鹿児島(県)(読み)かごしま

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鹿児島(県)
かごしま

九州の南端に位置する県。北は熊本県、北東から東部にかけて宮崎県に接し、南は海を隔てて沖縄県と相対する。古くは薩摩(さつま)、大隅(おおすみ)の2国からなり、県名は中世以来島津氏統治の中心であった鹿児島郡にちなむ。東側には南に向かって突き出た大隅半島と、西側には薩摩半島があり、この2半島で鹿児島湾(錦江(きんこう)湾)を擁し、湾奥近くに桜島が浮かぶ。また、大隅半島の先端、佐多(さた)岬から約40キロメートルの海上にある種子島(たねがしま)から南西方向に約500キロメートルの地点の与論(よろん)島(北緯27度付近)にまで及び、広い海域を有し、大隅半島―薩南諸島を境に東は太平洋、西は東シナ海に分けられる。これらの島嶼(とうしょ)列は大隅諸島、吐(とから)列島、奄美(あまみ)諸島からなり、薩南諸島と総称される。主要な島には、種子島、屋久(やく)島、奄美大島、徳之島などがある。県庁所在地は鹿児島市。県土の占める位置の関係から、その自然環境は多様であり、生活様式もまた変化に富む。薩摩、大隅国の創置以来、つねに中央からは僻遠(へきえん)の地でしかなかったが、それゆえにまた、大陸から、南の島々から、さらには遠くヨーロッパなどからの文化の伝来地ともなり、日本の玄関の役目を果たした。また、社会的には鎌倉時代以来近代に至るまで連綿と続いた島津氏の支配も特筆に値するだろう。これら自然的、社会的諸条件の反映の結果として、歴史上の随所にみられるような、本県人の保守性と革新性、あるいは後進性と進取性という相反する特性をみいだすことができる。
 人口はその動態をさかのぼってみると、1920年(大正9)に142万であったが、1925年に147万となり、1927年(昭和2)に150万を超えた。その後、1935年まで漸増し159万となる。1945年(昭和20)までは第二次世界大戦の影響で150万人台の増減を繰り返し、その後の10年で204万(1955)に達する。昭和30年代の人口流出は以後1972年まで続き、170万まで減少した。その減少率は全国の1、2位を争うほどで、とくに若年層の減少が目だち、人口構造の老齢化をもたらした。2010年の国勢調査では170万6242人となっている。
 面積9188.78平方キロメートル。2012年(平成24)4月現在、19市8郡20町4村からなる。[塚田公彦]

自然


地形
地形の特色をひとことで表現すれば、それはシラス台地の分布ということに尽きよう。指宿(いぶすき)(阿多(あた))、姶良(あいら)両カルデラの生成に起因する「シラス」堆積(たいせき)物によって形成された台地や丘陵地が県土の50%以上の地域を占めている。台地面は平坦(へいたん)でかつ緩斜面をなすが、その縁辺部は比高数十メートル~200メートルの急崖(きゅうがい)で境される。大隅半島の中央部にある笠野原(かさのはら)、鹿児島空港のある十三塚原(じゅうさんつかばる)、霧島山麓(きりしまさんろく)付近の春山原(はるやまばる)、須川原(すかわばる)などはその代表例。これらの台地が古い山間低地を埋め、標高数十メートルから300メートルくらいの広い平坦面を随所に形成しているさまは、本県ならではの特殊な景観といえよう。一方、骨格をなす山地は、熊本県との境をなす約1000メートルの国見(くにみ)山地、やや南部の紫尾(しび)山を主峰とする出水(いずみ)山地、宮崎県との境をなす1500メートル内外の霧島山地、同じく約500メートルの日南山地が県域を取り囲み、わずかに県下最長の川内(せんだい)川の河谷(川内平野)と、大淀(おおよど)川の支流横市(よこいち)川の谷が宮崎県の小林盆地や都城(みやこのじょう)盆地へと開いている。これら周囲の山地のほか、大隅半島の基部にある高隈(たかくま)山地、同じく先端部の肝属(きもつき)山地、鹿児島湾と川内川を分ける八重山(やえやま)山地、薩摩半島の南薩(なんさつ)山地などが主要な骨格をなし、その間に桜島、開聞(かいもん)岳など1000メートル級の孤峰が点在する。本県の最高点は屋久島の宮之浦(みやのうら)岳で1936メートルである。海域では弧状をなす島嶼(とうしょ)群が南西に向かって延び、離島面積では全国一、その数では全国第4位となっている。それら多くが火山島で、現在でも活発に活動しているものもある(諏訪瀬(すわのせ)島、硫黄(いおう)島など)。
 自然公園には、霧島火山群と鹿児島湾岸一帯を範囲とする霧島錦江湾国立公園、屋久島、口永良部(くちのえらぶ)島からなる屋久島国立公園、甑(こしき)島国定公園、奄美群島国定公園、日南海岸国定公園のほか、県立自然公園に阿久根(あくね)、吹上浜(ふきあげはま)、藺牟田(いむた)池、坊野間(ぼうのま)、川内川流域、高隈山、大隅南部、トカラ列島の8か所がある。[塚田公彦]
気候
鹿児島県の気候を区分すると、南海型、西海型、亜熱帯型になる。南海型は九州の東半部から四国、紀伊半島南部に連なる地域に分布し、本県では大隅半島が属する。西海型は熊本県の一部、長崎県が含まれ、本県では鹿児島湾岸から西側の地域がこれに属す。亜熱帯型は種子島以南の島嶼部に分布する。南海型では、年平均気温17℃前後、1月の平均気温7~8℃で、雪をみることは年に一度あるかないかという程度で、降水量が年平均2000~3000ミリメートルに達する。植生は志布志(しぶし)湾の枇榔(びろう)島にみられるごとく亜熱帯樹が自生する。西海型は、前者より1~2℃低い気温で、降水量は2000ミリメートルを超える所が多い。温暖多雨ではあるが、冬の天気は南海型ほどよくはない。亜熱帯型では、年平均気温19~22℃、1月の平均気温も10℃を割ることはほとんどない。降水量のばらつきは島により大きいが、2000ミリメートル以上であり、南海型よりいっそう温暖な気候である。多くの亜熱帯樹や、サトウキビ、バナナ、パイナップル、パパイヤ、ポンカンなどの産物に示される気候である。[塚田公彦]

歴史


先史・古代
1965年(昭和40)に出水(いずみ)市上場(うわば)高原に旧石器文化が発見されてから、約30か所の旧石器遺跡が発見されている。そのおもな地点は鹿児島市、阿久根市、薩摩川内(さつませんだい)市、指宿(いぶすき)市、湧水(ゆうすい)町、霧島市溝辺(みぞべ)町などである。縄文文化は「東高西低」といわれてきたが、1990年代に入り鹿児島県では考古学の定説を覆す縄文遺跡の発見が相次ぎ、なかでも草創期や早期遺跡の密集度は日本有数となった。鹿児島市の掃除山遺跡では縄文時代草創期(約1万2000年前)の最古の住居跡、南さつま市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡からも草創期の大規模集落跡で定住生活を裏付ける出土品が発掘された。霧島市の上野原遺跡からは縄文早期(約7500年前)の壺(つぼ)形土器が出土、姶良(あいら)市加治木町日木山(かじきちょうひきやま)の干迫(ほしざこ)遺跡からは縄文後期の九州各地、瀬戸内海沿岸の土器が多数発見された。この時期の縄目の文様をもつ土器は少なく、貝殻を使用した押圧(おうあつ)文、条痕(じょうこん)文が多い。各時期を通じて遺跡は発見されるが、前期・中期には火山活動の激しい時期があり、一時的に文化が停滞した形跡がある。また、後期から晩期にかけて大いに海洋性を発揮した時期があったことが注目される。
 弥生(やよい)文化は水稲耕作と金属器の使用に特色がみられるが、本県でもこの特色をもつ文化が弥生前期には確認でき、以後中期への発展をみせるが、後期には停滞する様相を呈する。おもな遺跡は、薩摩半島西岸沿いの南さつま市金峰(きんぽう)町、日置市吹上町、鹿児島湾岸の鹿児島市、垂水(たるみず)市、志布志(しぶし)湾周辺部の肝付(きもつき)町野崎(のさき)、川内川流域の伊佐(いさ)市、湧水町北方(きたかた)などがあげられる。南さつま市金峰町の高橋貝塚は前期の代表的な遺跡で、出土した土器には籾(もみ)の圧痕がみいだされ、また鉄器様遺物も発見されている。また、種子島南部の広田遺跡出土の貝符の1枚には「山」の文字が刻まれている。錦江(きんこう)町の山ノ口遺跡は中期の祭祀(さいし)遺跡である。
 古墳文化は多様である。高塚墳は畿内(きない)、瀬戸内から九州東岸部を経由して伝わり、主として志布志湾周辺部に分布し、総数は400基を超えるが、大部分は円墳である。現存の代表的な古墳は横瀬古墳(大崎町)、県下最大の唐仁(とうじん)大塚古墳(東串良(ひがしくしら)町)で、いずれも前方後円墳である。
 これらの古墳文化は熊襲(くまそ)の文化であり、隼人(はやと)の文化でもあった。『古事記』や『日本書紀』に熊襲がまず登場し、のち隼人が現れる。熊襲は日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲征伐物語にあるように大和(やまと)政権に頑強に抵抗しているが、隼人は抵抗した時期もあるが、のちには大和政権に服属している。
 奈良時代、遣唐使が南西諸島経由の南島路を利用するようになると、多禰嶋(たねのしま)(種子島)、掖玖(やく)(屋久島)、阿麻彌(あまみ)(奄美(あまみ)大島)などの人々の来朝や、これらの島への遣使などがみられる。また薩南地方の重要性は増し、坊津(ぼうのつ)は日本三津の一つといわれるように繁栄した。
 薩摩、多禰両国の成立は702年(大宝2)と推定され、713年(和銅6)には日向(ひゅうが)国の一部を割(さ)いて大隅国が成立している。大隅国府は霧島市国分府中(こくぶふちゅう)、薩摩国府は薩摩川内市に置かれた。このように国府が置かれ律令(りつりょう)制度が強行されると、隼人たちとの間に摩擦が生じ、隼人の反乱がみられる。とくに720年(養老4)の反乱は大規模で、大隅国守を殺害するに至ったので、大和朝廷は大伴旅人(おおとものたびと)を隼人征討に向かわせた。薩摩、大隅両国の班田(はんでん)制の採用は800年(延暦19)で、他国よりはるかに遅れて実施された。このように大隅、薩摩両国の律令体制は8世紀から9世紀初めにかけてしだいに整えられた。
 平安時代になると班田制度が崩壊し荘園(しょうえん)が成立する。薩摩、大隅両国の代表的な荘園は島津荘で、宮崎県都城(みやこのじょう)市付近の島津駅のあたりを大宰大監(だざいのだいげん)平季基(たいらのすえもと)が万寿(まんじゅ)年間(1024~1028)に開発したのが始まりである。この墾田は関白藤原頼通(よりみち)に寄進され、やがて薩摩、大隅の豪族たちは自分たちの荘園の権利を確保しようとして藤原氏に寄進した。島津荘の特色は「半(なか)ばを輸(ゆ)さ」ざるという寄郡(よせごおり)、すなわち租の半分を上納しない荘園が多いことにあった。[村野守治・田島康弘]
中世
源頼朝(よりとも)が鎌倉幕府を創設すると、近衛(このえ)家に関係のある惟宗忠久(これむねただひさ)が島津荘下司職(げししき)に補任(ぶにん)された。やがて忠久は薩・隅・日3州にまたがる広大な島津荘の惣地頭職(そうじとうしき)となり、1197年(建久8)には薩摩、大隅の守護に、のちさらに日向の守護にも補任された。忠久、忠時、久経(ひさつね)の3代は多く鎌倉在番であったが、3代久経は蒙古(もうこ)襲来の弘安(こうあん)の役(1281)に薩摩の御家人(ごけにん)を統率して任国の経営にあたることになった。5代貞久(さだひさ)は鹿児島を根拠地として東福寺城(鹿児島市)に拠(よ)った。7代元久は東福寺城から清水(しみず)城(鹿児島市)に移り、島津家の菩提(ぼだい)寺福昌(ふくしょう)寺を創建した。南北朝の対立から室町・戦国時代を通じ、島津氏以外の有力な豪族が島津氏と対立抗争した。大隅半島の豪族肝付(きもつき)氏、禰寝(ねじめ)氏、北薩の渋谷一族などがその代表的なものである。14代勝久は伊作(いざく)家の島津忠良(ただよし)の援助を得ようとして忠良の長子貴久(たかひさ)を養子とした。しかし、薩州家の島津実久(さねひさ)が両者間の離反を図ったので、勝久と忠良・貴久との間に争いが起こったが、勝久は豊後(ぶんご)(大分県)に亡命し、貴久は父忠良の後見のもとに守護職を継いだ。貴久は父忠良の援助、また義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)、家久の4人の優れた男子の協力により、薩・隅・日の3国統一を実現し、義久の時代には九州制覇の偉業を成し遂げた。
 このころ1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲を伝え、6年後の1549年にはザビエルが鹿児島出身のアンジロウ(ヤジロウ)に導かれて鹿児島に到着、貴久の許しを得てキリスト教を伝えた。
 1578年(天正6)大友氏を討って全九州制覇の望みをもつ島津軍は豊臣(とよとみ)秀吉の調停案を一蹴(いっしゅう)したが、秀吉の全国の精鋭をすぐった大軍に日向の根白坂(ねじろざか)の決戦(1587)で敗北した。川内泰平(たいへい)寺(薩摩川内市)に入った秀吉に島津義久は剃髪(ていはつ)して抗戦の罪を謝し、薩摩、大隅と日向の一部を安堵(あんど)された。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では島津義弘が1万余の軍勢を率いて出軍し、泗川の戦いに勇名をあげたばかりでなく、帰国後高野(こうや)山に「敵味方供養の碑」を建てたことは特筆されよう。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起こった。上方(かみがた)滞在中の義弘は西軍に属したが、西軍総敗北のなかで義弘は徳川家康の本陣に向かって進む壮烈な敵前退却を敢行した。戦後島津氏は謝罪外交に徹するとともに、国境の警備を厳重にして、2年余の執拗(しつよう)な外交交渉によって徳川と島津の和解がなり、薩摩、大隅両国と日向国諸県(もろかた)郡の旧領を安堵することができた。[村野守治・田島康弘]
近世
島津義弘の後を継いだ家久は1602年(慶長7)鶴丸城を構築した。天守閣をもたない屋形造(やかたづくり)の居館で、城中を本丸と二の丸に分けた。また、甲突(こうつき)川の川筋を現在のように付け替え、広く城下町を建設した。また、1609年琉球(りゅうきゅう)に武力侵入しこれを征服、支配下に置いた。
 関ヶ原の戦い後、国替もなく、20万余の士卒を城下に集中することができないため、兵農一致の政策をとり、城下ばかりでなく郷村(ごうそん)の外城(とじょう)にも、武士である郷士を居住させた。郷は、鶴丸城の内城に対する外部的防衛の城という意味である。薩摩51郷、大隅42郷、日向諸県郡20郷の計113郷あった。郷の中心は麓(府本)(ふもと)で、郷士の大部分が居住し、郷の行政は地頭仮屋(じとうかりや)で執行された。地頭(寛永(かんえい)ごろから遙任(ようにん)となり城下居住)のもとに郷士年寄(としより)、組頭(くみがしら)、横目(よこめ)の3役が郷の実権を握っていた。この麓の周辺に村(在)、町、浦浜が連なり、百姓、町人、浦浜人(漁業、運送業に従事)が住んでいた。
 郷士制度と並んで農民に強制していたのは、門割(かどわり)制度である。村をいくつかの門に分け、各門に対する土地の割当て面積を決定して交付した。この耕地は一定の年限をもって割り換えられたが、享保(きょうほう)(1716~1736)以後1870年(明治3)まで約140年間は、小規模の割換えが行われただけであった。
 25代島津重豪(しげひで)は積極的な開化政策を行い、また藩校造士館(ぞうしかん)、明時館(めいじかん)などを創設し、『成形図説』などの多くの書物を編集させた。このような政策と木曽(きそ)川の治水工事などにより出費がかさみ、文政(ぶんせい)の末年(1820年代)になると藩債は500万両にも達した。そのため、側用人(そばようにん)調所広郷(ずしょひろさと)に財政改革を命じた。藩債500万両の整理、奄美大島、喜界(きかい)島、徳之島3島砂糖の総買入れ、琉球貿易の拡大などにより改革は成功し、これにより薩摩藩は明治維新変革の経済的な基礎を得た。
 28代斉彬(なりあきら)は高崎崩れ(お由良(ゆら)騒動)を経てようやく1851年(嘉永4)襲封したが、積極的な藩政改革を行い、藩の富国強兵策を強力に実行した。科学的事業として5年の歳月をかけて反射炉を造成するなどの集成館事業を行い、盛時には従業者毎日1200人を超えたというから、当時日本で最大かつ最新の軍事科学工場であったといえよう。
 1858年(安政5)斉彬の没後、異母弟久光(ひさみつ)の子茂久(もちひさ)(のち忠義(ただよし))が継ぎ、久光が後見して、幕末・維新の変革期に藩政の赴くべき方向を誤らなかった。すなわち久光は公武合体策をとり、大久保利通(としみち)らを用いた。のち公武合体策が行き詰まると、沖永良部(おきのえらぶ)島に流されていた西郷隆盛(たかもり)を赦免して軍賦役(ぐんふやく)(薩摩軍司令官)とした。西郷は大久保らと協力して薩長連合に踏み切り、討幕の密勅、王政復古の大号令から鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに幕軍を追い込んだ。鳥羽伏見の戦いから箱館(はこだて)戦争までの戊辰(ぼしん)戦争に官軍の主力をなした薩摩藩は、出軍者8000余人、戦没者570余人を出し、全力をあげて戦った。[村野守治・田島康弘]
近・現代
戊辰戦争に戦功をあげて帰国した凱旋(がいせん)兵士団が門閥を排して藩政を掌握した。藩治職制を設け家老座を廃し知政所を置き藩政の中心とした。知政所の参政には伊地知正治(いじちまさはる)、桂久武(かつらひさたけ)らが任命されたが、旧藩主島津忠義のじきじきの要請で西郷隆盛が参政に任命され、やがて西郷の力が大きくなった。1871年(明治4)の廃藩置県により、旧鹿児島藩の薩摩、大隅、日向は鹿児島県、都城県、美々津(みみつ)県となったが、1873年美々津、都城県を廃して宮崎県が新設され、1876年宮崎県を廃して鹿児島県の所管とした。1883年宮崎県が独立し日向国を所管とした。琉球は1872年鹿児島県から分離して琉球藩となり、1879年沖縄県が置かれた。鹿児島県では廃藩置県後、従前の鹿児島藩権大参事(ごんだいさんじ)大山綱良(つなよし)が新制による県参事に任ぜられ、権令、県令に進み、1877年官位を奪われるまで県治の責任者として在任したが、このように県政担当者が郷士(ごうし)出身者であることは特異な例である。
 西郷隆盛は征韓(せいかん)論に敗れて1873年(明治6)鹿児島に帰郷したが、1874年私学校を設けて、西郷に従って辞職帰郷した青年たちの教育にあたった。大山県令は私学校に協力し、県内各地の区長・副区長や警察の幹部などに私学校の人材を採用したので、私学校勢力は増大した。明治維新の実現に協力した鹿児島士族は、政府の打ち出す反封建的な諸政策、とくに封建的土地所有を否定する家禄(かろく)奉還や地租改正に大きな不満をもった。1877年西南戦争が勃発(ぼっぱつ)したが、西南戦争による鹿児島県の被害は大きく、その立ち直りも遅かった。
 1880年県令、1886年県知事になった渡辺千秋(ちあき)は、稲の浸種法その他の栽培技術の向上を図り、また農業技術者を郡役所、町村などに配置して技術指導を図った。ついで1894年に赴任した加納久宜(かのうひさよし)知事も農業振興のため農村に指導の手を伸ばし、その結果、繭(まゆ)の6倍増産をはじめ主要農産物はすべて増産となった。
 大正時代に入ると、1914年(大正3)の桜島爆発で被害を受けた農業生産も、第一次世界大戦の影響で1916年から1919年は好景気に沸いたが、1920年以降の恐慌到来で農村経済は不況となり、昭和金融恐慌に続く経済恐慌によりいっそう拍車をかけ、農村経済は窮乏を極めた。1936年(昭和11)になると準戦時体制へ移行し、食糧自給、増産が強調され、県内農業生産も回復して、農村経済も自立好転した。
 日本本土の最南端に位置する本県は、日中戦争以来、航空機兵力の重要な先進基地となり、県下各地に海陸軍の航空基地が開設された。とくに1945年(昭和20)3月の沖縄戦では、特別攻撃隊(特攻隊)の出動で、隊員には若い少年兵や学徒兵が多く、鹿屋(かのや)(海軍)、知覧(ちらん)(陸軍)などの各基地から出動した。また、本県は本土決戦の最前線とされ、空襲は激甚で、その被害も大きかった。
 第二次世界大戦の終戦により、国内各地の基地や戦地からの兵隊の引揚げ、中国東北(旧満州)、朝鮮、台湾などからの引揚者で、本県の人口は半年間に9万人も増加した。1946年(昭和21)の連合国最高司令部の覚書によって奄美諸島は本土から切り離されたが、1951年ごろから復帰運動が盛り上がり、1953年「奄美群島返還日米協定」が調印され、同時に大島支庁が発足した。連合国軍は日本の非軍事化と民主化を促進するため種々の改革を実施したが、六三三制など教育制度の改革と、第二次農地改革などは、本県のような社会体質の古い県にとってはたいへんな改革であった。
 戦後の経済は、朝鮮動乱の特需、高度成長、低成長とめまぐるしいが、畜産部門(養豚・ブロイラーは全国第1位、肉用牛は全国第2位)の成長、「国分隼人(こくぶはやと)テクノポリス」地区への京セラや電子機器工業などの進出にみられるように、緩慢ではあるが県勢の前進がみられる。[村野守治・田島康弘]

産業

本土の最南端に位置し、幕末には外来文化の窓口の一つでもあったことから、工業の発達は早かったが、その後、産業、文化の急速な発達が太平洋ベルト地帯でおこるにつれて、農業県、日本の食糧基地としての性格を強めてきた。第一次産業の相対的比重は高く、農業とりわけ畜産の果たしている役割は大きい。工業もこれらを原料とする農産物加工業が中心である。しかし1993年(平成5)以降、鹿児島空港周辺を中心としてIC関連産業などの先端技術産業の生産が伸び、食品製造業に次ぐ地位を占めるようになってきた。[田島康弘]
農業
農業の基盤としての自然条件は、とくに薩南諸島で代表される温暖性、梅雨や台風期に多い豊富な降水量、広大な畑地の存在など有利な面をもつ反面、シラスとよばれる火山灰性のやせた土壌の広範な分布や、台風の被害などがあり、また位置的にも大消費地から遠距離にあることなど不利な面もある。1995年(平成7)段階では、農家数は11万1000戸と多いが、1戸当り耕地面積は1.22ヘクタールと小さく、農業所得も全体としては低位にある。しかし、畜産部門の伸びは著しく、肉用牛(32万9000頭)こそ北海道に次いで第2位であるが、ブタ(135万9000頭)、ブロイラー(1883万羽)の飼養頭羽数は全国一であり、鶏卵(1180万羽、14万7000トン)でも愛知県を抜いて全国一となって畜産王国の地位を確立してきている。このような畜産部門の発展は、大手総合商社を中心とする外部資本の進出によるところが大きい。企業のなかには直営農場をもち、生産から処理、加工さらには流通まで一貫経営を行うものもあるが、多くは、生産において数戸ないし数十戸の農家に委託し、農家側は土地と労働力を提供して飼養するという契約生産体制をとっている。こうしてインテグレート(統合、系列化)された農家と企業の直営農場とをあわせた出荷の県全体に占める割合は、ウシでは約10%、ブタでは25%、ブロイラーでは50%にも達し、ブロイラーの場合は残りの大部分も農協系の団体にインテグレートされている。このように、畜産の発展は商社系外部資本にリードされて生じたものであるが、この傾向はブロイラーとブタの部門でとくに顕著である。産地は、いずれも県全体に広く展開されているが、ウシでは大隅半島、ブタでは大隅半島と川辺(かわなべ)、伊佐の各地域でとくに頭数が多い。なお、鹿児島の黒豚はその銘柄が全国的に知られている。
 耕種部門では、稲作のほかに、工芸作物と野菜の生産額が多く、とくに野菜の生産が伸びている。稲は以前は暖地気候を生かした二期作もかなり行われていたが、1991年(平成3)以降は、奄美大島で行われているのみである。しかし依然として基幹作目の一つであり、川内(せんだい)川などの沖積平野を中心に、各地で栽培されている。工芸作物には、タバコ、茶、サトウキビがあり、茶は1万5400トン(1995)で、静岡に次いで全国第2位の生産量をもつ。サトウキビは薩南諸島の基幹作目で、種子島に1、奄美大島に7の製糖工場がある。このほか、サツマイモは、その半分以上がデンプン原料として使われ、デンプン生産量は全国一である。野菜では暖地性を生かした早期出荷が特色で、とくにサヤエンドウは全国一の生産をあげている。県内でも、南の薩南諸島から北の出水(いずみ)市まで時期をずらして出荷するリレー出荷体制がとられている。このほか、花卉(かき)の伸びも顕著で、キク、グラジオラス、ユリなどの切花、およびツツジ、サツキなどの花木類の伸びが目だっている。[田島康弘]
林業
県の森林面積58万8000ヘクタール(1995)は県総面積の64%を占め、全国第11位で広い。そのうち国有林面積は27%であるが、霧島(きりしま)山、肝属(きもつき)山地、屋久島などの重要山地を占めている。国有林、民有林とも人工林率は50%を超えており、杉、ヒノキなどの針葉樹林化が進んでいる。林産物は素材が主だが、そのなかでも広葉樹を主とするチップやパルプ用材が半分以上と多く、一般用材を超えていることが特色である。素材以外の特用林産物には、竹材、タケノコ、干しシイタケ、苗木などがあり、とくに竹材とタケノコは全国でそれぞれ第1位と第2位である。また、屋久島の屋久杉加工品も特産品である。[田島康弘]
水産業
長い海岸線と南方の広い海域をもつ鹿児島県は、古くから水産業が盛んであったが、その経営規模は零細で、5トン未満の漁船が90%を超える。大型漁船のほとんどはカツオやマグロ漁船であり、マグロは串木野(くしきの)港、カツオは枕崎(まくらざき)や山川港を基地とし、南太平洋、インド洋などで操業している。総漁獲量は15万2000トン(1993)で、水揚げは、カツオは地元でなされるが、マグロは消費地に近い静岡県の清水(しみず)港や神奈川県の三崎港などで行われる。水産加工も活発で、かつお節が枕崎、山川で、塩干品(塩干サバ、干しイワシなど)が阿久根(あくね)、いちき串木野、鹿児島の各市でおもに行われているが、加工場の多くは家族労働を中心とする零細経営である。このほか、薩摩揚げ、かまぼこなどもある。1959年(昭和34)に実験的に始まった水産養殖は、1977年に設定された200海里漁業水域に直面して、年々伸びてきており、ハマチ、タイ、クルマエビ、ノリ、真珠などが行われているが、生産額ではハマチが断然多い。鹿児島湾、長島周辺、内之浦湾で行われているが、なかでも鹿児島湾の牛根(うしね)、海潟(かいがた)地区(垂水(たるみず)市)が中心である。内水面養殖のウナギも全国第1位(2006)の生産量がある。[田島康弘]
工業
本県の工業は、食品、繊維、木材などの軽工業、とりわけ食品製造業の比率が高いことを特徴としているが、1993年(平成5)以降、半導体やICを中心とする電気機械工業の進出や生産の上昇が目だっており、24時間操業を行う企業もあって、その生産が急速に伸びてきている。業種別にみると、食料品が従業者で3万0331人(30.9%)、出荷額で8212億円(45.5%)ともっとも高いが、電気も2万2545人(22.9%)、3873億円(21.4%)と第2位を占めていて、年々その比率を高めている。主要製造品をみても、第1位は部分肉・冷凍肉(1221億円)であり、また、配合飼料(990億円)、ブロイラー加工品(728億円)、焼酎(しょうちゅう)(469億円)なども高いが、電子機器用部分品(1182億円)と半導体集積回路(1025億円)が第2位と第3位を占めてきており、また電気用陶磁器(651億円)も高い。これらの電気を中心とする先端技術産業は鹿児島空港周辺の県央地区や北薩地区を中心に進出、立地している。他方、食品関係の工場についてみると配合飼料工場のほとんどは鹿児島市臨海部、部分肉・冷凍肉工場は鹿児島市臨海部と旧曽於(そお)郡地方に集積がみられるが、ブロイラー加工品工場は各地に分散している。このほか、食料品工業のなかには、かつお節、干物などの水産食品、砂糖、焼酎、製茶、漬物などがあり、いずれも重要な地場産業である。かつお節はカツオ水揚げ港の枕崎と山川に工場が集中し、本県で全国の約50%を生産する。焼酎の生産は九州に多いが、なかでも鹿児島県にもっとも多い。工場は県下各地に分散しているが、大部分はサツマイモを原料とするいも焼酎で、一部黒糖焼酎が奄美(あまみ)諸島でつくられている。製茶業も、茶の生産全国第2位の実績を基にして、県内のおもな茶産地(南九州市知覧(ちらん)町、霧島市溝辺(みぞべ)町など)に分布しているが、工場規模は小さい。漬物は、桜島ダイコンの粕(かす)漬けである「さつま漬」と、ダイコンの産地として知られる指宿市山川の「山川漬」が代表的なものである。繊維のほとんどは大島紬(つむぎ)で、その産地は、奄美市名瀬を中心とする奄美地区と、鹿児島市を中心とする鹿児島地区に二分される。このほかの地場産業には、白物と黒物とをもつ薩摩焼、樹齢1000年以上の杉からつくられる屋久杉工芸品、川辺(かわなべ)仏壇、旧薩摩郡・姶良(あいら)郡に多い竹製品、種子鋏(たねばさみ)、大隅そろばんなどがある。
 1990年代以降、本県企業の海外進出傾向が顕著になっている。進出企業38社の約8割はアジアへの進出であり、この約6割を香港(ホンコン)を中心とした中国が占めている。[田島康弘]
開発
遠隔地に位置する本県では、中央と連絡する交通基盤の整備・充実はきわめて重要である。1995年(平成7)、人吉(ひとよし)―えびの間の開通により、九州縦貫自動車道の全線が開通して、北部九州への時間がさらに短縮した。現在、八代(やつしろ)―薩摩川内(さつませんだい)―鹿児島を結ぶ南九州西回り自動車道、および姶良(あいら)―志布志(しぶし)―宮崎を結ぶ大隅半島経由の東九州自動車道が建設中である。一方、九州新幹線鹿児島ルートは、2004年(平成16)に新八代―鹿児島中央間が開通、2011年には全線が開通し、博多(はかた)、新大阪への直通運転もそれぞれ行われるようになった。
 また、本県はエネルギー基地としての性格をさらに強めてきており、鹿児島湾内の喜入(きいり)基地に加えて、志布志湾柏原地区の海面埋立てによる石油備蓄基地、東シナ海に面する串木野地区の地下石油備蓄基地がある。
 一方、環境保全、自然回帰の風潮のなかで、本県でもいくつかの公園や環境整備の計画が着手され、実現してきている。吹上浜海浜公園が整備され、1996年には南薩の山川町(現、指宿市)に花卉(かき)生産の増進をもねらいとするフラワーパークが建設された。世界遺産に登録された屋久(やく)島でも、環境文化村の整備が進められ、「環境文化村センター」や「環境文化研修センター」が開館した。1997年には、鹿児島ウォーターフロント整備計画の一環であるかごしま水族館(愛称「いおワールド」)がオープンしている。以上のほか、霧島国際音楽ホール(愛称「みやまコンセール」)が、1994年、霧島山麓の牧園町(現、霧島市)に完成し、また同年、アジア・太平洋農村研修センターも鹿屋市にオープンして、国際的な文化・交流施設の整備も進んできている。[田島康弘]
交通
九州ならびに日本の南の玄関という位置のため、各種交通が発達している。鉄道は、JRでは鹿児島中央(旧西鹿児島)駅を起点として、西部に鹿児島本線、東部に日豊(にっぽう)本線が走っている。また九州新幹線も開通している。ローカル線では、南薩を走る指宿枕崎(いぶすきまくらざき)線のほか、北薩の肥薩(ひさつ)線と、吉都(きっと)線、大隅半島の日南線があり、鉄道期成会が組織されて、運行の改善、駐輪場の整備など利用促進、利便性向上のための努力がなされている。ほかに第三セクターの肥薩おれんじ鉄道が通じる。
 離島を多く抱えるため、海上交通も重要である。まず、鹿児島湾内のフェリーでは桜島フェリー(鹿児島―桜島)、垂水(たるみず)フェリー(鹿児島―垂水)がある。離島航路では、鹿児島と種子島、屋久島を結ぶ種子・屋久航路(口永良部(くちのえらぶ)島との連絡を含む)、鹿児島と奄美の各島を結び沖縄に達する奄美航路(加計呂麻(かけろま)島、請(うけ)島、与路(よろ)島との連絡を含む)、鹿児島と三島村および十島村とを結ぶ三島・十島航路、串木野(くしきの)と甑(こしき)島の各地とを結ぶ甑島航路の四つがある。以上のほか、大阪・志布志―奄美、東京・志布志―奄美・沖縄など鹿児島港を経由しない外洋航路がある。さらに、大阪―上海(シャンハイ)の国際航路が、1995年より不定期に志布志に寄港している。
 航空路線には、国内線と国際線がある。国内線には、鹿児島空港を基点とする路線が国内主要都市とを結ぶ9路線と県内の各離島とを結ぶ7路線があり、合計16路線である。また、奄美空港と国内主要都市間が4路線(東京、大阪、福岡、沖縄)、奄美空港と離島間が4路線(喜界(きかい)島、徳之島、沖永良部(おきのえらぶ)島、与論島)あり、このほかに屋久島―大阪、福岡、沖永良部島―奄美、与論島などの路線がある。本県において航空交通は、国内遠距離移動の際になくてはならないものになってきている。国際線では、定期便としてソウル線(週3便)と上海線(週4便)、台北(タイペイ)線(週3便)がある(2012年4月)。[田島康弘]

社会・文化


教育文化
室町時代、学僧桂庵(けいあん)(1427―1508)は、鹿児島市伊敷(いしき)町で朱子学を広め、多くの弟子を育てたが、これは薩南学派とよばれ、当時鹿児島は学問の中心の一つとなった。戦国時代には、種子島への鉄砲の伝来や、ザビエルのキリスト教布教などにより、鹿児島はヨーロッパ文化の門戸となった。薩摩藩では、儒学とりわけ朱子学の精神を取り入れた武士教育が重視され、これは1773年(安永2)島津重豪(しげひで)により創設された藩校造士(ぞうし)館で行われた造士館教育と、郷中(ごじゅう)教育という二重の形で実施された。郷中教育は、同じ区域の藩内武家子弟を対象とし、日常の会話、詮議(せんぎ)や、「曽我(そが)どんの傘焼(かさやき)」「妙円寺詣(みょうえんじまい)り」「義臣伝輪読会」の三大行事への参加などを行うもので、実践的な性格を特徴とした。西郷隆盛(たかもり)、大久保利通(としみち)らをはじめとした明治維新における多くの有用な人材は、郷中教育を受けた者のなかから輩出した。郷校も武士の子弟だけを対象とした。このように藩は藩士教育にはきわめて熱心であったが、一般庶民の教育にはほとんど関心を示さず、寺子屋の発達も他藩より遅れていた。
 1875年(明治8)には鹿児島師範学校の前身、小学校授業講習所が設立され、1901年(明治34)には、藩校造士館を受け継いで、全国7番目の旧制高校として第七高等学校造士館が設立された。さらに1908年鹿児島高等農林学校、1944年(昭和19)鹿児島青年師範学校、1946年(昭和21)には鹿児島水産専門学校が創立され、これらの国・公立諸学校が合体統合して、1949年鹿児島大学(2012年現在、法文、教育、理、医、歯、工、農、水産学部、大学院連合農学研究科)が誕生した。このほか県内には、鹿児島市に私立の2大学、1公立短大、3私立短大、霧島市に私立の1大学、1短大、1国立高専、薩摩川内市に私立の1大学、鹿屋(かのや)市に国立の1大学(鹿屋体育大学)が創設されている。マスコミでは、地方紙に、南九州最大の発行部数をもつ『南日本新聞』があり、民間放送には、テレビとラジオの両方をもつ南日本放送、テレビのみの鹿児島テレビ放送、鹿児島放送、鹿児島読売テレビ、FM鹿児島がある。鹿児島市内には博物館、美術館、明治100年記念の鹿児島県歴史資料センター黎明(れいめい)館のほか、各地の郷土資料館なども整備されている。[田島康弘]
生活文化
台風の通り道であるうえに肥沃(ひよく)な平野の少ない鹿児島県は、経済的には恵まれなかった。これは現在でも変わらない。しかし、温暖な気候のもとで、自然の与えるものは種類が多い。この地の人々は、それらを有効に利用し生活に役だててきた。
 衣の材料としては、他県と同様、木綿と麻が一般的であったが、南の奄美(あまみ)地方ではリュウキュウバショウを栽培し、その幹から繊維をとり、バシャギンとよばれる芭蕉布(ばしょうふ)を織った。芭蕉布は通気性に優れ、上質のものは絹に似た光沢があり礼服にもなった。また、甑島(こしきじま)列島ではクズの繊維を利用した仕事着「クズタナシ」が愛用されていた。夏から秋に白や紅の大形の花をつけるフヨウからも繊維が採取され、甑島列島ではこれで織った衣類を「ビーダナシ」と称している。藩政時代、紙の産地に近い加治木(かじき)地方では、紙衣(かみこ)もつくられていた。被(かぶ)り物、履き物の材料にも藁(わら)、シュロの皮、クバ(ビロウ)の葉、イグサ、竹の皮、カヤなどが利用されてきた。
 日常の食事は第二次世界大戦後大きく変わったが、それまでは、多くが米に麦、アワ、ソバ、カライモ(サツマイモ)などを混ぜたものを主食としていた。たまにはカライモのみ食べる家庭もあった。カライモは煮て食べるほか、生のまま薄く輪切りにしてよく乾燥しておくと保存ができるので、団子の粉にもなった。ユリの根やクズの根からデンプンをとったり、シイの実を炊いて食べることもあったし、奄美地方ではソテツのナリ(実)や幹からデンプンをとり、命をつないだ時代もあった。ソテツには強い毒性があるのでよく水さらしをしないと危険だが、その実はいまでもみその材料に使われる。奄美ではタイモ(田芋)と称する水田に植える芋も栽培されている。副食は朝、昼、晩とも野菜の多く入ったみそ汁と漬物が主で、出し汁の材料にはかつお節のほか、海や川の魚類をいろりの火で乾かしたヒボカシ魚が使われた。モウソウチクやダイミョウチクをはじめとするタケノコ、ツワブキなどをコンブや揚げ豆腐、魚と煮込んだ煮しめも好まれる。沖縄に近い奄美では豚骨(とんこつ)料理を年越に食べ、豚(ぶた)みそをつくる習慣があるが、本土では鶏を祭りか来客のおりに食べるぐらいで、牛肉などを食べるようになったのは新しい。もっぱら、野山の鳥やけもの類、川や海の魚貝類がタンパク源であった。なお、熱帯原産のニガゴイ(ツルレイシ)やイトウリ(ヘチマ)もよく食べられる。いも焼酎や黒糖酒はお湯で割ってダイヤメ(晩酌)に飲まれている。
 住居は、土壁でなく、ほとんど板壁で囲んでいる。屋根も以前は草葺(ぶ)きが多かった。それを本土では瓦(かわら)屋根にかえ、奄美地方では風が強いこともあってトタン屋根にしている。屋敷の周りに防風林や防風垣が多いのは、台風の被害を少なくするためのくふうである。また、かつては床も板でなく、篠(しの)竹の簀子(すのこ)床にし、天井も張ってないことが多かった。これは暑い夏をすこしでもしのぎやすくするためでもあった。住居部がイエ(オモテ)とナカエ(台所)とに分かれた「二つ家」(二棟造)はこの地方でも特色ある民家で、離島型とか知覧(ちらん)型など地域による違いもみられたが、急速に消滅しつつある。穀物を納めた奄美の高倉も同様に減少している。[増田勝機]
民俗芸能
いわゆる大和(やまと)文化圏と琉球(りゅうきゅう)文化圏との接点であったために、民俗の宝庫といわれるほど多彩な行事や芸能が残されている。
 大晦日(おおみそか)の晩、甑島(こしきじま)列島の下甑島では、高い鼻のついた紙面をつけ、蓑(みの)を着た異様なかっこうのトシドンが鉦(かね)をたたきながら幼児のいる家を訪れる(島のトシドンとして国指定無形民俗文化財)。この行事は屋久島にもあり、東北地方のナマハゲに似たものといわれる。小正月にもカセダウチなど来訪神行事があるが、種子島平山の蚕舞(かいこまい)(県指定無形民俗文化財)は、白面女装の若い男性がヤナギの枝に餅(もち)を刺した餅花を担ぎ、扇を持って舞うもので、養蚕ひいては稲作の豊饒(ほうじょう)を願ったものである。霧島市隼人(はやと)町にある鹿児島神宮(国分八幡(こくぶはちまん))の初午(はつうま)祭は春祭の一つで、鈴懸馬の踊りでにぎわう。薩摩川内(さつませんだい)市高江の南方(みなかた)神社やいちき串木野(くしきの)市の羽島崎神社の太郎太郎祭(ともに県指定無形民俗文化財)などには、神社の境内を水田に見立てて、田打ちから田植までのまねをする田遊(たあそび)系の芸能がみられる。志布志(しぶし)市志布志町や鹿屋(かのや)市串良(くしら)町の山宮神社などでは、叉木(またぎ)を両方からかけて引き合うカギヒキ行事もある。お田植祭としては、薩摩川内市新田神社の奴踊(やっこおどり)(県指定無形民俗文化財)、鹿児島神宮の田の神舞、日置(ひおき)市日吉(ひよし)町の八幡(はちまん)神社のセッペトベ(精一杯飛べ)が名高い。
 梅雨明け後に各地で行われる六月燈(どう)もにぎやかであるが、いちき串木野市大里の七夕踊(たなばたおどり)(国指定重要無形民俗文化財)はとくに盛大で、大きな作り物のシカ、ウシ、トラ、ツルの動物や、琉球王行列、奴行列、薙刀(なぎなた)行列などが登場し、太鼓踊を大きく取り巻いて回る。太鼓踊は盛夏に踊られる勇壮なもので、各地で踊られ、見る者の目を楽しませてくれる。旧暦8月になると三島村で八朔(はっさく)踊があるほか、奄美各地で八月踊がみられ、夜通しチジン(太鼓)の音が鳴り響く。大隅の肝属(きもつき)川流域でも水神祭と関係した八月踊が行われる。十五夜行事としては薩摩川内市の十五夜大綱引きが盛大だが、国の重要無形民俗文化財に指定されている南さつま市坊津(ぼうのつ)町や枕崎(まくらざき)市の十五夜行事、南九州市知覧町の十五夜ソラヨイ行事も地域的特色の濃厚な行事で貴重なものである。ホゼ(放生会(ほうじょうえ))は収穫感謝の祭りであり、指宿(いぶすき)市開聞(かいもん)の枚聞(ひらきき)神社や志布志市有明町の熊野神社では神舞がみられる。曽於(そお)市大隅町岩川の弥五郎(やごろう)どん祭もホゼの一つである。このほか、日置市伊集院町の妙円寺詣り、姶良(あいら)市加治木町(かじきちょう)地区のくも合戦、鹿児島市の曽我(そが)どんの傘焼も名高い行事である。なお、瀬戸内町の諸鈍(しょどん)芝居、龍郷(たつごう)町の秋名のアラセツ行事も国の重要無形民俗文化財に指定されている。[増田勝機]
文化財
鹿児島県は高温多湿な気候と台風の通路にあたるために有形文化財は残りにくい。そのうえ、明治初年の徹底した廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)、西南戦争、太平洋戦争末期の空襲などは、天災を免れた文化財の多くを消滅させた。そのため、由緒ある文化遺産は少ない。建造物のうち伊佐市大口大田にある八幡神社本殿(国指定重要文化財)は室町および桃山形式の手法による建物といわれ、琉球建築の情調も強い。また、同市の白木神社本殿は室町時代の建物に鎌倉時代の手法を加えた貴重なもの、伊佐(いさ)市菱刈市山(ひしかりいちやま)の箱崎神社本殿も室町初期のものとみられている。鹿児島市の西田橋は肥後(ひご)の石工(いしく)岩永三五郎が架設した4連のアーチ式石橋で、甲突(こうつき)川に架かる5橋のうちでもっとも優れているといわれ、県の重要文化財に指定されていた。ところが、1993年(平成5)の災害で5橋のうち2橋が流出した。その後、河川改修のため西田橋を含む3橋も撤去されたが、それらの3橋については、同市の稲荷川に移設保存された。
 鹿児島市磯(いそ)の旧鹿児島紡績所技師館(異人館)や尚古(しょうこ)集成館(ともに国指定重要文化財)は日本における初期の洋風建築の代表的なもので、尚古集成館には薩摩切子(きりこ)(ガラス)など旧藩主の所蔵したみごとなものが多く収められている。
 絵画では、南さつま市坊津歴史資料センター輝津館に保管の絹本著色八相涅槃図(はっそうねはんず)(国指定重要文化財)が鎌倉時代の作品と伝えられ、志布志市志布志町大慈寺の十六羅漢(らかん)徳庵(とくあん)筆の16幅なども貴重なものである。
 工芸品のうち、照国(てるくに)神社(鹿児島市)所蔵の太刀(たち)は本県唯一の国宝で「国宗(くにむね)」の銘をもつ。枚聞(ひらきき)神社所有の松梅蒔絵櫛笥(まきえくしげ)(国指定重文)は化粧道具を入れる箱だが、俗に竜宮の玉手箱とよばれており、高貴な人物の献納品とみられる。鹿児島神宮所蔵の色々威胴丸兜大袖付(いろいろおどしどうまるかぶとおおそでつき)ほかの鎧(よろい)類にもみるべきものがある。彫刻には国指定重要文化財はないが、伊佐市白木神社の白木観音像は白木の寄木造の像で、裏面に「行基菩薩(ぎょうきぼさつ)御作也」と墨書されている。鹿児島市南州寺の不動明王像や出水市野田町感応(かんのう)寺の十一面千手観音(せんじゅかんのん)像などと同様、廃仏棄釈の難を運よくくぐり抜けたものである。
 なお、民俗資料の田の神石像は本県と宮崎県の一部にしかない野の芸術品である。また、伊佐市の祁答院(けどういん)家住宅と、肝付(きもつき)町の二階堂(にかいどう)家住宅は二棟造の代表的例として国の重要文化財に指定されている。[増田勝機]
伝説
太陽と緑に恵まれたこの風土は、「弥五郎(やごろう)どん」のようなユーモラスな巨人伝説を生んでいる。また離島の多くに落人(おちゅうど)伝説が定着しているのは興味深い。薩摩富士の称のある開聞(かいもん)岳には源頼朝(よりとも)の名馬生食(いけずき)を産んだという牧場があり、その母馬の祠(ほこら)は縁結びの神になっている。近くの池田湖も数々の伝説に富む。竜が住むという湖は、風のない日に波立つという。霧島山の大浪池(おおなみのいけ)にも大蛇伝説がある。また、南鹿児島に、大坂の陣で自刃した豊臣秀頼(とよとみひでより)の屋敷と墓が残っている。南九州市知覧(ちらん)町には神話の豊玉姫と玉依姫(たまよりひめ)に関する地名伝説が、また南さつま市大浦町の干拓地には治水に付き物の人柱伝説がある。野間(のま)岳の野間権現(ごんげん)は舟人の信仰を集めているが、本尊は中国娘の娘媽(ニャンマー)神女で霊能力をもち、海難を助けることを誓って投身したという伝説をもつ。巨人伝説は離島にも多い。島々の間を自由に飛び回る巨人は、南国人のおおどかな夢の結晶であろう。種子島(たねがしま)は古い島だけに妖怪(ようかい)伝説が豊富である。中種子町のヌレヨメジョウは非業(ひごう)の死を遂げた流人(るにん)の亡霊。島にはなお、メン、幽霊、目一つ五郎、チョカメン、火グワンス、ガラッパ(河童(かっぱ))、入道、白馬の若侍、天狗(てんぐ)、サイロク、犬神など妖怪の跳梁(ちょうりょう)の信仰が最近まであった。幽霊船に会うと海難に遭遇するという。平家落人伝説は大隅半島をはじめ、甑島(こしきじま)列島、硫黄(いおう)島、屋久(やく)島、吐(とから)列島の平島、諏訪瀬(すわのせ)島、悪石(あくせき)島、宝島と奄美大島などに及び、いずれも平家部落が存在し、落人の遺跡や墓所があって、その末裔(まつえい)が住んでいる。ことに硫黄島には安徳(あんとく)天皇の子孫と伝える家がある。この島と切り離せない伝説に「僧俊寛(しゅんかん)」があり、出水市野田町には俊寛の庵(いおり)跡というのが残っている。俊寛は鬼界(きかい)ヶ島を脱出しこの地に住んだという伝承がある。なお、奄美大島の平家落人は、平重盛(しげもり)の子資盛(もともり)・有盛、行盛らで、資盛は加計呂麻(かけろま)島の諸鈍(しょどん)に、有盛は浦上に、行盛は戸口にそれぞれ城を築いたという。龍郷(たつごう)町の行盛社は行盛の怨霊(おんりょう)を鎮めるために建てたと伝えている。[武田静澄]
『川越政則著『鹿児島県史概説』(1963・至文堂) ▽吉田正広編『鹿児島明治百年史年表』(1968・鹿児島県立図書館) ▽『鹿児島県の文化財』(1973・鹿児島県) ▽原口虎雄著『鹿児島県の歴史』(1973・山川出版社) ▽『日本地誌21 大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県』(1975・二宮書店) ▽村田煕著『日本の民俗 鹿児島』(1975・第一法規出版) ▽『鹿児島県地誌』上下(1976・鹿児島県) ▽椋鳩十・有馬英子著『鹿児島の伝説』(1976・角川書店) ▽『鹿児島県の歴史散歩』(1977・山川出版社) ▽山口恵一郎編『日本図誌大系 九州2』(1977・朝倉書店) ▽小野重朗著『鹿児島歳時十二月』(1978・西日本新聞社) ▽『鹿児島県史』5巻・別巻・年表(1980・鹿児島県) ▽『鹿児島大百科事典』(1981・南日本新聞社) ▽『鹿児島県風土記』(1982・鹿児島書籍株式会社) ▽『角川日本地名大辞典46 鹿児島県』(1983・角川書店) ▽『鹿児島県風土記』(1995・旺文社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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