(読み)ジョウ

デジタル大辞泉 「城」の意味・読み・例文・類語

じょう【城】[漢字項目]

[音]ジョウ(ジャウ)(呉) セイ(漢) [訓]しろ
学習漢字]4年
〈ジョウ〉
城壁を巡らした町。天子や王の居所。都市。「城市王城宮城都城
防備のために堅固に築いた建造物。しろ。とりで。「城塞城主牙城居城古城築城長城本城名城落城籠城ろうじょう
山城やましろ国。「城州
〈セイ〉しろ。「傾城けいせい
〈しろ(じろ)〉「城跡出城根城
[名のり]き・くに・さね・しげ・なり・むら
[難読]磐城いわき奥津城おくつき葛城かつらぎ

しろ【城】

敵襲を防ぐための軍事施設。古代には朝鮮・蝦夷えぞ対策のために築かれ、中世には自然の要害を利用した山城やまじろが発達したが、このころのものは堀・土塁・さくなどを巡らした簡単な施設であった。戦国時代以降、政治・経済の中心地として平野に臨む小高い丘や平地に築かれて城下町が形成され、施設も天守を中心とした堅固なものとなった。き。じょう。「を明け渡す」
他人の入って来られない自分だけの領域。「自分のに閉じこもる」
[補説]書名別項。→
[類語]とりで城郭出城シャトー

し‐き【城/×城】

《「し」は石、「き」は城という》
城。とりで。
「―を得爾辛に助けかしむ」〈欽明紀〉
周囲に岩石をめぐらした祭場。
「―の神籬ひもろきを立てて」〈倭姫命世記

しろ【城】[書名]

《原題、〈ドイツ〉Das Schloßカフカの長編小説。未完。著者没後、友人マックス=ブロートが遺稿のノートを整理して1926年に出版。測量士のKが城の主に雇われるが、どうしても城の内部にたどり着くことができぬまま村に留まり続ける不条理小説。

き【城/柵】

敵などを防ぐために垣をめぐらした所。とりで。しろ。
「筑紫の国はあた守るおさへの―そと」〈・四三三一〉

せい【城/情】[漢字項目]

〈城〉⇒じょう
〈情〉⇒じょう

じょう〔ジヤウ〕【城】

とりで。しろ。城郭。
「―の内より石弓はづしかけたりければ」〈平家・二〉

さし【城】

《古代朝鮮語からという》しろ。
「新羅に到りて五つの―を攻めて抜きえつ」〈推古紀〉

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精選版 日本国語大辞典 「城」の意味・読み・例文・類語

しろ【城】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 敵の来襲を防ぐための軍事的施設。古代では朝鮮半島からの来寇に備えた九州北部の大野城などがあり、また、東北の蝦夷対策のための多賀城や払田柵(ほったのさく)などがあった。前者は山の斜面、または尾根を利用して土塁・柵などをめぐらしたものであったが、後者は単なる軍事的施設ではなく、地方官庁的性格を合わせもったものであった。中世では山上に築き、山下に居館をおいていたが、このころのものは堀・土塁・柵などをめぐらした程度の簡単な施設しかなかった。室町時代末以後、戦乱が長引き、戦闘の規模が拡大してくると、山上の山城では常時の領国統治に不便なため、領地の中心に設ける必要が生じ、丘陵を利用した平山城ができ、周囲に家臣の邸宅をおき、城下町が形成され、城の施設も天守を中心とし、堀・石垣・土塀・櫓(やぐら)をめぐらした堅固なものとなった。また、全くの平地に築かれた平城もある。桃山時代には領地の中心にある本城のほか、支城・境目の城・繋ぎの城・詰の城・向城など、いくつかの城を築いたが、元和元年(一六一五)の「一国一城令」により、本城だけが許され、しかもその修理・改築にも厳重な制限が行なわれるようになった。城郭。き。じょう。
      1. [初出の実例]「此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝〈略〉宜山背国山城国」(出典:日本紀略‐延暦一三年(794)一一月八日)
      2. [その他の文献]〔日葡辞書(1603‐04)〕
    2. 比喩的に、他人のはいりこむことを許さない、自分だけの世界。自分だけの場所。「自分の城を持つ」
  2. [ 2 ] ( 原題[ドイツ語] Das Schloss ) 小説。カフカ作。一九二六年刊行。未完。城から招聘された測量師Kを主人公に、一個人の力で巨大な権力機構に立ち向かうことの困難さを描く。

城の補助注記

語源については諸説あるが、[ 一 ]の挙例の「日本紀略」に見えるように、延暦一三年(七九四)に桓武天皇が平安京に遷都したときに、山背国を山城国と改められてから「城」に「しろ」の訓が生じたとする説が有力である。「しろ」を城郭の意に用いた確例は中世以前には見あたらないようである。


ぐすく【城】

  1. 〘 名詞 〙 沖縄の古語で、城(しろ)のこと。沖縄島の中城(なかぐすく)、玉城(たまぐすく)、宮古島の城辺(ぐすくべ)など地名の中に残されている。
    1. [初出の実例]「きこゑ、みやきぜん、ももまがり、つみ、あげて、かはら、よせ 御くすく、げらへ 又とよむ、みやきぜん」(出典:おもろさうし(1531‐1623)一三)

城の補助注記

語源については、「ぐ」は接頭語「ご(御)」、「すく」は「すく(宿)」、「そこ(塞)」、「しき(磯城)」など、諸説ある。


じょうジャウ【城】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 防備のために築いたとりでの一区画。防備の建造物。しろ。
    1. [初出の実例]「数多(すた)の勢を率し、又登山して、さう井坂に城(ジャウ)をして、たてこもり」(出典:高野本平家(13C前)二)
    2. [その他の文献]〔呂氏春秋‐審分覧〕
  2. [ 2 ] 「やましろのくに(山城国)」の略称。

サシ【城】

  1. 〘 名詞 〙(しろ)を意味する古代朝鮮語。
    1. [初出の実例]「高麗の貢(みつき)を阻(ふせ)きて百済(くたら)の城(サシ)を呑む」(出典:日本書紀(720)雄略九年三月(前田本訓))

き【城・柵】

  1. 〘 名詞 〙 外部からの侵入を防ぐために、柵をめぐらして区切ったところ。とりで。しろ。
    1. [初出の実例]「韓国の 基(キ)の上(へ)に立ちて 大葉子は 領巾(ひれ)振らすも 大和へ向きて」(出典:日本書紀(720)欽明二三年七月・歌謡)

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改訂新版 世界大百科事典 「城」の意味・わかりやすい解説

城 (しろ)

人類の発生以来争闘は絶えることなく,定住生活が始まるとともに外敵の侵入に対する防御が必要とされたが,集落が形成されると集落単位で柵や環濠を設けたことが知られる。日本でもすでに弥生時代の集落址にこうした例が多くみられ,これらがのちの城郭の先駆的形態と考えられる。しかし整備された城が特に必要とされるのは都市や国家の成立に伴ってであり,他の国家・種族の襲来に備えることはもちろん,領内の被支配者からの攻撃に備えて城を営むことも,世界各地で近世まで行われた。城の形態や機能,役割は歴史的に,また地域・民族によってさまざまである。城は単に軍事的拠点であるだけでなく,政治・経済・文化の中心ともなり,また権力のシンボルでもあった。

〈城〉という言葉には,建物だけをさす用語法もあるが,建物の設けられた一定区画の土地とその防御施設も含めた総体をさす用語法の方が正しい。また,居住施設としての比重の高い(たて)や環濠集落,あるいは城壁で囲まれた都市を含める場合もあるが,その場合は城郭や城館という語を用いた方がよい。
執筆者:

古代の城柵は7世紀中ごろの天智朝以前の神籠石(こうごいし)と,天智朝に唐や新羅に対する防備のため対馬の金田城,讃岐の屋島城をふくむ九州から大和にまで築いた城,8世紀の怡土(いと)城などの西国の防御的な山城(さんじよう)/(やまじろ)と,8,9世紀に東北経営の拠点として築いた平城(ひらじろ)または平山城(ひらやまじろ)に分けることができる。

 天智朝の百済人の指導による築城は,実戦的に防御正面に急峻な地形を選び,その背後に山稜がめぐる谷をとりいれた楕円形の平面をもち,山稜を石垣や土塁でつないでその間に数ヵ所の城門を配している。防御線の内側に兵舎や数十棟の倉庫を配している。北九州では大宰府の大野城とその南西に対する基肄(きい)城,肥後の鞠智(きくち)城,また河内と大和にまたがる高安城はこの典型といえる。これに比べ怡土城は山頂から北西と南西に降る尾根に数ヵ所の楼を築き,平地にのぞむ正面を石垣で築いた三角形の城で,防御より遠征軍の基地の威容を示す意図が強い。

 東北地方の城柵は築地塀や柵木をめぐらし,一定の間隔で塀や柵上に櫓(やぐら)を構えるが,門は八脚門で,中心部に正殿と脇殿を配した政庁的な内郭をもち,防御拠点よりも国府と同じ行政的機能を重視したものといえる。8世紀の陸奥の多賀城,それをとりまく桃生(ものう)城,伊治城,玉造柵などや,出羽の秋田城は丘陵に立地する平山城であり,9世紀の胆沢(いさわ)城,志波城は北に川をみる台地上での平城,徳丹(とくたん)城,城輪柵遺跡はまったくの平城で,払田(ほつた)柵遺跡では中央政庁を小丘に築き平地にをめぐらしている。
国府 →都城
執筆者:

戦国時代の城を例に城の基本的な構造を述べると,将兵の宿営する建物や倉庫を建てる場所,あるいは戦闘の足場や陣地を確保するために削平された平場が曲輪(くるわ)(郭)で,これを防御する施設としてや土塁のような普請(土木)物,柵,塀,(矢倉),木戸のような作事(建築)物が付属する。山城(やまじろ)では,自然の斜面やこれを補強した切岸が防御施設の代りになるので,堀(空堀,壕)や土塁の伴わない場合があるが,平城では地続きを遮断するための堀(水堀,濠)は不可欠の要素である。以上の諸要素を組み合わせてできる平面プランが城の縄張である。

 城の種類は,立地によって平城,平山城,山城,丘城,台地城など,機能や規模によって本城,支城(出城),あるいは居城,砦(とりで)の区別があり,支城や出城の中には付城(つけじろ)(向城),陣城,繫ぎ城,番城,狼煙台(のろしだい)などがあるが,見方によって区別は一様でない。これらの区別が可能なのは中世城郭で,近世城郭は大名の居城だけとなった。

 中世城郭は館の防御施設が発達し,規模も大きくなって平城となっていく途と,山野に臨時に単独で設けられた逆茂木(さかもぎ)や堀などの防御施設が恒久化し,曲輪と結びついて山城になっていく途とがある。平安時代後期から南北朝時代初期にかけて〈城郭を構える〉と表現されたものの実態は,寺院の転用例を除けば,ほとんどがこの二つの途の発展途上にあるものとみてよい。仮設の陣地が曲輪として固定され,防御施設と結びつくのは南北朝内乱からと推定される。山城では楠木正成の千早城など,平城では大和の戒重(開住)城,河合城などが,堀,塀,矢倉等を備えた城として,史料的に確かめられる早い例である。

 平地の館は,周囲に堀をめぐらし,門に矢倉を上げる程度の防御の構えは備わっていたことが,絵巻物などからわかるので,平城と厳密に区別することがむずかしい。また,館を防御の便宜上から丘や台地に移したものは,防御施設が簡単でも,城に接近したものと評価できる。そこで館と城の中間的なものを館城の名で呼ぶことが便利である。丹波の大内城は丘上の館城としては最も古く,平安末期にさかのぼることが発掘調査によって明らかにされている。館城は南北朝期以後も,地侍層の成長に伴って各地に築かれた。伊賀や近江の甲賀のように地域的な一揆結合の盛んな地域では,戦国末期まで小さな単郭の館城が城郭の主流を占めた。しかし一般的には,地侍層を支配した国人領主の山城が代表的であり,戦国大名の居城もその発展形である。

 国人領主の山城は,麓の館(根小屋(ねごや))とセットになっているのが普通である。館が平時の居住施設であるのに対して,山城は戦時に詰める軍事施設(要害)である。南北朝期の山城が広域の戦略上の必要から高くて不便な山に築かれたのに対して,室町時代の国人の山城は,所領支配の拠点という在地に密着した性格を持っていたので比較的低く(多くは比高100m台),集落と連絡しやすい山に築かれた。軍事的な緊張の強まる戦国時代になると,山城に多数の軍兵が長期間立てこもる必要が生じ,拡張されて居住機能を増した。麓の館が下屋敷とすれば,上屋敷に相当する曲輪が山城の中に設けられる。この段階の城は居城と呼ぶことができ,軍事機能専門の他の小規模な城,俗に砦といわれるものと分化する。一つの領主権力下で両者が併用されるとき,居城を本城,砦を支城と位置づけることができる。戦国大名権力の下では,国人領主の本城が大名の居城に対して支城に位置づけられる。大名は既存の城だけでなく,領国支配と遠征の必要から,番城,陣城,付城等の目的に応じた支城を新規に築いた。その動きは大名権力の強化に伴って進み,築城術を飛躍的に発展させる。石垣を使用することが多くなる西国に対して,土だけの東国(特に武田・後北条両氏)の城では空堀(特に横堀)と土塁の使い方がじょうずで,虎口(こぐち)(郭の出入口)における馬出しと升形(ますがた)の発達を見た。

 大名居城では,家臣団の集住とそれを経済的に支える城下町の建設という課題に直面し,肥大化した城郭を長大な外郭線で囲い込む総構えの手法が導入されるようになるが,従来の山城のままでは無理な場合が多いので,平山城ないし平城へ移らざるをえなくなる。その早い試みが織田信長の安土城,後北条氏の小田原城で完成される。この織豊期に諸大名は次々と本城の位置を変え,政治・経済の中枢機能を担う近世城郭の時代へ転換していく。
執筆者:

近世城郭の先駆となったのは,松永久秀が奈良の佐保丘陵に築いた多聞(たもん)城(多聞山城)と,織田信長が上洛を果たし,将軍足利義昭のために築いた二条邸,そして1576年(天正4)みずからの居城として築いた安土城である。近世城郭の特徴となる石垣と,その上に建つ白漆喰(しつくい)塗籠建物はすでに多聞城にあり,天守(主)閣は安土城において初めてつくられた。しかしこれらの城は,短期間存在しただけで破壊される。安土城が本能寺の変で焼失した翌年(1583),信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉は大坂石山に築城を開始し,1598年(慶長3)に没するまでの15年間に数次の普請を行って完成させた大坂城は,近世城郭の典型といえる。さらに関白となった秀吉は,京都の邸として聚楽第を築き,太閤となったのちには風光明媚な伏見に城を築いた。これらの城普請に動員され,またその城下に屋敷をもった諸大名が,国許の居城を築くにあたって手本としたのは大坂城などであった。しかしたび重なる普請と戦役への動員によって諸大名にはなかなか居城を築く余裕がなかった。秀吉の弟で豊臣政権の宰相であった豊臣秀長が,大和郡山城の改修にかかるのが1587年(天正15),最大の大名であった毛利氏が秀吉のすすめにより,山城である安芸吉田の郡山城を離れ,広島に築城するのは91年のことである。広島城の縄張は聚楽第に倣って行われたが,秀吉の各城の縄張を担当していた黒田孝高(如水)によるものである。そしてこれらの城に天守が完成するのは,文禄年間(1592-96)のことである。

 文禄・慶長の役(1592-93,97-98)に際して,秀吉は朝鮮への前進基地となる肥前の東松浦半島北端に名護屋城を築き(1591),朝鮮に渡った諸侯は占領地に日本式の石垣造りで城を築いた(倭城と呼ばれる)。しかし秀吉の死によって朝鮮半島から撤兵し,名護屋城もまもなく廃城となった。慶長の役の2年後,1600年(慶長5)に関ヶ原の戦で勝利をおさめ,天下人となった徳川家康は諸大名の国替を行った。そのため大名は,それぞれ新たに居城となった城の本格的な普請にとりかかった。家康が江戸城に入ったのは1590年の小田原の役後であるが,1603年幕府を開くと,06年から藤堂高虎に縄張を命じ,近世城郭への大改築を開始した。その後,数次の普請によって江戸城は,幕府の本拠にふさわしい威容を整える。なお普請は,大坂城などの場合と同じく,諸大名に分担させるやり方(天下普請)で行われた。さらに幕府は大坂城の豊臣家と豊臣氏恩顧の西国諸大名に備え,姫路城や丹波篠山(ささやま)城,越後高田城(現,上越市)などの重要拠点にあたる城を,同じく天下普請で改修させた。なかでも重視されたのは名古屋城で,その天守は大坂城をはるかにしのぐ規模(1階面積において2倍)であった。その完成をまって幕府は14年から大坂城を攻め,翌15年豊臣氏を滅ぼした。この大坂の陣は,大坂城への攻城戦が主要戦闘となり,近世城郭が実戦においていかなる効果を発揮するかが試される,またとない機会となった。事実幕府軍は,冬の陣で大砲を用いて効果をあげたものの城を攻めあぐみ,夏の陣では政略によって堀を埋められた大坂方が城外での戦いを強いられ,兵力を損耗するとともに城を支えることができず敗北した。

 近世の城は軍事的拠点であるばかりでなく,政治・経済の中心としての意義が重視された。そのため,平野にあって大河や海・湖に臨む,小山あるいは台地の端に築かれた。水運の便と防御上の優位を考慮した立地といえる。安土城は琵琶湖に半島状に突き出た低い山(比高約100m)に築かれ,大坂城は平野の中央を南北にのびる台地の北端を占め,当時東側を大和川が北流し,これを合わせて北側を流れる淀川が大坂湾へそそいでいる。琵琶湖-淀川-瀬戸内海は交通の大動脈であった。戦国時代の城は,山上の砦と山下の居館からなっていたが,近世の城ではそれらが一体となった。安土城では山頂の天主に信長が居し,山腹に石垣で造成したおびただしい数の小さい曲輪に,家臣たちの住居が配された。戦国大名の家臣はおのおのの領地に住み,戦いに際して城へ集まったが,信長の家臣は安土に住まわされ,常備軍を形成した。

 城と同時に城下町が計画的に建設されたのも近世の特徴である。戦国大名の城下では,山下の居館の周囲に定期的な会議に集まる家臣たちの宿所や,寺社,御用商人の住居などからなる集落(根小屋,宿)があり,定期市の開かれる町場は,それからやや離れた交通の要地にあるのが普通であった。これに対して安土城下は,山下の宿と市場町が一体となった都市で,楽市楽座などの城下振興政策が実施された。水運の便は,城下の商業活動の上からも重要であった。安土は近世城下町の先駆であったが,大坂はさらに大規模であった。防御上の正面(大手)にあたる城南の台地上に大名邸や家臣団の住宅,寺院を配し,水運に恵まれた城の西側の低地に町がつくられた。そして小田原の役後には,城下を囲む総(惣)構(そうがまえ)の堀が整備され,人質ともなる大名の妻子を住まわせる邸が,総構の内に建てられた。このように城の防御と町の経済的発展の見地から,武家地,寺院地,町屋を計画的に配置した大坂は,近世城下町の典型であった。

 防御性を多少犠牲にして平野に築かれた近世の城郭には,防御力を強化する新たな工夫がなされた。その中心は石垣である。堀は広く深くなり,その両側に石垣が築かれた。戦国時代の山城にも石垣が部分的に使われていたが,平野の城でこれを全面的に採用したのは信長の築いた二条邸からで,大坂城において大飛躍をとげる。そして関ヶ原の戦後の本格築城時代に,石垣造りの城が一般化した。ただし東日本では,適当な石材を得がたいという自然条件から土塁のままであった城が多く,遠く伊豆から石材を運んで築いた江戸城などは例外的である。各地の築城では,安土城の石垣普請に携わった近江穴太(あのう)(現,大津市穴太付近)の石工が活躍し,穴生(あのう)が石垣師の代名詞となったほどである。また彼らに加え,石材の産地である播磨から瀬戸内海へかけての石工たちの活躍もあったに違いない。

城郭の建築が重要となったのも近世の特徴である。防御力強化のために頑丈につくられるとともに,城主の武力・権力の象徴として美しくりっぱに仕上げられ,また政治の拠点としても種々な施設が必要とされた。

 (1) 中世の絵巻には,城や館の門上に楯を並べて囲った簡単な見張り用の矢倉が描かれている。これが本格的建築となったのが,近世城郭の櫓門(やぐらもん)である。扉は鉄板や鉄鋲で補強され,安土城や大坂城の〈黒鉄(くろがね)門〉の名の由来となった。文禄・慶長の役後は,櫓門の前に高麗(こうらい)門と呼ばれる門が建てられ,櫓門とともに石垣の塀で囲った升(桝)形が完成する。(2)塀 戦国時代は土塀であったが,漆喰塗壁,下見板張り,瓦葺きに変わった。そして矢狭間(やはざま)に加え鉄砲狭間が設けられた。(3) 戦国時代の仮設的な矢倉が本格建築となり,曲輪の隅に2階建てで築くのが一般であったが,3階建てとする場合もあった。大和で勢力をふるった松永久秀の多聞城には,安土築城以前,すでに4階建ての櫓があった。〈多聞櫓(たもんやぐら)〉と呼ばれるのは,戦国時代の城にあった兵士の宿舎となる掘立柱長屋を本格建築に変え,櫓としても使えるよう石垣端に建てたものとみられるが,その起りも多聞城にあった。(4)天守 戦国時代には,城主の居所ともなった櫓を権威のシンボルとしてみたようであるが,信長は安土城において〈天主〉と称する独特の建築をつくってそれに代えた。〈天主〉は信長の住いとなる巨大な三重櫓の屋根上に,朱塗り金箔押しの二階建物をのせ,屋根裏階と地階(石垣内)を加えて7階もの〈唐様(中国風)〉の建築であった。秀吉は大坂城に天守(秀吉の時代以降,天守と書くことが多くなる)を建てたが,内部は宝物蔵として用い,ここに住まなかった。その後,秀吉のすすめで大和郡山城や広島城などに天守が築かれ,関ヶ原の戦後は家康の承認の下で,有力大名が競って天守を建てた。小大名は,三重櫓や〈御三階〉と呼ばれる住宅風建築で天守に代えた。現存の天守については表を参照されたい。(5)御殿 安土城の天主や行幸御殿は,狩野派の手になる金碧障壁画で飾られていたが,大坂城本丸には,その規模をはるかに凌駕する二つの御殿があった。対面所を中心とする表御殿と秀吉の私的住居である奥御殿がそれで,山里(やまさと)と称する庭園もあり,松林の奥に茶室がつくられていた。このような御殿のつくり方は,大名邸や大名の居城の御殿にうけつがれた。この種の御殿で現存しているのは,寛永御幸(1626)前の建物である二条城二の丸御殿の主要部だけである。

 安土城天主を手がけたのは尾張の熱田大工,大坂城は法隆寺大工であったが,ほかに京都,近江,堺,紀州など,中世からすぐれた建築に携わってきた各地の大工が,城の建築に腕を競った。

大坂夏の陣の翌1616年(元和2),幕府は一国一城令を発して,大名の居城を除く諸城の破却,居城修復の際の届出許可制を強いた。これは戦国大名に始まり,信長・秀吉が支配地ですすめた城割りを徹底させたものであった。これによって30余年の築城時代は終りを告げる。しかし幕府は,伏見城を廃城とし,それに代わる西日本のおさえとして大坂城を再築し,江戸城でも普請を行っている。幕末に至って海外から門戸開放要求が強まり,沿岸部を主とする防衛体制が必要とされたのに応じ,幕府は箱館に大砲攻撃に耐えうるよう工夫された,西洋式築城法にもとづく五稜郭を築いたが,城郭建設の歴史は五稜郭を最後として,幕府崩壊とともに終わった。
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高い堅固な城壁にとり囲まれることが旧中国都市の特色であった。秦・漢時代,すでに城郭の民すなわち漢民族は,行国の民(遊牧民族)と区別され,城郭は文化をもつ漢民族の象徴と意識されていた。また中国のなかでは,城郭は都市と農村を分ける最大の標識として,政治,社会,財政など多くの面で区分の具体的な道具にも使われた。その最も古いものは第2次大戦後調査が進んだ河南省鄭州の殷代城壁である。鄭州では四面1720~2000mの長方形をなし,高さ10m,基部の幅15~17mの土をつき固めた(版築)大城壁が前1500年以前に存在していた。これは殷の一国都として例外的にりっぱなもので,他の集落,都市はおそらく丘陵部を借りて防衛に最も適した場所に,王侯の居城,祭祀廟などをつくり,山丘の麓に民居を広げていたであろう。やがてそれらが城壁で囲まれ,しだいに築城が堅固になって,外敵や洪水が防げると,平野部に進出していった。それと同時に,内城-城,外城-郭の分化も明確になったと思われる。なお,城は土を盛る,郭は区切った囲いの意味で,郭を郛(ふ)とも呼ぶ。

 戦国時代の城郭としては,燕の下都(かと)や斉の臨淄(りんし)などが発掘されているが,いずれも人居密集区の外に農地や墓地をも囲いこみ,一辺4km以上にもおよぶ広さをもつ。非常時ともなれば周囲の農民もすべて収容するはずだったろうが,県城クラスの城郭の内部でも,20世紀にいたるまで耕作地,空地が多い例は珍しくない。国都や重要大都市を除き,大県周囲9里,小県周囲4里(1里は約450m)の標準で城郭都市が数多く出現するのは戦国時代以後で,漢代には全国で約1500に達した()。概していえば,華北,華中のすべての州県治は城郭をもち,華南のそれも11世紀以後は城郭を完備するようになっている。ただ宋代の例でみると城壁は堅牢になるが大きさは下中県では2,3里の小さいものが目だつ。

 城壁は古くから長さ6尺幅6寸の板で土を挟んでたたき固める版築法が使われ,五胡の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が築いた延州豊林県城はたたけば火花が出たほど堅くできていた。時代が下ると日乾,または焼成煉瓦が使われるが,普遍的になるのは明・清時代で,表面だけ煉瓦で被覆したものも少なくない。この煉瓦は42cm×24cm×12cmと一般の大きさの数倍ある。城壁の高さは南京の19.8mの部分が最高で,普通は7~8m,厚さは2~5mである。防備のため,城壁の上には凸形の女牆(じよしよう)が連続し,四隅や城門上には楼屋を設ける。また宋代以後は直線面に約150mの間隔で馬面(ばめん)と呼ぶ長方形の張出部をつくり,壁下の敵襲に備えた。城門は国都などは《周礼(しゆらい)》にもとづき12門を基準としたが,州県程度では規模に応じて2~4門,城門の外側には半月形の甕城(おうじよう)と称する副城壁や,内側に日本の升形のような防壁を設けることも宋代に普遍化する。

 城の形は,華北では方形,長方形が大部分で,山西や陝西では軍事上の必要から甕城をさらに強化,拡大した関城を設ける場合もあったが,華中や華南では円形,楕円形,不整形の城も目だつ。唐以後の国都やいくつかの大都市では2重,3重の城壁をもち,明・清時代の北京は4重の城郭を備え,内城(子城),外城(羅城)など呼名も分かれている。城壁の周囲に濠をめぐらすことは軍事上必要であったが,華北ではとかく埋まりやすかった。ただ日本のように濠から城壁が直接たちあがる例はまれ。城壁は20世紀に入って近代化を阻害するとしてしだいに撤去され,人民共和国でも特別の都市を除き急速に消滅している。
都市
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アラビア半島で最も早く築城術の発達したのは南西部地方である。紀元前からイエメン(ヤマン)地方には城郭が出現したようで,巨大な石の壁などを積みあげる技術は,現在から見ても驚くほどである。城郭ではないが,前8世紀ごろのマーリブのダムなど,巨石の壁が15m以上に達し,その一部は現存しているほどである。アラビア半島中北部には城らしいものはなかったとふつういわれているが,ヒスンḥiṣn(ヒスナḥiṣna),カルアqal`aなどということばは城砦を意味し,イスラム以前から存在したらしい。6世紀の前半,ユダヤ教を奉ずるアラブのサマウアルSamau'al b.`Ādiyāが現在のタイマーTaimā'の付近のアブラクal-Ablakの城に立てこもった話は《歌謡の書》19巻などに見え,サマウアル自身の詩に,〈堅固な壁の城,思うままに水の汲める井戸のある……〉の一節がある。イスラム以後になると,アラブはビザンティン帝国やペルシアの領土をひろく征服したが,その多くの都市はみな城壁をめぐらしたものであり,ダマスクスやエジプトのバビロン城などの攻略物語は,当時の城壁のありさまを推察させるものがある。したがってそれ以後は,築城術もこれら先進国の影響をうけたが,ウマイヤ朝(661-750)時代にはビザンティン建築のそれが強く,アッバース朝(750-1258)にはいるとペルシアの影響が濃くなった。カリフ,マンスールが築いたバグダードの円城(ムダッワラal-Madīna al-Mudawwara)なども,ペルシアの様式が著しい。城壁は正円形で三重,外城の直径は約2.5km,外城の周囲には堀をめぐらし,建築材料はおもに日乾煉瓦であった。アラビア語カスルqaṣrは,もとはラテン語のcastrumであるといわれ,ふつうは宮殿と訳されているが,非常時には城塞として役だつような構造のものが多かった。サウジアラビアの首都リヤードの以前の王宮なども,しばしば要塞として役だった例があり,その外にこの都をめぐる城壁もあったのである。シリアには十字軍が建てた城がいくつか残っているが,これは中世のイタリアやフランスの築城術にビザンティン帝国やイスラムの進歩した技術を取り入れたものであり,これはまた12世紀以後のイスラム教徒やヨーロッパ築城法にも影響を及ぼした。イスラム側について見れば,サラーフ・アッディーン(サラディン)によってカイロの南東の高地ムカッタムの丘に建てられた城砦(1176-1207)がその好例である。シリアに残る十字軍の城の多くが深い谷奥や山頂に築かれているのに対して,イスラムの城は都市の城壁内か,あるいはこれに隣接して築かれている場合が少なくない。これはイスラム教徒にとって,城の建設は難攻不落の場所に軍事的な拠点を構築するというより,むしろ政治・経済の中心である都市を守ることに主眼点がおかれていたことを示している。
執筆者:

古代

古代の城はおおむね都城であって,古代メソポタミアの都市は高い市城壁で囲まれ,弓の射程距離ごとに突出した側射用の角塔を設け,特に市門は塔門で堅固に防備されていた。古代エジプトは強大で安定した帝国であったためか,市城壁をもつ都市は見いだされていないが,南方のヌビアへの蛮族の侵入を防ぐため,ナイル上流には多数の城郭が設けられた。これらは,高い城壁で囲んだうえ,さらに低い城壁や堀で囲み,多数の側射用角塔を設けるなど(ブヘンの城砦,前1900ころ),高度に完成した形式を備えており,すでに西欧中世初期の城郭をはるかに超える段階に達していた。

 エーゲ海文明の建築では,クレタ島の宮殿には防備施設がほとんど見られない。ギリシア本土のミュケナイは巨石を積んだ城壁(前1250ころ)で囲まれているが,塔はまったく設けられておらず,ティリュンスの城砦(前1300ころ)で,はじめて側射に配慮した城壁の築き方が現れてくる。しかし,ギリシアの諸都市では,地形に応じた不整形の市城壁で囲み,側射用の角塔や升形門が備えられるようになった。とくに,アテナイとその外港ペイライエウスを結ぶ大市城壁(前5世紀)は著名である。古代ローマ市のいわゆる〈セルウィウスの市壁〉(前6世紀)と〈アウレリアヌスの市壁〉(270ころ)も古代世界を代表する大市城壁で,後者で囲まれた市域は17.83km2に及んでいる。これに対応する東方の実例は,コンスタンティノープルの〈テオドシウスの大城壁〉(5世紀)で,角塔をもつ二重の城壁の前に堀を設け,難攻不落を誇っていた。ローマ帝国の築城術と攻城術は,このようにして東地中海地域のビザンティン帝国とイスラム世界に継承されていったが,他方,西欧地域では西ローマ帝国の崩壊に伴って,古代の築城術はほとんど忘れ去られた。

中世

西欧中世初期の封建領主は,ほとんどすべて簡素な木造の建物に住み,その周囲を土塁や木柵で囲む程度の防衛施設しかもたなかった。やや進んだ形式を備えるようになったのはノルマン人騎士たちの居城で,〈モット・アンド・ベーリーmotte and bailey〉システムと呼ばれる。モットは小丘のことで,円形の空堀を掘り,その土で中央に小山を築き,その頂上に丸太杭を密接させて打ち込んで円塔形の天守(キープkeep,ドンジョンdonjon)をつくり,それを城主の居館とした。こうした内郭の一端に隣接して,より広い敷地を囲んで外郭の堀を掘り,周辺に柵を打ち込んで,一族郎党の居住家屋を設けた。内郭と外郭の間の堀には木橋をかけ,非常の際はこれを焼き払って,内郭と天守に立てこもった。このような城内の区画(郭,曲輪)をベーリーと呼ぶ。当時の最も恐るべき兵器は火矢であったから,戦時には天守の壁や屋根を獣皮で覆い,火災を防いだ。

 11世紀から経済と技術の向上に伴ってヨーロッパ諸都市の勃興が始まり,同時に城郭の木造天守も石造で角塔状に改築されるようになり,内部には,1階に衛兵所,上階に大広間,武器庫,礼拝堂などが設けられた。しかし,西欧の城郭に画期的な影響をもたらしたのは第1次十字軍遠征(1096-99)であった。このとき十字軍はニカエア,アンティオキアなどで大市城壁に挑み,アンティオキアでは7ヵ月,エルサレムでは5週間という大苦戦を強いられて,ようやく攻略することができた。12世紀初頭から,十字軍の騎士たちは東方の占領地に多数の城郭を築いてイスラム軍の反攻に備えたが,これらは通例,内郭を外郭で囲み,二重の城壁と空堀を備え,東方の都城の築城技術をコンパクトな西欧的城郭に巧みに取り入れていた。これらのなかで最も完全な城郭といわれたのがシリアにあるクラク・デ・シュバリエ(〈騎士の城〉の意。12~13世紀初期)である。十字軍の城の特色は,直ちに西欧の城郭に反映され,リチャード1世(獅子王)がフランスのノルマンディーにつくったガイヤールGaillard城(1197)のような傑作を生んだ。このころには,破壊されやすい角塔に代わって円塔が広く採用されるようになった。また,ヨーロッパの諸都市もそれぞれの市城壁を整備していったが,なかんずく南フランスのカルカソンヌの市城壁(13世紀)はその完ぺきさで名高い。また,ガイヤール城の陥落(1209)が天守の孤立に起因したという経験から,クーシーCoucy城(1225-40ころ)のように,直径32m,高さ51mという巨大な円筒形天守を城郭の最前面に突出させるという斬新な設計が現れた。

 イングランド王エドワード1世(在位1272-1307)は1283年以降,ウェールズ征服のため多数の城郭を建造したが,これらは〈エドワード式集中型城郭〉と呼ばれ,円塔をつけた二重の城壁で同心状に囲む特色をもち,そのなかでも代表的なハーレックHarlech城(1285ころ-90)とボーマリスBeaumaris城(1295-1323)では,高い内城壁を低い外城壁で囲み,整然とした対称形平面であるが,天守はなく,その代りに,それだけで独立した要塞となりうる巨大な城門を内城壁から突出して設けた。これは,城郭は直接的な攻撃によるよりも,謀略や内部からの謀反で陥落することが多いことに配慮し,城門や円塔の独立性を重んじた結果である。他方,城郭の形体が対称形に美しく整えられたことは,すでに戦乱の時代が遠のきはじめ,城郭が防備施設から権威と秩序のシンボルへと変化しはじめたことを示している。フランスのピエールフォンPierrefonds城(1392-1411ころ)は,このような形式の完成と内部の居住性の著しい向上を示している点で,中世末期の代表的城郭といえよう。

15世紀から急速に発展した大砲の出現により,古代的な市城壁や中世的な城郭の防備力はほとんど無力なものとなり,主要な戦闘は野戦に移った。したがって築城術の中心課題は,砲台に重点をおいた星形稜堡や野戦用の独立要塞の建造に転じ,やがて17世紀にはフランスのボーバンのような傑出した軍事エンジニアが出現した。それゆえ,ルネサンス以降の城は,たとえ〈城〉という名称で呼ばれていても,もはや実質的には防備施設ではなくて居館・邸宅・宮殿にすぎず,それは,外壁の下部まで設けられた大きな窓によって端的に証明されている。フランスのロアール川流域の城館群(16世紀初め),ドイツのハイデルベルク城(1531-1612)などが,その好例である。
執筆者:

軍事目的のための典型的なヨーロッパの城は,12世紀を中心とする前後200年,すなわち11世紀半ばから13世紀半ばにかけての封建社会の最盛期と一致する。それは,ヨーロッパにおける集村の形成,都市の出現,キリスト教世界と小教区制の成立,大学の始まりなど,ヨーロッパの社会と文化の今日的な基礎,出発点が与えられたときであった。当時は,農学上の技術革新に支えられてヨーロッパに開墾運動が活発に展開され,穀物の収穫量とともに人口も2倍から3倍に飛躍的な増加を見,社会的エネルギーの噴出した,画期的な,活力ある時代であり,これに見合う時代は19世紀半ば以降の産業革命,そしてとくに第2次大戦後の経済成長しか存在しない。当時各地に雨後のたけのこのように簇生したカテドラル(大聖堂)や城は,このことをよく物語っている。

 当時建立された,あるいは建てられ始めたカテドラルは,神の住いとしての永遠性を追求したものであり,今日までよく保持されている。これに対し城は,築くのに緊急性を必要としたためにつくり方もていねいではなく,また14,15世紀以降,封建社会の衰退,国王権力の伸張とともに積極的に取りこわされたために,今日ではほとんどすべてが,小高い丘の上などに,残骸として孤高の美しさをとどめるのみである。ガイヤール城やシノン城のように完全な廃墟と化しているところもあれば,ドンジョン(キープ)の外観は保たれているものの,内部が崩壊して立入禁止のもの(ボージャンシー,エタンプその他)や市の貯水塔に利用されているもの(ウ・ダン),あるいは補修のうえタピスリー博物館(アンジェ)や小学校,役場(リュジニャン)に用いられているところもある。

 ヨーロッパ封建社会の城は,その周辺数ヵ村の支配・防衛上の拠点として,自然ないし人口の丘の上に築かれ,その下には城下町が形づくられた。中世の戦いにおいては,城を直接攻撃する以上に村荒しがしばしばなされたが,その際,城主は農民たちを城内に入れて避難させた。農民たちは家畜を連れ,ドンジョンを守る内郭,外郭のうち,外郭内側の外庭に野宿した。この意味で城は,まさに農村・農民のための軍事施設であった。そしてドンジョンの入口がつけられていた2階は,会議や宴会の催された公的な場であり,3階以上が城主と家族の住いであった。ジャンヌ・ダルクがシノン城で国王シャルル7世と会見したのも,2階である。1階は巡礼や旅人,旅芸人などが寝泊りし,地下は牢屋や穀物・ブドウ酒などの貯蔵庫として用いられた。ヨーロッパの城は,戦国時代末期から江戸初期にかけて建てられた日本の城とともに,世界史上ユニークな性格と機能を備えている。両者は第1に,いずれも農業社会における政治権力(貴族,大名)の住い,居城である。そして第2に,河川や陸路の交通の要衝地に建てられた,平城である。さらに第3に,これが最も重要であるが,ドンジョンや本丸から眺めれば小麦畑やブドウ畑,そして水田や畑が見渡せるように,両者は農村社会の対外防衛と対内秩序維持を目的,機能とするものであった。それは,この両者だけが堅固な城によって防衛するに値する,きわめて緻密でコンパクトな,農村社会とこれを支える政治権力を生み出したことを意味している。両者の政治権力,すなわちヨーロッパの封建貴族権力(大陸)と日本の大名権力が,それぞれ治安維持権力として領域性,一円性を備えたものであった点でも共通しており,農村社会の政治システムとしての封建制を典型的に発達させた点も両者に特徴的である。
城攻め →ブルク
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城 (ぐすく)

奄美,沖縄地方にある,逃げ城,防御としての城,現在聖地や墓地として使用されている所,倉庫,砲台などをいう。〈ぐしく〉あるいは〈すく〉とも呼ばれる。現在223ヵ所が知られている。発生は,奄美大島が12世紀,沖縄諸島が13世紀,宮古・八重山諸島が13世紀後期ころと考えられている。発生の要因については聖地説,住居説,按司(あじ)居住説などがあり,決着をみていない。人口の多い沖縄本島では防御としての城が最も発達し,14世紀末から15世紀初めにかけて築城技術や様式において完成期のぐすくが出現した。この時期のぐすくは,規模や築城の思想は日本中世の山城と酷似し,城主と側近だけが城内に生活した。築城様式は,城門が城内に凹入する点や城壁が屛風形である点で高麗的である。また,ぐすくには聖地として〈御拝所(うがんじよ)〉や〈霊石〉を有するものと,まったく有しないものがある。

 ぐすくの立地場所は五つに大別できる。(1)独立した小高い丘を削平したもので,久米島の具志川城跡(国指定史跡),沖縄本島の具志川ぐすく(現うるま市,旧具志川市),与那嶺(よなみね)ぐすくなどがある。(2)山の裾野の舌状台地上に立地するもので,奄美大島伊津部勝(いつぶがち)城などがあり,必ず堀切が残っている。(3)山の尾根の舌状に延びた比較的高い個所に立地するもので,奄美大島の赤木名(あかきな)ぐすく,円(えん)ぐすく,沖縄半島の根謝銘(ねじやめ)ぐすくなどがあり,山手との間の最狭所に必ず堀切が1~3残っている。(4)比較的高い丘陵の最高所または高所を中心に築城されたもので,沖縄本島の座喜味(ざきみ)城跡,安慶名(あげな)城跡,勝連(かつれん)城跡,中城(なかぐすく)城跡,首里城跡(以上国指定史跡),知花(ちばな)ぐすく,北谷(ちやたん)ぐすく,浦添ぐすく,伊祖城跡,玉城城跡,久米島の宇江城などがある。(5)丘陵または台地の一方が断崖をなす個所に築城されたもので,沖縄本島の今帰仁(なきじん)城跡,知念城跡,糸数城跡,具志川城跡(糸満市)(以上国指定史跡),豊見ぐすく,久米島の伊敷索(いしきなわ)城跡などが現存する。

 考古学的調査が最近盛んに行われるようになり,特に今帰仁城跡,勝連城跡,座喜味城跡,浦添ぐすくでは比較的長期にわたり調査が実施されている。石造基壇や石積み,礎石などの遺構のほか,多くの金属製品,陶磁器,石製品,骨製品が出土している。地元の土器とともに出土する陶磁器には,中国製,高麗製のほか,アンナン(安南)系染付もある。金属製品では南九州に類似する鉄鏃や中国古銭があり,諸地域との交流を示している。また瓦は,まったく出土しない今帰仁城跡を除いて,本土産の〈大天〉の銘のある瓦や高麗の銘のある瓦が出土している。
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城 (しろ)
Das Schloss

フランツ・カフカ作の未完の長編小説。三大作品の一つとして《アメリカ》(1911-14作)および《審判》(1914-15作)と並ぶものであるが,執筆時期は療養生活のつづく晩年の1922年2月から9月までの間と推定される。初版1926年。

 主人公のKは遠くから測量士として呼ばれ,ないしは,呼ばれたと称して冬の寒村に到着するが,よそ者として村人に受け入れられず,また山上の城にたどりつくこともできない。上司となる城の官吏クラムから奪い取った酒場の女フリーダも,城から割りあてられてきた2人の助手とともに,結局はKを城から遠ざけるための役割しか果たさない。完璧な官僚体制の城とこれに隷従する村では,個人としてのKのアイデンティティ確立の努力は,錯誤と誤解をつみ重ねるのみである。城の使者と名のるバルナバスの家はKを歓迎するが,これは実は村から排除され,Kによって城との関係修復をはかろうとする家族であり,たまたま官吏のビュルゲルがある手段を教えるかに見えるとき,Kは疲労のあまりこれを聞きのがしてしまう。ほぼ1週間にわたるこのKの苦闘を記録して作品は中絶しているが,カフカが親友マックス・ブロートに語ったところによると,死の床にあるKに,ようやく城からの条件つき滞在許可が届く結末であったという。

 第2次大戦以後数多くの解釈を生んできた作品であるが,その執筆がカフカ自身にとって精神的な治療を意味していた《城》は,矛盾をはらみながら生命を構成している内面の張力関係を隔絶された冬の世界のなかに投影して,制度と隷属のなかでの意味付与の問題を扱ったものといえよう。文体的には,ほとんどつねにKの内部におかれた語りの視点,グロテスクなものや諧謔を含んだ夢のような情景の描写,長い対話部分などが特徴となっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「城」の意味・わかりやすい解説

城(軍事的構築物)
しろ

塁、堀、柵(さく)など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞(ようさい)とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが、時代が下るにつれて軍事目的だけでなく、支配者つまり国王・領主の居住、権勢表示、領内統治を兼ねるようになった。また中国の大部分や西洋の一部にみられるように、都市全体を城壁で囲む城郭都市も現れた。城は現在も世界の各地に残されており、名所、旧跡として重要な観光資源となっている。なお日本では文化財保護法によって城郭の遺構を史跡や重要文化財に指定し、保守修理を行っている。

[工藤圭章]

日本の城

沿革

日本では古くは城(き)と訓じられている。『古事記』に「宇陀(うだ)の高城(たかき)に鴫罠(しぎわな)張る」とあるが、この城の実体は明らかでない。古代の城として知られているものに神籠石(こうごいし)がある。神籠石は山を巡って傾斜面に環状に石が配されていることから、神霊を祀(まつ)る神域を列石で区画した神の磐境(いわさか)と考えられ、この名がつけられた。しかし、神籠石の配されている地形は、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)などの古代朝鮮における山城の地形に似ており、神籠石で囲まれる要所には門や水門もみられるので、いまでは磐境よりも、朝鮮式山城に倣って7世紀に築城された古代山城施設とするのが一般的となっている。

 このような古代山城は関西から西の地域に所在するので、大和(やまと)朝廷が対朝鮮関係を考慮して設置したものと考えられている。神籠石として著名なものには山口県の石城山(いわきさん)、福岡県の鹿毛馬(かげのうま)、雷山(らいざん)、御所ヶ谷、高良山(こうらさん)、把木(はき)の各神籠石、佐賀県の帯隈山(おぶくまやま)、おつぼ山の神籠石があり、九州北部を中心に分布する。また、7世紀後期から8世紀にかけての山城施設としては、奈良県高安城、香川県城山(きやま)城、岡山県鬼城(きのじょう)、山口県長門(ながと)城、福岡県大野城、怡土(いと)城、佐賀県基肄(きい)城、長崎県対馬(つしま)の金田城が著名である。これら山城は瀬戸内海沿いや大宰府(だざいふ)周辺に分布しており、百済が663年に滅亡してからの大和朝廷の防御施設として把握できる。大宰府付近では、平地に築堤した水城(みずき)も設けられている。一方、大和朝廷が東北経営の一環として設けた奥羽の城柵(じょうさく)は、蝦夷(えぞ)対策の前進基地であり、奥羽平定に伴って北上して築城されている。丘陵上の平坦(へいたん)部に政庁が設けられ、周辺に土塁や木柵を巡らして屯営がつくられた。軍事基地だけではなく、陸奥(むつ)や出羽(でわ)の国府や郡衙(ぐんが)としての機能も果たしていた。宮城県では多賀城、桃生(ものう)城、伊治城、城生城、岩手県では胆沢(いさわ)城、徳丹(とくたん)城、志波(しわ)城があり、これらの遺跡の多くは方八丁の名でよばれている。また、山形県の城輪柵(きのわのさく)、秋田県の払田柵(ほったのさく)、秋田城もよく知られている。奥羽の城柵のなかには、文献上では名が知られているが、宮城県宮沢遺跡や山形県八森遺跡のように、実名の明らかでないものがある。

 東北地方から北海道にかけては、このほかチャシとか館(たて)とかの名で示される城と居館を兼ねたような遺跡が知られている。これらは丘陵を利用してつくられ、空堀(からぼり)を巡らした郭(くるわ)(曲輪(くるわ))を設けるものもある。古代から中世にかけて律令(りつりょう)制の崩壊により在地の豪族が領地を確保して武士化するようになると、その居館も城郭の機能が高まってゆく。『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』にみる筑前国(ちくぜんのくに)の武士の館は、屋敷の周囲に堀と板塀を巡らし、門の上には櫓(やぐら)を設け弓矢や盾を備えていて、中世の武士の居館の防御施設がうかがわれる。栃木県那須(なす)神田(かんだ)城跡は那須氏の、埼玉県菅谷館跡は畠山(はたけやま)氏の居館跡として知られ、周囲には堀を巡らしている。ところで、平地における居館よりも、丘陵あるいは山地に防御施設を設けるほうが守りやすく、平時は居館、戦時は高所の要害へと場所をかえるようになり、要害の地での築城が山城として発展する。山城には空堀や柵を巡らして複数の郭をつくり、井戸を掘り、櫓や倉を建て、籠城(ろうじょう)にも耐える施設が設けられた。山麓(さんろく)には家臣団の居住地として根小屋が成立する。福井県一乗谷(いちじょうだに)の遺跡は、越前(えちぜん)守護朝倉氏の山城、居館、武家屋敷、寺院の跡がよく残り、山あいにある中世末の城下町の姿を彷彿(ほうふつ)させる。

 近世の城郭はこのような山城から出発したが、城下町が整備され、単に家臣団の武家屋敷だけではなしに、商人を集め楽市(らくいち)を開くようになると、城下町は領国の政治・経済の中心地として交通の要衝につくられるようになる。そして、城郭も、山城から、平地に臨む丘陵に平山城(ひらやまじろ)として築かれたり、また、平地に平城(ひらじろ)として築かれることが多くなる。さらに、城下町に君臨するかのように城郭の櫓は高層化され、その中心となる櫓は天守と名づけられる。山城では一乗谷城や岐阜城、奈良県高取城、岡山県備中(びっちゅう)松山城が好例である。織田信長の築城した安土(あづち)城は平山城であるが、山の高さが高く山城的な名残(なごり)をとどめる。平山城としては、彦根(ひこね)、和歌山、姫路、伊予松山、高知、熊本の各城が好例であり、江戸城、大坂城は平城に近い。平城では富山、名古屋、高松、佐賀が代表的な城にあげられる。江戸時代末になると西洋式の築城が日本でも試みられ、星形の平面に堀を巡らした城郭の出現をみる。一つは1864年(元治1)に完成した伊予大洲(おおず)藩出身の武田斐三郎(あやさぶろう)の指導による箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)であり、一つは1866年(慶応2)にほぼ竣工(しゅんこう)をみた松平乗謨(のりかた)の築いた信州南佐久田野口(たのくち)藩の竜岡(たつおか)城である。この2城は日本の城郭のなかではもっとも斬新(ざんしん)なものとして評価されている。

[工藤圭章]

配置

近世城郭の平面構成は縄張りとよばれ、城内は堀、石垣、土塁、塀により数区画の郭(曲輪)をつくり、数段の防御線を敷く。郭はまた、丸ともよばれ、天守と城主の居館のつくられた本丸を城の中枢部とし、この外郭に二の丸、三の丸などが配される。本丸、二の丸、三の丸などの配置は各城郭ごとに固有であり、一つの丸から次の丸へ移るのに、迷路を設けたり、いかに攻守しやすいかを考慮して計画されている。城の表口を大手、裏口を搦手(からめて)という。大手、搦手はもちろん、各郭の入口には升形(ますがた)や馬出(うまだし)を設け、容易な出入を拒んでいる。また、堀に架けられる橋には桔橋(はねばし)もつくられた。

 城内の建物は、攻守のための櫓と、城主の居館や家臣の住宅に分けられる。櫓の最大のものは天守であり、外観を数重とし、内部は石垣内に地下室を設けたり、外観の一重分が2階分になるなど、重と階が一致しない。屋根には千鳥破風(ちどりはふ)や唐(から)破風をつけ、外観を整えるとともに、狭間(はざま)や石落しなど実戦用の設備も設ける。天守には大天守と小天守を連結したものがあり、姫路城がその代表的なものである。

 各郭の隅には二重あるいは三重の隅櫓(すみやぐら)を建て、隅櫓どうしを渡(わたり)櫓・続(つづき)櫓でつなぐ。このような渡櫓や続櫓の長大なものを多聞(たもん)櫓ともよぶ。松永久秀が築いた奈良多聞城の櫓からこの名がおこったという。また天守の名は摂津の伊丹(いたみ)城に始まるという。各郭の入口の門としては櫓門が開かれる。櫓門は構造的には石垣と石垣、あるいは土塁と土塁の間に渡櫓を渡し、その下に門を設けたものである。入口の升形は、この櫓門と矩の手(かねのて)に高麗(こうらい)門を建てて、石垣や塀で閉鎖されるのが一般的である。天守、櫓、門はそれぞれ攻守に便利なようにつくられ建てられているが、一方では領主の威厳の誇示として、豪壮・華麗も意図されて建設されたので、建築的にもみるべきものがある。

[工藤圭章]

東洋の城


 外敵に対する防備を目的として集落や都市の周囲、あるいは王の宮殿や領主の居館などの周囲に、城壁、塀、土塁、堀などを巡らすことが、古代から近世に至るまで東洋各地で広く行われた。中国語で「城」といえば、広義には田園と区別された「まち」(都市)を、狭義には天子の住む「みや」(王宮)を意味することが多く、また、もっぱら軍事的な意図で建設された「とりで」(塞)を意味することもある。

[石井 昭]

アジア各地

西アジアでは城の起源は少なくともメソポタミアの初期王朝時代(前三千年紀)までさかのぼる。当時の都市は市街の外周を城壁(市壁)で囲み、その内部に神殿、宮殿およびそれらの付属施設を含む聖域(内域)を設け、これを城壁(内城壁)で囲むのが普通であった。こうした基本形態は、その後も長期にわたって続く。紀元前22~前21世紀ごろのウルをみると、内城は350メートル×200メートルほどの長方形、市街は1200メートル×800メートルほどの長円状で、市壁の外側に運河を巡らしていた。前8世紀末に建設されたアッシリアコルサバードは1辺約1600メートルのほぼ方形の都市で、内城が一隅にあり、市壁の厚さは約28メートルに達した。下ってヘレニスティック期以後は、整然たる幾何学的形態をもつ都城の出現が注目される。ササン朝ペルシアの円形都城フィルザバードや方格都市ビシャプールはその好例といってよい。一般に古代西アジアで発達した城壁は日干しれんが造または焼成れんが造が多く、外側へほぼ等間隔に半円形、もしくは方形の稜堡(りょうほ)(バスチオン)を突出させ、上端外縁に狭間(はざま)付きの胸壁(バトルメント)を設ける型式であった。

 イスラムの城はビザンティンやペルシアの築城術を継承して発展した。ダマスカスのアル・ハドラー宮(7世紀後半)をはじめ、カリフの宮殿はたいていの場合、軍団の本拠としても機能する大規模な城塞(じょうさい)であった。シリア砂漠にはウマイヤ朝の離宮兼城塞の遺跡が数多くみられる。カスル・アル・ハイル(8世紀前半)はその好例で、中庭式正方形プラン、城壁1辺約72メートル、2階建て、下階59室という建築であり、城壁には半円形稜堡がつき、城門には左右2基の塔と突廊(マチコレーション、石落し)などの装置が備わっていた。アッバース朝の新都として762~766年に建設されたバグダードは、アル・ムダッワラ(円い城)と称され、堀と三重の城壁を巡らす完全に幾何学的な円城であって、第1―第2城壁間は空き地、第2―第3城壁間は軍人や貴族層の居住区、第3城壁内は王宮、寺院、諸官庁の施設にあてられた。城門は4か所で、円を正確に等分する位置にあった。最近の研究によれば、円城の直径は約2500メートル、防備の主体となる第2城壁は厚さ約5メートル、高さ約17メートル、総数112基ある半円形稜堡は高さ約19.5メートル、城門は入口で進路が屈折する「升形」状を呈し、第3城壁に達するまで300メートル以上が厳重に防備されたアーケードになっていたという。十字軍に対する戦闘を契機として、11~12世紀以降、イスラムの築城術はいっそう進歩した。代表的な実例としてアレッポの城(12~16世紀)をみれば、比高約50メートルのすり鉢形の岩山上に築かれた強固な石造の城塞で、麓(ふもと)には堀が、上部の約400メートル×250メートルの範囲には等高線沿いに方形稜堡を伴う城壁が巡り、山の斜面にも要所に塔(櫓)がある。出入口はただ1か所で、麓の塔門、斜面上の橋、城壁から突出する巨大な城門という組合せになっている。

 中央アジアやインドにも中世以後イスラムの築城術が伝播(でんぱ)した。たとえばデリーの周辺には中世の城塞遺跡が数多く残っている。また、16、17世紀にムガル朝の諸王が政治的、軍事的本拠として建設したファテープル・シークリー、アグラ、シャージャハナバード、ラホールなどの城は、とりわけ壮麗なものとして名高い。

[石井 昭]

中国

中国の城の起源は少なくとも殷(いん)代(前二千年紀中ごろ)までさかのぼる。当時、城壁は版築法、つまり木板を仮枠にして土を層状につき固める方法で築造し、これを都市の外周に巡らすのが普通であった。殷に次ぐ周代の洛陽(らくよう)城は1辺約4キロメートルの方形市街の中央に約400メートル四方の宮城(王宮)を設けていたらしい。前5~前4世紀の春秋戦国時代から城は数を増し、規模も大きくなった。斉(せい)の首都である臨淄(りんし)は周囲20キロメートルに達し、城中に約7万戸を収容したといわれる。

 秦(しん)・漢(かん)代には、郡県制度によって全土に成立した1500以上の県治が、すべて城壁で防備された。漢の首都の長安は周囲約25キロメートル、後漢(ごかん)の首都の洛陽は周囲約13キロメートルという規模であった。古代中国における都城のもっとも完成された姿は唐代(7~8世紀)の長安にみることができる。漢の長安の南東方に建設されたこの都城は、東西9.6キロメートル、南北8.5キロメートルという広大な長方形で、高さ5メートル余の城壁によって外周を囲み、各辺に3ないし4か所の城門を開いていた。ここでは城壁の築造に塼(せん)(焼成れんが)が使われた。城内は東西・南北の直交軸に沿う碁盤目状の地割を特色とする。天子の居住する宮城は北辺中央部に、諸官庁の建ち並ぶ皇城はその南方に設けられ、それぞれ城壁を伴っていた。そして、市街地は中軸線上の「朱雀(すざく)大街」を含む11本の南北路(幅150メートル内外)と14本の東西路(幅70メートル内外)とによって約110坊(区画)に分割され、各坊がそれぞれ土牆(どしょう)(築地(ついじ))で防備を固めていた。この長安城の型式は東アジア諸国の都城、たとえば日本の平城京や平安京の模範となったし、中国でも後世まで都城の基本として継承された。

 明(みん)代および清(しん)代の北京(ペキン)も、のちに南方へ発展した新市街を城壁で囲んだ(これを外城(がいじょう)とよぶ)ので、やや複雑な形を示すとはいえ、本来は宮城(紫禁城(しきんじょう))と皇城を中核とする市街を城壁で囲んだもの(内城とよぶ)であった。北京内城の城壁は高さ11メートル、基底の厚さ19メートル、上部の厚さ15メートルに及び、表面は塼、内部は土でつくられている。

 中国の城壁もバスチオンとバトルメントを伴うのが原則で、前者を馬面(見張り塔)、後者を女牆(じょしょう)という。城門は、その部分だけ城壁を厚くしてアーチ状の門口を開く型式が多く、防備を厳重にする場合には、その前方に月城(げつじょう)とか甕城(おうじょう)とか称する半円形または方形の小城壁を付加することによって、升形のごとく進路を屈折させる。城門の上には一般に木造の楼閣、すなわち門楼が建つ。甕城や馬面の上にも木造もしくは塼造の楼(櫓)を建てることがあり、これらは箭楼(せんろう)とか敵楼とかよぶ。城壁の隅に立つ楼(隅櫓(すみやぐら))だけは区別して角楼(かくろう)とよぶことも多い。他方、城壁の外側にはしばしば堀が設けられたが、両者は直結せず、中間に崖径(がいけい)を残すのが普通である。

 城壁は都城の防衛だけでなく、小は塞、大は領土の防衛にも使われた。秦の始皇帝が築いた有名な「万里の長城」は甘粛(かんしゅく)省の臨洮(りんとう)から北朝鮮の大同江付近まで延長約3000キロメートルに及んだ。たびたび改修されて、現存するのは明代の遺構であるが、石と塼とで築成された堂々たる城壁で、八達嶺(はったつれい)付近でみると、高さ約8.5メートル、上部の厚さ約5.7メートル、女牆が上端外縁につき、馬面が約150メートル間隔に設けられている。

[石井 昭]

ヨーロッパの城

古代の築城の特色と変遷

ヨーロッパのもっとも古い築城は、険要な自然地形を利用し、それに土塁や空堀(からぼり)などの防御設備を施した広大な土城earthworkである。イギリスに現存するメイドン・カースルMaiden Castle(前2000~前300)はその好例である。

 キクロポス巨石城壁Cyclopean Masonryで有名なティリンス城塞(じょうさい)(前1400)は、ミケーネ時代のギリシア築城を代表するものであるが、それは丘陵上の崖(がけ)縁に沿って城壁を巡らし、上城と下城の二つの郭を内包した不規則な平面構成である。丘陵的なギリシアの地形も影響し、初期ギリシアの築城は、一般に、ティリンスのように丘陵城郭で、いわゆる平山城(ひらやまじろ)式であった。この特徴はまた古典期のポリス築城にも認められる。たとえば、アテネ市はポリス守護神の神殿があり、聖域である丘陵上の城塞的なアクロポリスとその下のアゴラ(広場)を核とし、市民の公共生活の営まれたアステイ(市街地)からなる平山城式の城壁都市であった。ローマ帝政時代になると、その支配地方には陣屋、城塞、城壁都市および長城などが築かれた。ローマ都市城壁の残存がロンドンのタワー・ヒルにあり、クリップルゲート付近には城塞址(し)が発見されている。また、ポーチェスター城Porchester Castle(ハンプシャー)の外壁はローマ陣屋囲壁の完全に近い遺構である。長城遺構としては、北方に対する防御線として築かれたアグリコラ国境線Agricola's Frontier Line(1世紀)とハドリアヌス城壁Hadrian's Wall(2世紀)が残り、大陸ではゲルマン民族に対する防壁として、ラインとドナウ両河間の地帯に長城リメスLimesが築かれている。ローマ帝国に次いで5世紀から11世紀にイギリスを支配したアングロ・サクソンの築城は、ブルフBurhで代表される。ブルフとは、土塁、木柵および空堀または水濠(すいごう)で防衛された村落や初期の町を意味した。ウォリングフォードのブルフ遺構(バークシャー)はその一例である。さて、先史時代から10世紀ごろまでのヨーロッパ築城の本質的特色を考えてみると、要するに、いずれも、ある地域住民全体の擁護を目的としたものであった。このような防御目的をもった築城を中世ではカストルムcastrumとよび、それに対し「防御設備を施した個人的家屋または小規模な砦(とりで)」をカステルムcastellum(カストルムの指小語)とよんだのである。そのカステルムから、カースルcastle、シャトーchâteauおよびロマンス語系の城という語が派生している。したがって、カースルやシャトーは正式には「個人的城郭」を意味した。ゲルマン語系のブルクburgは元来「防御設備を施した場所または避難所」を意味したが、12世紀ごろには同じく「個人的城郭」を示している。したがって、前述の10世紀ごろまでの築城は、一般にカースル、シャトーの2語でよばれるべきものではない。たとえば、普通にカースルとは封建領主の城(封建城郭)を意味する。

 カロリング朝フランク(9世紀)に関する文献にパラティウムpalatiumという語がしばしば現れてくる。この語は「宮殿」を意味したが、他方では王侯や有力者の個人的な家屋にも適用された。ところが建築史によれば、このラテン語は同じ9世紀のイギリスのホール・ハウスhall-houseにも使用された。ホール・ハウスとはアングロ・サクソン社会の支配層の住居で、ホールを中心とした木造の建物である。パラティウムもこのホール・ハウスもおそらく簡単な防御設備はあったろうが住居性のまさった建物で、いまだ個人的な城といえるものではなかったろう。当時のカロリング朝フランクは集権的国家であり、イギリスもウェセックスによる統一時期を迎え、社会の治安は国家主権により維持され、個人的自衛の城郭は必要ではなかったと考えられるからである。ところが、大陸でフランク王国の解体と封建制への指向が現れるころから、またイギリスではデーン人の侵攻が盛んになるころ(9世紀後半ごろ)からパラティウムやホール・ハウスに変化が現れ、それまで平面的に築かれていたのが、立体的な塔形式のいわゆるタワー・ハウスtower-houseに変わったのである。この変化は、防御力を増大するために「高さを求め防御線を縮小する」という築城の基本原理を意識したことに始まったのであろう。さらに、このタワー・ハウスの設営意識は、次のモット城郭へと発展する。

[小室榮一]

中世城郭の諸形式

モット城郭とは、イギリスのテトフォードThetford(ノーフォーク)やアイルランドのナックグラフォンKnackgraffon(ティペレリー)などの城址にみられる、すり鉢を伏せたようなモットmotte(小丘。一般に人工の6~10メートルくらいの丘)を中核とした城郭である。有名なバイユー壁掛けなどの考古学的研究調査の結果によれば、モット頂上面はこの城の内郭で、そこに城主とその家族の生活する木材の塔が建てられ、モットの裾(すそ)には外郭が設けられていた。さらに、それら全体が土塁、木柵、水濠または空堀で囲まれていた。遺構の内包全面積は一般に3~1.5エーカーほどで、それは、既述の10世紀ごろまでの広大なカストルム的な築城に比較して著しく狭小であり、関係史料の考証と相まって、モット城郭が封建領主の個人的防衛を目的とした初期封建城郭であったことが明らかである。この形式の城は、10世紀なかばごろから11世紀に西ヨーロッパ各地に広く築かれたが、やがてそれにかわって石材の城(石城)が現れたのである。

 さて、石城には多くの形式があり、さまざまな分類がなされているが、ここではキープkeep(主塔、天守閣)の有無とその形式による分類法を取り上げてみる。

〔1〕「キープを備えた城」 次のように分類される。

(1)矩形(くけい)キープ城郭 キープの平面構成が四辺形か、その組合せを基本型とし、12世紀がその築城時期であった。ドーバーDover C.(イギリス)、ロシュChâteau de Loches(フランス)、シヨンChâteau de Chillon(スイス)などの諸城はこの好例である。

(2)輪形キープ城郭 この術語の原語であるshell keepとは「貝殻のように内部が空のキープ」という意味で、モット上に城壁と建物を円形または多辺形に巡らし、中央に内庭を残したもので、平面構成は輪形である。イギリスでは、この形式は12世紀後半ごろから13世紀に設営され、レストーメルRestormel C.(イギリス)、カリスブルックCarisbrooke C.(イギリスのワイト島)、ライデン城Leidse Burcht(オランダ)の諸城はその好例である。

(3)円筒形キープ城郭 キープが円筒のような塔形の城で、平面構成は円形であり、イギリスでは12世紀後半ごろから現れ始める。ペンブロークPembroke C.(イギリス)、ミュンツェンベルクMünzenberg(ドイツ)、クーシーChâteau de Coucy(フランス)などの諸城はこの形式に属する。

 これらのほかに、イギリスのヨーク城York C.やポンテフラクト城Pontefract C.にみるような平面構成が四葉形のキープもあり、またワークワース城Warkwarth C.のキープのように、正四辺形と正十字形を組み合わせたようなグランド・プランをはじめとして変形的なものがヨーロッパの城にはある。

〔2〕「キープを備えない城」 それまで城主の居館であり、城攻め時に城方の最後の拠戦場でもあったキープを設けない形式であり、イギリスでは13世紀後半ごろから14世紀中ごろにかけて現れている。それは次のように分類される。

(1)囲郭(いかく)城郭 内庭を囲み、建物が囲壁に沿って建ち並び、出入口に壮大な門楼gate-house式建物が設けられるのが特色である。カーナーボンCaernarfon C.(イギリス)、ピエルフォンChâteau de Pierrefonds(フランス)、バリーモウトBallymote C.(アイルランド)などはこの種類である。

(2)同心円的城郭 中核的な囲郭を外方の城壁が同心円的concentricに囲む平面構成であり、ボーマリスBeaumaris C.(イギリス)、コカCastillo de Coca(スペイン)、カルカソンヌCarcassonne(フランスの城郭都市)、ハンシュタインHanstein(ドイツ)、クラック・デ・シュバリエKrack des Chevaliers(シリア)の諸城はこの典型である。

 囲郭城郭と同心円的城郭の2形式において、ヨーロッパ中世城郭はその完成を示すのである。たとえば壁塔、隅塔、跳ね橋、落し格子、狭間(はざま)、ホーアディングhoardingやマチコレーションmachicolation(城壁基部や城門に接近した敵を撃退するために、床に俯射(ふしゃ)装置を設けた張り出し狭間のことで、ホーアディングは一般に木材で、マチコレーションは石材でつくられている)などの防御設備が完備し、壁塔や隅塔は相互に弓矢の射程内に設けられ、同心円的城郭では、内壁はつねに外壁より高く築かれており、内外の城壁上から同時に城外を射ることができた。要するに、従来の城郭の受動的防御とは異なり、能動的に有効な反撃を攻城軍に与えられるように設計されているのである。

 さて、築城の第一目的は、攻城軍を防御し、撃退することである。したがって、攻城武器や攻城法の発達に対応して、築城も変化しなければならない。前記のような城郭諸形式の出現は、一面ではその関連からでもあろう。つまり、城郭形式の変化と攻城武器や攻城法の進歩との相関性が理論的には考えられよう。しかし、多くの新城郭形式が現れても、旧(ふる)い形式の城が時代を超越し、依然として存続し、新旧諸形式の城が混在していたのが中世城郭の現実であった。これはいかに理解すべきであろうか。中世の城主や攻城者は、一般に彼らの経済力や当面の軍事的必要度などから、新しい攻城武器や攻城法、または新城郭形式の採用には、おのおのその限界があったであろう。つまり、新知識としての攻城法や築城法と実際の採用とは、かならずしも同時的ではなかったことが、その理由と考えられるのである。

 さらに、封建城郭について触れねばならないことがある。封建領主は、かつて公権に属していたその地方の軍事的防衛責任を、彼の個人的利害に関係させ、その居城を拠点として果たしたのである。また、領主はその地方の課税、裁判、警察などの公権を私権化していたので、城は前記の軍事的機能と並んで、領主がそれら諸権を行使する拠点としての性格をもったのであった。このような封建城郭は、領主(城主)の家士による輪番制の守城賦役castle-guardで守備されたのである。

 城も完成期に近づくと、城内生活者は住居性を求め、囲郭内に快適な生活の送れる建物を設け、日常生活に不便なキープは不要視され始めていた。つまり、キープの廃止は、大砲の破壊力という軍事的理由だけに原因したのではなかった。城郭におけるこの住居性を求める傾向の進展は、やがて領主層を日常生活に不便な旧い城郭から離れさせようとしたのである。そこに、次に述べる新形式の城郭が現れた。

(3)後期城郭 完成期城郭にみるような種々な防御設備を施した屋敷城である。しかし、その防御設備はすでに装飾的なもので、城であるより本質的には館(やかた)または屋敷であった。イギリスでは14世紀後半ごろから現れ始めた「四角形城郭」とよばれるのがそれを代表する。それは、中央に四角形の内庭を含んだ四辺形レイアウトの屋敷城である。ボーディアムBodiam C.(イギリス)、ムイデンMuiderslot, kasteel Muiden(オランダ)、フレゼリクスボーFrederiksborg(デンマーク)などの諸城はその好例である。また、フランスのロアール川畔の有名なシャトー群の大部分は、外見は異なっていても、その築城意図の根底には同じものが考えられるであろう。

 中世城郭の衰退はすでに述べたように、城における住居性の追求に関連して早くから進展していたが、それを具体的に決定づけたのは、15世紀の改良された大砲の破壊力であった。城方も初めはそれに対応するために、城郭に部分的な改造を加え、大砲も据えて変貌(へんぼう)していった。

 この経過は、エジンバラEdinburgh(イギリス)、マリエンブルクMarienburg(ドイツ)、カルマルKalmar(スウェーデン)などの諸城に認められる。要するに、この変貌は、城郭の特質である防御性の発展を示すもので、やがてそれは「高さを占める」という古い築城原理にかわり、「低さと厚さを求める」という新しい近代要塞の原理を生み出し、17世紀のフランス築城家ボーバンS. Le Prestre Vaubanに始まる近代の要塞築城に到達するのである。

[小室榮一]

『伊藤ていじ著『城』(1966・読売新聞社)』『藤岡通夫著『日本の城』(1966・至文堂)』『藤岡通夫著『原色日本の美術12 城と書院』(1968・小学館)』『鳥羽正雄他編『探訪日本の城』全10巻(1977~1978・小学館)』『児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系』18巻・別巻2巻(1979~1981・新人物往来社)』『西ヶ谷恭弘編『万有ガイドシリーズ16 城 日本編』(1982・小学館)』『西ヶ谷恭弘編『日本城郭古写真集成』(1983・小学館)』『南條範夫監修『日本の城事典』(1984・三省堂)』『佐藤信・五味文彦編『城と館を掘る・読む――古代から中世へ』(1994・山川出版社)』『塩照夫著『実証日本の城 そのルーツと構造を探る』(1995・北国新聞社)』『佐原真・春成秀爾・白石太一郎・阿部義平・岡田茂弘・石井進・千田嘉博・小島道裕著『城の語る日本史』(1996・朝日新聞社)』『三浦正幸著『城の鑑賞基礎知識』(1999・至文堂)』『小室榮一著『ヨーロッパ中世城郭』(『世界の戦史5 ルネサンスと宗教戦争』所収・1966・人物往来社)』『小室榮一著『イギリスの城』(『世界の文化史蹟 ヨーロッパの城と町』所収・1978・講談社)』『紅山雪夫著『ヨーロッパの旅 城と城壁都市』(1998・創元社)』『アラン・ギイェルム著、大山正史訳『ヨーロッパの城と艦隊』(2000・大学教育出版)』『野崎直治著『ヨーロッパ中世の城』(中公新書)』『Sidoney ToyA History of Fortification, From 3000 B.C. to A.D. 1700(1955, William Heinemann, London)』『Otto PiperBurgenkunde(1967, Weidlich, Frankfurt)』『R. Allen BrownEnglish Castles(1976, B. T. Batsford, London)』『Gabriel FournierLe Château dans La France Médiévale(1978, Aubier Montaigne, Paris)』『B. H. TaylorNorman Castles(1985, Scientific American, New York)』



城(カフカの小説)
しろ
Das Schloß

ドイツ語作家カフカの最大の長編小説。未完の遺稿から死後1926年に出版された。故郷を離れ、無一物のKが、城の支配する異郷の村にきて土地測量師として定住し、城の内奥に迫ろうとする。城の高官クラムに対決しようとするが、その努力はなかなか成功しない。その間には、役人のくる旅館兼料理屋の紳士荘のウエートレス、フリーダとの恋愛、同棲(どうせい)、離別のほか、村人とのさまざまな交渉があり、主人公Kとの奇妙なずれを示し、一つの社会的な広がりが批判的要素をまじえて表現される。終わりごろ紳士荘で城の秘書と会い、目的実現に近づくが、疲れて眠ってしまう。自由で確実な生活への努力とその不到達性が主題である。

[城山良彦]

『前田敬作訳『城』(新潮文庫)』

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普及版 字通 「城」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 9画

(旧字)
10画

[字音] ジョウ(ジャウ)
[字訓] しろ・きずく

[説文解字]
[金文]
[その他]

[字形] 形声
声符は(成)(せい)。に戍守の意がある。〔説文〕十三下に「以て民を(い)るるなり」とし、を盛れる意とする。〔釈名、釈宮室〕にも「なり」とするが、(盛)はもと粢盛(しせい)(お供え)をいう字であった。は武器の制作に呪祝を加える意であるから、とは武装都市をいう。国の初文或(わく)も、城邑の形(囗(ゐ))と戈とに従い、城邑をいう字である。

[訓義]
1. しろ、き。
2. しろきずく、きずく。
3. 都城、まち。

[古辞書の訓]
〔名義抄〕 ミヤコ・アツチ・サカヒ・カキ・ツク・キヅク

[語系]
(誠)・zjiengは同声。は戈・鉞(まさかり)の類に呪飾をつけた形。軍事に関して約することなどをいう。声の字は、多く軍事・成約のことに関している。

[熟語]
城域・城陰・城・城垣・城塢・城下・城外・城角・城廓・城郭・城観・城墟・城洫・城隅・城闕・城鼓・城溝・城隍・城壕・城国・城砦・城寨・城柵・城塹・城市・城址・城肆・城守・城墻・城上・城陬・城旦・城池・城雉・城中・城・城鎮・城頭・城陂・城府・城壁・城辺・城保・城門・城・城閾・城塁・城輦・城櫓・城楼・城隈
[下接語]
王城・城・外城・干城・環城・危城・宮城・金城・禁城・京城・傾城・堅城・古城・孤城・江城・攻城・荒城・高城・塹城・子城・水城・層城・築城・長城・帝城・都城・登城・辺城・暮城・名城・落城・連城・籠城

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

百科事典マイペディア 「城」の意味・わかりやすい解説

城【しろ】

軍事上の防御施設として建設された建築。領主の居館を囲む城郭,それに付属する都市や集落を囲む市城があり,他に防御のための各種の砦(とりで)が設けられた。西洋では特に10世紀以降中世末までヨーロッパ全土に発達した。要害の地に設けられ,周囲の城壁には銃眼のある胸壁をめぐらし,要所に小塔を立てる。城外との交通は城門によってのみ行い,外濠のある場合にははね橋が城門の前に設けられた。城壁内には領主の住居のための主屋,兵の居住部分,望楼等がある。15世紀以後は武器の発達とともに城塞(じょうさい)としての軍事的意義を失い,居住のための城館に移行した。 日本では奈良〜平安時代に,唐の長安や洛陽を範として都城(平城京平安京)が造営され,東北地方には砦として渟足柵(ぬたりのさく)などの柵(城柵)が設けられ,蝦夷(えみし)経営の基地および陸奥国の政庁として多賀城胆沢(いさわ)城などが築かれた。中世以降に城が発達したが,西洋の場合とは異なり,城下の町を囲むことはなく領主の本拠だけの防御施設となっている。天守をもつ本丸が城の中心で,城主の居館が設けられ,本丸を取り囲むように縄張(なわばり)(地形を活用して防備のための構えを作ること)が行われ,二の丸,三の丸以下の曲輪(くるわ)を配置,要所に角櫓(すみやぐら)を置いた。櫓や塀(へい)には銃眼に相当する鉄砲狭間(ざま)や矢狭間があけられ,本丸への通路を狙う。室町時代以降戦国の世になってから著しく発達し,天然の地形を利用した山城(やまじろ)や,領国の平野を見渡せる丘の上に立つ平(ひら)山城が作られた。応仁・文明の乱以後は戦略上の拠点としてよりも,領国を治める政治の中心として,また領主の権威の象徴としての性格が強くなるにつれて,名古屋城二条城等のような平城が多くなり,日本独特の美しい建築が生まれた。城郭建築の多くは明治維新と第2次大戦で破壊されたが,姫路城は天守以下82棟(むね)をもち,近世城郭建築の全貌(ぜんぼう)を見ることのできる唯一の遺構である。→城下町
→関連項目伊治城山城本丸松本城松山城松山城丸岡城桃生城

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日本歴史地名大系 「城」の解説


かつらぎ

現在、カツラギ・カツラキと発音する。葛城(古事記、日本書紀)、葛木(延喜式、続日本紀、威奈大村墓誌など)と書き、「古事記」仁徳天皇段に「加豆良紀」、「日本書紀」仁徳紀に「箇豆羅紀」の仮名で記され、カヅラキ(古今点訓抄、無名抄)と読む。また「万葉集」巻一一では「葛山」と書いてカヅラキヤマと読ませている。初見は推古天皇四年の「伊予道後温湯碑文」(釈日本紀)ということになるが、いずれにしても和銅六年(七一三)地名改定(佳字・二字)以前に発生した嘉名二字化地名と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「城」の意味・わかりやすい解説


しろ
castle

高い壁,塔などによって外敵の侵入を防いだ王侯貴族の館あるいは要害化された建造物。古代から城や城壁は存在し,古代オリエントでは神殿を兼ねるものが多かった (→ジッグラト ) 。またバビロンやペルセポリスには王宮を兼ねた壮大な城が造られた。古代ギリシア・ローマにおける城は都市など共同社会を守るものであった。ヨーロッパ封建時代の城は,9世紀に始り,築城術の発達とともに西ヨーロッパに急速に広まり,土地によって石または煉瓦で築かれた。また,1096年の第1次十字軍はビザンチン,あるいはムーア人の城を学び,ヨーロッパの城の発達に影響を与えた。 15~16世紀に発達した火砲は,築城術を大きく変えた。城壁が低くなり,火砲によって守られるようになったが,城が要塞となる一方,王侯は別に無防備の館に住むようになった。中国では城は,周の時代から発達し,政治的都市をそのまま城壁で囲む都城の形をとった。また,前3世紀以来モンゴル地帯と中国本土との間に長城が築かれているが,これは北方民族を防ぐための城壁である。朝鮮では古く三国時代から山城が発達していたが,李朝では都市を囲む城壁が築かれた。日本では上代に中国を形式的に模倣した都城,土塁を主とした府城があり,中世に入って鎌倉時代の山城など簡易な城塞が築かれたが,室町時代になって封建時代の本格的な築城が始り,末期には天守閣が現れた。近世になって,領内を統治するために平城が発達し,17世紀初めには築城技術も進み,最盛期に入った。


しろ
Das Schloß

ユダヤ系ドイツ語作家 F.カフカの小説。 1926年死後出版。未完。伯爵家の城から依頼されて,測量技師Kは城のふもとの村にやってくるが,村の人に説明しても信用してもらえない。滞在だけは許されるが,いかなる手段をもってしても城にいたることができない。ようやくKは城に呼ばれるが,疲労に襲われて倒れてしまう。断ち切られたように終るこの小説には,さまざまな解釈が試みられているが定説をみていない。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「城」の解説


ぐすく

「ぐしく」とも。奄美群島・沖縄諸島にある城砦(じょうさい)をいう。12~13世紀頃,各地に按司(あじ)と称する首長層が台頭して小高い丘を城砦とした。当初は野面積(のづらづみ)の石垣をめぐらし,掘立柱の建物を構えた。14世紀には有力首長の勢力拡大にともなって大規模化し,切石積城壁,アーチ門,礎石と基壇をもった瓦葺建物が出現する。城壁は台形の突出部を交互に設け,城門は湾入部につけるなど防御上の工夫が施される。構造の一部に朝鮮半島の城郭と似たところがある。城内に拝所(うがんじゅ)があることが多いが,城が機能していた当時のものと,機能停止後にグスク信仰のために設置されたものがある。城内外にグスク土器や中国陶磁器などが多数みられる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のの言及

【安土桃山時代】より

…(3)は服部之総に代表される見解で,土一揆,一向一揆に代表される民衆の闘いと,倭寇から朱印船貿易にみられる海外発展は,あたかもヨーロッパの初期絶対主義時代に相当するという見解である。(4)は安良城盛昭に代表される見解で,中世=家父長的奴隷制社会のもとで名主百姓に従属していた名子・下人層が,みずから経営する土地を獲得することによって自立を達成し,領主―農奴という一元化された生産関係を基礎とした近世封建社会が成立したというものである。
【時期区分】
 安土桃山時代の時期区分を,政治権力の所在や政治過程の特質を中心に考えれば,次の4段階に分けることができよう。…

【シャトー】より

…フランス語で城を意味する言葉であるが,中世の実戦向きの防御施設を備えた城砦château fortが15~16世紀に発展して居住性の高い宮殿的性格をもつ城館château de plaisanceになったものを一般にこう呼ぶ。フランスのロアール川流域には,城砦のタイプと城館のタイプがともに見られる。…

【縄張り】より

…本来,土地などに縄を張って境界を定め,自他を区別したり,特別の区域(結界)を明らかにすることで,古い民俗慣習に基づく。戦国時代以降,区画内での土地利用計画,建物の配置計画をもさすようになり,もっぱら築城に際して用いられた。建築用語としてはまた,設計図に基づいて建物の配置を定めるため縄を張ることをいい,縄打ち,経始ともよぶ。…

【武家諸法度】より

…天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

【ブルク】より

…通常は個人または集団の安全を守るために建造された居住可能の防備施設(城)を意味する。狭義においては,ほぼ9世紀から14世紀にかけてヨーロッパ全域で出現した王侯や貴族的領主の石造居城を指し,近世以降の邸城Schlossや要塞Festungとは区別される。…

【要害】より

…防御・戦闘性に富んでいること,またはそうした場所を表す語で,〈要害の地〉〈要害堅固〉などと用いるが,中世の城郭用語としては,ある種の城を指す場合と,城内の特定部分を指す場合とがある。前者は砦(取出),堡などと同じく,居城や根小屋に対置して,臨時に詰める戦闘本位の城郭を呼ぶ場合に用いる。…

※「城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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