タイ(読み)たい(英語表記)Thai

翻訳|Thai

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

タイ(国)
たい
Thai

東南アジアの大陸部、インドシナ半島のほぼ中央に位置する国。正称はタイ王国Kingdom of Thailand、旧称シャムSiam。西から北にかけてミャンマー、北から東にかけてラオス、南東はカンボジア、南端はマレー半島中部でマレーシアと、それぞれ国境を接し、南はタイランド湾に臨む。国土の形状は斧(おの)あるいは象の頭に類似するといわれる。面積51万3115平方キロメートル、人口6091万6400(2000)。首都はバンコク(現地名クルンテープ)。[友杉 孝]

自然・地誌

タイの地形は、おおまかにみてインドシナ半島をほぼ北から南に向かう平行する山脈の列によって特徴づけられる。この地形的特徴を基盤に、長い歴史をもつ人間活動の結果、タイは、北部山地、首都バンコクのある中央平野、東北部台地、南部のマレー半島の4地域に区分される。
 北部山地は南北方向の高い山脈の列が連なり、タイの最高峰インタノン山(2595メートル)もここに位置する。山脈と山脈の間にチエンマイ、チエンライ、ナン、ランパンなどの小盆地が形成され、山に囲まれた地方色の強い地域が歴史的にできあがった。これらの盆地と盆地の間を遮る高い山地を刻む河谷を利用して、古くから交通路も発達した。盆地は周辺山地から流出する河川による扇状地でもあり、伝統的な灌漑(かんがい)水利体系が発達し、タイでもっとも生産性の高い集約的農業が営まれる。水田稲作を主体にし、ゴマ、タバコ、ニンニク、大豆なども稲の後作として栽培される。北部山間盆地から南下するピン川、ワン川、ヨム川、ナン川の4河川が合流してタイ最大の河川チャオプラヤー川(通称メナム川)となる。ピン川にプーミポン・ダム、ナン川にはシリキット・ダムが建設されている。
 タイ中部は北部山地からの河川が順次合流してチャオプラヤー川となる地域で、山地は平野へと推移する。推移地域では東西の山地が狭まり河川は常習的に氾濫(はんらん)する。稲作は不安定であるが、深水にも堪える水稲種が経験的に栽培されている。本流河川に向かって開く支流の扇状地では水稲を主とし、水利の悪い土地ではワタなど畑作も行われる。この推移地域では古くから集落形成があり、タイ古代王朝スコータイもこの地に成立した。チャオプラヤー川流域はチャイナートで広く東西に開け大平野となる。タイ中部の大部分を構成するチャオプラヤー・デルタである。第二次世界大戦後、世界銀行からの借款で、チャオプラヤー・デルタの頂点に位置するチャイナートに農業用の大型ダムが建設された。チャオプラヤー川をせき止め、それまで水不足で悩んだ地域に農業用水を安定的に供給するためである。これがタイ農業発展の基盤となった大チャオプラヤー計画である。
 チャオプラヤー・デルタは古デルタ(デルタ上流部)と新デルタ(デルタ下流部)に分けられる。古デルタは古く陸化した土地で、長大な自然堤防と後背湿地で特徴づけられる。古デルタの都市と村落はすべて自然堤防上に立地する。毎年の河川の氾濫は自然堤防を越えて背後の後背湿地に流入し、人工灌漑を必要としない水稲耕作地域を形成している。この地方で栽培される稲は、深水に十分に堪える品種で浮稲といわれ、水面の上昇にしたがって穂先を伸ばし、茎は3~5メートルにも達する。稲の見回りは舟で行い、河川は同時に交通路でもある。第二次世界大戦後に至るまで、陸上交通の発達は著しく遅れ、舟は住民の足に等しかった。しかし、河川の氾濫は毎年規則的に起こるから農業生産は安定していた。古都アユタヤは古デルタと新デルタの境界に立地する。海岸から約80キロメートル離れたこの地の近くまで潮汐(ちょうせき)の影響がみられる。
 新デルタはアユタヤより海岸に至る広大な地域で、現在も海に向かって拡張しつつある。地形的特徴は、まったく平坦(へいたん)であること。海岸に向かう勾配(こうばい)は1キロメートルにつき2センチメートルにすぎず、降雨があればすぐに水浸しになり、なかなか排水されない。すなわち、古デルタと比較して、新デルタは現在陸化しつつある地域である。新デルタの開発は比較的新しく、19世紀後半以降、水路が縦横に掘られ、水稲耕作地の拡大が図られたのと同時に、新しい集落も形成された。現在はタイ第一の穀倉である。首都バンコクはチャオプラヤー川をまたいで立地し、その近郊には近代工場が多く立地する。タイ第一の工業地帯で、経済活動がもっとも活発な地方である。タイ全土を結び付ける交通網も、バンコクを起点に新デルタを横切って各地に通じている。
 タイ中部の東端はペチャブン山脈、ドンパヤジエン山脈で突然遮られる。これらの山脈は歴史的にタイ中部とタイ北東部を分断してきた。山脈の西側は急峻(きゅうしゅん)な山地で、繁茂する森林はマラリア蚊の生息地である。東側はなだらかな起伏を繰り返して東に傾く大きな台地で、タイ全土の約3分の1を占める。台地上の水はムン川、チー川の2河川に集まり、タイ北東部の東端を限るメコン川に注ぐ。メコン川はタイとラオスの国境をなすが、同時に、二つの国家に分かれて生活している人々を結び付けている。起伏する台地の中の低地は水田で、高地は疎林で覆われるが、人口増加に伴って疎林地域の水田化が進みつつある。水稲耕作のほかに畑作、畜産も行われる。タイ中部の稲作に不可欠であった水牛の大部分は北東部より供給されていた。
 タイ中部の西端はタノントンチャイ山脈でミャンマー国境に至る。この山脈は南に続きマレー半島に連なってタイ南部を形成する。マレー半島の狭窄(きょうさく)部のクラ地峡では、タイランド湾とアンダマン海を直接に連結するクラ運河をつくる計画があった。南シナ海とインド洋の間の距離を一挙に短縮する大構想である。タイ南部の大部分は山地であるが、タイランド湾に面する東側では海岸に接して小規模な海岸平野がいくつか形成されていて、自給的色彩の強い水田耕作が行われる。しかし、西側では山地がすぐに海に落ち込み、ほとんど海岸平野は存在しない。タイ南部の伝統的産物は錫(すず)で、近代にゴムが加わった。漁業も重要な産業である。
 タイの気候は、大まかにみれば国土全体が熱帯に位置することと、モンスーンの影響下にあることで決定される。気温は年間を通して日中最高気温は20℃を超え、年格差は少ない。しかし1日の気温変化はかなりあり、早朝は涼しい。年間を通じて気温変化は乏しく単調であるが、降水量は激しく変わり、季節はモンスーンで決められる。毎年ほぼ規則的に訪れるモンスーンは降雨、あるいは冷涼な大気をもたらす。雨を運んでくる海洋からの南西モンスーンは5月から10月まで続き、この時期が雨季となる。5月に入ると、乾燥しきった大地が降雨でよみがえり、その年の水田耕作が始まる。11月から2月までは大陸からの北東モンスーンで、大気は乾燥し涼しく、乾季となる。雨季の雨で熟した稲の刈り取りの時期である。3月、4月は暑季で、5月の南西モンスーンの到来を人々は待ちこがれる。水稲耕作だけでなく祭りや宗教行事などもモンスーンによる季節と不可分である。水田耕作の開始前の4月に、タイ最大の祭りソンクラーが催される。人々が水をかけ合って騒ぎ興じる水かけ祭である。農作業が一段落して刈り取りを待つ7月から10月までは、僧侶(そうりょ)が寺院にこもって修行する雨安居(うあんご)である。若い男子が一時出家する時期でもある。刈り取り後、多くの寺院で行事があり、人々は地方芝居、ボクシング、映画など娯楽に興じる。このように地形や気候などの自然条件を巧みに利用して人々の生活は成り立っている。[友杉 孝]

歴史

タイ人の起源は明らかでないが、紀元前、中国江南の地に居住していた哀牢(あいろう)がタイ人ではないかとされ、ついで7世紀から9世紀にかけて雲南の大理(だいり)に成立した南詔(なんしょう)はタイ人の国家とされる。やがてタイ人は中国南部からインドシナ半島各地に、南北方向の山脈の間を縫う河谷に沿って水田耕作を行いながら、長い期間にわたって徐々に移動した。11~12世紀には各地でタイ人の活動が歴史に記されるようになり、13世紀にはタイ人の国家が各地で形成された。チエンセン、チエンマイ、ルアンプラバン、アホム、スコータイなどの諸王国である。なかでも1238年クメールを破って建国されたスコータイ朝は現在のタイ国家の起源とされる。スコータイ朝は3代目のラーマカムヘン王の時代に最盛期を迎え、版図はマレー半島にまで及んだ。クメール文字からタイ文字をつくり、スリランカから上座部仏教(小乗仏教)を招来するなど先進文明を積極的に吸収して国家の内実を整えた。スコータイ朝の活発な海外交易の一端は、日本に伝来した磁器宋胡録(すんころく)(タイ中部の地名スワンカロークに由来する)にも表れている。スコータイ朝と並んでチエンマイではランナータイ王国が興り、メンライ王が威勢を振るい、その統治はメンライ法典によって現在に伝わっている。
 1351年、タイ中部のアユタヤにアユタヤ朝が誕生した。アユタヤ朝は、やがて北のスコータイ朝を支配下に置き、南は遠くマラッカまで勢力を伸ばした。東はアンコールを攻撃してクメールを脅かし、西はビルマ(現ミャンマー)と死闘を繰り返した。先進国クメールから捕虜としてバラモン僧、官僚、技術者を大ぜいアユタヤに移住させ、進んだ文明の摂取に努め、洗練された宮廷儀礼、整備した行政制度をつくりあげた。宗教による王権の正当化も図られ、国王を超越者とし、王族、貴族、一般民衆の社会的地位を水田面積の大きさで表示するサクデイナ制度が成立した。アユタヤ朝は強大な勢力を周辺地域に誇ったが、ビルマとの戦争に敗れ、1569年アユタヤも攻め落とされた。しかし1584年中興の祖ナレースエン大王がビルマ軍を破り、タイの独立を取り戻した。アユタヤ朝時代も海外交易は盛んで、アユタヤにはポルトガル、オランダ、イギリス、中国、日本などから多くの商人が取引のために集まり、東南アジアの交易中心地となった。ヨーロッパから中国、日本に至る交易路でもあった。日本人町も形成され、日本人は外国人傭兵(ようへい)としても働いた。フランスはカトリックの布教活動を始めたが、布教活動はタイ人の反発を招き、1688年フランス勢力は国外に放逐され、アユタヤ朝はヨーロッパ諸国に対して鎖国政策をとることになった。やがてアユタヤ朝の勢力も衰微し、1767年ビルマとの戦いに敗れ滅亡した。現在、宮廷、寺院跡が廃墟(はいきょ)として残っている。
 しかしビルマによる占領は長く続かなかった。中国系将軍タークシン(中国名鄭昭(ていしょう))がすぐに軍隊をまとめてビルマ軍を破り、タイは独立を回復した。1768年、戦火に焼かれたアユタヤを捨てて、チャオプラヤー川下流右岸のトンブリー(バンコクの対岸、大バンコクの一部に含まれる)を都とし、自ら王位についた。タークシン王はビルマの重圧をはねのけ、タイの勢力をラオス、カンボジアにまで広げたが、1782年精神に異常をきたしたとされて処刑された。部将チャクリが王位につき、都をチャオプラヤー川対岸のバンコクに移した。これが現在のバンコク朝(ラタナコーシン朝)の始まりで、チャクリがその始祖ラーマ1世である。ラーマ1世はタイの勢力を大いに拡張し、マレー半島のケランタン、ビルマのタボイまで支配下に置いた。国内的にもアユタヤ朝の慣行復活に努め、旧慣を再構成する法典公布や仏教再興にも力を尽くした。
 しかし、19世紀に入るとヨーロッパ列強の進出が激化し、隣国ビルマはイギリスの植民地になった。学問僧から国王に転じたラーマ4世はヨーロッパの学問、技術の導入に積極的であり、鎖国から一転して開国に踏み切って、1855年イギリスと通商友好条約を結んだ。ラーマ5世(チュラロンコーン大王)は、さらに従来の賦役制度、奴隷制度を廃止して新しい行政制度を導入し、司法、教育制度の近代化も進めた。鉄道、通信事業も推進され、社会のあらゆる方面で改革が行われた。これらの改革はヨーロッパ列強による植民地化を防ぐためのものであった。しかし、イギリスにはマレー半島のケダー、ペルリス、トレンガヌ、ケランタンを、フランスにはメコン川左岸のラオスの割譲を余儀なくされた。
 ラーマ6世、ラーマ7世はともにイギリスで教育を受けた君主であった。しかし1929年に始まる世界不況はタイ経済に深刻な打撃を与え、国家財政は破綻(はたん)した。1932年クーデター(立憲革命)が起こり、これまでの専制君主制から立憲君主制に移行し、憲法が制定された。以後、政治権力をめぐって文官派と武官派が繰り返し争ったが、武官派ピブン・ソンクラームが政権の座についた。第二次世界大戦中は、タイは日本と同盟関係を結び、ピブン・ソンクラーム政権が続いた。一方文官派のプリディ・パノムヨンは地下で自由タイ運動を指導した。[友杉 孝]

政治・外交

第二次世界大戦後、しばらくは文官派が政権を担当したが、1947年ピブン・ソンクラームがクーデターによって権力をふたたび握った。以後、軍部政権が続き、1957年サリット・タナラットがクーデターで権力を獲得し、強力な指導力によって治安を安定させた。1970年代に入ると民主化を求める声が強まり、1973年、学生が中心になって独裁政治に反対し、サリット政権を引き継いだタノム政権を打倒した。これまでの政権交代が軍事クーデターであったのに対して、初めて学生による革命が実現した。総選挙も実施されたが、政治情勢は安定しなかった。ベトナム戦争の行方をめぐって国際情勢は流動的であり、右翼のテロ行為が続発した。1976年10月、タマサート大学構内に警官隊と右翼勢力が突入し、武力で学生運動を弾圧した(血の水曜日)。この事件後、すぐ軍事クーデターが起こり、ふたたび軍部が政治権力を握った。このような強大な力をもつ軍部をめぐって、諸政党間の連合と対立が繰り返された。1970年代には新興資本家層、中間層を代表する政党が成長したが、保守派や右翼政党も強い勢力を保っていた。学生運動の指導者は一時期森林にこもって反政府運動を行ったが、やがて投降した。ベトナムのカンボジア侵攻、中国・ベトナム戦争の影響により、地下の共産党勢力は衰えた。
 これら政治勢力の抗争を特徴づける一つに派閥がある。派閥の形成・衰退がただちに政治過程の変動に連なり、また派閥内では親分・子分の関係で上下が秩序づけられ、両者は利害関係で密接に結び付いている。長期の軍事独裁政権のため政党政治の発達は遅れた。このような派閥は、政治に限らず、社会のあらゆる分野に広くみられる。
 タイの政体は立憲君主制で、国王が元首である。1932年の立憲革命で専制君主制は廃止されたが、国王に対する国民の信望はきわめて厚く、超越的なカリスマの権威をもつ。したがって、政権交代の方法であるクーデターはかならず国王の承認を得て権力の正当性を示さねばならない。事実、軍事行動には完全に成功しながら、国王の承認が得られないために、失敗に終わったクーデターもあった。国王は国家統合の形式的シンボルである以上に、現実の政治に大きな影響力をもっている。
 議会は、国王が任命する上院と、選挙で選出される下院で構成される。上院は任期6年、2年ごとに3分の1を改任する。下院は任期4年である。首相は国王が任命し、首相、閣僚は下院議員でなくてもよい。
 政党は社会行動党、民主党、国家開発党、タイ国民党、新希望党など多くあり、政治状況に応じていくつかの政党が連立政権を構成する。
 第二次世界大戦前、周辺諸国が植民地化される国際環境のなかで独立を維持したタイは、自国の利益を保持して外交を巧みに展開している。大戦中は日本と同盟したが、自由タイ運動が評価され、対米英宣戦布告を無効として、敗戦国扱いを免れた。戦後、西側陣営の一員として、とくにアメリカと積極的に親密な関係を結び、多くの経済援助を得た。アメリカの東南アジア政策に協力し、1954年設立の東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))の本部はバンコクに置かれた。ベトナム戦争でも積極的にアメリカに協力し、アメリカの空軍基地が置かれ、多数のアメリカ軍が出入りした。しかし、共産陣営との関係維持にも怠りなく、ソ連とは1947年以来国交を維持していた。中国とは1975年、ベトナムとも1976年に、それぞれ国交を樹立している。自由主義陣営に属しながら、単純に一辺倒となることなく、社会主義諸国とも適宜に関係を強化あるいは冷却させる。アジア諸国との外交にも力を入れ、とくに1967年結成の東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))には当初から加盟して、域内諸国の関係強化に努めてきた。ベトナム戦争後のカンボジア問題、域内経済協力など多くの共通問題があり、加盟諸国の首脳の相互訪問も行われている。ベトナム戦争、カンボジア内戦によって、多くの難民が国境地帯に流入した。タイ一国で処理できることでなく、国際協力で問題の解決が図られてきた。[友杉 孝]

経済・産業

第二次世界大戦前、タイ経済の基本性格は植民地経済的なモノカルチュア(単一作物生産)であった。米、錫(すず)、ゴム、チーク材を輸出し、近代工業製品、とくに衣料品を輸入した。工業生産の発展はごく限られ、おそらく精米業が最大の産業であった。国家財政もイギリス人財政顧問の指導下にあり、通貨はイギリス・ポンドとリンクしていた。
 第二次世界大戦後も、しばらくは経済の基本性格には変化はなかったが、ナショナリズムの高揚、アメリカの経済援助を引き金にして工業発展が図られ、多くの政府企業が設立された。しかし、これらの政府企業は非能率のため大部分は失敗した。1960年代にサリット政権のもとで政策転換があり、政府企業より民間資本主導へと変化した。投資奨励法による外国資本の誘致が盛んに進められ、これまで輸入に頼っていた工業製品を国内で生産するために、輸入代替産業の振興が推進された。繊維、自動車、二輪車、電器製品の生産は飛躍的に増加した。一方、食品加工、繊維など中小企業の生産も徐々に増加し、多くの労働者を雇用した。このような工業化達成の要因として外国の資本投下、ベトナム特需があげられるが、国内農業の躍進をも指摘しておかねばならない。
 1970年代に入ってタイの農業生産は目覚ましく拡大し、伝統的にタイ農業の根幹である米の生産が耕作面積や灌漑(かんがい)面積の拡張、品種改良により着実に増加した。さらにトウモロコシやマニオクの生産も急速に増加し、第二次世界大戦前からのゴムと並んで農業多角化の重要な一部を担った。これら農業生産の着実な発展は農村における可処分所得を増加させ、近代工業製品の購買力が強まった。タイ中部の農村では、かつてタイ農業のシンボルであった水牛の姿が消え、かわってトラクターが導入された。工業生産の飛躍的な拡大と農業生産の着実な増加により、1970年代の経済成長は年平均7%近い驚異的数字を実現した。
 しかし急速な経済発展は多くの社会問題を発生させている。1人当り平均所得は増加しつつも、所得格差は拡大している。工業製品の氾濫(はんらん)のなかで、新しい貧困感も形成されている。伝統的な農村社会は解体しつつあり、都市に多くの人々が移住した。順調に発展してきた工業は輸入代替産業から輸出指向型産業への移行が行われている。農業も土地保全という大きな問題を抱えている。農業発展の多くの部分は森林を開拓して実現したが、森林伐採は自然環境の破壊を引き起こしている。工業も農業も、現在、大きな過渡期にあるといえよう。
 1970年代の経済発展を反映して、以後、貿易は輸出入ともに急増した。従来、おもな輸出品は、米、野菜、天然ゴム、魚貝類、トウモロコシなどの第一次産品であったが、その後は1970年代に成長した工業製品(衣類、繊維品、機械類など)の比重が高まっている。おもな輸出先は、アメリカ、日本、シンガポール、香港(ホンコン)などである。輸出総額における日本の比重は、28.4%で、アメリカに次いで第2位である。輸入も大きく変化した。消費財の輸入が大幅に減り、工業生産のための原材料、資本財、原油が著しく増加した。おもな輸入相手国は日本、アメリカ、中国、マレーシアなどである。輸入総額における日本の比重は、51.5%で第1位を占めている。
 輸出入を比較すれば、輸入額がつねに輸出額を上回り、恒常的に貿易収支は赤字である。工業化に必要な原材料、資本財の輸入が急増し、農産物の輸出増を上回ったためである。とくに対日貿易赤字は大きく、毎年、貿易摩擦問題を引き起こしている。貿易収支の赤字は、観光収入、外国からの送金、民間投資、政府借款で埋め合わされている。とくに観光収入の増大とアラブ産油国からの出稼ぎ送金が大きかった。しかし、1996年後半から経済成長率が鈍化する一方、貿易収支が大幅に悪化。その対策にあたった大蔵大臣が辞任する事態にまで発展した。その背景には、不動産の高騰など経済のバブル化に対する政策の転換の遅れ、不良債権の発生など多くの問題があったが、その最大の原因は変動相場制移行に伴うタイ・バーツの急落であった。1997年7月にはIMF(国際通貨基金)などの国際金融機関が「バーツ危機」に対し介入、資金援助を含め経済再建策に乗り出した。タイへの金融支援に対しては、今後ますます日本の果たす役割が大きくなることは間違いなく、同年9月には日本のタイへの支援拡大策を協議するため、日本とタイの二国間の経済協議が開催された。
 交通は、タイ国有鉄道公社が運営する総延長3765キロメートルの鉄道のほか、幹線道路網が完備している。また、チャオプラヤー川を中心に水上運送も発達している。航空は、タイ航空の国内線とタイ国際航空の国際線があり、ともに国営企業である。[友杉 孝]

社会・文化

タイ社会の民族構成は複雑であるが、人口の大半はタイ民族である。タイ民族の伝統的な基本性格は水稲耕作、上座部仏教(小乗仏教)、タイ語の3要素で示される。タイ北部、タイ北東部のラーオ語は地方方言である。上座部仏教は事実上の国教で、ほとんどすべてのタイ民族は敬虔(けいけん)な仏教徒である。キリスト教徒は1%にも満たない。男子20歳で出家する慣行は現在も根強く広く行われている。都市にも農村にも寺院は至る所に所在し、月3回の仏日、年中行事、祭りなど、参詣(さんけい)する人々でにぎわう。しかし僧侶(そうりょ)の修行は厳しく、剃髪(ていはつ)し、黄衣をまとい、227の戒律を守って暮らす。女性と関係しない、1日2食、酒も飲まないなど、厳しく心身を規律する。経済活動もせず、生活は俗人の喜捨だけに頼る。厳しい戒律で守られた僧侶は、いわばこの世での聖なる存在で、仏教の象微とされている。人々は僧侶に喜捨することで自らの功徳を積み、功徳を多く積んだ人は来世で幸せに暮らせると信じている。
 仏教信仰とともに精霊崇拝も根強く残っている。人間の死霊、病気をもたらす悪霊、悪鬼、さらに稲魂、土地神などたいへん多種類の精霊がこの世で浮遊し、あるいは場所を領有するといわれる。伝統的には、精霊崇拝が自然と人間との間にかかわる秩序感覚を人々に養わせ、自然ばかりでなく人間と人間との関係にも多く関与し、仏教信仰と精霊崇拝が習合して人々の信仰世界が形成されている。
 タイ社会での最大の少数民族は人口400万以上といわれる中国系タイ人(華僑(かきょう))である。中国系タイ人の歴史は古く、18世紀にビルマ軍を退けてタイの独立を復活した英雄タークシン王の父親も中国人であった。タイに来住する中国人の多くは単身で、タイ女性との間に多くの子弟をもうけた。これら子弟はタイ社会によく適応し、2代、3代と経過するうちに、まったくタイ人となる。すなわち中国人とタイ人の間は連続的に変わり、明確な断絶はない。400万人以上とされる中国系タイ人のなかで中国籍を有する人口は30万人である。法律的には、国籍は出生地主義で、タイ生まれの人は自動的にタイ国籍をもつことになる。中国系タイ人がタイ社会で果たしてきた役割は大きく、とくに経済活動では圧倒的である。戦前においても金融、商業、製造業を独占的に支配したが、1970年代の工業発展の担い手ともなり、資本家階層だけでなく、職人、労働者も多くは中国系タイ人であった。これら中国系タイ人は出身地別に組織をもち、それぞれの会館を建設して相互扶助を図っている。出身地は中国南部がほとんどで、とくに潮州出身者が過半数を占める。多数の中国系タイ人の存在はタイ・ナショナリズムを刺激し、両者の間に深刻な対立関係を形成することもあった。しかし基本的にみれば、タイ民族と中国人の間に明確な断絶がないことで示されるように、両者は共存共栄しているといえよう。
 マレー系タイ人も少数民族である。おもにタイ南部に居住し、とくにマレーシアとの国境に近い南部4県では人口の過半を占める。マレー系タイ人はイスラム教を信仰し、タイ社会一般とは明確に異なる文化を形成する。戦前から独立あるいは自立を求める運動が根強く行われてきた。同じく少数民族であるクメール系タイ人はカンボジア国境に近いタイ北東部3県に多く居住する。タイ社会への同化は進んでいるが、現在でもクメール語を話す人々もいる。モン人も少数民族であるが、現在はほとんどタイ社会に同化していて、モン語を話すことはほとんどない。ほかに北部山地には多くの山地民族が居住する。メーオ、ミエン(ヤオ)、カレン、リーソー、ムーソー、イーコー、ラワの諸民族である。
 教育は1978年から六・三・三制を実施した。義務教育は小学6年までで、非識字率は14.5%。チュラロンコーン大学、タマサート大学など国立大学のほかに私立大学も多くあり、急速に高等教育が普及しつつある。大学教育を受けることが、望ましい職業選択のための必要条件になっているのである。[友杉 孝]
『石井米雄・吉川利治編『タイの事典』(1993・同朋舎) ▽小野澤正喜編『アジア読本 タイ』(1994・河出書房新社) ▽綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいタイ』(1995・弘文堂)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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