目次 日本 古代 中世 近世 城郭建築 城郭の終焉 中国 中東 古代地中海世界と西洋 古代 中世 ルネサンス以降 中世社会と城郭 人類の発生以来争闘は絶えることなく,定住生活が始まるとともに外敵の侵入に対する防御が必要とされたが,集落が形成されると集落単位で柵や環濠を設けたことが知られる。日本でもすでに弥生時代の集落址にこうした例が多くみられ,これらがのちの城郭の先駆的形態と考えられる。しかし整備された城が特に必要とされるのは都市や国家の成立に伴ってであり,他の国家・種族の襲来に備えることはもちろん,領内の被支配者からの攻撃に備えて城を営むことも,世界各地で近世まで行われた。城の形態や機能,役割は歴史的に,また地域・民族によってさまざまである。城は単に軍事的拠点であるだけでなく,政治・経済・文化の中心ともなり,また権力のシンボルでもあった。
日本 〈城〉という言葉には,建物だけをさす用語法もあるが,建物の設けられた一定区画の土地とその防御施設も含めた総体をさす用語法の方が正しい。また,居住施設としての比重の高い館 (たて)や環濠集落,あるいは城壁で囲まれた都市を含める場合もあるが,その場合は城郭や城館という語を用いた方がよい。 執筆者:村田 修三
古代の城柵は7世紀中ごろの天智朝以前の神籠石 (こうごいし)と,天智朝に唐や新羅に対する防備のため対馬の金田城,讃岐の屋島城をふくむ九州から大和にまで築いた城,8世紀の怡土(いと)城などの西国の防御的な山城 (さんじよう)/(やまじろ)と,8,9世紀に東北経営の拠点として築いた平城(ひらじろ)または平山城(ひらやまじろ)に分けることができる。
天智朝の百済人の指導による築城は,実戦的に防御正面に急峻な地形を選び,その背後に山稜がめぐる谷をとりいれた楕円形の平面をもち,山稜を石垣や土塁でつないでその間に数ヵ所の城門を配している。防御線の内側に兵舎や数十棟の倉庫を配している。北九州では大宰府の大野城とその南西に対する基肄(きい)城,肥後の鞠智(きくち)城,また河内と大和にまたがる高安城はこの典型といえる。これに比べ怡土城は山頂から北西と南西に降る尾根に数ヵ所の楼を築き,平地にのぞむ正面を石垣で築いた三角形の城で,防御より遠征軍の基地の威容を示す意図が強い。
東北地方の城柵は築地塀や柵木をめぐらし,一定の間隔で塀や柵上に櫓(やぐら)を構えるが,門は八脚門で,中心部に正殿と脇殿を配した政庁的な内郭をもち,防御拠点よりも国府と同じ行政的機能を重視したものといえる。8世紀の陸奥の多賀城 ,それをとりまく桃生(ものう)城,伊治城,玉造柵などや,出羽の秋田城は丘陵に立地する平山城であり,9世紀の胆沢(いさわ)城 ,志波城は北に川をみる台地上での平城,徳丹(とくたん)城,城輪柵遺跡はまったくの平城で,払田(ほつた)柵遺跡では中央政庁を小丘に築き平地に柵 をめぐらしている。 →国府 →都城 執筆者:坪井 清足
戦国時代の城を例に城の基本的な構造を述べると,将兵の宿営する建物や倉庫を建てる場所,あるいは戦闘の足場や陣地を確保するために削平された平場が曲輪 (くるわ)(郭)で,これを防御する施設として堀 や土塁のような普請(土木)物,柵,塀,櫓 (矢倉),木戸 のような作事(建築)物が付属する。山城(やまじろ)では,自然の斜面やこれを補強した切岸が防御施設の代りになるので,堀(空堀,壕)や土塁の伴わない場合があるが,平城では地続きを遮断するための堀(水堀,濠)は不可欠の要素である。以上の諸要素を組み合わせてできる平面プランが城の縄張である。
城の種類は,立地によって平城,平山城,山城,丘城,台地城など,機能や規模によって本城,支城(出城),あるいは居城,砦(とりで)の区別があり,支城や出城の中には付城(つけじろ)(向城),陣城,繫ぎ城,番城,狼煙台(のろしだい)などがあるが,見方によって区別は一様でない。これらの区別が可能なのは中世城郭で,近世城郭は大名の居城だけとなった。
中世城郭は館の防御施設が発達し,規模も大きくなって平城となっていく途と,山野に臨時に単独で設けられた逆茂木(さかもぎ)や堀などの防御施設が恒久化し,曲輪と結びついて山城になっていく途とがある。平安時代後期から南北朝時代初期にかけて〈城郭を構える〉と表現されたものの実態は,寺院の転用例を除けば,ほとんどがこの二つの途の発展途上にあるものとみてよい。仮設の陣地が曲輪として固定され,防御施設と結びつくのは南北朝内乱からと推定される。山城では楠木正成の千早城など,平城では大和の戒重(開住)城,河合城などが,堀,塀,矢倉等を備えた城として,史料的に確かめられる早い例である。
平地の館は,周囲に堀をめぐらし,門に矢倉を上げる程度の防御の構えは備わっていたことが,絵巻物などからわかるので,平城と厳密に区別することがむずかしい。また,館を防御の便宜上から丘や台地に移したものは,防御施設が簡単でも,城に接近したものと評価できる。そこで館と城の中間的なものを館城の名で呼ぶことが便利である。丹波の大内城は丘上の館城としては最も古く,平安末期にさかのぼることが発掘調査によって明らかにされている。館城は南北朝期以後も,地侍層の成長に伴って各地に築かれた。伊賀や近江の甲賀のように地域的な一揆結合の盛んな地域では,戦国末期まで小さな単郭の館城が城郭の主流を占めた。しかし一般的には,地侍層を支配した国人領主の山城が代表的であり,戦国大名の居城もその発展形である。
国人領主の山城は,麓の館(根小屋 (ねごや))とセットになっているのが普通である。館が平時の居住施設であるのに対して,山城は戦時に詰める軍事施設(要害)である。南北朝期の山城が広域の戦略上の必要から高くて不便な山に築かれたのに対して,室町時代の国人の山城は,所領支配の拠点という在地に密着した性格を持っていたので比較的低く(多くは比高100m台),集落と連絡しやすい山に築かれた。軍事的な緊張の強まる戦国時代になると,山城に多数の軍兵が長期間立てこもる必要が生じ,拡張されて居住機能を増した。麓の館が下屋敷とすれば,上屋敷に相当する曲輪が山城の中に設けられる。この段階の城は居城と呼ぶことができ,軍事機能専門の他の小規模な城,俗に砦といわれるものと分化する。一つの領主権力下で両者が併用されるとき,居城を本城,砦を支城と位置づけることができる。戦国大名権力の下では,国人領主の本城が大名の居城に対して支城に位置づけられる。大名は既存の城だけでなく,領国支配と遠征の必要から,番城,陣城,付城等の目的に応じた支城を新規に築いた。その動きは大名権力の強化に伴って進み,築城術を飛躍的に発展させる。石垣を使用することが多くなる西国に対して,土だけの東国(特に武田・後北条両氏)の城では空堀(特に横堀)と土塁の使い方がじょうずで,虎口 (こぐち)(郭の出入口)における馬出しと升形(ますがた)の発達を見た。
大名居城では,家臣団の集住とそれを経済的に支える城下町の建設という課題に直面し,肥大化した城郭を長大な外郭線で囲い込む総構えの手法が導入されるようになるが,従来の山城のままでは無理な場合が多いので,平山城ないし平城へ移らざるをえなくなる。その早い試みが織田信長の安土城,後北条氏の小田原城 で完成される。この織豊期に諸大名は次々と本城の位置を変え,政治・経済の中枢機能を担う近世城郭の時代へ転換していく。 執筆者:村田 修三
近世 近世城郭の先駆となったのは,松永久秀が奈良の佐保丘陵に築いた多聞(たもん)城(多聞山城 )と,織田信長が上洛を果たし,将軍足利義昭のために築いた二条邸 ,そして1576年(天正4)みずからの居城として築いた安土城 である。近世城郭の特徴となる石垣と,その上に建つ白漆喰(しつくい)塗籠建物はすでに多聞城にあり,天守(主)閣は安土城において初めてつくられた。しかしこれらの城は,短期間存在しただけで破壊される。安土城が本能寺の変で焼失した翌年(1583),信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉は大坂石山に築城を開始し,1598年(慶長3)に没するまでの15年間に数次の普請を行って完成させた大坂城 は,近世城郭の典型といえる。さらに関白となった秀吉は,京都の邸として聚楽第を築き,太閤となったのちには風光明媚な伏見に城を築いた。これらの城普請に動員され,またその城下に屋敷をもった諸大名が,国許の居城を築くにあたって手本としたのは大坂城などであった。しかしたび重なる普請と戦役への動員によって諸大名にはなかなか居城を築く余裕がなかった。秀吉の弟で豊臣政権の宰相であった豊臣秀長が,大和郡山城の改修にかかるのが1587年(天正15),最大の大名であった毛利氏が秀吉のすすめにより,山城である安芸吉田の郡山城を離れ,広島に築城するのは91年のことである。広島城の縄張は聚楽第に倣って行われたが,秀吉の各城の縄張を担当していた黒田孝高(如水)によるものである。そしてこれらの城に天守が完成するのは,文禄年間(1592-96)のことである。
文禄・慶長の役(1592-93,97-98)に際して,秀吉は朝鮮への前進基地となる肥前の東松浦半島北端に名護屋城 を築き(1591),朝鮮に渡った諸侯は占領地に日本式の石垣造りで城を築いた(倭城と呼ばれる)。しかし秀吉の死によって朝鮮半島から撤兵し,名護屋城もまもなく廃城となった。慶長の役の2年後,1600年(慶長5)に関ヶ原の戦で勝利をおさめ,天下人となった徳川家康は諸大名の国替を行った。そのため大名は,それぞれ新たに居城となった城の本格的な普請にとりかかった。家康が江戸城 に入ったのは1590年の小田原の役後であるが,1603年幕府を開くと,06年から藤堂高虎に縄張を命じ,近世城郭への大改築を開始した。その後,数次の普請によって江戸城は,幕府の本拠にふさわしい威容を整える。なお普請は,大坂城などの場合と同じく,諸大名に分担させるやり方(天下普請)で行われた。さらに幕府は大坂城の豊臣家と豊臣氏恩顧の西国諸大名に備え,姫路城や丹波篠山(ささやま)城,越後高田城(現,上越市)などの重要拠点にあたる城を,同じく天下普請で改修させた。なかでも重視されたのは名古屋城 で,その天守は大坂城をはるかにしのぐ規模(1階面積において2倍)であった。その完成をまって幕府は14年から大坂城を攻め,翌15年豊臣氏を滅ぼした。この大坂の陣は,大坂城への攻城戦が主要戦闘となり,近世城郭が実戦においていかなる効果を発揮するかが試される,またとない機会となった。事実幕府軍は,冬の陣で大砲を用いて効果をあげたものの城を攻めあぐみ,夏の陣では政略によって堀を埋められた大坂方が城外での戦いを強いられ,兵力を損耗するとともに城を支えることができず敗北した。
近世の城は軍事的拠点であるばかりでなく,政治・経済の中心としての意義が重視された。そのため,平野にあって大河や海・湖に臨む,小山あるいは台地の端に築かれた。水運の便と防御上の優位を考慮した立地といえる。安土城は琵琶湖に半島状に突き出た低い山(比高約100m)に築かれ,大坂城は平野の中央を南北にのびる台地の北端を占め,当時東側を大和川が北流し,これを合わせて北側を流れる淀川が大坂湾へそそいでいる。琵琶湖-淀川-瀬戸内海は交通の大動脈であった。戦国時代の城は,山上の砦と山下の居館からなっていたが,近世の城ではそれらが一体となった。安土城では山頂の天主に信長が居し,山腹に石垣で造成したおびただしい数の小さい曲輪に,家臣たちの住居が配された。戦国大名の家臣はおのおのの領地に住み,戦いに際して城へ集まったが,信長の家臣は安土に住まわされ,常備軍を形成した。
城と同時に城下町 が計画的に建設されたのも近世の特徴である。戦国大名の城下では,山下の居館の周囲に定期的な会議に集まる家臣たちの宿所や,寺社,御用商人の住居などからなる集落(根小屋,宿)があり,定期市の開かれる町場は,それからやや離れた交通の要地にあるのが普通であった。これに対して安土城下は,山下の宿と市場町が一体となった都市で,楽市楽座などの城下振興政策が実施された。水運の便は,城下の商業活動の上からも重要であった。安土は近世城下町の先駆であったが,大坂はさらに大規模であった。防御上の正面(大手)にあたる城南の台地上に大名邸や家臣団の住宅,寺院を配し,水運に恵まれた城の西側の低地に町がつくられた。そして小田原の役後には,城下を囲む総(惣)構(そうがまえ)の堀が整備され,人質ともなる大名の妻子を住まわせる邸が,総構の内に建てられた。このように城の防御と町の経済的発展の見地から,武家地,寺院地,町屋を計画的に配置した大坂は,近世城下町の典型であった。
防御性を多少犠牲にして平野に築かれた近世の城郭には,防御力を強化する新たな工夫がなされた。その中心は堀 と石垣 である。堀は広く深くなり,その両側に石垣が築かれた。戦国時代の山城にも石垣が部分的に使われていたが,平野の城でこれを全面的に採用したのは信長の築いた二条邸からで,大坂城において大飛躍をとげる。そして関ヶ原の戦後の本格築城時代に,石垣造りの城が一般化した。ただし東日本では,適当な石材を得がたいという自然条件から土塁のままであった城が多く,遠く伊豆から石材を運んで築いた江戸城などは例外的である。各地の築城では,安土城の石垣普請に携わった近江穴太(あのう)(現,大津市穴太付近)の石工が活躍し,穴生 (あのう)が石垣師の代名詞となったほどである。また彼らに加え,石材の産地である播磨から瀬戸内海へかけての石工たちの活躍もあったに違いない。
城郭建築 城郭の建築が重要となったのも近世の特徴である。防御力強化のために頑丈につくられるとともに,城主の武力・権力の象徴として美しくりっぱに仕上げられ,また政治の拠点としても種々な施設が必要とされた。
(1)門 中世の絵巻には,城や館の門上に楯を並べて囲った簡単な見張り用の矢倉が描かれている。これが本格的建築となったのが,近世城郭の櫓門(やぐらもん)である。扉は鉄板や鉄鋲で補強され,安土城や大坂城の〈黒鉄(くろがね)門〉の名の由来となった。文禄・慶長の役後は,櫓門の前に高麗(こうらい)門と呼ばれる門が建てられ,櫓門とともに石垣の塀で囲った升(桝)形 が完成する。(2)塀 戦国時代は土塀であったが,漆喰塗壁,下見板張り,瓦葺きに変わった。そして矢狭間(やはざま)に加え鉄砲狭間が設けられた。(3)櫓 戦国時代の仮設的な矢倉が本格建築となり,曲輪の隅に2階建てで築くのが一般であったが,3階建てとする場合もあった。大和で勢力をふるった松永久秀の多聞城には,安土築城以前,すでに4階建ての櫓があった。〈多聞櫓(たもんやぐら)〉と呼ばれるのは,戦国時代の城にあった兵士の宿舎となる掘立柱長屋を本格建築に変え,櫓としても使えるよう石垣端に建てたものとみられるが,その起りも多聞城にあった。(4)天守 戦国時代には,城主の居所ともなった櫓を権威のシンボルとしてみたようであるが,信長は安土城において〈天主〉と称する独特の建築をつくってそれに代えた。〈天主〉は信長の住いとなる巨大な三重櫓の屋根上に,朱塗り金箔押しの二階建物をのせ,屋根裏階と地階(石垣内)を加えて7階もの〈唐様(中国風)〉の建築であった。秀吉は大坂城に天守(秀吉の時代以降,天守と書くことが多くなる)を建てたが,内部は宝物蔵として用い,ここに住まなかった。その後,秀吉のすすめで大和郡山城や広島城などに天守が築かれ,関ヶ原の戦後は家康の承認の下で,有力大名が競って天守を建てた。小大名は,三重櫓や〈御三階〉と呼ばれる住宅風建築で天守に代えた。現存の天守については表を参照されたい。(5)御殿 安土城の天主や行幸御殿は,狩野派の手になる金碧障壁画で飾られていたが,大坂城本丸には,その規模をはるかに凌駕する二つの御殿があった。対面所を中心とする表御殿と秀吉の私的住居である奥御殿がそれで,山里(やまさと)と称する庭園もあり,松林の奥に茶室がつくられていた。このような御殿のつくり方は,大名邸や大名の居城の御殿にうけつがれた。この種の御殿で現存しているのは,寛永御幸(1626)前の建物である二条城二の丸御殿の主要部だけである。
安土城天主を手がけたのは尾張の熱田大工,大坂城は法隆寺大工 であったが,ほかに京都,近江,堺,紀州など,中世からすぐれた建築に携わってきた各地の大工 が,城の建築に腕を競った。
城郭の終焉 大坂夏の陣の翌1616年(元和2),幕府は一国一城令を発して,大名の居城を除く諸城の破却,居城修復の際の届出許可制を強いた。これは戦国大名に始まり,信長・秀吉が支配地ですすめた城割りを徹底させたものであった。これによって30余年の築城時代は終りを告げる。しかし幕府は,伏見城を廃城とし,それに代わる西日本のおさえとして大坂城を再築し,江戸城でも普請を行っている。幕末に至って海外から門戸開放要求が強まり,沿岸部を主とする防衛体制が必要とされたのに応じ,幕府は箱館に大砲攻撃に耐えうるよう工夫された,西洋式築城法にもとづく五稜郭 を築いたが,城郭建設の歴史は五稜郭を最後として,幕府崩壊とともに終わった。 執筆者:宮上 茂隆
中国 高い堅固な城壁にとり囲まれることが旧中国都市の特色であった。秦・漢時代,すでに城郭の民すなわち漢民族は,行国の民(遊牧民族)と区別され,城郭は文化をもつ漢民族の象徴と意識されていた。また中国のなかでは,城郭は都市と農村を分ける最大の標識として,政治,社会,財政など多くの面で区分の具体的な道具にも使われた。その最も古いものは第2次大戦後調査が進んだ河南省鄭州 の殷代城壁である。鄭州では四面1720~2000mの長方形をなし,高さ10m,基部の幅15~17mの土をつき固めた(版築)大城壁が前1500年以前に存在していた。これは殷の一国都として例外的にりっぱなもので,他の集落,都市はおそらく丘陵部を借りて防衛に最も適した場所に,王侯の居城,祭祀廟などをつくり,山丘の麓に民居を広げていたであろう。やがてそれらが城壁で囲まれ,しだいに築城が堅固になって,外敵や洪水が防げると,平野部に進出していった。それと同時に,内城-城,外城-郭の分化も明確になったと思われる。なお,城は土を盛る,郭は区切った囲いの意味で,郭を郛(ふ)とも呼ぶ。
戦国時代の城郭としては,燕の下都(かと)や斉の臨淄(りんし)などが発掘されているが,いずれも人居密集区の外に農地や墓地をも囲いこみ,一辺4km以上にもおよぶ広さをもつ。非常時ともなれば周囲の農民もすべて収容するはずだったろうが,県城クラスの城郭の内部でも,20世紀にいたるまで耕作地,空地が多い例は珍しくない。国都や重要大都市を除き,大県周囲9里,小県周囲4里(1里は約450m)の標準で城郭都市が数多く出現するのは戦国時代以後で,漢代には全国で約1500に達した(県 )。概していえば,華北,華中のすべての州県治は城郭をもち,華南のそれも11世紀以後は城郭を完備するようになっている。ただ宋代の例でみると城壁は堅牢になるが大きさは下中県では2,3里の小さいものが目だつ。
城壁は古くから長さ6尺幅6寸の板で土を挟んでたたき固める版築法が使われ,五胡の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が築いた延州豊林県城はたたけば火花が出たほど堅くできていた。時代が下ると日乾,または焼成煉瓦が使われるが,普遍的になるのは明・清時代で,表面だけ煉瓦で被覆したものも少なくない。この煉瓦は42cm×24cm×12cmと一般の大きさの数倍ある。城壁の高さは南京の19.8mの部分が最高で,普通は7~8m,厚さは2~5mである。防備のため,城壁の上には凸形の女牆(じよしよう)が連続し,四隅や城門上には楼屋を設ける。また宋代以後は直線面に約150mの間隔で馬面(ばめん)と呼ぶ長方形の張出部をつくり,壁下の敵襲に備えた。城門は国都などは《周礼(しゆらい)》にもとづき12門を基準としたが,州県程度では規模に応じて2~4門,城門の外側には半月形の甕城 (おうじよう)と称する副城壁や,内側に日本の升形のような防壁を設けることも宋代に普遍化する。
城の形は,華北では方形,長方形が大部分で,山西や陝西では軍事上の必要から甕城をさらに強化,拡大した関城を設ける場合もあったが,華中や華南では円形,楕円形,不整形の城も目だつ。唐以後の国都やいくつかの大都市では2重,3重の城壁をもち,明・清時代の北京は4重の城郭を備え,内城(子城),外城(羅城)など呼名も分かれている。城壁の周囲に濠をめぐらすことは軍事上必要であったが,華北ではとかく埋まりやすかった。ただ日本のように濠から城壁が直接たちあがる例はまれ。城壁は20世紀に入って近代化を阻害するとしてしだいに撤去され,人民共和国でも特別の都市を除き急速に消滅している。 →都市 執筆者:梅原 郁
中東 アラビア半島で最も早く築城術の発達したのは南西部地方である。紀元前からイエメン(ヤマン)地方には城郭が出現したようで,巨大な石の壁などを積みあげる技術は,現在から見ても驚くほどである。城郭ではないが,前8世紀ごろのマーリブのダムなど,巨石の壁が15m以上に達し,その一部は現存しているほどである。アラビア半島中北部には城らしいものはなかったとふつういわれているが,ヒスンḥiṣn(ヒスナḥiṣna),カルアqal`aなどということばは城砦を意味し,イスラム以前から存在したらしい。6世紀の前半,ユダヤ教を奉ずるアラブのサマウアルSamau'al b.`Ādiyāが現在のタイマーTaimā'の付近のアブラクal-Ablakの城に立てこもった話は《歌謡の書》19巻などに見え,サマウアル自身の詩に,〈堅固な壁の城,思うままに水の汲める井戸のある……〉の一節がある。イスラム以後になると,アラブはビザンティン帝国 やペルシアの領土をひろく征服したが,その多くの都市はみな城壁をめぐらしたものであり,ダマスクス やエジプトのバビロン城などの攻略物語は,当時の城壁のありさまを推察させるものがある。したがってそれ以後は,築城術もこれら先進国の影響をうけたが,ウマイヤ朝 (661-750)時代にはビザンティン建築のそれが強く,アッバース朝 (750-1258)にはいるとペルシアの影響が濃くなった。カリフ,マンスール が築いたバグダード の円城(ムダッワラal-Madīna al-Mudawwara)なども,ペルシアの様式が著しい。城壁は正円形で三重,外城の直径は約2.5km,外城の周囲には堀をめぐらし,建築材料はおもに日乾煉瓦であった。アラビア語カスルqaṣrは,もとはラテン語のcastrumであるといわれ,ふつうは宮殿と訳されているが,非常時には城塞として役だつような構造のものが多かった。サウジアラビア の首都リヤードの以前の王宮なども,しばしば要塞として役だった例があり,その外にこの都をめぐる城壁もあったのである。シリアには十字軍が建てた城がいくつか残っているが,これは中世のイタリアやフランスの築城術にビザンティン帝国やイスラムの進歩した技術を取り入れたものであり,これはまた12世紀以後のイスラム教徒 やヨーロッパ築城法にも影響を及ぼした。イスラム側について見れば,サラーフ・アッディーン (サラディン)によってカイロの南東の高地ムカッタムの丘に建てられた城砦(1176-1207)がその好例である。シリアに残る十字軍の城の多くが深い谷奥や山頂に築かれているのに対して,イスラムの城は都市の城壁内か,あるいはこれに隣接して築かれている場合が少なくない。これはイスラム教徒にとって,城の建設は難攻不落の場所に軍事的な拠点を構築するというより,むしろ政治・経済の中心である都市を守ることに主眼点がおかれていたことを示している。 執筆者:前嶋 信次+佐藤 次高
古代地中海世界と西洋 古代 古代の城はおおむね都城であって,古代メソポタミア の都市は高い市城壁で囲まれ,弓の射程距離ごとに突出した側射用の角塔を設け,特に市門は塔門で堅固に防備されていた。古代エジプトは強大で安定した帝国であったためか,市城壁をもつ都市は見いだされていないが,南方のヌビアへの蛮族の侵入を防ぐため,ナイル上流には多数の城郭が設けられた。これらは,高い城壁で囲んだうえ,さらに低い城壁や堀で囲み,多数の側射用角塔を設けるなど(ブヘンの城砦,前1900ころ),高度に完成した形式を備えており,すでに西欧中世初期の城郭をはるかに超える段階に達していた。
エーゲ海文明の建築では,クレタ島の宮殿には防備施設がほとんど見られない。ギリシア本土のミュケナイは巨石を積んだ城壁(前1250ころ)で囲まれているが,塔はまったく設けられておらず,ティリュンス の城砦(前1300ころ)で,はじめて側射に配慮した城壁の築き方が現れてくる。しかし,ギリシアの諸都市では,地形に応じた不整形の市城壁で囲み,側射用の角塔や升形門が備えられるようになった。とくに,アテナイとその外港ペイライエウスを結ぶ大市城壁(前5世紀)は著名である。古代ローマ市のいわゆる〈セルウィウス の市壁〉(前6世紀)と〈アウレリアヌス の市壁〉(270ころ)も古代世界を代表する大市城壁で,後者で囲まれた市域は17.83km2 に及んでいる。これに対応する東方の実例は,コンスタンティノープル の〈テオドシウス の大城壁〉(5世紀)で,角塔をもつ二重の城壁の前に堀を設け,難攻不落を誇っていた。ローマ帝国の築城術と攻城術は,このようにして東地中海地域のビザンティン帝国とイスラム世界に継承されていったが,他方,西欧地域では西ローマ帝国の崩壊に伴って,古代の築城術はほとんど忘れ去られた。
中世 西欧中世初期の封建領主は,ほとんどすべて簡素な木造の建物に住み,その周囲を土塁や木柵で囲む程度の防衛施設しかもたなかった。やや進んだ形式を備えるようになったのはノルマン人騎士たちの居城で,〈モット・アンド・ベーリーmotte and bailey〉システムと呼ばれる。モットは小丘のことで,円形の空堀を掘り,その土で中央に小山を築き,その頂上に丸太杭を密接させて打ち込んで円塔形の天守(キープkeep,ドンジョンdonjon)をつくり,それを城主の居館とした。こうした内郭の一端に隣接して,より広い敷地を囲んで外郭の堀を掘り,周辺に柵を打ち込んで,一族郎党の居住家屋を設けた。内郭と外郭の間の堀には木橋をかけ,非常の際はこれを焼き払って,内郭と天守に立てこもった。このような城内の区画(郭,曲輪)をベーリーと呼ぶ。当時の最も恐るべき兵器は火矢であったから,戦時には天守の壁や屋根を獣皮で覆い,火災を防いだ。
11世紀から経済と技術の向上に伴ってヨーロッパ諸都市の勃興が始まり,同時に城郭の木造天守も石造で角塔状に改築されるようになり,内部には,1階に衛兵所,上階に大広間,武器庫,礼拝堂などが設けられた。しかし,西欧の城郭に画期的な影響をもたらしたのは第1次十字軍遠征(1096-99)であった。このとき十字軍はニカエア,アンティオキア などで大市城壁に挑み,アンティオキアでは7ヵ月,エルサレムでは5週間という大苦戦を強いられて,ようやく攻略することができた。12世紀初頭から,十字軍の騎士たちは東方の占領地に多数の城郭を築いてイスラム軍の反攻に備えたが,これらは通例,内郭を外郭で囲み,二重の城壁と空堀を備え,東方の都城の築城技術をコンパクトな西欧的城郭に巧みに取り入れていた。これらのなかで最も完全な城郭といわれたのがシリアにあるクラク・デ・シュバリエ (〈騎士の城〉の意。12~13世紀初期)である。十字軍の城の特色は,直ちに西欧の城郭に反映され,リチャード1世(獅子王)がフランスのノルマンディー につくったガイヤールGaillard城(1197)のような傑作を生んだ。このころには,破壊されやすい角塔に代わって円塔が広く採用されるようになった。また,ヨーロッパの諸都市もそれぞれの市城壁を整備していったが,なかんずく南フランスのカルカソンヌ の市城壁(13世紀)はその完ぺきさで名高い。また,ガイヤール城 の陥落(1209)が天守の孤立に起因したという経験から,クーシーCoucy城(1225-40ころ)のように,直径32m,高さ51mという巨大な円筒形天守を城郭の最前面に突出させるという斬新な設計が現れた。
イングランド王エドワード1世(在位1272-1307)は1283年以降,ウェールズ征服のため多数の城郭を建造したが,これらは〈エドワード式集中型城郭 〉と呼ばれ,円塔をつけた二重の城壁で同心状に囲む特色をもち,そのなかでも代表的なハーレックHarlech城(1285ころ-90)とボーマリスBeaumaris城(1295-1323)では,高い内城壁を低い外城壁で囲み,整然とした対称形平面であるが,天守はなく,その代りに,それだけで独立した要塞となりうる巨大な城門を内城壁から突出して設けた。これは,城郭は直接的な攻撃によるよりも,謀略や内部からの謀反で陥落することが多いことに配慮し,城門や円塔の独立性を重んじた結果である。他方,城郭の形体が対称形に美しく整えられたことは,すでに戦乱の時代が遠のきはじめ,城郭が防備施設から権威と秩序のシンボルへと変化しはじめたことを示している。フランスのピエールフォンPierrefonds城(1392-1411ころ)は,このような形式の完成と内部の居住性の著しい向上を示している点で,中世末期の代表的城郭といえよう。
ルネサンス以降 15世紀から急速に発展した大砲の出現により,古代的な市城壁や中世的な城郭の防備力はほとんど無力なものとなり,主要な戦闘は野戦に移った。したがって築城術の中心課題は,砲台に重点をおいた星形稜堡や野戦用の独立要塞の建造に転じ,やがて17世紀にはフランスのボーバン のような傑出した軍事エンジニアが出現した。それゆえ,ルネサンス以降の城は,たとえ〈城〉という名称で呼ばれていても,もはや実質的には防備施設ではなくて居館・邸宅・宮殿にすぎず,それは,外壁の下部まで設けられた大きな窓によって端的に証明されている。フランスのロアール川流域の城館群(16世紀初め),ドイツのハイデルベルク城 (1531-1612)などが,その好例である。 執筆者:桐敷 真次郎
中世社会と城郭 軍事目的のための典型的なヨーロッパの城は,12世紀を中心とする前後200年,すなわち11世紀半ばから13世紀半ばにかけての封建社会の最盛期と一致する。それは,ヨーロッパにおける集村の形成,都市の出現,キリスト教世界と小教区制の成立,大学の始まりなど,ヨーロッパの社会と文化の今日的な基礎,出発点が与えられたときであった。当時は,農学上の技術革新に支えられてヨーロッパに開墾運動が活発に展開され,穀物の収穫量とともに人口も2倍から3倍に飛躍的な増加を見,社会的エネルギーの噴出した,画期的な,活力ある時代であり,これに見合う時代は19世紀半ば以降の産業革命,そしてとくに第2次大戦後の経済成長しか存在しない。当時各地に雨後のたけのこのように簇生したカテドラル(大聖堂)や城は,このことをよく物語っている。
当時建立された,あるいは建てられ始めたカテドラルは,神の住いとしての永遠性を追求したものであり,今日までよく保持されている。これに対し城は,築くのに緊急性を必要としたためにつくり方もていねいではなく,また14,15世紀以降,封建社会の衰退,国王権力の伸張とともに積極的に取りこわされたために,今日ではほとんどすべてが,小高い丘の上などに,残骸として孤高の美しさをとどめるのみである。ガイヤール城やシノン城のように完全な廃墟と化しているところもあれば,ドンジョン(キープ)の外観は保たれているものの,内部が崩壊して立入禁止のもの(ボージャンシー ,エタンプその他)や市の貯水塔に利用されているもの(ウ・ダン),あるいは補修のうえタピスリー博物館(アンジェ)や小学校,役場(リュジニャン )に用いられているところもある。
ヨーロッパ封建社会の城は,その周辺数ヵ村の支配・防衛上の拠点として,自然ないし人口の丘の上に築かれ,その下には城下町が形づくられた。中世の戦いにおいては,城を直接攻撃する以上に村荒しがしばしばなされたが,その際,城主は農民たちを城内に入れて避難させた。農民たちは家畜を連れ,ドンジョンを守る内郭,外郭のうち,外郭内側の外庭に野宿した。この意味で城は,まさに農村・農民のための軍事施設であった。そしてドンジョンの入口がつけられていた2階は,会議や宴会の催された公的な場であり,3階以上が城主と家族の住いであった。ジャンヌ・ダルクがシノン城で国王シャルル7世と会見したのも,2階である。1階は巡礼や旅人,旅芸人などが寝泊りし,地下は牢屋や穀物・ブドウ酒などの貯蔵庫として用いられた。ヨーロッパの城は,戦国時代末期から江戸初期にかけて建てられた日本の城とともに,世界史上ユニークな性格と機能を備えている。両者は第1に,いずれも農業社会における政治権力(貴族,大名)の住い,居城である。そして第2に,河川や陸路の交通の要衝地に建てられた,平城である。さらに第3に,これが最も重要であるが,ドンジョンや本丸から眺めれば小麦畑やブドウ畑,そして水田や畑が見渡せるように,両者は農村社会の対外防衛と対内秩序維持を目的,機能とするものであった。それは,この両者だけが堅固な城によって防衛するに値する,きわめて緻密でコンパクトな,農村社会とこれを支える政治権力を生み出したことを意味している。両者の政治権力,すなわちヨーロッパの封建貴族権力(大陸)と日本の大名権力が,それぞれ治安維持権力として領域性,一円性を備えたものであった点でも共通しており,農村社会の政治システム としての封建制を典型的に発達させた点も両者に特徴的である。 →城攻め →ブルク 執筆者:木村 尚三郎