栃木(県)(読み)とちぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「栃木(県)」の意味・わかりやすい解説

栃木(県)
とちぎ

関東地方の北中部を占める内陸県で、東は茨城県、北は福島県、西は群馬県、南は茨城・埼玉・群馬の3県に接し、県庁所在地の宇都宮市は東京から約100キロメートル、首都圏の北部にあたる。県名は、明治初期に宇都宮県と併存して、県西半部を占めていた栃木県に基づく。古墳文化が近畿地方から全国に広まったころ、栃木県の大部分と群馬県は毛野(けぬ)国とよばれ、5世紀に毛野国は上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)の2国に分かれたとされる。下毛野国と那須(なす)国が7世紀終わりに下野国(しもつけのくに)となり、これがだいたい、いまの栃木県に相当する。

 栃木県の東部・西部は山地、中央は平地で、平地は気候が温暖な南部ほど広く、県民生活に有利で、人口密度は平地の中・南部に大きい。日本の文化地帯から外れ、本格的開発が後れた所もある。中央日本と東北日本との間にあるため、両者を結ぶ交通路が通じ、いまも幹線交通路沿いに人口の集積が著しい。首都圏の北部にあるため京浜との関係が深く、近世以来農・工産物は南関東に送られ、観光地は京浜の日帰り観光圏に入る。県内総生産額は7兆9901億円(2008)で都道府県順位は17位であるが、一人当りの県民所得は291万7000円で12位。

 人口は1970年(昭和45)以後の増加が比較的大きかったが、2006年(平成18)頃から停滞・減少に転じている。2020年(令和2)の人口は193万3146人で、第1回国勢調査(1920)の約105万人からは、約88万人の増加となったが、関東の都県では群馬県に次いで少ない。面積6408.09平方キロメートル。

 2020年10月現在、14市5郡11町からなる。

[奥田 久・奥井正俊]

自然

地形

栃木県の地形は南向きの盆地状で、だいたいに北高南低である。東部の茨城県との境に、八溝山地(やみぞさんち)が南北に走る。高度は北部で1000メートル前後で、横谷が山地を分断し、那珂川(なかがわ)の横谷もその一つである。県の北部から南西部へ西部山地が延びる。福島・群馬両県との境の帝釈山地(たいしゃくさんち)は、2000メートル級の主嶺(しゅれい)をもち栃木県の屋根といえ、鬼怒川(きぬがわ)水系の源流部である。県の南西部の足尾山地(あしおさんち)は傾動地塊といわれ、群馬県との境になる1300メートル級の山脈が西に偏る。主脈から南東に緩傾斜し、この斜面を河川が平行して南東に流れる。帝釈山地と足尾山地の間に那須、高原(たかはら)、日光の3火山群があり、温泉も多い。日光火山群の白根山(しらねさん)(2578メートル)は東北日本最高の火山で、男体山(なんたいさん)の南麓(なんろく)に中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)がある。東西の山地の間に中央平地があり、塩那(えんな)丘陵で南北に二分される。北は那珂川と支流の箒川(ほうきがわ)の間の那須野原台地(なすのがはらだいち)(複合・複成扇状地)で、高度は600~200メートル。大部分は砂礫(されき)層が厚く、地下水位は深い。北に白河丘陵がある。南の平地は足尾山地の東縁・南縁に扇状地が並び、同山地と八溝山地の間を思(おもい)川、鬼怒川、五行(ごぎょう)川などが南流する。これら河川の沿岸低地とその間の台地が、南北に縞(しま)状に並ぶ。足尾山地の南は渡良瀬川(わたらせがわ)が東流し、沿岸に台地・低地がある。渡良瀬川と利根(とね)川の合流点付近の県南端部は関東構造盆地の中心に近く、地下水の取水による地盤沈下が目だつ。

 自然公園には、1934年(昭和9)12月に国立公園として第2回目に指定された日本の代表的国立公園、日光国立公園がある。県総面積の約6分の1にあたる約1000平方キロメートルに及ぶ広大な地域を占め、日光、那須など日本有数の観光地を含んでいる。那須岳、男体山などの火山、那須高原、戦場ヶ原などの高原、湯ノ湖、中禅寺湖などの湖沼、鬼怒川渓谷などの自然景観に加えて、那須温泉郷、塩原温泉郷、奥鬼怒温泉郷など温泉も豊富である。さらに日光東照宮などの文化景観が加わり、首都圏に近いこともあって交通機関、観光施設もよく整備され、国内のみならず、海外の観光客の訪れも多い。ほかに2007年(平成19)8月に日光国立公園から分離して新たに指定された尾瀬国立公園の一部が県北西部にかかっている。

 県立自然公園は、八溝山地西麓の八溝・那珂川・益子(ましこ)、宇都宮市北西部の宇都宮、足尾山地北部の前(まえ)日光、南麓の太平山(おおひらさん)・唐沢山(からさわさん)・足利(あしかが)の8公園がある。それぞれ特色のある観光資源をもつ。

[奥田 久・奥井正俊]

気候

北関東の中央にあるため年平均気温は、宇都宮市で13.8℃(以下、1981年から2010年までの平均値)というように南関東より低く、北部では稲作が冷害を受けることがある。また内陸性なので気温の年較差・日較差が大きく、夏の暑さは南関東とそう違わず、熱雷性の雷雨が多い。このため高冷地のホウレンソウは雨よけ栽培をする。冬はかなり寒く、とくに朝の寒さは厳しく凍り豆腐をつくれるほどになる。平地の降水量は少なく、宇都宮市の年降水量は1419ミリメートルで、南部はとくに少ない。西部山地では多く、2000ミリメートルの所もある。帝釈山地が太平洋岸式気候と日本海式気候の境界で、県の大部分は夏に雨、冬に晴天が多い。西部山地の北西部は冬に雪が多く、冬から浅春に那須野原台地や足尾山地の南にはからっ風が強く吹く。

[奥田 久・奥井正俊]

歴史

先史・古代

県内の河川・湖沼に近い段丘面などに、旧石器時代人が居住した。真岡(もおか)市磯山遺跡(いそやまいせき)はこの時代の遺跡の一つである。縄文時代に気候が温暖化し、住民は洞窟(どうくつ)・台地や低地にも住み、採集・狩猟を主要生活手段とした。宇都宮市大谷寺洞穴遺跡(おおやじどうけついせき)や栃木市藤岡(ふじおか)町藤岡の篠山貝塚(しのやまかいづか)は、この時代の遺跡である。弥生(やよい)時代に住民は山麓や平地で農耕生活を送り、平地で水稲も栽培した。宇都宮市瑞穂野団地遺跡(みずほのだんちいせき)はこの時代のものである。その後に発展した水稲作農耕社会が高塚式古墳を築造する。多くの古墳が那珂川、鬼怒川、渡良瀬川に沿う台地や低地に分布し、前方後方墳、前方後円墳、円墳、方墳がある。夔鳳(きほう)鏡を出土した那須郡那珂川(なかがわ)町小川(おがわ)の那須八幡塚(なすはちまんづか)は、4世紀の前方後方墳である。大田原(おおたわら)市湯津上(ゆづかみ)の上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)は前方後方墳、1692年(元禄5)水戸藩主徳川光圀(みつくに)の命で発掘調査され、鏡、管玉(くだたま)、鉄鏃(てつぞく)などが出土した。

 7世紀の終わりに下野(しもつけ)国が生まれ、このころ那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)がつくられた。下野国は東山道(とうさんどう)の上(じょう)国で、蝦夷(えぞ)地経営の後方基地となり、国府は現在の栃木市田村町に置かれた。中央平地に条里遺構や『和名抄(わみょうしょう)』記載の郷が多く、陸奥(むつ)国への東山道も足尾山地の南から北上し、当時の開発状況が推察される。下野薬師寺、国分寺、国分尼寺などの造営、大谷寺の磨崖仏(まがいぶつ)や佐貫(さぬき)の石仏の造像、勝道(しょうどう)や円仁(えんにん)(慈覚(じかく)大師)の出現で古代仏教が展開した。10世紀前半、藤原秀郷(ひでさと)は平貞盛(さだもり)とともに平将門(まさかど)の乱を鎮圧し、その一族が下野国南部・上野(こうずけ)国東部の有力武士団となった。

[奥田 久・奥井正俊]

中世

鎌倉幕府成立前後に下野国北部に那須氏、中部に宇都宮氏、南部に小山氏(おやまうじ)を中心に武士団が勢力をもち、南西部では藤姓足利氏(あしかがうじ)にかわり源姓足利氏が台頭する。北部に那須氏が信仰した温泉(おんせん)神社、南部に小山氏が尊信した牛頭天王(ごずてんのう)社が、それぞれいまも多い。鎌倉幕府の滅亡を契機に、下野国の豪族は足利方と南朝方の間で離合集散を繰り返し、戦国時代にも那須、宇都宮、小山三氏を中心に動乱が続いた。古代以来の下野薬師寺や日光山は、戦乱の世に中世寺院として続き、鎌倉新仏教も伝えられ、雲巌(うんがん)寺、後の専修寺(せんじゅじ)や鑁阿寺(ばんなじ)が創建された。15世紀に再興された足利学校は、中世学問の中心として繁栄し、天明鋳物業(てんみょういものぎょう)も盛んであった。

[奥田 久・奥井正俊]

近世

中世以来の主要豪族は近世初頭に没落し、太閤(たいこう)検地後の1598年(慶長3)に、下野国は蒲生秀行(がもうひでゆき)(宇都宮)、皆川広照(ひろてる)(皆川)、那須資晴(すけはる)・資景(すけかげ)(佐久山)、大関資増(すけます)(黒羽(くろばね))、成田氏長(うじなが)(烏山(からすやま))、佐野信吉(のぶよし)(唐沢山)、山川朝行(ともゆき)(足利山川)などの諸氏に領有された。関ヶ原の戦い後、徳川家康によって譜代(ふだい)の奥平氏(宇都宮)、その後も本多氏(小山)など譜代が封ぜられ、江戸の北の要衝が固められた。17世紀末の地方直(じかたなお)しで、下野国に旗本領が増加する。諸藩は宇都宮藩以外は小藩のため多くの小城下町を生み、文化の普及に貢献した。幕末には戸田(宇都宮藩)、鳥居(壬生藩(みぶはん))、大田原(おおたわら)(大田原藩)、大関(黒羽藩)、大久保(烏山藩)、戸田(足利藩)その他の諸氏の藩領や、幕領、旗本領、寺社領があった。

 17世紀に足尾銅山が開発され、市ノ堀用水など用水路が開削され、低地・台地に新田が開発された。中期に商品貨幣経済が浸透し、タバコ、和紙、かんぴょう(干瓢)、アサなど商品作物の生産が増加した。生産力向上のための肥料購入は農家経済を破綻(はたん)させ、農村荒廃・百姓一揆(いっき)の一因となった。江戸後期に大麻・織物の生産が増え、農村復興のため北陸一向宗徒が移住し、彼らの移住地にはいまも一向宗(浄土真宗)の寺院がみられる。また益子焼(ましこやき)の生産が始まった。南北幹線交通路としての奥州街道、日光東照宮の鎮座に伴う日光街道が開かれ、鬼怒川など南流する河川や渡良瀬川も交通路となり、主として貨物輸送に利用された。19世紀に宇都宮出身の蒲生君平(くんぺい)は『山陵志(さんりょうし)』で古墳の編年を確立し、相模(さがみ)国の二宮尊徳(金次郎)は桜町(さくらまち)領、茂木(もてぎ)藩、烏山藩、日光神領などで報徳仕法を行った。

[奥田 久・奥井正俊]

近・現代

大政奉還後の1869年(明治2)、真岡県(幕府代官支配地)と日光県(日光神領など)をあわせて、新しい日光県が置かれた。版籍奉還で大部分の旧藩主は知藩事として旧領を治め、その後、喜連川(きつれがわ)藩は日光県に合併された。1871年の廃藩置県で各藩は県となり、壬生、吹上、佐野、足利、館林(たてばやし)(上野国)などの諸県と日光県が栃木県に、宇都宮、烏山、黒羽、大田原、茂木などの諸県が新しい宇都宮県に統合された。1873年宇都宮県は栃木県に併合され、ついで旧館林県域を群馬県に移管し下野一国が栃木県になり、1257町村であった。1884年に県庁は栃木(薗部(そのべ)村)から県域の中心の宇都宮(塙田(はなわだ)村)に移り、9月、政府高官を暗殺し、政府転覆を企てた自由党員による加波山事件(かばさんじけん)が起こった。1888年の市制・町村制公布の翌年、171町村になった。1959年(昭和34)に菱(ひし)村が群馬県桐生(きりゅう)市に合併され、翌年足利市は群馬県矢場川村の一部を合併し、県域が変化した。

 那須野原台地は乏水性のためほとんど原野であったが、1880年(明治13)以来印南丈作(いんなみじょうさく)、矢板武(やいたたけし)らの努力で本格的に開発された。中央平地を中心に耕地整理、畜耕の導入、栽培技術の改良で稲作の反収は増大し、水田裏作も普及し、北部を中心に牧馬が増加した。南部の機(はた)業は足利を中心に発展し、真岡や宇都宮の郊外、鹿沼(かぬま)などに近代的繊維工業がおこり、日本最初といわれる水力発電が鹿沼で行われた。足尾銅山は富鉱の発見などで産銅が増加し、1885年には全国の39%の銅を生産し、日光に精銅工業が立地した。銅山の発展とともに日本最初の産業公害問題が発生し、この解決に田中正造(しょうぞう)などが努力した。1887年にいまの東北本線が県を縦断し、宇都宮の都市力伸張の一因となる。第二次世界大戦後とくに経済高度成長期を経て、県の産業・交通などの近代化は著しく進んだ。

[奥田 久・奥井正俊]

産業

産業別就業者数(2010)では第三次産業人口が最多、第一次産業人口が最少で、第一次・第二次産業人口の構成比は全国平均より大きい。第二次世界大戦後の工業化で農業県から工業県に変わり、産業全般に首都圏の影響を受ける。

[奥田 久・奥井正俊]

農業

経営耕地面積(2011)は12万7200ヘクタール、耕地率は19.7%、水田率は大戦後急増し77.7%で、ともに全国平均より大きい。農家総数6万4000のうち専業は1万0127、都市化・工業化で第二種兼業が増加し3万0644、農家経済は農外収入に大きく依存する。農業機械化や農業構造改善事業も進展した。水田は低地はもちろん台地・扇状地や山地・丘陵の谷にも分布する。台地・扇状地では、稲作の労働生産性が有利なため、電力揚水を利用し戦後に畑・平地林を開田した。五行川、鬼怒川、思川・渡良瀬川の沿岸低地や戦後の開田が多い那須野原台地が、県の四大稲作地である。栽培品種はコシヒカリが中心で全体の8割を占めているが、稲作減反に種々の対策がとられている。那須野原台地には大規模乾燥調製貯蔵施設が多く、北部の兼業農家の一部は請負耕作で稲作をする。

 麦類ではビール用の麦の栽培は全国の約3割(2011)を占める。畑作では近世から栽培された東部のタバコ、中・南部のユウガオは減り、西部のアサはほとんどない。野菜類の生産が増加し、サトイモ、イチゴ、キュウリ、トマト、タマネギ、ハクサイ、ニラの栽培が特色で、ラッカセイ、ブドウ、ナシ、クリ、サツキなどの花卉(かき)、桑苗の栽培も知られる。高冷地ではダイコン、ホウレンソウが栽培され、ホウレンソウは雷雨を避けるため雨よけ栽培をする。戦後におこった水田裏作のイチゴ、トマト、キュウリの施設園芸が盛んである。イチゴは冬に多い晴天と首都圏という市場優位性、大きい生産性のため、中・南部を中心に栽培され、全国有数の栽培面積をもつ。米、イチゴなどは京浜市場に出荷される。北部では開拓地を中心に酪農が盛んで、那須山麓などで牛が放牧される。県内ではブタ、ニワトリ、牛が増加している。

[奥田 久・奥井正俊]

林業

県面積の約55%(2010)が林野で林産資源も多い。民有林は22万1190ヘクタールで、八溝、高原(たかはら)、日光の林業地があり、スギ、ヒノキを生産する。帝釈山地は国有林が多く、広葉樹を伐採している。

[奥田 久・奥井正俊]

鉱業

採鉱環境の悪化・低価格鉱の輸入などによる1973年(昭和48)の足尾銅山閉山後、有力な金属鉱山はない。佐野市などのドロマイト・石灰岩、宇都宮市の大谷石(おおやいし)の採掘を特色とし、ドロマイトの生産は全国の大部分を占める。佐野市などの土建用砕石の生産が増加し、盆栽・園芸用の鹿沼土(軽石の風化土)も知られる。

[奥田 久・奥井正俊]

工業

足利・佐野地方など南部の繊維、宇都宮・小山両市の食料品、小山市・那須塩原市の製糸、東部・西部両山地山麓に製材木工、日光市に金属などの工業が第二次世界大戦前に立地していた。つまり工業は軽工業中心で原料立地型工業が多く、地域的分布は南部に偏在していた。

 戦時中の工場疎開、戦後の県民所得向上と地域格差是正を目ざした県の工業化政策、首都圏整備計画による工業団地への工場誘致により大規模工場が増加し、重工業加工型業種主導が特色で、軽工業も変質した。工業団地は国道4号沿線の台地、道路の整備とともにその周辺に造成された。宇都宮市の平出(ひらいで)工業団地(面積285ヘクタール)、清原工業団地(388ヘクタール)、真岡第一・第二工業団地(306ヘクタール)は内陸の大規模工業団地である。また、宇都宮テクノポリス開発地域においては先端技術産業の誘致が盛んで、研究所団地「情報の森とちぎ」「とちぎ産業創造プラザ」などもつくられている。なお県内には、中京以西を本拠とする大企業が関東以北の市場確保を目的に進出した工場が目だつ。

 1975年(昭和50)以来、電気機械・輸送用機械など、付加価値が高く公害が少ない重工業加工型の製造品出荷額等が、全工業の50%以上を占める。大田原・矢板(やいた)両市の電気機械、宇都宮市の電気機械・一般機械、河内(かわち)郡上三川(かみのかわ)町・真岡市の輸送用機械、小山市の電気機械・金属・一般機械・輸送用機械、栃木市の電気機械、佐野市の輸送用機械、足利市の金属などがこれである。ほかに真岡・日光両市の非鉄、小山市の鉄鋼や那須塩原市のゴム、宇都宮・小山・佐野3市の食料品、足利市の繊維その他の工業がある。戦前から知られた足利市の銘仙(めいせん)、佐野市の綿縮(めんちぢみ)は化繊・合繊の広幅物にかわり、両市に縫製工業もみられる。その他の地場産業には、芳賀(はが)郡益子町の陶器、日光市今市(いまいち)の線香、鹿沼市の木工、小山市の結城紬(ゆうきつむぎ)、栃木市・佐野市の粘土瓦(かわら)などの製造がある。宇都宮・真岡両市や上三川町の工業化が著しく、県の工業の中心は戦前の南部からいまは中部に移っている。

[奥田 久・奥井正俊]

開発

北部は中・南部に比較して全般的に地域格差がみられ、これの是正のため1980年(昭和55)を目標年次とする高原(たかはら)地域や大規模農用地開発を目ざす八溝地域の開発計画がたてられた。宇都宮広域都市開発計画、県南地域総合開発計画、北那須中核都市整備基本計画は1985年を目標年次とし、これらには鬼怒川左岸台地開発基本計画、渡良瀬遊水地(渡良瀬遊水池とも)の整備、自治医科大学周辺地区の開発整備、那須野原地区および塩那台地の国営総合農地開発がそれぞれ含まれる。鬼怒川、那珂川などで水資源が開発され、那珂川上流に最大出力68万キロワットの沼原(ぬまっぱら)(揚水)発電所があり、鬼怒川水系上流に最大出力105万キロワットの揚水発電所を建設し、宇都宮テクノポリス(高度技術集積都市)が、1986年5月鬼怒川左岸台地に地域指定された。第三セクターの野岩鉄道(やがんてつどう)会津鬼怒川線(栃木県・新藤原―福島県・会津高原)が1986年10月に開通し、観光路線として機能している。最近では、少子高齢化社会、ネットワーク社会への対応などを示した「とちぎ21世紀プラン」(2001年度~2005年度)、栃木総合計画(2006年度~2010年度)、新とちぎ産業プラン(2011年度~2015年度)などが策定されている。

[奥田 久・奥井正俊]

交通

中央平地を南北に縦断する国道4号(東京都中央区―青森市)、東北自動車道とJR東北本線、東北新幹線が大動脈になる。これらのほか、国道50号などの国道・県道や東北自動車道の宇都宮インターチェンジで分岐する日光宇都宮道路(有料)が、宇都宮市を中心に中央平地で密な道路網をつくり、西部山地には日塩もみじラインなど、短距離の有料自動車道がある。また、2011年(平成23)には北関東自動車道が全線開通した。これらにはバス・トラック交通もみられ、東部・西部の山地では重要交通機関となる。マイカーが普及し、民営バス路線網が縮小しているため、国や県の助成金を受ける公営の生活路線バスが運行されている地域も多い。JR線の両毛線(りょうもうせん)、水戸線、日光線、烏山線(からすやません)、東武鉄道の日光線、鬼怒川線、宇都宮線、佐野線、伊勢崎(いせさき)線があり、第三セクターの真岡鉄道、わたらせ渓谷鉄道、野岩鉄道とともに南部を中心に密な鉄道網をつくる。

[奥田 久・奥井正俊]

社会・文化

教育・文化

近世の藩学は、1713年(正徳3)の壬生藩の学習館、1726年(享保11)の烏山藩の学問所が早く、多くは江戸後期に藩士子弟教育のため各藩に設けられた。学習館は、鳥居忠英(ただてる)が近江(おうみ)国水口(みなくち)から壬生へ転封の翌年開設された。藩学の多くは朱子学を採用したが、学習館や佐野藩の観光館は洋学も採用し、黒羽藩の作新館は蔵書が多く館名が私立学園に残る。庶民教育機関の寺子屋・私塾は17世紀中ごろに始まり、19世紀初頭から増加した。経営者は僧侶(そうりょ)、農民、医師などで、449が確認されている。

 1873年(明治6)には類似(るいじ)師範学校、1904年(明治37)に栃木県女子師範学校(ともに栃木師範学校の前身)が開校し、1922年(大正11)に後の栃木青年師範学校と宇都宮農林専門学校が設けられた。宇都宮大学は1949年(昭和24)これらを統合したもので、さらに1964年宇都宮工業短期大学(1961年設立)を合併した。2012年(平成24)現在、ほかに私立の足利工業大学、自治医科大学、独協医科大学、白鴎(はくおう)大学、作新学院大学、国際医療福祉大学、宇都宮共和大学、文星芸術大学、帝京大学(宇都宮)や短期大学6と国立の小山工業高等専門学校がある。図書館は県立のものが宇都宮・足利両市にあるほか公立のものが49、おもな博物館・美術館は宇都宮市の県立博物館・県立美術館、小山市立博物館など。栃木県博物館協会加盟施設は87に及ぶ。文化活動の拠点になる文化会館も各地に設立された。

 1874年(明治7)、県内最初の新聞が県庁に近い栃木町で発刊され、ついで足利・宇都宮両町でも刊行された。1882年創刊の『栃木新聞』は県庁移転とともに栃木町から宇都宮町に移り、『下野新聞』と名称変更し現在まで続いている。放送はNHK宇都宮放送局が1943年、ラジオ栃木(現在の栃木放送)が1963年、さらにFM栃木が1994年(平成6)に開局した。

[奥田 久・奥井正俊]

生活文化

第二次世界大戦後の都市化の浸透で、衣食住ともに固有のものが衰退し、農山村での仕事着もシャツとズボンが基本的になったが、戦前には北部と南部、農村と山村ではそれぞれ固有のものがみられた。草鞋(わらじ)は県内では乳(ち)が四つのものが一般的であったが、北部では乳が二つのもの(会津(あいづ)草鞋)があった。仕事着の上着は農山村とも半纏(はんてん)、はんぎりを着るが、農村では長着も用い、下半身は農村でももひき、山村で袴(はかま)(かるさんのこと)をつけ、すねには農村で紺色木綿の脚絆(きゃはん)、山村で藁(わら)などで編んだ脛巾(はばき)を用いる。履き物は、湿田地域の田下駄(たげた)、積雪期の山村のかんじき、藁で編んだスリッパ型のおそひきに特色がある。

 農業の兼業化や自動車の普及で農山村の食事は都市化したが、戦前は自給食料を用いた粗食であった。米飯は特別の日だけ、平常は農村で麦飯、北部の山村で粟(あわ)飯・稗(ひえ)飯・三穀飯が主で、「はっと(う)」とよぶ野菜入りのすいとんも食べ、魚はまれに塩干魚を用いるだけであった。2月の初午(はつうま)につくり『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』にも記された「しもつかれ」(すみつかり)、北部の芋ぐしは郷土料理として知られる。寺院が多かった日光市で、僧侶の重要な植物性タンパク源に利用された湯波(ゆば)(湯葉)が製造される。農家の住居も都会的になったが、まだ固有の建築も残っている。木造南向き、屋根はカヤ、ヨシ、藁、麻殻(おがら)(アサの表皮をむいた残りの茎)の草葺(ぶ)きの寄棟造が多く、北西に「やうら」(防風林)がある。間取りは東北日本的な広間型が多く、南部に西南日本に多い田の字型もあり、東部に鍵(かぎ)型の中門造りがみられる。南部の低湿地の水塚(みつか)、山間地の木蔵、宇都宮市大谷付近の石屋根・石蔵も特色である。

 言語では南西部の住民は東京のように「朝」と「麻」をアクセントで区別できるが、その他の地域の住民は区別できないし、しり上がりに発音する。東部山地周辺から福島県東・中部では、ばれいしょを「かんぷら」または「かんぷらいも」とよぶ。これらは、県の位置が東北日本と中央日本の漸移地帯にあることによる。那珂川流域の住民は子どもから大人になるときの厄年を13歳と考え、この年齢の子どもは厄落としのため、流域の大部分では茨城県東海村、那須郡北東部では福島県柳津(やないづ)町の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に十三参りに行った。

 県内の通勤・通学による人口の日々移動は、北部で大田原市、中部で宇都宮市、南部で栃木市を中心にみられ、南端部の市町からは東京方面への通勤者が目だつ。宇都宮市は県内卸売業の中心であるが、百貨店や映画館、飲食店、文化施設も多く、交通優位性もあり、中部だけでなく北部・南部の住民も買い物などに集中する。

[奥田 久・奥井正俊]

民俗芸能

南部の囃子(はやし)、中部の獅子舞(ししまい)、北部の念仏踊り・天念仏(天祭(てんさい))を中心にみたい。囃子は南部に多く、おもに大太鼓・小太鼓・笛で演奏し、神田囃子(かんだばやし)系のものは鉦(かね)も使うが、地囃子は鉦を用いないものが多い。小山市に南飯田(みなみいいだ)神田囃子と鏡の祭囃子がある。神楽(かぐら)は民俗芸能のなかでもっとも多く県内に分布し、大部分は岩戸(いわと)神楽または太々(だいだい)神楽(代々神楽)とよばれる。神田囃子にあわせて踊る里(さと)神楽も南部に多い。地芝居も南部に多かったが、県内には佐野市の牧歌舞伎(まぎかぶき)だけが残存し、江戸中期からの伝統をもつが、上演は不定期である。栃木市都賀(つが)町木(き)には農民自衛のための杖術(じょうじゅつ)が芸能化した「木の杖術」があり、足利市は「八木節(やぎぶし)」の発祥地といわれる。

 獅子舞はかつて神楽に次いで多く、おもに中部・北部に分布する。ほとんどが東北日本に多い風流(ふりゅう)系の一人立三匹獅子舞で、腰につけた羯鼓(かっこ)とよばれる小太鼓または普通の小太鼓を、笛の音にあわせて打ちながら舞う。関白流・文挟流(ふばさみりゅう)などがあり、前者は後者から変化したといわれ、関白流のほうが数は多い。宇都宮(うつのみや)市の天下一関白獅子舞は関白流の始祖で、7月の関白山(かんぱくさん)神社祭礼に奉納する。宇都宮・日光・真岡・鹿沼の各市、茂木町などにも獅子舞がある。神楽は上三川(かみのかわ)・芳賀(はが)両町に多く、宇都宮市二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の田楽(でんがく)舞も特色をもつ。宇都宮・鹿沼両市などに囃子、茂木町、宇都宮市に念仏踊り・天念仏(天祭)がある。鹿沼市栃窪(とちくぼ)の天念仏、浄瑠璃(じょうるり)人形芝居の奈佐原文楽(なさはらぶんらく)は、選択無形民俗文化財である。日光市には二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)弥生(やよい)祭の八乙女(やおとめ)神楽、輪王寺(りんのうじ)の延年舞(えんねんのまい)や強飯式(ごうはんしき)、日光東照宮の東遊(あずまあそび)など日光山に関係したもの、生岡(いくおか)神社子供強飯式や日光和楽(わらく)踊りもある。

 獅子舞とともに風流系の民俗芸能である念仏踊り・天念仏(天祭)は、常民が念仏・和讃(わさん)を唱えながら踊るもので、北部・中部に多い。北部では大田原市、高根沢(たかねざわ)・那須両町に多く、那須塩原市百村(もむら)の百堂念仏舞、那須郡那珂川(なかがわ)町塙(はなわ)の天祭は選択無形民俗文化財、那須烏山(なすからすやま)市の和紙を使った高さ10メートルの「ヤマ」をつくる烏山の山あげ行事、鹿沼今宮神社祭の屋台行事は2016年にユネスコの無形文化遺産に登録され、ともに国指定重要無形民俗文化財である。矢板・大田原両市に神楽が多く、塩谷(しおや)町風見の神楽は代表的なものである。那賀川町馬頭(ばとう)のささら舞は獅子舞の一種で、日光市の栗山(くりやま)地区、那須町などに獅子舞が多い。大田原市の正浄寺(しょうじょうじ)の雅楽・城鍬(しろくわ)舞、日光市川俣(かわまた)の元服式(国指定重要無形民俗文化財)も特色がある。

[奥田 久・奥井正俊]

文化財

文化財は豊富・多彩で、南部は古代から栄えたために文化財に富み、中部では日光山のもの、北部では古代那須郡のものに特色がある。県内に生息するカモシカ、ミヤコタナゴは特別天然記念物である。

 南部は次のような国指定史跡に富む。壬生町、小山(おやま)市に古墳が多く、小山市の琵琶塚古墳(びわづかこふん)は全長123メートルの前方後円墳である。栃木市に下野国府国庁跡、近くの下野市(しもつけし)国分寺に下野国分寺跡・同国分尼寺跡、同市薬師寺に下野薬師寺跡があり、これら寺院の瓦を焼いた窯跡が小山市の乙女不動原(おとめふどうはら)瓦窯跡である。下野市小金井に小金井一里塚、下都賀(しもつが)郡壬生町に壬生一里塚がある。足利市には12世紀造営の足利氏宅跡(鑁阿寺(ばんなじ))や15世紀再興の足利学校跡がある。足利学校の宋(そう)版などの古書は国宝や国指定重要文化財、鑁阿寺の本堂は国宝、鐘楼・経堂、栃木市岩舟(いわふね)町小野寺の村檜神社(むらひじんじゃ)本殿は国指定重要文化財であり、野木(のぎ)町の旧下野煉瓦(れんが)製造会社の煉瓦窯(国指定重要文化財)は明治期の産業遺跡である。小山市の結城紬は国指定重要無形文化財である。

 中部では、宇都宮市の大谷磨崖仏は国指定特別史跡・重要文化財で古代仏教信仰を物語り、中世の平山城(ひらやまじろ)の飛山(とびやま)城跡(宇都宮市)は真岡(もおか)市の専修寺境内、桜町陣屋跡とともに国指定史跡である。専修寺と益子町の西明(さいみょう)寺、地蔵院、円通寺、綱(つな)神社には国の重要文化財指定建造物があり、宇都宮(うつのみや)市、芳賀(はが)郡市貝(いちかい)町、茂木町に同じく重要文化財の民家がある。日光市では、陽明門に代表される国宝が東照宮や輪王寺大猷院(りんのうじだいゆういん)に集中し、国指定重要文化財も日光山に非常に多く、社寺建造物彩色は国選定保存技術である。日光杉並木街道(附並木寄進碑)は特別史跡・特別天然記念物、華厳滝(けごんのたき)および中宮祠湖(中禅寺湖)湖畔は国指定名勝で、日光市のコウシンソウ自生地は特別天然記念物である。1999年12月には、日光の社寺(東照宮、二荒山神社、輪王寺)が世界遺産に登録された。

 北部では大田原市湯津上(ゆづかみ)、那須郡那珂川(なかがわ)町に国指定史跡の前方後方墳がある。大田原市の国宝の那須国造碑は、那須評督韋提(こおりのかみいで)の死後その死をしのび住民が建てたもので、那珂川町小川の国指定史跡の那須官衙(かんが)跡、同町三輪の那須神田城跡とあわせて、付近が古代那須国の中心と思われる。矢板市の木幡(きばた)神社の本殿と楼門、那須町の三森家住宅は国指定重要文化財、那珂川町の唐御所横穴(からごしょよこあな)と塩谷町の佐貫石仏は国指定史跡である。那須烏山(なすからすやま)市の程村(ほどむら)紙は選択無形文化財になっている。

[奥田 久・奥井正俊]

伝説

古くから知られる「日光神戦譚(しんせんたん)」は、男体山の二荒(ふたら)神と赤城(あかぎ)山の明神が中禅寺湖を中心に戦った。二荒神は大蛇、赤城明神は大ムカデに変身して激戦を交えたが、二荒勢の弓の名手、猿丸(さるまる)の矢でムカデは両眼を失った。そのため赤城勢は惨敗したという。この神戦譚は多くの地名を残している。なお、日光には貴種流離譚の「有宇(ありゅう)中将」の物語がある。中将は死後、二荒神となり、妻朝日姫は滝尾(たきお)神になったという。湯西川(ゆにしかわ)(日光(にっこう)市)は日光神領だった地であるが、ここに平家の落人(おちゅうど)伝説が根づいている。平家杉、平家塚、大将塚、七盛塚、藤鞍(ふじくら)の湯などがある。有名な「殺生石(せっしょうせき)」は那須高原(那須郡)にある。この石には九尾の狐(きゅうびのきつね)の化身、玉藻の前(たまものまえ)にまつわる物語がある。また、佐野市には佐野源左衛門の「鉢の木(はちのき)」という心温まる伝説がある。北条時頼(ときより)が諸国遍歴の途中、大雪に道を迷い貧しい一つ家に宿を求めた。主(あるじ)の源左衛門は薪(まき)がわりに鉢の木を切って暖をとり、客をもてなした。落ちぶれても鎌倉に事あれば、痩馬(やせうま)にまたがって駆けつける所存と聞いて、時頼は感動したという。この伝説は謡曲『鉢木(はちのき)』となっている。釣天井(つりてんじょう)で知られている宇都宮城は、明治初年(1868)に兵火にかかって焼失した。宇都宮市の「おしどり塚」は小公園になっているが、もとは求食(あさり)川が流れていた。おしどり雌雄の愛情の美しさに打たれた猟師が、鳥の塚をつくり罪深い業(なりわい)を捨てたという。上田秋成(あきなり)の『雨月(うげつ)物語』で知られる大中寺(だいちゅうじ)(栃木市大平町西山田(おおひらまちにしやまだ))に七不思議の伝説がある。根なし藤、油坂、不断(きえず)のかまど、馬首の井戸、不開(あけず)の雪隠(せっちん)、東山のひとつ拍子木(ひょうしぎ)、枕(まくら)返しの間がそれである。古峰ヶ原(こぶがはら)(鹿沼市草久(くさぎゅう))は山岳信仰の御山で、「天狗(てんぐ)伝説」が結び付いている。多くの天狗体験談が伝えられている。佐野市飛駒(ひこま)は足尾山塊の山村であるが、足利義兼(よしかね)と争って敗れた足利忠綱(ただつな)が隠れた地。忠綱は白犬を連れた追っ手に発見され、ついに自害した。土地では忠綱の怨念(おんねん)を恐れて、それから白犬を飼わないという。足利市五十部(よべ)町の大手神社(おおてじんじゃ)は平将門(まさかど)の手を祀(まつ)り、同市大前(おおまえ)町の大原神社(おおはらじんじゃ)は胴体を祀る。その死屍(しし)を葬ったと伝える地は関東一円にわたっているが、古くは遺体を分けて葬り分解することによって、死者の怨念を鎮めるという信仰があったからであろう。

[武田静澄]

『日向野徳久編『栃木の民話1・2』(1961、1973・未来社)』『『栃木県史』通史編8巻・史料編25巻(1973~1984・栃木県)』『大町雅美著『栃木県の歴史』(1974・山川出版社)』『新川武紀編『郷土史事典 栃木県』(1978・昌平社)』『『栃木県大百科事典』(1980・下野新聞社)』『武田静澄・安西篤子著『栃木の伝説』(1980・角川書店)』『小川和佑著『各駅停車・全国歴史散歩 栃木県』(1981・河出書房新社)』『『角川日本地名大辞典9 栃木県』(1984・角川書店)』『『日本歴史地名大系9 栃木県の地名』(1988・平凡社)』『櫻井明久監修『最新・栃木の農業』(1995・下野新聞社)』


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