たい(読み)タイ(その他表記)Thailand

翻訳|Thailand

デジタル大辞泉 「たい」の意味・読み・例文・類語

たい[助動]

[助動][たかろ|たく・たかつ|たい|たい|たけれ|○]《希望の助動詞「たし」の連体形「たき」の音変化》動詞、および助動詞「れる」「られる」「せる」「させる」の連用形に付く。
話し手の希望を表す。「御飯を食べたい
日比ひごろ月日がおがみたいと思うたに」〈虎明狂・腰祈〉
話し手以外の人の希望を表す。「読みたいなら貸すよ」「やめたい人はやめればいい」
「ある」「である」「なさる」「くださる」や尊敬の助動詞「れる」「られる」に付いて、他に対する希望・要求を表す。…てほしい。「正直者がばかを見ない世の中でありたい」「別表を参照されたい
[補説]「たい」が他動性の動詞に付く場合、希望の対象を表すのに、「水を飲みたい」「水が飲みたい」のように「…ヲ…タイ」「…ガ…タイ」の両形を、室町時代以来用いてきている。連用形「たく」の音便形「とう(たう)」は中世から行われているが、現代語では、「ございます」「存じます」を伴うときにかぎって行われる。また、接続助詞「て」を伴う場合、「たくって」となることもある。3は多く文章語に用いる。

タイ(tie)

ネクタイ。「アスコットタイ
競技・試合などで、得点や記録が相手または他の競技者と同じであること。また、タイ記録のこと。「スコアをタイに持ちこむ」 「一試合で自己最多タイの得点を挙げる」
楽譜で、同じ高さの二つの音符を結ぶ弧線。両音符は間に切れ目のない1音として演奏される。
[補説]2は、一般の順位づけや、結果としての数値についても用いられる。「興行収入1位タイの映画」「過去最多タイの入園者数」
[類語](1ネクタイ蝶ネクタイ

た・い[接尾]

[接尾]《形容詞型活用[文]た・し(ク活)。「いたし」の頭母音が脱落したものか》名詞や動詞の連用形などに付いて、形容詞をつくる。
その事のはなはだしい意を表す。「めで―・い」「うしろめ―・い」
そのような状態であることを表す。「けむ―・い」「つめ―・い」
[補説]促音が挿入されて、「…ったい」となることもある。「じれったい」「やぼったい」など。

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共同通信ニュース用語解説 「たい」の解説

タイ

東南アジアの立憲君主国。総面積は51万3140平方キロで、人口は7180万1千人。首都バンコクには1107万人が暮らす。2022年の1人当たりの国民総所得は7230ドル(約106万円)。06年に軍がクーデターで当時のタクシン政権を転覆させると、地方の貧困層中心のタクシン派と、軍や財閥など既得権益層が主な反タクシン派の対立が激化した。14年には当時の陸軍司令官プラユット氏がクーデターを主導し、19年の総選挙を受け首相に就任。23年5月の総選挙では親軍派が大敗し、8月にタクシン派のセター氏が首相に選出された。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「たい」の意味・読み・例文・類語

たい

  1. 〘 助動詞 〙 ( 活用は「たかろ・たかっ・たく・たい・たい・たけれ・〇」。動詞および助動詞「れる」「られる」「せる」「させる」の連用形に下接する )
    [ 文語形 ]たし
  2. ( 活用は「(たく)、たから・たく、たかり・たし・たき、たかる・たけれ」。動詞および助動詞「れる」「られる」「せる」「させる」(文語は「る」「らる」「す」「さす」)の連用形に下接する )
  3. 話し手の願望を表わす。
    1. (イ) 話し手自身の行動や状態の実現に対する願望を表わす。…すること、または、…であることを望んでいる。
      1. [初出の実例]「今朝はなどやがて寝暮し起きずして起きては寝たく暮るるまを待つ」(出典:栄花物語(1028‐92頃)浅緑)
      2. 「いざいかに深山の奥にしをれても心知りたき秋の夜の月〈藤原季能〉〈略〉左は知りたきといへる雖俗人之語和歌之詞歟」(出典:千五百番歌合(1202‐03頃)七七一番)
    2. (ロ) 話し手を中心として、第三者をも含めた人々の願望を表わす。誰もが…すること、…であることは望ましい。
      1. [初出の実例]「同じ遊びの者と成らば誰もみな阿の様にこそ有りたけれ」(出典:平松家本平家(13C前)一)
  4. 聞き手または第三者の願望を表わす。間接的な引用や推定などの形をとることもある。…すること、または、…であることを望んでいる。
    1. [初出の実例]「琴(きむ)のことの音聴きたくは、北の岡の上に松を植ゑよ」(出典:梁塵秘抄(1179頃)二)
    2. 「おれを地獄へやりたいか極楽へやりたいか、こなた次第ぢゃ」(出典:歌舞伎・一心二河白道(1698)一)
  5. 聞き手の行為に対する願望を表わす。「れ・られ」「なされ」など敬語に下接する。文章語の用法。…してほしい。…であってほしい。「この件について再検討されたい」

たいの語誌

( 1 )語源は「いたし(甚)」であるといわれ、「飽きいたし」が「飽きたし」、「眠(ねぶ)りいたし」が「眠たし」というように動詞連用形と熟合したものや、「労(らう)いたし」が「労たし」というように名詞と熟合したものなどの語尾が独立したものとされる。
( 2 )上代にも存在したともいわれるが、疑わしい。最古の例とされる「万葉‐九六五」の「凡(おほ)ならばかもかもせむを畏(かしこ)みと振り痛(たき)袖を忍びてあるかも」の「たし」は、振ることが甚しいとも解釈できる。
( 3 )中古末期から、それまでの「まほし」に代わって用いられるようになった。その時期には、「まほし」が雅語的で、「たし」が俗語的なものと感じられていたようで、(イ)の挙例「千五百番歌合」の定家の判詞などにも、この意識がうかがわれる。
( 4 )口語「たい」の連用形「たく」の音便形「とう(たう)」は、中世から盛んに用いられているが、一般的な現代口語では「…とうございます」「…とう存じます」など、慣用的な用法に限られる。
( 5 )願望の対象を表わす表現として、口語では「…が…たい」と「…を…たい」という二つが併用されている。この二つの形はすでに室町時代に見られる。


タイ

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] tie )
  2. ネクタイ
    1. [初出の実例]「さて真黒な燕尾服(ドレッス)にオペラハット、真白な襟飾(タイ)に真白な手袋」(出典:あめりか物語(1908)〈永井荷風〉雪のやどり)
  3. 西洋音楽で、同じ高さの二音を結ぶ譜面上の弧線。この場合、二音を連続した一音として演奏することを示し、その結果、強拍と弱拍の位置が入れかわるときは、シンコペーションを生じる。〔外来語辞典(1914)〕
  4. 運動競技で得点が等しいこと。対戦者同士の得点が等しいこと。同点。また、記録が、過去の記録と等しいこと。〔モダン用語辞典(1930)〕
    1. [初出の実例]「第一日目に彼は百二十三点を獲得して、この大記録をタイした」(出典:自由と規律(1949)〈池田潔〉スポーツマンシップということ)

た・い

  1. 〘 接尾語 〙
    [ 文語形 ]た・し
  2. ( 活用は形容詞ク活用型。「いたし(痛・甚)」の頭母音が脱落したものか ) 名詞・動詞の連用形など、体言に準ずる語に付いて、形容詞をつくる。その事のはなはだしい意を表わすという。「めでたい」「うしろめたい」「あきたし」「らうたし」など。また、「はなはだしい」の意が薄れて、そのような状態であることを表わすようにもなる。「けぶたい」「つめたい」など。

たい

  1. 〘 助 〙 文の終わりに付けて、軽く念を押す意を添える。よ。さ。九州地方でいう。「そーですたい」「どげんでんよかたい」

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改訂新版 世界大百科事典 「たい」の意味・わかりやすい解説

タイ
Thailand

基本情報
正式名称=タイ王国Prathet Thai/Kingdom of Thailand 
面積=51万3120km2 
人口(2010)=6731万人 
首都=バンコクBangkok(日本との時差=-2時間) 
主要言語=タイ語 
通貨=バーツBaht 

東南アジアの大陸部中央に位置する立憲君主制の独立国。1939年まではシャムSiamと呼ばれていた。国土はタイ(シャム)湾とアンダマン海に面し,東はメコン川を隔ててラオスと,南東はカンボジアと接している。西はミャンマーと接し,南のマレー半島部においてマレーシアと接している。

タイの国土は,北から南へ走行する山地と河川,およびそれらに沿って開かれた平野によって構成され,西方のミャンマーとの国境を画するテナッセリム山脈と東方のメコン川との間に広がっている。地形的特徴からみて,北部,中部,東北部,南部に大きく分けられる。東西の大河,メコン川とサルウィン川に挟まれた北部の大部分は標高1000m前後の山地であり,最高峰インタノン(2595m)がチエンマイの西方にそびえる。メナム(チャオプラヤー)川の四大支流であるピン,ワン,ヨム,ナンの河川がその間を流れて多くの山間盆地を形成し,小規模で労働集約的な伝統的稲作が展開している。これらの河川は南下して合流し,タイ最大のメナム川となり,多くの分流を繰り返しながら中部に広がるチャオプラヤー・デルタを形成する。きわめて平たんで広大なこのデルタは,雨季には多くの部分がゆるやかな洪水によって冠水し,稲作に好条件を与える。タイの穀倉地帯は古くからこのデルタ地帯に形成され,近年,大チャオプラヤー・プロジェクトによって灌漑・排水事業が進展した。

 東北部はコーラート高原と呼ばれ,東のメコン川に向かってゆるやかに傾斜する隆起平原である。西はドンパヤージェン山脈によって中部と,南はドンラック山脈によってカンボジアと画される。標高は120~200mで,なだらかな起伏を繰り返す地形が続く。メコン川の支流,ムーン川とチー川に沿う低地では自給的稲作が行われるが,不安定である。南部はマレー半島部で,タイ湾に面する東海岸には小規模な沖積平野が広がり,アンダマン海に面する西海岸は花コウ岩を主とする山地が続いている。広大なスズ鉱床はこれらの花コウ岩を含む沖積層に広がっている。

 南部のマレー半島を除く国土の大部分は,熱帯モンスーン気候の影響下にある。雨季は5~10月で,南西モンスーンが雨をもたらす。北東モンスーンが卓越する11~4月が乾季で,2~5月ころはとくに暑季とも呼ばれ,極度の乾燥と高温にみまわれる。インド洋から吹く南西モンスーンは,テナッセリム山脈などによって遮断されるため,年降水量は1000~1500mm程度にすぎない。チュムポーン以南のマレー半島部は熱帯雨林気候に属し,年間を通じて降雨がある。とくに西海岸は多雨地帯で,年間4000mmを超える降雨がみられる。年平均気温は26~28℃で,北部の山地におけるまれな例を除いて降霜と降雪はない。一般に最低気温は12月か1月に,最高気温は5月初めにみられる。

主たる住民は,言語学的にタイ・カダイ語群と呼ばれるグループに属するタイ系民族で,最も人口が多いのは中部タイを中心とし,タイ語(シャム語)を話すタイ族である。東北タイにはラオ族,北タイにはタイ・ユアン族,南タイにはパク・タイ族がそれぞれ優勢である。そのほかに,北タイにはタイ・ルー族,タイ・ヤイ族(ギオ,シャンとも呼ばれる),東北タイにはプー・タイ族などの少数グループが分布する。これらのタイ系民族は全人口の80%以上を占め,ほとんどが上座部仏教徒である。彼らの間の言語の違いは,標準語化したタイ語からみて方言的な差であるといわれることが多いが,物質文化,口碑伝承,美術,芸能,儀礼,シンボリズムなど文化全体の固有性は依然として残存している。

 タイ系民族以外では中国人(華僑)が多く,300万人以上に達する。彼らの間では古くから潮州語が優勢であり,客家(ハツカ),海南,広東,福建などの言語も話される。中国人とならんで約6万人のインド人がバンコクを中心にみられ,ベトナム人も東北タイの数都市に分布している。約100万人にのぼるマレー系民族は南部の国境地帯に住み,ほとんどがイスラム教徒である。これらのイスラム教徒の反政府運動はタイにおける民族問題の焦点になっている。カンボジアとの国境沿いにはクメール族が古くから居住し,1979年のカンボジア内戦以来,避難民の流入が激しく続いた。

 少数民族とは,タイ国内では主として北部の山地に居住する約30万人の少数部族民をさすのが一般的である。チベット・ビルマ語派に属するカレン族が最大のグループで,13万人以上がミャンマー国境沿いの山地に居住している。そのほかに,ミヤオ族(モン族),ヤオ族,ラフ族,リス族,アカ族などが含まれる。これらの部族民は主として隔絶した山地において焼畑耕作に従事し,独自の社会と文化を形成している。それは平地におけるタイ系民族の文化と著しい対照を示し,タイ政府は行政,教育などを通じた国家的統合の問題に直面している。
執筆者:

広く知られているように,タイ族は13世紀に歴史の舞台に登場して以来現在にいたるまで,スリランカ系の上座部仏教を信奉している。タイに伝えられた上座部仏教は,一部の特権的支配階級のための宗教ではなく,上は国王から下は一般庶民にいたるまで,タイ社会の各層に幅広く受容され,タイ族の価値意識を根底から規定している点に一つの特徴がある。タイ族が仏教徒であることが,しばしば自明のこととして語られることがあるのは,こうした文化的状況を反映している。タイ的価値とは,すぐれて仏教的価値なのである。

 上座部仏教とタイ社会とは,まず〈ブン(楽しみをもたらす原因となる行為)〉と〈バープ(苦しみをもたらす原因となる行為)〉という1対の観念をめぐって深いかかわりを示す。タイ族は,すべての社会的関係を上下の秩序においてとらえるが,この秩序内における個人の位置は,各自の〈ブン〉と〈バープ〉の相対的多寡によって決定されるのだと考える。〈ブン〉に恵まれた者は楽しみも大きく,〈バープ〉の多い者は苦しみが大きい。一般に社会的上位者は〈ブン〉に恵まれた人であり,下位にある者は〈ブン〉の乏しい人であると理解される。上下の秩序の最高位に位する人物は国王である。〈ブン〉の多寡は先天的に決まるのではない。〈ブン〉は各自の努力によって獲得されるものである。ただ〈ブン〉を獲得するための努力は,ただ1回の人生の間だけに行われるのではない。〈ブン〉は長大な時の流れのなかで無限に繰り返される,ひとつひとつの生において営まれる個人の行為(カムまたはカンマという)の累積の結果として獲得されるのである。民衆は,ブッダが前生に積んだ善行物語を集めたジャータカのなかに,この世における善行が,後の世の生存にとって好ましい結果をもたらすという仏教の教えの確かな証拠をみる。したがってタイの民衆は,国王に与えられた高い名誉と地位とを,その国王が前生において積んだ限りない善行の結果として了解するのである。

 社会的上位者と下位者とは恩恵と奉仕の関係によって結ばれる。上位者は下位者に対し,それぞれの力量に応じた恩恵を与えることが文化的に期待されている。一方,恩恵を被った下位者は,上位者に対し力の許すかぎりの奉仕を行ってその恩恵にこたえなければならない。このように上位者と下位者の関係は双務的である。しかしその関係はあくまでも自発的に結ばれた関係であるため,いずれか一方の発意でその関係は消滅するのである。一般に上位者はこうした関係を,複数の下位者との間に取り結ぶ。タイ社会における個人の威信は,それに依存する下位者の数の大小によって決定される。地位が高ければ高いほど,その庇護下に入ることを望む下位者は増加する。このように下位者群が上位者を取り巻く構造を,ある人類学者は〈取巻き連entourage〉と名付けた。ある意味でタイの社会は,その全体が同じ原理によって結合された〈取巻き連〉の累積体とみることもできる。

 上下の秩序における自己の位置は〈ブン〉によって決定されるという了解が,一般に共有されているタイ社会においては,仏教徒の宗教的関心がもっぱら〈ブン〉を増すことにあるのは当然といってよいであろう。〈ブン〉を増加させる行為は,タイ語で〈タンブン〉と呼ばれる。托鉢僧に対する日々の食事の供養,寺院の建設や修復のための寄進はいずれもすぐれた〈タンブン〉の手段とされている。みずから僧として出家すること,あるいは息子を僧として出家させることもまた大きな〈ブン〉を生む〈タンブン〉であるとされている。〈タンブン〉は出家者の教団でありタイ仏教の中核をなすサンガの持続的発展に貢献する行為である。文字どおりの出家者であり,いっさいの生産活動にかかわりをもたないタイの僧とそのサンガが,今日もなお衰退から免れているのは,このように,在家者がみずからの〈ブン〉を増すために行う〈タンブン〉が,結果として出家者とそのサンガの物質的存在を支えているからである。

 タイの仏教徒は,〈タンブン〉によって人生における心の平安を得ることができるが,それだけでは日常的に発生する人生のさまざまな危機を回避することはできない。このような日常的危機を解決するための手段の一つに〈パリット〉がある。〈パリット〉とは護呪経典を意味する。タイの民衆仏教徒は,〈パリット〉の読誦が,災厄を回避し,幸運を招き寄せるために効力をもつと信じている。

現在タイの中心的民族をなすタイ族については,古くはその起源を《後漢書》にみえる哀牢に求めたE.H.パーカー説(1890)や,ながらく定説とされていた南詔=タイ族国家説,その批判として提出された白鳥芳郎の西爨白蛮(せいさんはくばん)=タイ族説(1957)などがある。いずれもその原居住地はおおむね中国南部の雲南から四川南部とされ,タイ族は北方からインドシナ半島へと南下し定着した民族であると考えられている。これに対し一部のタイ人学者から,タイ族は現在の地にかなり古くから居住していたとする説,さらには南下ではなく,マレー半島およびインドネシアから逆に北上して現在の地に至ったとする仮説が提出されているが,研究の現段階では少数説にとどまる。稲作を主たる生業とするタイ族の移動は,人口の増加とともに次々と新村をつくりながら新しい土地へ浸透していくという,ゆるやかなそして持続的な過程であったものと思われる。しかし,おそらくは数百年にも及んだであろうこれらタイ族の空間的拡大運動を,文献的に後づけることはきわめて困難である。言語学者は,インドのアッサムのアホム語,ビルマ(現ミャンマー)のシャン語,ラオスのラオ語,タイ国語(シャム語),シプソン・パンナーのルー語,ベトナム北部の黒タイ語,白タイ語など,いずれも南西タイ語群に分類できる言語が,これほど広大な地域で話されているにもかかわらず比較的等質であるという事実を,タイ族の移動の時期がせいぜい過去1000年内外であったことを示す徴表と解釈している。

 タイ族の国家形成が,文献的に立証可能となる時期は13世紀である。そのころから,アッサム,ビルマのシャン州,ラオス,中国南西部のシプソン・パンナー,北タイ,中部タイなどの各地に,タイ語で〈ムアン〉と呼ばれる小規模な政治単位の発生をみるにいたる。〈ムアン〉とは,1人の首長によって統轄され,中央に首長の居所(王宮)と比較的人口密度の高い行政,宗教,文化の中心をもち,周囲には水稲耕作民の居住と生産の空間が展開して,その余剰生産物をもって中心の存在を支えるという構造をもった自律的な政治的・地理的単位をさす。タイ族の〈ムアン〉の成立は13世紀よりかなり以前であったと考えられるが,初期の〈ムアン〉は多く山間小盆地などに立地し,互いに孤立して上位の政治的統合が形成されにくい状況にあったため,文献には現れなかったものと思われる。

 現在のタイの核心域をなすメナム川流域は,11世紀以来アンコール朝の支配下にあったが,13世紀の前半にいたり,二つのタイ族〈ムアン〉連合軍が,クメール族太守支配下のスコータイを攻略し,ここにタイ族最初の国家スコータイ朝を建設した。スコータイの版図は,第3代の王ラーマカムヘン(在位1275ころ-99ころか1317ころ)のとき最大規模に達した。同王の碑文によると,その勢力は,北はルアンプラバン,東はビエンチャン,西はペグー,南はナコーンシータマラートにまで及んだが,王の死後,急速に衰微した。第5代の王マハータンマラーチャー(在位1347-70?)は失われた版図の回復に努めた。スコータイは,南方のマレー半島と西方の下ビルマを経てスリランカから上座部仏教を受容したが,これは王制とともに現在まで続く政治・文化の基盤となった。

1351年,チャオプラヤー・デルタ下流部の河港アユタヤを中心に,新たなタイ族の国家アユタヤ朝が成立し,北方に向かってその勢力を拡張すると,スコータイはやがてこれに併合され,政治的独立を失った。アユタヤとその周辺は,かつてモン族の国ドバーラバティの支配下にあった地域である。アユタヤ朝の正式名称のなかにドバーラバティの名がとどめられているのは,こうした歴史の反映とみられる。しかしモン族は,西方に向かって膨張するクメール族によって圧迫されて衰微し,その中心の一つであるロッブリーも11世紀にはアンコール帝国の一部となった。建国後,繰り返されたアユタヤによるアンコール攻撃は,この地域に対する伝統的なクメール族支配の排除を目ざすものであった。クメール文化のアユタヤへの影響の大きさは,タイ語に採用されたクメール語系語彙などによって知られる。しかし同時に新来のタイ族が先住民族モン族から受けた文化的影響も見のがすことはできない。アユタヤの基本法となったインド法典=ダンマサッタンは,モン族から受容されたものである。

 アユタヤ朝は,スパンブリー川に沿うスパンブリーとアユタヤ北方の古邑ロッブリーという二つの〈ムアン〉の統合によって成立した国家である。王都アユタヤは,パサック,メナム両河の舟運を利用して,後背地の物産獲得が容易な地点に立地していると同時に,南に向かってはタイ湾を経て海上交易路と直結していたため,やがて東南アジア大陸部最大の商業・政治都市へと発展した。創始者ラーマティボディ1世(在位1351-69)の死後,ウートーン(ロッブリー),スパンナプーム(スパンブリー)両王家の確執が続いたが,15世紀以降スパンナプーム王家の支配権が確立し,1432年にはアンコール朝をも滅ぼし,その威勢は遠くマラッカにまで及ぶ大国に発展した。16世紀中葉,ビルマの侵攻を受け国内の統一は一時失われたが,ナレースエン大王(在位1590-1605)がでて独立を回復し,従前に勝る強力な支配体制を確立した。

 アユタヤ朝の繁栄は,その貿易活動に負うところが大きい。建国以来の対中国朝貢貿易のほか,15世紀には琉球貿易も開始されている。17世紀に入るとオランダ人,日本人など外国人商人の渡来によって対外貿易はさらに活発化した。〈官買〉制度,〈唐船〉委託貿易,ベンガル湾貿易のためのインド人・ペルシア人官吏の登用など積極的な貿易振興策によってもたらされた利潤は王庫の繁栄に貢献した。ナライ王(在位1656-88)はベルサイユ宮廷へ使節を派遣した王として知られている。アユタヤ朝は,バーンプルールアン王家のボロマコート王(在位1733-58)の治世下に学芸がおおいに栄え,仏教使節をセイロンへ派遣して衰微した首都キャンディに戒壇を復興させるなど,仏教国アユタヤの名声は海外にも響いたが,王の死後,後継者を得ず,1767年ビルマの侵攻を受けて滅亡し,アユタヤは416年の歴史の幕を閉じた。

アユタヤ朝滅亡後ただちにビルマ軍を撃退して1767年みずから王位についたタークシンは,徹底的に破壊された王都アユタヤの再建をあきらめ,より河口に近いトンブリーに新たな都を開いた。タークシンはその後も執拗に繰り返されたビルマの侵入を撃退しつつ,まず旧畿内の諸〈ムアン〉の秩序を確立すると,みずから兵を率いてピッサヌローク,ピーマイ,ナコーンシータマラートを制圧,さらに進んで,カンボジア,ラオス,ラーンナータイを攻撃し,アユタヤ以来の宗主権を回復した。アユタヤ朝のいずれの王家とも血縁関係のないタークシンは,仏教の篤信によって〈正法王〉の威光を示そうとしたが,晩年にいたって狂信に陥り,82年に〈非法王〉として部下の手で殺された。

 タークシンに代わって82年王位についたラーマ1世(チャクリ。在位1782-1809)は,都を対岸のバンコクに移して現在のラタナコーシン朝(1782-)を開いた。ラーマ1世はボロマコート王の制にならって宮中の諸制度を改めるなど,すべてにアユタヤ朝の再興を目ざした。経律の結集(けつじゆう)(1788)を後援しておおいに仏教を振興させ,また王朝年代記の勅撰(1795),《三印法典》の編纂(1805)を行い,国家統治の基礎を固めた。また対中国貿易を推進して新王朝の経済的基礎の確立に努めた。ラーマ2世(在位1809-24)は最大の門閥ブンナーク家と協調して権力の安定を図った。王が死ぬと,財務・外務長官であった長子がラーマ3世(在位1824-51)として即位した。1826年イギリスとの間に締結されたバーネイ条約によって,伝統的な王室独占貿易に制限が加えられるようになると,その損失を補うため徴税請負制度が導入された。徴税請負人の多くが華僑であったことは華僑のタイ化の促進に貢献した。

 4世王モンクット(在位1851-68)は,先進資本主義諸国の自由貿易要求を受け入れ,開国政策によって,近代化の契機を開いた啓蒙君主として知られる。55年に締結されたボウリング条約は,支配層の伝統的経済基盤をゆるがせ,タイに社会秩序の再編成を迫った。また米輸出の解禁は商品米の生産を刺激し,やがて無人のチャオプラヤー・デルタをタイ最大の穀倉地帯へと変貌させた。5世王チュラロンコン(在位1868-1910)は,イギリス,フランス両植民地主義勢力の圧力を受けながらも,巧みな外交政策によって植民地化の危機を回避し,国内にあっては門閥の勢力を排除しつつ,タイを近代国家へと脱皮させることに成功した。有能な王弟ダムロンを内相に起用して地方行政制度を整備せしめ,タイ国史上初めて,絶対君主による領域支配の貫徹する集権的統治体制を確立した。行政組織の近代化にあたっては,各国へ留学生を派遣して人材の養成を図る一方,多数の〈御雇外国人〉を招聘(しようへい)している。日本からも政尾藤吉安井てつなど,刑法,女子教育,養蚕などの専門家が渡タイした。

 チュラロンコンのつくった近代的国民教育の基礎は,6世王ワチラウット(在位1910-25)の時代に〈初等教育法〉(1921)が成立し,義務教育制度が導入されることによって確立した。外国留学を経験した最初のタイ国王であるワチラウットは,文人としての評価はあるものの,すぐれた統治者とはいいがたかった。とくに〈スアパー〉と称する国王直属の疑似軍隊をつくって軍人の反感を買い,放漫な財政によって国家財政の危機を招くなどの失政は,のちに大きな禍根を残した。1925年王位を継いだ7世王プラチャーティポック(在位1925-35)は,財政再建に苦慮したが,世界大恐慌の発生という不幸が重なり,行政整理,官吏の減俸措置は伝統的な王族支配に対する批判を生み,ついに32年文武の若手官僚を中核とする人民党のクーデタ(立憲革命)が発生してタイの絶対王政は終りを告げた。

1932年以降のタイ現代史は,伝統的政治・文化と断絶のないままに,社会・経済的変化に適合する民主政治のあり方を模索した試行錯誤の軌跡である。その営みの困難さは立憲革命後の30年間に繰り返された憲法の改廃が,実に20回を超えるという事実のなかに明らかに示されている。38年までの6年間は,人民党内部における武官派勢力がしだいに増大し,その領袖に推されたピブンが権力を掌握していく過程である。首相の地位についたピブンは,伝統的な国名〈シャム〉を廃し,これを〈自由〉を意味する〈タイ〉に改めるとともに,近代国家の建設を目標に次々と国家主義的政策を打ち出した。太平洋戦争が勃発すると,ピブンは日本の軍事行動に追随したが,日本の軍事的劣勢とともにその勢力は衰え,44年ついに下野し,戦後は戦犯容疑に問われた。しかし,後継の文民内閣が戦後の混乱の収拾に失敗すると,47年のクーデタを契機として再びピブン復帰の動きが現れ,51年には,ピブン独裁体制が再現されるにいたった。ピブンは陸軍,警察両勢力の均衡の上に権力の確立を図ったが,57年,陸軍の指導者サリットのクーデタにより失脚,日本に亡命した。

 首相となったサリットは,憲法を廃止し,行政組織を高度に集権化するとともに,数々の要職を兼任して権力を一身に集中化すると,国家開発を最優先の政治目標に掲げて,意欲的な開発政策を推進していった。100%の外資を認める〈産業投資奨励法〉の改正によって,外国企業が大量に進出したが,工業化の進行とともに首都バンコクの人口は急激に増加し,工場建設によって市域は急速に拡大した。また地方における高等教育機関,テレビ局などの建設は,地方都市の前例をみない発展を促した。63年,サリットが死ぬと,政権はタノム,プラパートPraphat Charusathien(1912-97)という軍の2巨頭によって継承された。タノム=プラパート内閣は,世論の圧力に抗しきれず68年にいたってようやく憲法を施行し,翌年選挙を実施したが,内外の政治・経済情勢の変化に伴い緊張が高まると,71年再びクーデタに訴えて全権を掌握し,事態の収拾を図った。しかし73年の憲法制定要求を契機として,タイ国史上初の学生蜂起が発生し,腐敗したタノム=プラパート政権はついに瓦解し,同年10月14日,タノム,プラパートはともに国外へ亡命を余儀なくされた。

 〈民主化の時代〉と呼ばれる73年10月14日以降の3年間は,学生運動の活性化,農民運動の組織化,労働争議の頻発によって特徴づけられるが,それはまた,石油価格の暴騰によるインフレーションの激化,ベトナム,ラオス,カンボジアにおける社会主義政権の成立と王制廃止という激動の時代でもあった。こうした内外の情勢の展開に対応する国内秩序の混乱に危機感を覚えた軍人官僚は,開発優先政策の生んだ保守的な都市新興ブルジョア階級の支持を背景に,〈ナワポン〉などの疑似大衆右翼組織を動員してしきりにタイ社会主義化の危険性を宣伝するとともに,76年10月6日には,学生のデモ隊に大弾圧を加え,クーデタに訴えて〈民主化の時代〉に終止符を打った。

 〈民主化の時代〉は短命に終わったが,この間に代表民主制への道が開かれたことは,その後の政治の動きを規定する重要な点として見のがすことはできない。とくに経済人の政治への直接参加要求は,それまでのタイにまったくみられない現象として注目される。きわめて反動的なターニン極右内閣(1976年10月~77年10月)が,わずか1年で退陣を迫られたのも,経済規模の拡大を背景としてしだいに社会的発言権を増した経済人の官僚批判を,従来のように強権をもってかわすことがもはや不可能となった状況を示している。78年以後,軍部内に〈民主軍人グループ〉が形成され,軍部主導による民主革命の宣伝を開始したことは,こうした状況に対する軍部の新しい対応の一つとみられる。政治意識に目覚めた経済人は,批判勢力に甘んぜず,みずから政党を結成して政界に進出した。1974年に結成された社会行動党やタイ民族党のような軍部に拮抗しうる実力を備えた新政治勢力の台頭は,軍部と資本家政党の政治権力をめぐる対立というタイ政治史上初の図式を現出させている。
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1980年3月,プレーム(1920- )国防相兼陸軍司令官が首相に就任した。プレームは軍をバックに,自らは国会議員ではないものの,国会の多数派の支持を獲得し,国王の信任も厚く,長期安定政権を築いた。88年7月の総選挙後,連立与党はプレームの続投を支持したが,選挙の洗礼を受けていないプレームに対して,民選議員を首相に,との声が盛り上がり,プレームは続投を辞退,8月にタイ民族党のチャートチャーイ(1922- )が首相に就任した。12年ぶりの民選首相であった。チャートチャーイ政権は,軍部の政治介入を薄める憲法改正を実現させ,インドシナ各国との関係改善をはかったが,軍部との対立が激化した。91年2月,軍がクーデタを起こし,同年12月,軍主導で新憲法が制定された。92年3月の総選挙後,スチンダ国軍最高司令官が退役して首相に就任したが,民主化運動に対する軍の発砲が流血事件を招き,スチンダは2ヵ月で辞任を余儀なくされた。同年9月,改めて総選挙が行われ,民主党のチュアンを首相とする5党連立政権が発足,政治の民主化と経済の自由化に取り組んだ。95年7月の総選挙の結果,バーンハーン連立政権が誕生したが,スキャンダルで解散に追い込まれ,96年11月の総選挙をへてチャワリット連立政権が成立した。しかし,チャワリット首相は経済運営の失敗から97年11月に辞任し,チュアン元首相が首相に就任した。

 現在の憲法は97年9月に国会で採択され,10月に国王が署名して発効した。間接選挙で選ばれた市民代表や学者で構成される新憲法起草委員会が草案をまとめたもので,旧憲法に比べて民主的な条項が数多く盛りこまれている。国会は上院,下院の二院制で,上院は任命制から直接選挙制となり,下院には小選挙区比例代表制が導入された。閣僚の資産公開の義務化,国家腐敗防止委員会,憲法裁判所,行政オンブズマンの設置などが特徴となっている。
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1855年にタイのラーマ4世王とイギリスとの間で締結されたボウリング条約を皮切りに,タイは次々と欧米諸国と通商条約を結び,世界貿易ネットワークへ統合されると同時に,急速に商品生産社会へと変容していった。すなわち米,スズ,チーク材などをヨーロッパや香港,シンガポール経由でアジア域内に輸出する一方,綿糸布や雑貨,機械類をヨーロッパやインドから輸入する貿易構造が定着した。この過程で当初は,ヨーロッパ系商会が貿易,精米,製材,海運,保険を独占したが,20世紀初頭からは,精米と米輸出を基盤に華僑・華人が台頭し,彼らはのち銀行,保険,海運業にも進出して多角的なライス・ビジネスを展開した。

 1932年の立憲革命ののち,新しい政府は王室や華僑,外国人の経済活動を制限する方針をとり,とりわけピブンが首相になった38年末以降からは,政府が経済活動に直接介入するに至った。国営・公企業を設置して精米,貿易,金融業の管理運営を図ると同時に,既存のヨーロッパ人,華僑が所有する製造企業を買収,統合して政府直轄の工場に変えたり(タバコ,マッチ,なめし革),あるいは新規の製造工場を設立した(織布,製糖,製紙)。政府による経済運営は第2次大戦の混乱で一時中断するが,47年のクーデタで政権に返り咲いたピブン政権がこの方針を再度推進していった。すなわち製造業を中心に国営・公企業を新設し,既存の華人事業を業種毎にシンジケート(サハ)に再編して統轄した。一方,中国革命以後のタイ政府による中国人抑制政策に危機意識をもっていた華人たちは,自分たちが所有・経営する銀行,保険,商事会社の会長や役員に軍閥の指導者を招聘し,事業の保全と利権の獲得を図ろうとした。こうして政府や軍指導者と有力華人グループの間に利権追求の協力体制が生まれ,そのことが国民経済の非効率性と停滞を引き起こす結果となった。

 58年に登場したサリット政権は,政府による経済運営や経済ナショナリズムの方針を放棄し,外国人を含む民間企業の投資を奨励することで,本格的な工業化と経済開発政策に着手した。〈国の開発〉をスローガンに掲げたサリット首相は,投資委員会の設置,経済開発五ヵ年計画の導入,国家教育会議の設置と義務教育の拡充,道路・電力などを中心とする産業インフラストラクチャーの整備,地方開発など,一連の政策を実施に移していった。首相,開発大臣,陸軍司令官,警察長官を兼任するサリットは絶大な権力をもち,〈独裁者〉の代名詞となったが,他方では現在につながる〈開発体制〉の枠組みと成長志向の社会をタイにもたらしたと言える。

 73年10月の〈学生革命〉でサリット政権以来続いた軍事政権は倒壊し,学生や労働運動の昂揚,石油ショックなどで,タイの政治と経済は深刻な混乱に陥る。しかし原油価格の引上げとともに生じた国際的な一次産品ブームに乗って,米,天然ゴム,タピオカ,砂糖の輸出金額が増大し,さらに80年代に入るとブロイラー,養殖エビ,ツナ缶詰などのアグロインダストリーの輸出が伸びた。農水産物やその加工品の輸出を伸ばしつつ,他方では繊維,自動車組立,鉄鋼二次製品などの輸入代替化を進めるというユニークな工業化,すなわち〈農産物関連新興国(Newly Agro-Industrializing Country)〉としての発展を遂げていった。ただし,80年代初めの一次産品ブームの終焉により輸出は次第に停滞し,タイ湾の天然ガスを利用した石油化学プロジェクトなどの公的借款の増加が引金となって負債比率が上昇し,80年代半ばにタイ経済は工業化を開始して以来最初の不況を経験した。

 これに対して88年に登場したチャートチャーイ政権は,85年のプラザ合意以降の円高による未曾有の外国人投資ラッシュに助けられて,一連の経済拡大政策をとった。輸出企業に対する投資優遇,棚上げにしていた重化学工業プロジェクトの推進(石油化学,鉄鋼一貫,自動車エンジン),地方経済の振興,産業と金融両分野の規制の緩和などがそれである。その結果,88年を契機にタイは不況から一転して〈経済ブーム〉を経験し,2桁の成長率,繊維・衣類,電子部品など工業製品輸出の急増,民間製造企業の労働力雇用の急増を実現した。半面,このブームは無秩序な不動産投資,株式投機,ローンに頼った個人消費を併発させ,経済にバブル的性格を付与すると同時に,バンコクや地方の都市部と農村の間の所得格差を拡大した。

 一方,92年から始まった金融の自由化政策は,国内外の金融機関の貸付競争と海外からの短期的投機的資金の大量流入を誘発し,金融面では過剰流動性が,生産面では過剰投資が生じた。その結果,金融統制を転機に金融機関の不良債権問題が顕在化し,国内投資と消費が減退する一方,ブームの中で生じた労賃の上昇によって労働集約的なアグロ製品や衣類・雑貨の輸出が低下した。そして97年7月のバーツの大幅切下げと管理フロート制への移行が引金となって,タイ経済は通貨不安,金融不安,深刻な国内不況に直面するに至った。60年代以降続いてきた成長パターンは,ここにきて全面的な見直しと〈構造調整〉を迫られているのである。
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日・タイ間の交渉は朱印船貿易で活発となる。17世紀のアユタヤには日本人町(南洋日本人町)ができ,山田長政が活躍した。しかし江戸幕府の鎖国政策で往来は途絶え,日・タイ友好通商条約が締結されたのは1898年(明治31)であった。政尾藤吉らの渡タイなどの文化交流期を経て,太平洋戦争が勃発(ぼつぱつ)すると日本軍が進駐し,それに反対する人々は国外で自由タイの運動を展開した。戦後1947年に再開された日・タイ間の貿易は急速な伸びを示したが,タイ側の大幅な入超がつづいており,日本資本の進出も外国資本の40%弱を占めるにいたった。このような状況のなかで,72年以降,全国タイ学生センターを中心とする日本商品不買運動も,しばしば展開されている。
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タイ族が文字をもったのは13世紀末であるが,タイ語が単音節的で5声調と百数十の韻をもつことが種々の詩型を生み,韻文が古典文学の主流を占めた。インド文化,とくに仏教とバラモン教の影が濃く,主人公の多くは王族である。

 スコータイ朝の作品には特筆すべきものがない。17世紀初めまでのアユタヤ朝初期には,タイ古来の詩型であるラーイ詩とクローンkhlong詩を混ぜたリリット形式の国王賛歌《チエンマイ敗る》,悲恋詩《プラロー》が生まれ,パーリ語から《布施太子本生経》が《マハーチャート》として訳された。ナライ王時代(1656-88)は前期黄金時代で,詩型もカープ,クローンklon,クローンkhlong,チャン,ラーイと華やかになり,王自身の四つの小品をはじめ,《海鳴王子》《牛虎》,詩作宝典《宝珠篇》などが出た。このころの代表詩人は,王宮の美人に懸想して南タイに流謫(るたく)される道中をつづった《悲歌》のシープラートであろう。アユタヤ朝後期(1732-67)にはカープやクローンklon形式の詩劇が盛んになり,20編以上創作された。ジャワ伝来の《イナオ》の原形もモンクット姫の手でなっていた。当時の最高の詩人は,多くの美しい恋歌,旅行詩,舟歌を残しながらむち打たれて死んだ悲恋のエビ王子(1715-55)であろう。アユタヤ朝は1767年ビルマ軍によって滅ぼされたが,そのとき多くの貴重な作品が灰に帰した。残巻中の詩劇には《マノーラー》《法螺貝王子》《カーウィー》など14編があるが,《クライトーン》など6作もすでにあったと思われる。

 ラタナコーシン朝のラーマ1世時代(1782-1809)には古代インドの叙事詩《ラーマーヤナ》のタイ版《ラーマキエン》が王宮で合作され,チャオプラヤー・プラクランはモン語から《王中の王》を,また王命により《三国志演義》を《サームコック》と題して訳した。後者は散文の規範とされ,インド風の物語に食傷気味だった文学界に清新な風を呼び込み,以後三十数編の中国歴史小説が訳された。現行《布施太子本生経》のクライマックスの二つの章もこの人の筆による。ラーマ2世時代(1809-24)はタイ文学の精華の時代で,宮廷には王やのちのラーマ3世をはじめ,市井の語彙を駆使して文学を大衆化したタイ最高の詩人スントーンプーら一流の詩人が集い,けんらんたる舞踊歌劇の傑作《イナオ》や純タイ的でタイ文学史上最,傑作《クンチャーン・クンペーン》が競作され,《法螺貝王子》《クライトーン》など多くの詩劇が完成された。個人の作としては最大のロマン《プラアパイマニー》(スントーンプー作)が完成したのはラーマ3世時代(1824-51)であろう。このころ,10年をかけて英雄ナレースエン王(在位1590-1605)賛歌の名作《タレーンパーイ》を書いた僧籍のパラマーヌチットチノーロット親王(1790-1853)は,《布施太子本生経》の約4割を名調子で書いている。

 19世紀半ばから印刷が始まり新聞が発刊され,ヨーロッパに赴くタイ人が増え,1868年チュラロンコンが即位して文明開化期に入ると,散文全盛時代となったが,作家の生活は苦しく,現代文学にはまだ不朽の大傑作はなく,映画とテレビの普及は舞台演劇をも弱体化してしまった。
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歴史を通じてこの国の美術はおもに仏教に奉仕した美術であるが,そのほかにヒンドゥー教の美術も含む。タイ国美術史は一般に大きく二つに分けて論じられる。一つは〈先タイ期〉と称し,タイ族が今日のタイに南下して移住してくる以前の先住民族たちの美術をさす。もう一つは〈純タイ期〉と呼び,タイ族が南下・移住し,タイに定住して以降の美術をさす。タイ美術の一般的特徴は,歴史を通じて,古い時代にさかのぼればさかのぼるほど,その性格がインド的であるという点にある。インドからの影響を濃厚に受けながら育ち,それがしだいにタイ独自の美術に発展していったのである。

 先タイ期美術はドバーラバティ期,スリウィジャヤ期,ロッブリー期に分けられる。先のドバーラバティ期とスリウィジャヤ期はほぼ同時代の美術であるが,栄えた地域が違う。前者はタイ中部を中心に,後者はタイ南部に開花した美術である。いずれにせよ,この両者はともにインド美術からの影響を濃く受けている点で一致している。ドバーラバティ美術の特徴は,ドバーラバティ王国がおもに上座部仏教を信奉したため,釈尊の像だけがつくられたことである。それらはおもに石灰岩でつくられ,全体的な作風はインドのグプタ朝時代のサールナート美術の流れをくむものであった。このほか南インドのアマラーバティー美術の流れをくむ像もある。これらの仏像はおもにナコーンパトムから発見されたが,ここからは法輪(石灰岩製)も多く出土している。仏像も法輪も,おもに7~8世紀のものと思われる。スリウィジャヤ期美術は大乗仏教美術で,チャイヤーを中心に栄えた。この期の代表的な作品として,チャイヤーより出た青銅製の観音像(トルソー)があげられる(バンコク国立博物館蔵)。これもインドの後グプタないしパーラ朝美術からの影響を感じさせる尊像である。ロッブリー期(11~13世紀)美術は,先の二つの美術の後の時代にくるクメール族の美術である。大乗仏教(密教)とヒンドゥー教美術が共存し,カンボジアに栄えたアンコール朝(9~15世紀)の美術がタイに浸透し,その政治的な支配の下で生まれた。とくに蛇の上に座った宝冠仏が多くつくられ,青銅製の諸仏(小型の作品)も多産された。このころの重要な遺跡として,タイ北部のピマーイ寺院があげられる。クメール族のタイにおける中心地がロッブリーにあった関係から,ロッブリーも当時の遺構や出土品が多い。

 純タイ期美術はスコータイ期,アユタヤ期,バンコク期に分けられる。これらはすべてスリランカより伝えられた上座部仏教美術である。したがって仏像は,釈尊にのみ帰依するために釈尊の像しかつくらないのを特徴とする。スコータイ期(13~15世紀)は,この期に初めてタイ美術の基礎が確立されたため,一般に〈古典期〉と称している。この美術はスリランカの美術からの影響を受け,スリランカ風の仏像がつくられた。とくにこの期で注目される作品は,歩く姿を丸彫によって表現した遊行仏である。これはタイ美術が世界に誇りうる独創といえる。またこのころ,のちに日本にも輸出されて宋胡録(すんころく)焼の名で親しまれた陶器がつくられた。アユタヤ期(14~18世紀)の美術は,一般にタイの国民美術の時代といわれる。仏像はスコータイ期の継承で,とくに体中に装飾をほどこした宝冠仏が多くつくられた。工芸美術の面にもみるべきものが多く,たとえば漆細工や象嵌細工にタイ美術独自の世界を現出した。バンコク期(18世紀末~)は,ラタナコーシン(バンコク)朝の美術で,やはり前代の美術を継承しているが,新たに西洋からの写実的な表現法の影響がみられる。仏教寺院の壁画にすばらしい作品が多く,たとえば,バンコク国立博物館のプッタイサーワーン礼拝堂の仏伝図(18世紀末作)があげられる。
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タイはカンボジア,ラオスとならび,インドシナ半島を代表する音楽文化をもっている。理論的にはインドの音楽から多くの影響を受け,また中国の音楽ともかかわりが深いが,直接的にはクメール文化の影響を色濃く受けている。

 (1)古典音楽 アユタヤ朝時代に宮廷の保護を受けて発展したもので,多くはコーン(仮面劇)やラコーン(舞踊劇)のような古典芸能と結びついている。伴奏には〈ピー・パート合奏〉(主旋律を奏するゴング系の打楽器コン・ウォン・ヤイに,ピーというダブル・リードの縦笛と太鼓などのリズム打楽器を加えたもので,楽器の種類,数により大小の編成になる)が用いられる。(2)宗教儀式音楽 仏教徒の多い民衆の日常生活に密着したもので,儀式にはピー・パート合奏が普通である。(3)民俗音楽 民謡など,地方の音楽については,ようやく研究の緒についたばかりで,実態はまだ明らかではない。各地で民謡の掘起しが行われており,その一部は舞踊公演などでも取り上げられている。こうした歌や踊りには,伝統的で素朴な器楽合奏や民俗楽器(ケーンなど)が用いられる。そのほか,山間部にはミヤオ族,カレン族,ヤオ族など多くの少数民族が住み,それぞれ素朴な民俗楽器を用いて音楽の伝統を保持している。北部タイの民俗楽器によるウォン・プーン・ムアンと呼ばれる器楽合奏がこの十数年来新しく見直されている。また親から子へ伝えられた100種以上の子守歌が今日でも歌われている。(4)その他 ポピュラー音楽では,西洋音楽,日本の音楽など,外来の音楽を積極的に取り入れ,タイ風に消化している。また,冠婚葬祭などの機会にも音楽は生活と切り離すことができない。こうした結婚式や宴会などには,クルアン・サーイ合奏(弦楽器を中心に笛とリズム楽器を加えたもの)やマホーリー合奏(ピー・パートとクルアン・サーイにルバーブ系統の3弦の楽器を加えた規模の最も大きい器楽合奏)が用いられる。このほかに,簡単なラム・ウォン(輪踊)も盛んで,祭りのときには必ず踊られるといってもよい。

 音楽形式の中で大きなものはタオと呼ばれるもので,基本の旋律型を段によって発展させていき,ここでは各楽器の個性が生かされ編成も多様である。もう一つはタプと呼ばれ,西洋音楽での組曲のように,いろいろな性格をもつ旋律や小曲を組み合わせていく。また音楽理論上の特徴としては,リズムは主として2拍子で,5音音階によるものが多い。本来,タイの音階は7等分平均律であるといわれてきたが,実際には,5音が主であり,第4音,第7音についても,絶対的な高さではなく,曲によって自由に高低がつけられる。
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タイ (鯛)

狭義にはマダイを指すが,マダイを含めたスズキ目タイ科Sparidae(英名sea bream)の海産魚を総称することもある。マダイPagrus major(英名porgy)は体長1mに達するものもある大型の海産魚で,赤褐色の体に鮮やかな青色の小点を散りばめた美しい魚である。寿命も長く,30年以上も生きるものがある。体型ももっとも魚らしい魚として親しまれ,古くから重要な食用魚であり,貝塚からも大量の骨が発見されている。めでたい魚として,祝いの席には欠かせないものとされてきた。また,マダイがめでたい魚であり,もっとも魚らしい魚であるとされたため,これにあやかり,名の一部にタイとつくものが多い。アマダイ,ブダイ,キンメダイ,メダイ,イボダイ,スズメダイ,アコウダイ,ハマダイなど300種近くにのぼり,日本産魚類の1割にあたる。しかし,これらの魚は生物学的にタイ類とはまったく異なっており,体色,体型,生活史などさまざまなものが含まれている。

 マダイはこのように人間の生活に深く入り込んできたため,地方名はなく,日本中タイまたはマダイと呼ばれるほかは,成長名,季節名,品質や産地名などがあるだけである。成長名には東京のマコ→オオマコ→チュウダイ(中鯛)→オオダイ(大鯛)→トクオオダイ(特大鯛)などがある。季節名はサクラダイ,ムギワラダイなど。これはそれぞれマダイのしゅんが桜の咲く季節であり,このとき産卵前のもっとも鮮やかな体色をした美しいときであることと,麦の実る季節には産卵期も終わり,体色はくすみ,味がもっとも落ちるときであることを示している。品質名としては生きているイキダイ,活けじめにしたシメダイは高価であり,いけすに置きすぎるとあげてまもなく眼がくぼむので長崎でメヌケダイと呼んできらう。

 マダイは日本各地,朝鮮半島,中国,東南アジアにかけて分布している。沿岸性の魚で,水深30~150mの起伏に富んだ岩礁域か砂れき底で,潮通しがよく,沿岸水の影響が強く,冬季水温が8~15℃くらいの場所に多くすんでいる。マダイは冬季,深みの岩礁について越冬するが,春,水温の上昇とともに冬眠状態からさめて産卵にかかる。産卵期は地域によって異なり,和歌山県,徳島県では3月下旬~5月上旬,黄海や渤海で4月下旬~5月中旬,青森で5~6月である。産卵場の条件としては,浅い砂底で,近くに親の隠れる場所があり,孵化(ふか)した仔魚(しぎよ)の育つ藻場があることなどである。産卵は日没から数時間以内に行われる。まず数尾の雄が1尾の雌を追い,水面に追いあげ雌が横倒しになったところで一団となって放卵放精が行われる。卵は球形の分離浮遊性卵で,直径は約1.0mmである。1尾の雌は体重1kgで約30万粒,体重6.2kgのもので約700万粒の卵を何度かに分けて産む。孵化後3日で卵黄を吸収しつくした仔魚は体長約3~4mmであり,単細胞生物や小型橈脚(じようきやく)類(コペポーダ)を食べるようになる。体長10mmを超すころに着底し,藻場で生活し,橈脚類,ヨコエビ,ワレカラなどを食べるが,体長3cmを超すとワレカラ,多毛類,エビ,二枚貝,ヒトデなどを食べるようになる。9月ころにエビ場に移りエビなどをよく食べる。11月下旬には岩礁域に移り,エビ,多毛類,アミなどを食べるが,やがて深みで冬眠状態となる。再び春になると沿岸の浅所へ移り,秋には深みに移動する生活を繰り返す。成魚はカニ,貝類,エビ,タコなどを食べる。

 年齢や成長には地域による差があるが,これは水温との関連が推定されている。一般的な成長は,満1歳で体長8.5~15cm,3歳で23~34cm,4歳で27~43cm,10歳で50~60cmである。満4歳で成熟するものが多い。

 瀬戸内海ではかつて〈浮鯛漁〉が有名であった。これは急激な海水の流れによってうきぶくろの調節機能が十分働かず,タイが水面に浮く現象を利用するもので,かつてはこれを専門にとる漁業もあったが,近年ほとんど見られない。また千葉県鯛ノ浦は船からの合図により,1m近い大ダイをはじめ多数の魚が集まってくることでよく知られている。これは,長年船からの音で集まった魚に餌を与えたことによる条件反射によって集まってくると推測されている。

重要魚であるため一本釣り,はえなわ,定置網,底引網,吾智網,追入網など,地域によってさまざまにくふうされた多くの漁法がある。おもな漁場は瀬戸内海とその周辺海域,日本海沿岸,黄海,東シナ海,本州太平洋岸中部などである。春にもっとも美味であり,産卵後にあたる初夏以後のものは味が落ちる。刺身,塩焼きなど多くの料理法がある。

 近年,親魚から受精卵をとり,仔魚を育成して放流する増殖事業が全国各地で行われている。また,卵または幼魚から育てるいけす養殖も盛んに行われている。しかし,長期間いけすで飼育したものでは体色が黒っぽくなり価格が下がるため,甲殻類を与えて赤みを出すなどの努力もはらわれている。

日本産タイ類にはマダイのほか,チダイクロダイキダイヘダイヒレコダイなど10種が知られている。いずれも沿岸性の海産魚で,水産上重要種が多い。とくにチダイ,キダイはマダイの代用品とされることも多い。また,近年アフリカ大陸周辺海域など,各地から多量のタイ類が底引網により漁獲され,冷凍魚として輸入されている。
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鯛は姿も味もよいので日本では魚の王として珍重されるが,こうした評価は《本朝食鑑》(1697)が〈鯛,本朝鱗中之長,形色俱可愛〉としたあたりに始まる。もちろんその美味は古くから認められてはいたが,中世までの京都で生鮮品を味わうことはきわめてむずかしく,それが鯉を至上の魚とし,鯛をその下風に立たしめたゆえんであろう。近世に入ってその評価が逆転し,鯛は最高の魚とされるようになったが,それには鯛が“めでたい”に通ずるといったこじつけが行われ,縁起のよい魚とされたことも大きな理由である。こうして祝膳には尾頭付きの鯛が欠かせぬものとなり,正月には干鯛2尾を結び合わせてかまどの上や門松に掛ける懸鯛(かけだい)の風習なども生じ,〈壱枚の代金壱両弐歩づつ,しかも尾かしらにて壱尺二三寸の中鯛なり〉(《日本永代蔵》)といった法外な高値が見られたこともある。料理としては刺身,塩焼き,潮汁,ちりなべ,蒸物,あら煮など,頭やあらまでを用いてさまざまに使われるが,1785年(天明5)刊の《鯛百珍料理秘密箱》には同工異曲のものが多いとはいえ,99種の料理が紹介されている。産地としては古来摂津西宮(現,兵庫県西宮市)や播磨の明石(現,兵庫県明石市)などが有名で,西宮の海,あるいはより広く大阪湾を含めた海域でとれたものは西宮戎(にしのみやえびす)(西宮神社)の前の鯛の意で,〈前の鯛〉〈前の魚(うお)〉と呼ばれて珍重された。なお,江戸には〈活鯛屋敷(いきだいやしき)〉と呼ぶ施設があった。大きないけすを設けて公儀御用の高級魚を生かしておいた〈肴役所(さかなやくしよ)〉を俗称したもので,場所は魚河岸に隣接する江戸橋広小路の一角,今の中央区日本橋1丁目に属する江戸橋西詰の北側であった。
コイ
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鯛は魚類の中の王として祝膳の中心食品として賞味されてきた。大位などの文字をあててめでたい魚とされるのは,その紅色の色彩とともに福神である恵比須神の抱く魚として,縁起ものと考えられたためであろう。古代には主として西日本の沿岸諸国から貢物として,干鯛の形で京都に送られた。春には産卵のために沿岸近くに寄ってくるが,深海から急激に浅い場所に潮流で押し上げられると,体内のうきぶくろが膨れて行動の自由を失い,漁獲されやすくなるので,海峡部に好漁場が形成され,瀬戸内海では能地の浮鯛(桜の開花期に群れをなして浮き上がってくる鯛)などが名高い。〈腐っても鯛〉とは実質よりも名目,形態を重視する場合に用いられることわざで,落魄(らくはく)した名家の誇り高い態度などを称したものである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「たい」の意味・わかりやすい解説

タイ(国)
たい
Thai

東南アジアの大陸部、インドシナ半島のほぼ中央に位置する国。正称はタイ王国Kingdom of Thailand、旧称シャムSiam。西から北にかけてミャンマー、北から東にかけてラオス、南東はカンボジア、南端はマレー半島中部でマレーシアと、それぞれ国境を接し、南はタイランド湾に臨む。国土の形状は斧(おの)あるいは象の頭に類似するといわれる。面積51万3115平方キロメートル、人口6091万6400(2000)。首都はバンコク(現地名クルンテープ)。

[友杉 孝]

自然・地誌

タイの地形は、おおまかにみてインドシナ半島をほぼ北から南に向かう平行する山脈の列によって特徴づけられる。この地形的特徴を基盤に、長い歴史をもつ人間活動の結果、タイは、北部山地、首都バンコクのある中央平野、東北部台地、南部のマレー半島の4地域に区分される。

 北部山地は南北方向の高い山脈の列が連なり、タイの最高峰インタノン山(2595メートル)もここに位置する。山脈と山脈の間にチエンマイ、チエンライ、ナン、ランパンなどの小盆地が形成され、山に囲まれた地方色の強い地域が歴史的にできあがった。これらの盆地と盆地の間を遮る高い山地を刻む河谷を利用して、古くから交通路も発達した。盆地は周辺山地から流出する河川による扇状地でもあり、伝統的な灌漑(かんがい)水利体系が発達し、タイでもっとも生産性の高い集約的農業が営まれる。水田稲作を主体にし、ゴマ、タバコ、ニンニク、大豆なども稲の後作として栽培される。北部山間盆地から南下するピン川、ワン川、ヨム川、ナン川の4河川が合流してタイ最大の河川チャオプラヤー川(通称メナム川)となる。ピン川にプーミポン・ダム、ナン川にはシリキット・ダムが建設されている。

 タイ中部は北部山地からの河川が順次合流してチャオプラヤー川となる地域で、山地は平野へと推移する。推移地域では東西の山地が狭まり河川は常習的に氾濫(はんらん)する。稲作は不安定であるが、深水にも堪える水稲種が経験的に栽培されている。本流河川に向かって開く支流の扇状地では水稲を主とし、水利の悪い土地ではワタなど畑作も行われる。この推移地域では古くから集落形成があり、タイ古代王朝スコータイもこの地に成立した。チャオプラヤー川流域はチャイナートで広く東西に開け大平野となる。タイ中部の大部分を構成するチャオプラヤー・デルタである。第二次世界大戦後、世界銀行からの借款で、チャオプラヤー・デルタの頂点に位置するチャイナートに農業用の大型ダムが建設された。チャオプラヤー川をせき止め、それまで水不足で悩んだ地域に農業用水を安定的に供給するためである。これがタイ農業発展の基盤となった大チャオプラヤー計画である。

 チャオプラヤー・デルタは古デルタ(デルタ上流部)と新デルタ(デルタ下流部)に分けられる。古デルタは古く陸化した土地で、長大な自然堤防と後背湿地で特徴づけられる。古デルタの都市と村落はすべて自然堤防上に立地する。毎年の河川の氾濫は自然堤防を越えて背後の後背湿地に流入し、人工灌漑を必要としない水稲耕作地域を形成している。この地方で栽培される稲は、深水に十分に堪える品種で浮稲といわれ、水面の上昇にしたがって穂先を伸ばし、茎は3~5メートルにも達する。稲の見回りは舟で行い、河川は同時に交通路でもある。第二次世界大戦後に至るまで、陸上交通の発達は著しく遅れ、舟は住民の足に等しかった。しかし、河川の氾濫は毎年規則的に起こるから農業生産は安定していた。古都アユタヤは古デルタと新デルタの境界に立地する。海岸から約80キロメートル離れたこの地の近くまで潮汐(ちょうせき)の影響がみられる。

 新デルタはアユタヤより海岸に至る広大な地域で、現在も海に向かって拡張しつつある。地形的特徴は、まったく平坦(へいたん)であること。海岸に向かう勾配(こうばい)は1キロメートルにつき2センチメートルにすぎず、降雨があればすぐに水浸しになり、なかなか排水されない。すなわち、古デルタと比較して、新デルタは現在陸化しつつある地域である。新デルタの開発は比較的新しく、19世紀後半以降、水路が縦横に掘られ、水稲耕作地の拡大が図られたのと同時に、新しい集落も形成された。現在はタイ第一の穀倉である。首都バンコクはチャオプラヤー川をまたいで立地し、その近郊には近代工場が多く立地する。タイ第一の工業地帯で、経済活動がもっとも活発な地方である。タイ全土を結び付ける交通網も、バンコクを起点に新デルタを横切って各地に通じている。

 タイ中部の東端はペチャブン山脈、ドンパヤジエン山脈で突然遮られる。これらの山脈は歴史的にタイ中部とタイ北東部を分断してきた。山脈の西側は急峻(きゅうしゅん)な山地で、繁茂する森林はマラリア蚊の生息地である。東側はなだらかな起伏を繰り返して東に傾く大きな台地で、タイ全土の約3分の1を占める。台地上の水はムン川、チー川の2河川に集まり、タイ北東部の東端を限るメコン川に注ぐ。メコン川はタイとラオスの国境をなすが、同時に、二つの国家に分かれて生活している人々を結び付けている。起伏する台地の中の低地は水田で、高地は疎林で覆われるが、人口増加に伴って疎林地域の水田化が進みつつある。水稲耕作のほかに畑作、畜産も行われる。タイ中部の稲作に不可欠であった水牛の大部分は北東部より供給されていた。

 タイ中部の西端はタノントンチャイ山脈でミャンマー国境に至る。この山脈は南に続きマレー半島に連なってタイ南部を形成する。マレー半島の狭窄(きょうさく)部のクラ地峡では、タイランド湾とアンダマン海を直接に連結するクラ運河をつくる計画があった。南シナ海とインド洋の間の距離を一挙に短縮する大構想である。タイ南部の大部分は山地であるが、タイランド湾に面する東側では海岸に接して小規模な海岸平野がいくつか形成されていて、自給的色彩の強い水田耕作が行われる。しかし、西側では山地がすぐに海に落ち込み、ほとんど海岸平野は存在しない。タイ南部の伝統的産物は錫(すず)で、近代にゴムが加わった。漁業も重要な産業である。

 タイの気候は、大まかにみれば国土全体が熱帯に位置することと、モンスーンの影響下にあることで決定される。気温は年間を通して日中最高気温は20℃を超え、年格差は少ない。しかし1日の気温変化はかなりあり、早朝は涼しい。年間を通じて気温変化は乏しく単調であるが、降水量は激しく変わり、季節はモンスーンで決められる。毎年ほぼ規則的に訪れるモンスーンは降雨、あるいは冷涼な大気をもたらす。雨を運んでくる海洋からの南西モンスーンは5月から10月まで続き、この時期が雨季となる。5月に入ると、乾燥しきった大地が降雨でよみがえり、その年の水田耕作が始まる。11月から2月までは大陸からの北東モンスーンで、大気は乾燥し涼しく、乾季となる。雨季の雨で熟した稲の刈り取りの時期である。3月、4月は暑季で、5月の南西モンスーンの到来を人々は待ちこがれる。水稲耕作だけでなく祭りや宗教行事などもモンスーンによる季節と不可分である。水田耕作の開始前の4月に、タイ最大の祭りソンクラーが催される。人々が水をかけ合って騒ぎ興じる水かけ祭である。農作業が一段落して刈り取りを待つ7月から10月までは、僧侶(そうりょ)が寺院にこもって修行する雨安居(うあんご)である。若い男子が一時出家する時期でもある。刈り取り後、多くの寺院で行事があり、人々は地方芝居、ボクシング、映画など娯楽に興じる。このように地形や気候などの自然条件を巧みに利用して人々の生活は成り立っている。

[友杉 孝]

歴史

タイ人の起源は明らかでないが、紀元前、中国江南の地に居住していた哀牢(あいろう)がタイ人ではないかとされ、ついで7世紀から9世紀にかけて雲南の大理(だいり)に成立した南詔(なんしょう)はタイ人の国家とされる。やがてタイ人は中国南部からインドシナ半島各地に、南北方向の山脈の間を縫う河谷に沿って水田耕作を行いながら、長い期間にわたって徐々に移動した。11~12世紀には各地でタイ人の活動が歴史に記されるようになり、13世紀にはタイ人の国家が各地で形成された。チエンセン、チエンマイ、ルアンプラバン、アホム、スコータイなどの諸王国である。なかでも1238年クメールを破って建国されたスコータイ朝は現在のタイ国家の起源とされる。スコータイ朝は3代目のラーマカムヘン王の時代に最盛期を迎え、版図はマレー半島にまで及んだ。クメール文字からタイ文字をつくり、スリランカから上座部仏教(小乗仏教)を招来するなど先進文明を積極的に吸収して国家の内実を整えた。スコータイ朝の活発な海外交易の一端は、日本に伝来した磁器宋胡録(すんころく)(タイ中部の地名スワンカロークに由来する)にも表れている。スコータイ朝と並んでチエンマイではランナータイ王国が興り、メンライ王が威勢を振るい、その統治はメンライ法典によって現在に伝わっている。

 1351年、タイ中部のアユタヤにアユタヤ朝が誕生した。アユタヤ朝は、やがて北のスコータイ朝を支配下に置き、南は遠くマラッカまで勢力を伸ばした。東はアンコールを攻撃してクメールを脅かし、西はビルマ(現ミャンマー)と死闘を繰り返した。先進国クメールから捕虜としてバラモン僧、官僚、技術者を大ぜいアユタヤに移住させ、進んだ文明の摂取に努め、洗練された宮廷儀礼、整備した行政制度をつくりあげた。宗教による王権の正当化も図られ、国王を超越者とし、王族、貴族、一般民衆の社会的地位を水田面積の大きさで表示するサクデイナ制度が成立した。アユタヤ朝は強大な勢力を周辺地域に誇ったが、ビルマとの戦争に敗れ、1569年アユタヤも攻め落とされた。しかし1584年中興の祖ナレースエン大王がビルマ軍を破り、タイの独立を取り戻した。アユタヤ朝時代も海外交易は盛んで、アユタヤにはポルトガル、オランダ、イギリス、中国、日本などから多くの商人が取引のために集まり、東南アジアの交易中心地となった。ヨーロッパから中国、日本に至る交易路でもあった。日本人町も形成され、日本人は外国人傭兵(ようへい)としても働いた。フランスはカトリックの布教活動を始めたが、布教活動はタイ人の反発を招き、1688年フランス勢力は国外に放逐され、アユタヤ朝はヨーロッパ諸国に対して鎖国政策をとることになった。やがてアユタヤ朝の勢力も衰微し、1767年ビルマとの戦いに敗れ滅亡した。現在、宮廷、寺院跡が廃墟(はいきょ)として残っている。

 しかしビルマによる占領は長く続かなかった。中国系将軍タークシン(中国名鄭昭(ていしょう))がすぐに軍隊をまとめてビルマ軍を破り、タイは独立を回復した。1768年、戦火に焼かれたアユタヤを捨てて、チャオプラヤー川下流右岸のトンブリー(バンコクの対岸、大バンコクの一部に含まれる)を都とし、自ら王位についた。タークシン王はビルマの重圧をはねのけ、タイの勢力をラオス、カンボジアにまで広げたが、1782年精神に異常をきたしたとされて処刑された。部将チャクリが王位につき、都をチャオプラヤー川対岸のバンコクに移した。これが現在のバンコク朝(ラタナコーシン朝)の始まりで、チャクリがその始祖ラーマ1世である。ラーマ1世はタイの勢力を大いに拡張し、マレー半島のケランタン、ビルマのタボイまで支配下に置いた。国内的にもアユタヤ朝の慣行復活に努め、旧慣を再構成する法典公布や仏教再興にも力を尽くした。

 しかし、19世紀に入るとヨーロッパ列強の進出が激化し、隣国ビルマはイギリスの植民地になった。学問僧から国王に転じたラーマ4世はヨーロッパの学問、技術の導入に積極的であり、鎖国から一転して開国に踏み切って、1855年イギリスと通商友好条約を結んだ。ラーマ5世(チュラロンコーン大王)は、さらに従来の賦役制度、奴隷制度を廃止して新しい行政制度を導入し、司法、教育制度の近代化も進めた。鉄道、通信事業も推進され、社会のあらゆる方面で改革が行われた。これらの改革はヨーロッパ列強による植民地化を防ぐためのものであった。しかし、イギリスにはマレー半島のケダー、ペルリス、トレンガヌ、ケランタンを、フランスにはメコン川左岸のラオスの割譲を余儀なくされた。

 ラーマ6世、ラーマ7世はともにイギリスで教育を受けた君主であった。しかし1929年に始まる世界不況はタイ経済に深刻な打撃を与え、国家財政は破綻(はたん)した。1932年クーデター(立憲革命)が起こり、これまでの専制君主制から立憲君主制に移行し、憲法が制定された。以後、政治権力をめぐって文官派と武官派が繰り返し争ったが、武官派ピブン・ソンクラームが政権の座についた。第二次世界大戦中は、タイは日本と同盟関係を結び、ピブン・ソンクラーム政権が続いた。一方文官派のプリディ・パノムヨンは地下で自由タイ運動を指導した。

[友杉 孝]

政治・外交

第二次世界大戦後、しばらくは文官派が政権を担当したが、1947年ピブン・ソンクラームがクーデターによって権力をふたたび握った。以後、軍部政権が続き、1957年サリット・タナラットがクーデターで権力を獲得し、強力な指導力によって治安を安定させた。1970年代に入ると民主化を求める声が強まり、1973年、学生が中心になって独裁政治に反対し、サリット政権を引き継いだタノム政権を打倒した。これまでの政権交代が軍事クーデターであったのに対して、初めて学生による革命が実現した。総選挙も実施されたが、政治情勢は安定しなかった。ベトナム戦争の行方をめぐって国際情勢は流動的であり、右翼のテロ行為が続発した。1976年10月、タマサート大学構内に警官隊と右翼勢力が突入し、武力で学生運動を弾圧した(血の水曜日)。この事件後、すぐ軍事クーデターが起こり、ふたたび軍部が政治権力を握った。このような強大な力をもつ軍部をめぐって、諸政党間の連合と対立が繰り返された。1970年代には新興資本家層、中間層を代表する政党が成長したが、保守派や右翼政党も強い勢力を保っていた。学生運動の指導者は一時期森林にこもって反政府運動を行ったが、やがて投降した。ベトナムのカンボジア侵攻、中国・ベトナム戦争の影響により、地下の共産党勢力は衰えた。

 これら政治勢力の抗争を特徴づける一つに派閥がある。派閥の形成・衰退がただちに政治過程の変動に連なり、また派閥内では親分・子分の関係で上下が秩序づけられ、両者は利害関係で密接に結び付いている。長期の軍事独裁政権のため政党政治の発達は遅れた。このような派閥は、政治に限らず、社会のあらゆる分野に広くみられる。

 タイの政体は立憲君主制で、国王が元首である。1932年の立憲革命で専制君主制は廃止されたが、国王に対する国民の信望はきわめて厚く、超越的なカリスマの権威をもつ。したがって、政権交代の方法であるクーデターはかならず国王の承認を得て権力の正当性を示さねばならない。事実、軍事行動には完全に成功しながら、国王の承認が得られないために、失敗に終わったクーデターもあった。国王は国家統合の形式的シンボルである以上に、現実の政治に大きな影響力をもっている。

 議会は、国王が任命する上院と、選挙で選出される下院で構成される。上院は任期6年、2年ごとに3分の1を改任する。下院は任期4年である。首相は国王が任命し、首相、閣僚は下院議員でなくてもよい。

 政党は社会行動党、民主党、国家開発党、タイ国民党、新希望党など多くあり、政治状況に応じていくつかの政党が連立政権を構成する。

 第二次世界大戦前、周辺諸国が植民地化される国際環境のなかで独立を維持したタイは、自国の利益を保持して外交を巧みに展開している。大戦中は日本と同盟したが、自由タイ運動が評価され、対米英宣戦布告を無効として、敗戦国扱いを免れた。戦後、西側陣営の一員として、とくにアメリカと積極的に親密な関係を結び、多くの経済援助を得た。アメリカの東南アジア政策に協力し、1954年設立の東南アジア条約機構(SEATO(シアトー))の本部はバンコクに置かれた。ベトナム戦争でも積極的にアメリカに協力し、アメリカの空軍基地が置かれ、多数のアメリカ軍が出入りした。しかし、共産陣営との関係維持にも怠りなく、ソ連とは1947年以来国交を維持していた。中国とは1975年、ベトナムとも1976年に、それぞれ国交を樹立している。自由主義陣営に属しながら、単純に一辺倒となることなく、社会主義諸国とも適宜に関係を強化あるいは冷却させる。アジア諸国との外交にも力を入れ、とくに1967年結成の東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))には当初から加盟して、域内諸国の関係強化に努めてきた。ベトナム戦争後のカンボジア問題、域内経済協力など多くの共通問題があり、加盟諸国の首脳の相互訪問も行われている。ベトナム戦争、カンボジア内戦によって、多くの難民が国境地帯に流入した。タイ一国で処理できることでなく、国際協力で問題の解決が図られてきた。

[友杉 孝]

経済・産業

第二次世界大戦前、タイ経済の基本性格は植民地経済的なモノカルチュア(単一作物生産)であった。米、錫(すず)、ゴム、チーク材を輸出し、近代工業製品、とくに衣料品を輸入した。工業生産の発展はごく限られ、おそらく精米業が最大の産業であった。国家財政もイギリス人財政顧問の指導下にあり、通貨はイギリス・ポンドとリンクしていた。

 第二次世界大戦後も、しばらくは経済の基本性格には変化はなかったが、ナショナリズムの高揚、アメリカの経済援助を引き金にして工業発展が図られ、多くの政府企業が設立された。しかし、これらの政府企業は非能率のため大部分は失敗した。1960年代にサリット政権のもとで政策転換があり、政府企業より民間資本主導へと変化した。投資奨励法による外国資本の誘致が盛んに進められ、これまで輸入に頼っていた工業製品を国内で生産するために、輸入代替産業の振興が推進された。繊維、自動車、二輪車、電器製品の生産は飛躍的に増加した。一方、食品加工、繊維など中小企業の生産も徐々に増加し、多くの労働者を雇用した。このような工業化達成の要因として外国の資本投下、ベトナム特需があげられるが、国内農業の躍進をも指摘しておかねばならない。

 1970年代に入ってタイの農業生産は目覚ましく拡大し、伝統的にタイ農業の根幹である米の生産が耕作面積や灌漑(かんがい)面積の拡張、品種改良により着実に増加した。さらにトウモロコシやマニオクの生産も急速に増加し、第二次世界大戦前からのゴムと並んで農業多角化の重要な一部を担った。これら農業生産の着実な発展は農村における可処分所得を増加させ、近代工業製品の購買力が強まった。タイ中部の農村では、かつてタイ農業のシンボルであった水牛の姿が消え、かわってトラクターが導入された。工業生産の飛躍的な拡大と農業生産の着実な増加により、1970年代の経済成長は年平均7%近い驚異的数字を実現した。

 しかし急速な経済発展は多くの社会問題を発生させている。1人当り平均所得は増加しつつも、所得格差は拡大している。工業製品の氾濫(はんらん)のなかで、新しい貧困感も形成されている。伝統的な農村社会は解体しつつあり、都市に多くの人々が移住した。順調に発展してきた工業は輸入代替産業から輸出指向型産業への移行が行われている。農業も土地保全という大きな問題を抱えている。農業発展の多くの部分は森林を開拓して実現したが、森林伐採は自然環境の破壊を引き起こしている。工業も農業も、現在、大きな過渡期にあるといえよう。

 1970年代の経済発展を反映して、以後、貿易は輸出入ともに急増した。従来、おもな輸出品は、米、野菜、天然ゴム、魚貝類、トウモロコシなどの第一次産品であったが、その後は1970年代に成長した工業製品(衣類、繊維品、機械類など)の比重が高まっている。おもな輸出先は、アメリカ、日本、シンガポール、香港(ホンコン)などである。輸出総額における日本の比重は、28.4%で、アメリカに次いで第2位である。輸入も大きく変化した。消費財の輸入が大幅に減り、工業生産のための原材料、資本財、原油が著しく増加した。おもな輸入相手国は日本、アメリカ、中国、マレーシアなどである。輸入総額における日本の比重は、51.5%で第1位を占めている。

 輸出入を比較すれば、輸入額がつねに輸出額を上回り、恒常的に貿易収支は赤字である。工業化に必要な原材料、資本財の輸入が急増し、農産物の輸出増を上回ったためである。とくに対日貿易赤字は大きく、毎年、貿易摩擦問題を引き起こしている。貿易収支の赤字は、観光収入、外国からの送金、民間投資、政府借款で埋め合わされている。とくに観光収入の増大とアラブ産油国からの出稼ぎ送金が大きかった。しかし、1996年後半から経済成長率が鈍化する一方、貿易収支が大幅に悪化。その対策にあたった大蔵大臣が辞任する事態にまで発展した。その背景には、不動産の高騰など経済のバブル化に対する政策の転換の遅れ、不良債権の発生など多くの問題があったが、その最大の原因は変動相場制移行に伴うタイ・バーツの急落であった。1997年7月にはIMF(国際通貨基金)などの国際金融機関が「バーツ危機」に対し介入、資金援助を含め経済再建策に乗り出した。タイへの金融支援に対しては、今後ますます日本の果たす役割が大きくなることは間違いなく、同年9月には日本のタイへの支援拡大策を協議するため、日本とタイの二国間の経済協議が開催された。

 交通は、タイ国有鉄道公社が運営する総延長3765キロメートルの鉄道のほか、幹線道路網が完備している。また、チャオプラヤー川を中心に水上運送も発達している。航空は、タイ航空の国内線とタイ国際航空の国際線があり、ともに国営企業である。

[友杉 孝]

社会・文化

タイ社会の民族構成は複雑であるが、人口の大半はタイ民族である。タイ民族の伝統的な基本性格は水稲耕作、上座部仏教(小乗仏教)、タイ語の3要素で示される。タイ北部、タイ北東部のラーオ語は地方方言である。上座部仏教は事実上の国教で、ほとんどすべてのタイ民族は敬虔(けいけん)な仏教徒である。キリスト教徒は1%にも満たない。男子20歳で出家する慣行は現在も根強く広く行われている。都市にも農村にも寺院は至る所に所在し、月3回の仏日、年中行事、祭りなど、参詣(さんけい)する人々でにぎわう。しかし僧侶(そうりょ)の修行は厳しく、剃髪(ていはつ)し、黄衣をまとい、227の戒律を守って暮らす。女性と関係しない、1日2食、酒も飲まないなど、厳しく心身を規律する。経済活動もせず、生活は俗人の喜捨だけに頼る。厳しい戒律で守られた僧侶は、いわばこの世での聖なる存在で、仏教の象微とされている。人々は僧侶に喜捨することで自らの功徳を積み、功徳を多く積んだ人は来世で幸せに暮らせると信じている。

 仏教信仰とともに精霊崇拝も根強く残っている。人間の死霊、病気をもたらす悪霊、悪鬼、さらに稲魂、土地神などたいへん多種類の精霊がこの世で浮遊し、あるいは場所を領有するといわれる。伝統的には、精霊崇拝が自然と人間との間にかかわる秩序感覚を人々に養わせ、自然ばかりでなく人間と人間との関係にも多く関与し、仏教信仰と精霊崇拝が習合して人々の信仰世界が形成されている。

 タイ社会での最大の少数民族は人口400万以上といわれる中国系タイ人(華僑(かきょう))である。中国系タイ人の歴史は古く、18世紀にビルマ軍を退けてタイの独立を復活した英雄タークシン王の父親も中国人であった。タイに来住する中国人の多くは単身で、タイ女性との間に多くの子弟をもうけた。これら子弟はタイ社会によく適応し、2代、3代と経過するうちに、まったくタイ人となる。すなわち中国人とタイ人の間は連続的に変わり、明確な断絶はない。400万人以上とされる中国系タイ人のなかで中国籍を有する人口は30万人である。法律的には、国籍は出生地主義で、タイ生まれの人は自動的にタイ国籍をもつことになる。中国系タイ人がタイ社会で果たしてきた役割は大きく、とくに経済活動では圧倒的である。戦前においても金融、商業、製造業を独占的に支配したが、1970年代の工業発展の担い手ともなり、資本家階層だけでなく、職人、労働者も多くは中国系タイ人であった。これら中国系タイ人は出身地別に組織をもち、それぞれの会館を建設して相互扶助を図っている。出身地は中国南部がほとんどで、とくに潮州出身者が過半数を占める。多数の中国系タイ人の存在はタイ・ナショナリズムを刺激し、両者の間に深刻な対立関係を形成することもあった。しかし基本的にみれば、タイ民族と中国人の間に明確な断絶がないことで示されるように、両者は共存共栄しているといえよう。

 マレー系タイ人も少数民族である。おもにタイ南部に居住し、とくにマレーシアとの国境に近い南部4県では人口の過半を占める。マレー系タイ人はイスラム教を信仰し、タイ社会一般とは明確に異なる文化を形成する。戦前から独立あるいは自立を求める運動が根強く行われてきた。同じく少数民族であるクメール系タイ人はカンボジア国境に近いタイ北東部3県に多く居住する。タイ社会への同化は進んでいるが、現在でもクメール語を話す人々もいる。モン人も少数民族であるが、現在はほとんどタイ社会に同化していて、モン語を話すことはほとんどない。ほかに北部山地には多くの山地民族が居住する。メーオ、ミエン(ヤオ)、カレン、リーソー、ムーソー、イーコー、ラワの諸民族である。

 教育は1978年から六・三・三制を実施した。義務教育は小学6年までで、非識字率は14.5%。チュラロンコーン大学、タマサート大学など国立大学のほかに私立大学も多くあり、急速に高等教育が普及しつつある。大学教育を受けることが、望ましい職業選択のための必要条件になっているのである。

[友杉 孝]

『石井米雄・吉川利治編『タイの事典』(1993・同朋舎)』『小野澤正喜編『アジア読本 タイ』(1994・河出書房新社)』『綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいタイ』(1995・弘文堂)』



タイ(魚)
たい / 鯛
red seabream
porgy

一般的には硬骨魚綱スズキ目タイ科魚類の総称。狭義にタイといえばマダイをさすが、近縁種のチダイと混称している地域も多く、またキダイやクロダイなどを含めることもある。広義のタイ形魚類はイトヨリダイ科、タイ科、フエフキダイ科の3科からなるが、この項ではタイ科について記述する。なお、タイ類の英名は、赤色のタイはred seabream、暗灰色のタイはporgyである。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年9月19日]

タイ科の分類

タイ科魚類は形態的な特徴によって、キダイDenticinae、ヨーロッパダイPagellinae、マダイPagrinae、アフリカダイBoopsinae、ヘダイSparinaeおよびアフリカチヌDiplodinaeの6亜科に分けられる。前の3亜科の魚は体色が赤く、後の3亜科の魚は多くは暗灰色である。日本、東南アジアとオーストラリアの海域にはキダイ、マダイ、ヘダイの3亜科の魚が分布するが、地中海とアフリカ周辺の海域には6亜科のすべてが分布し、アメリカ新大陸の大西洋岸にマダイ、ヘダイ、アフリカチヌの3亜科の魚が生息する。

 タイ科魚類のおもな属名は次のとおりである。キダイ亜科(キダイ属Dentex、セナガキダイ属Cheimerius、オオメレンコ属Polysteganus、ナガレンコ属Argyrozonaなど)、ヨーロッパダイ亜科(ヨーロッパダイ属Pagellusなど)、マダイ亜科(マダイ属Pagrus、チダイ属Evynnis、タイワンダイ属Argyrops、キシマダイ属Pterogymnusなど)、アフリカダイ亜科(アフリカダイ属Boops、ヒラダイ属Sarpa、メジナモドキ属Cantharusなど)、ヘダイ亜科(ヘダイ属Rhabdosargus、クロダイ属Acanthopagrus、アメリカギンダイ属Calamus、スカップ属Stenotomusなど)、アフリカチヌ亜科(シマチヌ属Puntazzo、アフリカチヌ属Diplodus、アメリカチヌ属Archosargus、ピンフィッシュ属Lagodonなど)。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年9月19日]

形態

タイ科魚類は楕円(だえん)形で体高が高く、側扁(そくへん)した体に、二叉(にさ)した強い尾をもつ典型的なタイ形が特徴である。魚類学的には、眼前骨と第1眼下骨が同形同大、幽門垂数は4本、副蝶形骨下縁(ふくちょうけいこつかえん)の突起が2個、大部分の魚の顎骨(がくこつ)に円錐歯(えんすいし)、門歯や臼歯(きゅうし)が発達している、などの形質によって定義づけられている。タイ科の魚の全長は25~100センチメートル。一般に吻(ふん)は短いが、眼下幅は広く、強いあごをもつ。前上顎骨の後端は主上顎骨と重なる。主上顎骨は口を閉じたときに眼下骨に隠されて、露出しない。両顎にはキダイ亜科では強大な円錐歯を、アフリカダイ亜科では円錐歯や門歯をもつが、ほかの4亜科の魚はすべて臼歯をもつ。臼歯の列は、マダイ亜科、ヨーロッパダイ亜科で2列、アフリカチヌ亜科で3列、ヘダイ亜科で3~4列である。背びれは1基で10~13棘(きょく)9~17軟条、臀(しり)びれは3棘7~15軟条、腹びれは胸位で1棘5軟条で、基部に腋部鱗(えきぶりん)がある。体は大部分が円鱗または弱い櫛鱗(しつりん)で覆われるが、亜科により鱗(うろこ)の形が異なる。脊椎骨(せきついこつ)は24個(腹椎骨10個+尾椎骨14個)。胃はV字またはY字形でやや大きく、腸は一般に短い。体色は変化に富み、桃色または赤色~黄色または灰色で、しばしば銀色または金色に反射する。また、暗色やそれ以外の色彩のある斑点(はんてん)、縞(しま)模様、または帯状斑がある。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年9月19日]

生態

タイ科魚類は熱帯および温帯の沿岸域の底層近くにすむ。そのうち、体が赤色のタイは沿岸や大陸棚の岩礁や泥土と砂礫(されき)の中間地帯を好み、水深50~200メートルの底層にすむ。一方、体が暗灰色のタイは河口域や内湾など水深50メートル以浅の岩礁と砂泥質の所を好む。やや貪食(どんしょく)な肉食性の魚で、底生の多毛類、甲殻類、軟体類、棘皮(きょくひ)類、魚類などを好んで食べる。産卵期は、マダイ、クロダイ、ヘダイなどは春季で、チダイ、キチヌなどは秋季である。卵は油球1個をもつ球形の透明な分離浮性卵で、卵径は0.8~1.2ミリメートルである。20℃では約2日前後で孵化(ふか)する。小形種や大形種の若魚は群集性があるが、大きい個体は単独でより深所にすむ。わずかながら産卵その他による季節的移動を行う。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年9月19日]

雌雄同体と性転換

体が暗灰色の3亜科のタイ類には、すべての魚が雌雄同体の時期を経たのちに雌雄のいずれかに分化する性転換の現象がある。クロダイとキチヌでは、全長10センチメートル以下の魚は原始的性細胞をもつが10~14センチメートルの魚には精原細胞が認められ、14~25センチメートルごろでは典型的な両性巣をもち、外側に精巣が、内側に卵巣がある。20~25センチメートル以上ではほとんど雌に分化する。雌雄同体の個体は精液を出し雄の機能があるが、卵巣はけっして熟さない。すなわち、クロダイ類は小さいときはすべて雄で、大きくなるとほとんど雌になる。なお、体が赤色の亜科にも、キダイの高年魚の約半数に雌雄同体が現れたり、養殖マダイに少数ながら両性巣が出現したりしたとの報告がある。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年9月19日]

日本のタイ類

日本には、キダイ、キビレアカレンコ、ホシレンコ、マダイ、チダイ、ヒレコダイ、タイワンダイ、クロダイ、キチヌ、ミナミクロダイ、ナンヨウチヌ、オキナワキチヌ、ヘダイの13種が知られている。いずれも白身のしまった肉質で美味のため、需要は多いが漁獲量は漸減している。タイ類の漁獲量をみると、マダイがもっとも多く、チダイ+キダイ、クロダイ+ヘダイ(これらの数値は合計値で算出)の順となっている。タイ類としての漁獲量は1973年(昭和48)ごろまでは3万~5万トンほどあったが、それ以後はしだいに減少し2万トン台が続き、2015年度(平成27)は2万5000トンほどであった。一方、日本沿岸のタイ資源の減少に対し、各地でマダイやクロダイの種苗を生産して、沿岸に放流したり養殖の種苗としたりしている。マダイの養殖の生産量は1970年に460トンであったが、それ以後はしだいに増加し、1999年(平成11)に8万7000トンと最多量となった。その後は6万~8万トン台の間で推移し、2015年では6万3000トンほどであった(農林水産省「平成27年漁業・養殖業生産統計」による)。他方、輸入タイ類については1962年ごろからゴウシュウマダイ、アサヒダイ(商品名はサクラダイ)など外国のタイ類が多量に日本の市場に入荷し、利用されている。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年9月19日]

釣り

各地でさまざまな釣り方、仕掛け、餌(えさ)がくふうされ使われている。仕掛けは、一本鉤(ばり)、この一本鉤に小さい孫鉤をつけたもの、枝鉤を2本または3本つけた胴づき、片天ビンからハリスを伸ばした二本鉤が基本的なものになっている。

 餌はクルマエビの小形(サイマキ)や、船の網漁でとる赤い色に近いサルエビ、小さくてやや黒っぽいエビ、淡水の池や沼でとれるモエビなどエビ類を主体に、南極産のオキアミが1980年(昭和55)ごろから各地で使われるようになった。多毛類ではイワイソメ(西日本ではマムシという)、タイムシ(一部の地方でアカイソメという)、フクロイソメ(西日本ではイチヨセという)などもタイ餌(え)となり、小さなミミイカやサンマの切り身、生きたイカや小魚のイカナゴも使われる。また、ごく薄いゴムで橙(だいだい)色に近いものを細く短冊に切って鉤にかけて釣る地方もある。このような各種の餌は季節によって多少違ってくるが、一年中効果を発揮するのはやはり生きたエビで、ついでオキアミであろう。

 釣り方のポイントは、棚とよばれるタイの泳層を早くつかむこと。とくに春はまだ底潮が冷たいので、暖かい潮を求めて海底から上を棚に求めがちであり、逆に秋は底潮が暖まっているので棚を底に求めがちである。このようなことから「春のタイは宙層を釣り、秋は底を釣れ」ともいわれる。ただし、多人数が乗った乗合船で、寄せ餌を使うタイ釣りでは、潮の流れの緩いときだと、寄せ餌の効果からタイの棚はかなり上層にあがることもある。鉤掛かりしたタイは途中2、3回強く海底に突っ込むような独特の引きをみせるので、このときに強引なやりとりをするとハリスを切られたりする。

[松田年雄]

調理

タイはその骨が貝塚からも多く出土しており、食用歴の古いことがわかる。『万葉集』には、醤酢(ひしおす)に蒜(ひる)を混ぜ、タイにつけて食べるという歌もあるが、タイは古くから日本人には身近な魚として利用されてきた。タイという字は魚偏に周と書くが、周というのはあまねくとか、どこにもかしこにもという意味をもっている。すなわち日本近海はもとより、どこの海にでもいるという意味からつけられた名前と考えられる。タイはおめでたいとひっかけ、祝いに使われることが多く、祝い事にはおもに尾頭付きが使われる。

 タイの鱗(うろこ)は堅いので、鱗ひきまたは出刃包丁の刃を使って完全に取り除く。姿焼きの場合はえらと内臓を除いてそのまま用いるが、そのほかの料理では3枚におろして用いる。淡泊な味で臭みがなく、しかもうま味が多いので広く料理に利用できる。タイは、ほとんど捨てるところがない。肉は刺身、焼き物、蒸し物、煮物など、頭や中骨はあらだき、潮汁(うしおじる)など、卵巣の真子(まこ)は煮物、精巣の白子(しらこ)は椀種(わんだね)や鍋物(なべもの)にする。

 おもな郷土料理には次のようなものがある。

[河野友美・大滝 緑]

鯛のから蒸し

石川県の豪華な料理。大ダイを2尾用意し、鱗と内臓を除いて背開きにする。この中ににんじん、タケノコ、きくらげ、すだれ麩(ふ)、おから、ぎんなんなどをいり煮にしたものを詰めて蒸し上げる。魚は大皿に向かい合わせに2尾並べる。祝いの席には青竹でつくった箸(はし)をえらぶたに刺し、松の小枝を添える。

[河野友美・大滝 緑]

たいめん

広島県や愛媛県の郷土料理。大きなタイの鱗、えら、内臓をとり、姿のまま酒、みりん、しょうゆ、砂糖などで煮る。そうめんをゆで、大皿に波形に盛り、その上にタイを置く。季節により青ユズをおろしかけたり、木の芽を散らし、タイの煮汁をつけ汁として食べる。

[河野友美・大滝 緑]

浜焼き

とれたての魚を、塩をつくるときの釜(かま)や焼き上げた塩に埋めて蒸し焼きにしたもの。とくに瀬戸内海沿岸のタイの浜焼きは有名。『和訓栞(わくんのしおり)』(1777)に、とれたてのタイなどを塩を焼く釜の下の土に埋めて焼くことが記されており、すでに江戸時代にはつくられていたことがわかる。最近は高熱の釜や赤外線を用いて蒸し焼きにしている。身をむしり、しょうがじょうゆをつけて食べる。

[河野友美・大滝 緑]

民俗

日本では、タイは最初に文献に表れる魚で、『古事記』神代巻に、山幸彦(やまさちひこ)の投げた釣り針をのどにひっかけて登場し、『万葉集』にもタイ釣りの歌がみえる。伊勢(いせ)神宮の神饌(しんせん)では、アワビに次ぐたいせつな魚とされ、「御幣鯛(おんべだい)」という乾鯛が、平安時代から伊勢湾の篠島(しのじま)(愛知県南知多(ちた)町)で調製され、古式のままに塩鯛が供えられている。また七福神の恵比須(えびす)神が釣り上げて持つタイは、「めでたい」に通じる語呂(ごろ)合わせから、祝いの料理や贈答品にされているが、「めでたい」は「めでたし」の口語体で、それほど古いことばではなく、それよりも縁起のよい赤い色彩や姿、味のよさから吉祥魚とされた。江戸時代以前の料理書では、むしろコイのほうが上等とされていた。

 2尾の塩鯛を腹合わせにして結び合わせる「掛鯛(かけだい)」(懸鯛)の風習は、江戸時代より関西や四国を中心としてしばしば各地の祭礼や婚礼にみられる。北九州では、婚約が決まると酒1升とタイ1尾を「一升(生)一鯛(代)」の意味で贈り、三重県志摩地方などでも大きなタイ2尾に酒を添えて結納とする。昔は一般の家でも、正月に神棚の前やかまどの上などに掛鯛を年神様に供え、これを6月1日に取り外して食べると邪気が払われるとした。また「にらみ鯛」といって、お膳(ぜん)に置いて飾りとする習慣もあった。

 愛知県南知多町豊浜(とよはま)では、7月中旬に「鯛祭り」の行事が行われ、大漁を祈願して張り子の大ダイを海の中で担ぐ。広島県三原(みはら)市能地(のうじ)沖でも、毎年3月に「浮き鯛祭り」といって、張り子のタイの腹を上にして担ぐが、これは、この付近を神功(じんぐう)皇后が船で通ったとき、周りにタイが集まって浮き上がったという故事にあやかっている。タイの郷土玩具(がんぐ)は多く、なかでも鹿児島県霧島市にある鹿児島神宮の海幸(うみさち)・山幸(やまさち)の神話にちなむ鯛車は有名である。

[矢野憲一]

文学

上代から美味な食料とされ、『万葉集』に、「水江(みづのえ)の浦の島子を詠む」長歌の「堅魚(かつを)釣り 鯛釣りほこり」(巻9・高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ))と、「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)つきかてて鯛願ふ我にな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)」(巻26・長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ))の2例があり、記紀の海幸・山幸神話などにも、鯛や赤鯛の名がみえる。『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇2年6月条、神功皇后が熊襲(くまそ)征討の途中、豊浦津(とゆらのつ)で船の周りに集まった鯛に酒を飲ませて酔わせた話もよく知られる。平安時代に入って、『神楽(かぐら)歌』の「磯良(いそら)が崎」に「鯛釣る海人(あま)」とあり、『土佐日記』にも、楫取(かじと)りが持ってきた鯛を食べたことが記されている。江戸時代の石川雅望(いしかわまさもち)の『狂文吾嬬那万里(きょうぶんあづまなまり)』には「鯛は魚の王なり」で始まる、鯛の故事来歴を記した「鯛亭記(たいていのき)」と題する戯文が収められている。季題は「桜鯛」が春、「落鯛」が秋。

[小町谷照彦]

『大西彬著『鯛のタイ』(1991・草思社)』『鈴木克美著『鯛』(1992・法政大学出版局)』『柴田書店編・刊『鯛』(1999)』



タイ(民族)
たい
Thai

タイ系諸語を話し、西はインドのアッサム地方から東は海南島に及び、その北端は中国の雲南省、南はタイ湾岸マレー半島北部に至る主として東南アジア大陸部の広範な地域に居住する人々。中国での漢字表記は傣族となり、中国ではタイ族とよぶ。かつてはタイ系諸民族の揺籃(ようらん)の地を、西部中央アジアとする説と、中国南部の河谷地域に求める説とがあったが、今日では中国南部をその源郷とする見解が支配的である。

[梶原景昭]

タイ系諸民族の移動と多様性

数多くの民族移動がなされた東南アジア大陸部におけるタイ人の移動展開は、ほぼ2000年前に始まり、この地域にもっとも新しく登場する民族集団といわれている。こうした広大な範囲への移動の過程で、彼らはモン、クメールなど他の民族との混血を繰り返し、その結果タイ系民諸族の人種・血統上の境界はかならずしも明確なものとはいえない。

 このように広範なタイ系諸民族を大別して、(1)北部および中部集団、(2)西部集団、(3)東部集団、(4)南部集団に区分する考え方がある。

(1)は揚子江(ようすこう)流域のタイ・ターヨク、シプソン・パンナのタイ・ルー、タイ・ライなど雲南を中心に居住するグループである。

(2)はアッサム地方のアホム、マニプルのタイ・モイなどのインド化したタイ人、ミャンマー(ビルマ)北部のタイ・カムティ・ロン、シャン州のタイ・ヤイあるいはシャンなどから構成される。

(3)は貴州、広西チワン族自治区、トンキン地方に分布するディオイ、トー、ムオンなどのタイ人で、
(4)はラオ、タイ・ランナー(北タイ)、シャム、プー・タイ、黒タイなど、現在のタイ国、ラオス、カンボジアを中心に居住する集団である。

タイ系諸民族の人口を確定するのは不可能だが、従来3500万ほどといわれている。先住民族であるモン人、クメール人、ラワ人、リアン人など、あるいはその後の中国人、インド人などとの混血の結果、タイ系諸民族は形態的に均一ではなく、インド的タイと中国的タイという身体的特徴による区分がなされることもある。いずれにしてもタイ系諸民族の多様性はこうした民族の移動と展開の所産であり、また先住民族のタイ化が盛んに行われた結果、今日タイ人を考える際に、人種、形態論を中心とする議論の限界は明らかなものになってくる。すなわちタイ系諸民族全般に強い文化的共通性の存在をみいだすことは困難になりつつあり、また近代国家の成立によってそれぞれの地域のタイは別の国家内に組み込まれてゆく状況が支配的である現在、その統一性よりも彼らの個々のグループの検討が必要になってくる。

[梶原景昭]

文化の共通性

きわめて大まかなタイ系諸民族の文化的共通性として、タイ系言語、仏教の信仰、水田耕作などがあげられるが、それらはあくまでも緩やかな文化的共通性を示すものにほかならない。むしろ文化上の多様性が顕著なタイ系諸民族を、人種的な分類によってひとまとまりのものとして「科学的」に理解しようとすることは無理がある。

 タイ系諸民族のなかでもっとも西に居住するアッサム地方のアホムは、ヒンドゥー化されたタイ人で、言語、宗教などタイ的といわれる文化要素をほとんどとどめていない。またマニプルのモイもアホムと同様にヒンドゥー化している。他方、東のタイ人としてトンキン地方に居住するトー、ナン、ヌン、白タイ、黒タイは中国文明の影響を強く受けている。こうしたいわば辺境のタイ人は、従来、近接するインドおよび中国の文明による位置づけの枠内で考えられていたこともあって、それらの固有の文化研究が不十分なままに放置されている。あるいは、タイ系諸民族を国家人口の多数派とするタイ国の場合を考えても、シャム人についての論議が典型的なタイ像を明らかにするわけではない。幅広いタイの一員としてのシャムの意味は、高地メコンに住む同じタイ系のニオ人となんら変わるところがないといってよい。

 しかしながらシャム人は今日タイ系諸民族のなかで一つの中心的な存在といってよかろう。かつて中国南部の河谷地域で水田耕作を行っていたタイ人は南下移動し、モン・クメール語族の先住諸民族を征服、吸収し、13世紀にはタイランド湾(シャム湾)岸にまで達した。やがてテラワーダ(上座部)仏教を信仰するようになり、今日に続く、仏教王の概念をもつ王国を建設する。今日タイ国人口の過半を占めるシャム人の社会は、双系的な親族関係に基づく、相対的に「緩やかな構造」をもつ社会で、大多数が水田耕作に従事する農民である。しかしながら中国系との混血も多く、近代国家タイ国のシャム人を単に農民として規定することは単純にすぎよう。

 こうしてタイ人は東西数千キロメートルにわたる広い領域に、きわめて小規模な部族社会のレベルから、国家の中核を占める多数派のレベルまで、さまざまな形に居住しており、文化上も多様である。こうしたタイ人の大部分はそれぞれの地域で文化的にも政治的にも別個に生活しているのが現状で、国家の枠を超える連帯的な動きがみられるわけでもない。例外的にタイ国の要人が中国を訪れ、雲南省のタイ族と交歓したという、タイの一体性が政治的次元で話題になったことはあるが、タイ社会をとらえる場合には、インド、中国の影響による大伝統の存在と、個々の小伝統を踏まえ、東南アジアの形成と現状のなかでの、個々の集団に関する具体的な社会・文化上の理解をより蓄積することが必要である。

[梶原景昭]

『大林太良編『民族の世界史6 東南アジアの民族と歴史』(1984・山川出版社)』

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百科事典マイペディア 「たい」の意味・わかりやすい解説

タイ

◎正式名称−タイ王国Prathet Thai/Kingdom of Thailand。◎面積−51万3120km2。◎人口−6548万人(2010)。◎首都−バンコクBangkok(686万人,2006)。◎住民−タイ人80%,中国系12%,インド系,ベトナム人のほか,少数民族としてカレン人,ミヤオ人,ヤオ人など。◎宗教−仏教が大部分。◎言語−タイ語(公用語)が大部分,その他中国語など。◎通貨−バーツBaht。◎元首−国王,プーミポン・アドゥンヤデートBhumibol Adulyadej(1927年生れ,1946年6月即位)。◎首相−プラユットPrayuth Chan-o-cha(暫定,2014年9月発足)。◎憲法−1997年10月発効。2006年9月クーデタで停止。2007年8月新憲法発効。2014年5月クーデタで停止。◎国会−二院制。上院(定員150,公選77,任命73),下院(定員500,選挙区375,比例区125)。2014年2月の選挙は憲法裁判所の判決により無効。◎GDP−2607億ドル(2008)。◎1人当りGDP−2458ドル(2007)。◎農林・漁業就業者比率−54.1%(2003)。◎平均寿命−男65.4歳,女72.1歳(2007)。◎乳児死亡率−11‰(2010)。◎識字率−94%(2005)。    *    *旧名シャム。東南アジアの立憲王国。インドシナ半島中央部を占め,シャム湾に面する。中央部はチャオプラヤー(メナム)川の沖積平野,東部はコーラート高原で,北部はインドシナ山系に属する山地。ラオスとの国境をメコン川が流れる。最高峰はインタノン山(2595m)。ほぼ北緯5°〜20°の熱帯にあり,5〜10月が雨季,11〜4月が乾季。住民の大部分はタイ人で,ほかにマレー系,モン・クメール系の諸族および中国人が住む。経済の基盤は農業で,住民の半数が農業に従事する。メナム川の沖積平野などで米を主産,他にトウモロコシ,サトウキビ,ゴム,ジュートなども産する。森林は国土の約30%を占め,チーク材が重要な輸出品。スズ,鉄,タングステンなどの鉱産がある。スマトラ沖地震に伴う2004年12月の津波で,同国はリゾート地のプーケット島などで甚大な被害を受けた(死者約5300人,行方不明者約2800人)。〔歴史〕 タイ人の祖先は,紀元前には中国長江の上流域に居住していたといわれ,のちインドシナ半島に南下,13世紀にスコータイ朝を建てた。14世紀アユタヤ朝が成立,17世紀にポルトガル,フランスなどとの交渉が活発になり,日本の山田長政らも活躍した。1767年ビルマの侵入でアユタヤ朝は滅亡したが,1782年現在のラタナコーシン朝(チャクリ朝,バンコク朝)が成立した。19〜20世紀初め英国,フランスに東西から侵略され,国土の一部を失ったが,緩衝地帯として独立を維持した。1932年の立憲革命で絶対王政は終りを告げ,立憲王国へ移行した。しかし,こののち軍部は何度もクーデタを起こして独裁政治を行っており,民政の時代においても大きな影響力を保持している。なお元首はプーミポン国王で1946年即位,その在位期間は現在世界一である。外交は反共を基調としながらもASEAN諸国との連帯を強化しつつ,中国および日本との友好促進に努めてきた。1980年代後半に高度経済成長をとげ,外貨の流入もあって輸出志向型の繊維,食品,電子部品・電気製品,自動車などの製造業が発達。1990年代にはミャンマー,インドシナ3国に広がる〈バーツ経済圏〉が形成されたが,1997年のアジア通貨危機のなかでバーツは大幅に下落し,IMFの支援を受けるに至った。〔2000年以降〕 2001年1月の下院総選挙に勝利して政権に就いたタクシン首相(当時)は,国内需要喚起と外資誘致による輸出促進,大規模公共事業,社会保険制度改革,麻薬撲滅等の諸政策を大胆に実施。通貨危機の打撃で疲弊した経済を立て直し,タイ近代政治史上はじめて任期を全うした民選首相となった。他方,トップ・ダウンの意思決定の導入や,タクシン首相自身の強引な姿勢が伝統エリート層や保守層の反発を招き,職権濫用や汚職の噂もあって,2006年はじめからタクシン首相を糾弾する社会運動が拡大し,同年4月の選挙は,野党がボイコットする異例の事態となった。その後,憲法裁判所により選挙は違憲無効と判断され,選挙のやり直しが検討される中,2006年9月,ソンティ陸軍司令官(当時)を中心とする軍部によるクーデタでタクシン政権は崩壊した。2008年タクシン派の〈人民の力〉党のサマット,ソムチャーイが相次いで首相となったが,憲法裁判所が選挙違反を理由に同党の解党命令を出し,ソムチャーイは失職,12月に民主党のアビシットが首相に就任した。しかし,2009年4月にバンコクで開催された東南アジア諸国連合の首脳会議が,タクシン派団体の空港占拠などで中止に追い込まれるなど政治混乱が続いた。さらに,2010年3月,タクシン派は,議会の解散・総選挙を要求してバンコクで大規模な抗議集会を展開,市街の中心部を占拠,4月,アビシット首相は,バンコクとその周辺に非常事態を宣言,軍がデモ隊に発砲して,日本人ジャーナリストの死者を含む多数の死傷者を出す惨事となった。アビシットは,2010年5月陸軍部隊を投入し,多数の死傷者を出したが武力鎮圧しタクシン派による占拠の排除に成功した。〔インラック政権とその崩壊〕 2011年7月,国民議会の人民代表院選挙でタクシンの妹インラック・チナワットを首相候補とした野党タイ貢献党(〈人民の力〉党の後継組織,タクシン派)が勝利し,インラックがタイ初の女性首相として,8月第37代首相に就任。就任直後,チャオプラヤー川流域を中心にタイ北部から中部の大洪水に見舞われ,国民融和と貧困対策を掲げる政権に打撃となったが,インラックは内政重視の姿勢でリーダーシップを確立した。大洪水からの復旧・復興から,内需が牽引する形で経済活動は回復し,2012年は,6.5%の成長を記録。2013年は,自動車購入者への減税措置の終了に伴う反動や洪水からの復旧・復興投資の一巡で内需が低迷し,2.9%の成長に止まった。政権は経済を中心に積極的な外交に転じており,安定に向かっているとされていた。しかし2013年11月,与党タイ貢献党がタクシンを対象に含む恩赦法案を下院で強行採決し可決したのを機に,反タクシン派がインラック退陣を求めて攻勢を強め,政情は一気に不安定なものとなった。政府はバンコク全域に非常事態宣言を出す事態となった。インラックは下院を解散し2014年2月に総選挙の実施に踏み切ったが,3月タイ憲法裁判所は〈選挙が全国で一斉に施行できなかった〉〈選挙投票日から30日以内に議会を召集・開会できなかった〉として憲法違反を認め,選挙無効の決定を下した。5月7日,憲法裁判所は,公務員の人事異動を巡り,インラック首相の職権乱用を認定する判決を下し,同首相は失職。5月20日未明,プラユット陸軍司令官は全国に戒厳令を発令し,対立する陣営を集めた対話が軍主導で行われたが妥協に至らなかった。5月22日夕方,軍を中心とする〈国家平和秩序維持評議会〉(NCPO)が全統治権の掌握を宣言した。5月30日,NCPOは,第1期から第3期までの1年強からなる民政復帰に向けた〈ロードマップ〉を発表。翌6月27日,同ロードマップに基づき,7月中に暫定憲法を公布し,9月に立法会議及び暫定内閣を,10月に改革会議をそれぞれ立ち上げ,暫定憲法から約1年後となる2015年7月を目処に新憲法を公布し,さらに新憲法公布の3ヵ月後に議会選挙を実施して,2015年中に民政復帰する,という政治プロセスが発表された。〔カンボジアとの国境紛争〕 2008年,タイ・カンボジアの国境地帯にあるヒンズー寺院遺跡ブレアビヒア寺院が,カンボジアによって世界遺産に登録されたのを機に,タイは軍隊を派遣,カンボジアも軍を送り対峙する事態となり,2011年2月両軍の間で軍事衝突に発展,数千人が避難民となり,民間人を含めた死傷者が出た。事態はいったん沈静化したかにみえたが,2011年4月,再び大規模な武力衝突が発生した。2011年9月にインラック首相がカンボジアを訪問し紛争解決の交渉が進められ,領土問題は両国の外相をトップとする合同委員会の枠組みで対応することで合意が成立した。この国境紛争を巡り,2013年11月国際司法裁判所(ICJ,オランダ・ハーグ)はプレアビヒア寺院とその一部の近接する土地についてカンボジアへの帰属を認める判決を提示した。2013年判決は,この問題で1962年に出された前回判決をほぼ踏襲する内容で,両国が求めていた明確な国境線については,改めて判断を示すことを避けている。ICJに提訴された領土紛争では従来帰属に関する明確な判断が示されているが,この判断では両国が対話で国境紛争を収める余地が残されることとなった。1958年に寺院の帰属についてカンボジアがICJに提訴し,1962年に〈寺院はカンボジア領〉とする判決が出て確定,両国とも受け入れるという経過がある。判決は上訴できないため2011年カンボジアが,1962年判決で判断を示されなかった寺院周辺の4.6km2の土地について,同判決の〈解釈〉を求めて司法裁判所に提訴していたのである。2013年判決は,1962年判決が認定した内容を再確認し,係争地のうち1962年判決が認めた寺院と周辺の限られた土地について改めてカンボジア領と認定した一方,同寺院の北西側にある丘陵地の頂の部分は1962年判決で〈係争地になっていない〉とし,明確な線引きを示さなかった。そのうえで2013年判決は,寺院が宗教的・文化的に重要な場所で世界遺産にも登録されていると指摘,〈両国が協力し遺産を保護しなければならない〉として紛争の政治的な解決を促した。この判決を受けて,両国政府はともにこれを〈満足できる判決〉と受け入れ表明し,以後話し合いで解決をめざすと確認している。
→関連項目経済連携協定チュラロンコン東南アジア

タイ[人]【タイ】

タイ諸語を話す人びと。その言語から,(1)北方タイ諸語系(中国南部のプイ族チワン族など),(2)中央タイ諸語系(ベトナム北部のヌン族,タイー族など),(3)南西タイ諸語系(雲南南部,東南アジア大陸部,インドのアッサム州にかけて分布)に区分される。これらの中核をなす(3)はメコン,サルウィン,イラワジなどの水系に沿って広く分布し,先住のモン・クメール民族の文化を吸収して13世紀以後スコータイ朝アユタヤ朝などを形成した。両王朝の系譜を引くという中部タイ人はシャム族とも呼ばれ,現タイ国家の中心をなす。中国側では雲南省のシーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州や,徳宏タイ族チンポー族自治州などに多く住む。またアッサムではアホーム族と呼ばれ,ヒンドゥー教の影響が強いが,タイ諸族の多くはピーと呼ばれる精霊を崇拝し,また上座部仏教が根づいている。

タイ(鯛)【タイ】

タイ科の魚の総称であるが,普通にはマダイをさす。体は側扁し,赤色地に青緑色の小斑点が散在,全長は1m以上に達する。日本〜南シナ海などに分布。定着性の近海魚で肉食性。4〜6月に産卵のため沿岸に来遊する。一本釣り,延縄(はえなわ),ごち網などで漁獲。古来,海魚の王といわれ,刺身,塩焼,うしお,浜焼,鯛みそなどとして賞味される。ほかにキダイクロダイチダイなど日本産タイ類は10種ほど知られている。またマダイがもっとも魚らしい魚であるとされたため,コショウダイ,フエフキダイなどのように,タイ科以外にも一般にタイといわれるものが多い。名の一部にタイとつくものは,300種近くにのぼり,日本産魚類の1割にあたる。

タイ

音楽の記号。同じ音高(音の高さ)の2つの音符をつないで,その合計の音価(音の長さ)をもつ1つの音として演奏することを示す弧線。スラーとは異なる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「たい」の意味・わかりやすい解説

タイ
Thailand

正式名称 タイ王国 Ratcha Anachak Thai。
面積 51万3120km2
人口 6687万3000(2021推計)。
首都 バンコククルンテープ)。

インドシナ半島の中央部にある立憲君主制の国。大部分が熱帯サバナ気候で,雨季(5~10月)と乾季の降水量の差が大きい。マレー半島にある南部は熱帯雨林気候。地形はほぼ 4地域に大別される。中心をなすのはチャオプラヤー川沖積平野で,中央タイと呼ばれ,肥沃な土壌と網目状の河川,運河により穀倉地帯をなす。北タイは,その北方にある山地で,チャオプラヤー川の上流をなす諸河川の谷や盆地で農業が行なわれ,もち米,トウモロコシ,綿花が主産物。チーク材(→チーク)の切り出しが盛んであったが,環境保護のため伐採および輸出が禁止された。東北タイは中央平野の東方にあるコラート高原を占め,ジュート,ケナフなど繊維作物の栽培と牧畜が盛ん。南タイはマレー半島部で,天然ゴム,スズの産地。漁業は沿岸,淡水ともに盛ん。年降水量は西海岸で 4000mm。工業は 1970年代以降それまでの米,野菜,ゴム,トウモロコシなどの 1次産品の輸出に加えて,衣類,機械類など工業製品の輸出の比重が高まった。輸入も消費財が減り,工業生産用の原材料,原油などが増加した。農業も灌漑面積の拡張や品種改良により生産が増大している。1980年代後半から外国の投資が増加し急速な経済発展を遂げたが,その後バブル経済の様相を呈し,1997年の変動為替相場制度への移行を契機に通貨が大幅に下落,経済危機を迎えた(→アジア通貨危機)。住民はシャム族ラオ族を主体として人種的,文化的に一体化が進んでおり,タイ語を用いる仏教徒が大部分。中国人はおもに都市に住んで経済的に大きな力をもち,南部にはイスラム教徒のマレー人も多い。東南アジア諸国連合 ASEAN原加盟国。(→タイ史

タイ
Tye, Christopher

[生]1500頃
[没]1573
イギリスの作曲家。 1511年頃ケンブリッジ大学,キングズ・カレッジの聖歌隊の一員であったと思われる。 36年ケンブリッジ大学音楽学士号を取得。 41年または 42年イーリー大聖堂の合唱長に就任。 45年音楽博士号をとり,48年にはオックスフォード大学の音楽博士となった。その間エドワード6世の皇太子時代の音楽教師もつとめた。イギリスの教会がローマ・カトリックからアングリカン・チャーチに移行した時代の重要な作曲家で,作品は4声部の『使徒行伝による聖歌集』 Acts of the Apostles (1553) ほか,モテト,アンセムなど多数ある。

タイ

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食の医学館 「たい」の解説

タイ

《栄養と働き》


 姿・色・味がよく、長寿であること、多産であること、また「めでたい」の語呂あわせから、日本の祝い事には欠かせない高級魚です。
 日本周辺でとれるタイはマダイ、チダイ、キダイ、クロダイ、ヘダイ、ヒロコダイなどがありますが、ふつうタイといえばマダイを指します。
 近年は世界各地のタイが市場に出回っています。また養殖ものも多く、天然ものに出会う機会はそう多くないのが現状です。
○栄養成分としての働き
 マダイはタイの仲間では最大級の種類で、まさに王様。脂質が少なく栄養価の高いたんぱく質を含み、消化吸収がよいので、高齢者や離乳食の子ども、生活習慣病、胃弱、肥満、糖尿病、心臓病などの人に最適です。
〈各種ビタミン、ミネラルが疲労回復、美肌に働く〉
 ビタミン、ミネラルも含まれます。ビタミンB1は、糖質の代謝を促進し、エネルギーにかえ、食欲を増進します。疲労感がぬぐえない人や食欲不振になったり夏負けしやすい人は積極的に摂取したいビタミンです。ナイアシンは、胃腸の働きをよくしたり、血行をよくします。皮膚の弱い人、胃腸障害のある人、二日酔いの人、手足が冷える人にはおすすめです。
 B2は、過酸化脂質の害から体をまもり、動脈硬化、脳卒中(のうそっちゅう)などの生活習慣病を予防するほか、口内炎(こうないえん)や目の充血、肌荒れなどのトラブルも緩和します。カリウムは、ナトリウムとともに水分を引きつけて細胞の浸透圧を維持するとともに、ナトリウムによる血圧上昇を制御します。また筋肉の収縮を円滑にする働きがあります。調理のときに薄味に仕上げないと、カリウムをとる意味がないので、減塩を心がけなければいけない人は、刺身などもポン酢で食べるといいでしょう。
 ほかに、タウリンも豊富に含みます。タウリンは、疲労をやわらげるとともに、脳神経の賦活(ふかつ)作用や視力の回復、肝臓病の予防に効果的です。
 なお養殖のタイには、ビタミンEも多く含まれています。
○注意すべきこと
 まれに、アニサキスの幼虫が寄生していることがあります。また、体調が悪いときは、刺身で食したり、多食するのを避けるよう心がけてください。

《調理のポイント》


 タイの旬(しゅん)は、種類によって異なります。マダイは秋から冬、クロダイやチダイは夏です。
 マダイは、体が赤~桃色で腹部が銀白色、目の上が青色で、尾びれのうしろの縁の部分が黒く、身のひきしまったものが極上もの。養殖ものは、体の色が黒ずみ、尾びれの真ん中が折れています。輸入ものは、体が少し細めで体の色つやがよく、目の大きいのが特徴です。
 タイはうまみ成分のイノシン酸が分解されにくいので、鮮度が落ちても味が落ちません。そのため「腐ってもタイ」といわれますが、細菌は繁殖するので、鮮度が落ちたものは火をとおしたほうがいいでしょう。
 調理は、刺身にするのが最高の食べ方ですが、塩焼き、昆布じめ、ちり鍋にしてもおいしくいただけますし、頭はかぶと焼き、かぶと煮、アラはあら炊きとして用いられます。

出典 小学館食の医学館について 情報

栄養・生化学辞典 「たい」の解説

タイ

 スズキ目タイ科の重要な食用海産魚.マダイ(Japanese red sea bream, porgy)[Pagrus major],チダイ(crimson sea bream)[Evynnis japonica],ヒレコダイ(cardinal sea bream)[Evynnis cardinalis],キダイ(yellow sea bream)[Dentex tumifrons],クロダイ(black sea bream)[Acanthopagrus schlegeli],ヘダイ(silver bream, tarwhine)[Sparus sarba],キチヌ(yellowfin sea bream)[Acanthopagrus latus].また,スズキ目イシダイ科の海産魚,イシダイ(striped breakperch, rock bream, knifejaw, parrotfish)[Oplegnathus fasciatus],イシガキダイ(spotted parrotfish)[Oplegnathus punctatus]などがある.

出典 朝倉書店栄養・生化学辞典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「たい」の解説

タイ

インドシナ半島中央部に位置する国。13~14世紀以降,シャム族(タイ人)のスコータイ朝・アユタヤ朝が繁栄した。1939年伝統的国名シャムをタイに変更。漢字表記は泰,日本では暹羅(シャム)の名で知られた。17世紀には多くの朱印船が渡航,王都アユタヤには日本町が成立。鹿皮・蘇木などが輸入された。1898年(明治31)修好通商航海条約を締結。明治期には安井てつが皇后女学校の創設に,政尾(まさお)藤吉らは刑法典編纂に協力した。太平洋戦争開戦翌年の1月,日本に協力して英米に宣戦を布告したが,戦後その無効を宣言。懸案の特別円問題が処理されると日本資本が急激に進出したため,一時期反日気運の高まりを招いたが鎮静した。その後日本との経済的関係はいっそう深まりをみせている。正式国名はタイ王国。立憲君主制。首都バンコク。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「たい」の解説

タイ
Thai

インドシナ半島のほぼ中央部を占める王国。旧称シャム。首都バンコク
19世紀欧米諸国のアジア進出の状況の中で,イギリス・フランス両国の緩衝地帯となり,植民地化をまぬかれた。1932年人民党により無血革命が成功し,立憲君主国となり(タイ立憲革命),39年国名をシャムからタイとし,45年シャムに戻したが,49年には再びタイに改めた。第二次世界大戦後は武断派と文治派との抗争がくり返されたが,1959年のクーデタで武断派が政権を握った。しかし,軍事政権の弾圧政策に学生・民衆の不満が高まり,1973年10月にはタノム内閣を総辞職に追い込み,民主化への道を開いたが,76年軍部のクーデタで右派内閣に交代した。以後も軍部の政治介入と政治の民主化をめぐる動きが繰り返されている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

音楽用語ダス 「たい」の解説

タイ [tie(英),Bindebogen(独), archet(仏), fascia(伊)]

2つの同じ音に付けられる弧線をタイと呼び、タイの付けられた後ろの音は音符を弾き直さず、そのまま伸ばして演奏します。タイを付けて演奏する、と言う。音ばかりでなく一般的に結ぶことをタイと言い、首に結ぶのをネクタイ、紐で結ぶ又は会社の提携等をタイアップ、試合などで同点になったときのタイ等にも使われる。

出典 (株)ヤマハミュージックメディア音楽用語ダスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のたいの言及

【音符】より

…したがって,複付点音(休)符はもとの音(休)符の1.75倍の長さになる(図c)。なお,ある音が小節線をまたいで延長されるときは,付点を用いずタイで結ぶのが現在の書法である(図d)。
[連音符]
 ある音符が,その曲の拍子に固有の分割以外の方法で等分割されるとき,その一連の音符を連音符という。…

【シンコペーション】より

…一般に,基準となる拍節パターンを破るアクセントの移動をいう。具体的には,(1)最も一般的な方法は弱拍の音を次の強拍の音とタイtie(同じ高さの2音を結ぶ弧線)などで結んで後者のアクセントを先取りさせる,(2)強拍部を休止させ,そのアクセントを次の弱拍の音にずらす,(3)弱拍の音にアクセントをかけて強弱の関係を逆にする,などがある(図)。この語は本来,音節の〈脱落〉を意味するギリシア語の文法用語であったが,14世紀にいたって音楽理論に転用されるようになった。…

【ネクタイ】より

…単にタイtieともいい,首やシャツの衿の回りに巻いて結ぶ帯状,ひも状の布のことで,おもに男子服の装飾のために用いる(図)。古くは古代ローマ時代の兵士の巻いていた,フォカレfocaleと呼ぶ帯状のウールの首巻にさかのぼるといわれるが,直接の起源は17世紀のイギリスとフランスに登場したクラバットcravateであった。…

【橋】より

…ただしこの場合も,車両などの移動荷重の載荷位置によっては圧縮力のほかに曲げも加わる。 アーチの両端を真直ぐな部材(タイtie)でつないだものをタイドアーチという。水平反力はタイに生ずる引張力で受けもたれて支点には伝わらない。…

【魚味始】より

…真菜始,真魚始とも書き,魚味の祝とも,略して魚味ともいう。マは美称,ナは魚の意。平安朝の宮廷貴族社会で行われた通過儀礼の一つで,小児に初めて魚鳥の肉などの動物性食品を与える儀式をいう。誕生後20ヵ月というのが一応の標準だったらしいが,実際には11ヵ月,13ヵ月,15ヵ月,19ヵ月,25ヵ月などいろいろで,数え年3歳という例もみられる。魚としては鯛が用いられた。1人が小児を抱きかかえ,別の役がまず鯛を含ませ,次に御飯,次に漬汁,あるいは焼鯛1箸,次に雉(きじ)を1箸,次に御飯を汁物に漬けたもの2箸などの例がみられる。…

※「たい」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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