836)、ロンドンのマーブル・アーチ(1828。1851移建)がある。近代の門は、そのほか学校や兵営のような近代的施設に設けられたが、これらに在来の門にはない新たな機能や意味が付加されることはなかった。主要建造物と調和する装飾効果が最重視され、材料やデザインが多種多様になったことを別にすれば、旧来の両開きの扉(レールを用いた引き戸式のものも含む)をはめ込む基本形式も、一貫して変わるところがない。

[濱谷勝也]

中国の門

古代中国における「門」の古い字形は二枚戸の上に横木を1本架け渡した形で、日本の冠木(かぶき)門に似た素朴な形式に始源が求められる。「門戸(もんこ)」は古代から内外を分かつところとして重視された。本来「門」は二枚扉、「戸」は一枚扉のものをさし、木の戸を「扉(ひ)」、葦(あし)や竹網代(あじろ)などの戸を「扇(せん)」と称し、また屋敷の門や宮門、城門のように屋外に独立して立つものを「門」、建物の出入口を「戸」とする区別も古くからあった。現代中国では、集合住宅やホテルの各戸のドア入口と、団地、学校、工場その他の敷地に入る正門のいずれをも「門」の語で表すのが通例で、日本語の用法のほうがむしろ本来の概念を忠実に伝えている。

 古代中国では遅くとも殷(いん)代の城壁に城門が築かれ、城内幹道と郊外を連絡する交通の要所として、また城内外を明確に分断する装置としての機能が早くから確立していた。城内の中枢にあたる宮城では路門(ろもん)、応門(おうもん)、雉門(ちもん)、庫門(こもん)、皐門(こうもん)が南北軸線上に並び、各門の区画と政治・儀礼上の機能と対応させた厳格な規定が行われた。現在の北京(ペキン)の故宮、すなわち明(みん)・清(しん)代の紫禁城は、天安門を入り端門(たんもん)、午門(ごもん)、太和門を経てようやく太和殿・中和殿・保和殿の三大殿の中心部に達するが、この種の整然とした宮殿の配置は、古代の「三朝五門」の制度を意識的に踏襲しようとした結果である。また、午門の左右に翼廊・門廊を伸ばした雄大な構成は、古代以来、宮門、陵墓、城門などで多用された「闕(けつ)」という形式を受け継いだ復古的な設計の産物である。

 城内の居住区では漢代ころには坊里による区画の制が用いられたが、各坊のブロックには通常、坊門が設けられた。城門、宮門、坊門は鐘楼や鼓楼で鳴らされる時報を合図に閉鎖され、夜間の出入が禁じられた。すなわち、古代中国の都市の門は、官僚制による住民生活の統制を示す象徴的な装置であった。唐・宋(そう)代以降には、城門の外側に二重、三重に周壁を巡らせた「甕城(おうじょう)」という形式が出現、これは城門の守護をより強固にしようとするもので、明・清代の北京城の城門にもその形式がみられる。

 中国の門には宮殿・官署・陵墓・寺廟・道観・住宅の別を問わず、種々の形式がある。宮殿・寺廟などでは単層の門のほか楼門が用いられ、また袖壁を一歩後退させた八字牆の形式も多用された。「牌坊(パイファン)」とよばれる列柱と横材からなる冠木(かぶらぎ)門に似た形式は孔子廟の櫺星(れいせい)門などに採用されており、それに屋根をのせた装飾的な「牌楼(パイロウ)」も多くみられる。吊束(つりづか)に彫刻を施した華麗な「垂花(すいか)門」は、華北の四合院(しごういん)住宅の内庭の典型的な門の形式である。

[田中 淡]


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